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ナポリ音楽院

索引 ナポリ音楽院

音楽院の看板 ナポリ音楽院(正式にはサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院 Conservatorio di musica San Pietro a Majella)は、南イタリア、ナポリにある音楽院。の複合施設中に位置している。 この音楽院はもともと修道院であったサン・セバスティアーノ(San Sebastiano)の教会に入居しており、1807年成立年に若干の揺れが見られるが、原文の表記に従った。に設立されたサン・セバスティアーノ音楽院(Conservatorio di San Sebastiano)だった。これはサンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院(Santa Maria di Loreto)、サントノフリオ・ア・ポルタ・カプアーナ音楽院(Sant'Onofrio a Porta Capuana)、ピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院(Pietà dei Turchini)が合併したものである。音楽院はレアル・コッレージョ・ディ・ムージカ(Real Collegio di Musica)としても知られるようになり、1826年以降は現在の場所に移動してサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院となった。.

74 関係: 作曲ナポリナポレオン・ボナパルトチャールダーシュ (モンティ)バロック音楽リッカルド・ムーティルッジェーロ・レオンカヴァッロルイージ・デンツァレオナルド・レーオレオナルド・デ・ロレンツォヴァイオリンヴィンチェンツォ・ベッリーニヴィットーリオ・モンティブルーノ・カニーノフランチェスコ・チレアフランチェスコ・パオロ・トスティフランチェスコ・ドゥランテフランコ・アルファーノフランシスコ会フランス第一帝政フルート奏者の一覧フェデリコ・リッチドメニコ・チマローザニューグローヴ世界音楽大事典ニコラ・ポルポラニコラ・ファーゴニコラ・サーラニコロ・ヨンメッリニコロ・ピッチンニニコロ・アントニオ・ジンガレッリアルド・チッコリーニアレッサンドロ・スカルラッティアントニオ・サッキーニイーストマン音楽学校イタリアウンベルト・ジョルダーノエルネスト・デ・クルティスエドゥアルド・ディ・カプアカミッロ・デ・ナルディスガエターノ・ドニゼッティガスパーレ・スポンティーニクリストフォロ・カレザーナケレスティヌス5世 (ローマ教皇)ジャンバッティスタ・ヴィーコジュゼッペ・マルトゥッチジュゼッペ・デ・マーヨジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージジョヴァンニ・パイジエッロジョアキーノ・ロッシーニジョゼフ・ボナパルト...スペインサルヴァトーレ・アッカルドサヴェリオ・メルカダンテ哲学者音楽大学教皇1294年13世紀1537年1578年1583年1589年1620年1627年1667年1690年16世紀1743年17世紀1806年1807年1808年1826年1904年 インデックスを展開 (24 もっと) »

作曲

作曲(さっきょく)は、曲および音楽作品を作ること。作曲をした人を作曲者、作曲を業とする人を作曲家と呼ぶ。.

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ナポリ

ナポリ(Napoli; ナポリ語: Napule)は、イタリア南部にある都市で、その周辺地域を含む人口約98万人の基礎自治体(コムーネ)。カンパニア州の州都であり、ナポリ県の県都でもある。ローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市で、南イタリア最大の都市である。都市圏人口は約300万人。 ナポリ湾に面した港湾都市・工業都市である。古代ギリシア人によって建設された植民市に起源を持ち、13世紀以降はナポリ王国の首都として南イタリアの政治・経済の中心地となった。ヴェスヴィオ火山を背景とする風光明媚な景観で知られる観光都市であり、「ナポリを見てから死ね (vedi Napoli e poi muori)」日本のことわざでいうところの「日光を見ずに結構と言うな」と謳われる。旧市街地は「ナポリ歴史地区」として世界遺産に登録されている。ナポリ周辺にも、ヴェスヴィオ火山やポンペイの遺跡、カプリ島などの観光地を有する。.

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ナポレオン・ボナパルト

ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立した。大陸軍(グランダルメ)と名付けた巨大な軍隊を築き上げてナポレオン戦争を引き起こし、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的には敗北して失脚した。.

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チャールダーシュ (モンティ)

『チャールダーシュ』は、イタリアの作曲家ヴィットーリオ・モンティが作曲した作品。.

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バロック音楽

バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。.

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リッカルド・ムーティ

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941年7月28日 ナポリ - )はイタリア人の指揮者である。シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィル名誉団員。現代を代表する巨匠として知られる。.

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ルッジェーロ・レオンカヴァッロ

レオンカヴァッロ ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(Ruggero Leoncavallo, 1857年4月23日ナポリ - 1919年8月9日モンテカティーニ)は、イタリアのオペラ作曲家、台本作家。.

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ルイージ・デンツァ

ルイージ・デンツァ(Luigi Denza、1846年2月23日 - 1922年1月26日)は、イタリア、カステッラマーレ・ディ・スタビア出身の作曲家。 ナポリ音楽学校でサヴェリオ・メルカダンテなどに学ぶ。卒業後、1879年にロンドンに移住。1898年、ロンドンの英国王立音楽院の声楽の教授に就任。オペラ「ヴァレンシュタインWallenstein」など、歌曲を中心に数百(約600曲といわれる)の楽曲を手がける。中でも、ナポリのヴェスヴィオ火山鋼索鉄道(フニコラーレ)「ヴェズヴィアナ鋼索線」開通を記念して1880年に作られた曲「フニクリ・フニクラ」Funiculì Funiculàが広く知られている。1922年にロンドンで死去。 Category:イタリアの作曲家 Category:ロマン派の作曲家 Category:王立音楽アカデミーの教員 Category:1846年生 Category:1922年没.

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レオナルド・レーオ

レオナルド・レーオ(レオナルド・レオ、Leonardo Leo, フルネーム:Lionardo Oronzo Salvatore de Leo, 1694年8月5日 - 1744年10月31日)はイタリア・バロックの作曲家。.

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レオナルド・デ・ロレンツォ

レオナルド・デ・ロレンツォ(Leonardo De Lorenzo, 1875年8月29日 - 1962年7月29日)は、イタリア人のフルート奏者、音楽教育者。.

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ヴァイオリン

ヴァイオリンまたはバイオリンは弦楽器の一種。ヴァイオリン属の高音楽器である。ヴァイオリン属に属する4つの楽器の中で最も小さく、最も高音域を出す楽器である。弦を弓や指などで振動させて音を出す、弦鳴楽器に属する。しばしば「Vn」「Vl」と略記される。.

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ヴィンチェンツォ・ベッリーニ

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini, 1801年11月3日 - 1835年9月23日)はシチリア島・カターニアに生れ、パリ近郊で没した作曲家。主としてオペラの作曲家として有名である。名字はベルリーニ、ベリーニとも表記される。1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。 ロッシーニやドニゼッティとともに「ベルカント・オペラ」と称される19世紀前半のイタリアオペラを代表する作曲家である。中でも特にベッリーニについてはショパン、ベルリオーズ、ワーグナーらの賞賛と愛情の言葉を得ている事で知られている。父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から作曲を始めたという神童であった。.

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ヴィットーリオ・モンティ

ヴィットーリオ・モンティ(Vittorio Monti、1868年1月6日 - 1922年6月20日)はイタリアの作曲家である。郷里のナポリでヴァイオリンと作曲を学ぶ。1920年ごろ指揮者としてパリに行き、同地でバレエやオペレッタをいくつか作曲した。マンドリン独奏またはヴァイオリン独奏のための有名な『チャールダーシュ』を除けば、実質的には無名の作曲家である。たいていのジプシー楽団がモンティの『チャールダーシュ』をレパートリーにしている。.

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ブルーノ・カニーノ

ブルーノ・カニーノ(Bruno Canino, 1935年12月30日 ナポリ - )はイタリアのピアニスト・作曲家。.

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フランチェスコ・チレア

フランチェスコ・チレア(Francesco Cilea、1866年7月23日 - 1950年11月20日)は、イタリアのオペラ作曲家。.

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フランチェスコ・パオロ・トスティ

ー・フランチェスコ・パオロ・トスティ(Sir Francesco Paolo Tosti, 1846年4月9日 - 1916年12月2日)は、イタリアの作曲家、声楽教師。歌曲の作曲家として知られる。.

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フランチェスコ・ドゥランテ

フランチェスコ・ドゥランテ(Francesco Durante, 1684年3月31日 - 1755年8月13日)はイタリア後期バロック音楽の作曲家。 シチリア王国のフラッタマッジョーレ出身。幼くしてナポリのイエス・キリスト貧民音楽学校(ポヴェリ・ディ・ジェス・クリスト音楽院)に入学し、ガエターノ・グレコの指導を受ける。後にサントノフリオ音楽院でアレッサンドロ・スカルラッティに師事。ローマでベルナルド・パスクィーニやジュゼッペ・オッターヴォ・ピトーニにも師事したと推測されているが、その証拠文書は存在しない。1725年にサントノフリオ音楽院においてスカルラッティの後任教授として1742年まで留任し、その後ニコラ・アントニオ・ポルポラの後任院長として、やはりナポリの、サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院に転出した。ナポリで没するまでこの職務にあたっている。 教師としての名声はかなりのもので、門弟にニコロ・ヨンメッリ、ジョヴァンニ・パイジエッロ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ、ニコロ・ピッチンニ、レオナルド・ヴィンチらの高弟がいる。恩師スカルラッティが門人を個別に扱ったのとは対照的に、むやみと規則の遵守を言い張るところがあった。 ドゥランテの全作品のうち、ほとんど全ての宗教曲が、ナポリの美術蒐集家サルヴェッジによってパリ図書館に贈られた。作品一覧はフランソワ=ジョゼフ・フェティスの『万国音楽家列伝』に見出される。ウィーンの皇室図書館もデュランテの自筆譜の貴重なコレクションを所蔵している。2つのレクイエムといくつかのミサ曲、預言者エレミアの哀歌は、とりわけ重要な作品である。 ドゥランテが舞台音楽を作曲しなかったというのは事実だが、そのために宗教音楽の大家として過大評価される結果となった。バロック音楽とその時代様式の教会音楽の作曲家の中で、ドゥランテが最上の一人であったのは間違いないが、レオナルド・レーオやアレッサンドロ・スカルラッティに比べれば見劣りするというのがこんにちの評価であり、イタリアの教会音楽に感傷趣味の流派を打ち立てたように見なされている。感傷的な作風は、ドゥランテの人柄の反映でもあった。つまり、知的で教養深いわけではないが、真面目で熱烈という性格である。ヨハン・アドルフ・ハッセは、ドゥランテの「イタリア随一の和声の大家」という評価に異議を唱えて、アレッサンドロ・スカルラッティこそそれにふさわしいと訴えた。 ドゥランテは生涯に3度結婚している。.

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フランコ・アルファーノ

フランコ・アルファーノ(1919年頃) フランコ・アルファーノ(Franco Alfano, 1875年3月8日 - 1954年10月27日)はイタリアのオペラ作曲家。 ナポリ近郊のポジリポ (Posillipo) で生まれ、ナポリの音楽学校で専門教育を受けた後、1895年よりライプツィヒ音楽院に留学し、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲を師事。翌年からベルリンなどでピアニストとして活動を開始するかたわら、オペラの作曲にも着手するが、不運続きであった。1899年からパリに進出し、バレエ団「フォリ・ベルジェール」のために2つのバレエ曲を書いて好評を呼ぶ。また、同時期にロシアにピアニストとして演奏旅行に向かい、この間、レフ・トルストイ原作のオペラ『復活』を構想する。1904年に『復活』のトリノ初演でオペラ作曲家としてはじめて成功。以降、終の棲家をサン・レモに構えた。 ジャコモ・プッチーニと親しかったことから、その未完の歌劇『トゥーランドット』を補作し、完成させた。交響曲や室内楽やピアノ曲などの作品も残している。 ボローニャ音楽院作曲科教授(1916年 - 1922年)および院長(1918年 - 1922年)、トリノ音楽院院長(1923年 - 1939年)、ペーザロ音楽院院長(1946年 - 1950年)を歴任。サン・レモにて没。.

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フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

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フランス第一帝政

フランス第一帝政(フランスだいいちていせい)は、1804年から1814年および1815年まで存続した、皇帝ナポレオン1世が支配する強力な軍事力を後ろ盾とした軍事独裁政権。大陸軍(グランダルメ)と命名された巨大な陸軍組織が国家の柱石だった。.

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フルート奏者の一覧

フルート奏者の一覧は、Wikipedia日本語版に記事のある、フルートを演奏する音楽家(フルーティスト)の一覧。 クラシック音楽の演奏家一覧#フルート奏者も参照。.

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フェデリコ・リッチ

フェデリコ・リッチ フェデリコ・リッチ(Federico Ricci、1809年10月22日 - 1877年12月10日)は、イタリア、ナポリ出身の作曲家。兄は作曲家のルイージ・リッチ。.

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ドメニコ・チマローザ

ドメニコ・チマローザ(Domenico Cimarosa, 1749年12月17日 - 1801年1月11日)は、イタリアの作曲家。ナポリの近郊アヴェルサに生れて、ヴェネツィアで没した。.

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ニューグローヴ世界音楽大事典

ニューグローヴ世界音楽大事典(The New Grove Dictionary of Music and Musicians)は、音楽と音楽家に関する百科事典である。これはドイツ語による「音楽の歴史と現在」とともに、西洋の音楽について扱った最大の参考文献の一つである。元来「音楽と音楽家に関する事典 A Dictionary of Music and Musicians」として出版され、後に「音楽と音楽家に関するグローヴの事典 Grove's Dictionary of Music and Musicians」となり、19世紀から数度の改訂を重ね広く使用されている。近年では電子版が「グローヴ・ミュージック・オンライン Grove Music Online」として利用可能となっており、「オックスフォード・ミュージック・オンライン Oxford Music Online」の中で重要な位置を占めている。.

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ニコラ・ポルポラ

ニコラ・アントニオ・ポルポラ(Nicola (Antonio) Porpora, 1686年8月17日 - 1768年3月3日)はイタリア後期バロック音楽のオペラ作曲家で声楽教師。有名なカストラートのファリネッリや、作曲家ハイドンの恩師として知られる。 アレッサンドロ・スカルラッティがオペラ界を牛耳っていたナポリで音楽を学ぶ。最初のオペラ《アグリッピーナAgrippina 》は、1708年にナポリ宮廷で首尾よく上演され、2曲目のオペラ《ベレニーチェBerenice 》はローマで上演された。長い経歴の中で、これらのオペラに続けてさらに多くを送り出したが、オペラの作曲だけでは立ち行かなかったため、ナポリ軍の指揮官や、ヘッセン=ダルムシュタット公、ローマ駐在のポルトガル大使などといった貴族の支援者に、「楽長」として支援を受けていた。 しかしながらポルポラの不朽の名声は、もっぱら声楽教師としての比類ない能力にかかっていたのである。ナポリのサントノフリオ・ア・ポルタ・カプアーナ音楽院(Sant'Onofrio a Porta Capuana)やポーヴェリ・ディ・ジェス・クリスト音楽院(:it: Conservatorio dei Poveri di Gesù Cristo)で、1715年から1721年までファリネッリ、カッファレッリ、サリンベーニらの名歌手を育て上げた。1720年と1721年には、才能ある青年詩人のメタスタジオの台本によって、2曲のセレナーデを作曲し、中断はあれども長い協力関係に入った。1722年のオペラの成功によって、音楽学校での職務をなげうった。 1725年に、神聖ローマ皇帝カール6世のウィーンの宮廷と関係が絶たれて以降、ポルポラはほとんどヴェネツィアに落ち着き、作曲や、定期的にピエタ養育院などでの教育活動に取り組んだ。1729年に、反ヘンデル派の招きでロンドンに行き、オペラ興行に取り組んだが成功せず、1733年から1734年まで、門弟のファリネッリを出演させるも、「貴族オペラ」の一座を破産の危機から救うことはできなかった。 1748年よりドレスデンでザクセン選帝侯の宮廷楽長として活動するが、その地位は、ヴェネツィアやローマでの強敵との緊張関係によって終止符を打たれ、1752年にドレスデン宮廷を去った。その敵とは、非常に成功したオペラ作曲家のヨハン・アドルフ・ハッセと、その夫人でプリマドンナのファウスティーナ・ボルドーニであった。ドレスデンからウィーンに行き、その地でハイドン青年に音楽を指導する。ハイドンは、近習といった感じの伴奏者としてポルポラに寄寓していたが、ポルポラは「作曲の真の原理」を教えてくれたと認めている。 1759年にナポリに戻る。この頃よりポルポラの活動は一連の不運に見舞われる。その華やかな作曲様式は時代遅れとみなされ、最後のオペラ《カミッラCamilla 》は失敗に終わり、ドレスデン宮廷からの年金は停められた。葬儀の際には、予約演奏会の収入で賄わなければならないほど落ちぶれ果てていた。しかし、ポルポラが死期を迎えた頃、ファリネッリやカッファレッリらは、ほとんど旧師の卓越した指導のもとに財を成し、快適な隠居生活に入っていた。.

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ニコラ・ファーゴ

ニコラ・ファーゴ(Nicola Fago, 1677年2月26日 - 1745年2月18日)は、イタリア・バロックの作曲家、音楽教師。.

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ニコラ・サーラ

ニコラ・サーラ(Nicola Sala 1713年4月7日 - 1801年8月31日)は、イタリアの作曲家、音楽理論家。.

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ニコロ・ヨンメッリ

ニッコロ・ヨンメッリ(Niccolò Jommelli, 1714年9月10日 - 1774年8月25日)は、イタリア古典派音楽の作曲家。姓はヨメッリ、ヨメルリ、ヨンメルリとも。.

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ニコロ・ピッチンニ

ニコロ・ピッチンニ ニコロ・ヴィート・ピッチンニ(Niccolò Vito Piccinni, 1728年1月16日 - 1800年5月7日)は、イタリアのクラシック作曲家。名前はニコラ(Nicola)、姓はピッチーニ(Piccini)とも。クリストフ・ヴィリバルト・グルックとの音楽的対立が論争(グルック・ピッチンニ論争)を引き起こしたことで知られる。.

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ニコロ・アントニオ・ジンガレッリ

ニコラ・アントニオ・ジンガレッリ(Nicola Antonio Zingarelli もしくはニコロ- Niccolò- 1752年4月4日 - 1837年5月5日)は、イタリアの作曲家。主にオペラの分野で活躍した。.

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アルド・チッコリーニ

アルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini, 1925年8月15日 - 2015年2月1日)はフランス在住のイタリア人ピアニスト。.

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アレッサンドロ・スカルラッティ

アレッサンドロ・スカルラッティ(Alessandro Scarlatti, 1660年5月2日 - 1725年10月24日)はバロック期のイタリアの作曲家。特にオペラとカンタータで著名である。オペラにおけるナポリ楽派の始祖と考えられている。また、同じくバロック期の作曲家であるドメニコ・スカルラッティとピエトロ・フィリッポ・スカルラッティの父でもある。.

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アントニオ・サッキーニ

アントニオ・マリア・ガスパーロ・サッキーニ(Antonio Maria Gasparo Sacchini, 1730年6月14日 - 1786年10月6日)は、イタリアのオペラ作曲家。 フィレンツェに生まれたが、彼が若年期を過ごしたのはナポリであり、ナポリ音楽院の前身の1つにあたるサントノフリオ・ア・ポルタ・カプアーナ音楽院で音楽教育を受けた。彼はナポリで最初のオペラを作曲した後、ヴェネツィアへと移った。その後ロンドンを経てパリに居住し、ここで生涯を終えた。彼はオペラ・セリアを主導する作曲家の1人であった。サッキーニがこの世を去ったのは56歳の時であった。原因はパトロンであったフランスのマリー・アントワネットを失ったことによる、失意と拒食によるものと考えられている。.

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イーストマン音楽学校

イーストマン音楽学校(イーストマンおんがくがっこう、Eastman School of Music)は、アメリカ合衆国の音楽学校。ジュリアード音楽院やカーティス音楽学校と並んで水準の高い音楽機関であると考えられている。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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ウンベルト・ジョルダーノ

ウンベルト・ジョルダーノ(Umberto Giordano, 1867年8月28日フォッジャ - 1948年11月12日)はイタリアのオペラ作曲家。 南イタリアの町フォッジャ生まれ。父は薬剤師で、家族の反対を押し切って音楽の道を志す。故郷で音楽の基礎教育を受けた後、13歳でナポリ音楽院に学ぶ。在学中実家の経済状態が悪化し、一時退学して地元のオペラ劇場でアルバイトをしながら糊口をしのぐが、学校関係者の尽力で復学が叶い、1890年まで同音楽院にて作曲を学ぶ。この学生時代からの友人にフランチェスコ・チレア(ジョルダーノと同じ南イタリア出身)がいる。 1890年、最初のオペラ《マリーナ Marina》を学内の選抜試験のために作曲。同作を地元出版社ソンゾーニョ社主催の「一幕オペラコンテスト」に応募するも落選(ちなみに第一位はマスカーニの《カヴァレリア・ルスチカーナ Cavalleria Rusticana》)。しかし彼の音楽に可能性を見出したソンゾーニョ社の後援を受けて第2作目《堕落した生活 Mala Vita》の上演に漕ぎつけた。これは自分の結核が治るなら娼婦を改心させてみせるという人夫についてのヴェリズモ・オペラで、1892年にローマで上演された時、煽情的な内容と激しい音楽が受け入れられず大失敗となり、地元ナポリでは町の恥だと観客が怒り、暴動騒ぎとなる。ジョルダーノは、次回作のオペラ《ディアス女王 Regina Diaz》(1894年)によって、もっとロマンティックな創作姿勢をとろうとしたが、これもまた失敗作となり、わずか2回の上演で舞台から消えてしまい、ソンゾーニョ社からの支援も打ち切りが決定、心機一転をはかるべく、ジョルダーノは同年のうちに活動の拠点をミラノに移す。 その後はヴェリズモ・オペラの第一人者であるマスカーニやソンゾーニョ社と契約していた貴族出身作曲家アルベルト・フランケッティの知遇を得、私生活でも結婚する(オルガ夫人はミラノ・グランドホテルのオーナーの娘)など、幸運な時期を迎える。フランケッティはソンゾーニョ社に掛け合って、ジョルダーノへの支援を再開させてくれ、更に、作曲面では良い台本に恵まれていなかったジョルダーノに、自分が作曲を依頼されていた台本の作曲権を無償譲渡してくれた。好転してきた環境でジョルダーノは譲渡された作品である、フランスの詩人アンドレ・シェニエの生涯に基づくオペラ《アンドレア・シェニエ Andrea Chénier》に取り組み、1896年初演。作曲家として初めての大成功をおさめる。現在に至るまで彼の代表作に挙げられるこの作品でジョルダーノは再び「ヴェリズモ」的な創作姿勢に立ち返った。本作の上演にあたってはマスカーニの支援もあったという。続く第5作目の《フェドーラ Fedora》(1898年)も成功し、今なお上演されている。その後の作品はヴェリズモ・オペラの影響から抜け出せず、第二次世界大戦後の1948年、過去の栄光の中で亡くなった。享年81。後年の作品はそれほど有名とはいえないが、時どき蘇演されることがある。 《フェドーラ》以降の後半生での不振の要因として、《アンドレア・シェニエ》全曲盤の解説を執筆した音楽評論家・高崎保男は「ジョルダーノの音楽の特徴として、転調、それもかなり遠隔な調性への大胆な転調が挙げられ、転調はマスカーニに比較しても頻繁で、その特徴が音楽的昂奮に繋がっていた。そうした激しい音楽によって劇場的昂奮を生み出す才能において、ジョルダーノは確かにプッチーニに匹敵するほどの作曲家だったが、その音楽によって語られるドラマの実質がそれに伴わない場合、音楽の刺戟と昂奮はいたずらに空転してしまい、かえって抑制と気品の欠如が露呈されることになる。『アンドレア・シェニエ』はそのドラマの激しさと巧みな作り方のお陰で、ジョルダーノの音楽の威力と魅力を十分に生かすことができた作品といってよい」という趣旨の分析を述べており、ヴェリズモ・オペラの影響から抜け出せなかったことの他、ジョルダーノの作曲手法・旋律様式等にも限界があったのではないかとの見方を示している。.

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エルネスト・デ・クルティス

ルネスト・デ・クルティス(Ernesto De Curtis、1875年10月4日 - 1937年12月31日)はイタリアの作曲家。.

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エドゥアルド・ディ・カプア

ドゥアルド・ディ・カプア(伊語:Eduardo Di Capua、1865年3月12日 - 1917年10月3日)は、イタリアの作曲家。歌手。ナポリ出身。.

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カミッロ・デ・ナルディス

ミッロ・デ・ナルディス(Camillo de Nardis, 1857年5月26日 - 1951年8月5日)はイタリアの作曲家、指揮者。カミーユ・デ・ナルディス(Camille de Nardis)と記載されている楽譜もある。 イタリア南部のオルソーニャに生まれ、ナポリのサン・ピエトロ音楽院で作曲を学び、1879年にディプロマを得た。1882年から1884年までサン・ピエトロ音楽院で、さらに1892年から1897年までパレルモの音楽院で教鞭を執った。1907年に再びサン・ピエトロ音楽院の教壇に立つとともに、パオロ・セッラーオ(:en:Paolo Serrao)の跡を継いで1929年まで副院長を務めた。また、サン・カルロ劇場の指揮者にも就いている。1951年にナポリで没した。.

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ガエターノ・ドニゼッティ

ターノ・ドニゼッティ(Gaetano Donizetti, 1797年11月29日 - 1848年4月8日)は、イタリアのベルガモに生れて同地で没したオペラの作曲家。ジョアキーノ・ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として人気を博した。.

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ガスパーレ・スポンティーニ

パーレ(またはガスパレ)・ルイジ・パチフィコ・スポンティーニ(Gaspare Luigi Pacifico Spontini, 1774年11月14日 - 1851年1月24日)は、イタリア出身のオペラ作曲家・指揮者。アンコーナ地方のマイオラーティ(現在のマイオラーティ・スポンティーニ)出身。19世紀の最初の20年間は、フランス第一帝政におけるオペラ・セリアの最重要人物として活躍。グルックの古典的なトラジェディ・リリックの理念を、当時のメロドラマに対する趣味や、より壮大な光景、豊かなオーケストラの音色、特徴的な言語表現に組み合わされた旋律の創意になじませようと努力した。『ヴェスタの巫女』(La Vestale )は、スポンティーニの最高傑作にして成功作である。.

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クリストフォロ・カレザーナ

リストファロまたはクリストフォロ・カレザーナ(Cristofaro または Cristoforo Caresana 1640年頃 - 1709年)は、イタリアの作曲家、オルガニスト、テノール歌手。オペラの分野において初期ナポリ楽派を代表する人物だった。.

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ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)

レスティヌス5世(Caelestinus V, 1210年頃 - 1296年5月19日)は、中世のローマ教皇(在位:1294年7月5日 - 12月13日)。修道士として有徳の人であったが、教皇空位の混乱を収拾するために政治的に一時的に「つなぎ役」の教皇として選出。しかし教皇の座を厭い、在位約半年で自ら退位したマックスウェル・スチュアート(1999)pp.159-162鶴岡(2012)pp.54-64。イタリアのイゼルニア出身、本名はピエトロ・ダ・モローネ(Pietro da Morone, モローネのピエトロ)である。.

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ジャンバッティスタ・ヴィーコ

ャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年6月23日-1744年1月23日)は、イタリアの哲学者。.

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ジュゼッペ・マルトゥッチ

  ジュゼッペ・マルトゥッチ(Giuseppe Martucci 1856年1月6日 – 1909年6月1日)はイタリアの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者。作曲家としては、イタリア器楽曲復興の大立役者であり、指揮者としては、リヒャルト・ワーグナーの楽劇のイタリア初演に尽力し、またイギリス音楽による初期の演奏会をヨーロッパ大陸でおそらく最初に実現させた。オラトリオ《サムエル(Samuel)》も遺しているが、当時のイタリア人作曲家に珍しく、歌劇は手懸けていない。「絶対音楽」を究極の目標に定めた、生粋の器楽曲作家であった。.

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ジュゼッペ・デ・マーヨ

ュゼッペ・デ・マーヨ(Giuseppe de Majo, 1697年12月5日 - 1771年11月18日)は、イタリアの作曲家。.

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ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ

ョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710年1月4日 - 1736年3月17日)は、イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家。ペルゴレーシとも呼ばれる。モーツァルトやロッシーニらに続くオペラ・ブッファの基礎を築き、甘美な旋律にあふれたオペラを作曲した。短い生涯であったのにも拘らず、古典派音楽の様式を最も早く示した人物として音楽史に名を遺している。.

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ジョヴァンニ・パイジエッロ

ョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日)は18世紀後半のイタリアのオペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的人物である。 ターラント出身。地元のイエズス会の神学校に通う。美声ゆえに多くの注意を惹き付け、ナポリの音楽学校に送られてフランチェスコ・ドゥランテに師事。1763年に音楽学校を終えると劇場のためにいくつかの幕間劇を作曲。その一つが注目を集め、イタリア各地の劇場に招かれてオペラを作曲。ボローニャの劇場に《 La Pupilla》と《 Il Mondo al Rovescio》を、ローマに《 Il Marchese di Tidipano》を提出。 パイジエッロの名声が確固たるものになると、数年間ナポリに落ち着く。ニコロ・ピッチンニやドメニコ・チマローザ、ピエトロ・グリエルミらの成功を羨みながらも、自らも一連の成功作を生み出していく。その一つ《 L'ldolo cinese》は、ナポリの聴衆に深い印象を与えた。 1772年に教会音楽の作曲に着手し、ジェンネラ・ボルボーネのためのレクイエムを完成。同年、チェチーリア・パッリーニと結婚、幸せな結婚生活を送った。1776年にエカチェリーナ2世に招かれサンクトペテルブルクの宮廷に赴き、8年間を過ごす。この間に魅力的な傑作《セヴィリアの理髪師 Il Barbiere di Siviglia》を完成させる。この人気はヨーロッパ中を席巻した。パイジェッロの《セヴィリアの理髪師》は、イタリア音楽の歴史において、一時代を画するものとなった。本作をもって、18世紀の巨匠たちが培ってきた気高い甘美さが姿を消し、新しい時代の目も眩むような超絶技巧に道を譲ったのである。 1816年(パイジエッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニが、パイジエッロと同じ台本に曲付けして、《アルマヴィーヴァ》の題名で新作を発表すると、舞台から非難の声が上がった。しかし、《セヴィリアの理髪師》に題名を改めると、このオペラはロッシーニの最高の作品と見做されるようになり、一方でパイジエッロのオペラは忘れ去られたのである。不思議な運命の復讐というべきか、かつてパイジエッロは、ペルゴレージの幕間劇《奥様女中 La Serva padrona》と同じ台本に曲付けをして、ペルゴレージの名声をかすめてしまったことがあった。 パイジエッロは1784年にロシアを去り、ウィーンで《 Il Re Teodoro》を上演した後、ナポリのフェルディナンド4世の宮廷に出仕、《ニーナ Nina》や《 La Molinara》を含む数々の名作オペラを送り出す。政体や王朝の変化の結果、人生の浮沈を味わった後、1802年にナポレオン・ボナパルトに招かれパリに行き、5年間にわたってその寵愛を得る。ルイ=ラザール・オッシュ将軍の葬儀のために作曲された葬送行進曲を、ナポレオンは溺愛した。ナポレオンはパイジエッロを非常に優遇したのに対し、ルイジ・ケルビーニやエティエンヌ=ニコラ・メユールを冷遇して顧みなかった。パイジエッロは、かつてチマローザやグリエルミ、ピッチンニに対して燃やしたような敵意を、この二人に対して向けた。 パイジエッロはテュイルリー宮殿の宮廷楽団を指揮して、1万フランの報酬を得たが、パリの聴衆から好意を得ることには完全に失敗した。歌劇《プロセルピナ Proserpine》は、パリの市民に冷たくあしらわれたのである。1803年にパイジエッロは、帰国要請を出し、困難に遭いながらも夫人の病気を口実に、帰国許可を得た。ナポリに戻るや否やパイジエッロは、ジョゼフ・ボナパルトとジョアシャン・ミュラによって以前の任務に戻されたが、すでにパイジエッロは限界上に能力を使い切っており、もはや新たな需要に尻を合わせることができなくなっていた。前途も当てにならなかった。ボナパルト家の失墜とともに、パイジエッロの幸運も地に堕ちた。1815年の夫人の死は、過酷な試練であった。パイジエッロの健康はみるみる衰え、他人の人気に対する生来の嫉妬は、不安やいら立ちの種になった。翌1816年にナポリで不遇のうちに生涯を閉じた。 ナポリのジェロラミニ図書館は、パイジエッロの興味深い手稿集を所蔵している。これは同時代の作曲家に対するパイジエッロの見方を書きとめたもので、――とりわけペルゴレージの作品に対して――なかなかきつい評論家だったことが伺われる。.

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ジョアキーノ・ロッシーニ

ッシーニの肖像画 ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini, 1792年2月29日 - 1868年11月13日)は、イタリアの作曲家。美食家としても知られる。作品の中でも『ウィリアム・テル』序曲が非常に有名。.

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ジョゼフ・ボナパルト

ョゼフ・ボナパルト(、1768年1月7日 - 1844年7月28日)は、ナポレオン・ボナパルトの兄である。ナポリ王としてはジュゼッペ1世(, 在位:1806年 - 1808年)、スペイン王としてはホセ1世(, 在位:1808年 - 1813年)。.

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スペイン

ペイン王国(スペインおうこく、Reino de España)、通称スペインは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める立憲君主制国家。西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランス、アンドラと国境を接し、飛地のセウタ、メリリャではモロッコと陸上国境を接する。本土以外に、西地中海のバレアレス諸島や、大西洋のカナリア諸島、北アフリカのセウタとメリリャ、アルボラン海のアルボラン島を領有している。首都はマドリード。.

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サルヴァトーレ・アッカルド

ルヴァトーレ・アッカルド (Salvatore Accardo, 1941年9月26日 -) は、イタリアのヴァイオリニスト。近年ではヴィオラ演奏や指揮者も手掛ける。トリノ生まれ。驚異的なテクニックと、明るく澄んだ音色、美しく華麗な歌の魅力により、パガニーニ作品の演奏家として名高い。.

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サヴェリオ・メルカダンテ

サヴェリオ・メルカダンテ(Giuseppe Saverio Raffaele Mercadante, 1795年9月16日アルタムーラ - 1870年12月17日ナポリ)は、イタリア人の作曲家。オペラ作曲家として特に有名。 バーリ近郊に生まれ、ナポリで音楽を学ぶ。はじめは器楽曲の作曲に興味を示すも、ロッシーニの勧めもありオペラ作曲を開始、処女作『ヘラクレスの神格化』L'apoteosi d'Ercoleは好評をもって迎えられた。1821年にミラノで初演された第7作『エリザとクラウディオ』Elisa e Claudio ossia L'amore protetto dall'amiciziaはイタリア国外でも上演される大成功作となる。その後、ウィーン、マドリッド、リスボンおよびパリへの進出の企てはいずれも成功とはいえなかったが、故国イタリアに戻って上演した『スペインの女王カリテア』Caritea, regina di Spagna(初演1831年、ヴェネツィア)、『パリのノルマン人』I normanni a Parigi(1832年、トリノ)、および彼の最高傑作とされる『誓い』Il giuramento(1837年、ミラノ)、それに『ヴェスタの巫女』La vestale(1840年、ナポリ)はいずれも大成功した。 ロッシーニのオペラ界からの引退、ベッリーニの早世もあって、19世紀半ばでもっとも人気のあるイタリア・オペラ作曲家であった。晩年には失明したが、口述筆記で作曲を続けた。1870年、ナポリにて没。その晩年にあっては、自らの地位を脅かしつつあったヴェルディに対して嫉妬を覚えたらしく、陰に陽に妨害工作を行ったともいう。実際、彼が没してヴェルディがその地位を確立した19世紀後半以降、メルカダンテのオペラは時代遅れとみなされ、歌劇場のレパートリーからほとんど姿を消してしまった。 彼はまたフルートやクラリネットのための協奏曲やソナタ曲も数曲作曲しており、彼のオペラが顧みられることの少なくなった現代ではむしろそれらの器楽曲によって、より記憶される存在になっている。特に、5曲のフルート協奏曲のうちホ短調の曲は、終楽章『ロシア風ロンド』がイージーリスニングに編曲されるなどして有名。 めるかたんて さうえりお めるかたんて さうえりお めるかたんて さうえりお めるかたんて さうえりお.

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哲学者

哲学者とは、広義に、哲学を研究する者のことである。「哲学者(フィロソファー)」という語は、「知恵を愛する者」を意味する古代ギリシャ語のφιλόσοφος(フィロソフォス)に由来する。ギリシャの思想家ピタゴラスによって導入された。.

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音楽大学

音楽大学(おんがくだいがく、college of music, university of music、Universität für Musik, Musikhochschule)は、音楽ならびに音楽学の教育研究を専門とする高等教育機関のことである。 またこの記事では、芸術を学ぶことに特化した大学に設置されている学部である音楽学部(おんがくがくぶ)、芸術を学ぶことに特化した学部に設置されている音楽学科、並びに、海外において音楽の高等専門学校または専門学校として設置されている音楽院(おんがくいん、英 conservatory of music, academiy of music, school of music、仏 Conservatoire de Musique、伊 Conservatorio di Musica)についてもあわせて記述する。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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1294年

記載なし。

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13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

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1537年

記載なし。

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1578年

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1583年

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1589年

記載なし。

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1620年

記載なし。

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1627年

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1667年

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1690年

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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1743年

記載なし。

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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1806年

記載なし。

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1807年

記載なし。

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1808年

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1826年

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1904年

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