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ドン戦線

索引 ドン戦線

ドン戦線(Донской фронт、ドン方面軍、もしくはドン正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦中期)にスターリングラード地域に設置された赤軍の方面軍級部隊である。 1942年9月30日、スターリングラード戦線の改称により設置された。ドン戦線は、第1親衛軍、第21軍、第24軍、第63軍、第66軍、第4戦車軍(10月22日から第65軍)、第16航空軍から成り、1943年1月1日から第57軍、第62軍、第64軍が配属された。 1942年10月~11月前半、戦線部隊は、スターリングラード北方を防衛し、南東戦線から再創設されたスターリングラード戦線に対する圧力を軽減させた。11月、ドン戦線は、南西戦線及びスターリングラード戦線と共に反攻に転じ、スターリングラード地区で33万の敵集団を包囲した。1943年2月2日、「コリツォー」(Кольцо)作戦を行い、包囲された敵軍を撃滅した。 1943年2月15日、2月5日付最高司令部スタフカの命令に基づき、ドン戦線は廃止され、中央戦線が設置された。.

13 関係: 南西戦線 (ソ連軍)南東戦線 (ソ連軍)中央戦線 (ソ連軍)ミハイル・マリーニンロシア国防省ヴォルゴグラードコンスタンチン・ロコソフスキースターリングラード戦線スターリングラード攻防戦スタフカ第二次世界大戦独ソ戦赤軍

南西戦線 (ソ連軍)

南西戦線(Юго-Западный фронт、南西方面軍、もしくは南西正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦初期と中期)に2度に渡りソ連南西部に設置された赤軍の方面軍級部隊である。.

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南東戦線 (ソ連軍)

南東戦線(Юго-Восточный фронт、南東方面軍、もしくは南東正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦中期)にソ連のスターリングラード地域に設置された赤軍の方面軍級部隊である。 1942年8月7日、スターリングラード戦線の一部から編成。指揮機関は、第1戦車軍と旧南部戦線の指揮機関に基づき設置された。戦線は、第51軍、第57軍、第64軍から成り、事後、第1親衛軍、第62軍、第28軍、第8航空軍が配属された。 戦線は、スターリングラード外郭防衛線の南部正面を担当し、敵のヴォルガ川への突破の阻止を任務とした。8月9日、スターリングラード方面で行動する全部隊の統一指揮のために、南東戦線司令官は、スターリングラード戦線を指揮下に置き、ヴォルガ小艦隊を作戦統制下に置いた。8月15日~16日、スターリングラード軍管区とスターリングラード軍団防空地区も作戦統制下に入った。 8月9日~11日、南東戦線部隊は、アブガニェロヴォ地区において、ドイツ第4装甲軍に逆襲を行った。その後、スターリングラード市内外で優勢な敵を抑止した。 1942年9月28日、同日付の最高司令部スタフカの命令に基づき、南東戦線は、スターリングラード戦線に改称された。.

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中央戦線 (ソ連軍)

中央戦線(Центральный фронт、中央方面軍、もしくは中央正面軍とも)は、第二次世界大戦中(独ソ戦初期と中期)に2度に渡りソ連中央部に設置された赤軍の方面軍級部隊である。.

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ミハイル・マリーニン

ミハイル・セルゲーエヴィチ・マリーニン(Михаил Сергеевич Малинин、1899年12月16日(12月28日) - 1960年1月24日)は、ソビエト連邦の軍人。上級大将。ソ連邦英雄。.

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ロシア国防省

ア国防省(ロシアこくぼうしょう、Министерство обороны Российской Федерации、略称:Минобороны、МО)は、ロシア連邦の国防・軍事を統括する官庁。ロシアの軍事組織中、ロシア連邦軍を傘下に収める。.

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ヴォルゴグラード

ヴォルゴグラード(、)は、ロシア連邦のヴォルガ川西岸に南北80kmにわたって広がる都市。ヴォルゴグラード州の州都。人口は101万人。 1925年まではツァリーツィン()、1925年から1961年まではスターリングラード()と呼ばれていた。現在は年に数日のみ市名がスターリングラードとなる(後述)。.

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コンスタンチン・ロコソフスキー

ンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロコソフスキー(、、1896年12月21日 - 1968年8月3日)は、ソ連、ポーランドの軍人、政治家。ソ連邦元帥、ポーランド元帥。ソ連邦英雄(2度)。.

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スターリングラード戦線

ターリングラード戦線(Сталинградский фронт、スターリングラード方面軍、もしくはスターリングラード正面軍とも)は、第二次世界大戦中の独ソ戦中期に2度にわたりソ連のスターリングラード地域に設置された赤軍の方面軍級部隊である。.

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スターリングラード攻防戦

ターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん(英語Battle of Stalingrad)、1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。 スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。 緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。 死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。.

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スタフカ

タフカ(ロシア語:Ставка 、英語:Stavka)は、ロシア帝国末およびソビエト連邦における軍総司令部(大本営)である。西欧の文献では、頭文字のように、しばしば STAVKA と大文字で表記されている。この用語は、所在地に対してと同じように、その幕僚に対して適用される場合がある。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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独ソ戦

戦(どくソせん)(英語Eastern Front(World War II)) は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。 大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線(der Ostfeldzug)と表現される。 アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた。 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また反共主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊やはドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が1075万人である。民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している()。またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した()。 開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。.

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赤軍

赤軍(せきぐん、ロシア語:Красная армия クラースナヤ アールミヤ)は、1918年から1946年にかけてロシアおよびソビエト連邦に存在した軍隊。1917年より始まったロシア内戦の最中に労働者・農民赤軍(ろうどうしゃ・のうみんせきぐん、Рабоче-крестьянская Красная армия ラボーチェ・クリスチヤーンスカヤ・クラースナヤ・アールミヤ、略称:労農赤軍、РККА エールカーカーアー)として設立され、1937年に海軍が赤軍から独立した後はソ連の地上軍(陸軍)を指す呼称となった。.

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