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トレビゾンド帝国

索引 トレビゾンド帝国

トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Empire of Trebizond, Trapezuntine Empire 1204年 - 1461年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍の攻勢によって陥落した際に、東ローマの皇族が各地に樹立した亡命政権のひとつ。首都はトラペズス(現在のトルコ共和国トラブゾン。英語名トレビゾンド)。トラペザス帝国とも表記される。.

38 関係: 亡命政府建国ペルシアポントスポントス人ヨハネス4世 (トレビゾンド皇帝)ルーム・セルジューク朝トラブゾントルコニカイア帝国ダヴィド (トレビゾンド皇帝)アルメニアアレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)アンドロニコス1世 (トレビゾンド皇帝)アンドロニコス1世コムネノスオスマン帝国カラ・ユルク・オスマンギリシャ人ギリシャ正教ギリシア語コムネノス王朝コンスタンティノープルジョージア (国)皇帝社会史第4回十字軍経済史白羊朝東ローマ帝国根津由喜夫政治史1081年1183年1185年1204年1222年1458年1461年

亡命政府

亡命政府(ぼうめいせいふ)とは、クーデターや他国による占領などでその国の政治から排除された元首または国民などが、外国に脱出してその地で組織する政府組織。通常は転覆された政権のメンバーが中心となって亡命先で結成し自らの正統性を主張しているものを呼ぶ。いくつかの国家の支持・支援を受けている場合もある。.

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建国

建国.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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ポントス

ポントス地方 ポントス王国最大領域(ミトリダテス6世統治時期) ポントス(Πόντος)は、アナトリア地方の黒海南岸、特に南岸のうち東部の地方名である。ヘレニズム時代よりの歴史を有し、現在はトルコ共和国領内に属している。なお、ラテン語表記に基づきポントゥス(Pontus)とも呼ばれる。.

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ポントス人

ポントス人とは、アナトリア半島(現トルコ)北東部の黒海沿岸地域、ポントス地方に歴史的に居住し、ギリシャ語のポントス方言を母語とする正教会信徒(ギリシャ人)のことである。ポントスはギリシャ語で「海」を意味し、ポントス地方はハリュス川(現在のクズルウルマク川)以東の黒海沿岸地方を指す。歴史的な中心都市はトレビゾンド(現在のトラブゾン)である。 ギリシャ人がアナトリアの黒海地方に来住した時代は紀元前の古代ギリシア期まで遡り、その歴史は古い。キリスト教が伝えられて以来、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下でキリスト教文化が栄え、13世紀には東ローマ帝国の亡命政権であるトレビゾンド帝国が起こって周辺のムスリム(イスラム教徒)からの自立を保った。 15世紀にトレビゾンド帝国がオスマン帝国に滅ぼされると他のギリシャ人居住地域の大部分と同じく異教徒による支配を受けるようになった。ポントスの東方正教徒は20世紀初頭までムスリムやアルメニア正教徒と混じりあって居住していたが、19世紀以降、ギリシャの独立に触発されて一部のポントス人はギリシャ民族運動を開始した。 第一次世界大戦中、オスマン帝国領の黒海沿岸を占領したロシアがロシア革命により混乱したのをきっかけに、ポントス共和国の建設が目指された。しかし、もともとこの地域でポントス人は人口的に多数派ではなかったため十分な勢力を築くことができず、アンカラのトルコ大国民議会政府(トルコ革命政権)の中央軍 (Central Army)に攻撃されると敗北して、一部の人々はソビエト連邦領に逃れた。一方、同じ時期にアナトリア半島西南部のエーゲ海沿岸地方で戦っていたギリシャとトルコが休戦後に住民交換協定を結んだことによりトルコ領内に残った東方正教徒の人々は、ギリシャ人としてギリシャに追放された。1965年の時点で、トラブゾン、リゼ、ギュムシュハーネなどの各県に合計4,535人のギリシア語ポントス方言話者が記録されている。.

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ヨハネス4世 (トレビゾンド皇帝)

ヨハネス4世(Ιωάννης Δ', Iōannēs IV, ? - 1458年)は、トレビゾンド帝国の皇帝(在位:1429年 - 1458年)。アレクシオス4世の子。 この頃になるとオスマン朝の勢力が台頭し、トレビゾンド帝国はなすすべもない状況に追い込まれていた。1442年にはオスマン朝のスルタン・ムラト2世の侵攻を受けて帝国領は略奪を受ける有様であった。 このため、ヨハネス4世はオスマン朝に対抗するため、サファービー教団長のジュネイドやローマ教皇・カリストゥス3世、イスファンディヤル公国やカラマン君侯国のイブラヒム・ベイと同盟を結び、さらに白羊朝の第2代皇帝ウズン・ハサンと婚姻関係を結んで、オスマン朝と対抗した。このため、オスマン朝もヨハネス4世存命中はトレビゾンド帝国においそれと攻撃することが難しくなってしまったのである。 1458年死去。死後、オスマン朝の反撃が始まった。 ちなみに彼の孫娘(ウズン・ハサンの娘)はサファヴィー家に嫁ぎ、彼の曾孫はサファヴィー朝の初代皇帝となったイスマーイール1世である。.

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ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、Rûm sultanate, Saljūqiyān-i Rūm سلجوقیان روم, 1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。.

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トラブゾン

トラブゾン(Trabzon)は黒海沿岸のトルコの都市。トラブゾン県の県都。人口は約15万人。トルコ東北部における経済活動の中心として重要な港湾都市である。飛行場や1963年創設のカラデニズ工科大学がある。古代にはトラペズス(Trapezous, Τραπεζούς)、中世にはトレビゾンド(Trebizond)や、トラペズンダ(Trapezunda, Τραπεζούντα)とも呼ばれた。.

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トルコ

トルコ共和国(トルコきょうわこく、Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。.

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ニカイア帝国

ニカイア帝国(ニカイアていこく、1204年 - 1261年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落した際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。ニカイア(古代ギリシア語読み、中世ギリシア語ではニケア。現在のトルコ共和国イズニク)を首都とした。他にもローマ帝国を称した亡命政権にはトレビゾンド帝国やエピロス専制侯国などがあったが、1261年にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を復活させたのがニカイア帝国であるため、この国が東ローマ帝国の正統な亡命政権とみなされる。 正式な国号は東ローマ帝国同様「ローマ帝国」であり、君主も「ローマ皇帝」を称し続けた。中世ギリシア語の発音に従ってニケア帝国、あるいは皇室の姓を取ってラスカリス王朝とも呼ばれる。自称を重視する立場からニカイアの「中世ローマ帝国」とも呼ぶ説もある。.

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ダヴィド (トレビゾンド皇帝)

ダヴィド・メガス・コムネノス(Δαβίδ Μέγας Κομνηνός, Dabid Megas Komnēnos, ? - 1463年11月1日)は、トレビゾンド帝国最後の皇帝(在位:1458年 - 1461年)。アレクシオス4世の子で、ヨハネス4世の弟に当たる。 1458年、兄のヨハネス4世が死去したため、後を継いで即位する。しかし、ヨハネス4世の死を契機にオスマン朝は反撃を始めた。 これに対してダヴィドは、白羊朝のウズン・ハサンの支援を背景として、それまでのオスマン朝に対する貢納を停止するなどの強硬策で応じた。しかし、この強硬策にオスマン朝のスルタン・メフメト2世は怒って、白羊朝を攻めてアマスィヤ、カスタモヌ、スィノプを奪取し、フルシッド・ベイ(ウズン・ハサンの伯父)やサラ・ハトゥン(同母)を捕らえて白羊朝の動きを牽制した上で、1461年にトレビゾンドに攻め入った。白羊朝の支援なくしてはオスマン朝に対抗できるはずもなく、ダヴィドは降伏を余儀なくされた。こうして、東ローマ帝国系の最後の王朝として存在していたトレビゾンド帝国は滅亡した。 その後、ダヴィドはイスタンブール、エディルネと連行され、1463年に3人の息子バシレイオス、ゲオルギオス、マヌエルと共に処刑された。 Category:トレビゾンド皇帝 Category:コムネノス家 Category:刑死した人物 Category:1463年没.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)

アレクシオス1世コムネノス(Αλέξιος Α' Κομνηνός, Alexios I Komnēnos, 1182年 - 1222年)は、トレビゾンド帝国の初代皇帝(在位:1204年 - 1222年)。東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝であったアンドロニコス1世コムネノスの長子マヌエル・コムネノスと、グルジア王女ルスダンの長男。 1204年4月、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが第4回十字軍によって落とされる直前、アレクシオス1世はトレビゾンドを占領し、コムネノス王朝の後継王朝としてのトレビゾンド帝国を建国し、その初代皇帝として即位した。 即位後、アレクシオス1世は伯母にあたるグルジアの女王タマルの支援を得て西進を続け、地方にまで領土を拡大した。その後も黒海南岸にまで領土を拡大するなど、順調に勢力を拡大していたが、これを危険視したニカイア帝国のテオドロス1世ラスカリスやルーム・セルジューク朝の攻撃を受けるようになる。アレクシオス1世はルーム・セルジューク朝に対抗するためにスィノプに進出したが、1214年にルーム・セルジューク朝の逆襲を受けて大敗を喫し、自身も捕虜になってしまった。 ルーム・セルジューク朝に臣従するという条件で一命は助けられた後に釈放され、皇帝として復位したのだが、トレビゾンド帝国の威信はすでに地に堕ちてしまったのである。またこの敗北により帝国はスィノプを失い、首都トレビゾンドの西250キロにあるイリス川まで押し返された。 1222年2月1日に死去し、娘婿のアンドロニコス1世がアレクシオス1世の子ヨハネス1世とマヌエル1世を押しのけて皇帝の位についた。 Category:トレビゾンド皇帝 Category:コムネノス家 Category:1182年生 Category:1222年没.

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アンドロニコス1世 (トレビゾンド皇帝)

アンドロニコス1世ギドス(Ανδρόνικος Α' Γίδος, Andronikos I Gidos, ? - 1235年)は、トレビゾンド帝国の第2代皇帝(在位:1222年 - 1235年)。初代皇帝アレクシオス1世の娘婿。.

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アンドロニコス1世コムネノス

アンドロニコス1世コムネノス(ギリシア語:Ανδρόνικος Α' Κομνηνός (Andronikos I Komnēnos)、1123年 - 1185年9月12日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝(在位:1183年 - 1185年)。皇帝アレクシオス1世コムネノスと皇后エイレーネー・ドゥーカイナの三男イサキオスを父に持ち、母はグルジア王女カタである。マヌエル1世コムネノスの従弟に当たる。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カラ・ユルク・オスマン

ラ・ユルク・オスマン(Kara-Yülük Osman, ? - 1435年)は、白羊朝の初代君主。カラ・オスマンともいう。.

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ギリシャ人

リシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:Ἕλληνες 現代ギリシア語, Hellēnes古代ギリシア語)とはバルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。.

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ギリシャ正教

教派の関係。正教会(東方正教会・ギリシャ正教)は灰色(東西教会の分裂前)および青色(東西教会の分裂後)で表されている。 ギリシャ正教(ギリシャせいきょう)は、キリスト教の教派・教会組織を指す言葉。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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コムネノス王朝

ムネノス王朝(Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。ユスティニアヌス王朝、マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の繁栄の時代を担った王朝。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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社会史

会史(しゃかいし、)とは伝統的な歴史学において無視されてきた領域に光を当てることによって社会の全体像を構築しようとする歴史学の一手法。アナール学派をその起源に持ち、全体史の追求、学際的アプローチ、非文献史料の利用などを特徴としている。公民権運動やウーマン・リブといった一連のマイノリティの回復運動を経て、1970年代頃より一般的な研究分野となる。現在では最も活発な研究が行われている分野の一つであるが、細分化が進みすぎて研究そのものが瑣末化してきているとの指摘もある。.

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第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

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経済史

経済史(けいざいし、economic history)は、経済史学とも呼ばれ、経済学を3部門(理論、政策、歴史)に大別した場合の歴史部門に当たる。通時的に経済現象(経済活動およびその主体など)を考察する学問で、経済現象の解明に重点を置く形で歴史分析を行うものである。大学では主に経済学科、史学科等で研究されている。 一般には、フリードリッヒ・リストを先駆とするドイツ歴史学派がその起源とみなされている。.

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白羊朝

白羊朝が赤、薄オレンジがウズン・ハサンの征服地、黄緑が属国 白羊朝(はくようちょう、ペルシャ/アゼリー語:آق قویونلو)は、チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラム王朝(1378年 - 1508年)。王朝の基礎となったのはトゥルクマーンと呼ばれるテュルク系遊牧民で、バヤンドル部族から出た君主を中心とする部族連合をもととする遊牧国家であった。日本語名として広く用いられている白羊朝は、トルコ語でこの部族連合がアク・コユンル(Akkoyunlu)、すなわち「『白い羊』に属する者」と呼ばれたことに由来する直訳名称である。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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根津由喜夫

根津 由喜夫(ねづ ゆきお、1961年(昭和36年)2月 - )は、日本の歴史学者。文学博士(京都大学)。金沢大学人間社会研究域歴史言語文化学系教授(人文学類担当)。専門は中・後期ビザンツ帝国史。群馬県生まれ。.

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政治史

政治史(せいじし、英語:political history)とは、歴史学または政治学の一部門で、古今の政治を歴史的アプローチで研究する社会科学の一分野である。国内政治の政治的事実を取り扱い、理念的な面を扱う政治思想史や政治学の学問としての変遷を解き明かす政治学史、対外関係を扱う国際関係史及び外交史は政治史とは一線を画している。.

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1081年

記載なし。

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1183年

記載なし。

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1185年

記載なし。

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1204年

記載なし。

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1222年

記載なし。

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1458年

記載なし。

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1461年

記載なし。

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