ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

トブルク包囲戦

索引 トブルク包囲戦

トブルク包囲戦(トブルクほういせん、Siege of Tobruk)は、ゾネンブルーメ作戦に基づき、1941年4月10日から11月27日まで行われたドイツアフリカ軍団によるトブルクの包囲。 コンパス作戦(1940年12月8日~1941年2月9日)によりを撃破したイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍は、にてを行っていた。しかし、1941年頭、(WDF)主力はギリシャやシリアに派遣され、リビアのドイツ軍やイタリア軍とは対照的に武器と補給品も不足していた。そんな中発動されたゾネンブルーメ作戦により、連合軍はエジプト領内への退却を強いられる。一方、オーストラリア軍からなる守備隊はトブルクに残存しており、WDFが再編し反攻体制をとれるまで港湾の防御を担っていた。4月10日、そこにエルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ軍が侵攻。(5月)、バトルアクス作戦(6月15日~)を経てクルセーダー作戦を実行。 枢軸国側に奪われたトブルク占領地域の供給港は、イギリス空軍の爆撃圏内にあったベンガジより900キロ、トリポリより1500キロエジプトとの国境線に近かった。包囲戦により枢軸軍は国境から迂回し、トブルク守備隊は枢軸軍の数度にわたる攻撃を撃退した。港は砲撃や、エジプトから飛来する英空軍の急降下爆撃機や中型爆撃機の援護爆撃を頻繁に受けた。また、英国の地中海艦隊(沿岸艦艇も含む)などの連合国海軍は海上封鎖を行い、増援部隊と補給物資を運び、負傷者や捕虜を収容した。11月27日、トブルクはクルセーダー作戦により第8軍(1941年9月から西部砂漠戦線の英国軍およびその他の連合軍地上戦力を隷下におく)によって包囲解除された。 しかしその後、ドイツ軍は1942年6月に再びトブルクを包囲し、これを占領した。4万5000名以上の捕虜と1000両以上の戦車、野砲を破壊ないし鹵獲し、ドイツ軍は次なる拠点エル・アラメインに迫った。.

51 関係: 北アフリカ戦線マチルダII歩兵戦車マルサ・マトルーフチーターチェコスロバキア亡命政府ハルダウンハエバトルアクス作戦リムガゼルリビア砂漠ロバート・ワイズロンメル軍団を叩けトブルクトブルク戦線ヘンリー・ハサウェイブリストル ブレニムビッカース ウェリントンデルナドイツアフリカ軍団ホーカー ハリケーンベドウィンアーサー・ヒラーイギリス領インド帝国ウェストランド ライサンダーエルヴィン・ロンメルエル・アラメインカッターラ低地キレナイカギリシャの戦いギブリクルセーダー巡航戦車クルセーダー作戦クサリヘビ科グロスター グラディエーターケンブリッジ大学出版局コンパス作戦シリア・レバノン戦役シロッコシワ・オアシスジャバル・アル・アフダル県スエズ運河スタニスワフ・コパンスキゾネンブルーメ作戦サソリ砂砂漠第7機甲旅団 (イギリス軍)連合国 (第二次世界大戦)11月27日1941年1942年...4月10日 インデックスを展開 (1 もっと) »

北アフリカ戦線

北アフリカ戦線(きたアフリカせんせん)は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のにより、枢軸国軍の壊滅・ヨーロッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた。.

新しい!!: トブルク包囲戦と北アフリカ戦線 · 続きを見る »

マチルダII歩兵戦車

マチルダII歩兵戦車(マチルダ2ほへいせんしゃ、Infantry Tank Mark II Matilda、Mk.II マチルダII)は、第二次世界大戦前期にイギリス軍で使用された歩兵戦車である。1938年6月に最初の量産発注が出され、1942年3月に最終生産ロットの発注が出されたが、全車の完成は1943年にズレこみ、最終的に2,890両が生産されている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とマチルダII歩兵戦車 · 続きを見る »

マルサ・マトルーフ

マルサ・マトルーフ(Mersa Matruh)は、エジプトの港湾都市。地中海に面し、マトルーフ県の県都である。アレクサンドリアから西に240km、エジプトとリビアの国境近くにあるサルームからは東に222㎞の地点に存在する。ナイルデルタからリビア国境に向かう幹線道路上に位置し、また西の砂漠にあるシワ・オアシスや南の砂漠にあるバハレイヤ・オアシスへの幹線道路が分岐している。古代エジプトからアレクサンドロス大王の統治期にかけては、この町はアムニアの名で知られていた。その後、プトレマイオス朝並びにビザンツ帝国統治期にはParaitonion (Παραιτόνιον)、ローマ帝国期にはParaetoniumの名で呼ばれていた。 マルサ・マトルーフは有名な観光地であり、ヨーロッパ人やカイロ市民が休暇を過ごすリゾート地となっている。こうした観光客はマルサ・マトルーフ空港からやってくる。この町は柔らかい白い砂浜と穏やかな透明な水を観光の目玉としている。海岸は沖合にある軽船舶が通行可能な小さな開口部を備えた岩礁が天然の防波堤となっており、外海から保護されている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とマルサ・マトルーフ · 続きを見る »

チーター

チーター (Acinonyx jubatus)は、食肉目ネコ科チーター属に分類される食肉類。本種のみでチーター属を構成する。ヒョウに酷似しているがやや小柄で別属に分類される。 古い和名は狩猟豹(しゅりょうひょう)という『原色動物大圖鑑』第1巻、北隆館、第14版1988年、初版1957年、150頁。。.

新しい!!: トブルク包囲戦とチーター · 続きを見る »

チェコスロバキア亡命政府

チェコスロバキア亡命政府(チェコスロバキアぼうめいせいふ、Prozatímní státní zřízení、Dočasné štátne zriadenie)は、ナチス・ドイツによって分割・消滅したチェコスロバキアの再建を目指した亡命政府。 大統領エドヴァルド・ベネシュ.

新しい!!: トブルク包囲戦とチェコスロバキア亡命政府 · 続きを見る »

ハルダウン

ハルダウン(英語:Hull-down)は、斜面や丘や堤防を利用し砲塔以外を隠し、車体を防御する戦術。元は、帆船や海戦の用語で、マスト上部の物見台やレーダーだけを水平線から出して偵察する技術であった。20世紀の機甲戦の発展で、陸戦でもこの用語が使われることとなった。 砲塔も隠し、潜望鏡だけを出す状態をターレットダウンという。.

新しい!!: トブルク包囲戦とハルダウン · 続きを見る »

ハエ

ハエ(蠅・蝿)は、ハエ目(双翅目:そうしもく)に属する昆虫のうち、ハエ亜目(短角亜目)・環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)・ハエ下目(Muscomorpha)に属するものの総称である。日本だけで 60 ほどの科と、そこに属する 3,000 種近い種が存在する。 成虫は一般にコンパクトな胴体、よく発達した前翅、後翅が変化した平均棍を持つ。飛翔能力は昆虫類の中でも非常に高い部類で、空間に完全に固定されたかのようなホバリングや、高速での急激な方向転換など、複雑で敏捷な飛翔をこなせるものが多い。「短角亜目」という名の通り触角は通常短い。 羽化の際にはさなぎの背中が縦に割れずに環状に開く。このためさなぎの縫い目が環状になっているとの意で「環縫短角群 」、あるいは単に「環縫群」「環縫類」とも呼ばれる。アブは通常ハエとは別の直縫短角群を指す呼称だが、「アブ」と名のつくもののうちハナアブ科やアタマアブ科などはハエの仲間であり、逆に「ハエ」と名のつくもののうち、アシナガバエ科やオドリバエ科などはアブの仲間である。.

新しい!!: トブルク包囲戦とハエ · 続きを見る »

バトルアクス作戦

バトルアクス作戦(バトルアクスさくせん、Operation Battleaxe)は、第二次世界大戦中の1941年6月15日から17日にかけて行われた、イギリス軍の作戦。北アフリカ戦線において、枢軸国軍に包囲されたトブルクを解囲するために行われた攻勢。ドイツ軍の反撃により、作戦は失敗した。.

新しい!!: トブルク包囲戦とバトルアクス作戦 · 続きを見る »

リムガゼル

リムガゼル(Gazella leptoceros)は、ウシ科ガゼル属に分類される偶蹄類。.

新しい!!: トブルク包囲戦とリムガゼル · 続きを見る »

リビア砂漠

リビア砂漠(Libyan Desert)は、北アフリカ、エジプトのナイル川河谷からリビア東部に及ぶ砂漠。エジプトでは西部砂漠という。広義のサハラ砂漠の一部をなす。標高150~300m、面積約170万平方km。流砂による砂丘地帯が広がる。シワ・オアシス、カスル・ファラーフラ、クフラなどのオアシスがある。古来アフリカ内陸との隊商ルートが存在した。古代エジプト時代から宝石として使われたリビアングラスの産地でもある。 1958年、この砂漠からアメリカ空軍の爆撃機(B-24)が発見された。奇怪なことに、その爆撃機は1943年に行方不明になった機体であった。しかも15年後に発見されたにもかかわらず、機体は2つに折れていた他はほぼ原型をとどめており、無線も作動した。乗組員の遺体はどこにも見当たらなかったためにいくつかのミステリーを生んだが、1960年に正式な捜索が行われ、最終的に乗組員9人中8人の遺体が収容された。 Category:アフリカの砂漠 Category:サハラ Category:エジプトの砂漠 Category:リビアの地形.

新しい!!: トブルク包囲戦とリビア砂漠 · 続きを見る »

ロバート・ワイズ

バート・ワイズ(Robert Wise, 本名: Robert Earl Wise, 1914年9月10日 - 2005年9月14日)はアメリカ合衆国の映画監督・プロデューサー。.

新しい!!: トブルク包囲戦とロバート・ワイズ · 続きを見る »

ロンメル軍団を叩け

『ロンメル軍団を叩け』(ロンメルぐんだんをたたけ、Raid on Rommel)は1971年のアメリカ合衆国の戦争映画。第二次世界大戦中の北アフリカ戦線を舞台に、イギリス軍コマンド部隊の活躍を描く。戦闘シーンなど、多くのシーンが1967年に公開された『トブルク戦線』より流用されている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とロンメル軍団を叩け · 続きを見る »

トブルク

右上のTobrukがトブルク トブルクの夜景 トブルク(アラビア語:طبرق、ラテン文字表記:TobrukまたはTubruqなど)はリビア東部の地中海岸にある都市。エジプトに近い港湾都市である。2011年の人口は約12万人。 北アフリカ一と言われる天然良港を持ち、都市の周囲は砂漠となっている。キレナイカの主要都市の一つであり、空港もある。古代ギリシャ時代にはギリシャ人の植民都市であったが、その後はキレナイカ地方を守るローマ人の城壁都市となった。その後十数世紀の間、トブルクはキャラバンの中継地点として機能した。 第二次世界大戦時には、要塞であったトブルクは北アフリカ戦線における連合軍・枢軸軍の争奪戦の場となった。開戦時はイタリア領であったものの、イギリス軍が占領し、長期にわたる枢軸軍の包囲に耐えた。その後、枢軸軍が奪回したが、1943年には再びイギリス軍が占領している。 内陸油田からの原油パイプラインがあり、積出し基地となっている。 2009年、ペストのアウトブレイクが発生。患者数5人のうち死亡者は1人。トブルクは、自然界でペストが存在している地域とされるが、過去25年以上、人でのペストは報告されていなかった。.

新しい!!: トブルク包囲戦とトブルク · 続きを見る »

トブルク戦線

『トブルク戦線』(トブルクせんせん、)は、1967年のアメリカ映画。.

新しい!!: トブルク包囲戦とトブルク戦線 · 続きを見る »

ヘンリー・ハサウェイ

ヘンリー・ハサウェイ(Henry Hathaway, 1898年3月13日 - 1985年2月11日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身の映画監督・プロデューサー。冒険活劇や西部劇、フィルムノワールの分野で活躍した。.

新しい!!: トブルク包囲戦とヘンリー・ハサウェイ · 続きを見る »

ブリストル ブレニム

ブリストル ブレニム Mk I ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、第二次世界大戦初期のイギリス空軍で使用されたブリストル社製双発軽爆撃機である。.

新しい!!: トブルク包囲戦とブリストル ブレニム · 続きを見る »

ビッカース ウェリントン

ビッカース ウェリントン(Vickers Wellington)は、第二次世界大戦初期のイギリス空軍で使用されたヴィッカース社製の爆撃機である。ヴィッカース社独特の大圏構造の機体を持つ爆撃機で、第二次世界大戦初期のイギリス空軍において爆撃機部隊の柱として活躍し、「ウィンピー」(Wimpy)の愛称で親しまれた。1943年秋以降は爆撃任務から外され、沿岸哨戒や輸送任務で使用された。 本来は昼間爆撃機として設計されたものの、夜間爆撃機や対潜哨戒機としての活躍が顕著であった。そのためUボートに最も怖れられた兵器の1つで、いわば空の“指輪の幽鬼”だった。.

新しい!!: トブルク包囲戦とビッカース ウェリントン · 続きを見る »

デルナ

デルナ(Derna)、またはダルナは、リビアの都市。2011年の人口は約10万人。リビア東部に位置し、地中海に面する港町でデルナ県の県都である。デルナは緑の山を背後に抱え、地中海と砂漠に挟まれたリビアのなかでもユニークな環境を持っている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とデルナ · 続きを見る »

ドイツアフリカ軍団

ドイツアフリカ軍団(ドイツアフリカぐんだん、Deutsches Afrikakorps, 略称:DAK)は、第二次世界大戦中に地中海沿岸のイタリア領リビアに派遣された、ドイツ国防軍部隊の名称の一つである。なお、アフリカ派遣軍部隊のすべてがドイツアフリカ軍団に属していた訳ではない。エルヴィン・ロンメルの指揮により、大きな戦果を挙げた。 ドイツアフリカ軍団の戦闘の詳細は、北アフリカ戦線を参照。.

新しい!!: トブルク包囲戦とドイツアフリカ軍団 · 続きを見る »

ホーカー ハリケーン

ハリケーン(Hurricane)は、イギリスのホーカー・エアクラフト社によって1930年代に設計されたレシプロ単発・単座戦闘機である。第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用され、バトル・オブ・ブリテンなどで広く活躍した。スピットファイアとの競争作として知られる。.

新しい!!: トブルク包囲戦とホーカー ハリケーン · 続きを見る »

ベドウィン

ラクダに乗るベドウィン ベドウィンとは、アラビア語の badawī (بدوي) からくる、砂漠の住人を指す一般名詞で、普通アラブの遊牧民族に対して使う。.

新しい!!: トブルク包囲戦とベドウィン · 続きを見る »

アーサー・ヒラー

アーサー・ヒラー(Arthur Hiller、O.C.、1923年11月22日 - 2016年8月17日)はカナダの映画監督。『ある愛の詩』で第43回アカデミー賞監督賞のノミネートを受けた。.

新しい!!: トブルク包囲戦とアーサー・ヒラー · 続きを見る »

イギリス領インド帝国

イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)は、1858年にイギリスがインドに成立させたインド帝国(英語:Indian Empire)を指す。1877年以降はイギリスの君主がインド皇帝を兼ねる同君連合の形式が取られたが、事実上イギリスの植民地であった。英領インド・英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語で「」(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。 その領域はインド・パキスタン(後のバングラデシュを含む)のみならず、現在のミャンマー、ネパール、スリランカも版図とした。.

新しい!!: トブルク包囲戦とイギリス領インド帝国 · 続きを見る »

ウェストランド ライサンダー

ウェストランド ライサンダー (Westland Lysander) は第二次世界大戦期に、イギリスのウエストランド社が開発した航空機である。 “Lysander”とは古代ギリシアのペロポネソス戦争の英雄でスパルタの将である「リュサンドロス」の英語表記/読みである。.

新しい!!: トブルク包囲戦とウェストランド ライサンダー · 続きを見る »

エルヴィン・ロンメル

ルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel、1891年11月15日 - 1944年10月14日)はドイツの陸軍軍人である。 第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめた。アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名で世界的に知られた。 貴族(ユンカー)出身では無い、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動・多才な人柄・悲劇的な最期・SS(親衛隊)ではなく国防軍の所属であったことなどから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥の一人である。.

新しい!!: トブルク包囲戦とエルヴィン・ロンメル · 続きを見る »

エル・アラメイン

エル・アラメイン(アラビア語: العلمين)は、エジプト北部にあり地中海に面する町。アレクサンドリア西方106kmに位置する。なお、英語では、El AlameinもしくはAl Alamaynと表記する。 石油積み出し用の港として機能している。 第二次世界大戦中のエル・アラメインの戦いの舞台になったことで知られる。 Category:エジプトの都市 Category:マトルーフ県 Category:アフリカの港町.

新しい!!: トブルク包囲戦とエル・アラメイン · 続きを見る »

カッターラ低地

ッターラ低地 カッターラ低地(英: Qattara Depression、 'Munkhafad al-Qattarah')はエジプト北西部マトルーフ県、リビア砂漠にある盆地。低いところでは海面から133 mも低く、アフリカで2番目に低い内陸地である(最も低いのはジブチのアッサル湖)。この低地の面積は18,000 km²、長さは大きいところでは幅120キロメートル×80キロメートルである。最も低いところは塩地になっている。カッタラ窪地(-くぼち)やカッタラ低地(-ていち)、カッタラ凹地(-おうち)とも呼ばれることがある。.

新しい!!: トブルク包囲戦とカッターラ低地 · 続きを見る »

キレナイカ

右半分のレモンイエローで描かれた部分がキレナイカ地方 キレナイカ(Cyrenaica, Cirenaica)は、リビアの東部地方。古典時代以来、一般的にはバルカ(Barqah)と呼ばれ続けた。トリポリタニア、フェザーンと共にリビアの歴史的な3地域で、1970年代の行政区分でもある。語源は古代ギリシャ時代の植民市キュレネ。 現在はシャアビーヤと呼ばれる行政区分に分割されており、アジュダビーヤー、ベンガジ、ダルナ、クワフなど、10の州・県レベルの自治体に分かれている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とキレナイカ · 続きを見る »

ギリシャの戦い

リシャの戦い(ギリシャのたたかい)は、第二次世界大戦中にギリシャおよびアルバニア南部地方で起こった戦いである。 戦いは連合国(ギリシャ、イギリス連邦)と枢軸国(ドイツ、イタリア、ブルガリア)の間で行われた。クレタ島の戦い、いくつかの海戦、ギリシャの戦いは第二次世界大戦におけるドイツ軍のバルカン半島、エーゲ海攻略作戦の1つとして考えられており、また、ギリシャの戦いは1940年10月28日より始まったギリシャ・イタリア戦争の延長と考えられている。 戦争の前半となるギリシャ・イタリア戦争において、イタリア軍はギリシャ軍に1週間で撃退され、反対にアルバニアの南部をギリシャに奪われる形になった。イタリアは1941年3月、ギリシャへ大規模な反撃を加えたがこれも撃退されたため、ドイツはこれを支援せざるを得なくなった。1941年4月6日、ドイツ軍はブルガリアを経由してギリシャに侵入、ギリシャ侵攻作戦であるマリータ作戦 (Unternehmen Marita) が発動された。ギリシャ軍、イギリス連邦軍は粘り強い反撃を行ったが、ドイツ軍の圧倒的な攻撃の前に崩された。アテネは4月27日に陥落したが、イギリス連邦軍はからくも約50,000名の将兵を脱出させることに成功した。ギリシャ侵攻作戦はペロポネソス地方のカラマタ陥落で素早い進撃を見せたドイツ軍の完勝に終わり、作戦も24日以内で終了した。 ドイツ軍、連合軍内部でギリシャ将兵の粘り強い抵抗には賞賛の声があがった。特に歴史家の一部はドイツのギリシャ侵攻作戦により、ドイツはソ連侵攻を延期せざるを得なくなったが、それは致命的なことであったと主張している* Keegan (2005), 144。しかしソ連侵攻作戦に影響がないとする歴史家は、ソ連侵攻作戦の発動には影響はなく、むしろ「政治的感傷的決定」もしくは「ギリシャへのイギリスの干渉を増やした戦略的な大失敗」と主張している。当事者であるイギリス国内でも介入の価値を巡って議論が行われたが、1952年に内閣官房の歴史担当部署によって対ソ戦への影響はなかったと結論付けられているRichter (1998), 640。 他にソ連侵攻の実行責任者であるアドルフ・ヒトラーは前者に立つ発言をしているが、これは周囲に対して感情的に発した言葉であり、客観的な証拠を伴っていない事が大半の歴史家によって指摘されている。ヒトラーは自身の敗北責任をかつての同盟国(当時、イタリアは親独派と反独派に分離していた)に押し付けていた。.

新しい!!: トブルク包囲戦とギリシャの戦い · 続きを見る »

ギブリ

ブリ(Ghibli)は、リビアなどのアフリカ北部で吹くサハラ砂漠からの熱く乾いた風である。 この風の名前を由来にしたものはいくつかあり、この風を有名にしている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とギブリ · 続きを見る »

クルセーダー巡航戦車

ルセーダー巡航戦車(クルセーダーじゅんこうせんしゃ、Mk.VI クルセーダー)は、Mk.V カヴェナンターと並行して1940年から開発されたイギリスの巡航戦車。「クルセーダー(Crusader)」とは「十字軍兵士」を意味する。.

新しい!!: トブルク包囲戦とクルセーダー巡航戦車 · 続きを見る »

クルセーダー作戦

ルセーダー作戦(クルセーダーさくせん、Operation Crusader)は、第二次世界大戦中の1941年11月18日から12月30日に北アフリカで行われた枢軸国軍に対するイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍(以下「イギリス軍」と記す。)の反攻作戦のことである。 1940年9月、イタリア軍は自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻したが、イギリス軍の12月9日に発動したコンパス作戦により逆に攻め込まれ、リビアのキレナイカ地方から撤退した。これに危機感を抱いたドイツのヒトラーは1941年2月、エルヴィン・ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカへ派遣した。そこで、ロンメルは直ちに反撃を開始し、イギリス軍をエジプトまで追い込んだものの、トブルクを陥落させることができず、そのまま包囲する形勢となった。 これに対し、イギリス軍は2度の反攻作戦を実施したが、いずれも失敗に終わった。双方は戦力の充実を図り、それぞれ攻勢作戦を準備したが、11月18日にイギリス軍が先手をとってこの攻撃作戦(クルセーダー作戦)を開始した。これに対し、ロンメルは敵軍の側面を攻撃し、一時イギリス軍は退却した。ロンメルは東の国境方面へ装甲部隊を侵攻させ一気にイギリス軍の兵站線を切断し殲滅を図った。しかしそこで敵の抵抗に遭い、さらに補給の状況も悪化していたためいったんトブルクの西方ガザラまで撤退した。けれどもここでもイギリス軍の攻撃に耐え切れず、損害を抑えるようにしながらエル・アゲイラまで退却した。これにより、トブルクは枢軸国軍の包囲から解放され、キレナイカ地方はイギリス軍が支配することとなった。.

新しい!!: トブルク包囲戦とクルセーダー作戦 · 続きを見る »

クサリヘビ科

リヘビ科(クサリヘビか、Viperidae)は、爬虫綱有鱗目に属する科。模式属はクサリヘビ属。特定動物。.

新しい!!: トブルク包囲戦とクサリヘビ科 · 続きを見る »

グロスター グラディエーター

ター グラディエーター(Gloster Gladiator)はイギリスのグロスターが製作した複葉戦闘機である。第二次世界大戦の初期にも戦闘に使われた。艦上機への改造もなされ、そちらはシーグラディエーターと呼ばれた。.

新しい!!: トブルク包囲戦とグロスター グラディエーター · 続きを見る »

ケンブリッジ大学出版局

ンブリッジ大学出版局(Cambridge University Press)は、ケンブリッジ大学の出版事業を手がける出版社である。1534年、ヘンリー8世により特許状が発せられたのを起こりとする世界最古の出版社、かつ世界第2の規模の大学出版局であり、聖書や学術誌の出版も手掛けている。 「出版活動を通して、大学の理念である全世界における学問、知識、研究の促進を推し進めること」を使命として掲げている。これは、ケンブリッジ大学規約中の「Statute J」に規定されている。そして、「公益のため継続的に出版活動を行い、ケンブリッジという名前の評価を高めること」を目的としている。 ケンブリッジ大学出版局は、学術、教育分野の書籍の出版を行なっており、ヨーロッパ、中東、アフリカ、アメリカ、アジア太平洋といった地域で事業を展開している。世界中に50以上の事業所を持ち、2000人近くの従業員を抱え、4万以上のタイトルの書籍を発行している。その種類は、専門書、教科書、研究論文、参考書、 300近くに及ぶ学術誌、聖書、祈祷書、英語教育教材、教育ソフト、電子出版など、多岐にわたる。.

新しい!!: トブルク包囲戦とケンブリッジ大学出版局 · 続きを見る »

コンパス作戦

ンパス作戦(コンパスさくせん、Operation Compass)は、1940年12月8日から1941年2月9日まで行われた、イギリス軍による北アフリカ方面での反攻作戦。 この戦いで伊リビア総軍は戦力の過半とキレナイカ地方を喪失し、英砂漠軍の優勢が決定的になった。.

新しい!!: トブルク包囲戦とコンパス作戦 · 続きを見る »

シリア・レバノン戦役

リア・レバノン戦役(シリア・レバノンせんえき)は、第二次世界大戦における1941年6月の連合軍によるフランス領シリア・レバノンへの軍事進攻のこと。作戦は成功し、この地域は自由フランスに接収された。.

新しい!!: トブルク包囲戦とシリア・レバノン戦役 · 続きを見る »

シロッコ

ッコによる砂嵐を捉えた衛星写真 シロッコ(伊:scirocco,sirocco)は、初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風(あるいは東南)である。サハラ砂漠を起源とする風で、北アフリカでは乾燥しているが地中海を越えるためイタリア南部到達時には高温湿潤風となり、時に砂嵐を伴う。 アフリカでの名前はギブリ。クロアチアやモンテネグロではユーゴ(jugo)、フランス南部では(Marin)、スペイン南西部では(Leveche)、カタルーニャ地方では(llebeig)、マルタでは(xlokk)などと呼ばれている。.

新しい!!: トブルク包囲戦とシロッコ · 続きを見る »

シワ・オアシス

300px シワ・オアシスの位置(北西部) アモン(ゼウス)の息子であると告げられる シワ・オアシス、シーワ・オアシス(Siwa Oasis、واحة سيوة Wāḥat Sīwah:語源 ベルベル語 Siwa:"犠牲の鳥; 太陽神ラーの守護者") は、エジプトの西部砂漠(リビア砂漠)のカッターラ低地とエジプト砂海の間にあり、リビア国境から約50km、カイロから560kmに位置するオアシス。.

新しい!!: トブルク包囲戦とシワ・オアシス · 続きを見る »

ジャバル・アル・アフダル県

ャバル・アル・アフダル県(الجبل الأخضر、Al Ǧabal al 'Aḫḍar、「みどりの山地」の意)は、リビア北東部に位置する県。県都はベイダ。ジェベル・エル・アフダル県としても知られる。 古代ギリシアの植民都市の址が残るシャッハートや、古代地中海世界の一大貿易港であったアポロニアに近い。南部はアフダル山地の肥よくな高地で、北部は乾燥した半砂漠地帯である。東でデルナ県と、南でアル・ワーハート県と、西でマルジュ県とそれぞれ隣接する。.

新しい!!: トブルク包囲戦とジャバル・アル・アフダル県 · 続きを見る »

スエズ運河

運河(スエズうんが、アラビア語:قناة السويس)は、エジプトのスエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海と紅海(スエズ湾)を結ぶ、海面と水平な人工運河である。船だけではなく、大東電信会社の電信ケーブルも運河を通った。.

新しい!!: トブルク包囲戦とスエズ運河 · 続きを見る »

スタニスワフ・コパンスキ

スタニスワフ・コパンスキ スタニスワフ・コパンスキ(Stanisław Kopański;1895年 - 1976年)は、ポーランドの軍人。少将。西側ポーランド軍の参謀総長を務める。 ロシア帝国軍において、第一次世界大戦に従軍。1917年、第1ポーランド軍団に入隊。 1918年、ポーランド軍に入隊。ポーランド・ソビエト戦争に従軍し、騎砲部隊に勤務。戦間期、ポーランドの装甲部隊の創設に参加した。 ポーランド侵攻時、最高司令官本部第3(作戦)課長。ポーランド降伏後、フランスに亡命。1940年4月、第1カルパチア山岳旅団を編成・指揮し、在レバノン・フランス軍の編成下に入った。フランス降伏後、旅団を武装解除しようとするフランス兵との武装衝突を苦労して回避した。長い交渉の後、コパンスキは、完全武装で旅団を英領パレスチナに移動する許可を得ることに成功した。1940年9月、旅団はエジプトのアレクサンドリアに到着した。1941年、旅団は北アフリカ戦線に投入された。その後、旅団はヴワディスワフ・アンデルス将軍の第2ポーランド軍団の編成下に入った。1943年~1947年、ポーランド亡命政府のポーランド軍参謀総長。 1947年~1949年、ポーランド軍団の監察総監。 こはんすき すたにすわふ こはんすき すたにすわふ こはんすき すたにすわふ.

新しい!!: トブルク包囲戦とスタニスワフ・コパンスキ · 続きを見る »

ゾネンブルーメ作戦

ゾネンブルーメ作戦(Operation Sonnenblume)は、1941年3月24日から開始されたドイツ国防軍によるイギリス軍への反攻作戦。 ゾネンブルーメはドイツ語で「ひまわり」のこと。.

新しい!!: トブルク包囲戦とゾネンブルーメ作戦 · 続きを見る »

サソリ

リ(蠍、蝎)は、節足動物門鋏角亜門クモ綱サソリ目 Scorpiones に属する動物の総称である。前に鋏、尾に毒針を持つが、命にかかわる毒を持つものはごく一部の種類である。 少なくとも4億3千万年以上前から存在したことが確認されており、現存する陸上生活史を持つ節足動物としては世界最古にあたる(ただし初期のサソリは水生動物であり、陸上進出自体はヤスデに後れをとった)。.

新しい!!: トブルク包囲戦とサソリ · 続きを見る »

砂砂漠

ハラ砂漠(砂砂漠) 砂砂漠(すなさばく)とは、岩石砂漠の周囲に分布する、砂礫でできた砂漠のこと。砂は2mm以下の粒を指す。 砂漠でもっとも分布が広いのは岩石砂漠であるが、日本では観光写真としては砂砂漠の砂丘をラクダが歩いている写真がよく使われるため、砂漠というと砂砂漠をイメージされることが非常に多い。アフリカのサハラ砂漠では、全体の70%が礫砂漠であり、砂砂漠の部分は20%から30%程度である。 世界の砂漠のおよそ20%が砂砂漠である。 砂砂漠では砂丘が発達している。 なお、鳥取砂丘は砂砂漠ではなく、海岸砂丘である。.

新しい!!: トブルク包囲戦と砂砂漠 · 続きを見る »

第7機甲旅団 (イギリス軍)

7機甲旅団()とは、イギリスの機甲旅団のひとつ。第二次世界大戦で活躍したを再編成して発足した。通称は師団時代と同じ「砂漠のネズミ」(The Desert Rats)。湾岸戦争やイラク戦争などに参加した。.

新しい!!: トブルク包囲戦と第7機甲旅団 (イギリス軍) · 続きを見る »

連合国 (第二次世界大戦)

ターリン) 第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、Allies、United Nations)とは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本など)と敵対した国家連合。一般的に連合国共同宣言に署名した国などが該当する。 第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ドイツ国によるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月8日の日本によるマレー作戦及び真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争(大東亜戦争)において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、オーストラリアを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦争状態にあったが、ソビエト連邦が対日戦に参戦したのは1945年8月のことである。 ドイツやその他の枢軸国から攻撃を受けるなどし、領域を喪失した政府が亡命政府となり、戦争に参加している。戦後これらの亡命政府の多くは帰国したが、ソ連の影響力が強い地域の亡命政府は復帰することができない例や、戦後まもなく亡命政府の継承政権が打倒されることもあった。一方でユーゴスラビアのパルチザンなど交戦当時は国家を代表する存在ではなかったが、国家を代表する存在として連合国の政府として承認される事例もあった。 連合国は戦後処理問題などで比較的緊密な連絡を取った。現在の国際連合 (United Nations) は、戦争中の連合国協議によって生まれた国際機関であり、連合国諸国が原加盟国となっている。特に中心となったアメリカ・イギリス・ソビエト連邦・フランス・中華民国は、国際連合憲章によって安全保障理事会における「常任理事国」の地位が与えられ、拒否権などの特権を有するなど、国際社会において強い影響を持つこととなった。.

新しい!!: トブルク包囲戦と連合国 (第二次世界大戦) · 続きを見る »

11月27日

11月27日(じゅういちがつにじゅうしちにち、じゅういちがつにじゅうななにち)はグレゴリオ暦で年始から331日目(閏年では332日目)にあたり、年末まであと34日ある。.

新しい!!: トブルク包囲戦と11月27日 · 続きを見る »

1941年

記載なし。

新しい!!: トブルク包囲戦と1941年 · 続きを見る »

1942年

記載なし。

新しい!!: トブルク包囲戦と1942年 · 続きを見る »

4月10日

4月10日(しがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から100日目(閏年では101日目)にあたり、年末まではあと265日ある。誕生花はチューリップ、ベニバナアセビ。.

新しい!!: トブルク包囲戦と4月10日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »