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テオルボ

索引 テオルボ

14コース・テオルボ テオルボ(theorbo、théorbe、tiorba)は、リュート族の撥弦楽器。16世紀末に現れ、バロック末期まで通奏低音楽器およびソロ楽器として幅広く使用された。同様の楽器でキタローネ(chitarrone)と呼称されるものもある。.

27 関係: 古典派音楽バロック音楽モノディヤコポ・ペーリリュートロベール・ド・ヴィゼーフィレンツェフェルディナンド1世・デ・メディチアレッサンドロ・ピッチニーニアーチリュートエミリオ・デ・カヴァリエーリカメラータギタークリスティーナ・ディ・ロレーナジュリオ・カッチーニジュール・マザランジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー美術史美術館音部記号通奏低音撥弦楽器1589年1592年1594年1600年1610年1623年

古典派音楽

古典派音楽(こてんはおんがく)は、クラシック音楽の歴史において、1730年代から1820年代まで続いた時期の芸術音楽の総称。.

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バロック音楽

バロック音楽(バロックおんがく)は、ヨーロッパにおける17世紀初頭から18世紀半ばまでの音楽の総称である。この時代はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する。絶対王政の時代とほぼ重なる。.

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モノディ

モノディまたはモノディー(ドイツ語・Monodie, monodia, monody)は、16世紀終わりにフィレンツェ・ローマを中心に生まれた新しい独唱スタイルの音楽。独唱、または重唱の歌手と伴奏の楽器で演奏され、多くは弾き語りであった。 それまでの音楽は、多声部で書かれたポリフォニーを中心とし、均整のとれた滑らかな響きを指向するルネサンス音楽が主流であった。歌詞の言葉の意味をはっきりと表現し、また聞き取りたいというこの当時の知識人の要求から、それまでの伝統を音楽的間違いとし、独唱また少ない人数の重唱に伴奏楽器を伴う音楽が生まれ、これがレチタール・カンタンドrecitar cantando(語りながら歌う)と呼ばれる。モノディは、この様式の独唱歌曲を指す言葉だが、一般にはこのレチタール・カンタンド様式を指して使われることが多い。作曲の上での高い自由度ゆえに、極めて幅の広い音楽表現が可能になり、バロック音楽誕生の一つのきっかけとなった。.

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ヤコポ・ペーリ

ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年8月20日 - 1633年8月12日)はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物である。 16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。想像で捉えるほかはなかったが、ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなセリフを用いる劇が考えられた。この運動の中で、1597年ごろにペーリがギリシャ神話を題材にした『ダフネ』(Dafne)を作曲した。これが今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品である(台本はすべて現存するが音楽は断片のみが伝わる)。後のペーリの作品である『エウリディーチェ』(L'Euridice)は1600年以降に作曲されたもので、これは現存する最古のオペラ作品である。.

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リュート

リュート(Lute:ルート、Liuto:リウト、Luth:ルュト、Laute:ラウテ)は撥弦楽器の一種で、主に中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称。ひとまとめにしてリュート属とも呼ばれるこれらの楽器群には時代や目的によってさまざまな形態のものがある。 リュートはアラブ文化圏のウード(العود al-ʿūd)および中国や日本の琵琶と近縁の楽器であり、いずれも中央アジアの「」(بربات barbat)を祖先とする楽器であると考えられている。 リュートやウードの名前は「木」を意味するアラビア語の"al‘ud"(アル・ウード)に由来するとされてきた。英語では、リュート奏者はlutenist、リュート製作者はluthierという。.

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ロベール・ド・ヴィゼー

ベール・ド・ヴィゼー (Robert de Visée, 1650年頃-1725年)は、フランスのテオルボ奏者、ギター奏者、作曲家。ルイ14世の宮廷音楽家として、テオルボやギターのほかリュート、ヴィオールを奏し、歌手も務めた。また、リュート、テオルボおよびギターのための曲を作曲した。.

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フィレンツェ

フィレンツェ(Firenze)は、イタリア共和国中部にある都市で、その周辺地域を含む人口約36万人の基礎自治体(コムーネ)。トスカーナ州の州都、フィレンツェ県の県都である。 中世には毛織物業と金融業で栄え、フィレンツェ共和国としてトスカーナの大部分を支配した。メディチ家による統治の下、15世紀のフィレンツェはルネサンスの文化的な中心地となった。 市街中心部は「フィレンツェ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録されている。1986年には欧州文化首都に選ばれた。.

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フェルディナンド1世・デ・メディチ

フェルディナンド1世・デ・メディチ(Ferdinando I de' Medici, 1549年7月30日 - 1609年2月7日)は、メディチ家の第3代トスカーナ大公(在位:1587年 - 1609年)。初代トスカーナ大公コジモ1世とエレオノーラ・ディ・トレドの五男で、第2代大公フランチェスコ1世の弟。 15歳でカトリック教会の枢機卿となったが、1587年10月に兄フランチェスコ1世夫妻が急死し、フェルディナンドがメディチ家の当主となった。兄夫妻が死去した際、たまたまフェルディナンドが同じメディチ家の別荘に滞在していたため、マラリアにより病死したという説のほか、フェルディナンドが兄夫妻を毒殺したという噂がありイタリア史の謎とされていた。一時砒素中毒説が有力になったが、少なくともフランチェスコに関してはマラリアが死因とする報告が2010年に発表された。(フランチェスコ1世・デ・メディチも参照)。 フェルディナンドは翌年に枢機卿の地位を返上し、正式にトスカーナ大公となった。1589年にはフランス王アンリ2世の孫娘クリスティーヌ・ド・ロレーヌを妃に迎えた。 政治を省みず錬金術に没頭していた兄フランチェスコと違って、フェルディナンドは枢機卿時代の経験と人脈を生かして積極的な内政・外交を展開した。スペインからの外交的自立性を高め、農地の開墾を進め、産業振興に努めたほか、港町リヴォルノを自由貿易港として関税を免除し、貿易を活発にした。こうして、兄の時代に低迷していたトスカーナ大公国の経済は活性化し、国庫収入も増加、首都フィレンツェの人口も最盛期に迫る7万人台を回復した。また、メディチ家の伝統ともいえる文芸・芸術の保護・振興にも努め、積極的な建設事業を行った。1600年には、姪マリー・ド・メディシスをフランス王アンリ4世に嫁がせるなどフランスへの結びつきを深め、1605年には、元枢機卿の立場からメディチ一族であるレオ11世をローマ教皇に選出させるなど影響力を誇った。 1608年には、南米ブラジルへ遠征隊を向かわせ、アメリカ大陸で唯一のイタリア植民地創設を試みたが、フェルナンド1世の死後に放棄された(植民地として想定された地域は、現在のフランス領ギアナ(カイエンヌ市近く)であり、1630年にフランスによって植民地化された)。 賢明な統治で市民の人気も高かったフェルディナンド1世は1609年、60歳で病没した。彼の治世はメディチ家、トスカーナ大公国が繁栄を見せた最後の時代であり、以後トスカーナ大公国は徐々に衰退し、西欧の一小国となってしまうことになる。.

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アレッサンドロ・ピッチニーニ

アレッサンドロ・ピッチニーニ(Alessandro Piccinini, 1566年12月30日 - 1638年頃)は、末期ルネサンスから初期バロックにかけてのイタリアのリュート奏者、作曲家。同時代のジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガーとともに、リュート、テオルボの名手として知られた。2巻のリュートおよびキタローネのためのタブラチュア集を残した。.

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アーチリュート

アーチリュート(英 Archlute, 仏 Arciliuto, 伊 Arciliuto)はリュート族の撥弦楽器。ヨーロッパのバロック期、通奏低音楽器およびソロ楽器として使用された。類似の楽器でリュート・アティオルバート(伊 Liuto Attiorbato)と呼ばれるものもある。.

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エミリオ・デ・カヴァリエーリ

ミリオ・デ・カヴァリエーリ(Emilio de' Cavalieri, 1550年頃 - 1602年3月11日)は、ルネサンス後期のイタリアの作曲家、興行主、オルガニスト、外交官、振付師、ダンサーである。 ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアで活動した他の作曲者たちとともに、カヴァリエーリの作品はバロック音楽の始まりにあたるという評価を受けている。ローマ楽派に属し、モノディに関しては初期の有力な作曲家であった。一般に、最初のオラトリオを書いたのもカヴァリエーリだと言われている。.

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カメラータ

カメラータまたはカメラータ・デ・バルディ (Camerata de' Bardi)とは、16世紀後半のフィレンツェの人文主義者や音楽家、詩人、その他の知識人が、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵の邸宅に集って結成した音楽サークルの名称を指す。この参加者の議論によって、「古代ギリシャ音楽」の復興、ひいてはオペラの創出が目論まれた。主に1570年代から1580年代にかけてカメラータの集会がもたれ、フィレンツェ中のあらゆる著名人が常客として招かれたことで有名であった。バルディ以外の主要な同人は、ジュリオ・カッチーニ、ピエトロ・ストロッツィ、(ガリレオ・ガリレイの父)ヴィンチェンツォ・ガリレイである。 カメラータの人々がこぞって信じていたのは、「当節の音楽は堕落しており、形式や様式において古代ギリシャの音楽に戻るならば、芸術音楽は改善されよう。そしてそれによって社会も改善されるに違いない」というものだった。カメラータの同人は、イタリアの歴史家で当時の古代ギリシャ研究の第一人者ジローラモ・メーイに感化されていた。メーイの主張の中でも、とりわけ、古代ギリシャの演劇は、話すというよりもっぱら歌うような性格のものだった、とする説がカメラータに影響した。メーイは誤っていたかもしれないのだが、古代の音楽の方法論を発見しようという点で、結果的にほかに類を見ないような音楽活動が花開いたのである。 カメラータによるルネサンス音楽の批判は、歌われるテクストの聞き取りやすさと引き換えに、ポリフォニーが重用されているという点に集中した。矛盾するようだが、この批判は、少し前の直にトリエント公会議においてポリフォニーに向けられた批判と同じであるけれども、カメラータと教皇庁は、世界観が別々でなかったはずがない。カメラータの同人たちは、古代ギリシャの悲劇や喜劇の情緒的・倫理的な効用について、古い記録に興味をそそられ、新種の音楽を創り出すことを提案した。カメラータの人々は、古代ギリシャ演劇のせりふが、単純な器楽伴奏と単旋律によって歌われたと予想したのである。 1582年にヴィンチェンツォ・ガリレイは、ダンテの『煉獄篇』に基づくウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ伯爵への哀歌に、自ら曲付けした音楽を上演した。その音楽は不幸にも現存しないが、ガリレイが「古代ギリシャ音楽の典型」と予想したものを真似ていたという。カッチーニもいくつかの自作歌曲を演奏したことが知られているが、それらは多かれ少なかれ、単純な和音伴奏の上に、旋律の美しい歌がかぶさるというものだった。 これら早期の実験から発展した音楽様式は、「モノディ」と呼ばれることになる。モノディは、1590年代に、作曲家ヤーコポ・ペーリと詩人オッターヴィオ・リヌッチーニの協力を通じて発展し、大掛かりな劇的表現のできる道具となった。1598年にペーリとリヌッチーニは、モノディ様式による通作音楽劇《ダフネ》を共同制作する。これが「オペラ」と呼ばれる形式の誕生であった。なお、現存する最古のオペラ作品は、ペーリの《エウリディーチェ》である。 ほかの作曲家もすばやく後に続き、1600年代の新しい「楽劇」は幅広く作曲され、上演されて普及した。特筆すべきは、オペラという新たなジャンルも、「インテルメディオ(幕間劇)」と呼ばれた既存の田園詩の形式から借用されたということだ。新しかったのは、ひとえに音楽様式だったのである。 西洋音楽史上における幾多の革命のうちで、おそらく最も入念かつ計画的に行われた革命であったといってよい。20世紀より前に、理論が実践に先立つような音楽は数少なく、その一例がカメラータによる革命だった。 バルディとガリレイは、自らの考えを膨らませて著作を残した。バルディは、カッチーニへの長文の私信をもとに『 Discorso』(1578年)を物し、ガリレイは『古代と現代の音楽 Dialogo della musica antica et della moderna』(1581年~1582年)を出版した。 日本のマイナー・レーベル「カメラータ・トウキョウ」は、このサークルから名を貰い受けている。 かめらあた かめらあた.

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ギター

ター(Guitar)は、リュート属に分類される弦楽器。指、またはピックで弦を弾くことにより演奏する撥弦楽器である。 クラシック音楽、フラメンコのほか、ジャズ、ロック、フォルクローレ、ポピュラー音楽など幅広いジャンルで用いられる。 ギターの演奏者をギタリスト(Guitarist)という。 また、エレクトリック・ギター(エレキギター)を単にエレキ、もしくはギターと呼ぶ場合も多い。.

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クリスティーナ・ディ・ロレーナ

リスティーナ・ディ・ロレーナ(Cristina di Lorena, 1565年8月16日-1637年12月19日)は、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの妃。フランス語名クリスティーヌ・ド・ロレーヌ(Christine de Lorraine)。 ロレーヌ公シャルル3世とクロード・ド・ヴァロワの娘として、ナンシーで生まれた。 1589年5月、フェルディナンドと結婚した。祖母カトリーヌ・ド・メディシスはこの結婚を通して孫娘を動かし、スペインではなくフランスとメディチ家の結びつきを強めようとした。 1615年にガリレオ・ガリレイが「クリスティーナ大公妃への手紙」を執筆しており、彼女が科学者との交流を保っていたことがうかがえる。 72歳でフィレンツェで没した。.

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ジュリオ・カッチーニ

ュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini, 1545年頃 - 1618年12月10日)はイタリア・ルネサンス音楽末期、バロック音楽初期の作曲家。ヤコポ・ペーリとならんでモノディー様式の代表的な音楽家の一人として知られる。 作曲家フランチェスカ・カッチーニとセッティミア・カッチーニは娘。.

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ジュール・マザラン

ュール・マザラン(Jules Mazarin, 1602年7月14日 - 1661年3月9日)は、17世紀フランス王国の政治家、枢機卿。イタリア人でイタリア名はジュリオ・マッツァリーノ(Giulio Mazarino)。ラテン語形はユリウス・ライムンドゥス・マザリヌス(Iulius Raimundus Mazarinus)なので、ジュール・レーモン・マザランとも。.

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ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー

ョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー(Giovanni Girolamo Kapsperger, Giovanni Geronimoとも, ドイツ名ヨハネス・ヒエロニムス・カプスベルガー Johannes Hieronymus Kapsberger, 1580年 - 1651年)はイタリア初期バロック音楽の作曲家。リュートやテオルボ、キタローネのヴィルトゥオーソとして名を遺した。ドイツ貴族の父親を持つため、ドイツ語の苗字を持つが、ヴェネツィアに生まれたためにイタリア語の名で知られている。華麗な演奏ゆえに上流階級の尊敬を集め、1610年からローマで活動すると、とりわけ教皇庁の宮廷で人気を集めた。 生前に出版された作品は、さまざまな形式によるリュートやキタローネのための小品を含んでいる。いくつかの声楽曲も作曲したが、こちらはさほど評価が芳しくなかった。カプスペルガーの作品は、風変わりなリズムの趣向や、旋律の推進力、全般的な創意の豊かさゆえに名高く、これらの特徴はとりわけ舞曲において如実であろう。アレッサンドロ・ピッチニーニとともに、カプスペルガーは当時の最も進歩的なリュート音楽の作曲家であり、なおかつ楽器の発展に大きく貢献した音楽家であった。.

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美術史美術館

美術史美術館(びじゅつしびじゅつかん、)は、オーストリア・ウィーンにある美術館。美術史博物館(びじゅつしはくぶつかん)とも呼ばれる。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している。自然史博物館と対になる施設として建てられ 、1891年に開館。現在は組織上ウィーン大学の一部局である。.

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音部記号

音部記号(おんぶきごう)は西洋音楽の五線記譜法による楽譜に用いられる音楽記号の一種。五線の左端に記し、五線上の位置と音の高さとの関係を指定する。.

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通奏低音

通奏低音(つうそうていおん)とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態。一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。イタリア語のバッソ・コンティヌオ (Basso continuo) の訳語で、伴奏楽器が間断なく演奏し続けるということからこの名がある。略してコンティヌオと呼ぶことも多い。ドイツ語でゲネラルバス (Generalbass) とも呼ばれる。 記譜された音に和音を付け加える和声化の作業をリアライズという。リアライズを補助するために、音符に和音の構成音の記譜音からの音程を示す数字を付けることが一般的であり、これを数字付き低音という。現代では専門教育を受けていない者のためにリアリゼーションを楽譜に書き起こしたものも多く市販されている。 通奏低音の演奏には、オルガン、チェンバロなどの鍵盤楽器や、リュート(テオルボ)、ハープ、ギターなどの撥弦楽器といった和音の出せる楽器が用いられ、しばしばヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、コントラバス(またはヴィオローネ)、ファゴットなどの低音旋律楽器が併用される。コントラバスやヴィオローネの場合、記譜音の8度下を演奏することが通例である。一般には楽譜に演奏楽器の指定は無く、演奏時にこれらの楽器を任意で選択する。ただし、歴史的には和音楽器と一緒に低音旋律楽器が使われることは限定的であったことに留意しなければならない。イギリスのP.ホールマンによれば「ソナタでこれらの楽器が使われたのは、音楽がオブリガートのバス・パート(コンティヌオのバス・ラインより手がこんでいる)を含むときだったと思われる」という。一方、楽器編成の都合上や古楽の様式に則らない近代的な楽団による演奏では、旋律楽器のみで和音を伴わない楽譜どおりの演奏がなされることもあるが、これは本来の通奏低音の形態からすれば不完全なものといえる。 このような通奏低音という形態は、バロック音楽の根幹をなす要素であり、バロック時代を指して「通奏低音の時代」と称することがある。また、ポピュラー音楽における「コードネーム」の概念にも通じる原理がある。.

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撥弦楽器

撥弦楽器(はつげんがっき)とは、何らかの方法で弦をはじく(撥)ことによって音を出す楽器の総称である。共鳴胴を利用して音を増幅させる構造の物が多い。ギターのように抱えて演奏するものや、琴のように置いた状態で演奏するものなどがあり、それぞれが地域によって改良・発展をしているためにバリエーションは多い。広義においては、チェンバロ等も含まれる。.

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1589年

記載なし。

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1592年

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1594年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1610年

記載なし。

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1623年

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