17 関係: 大宰相、大トルコ戦争、中央公論新社、メフメト4世、アフメト2世、イブラヒム (オスマン帝国)、オスマン家、オスマン帝国、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ、皇帝、白須英子、11月8日、1642年、1687年、1691年、4月15日、6月23日。
大宰相
大宰相 (トルコ語: Vezir-i AzamまたはSadr-ı Azam(ザドラザム、Sadrazam)またはSerdar-ı Ekrem、オスマン帝国時代にはصدر اعظم または وزیر اعظم)は、オスマン帝国における最上位の官位で、ペルシャ語のヴェズィール (vizier、وزير、宰相の意)に由来する。また、ヴェズラザム (Vizrazam)、ヴェズザラム と呼ばれる場合もある。英語では、Grand Vizierと呼ぶ。支配構造上ではスルタンの直下に位置し、スルタンの絶対権力を代行する立場であり、原理的にはスルタン以外からは罷免されない。オスマン帝国運営の実務を担い、政務にあたって他の宰相を招集することができた。宮廷内の御前会議 (en) は、その開かれていた場所がトプカプ宮殿内の聖堂内 (Kubbealtı) であったことから、「聖堂宰相」(Kubbealtı viziers、英: under the dome visiers) と呼ばれた。また大宰相の公邸はバーブ・アーリー(大宰相府、en)と呼ばれた。大宰相 (Vazīr-e Azam) はまた、パキスタンの首相を指すウルドゥー語でもある(大臣一般は "vizier")。 オスマン帝国の成立してまもない頃には大宰相と言う名称はなく、宰相 (Vizier) とだけ呼ばれていた。その中で最初に大宰相と呼ばれたのはチャンダルル家出身のハイレッディン・パシャ (en) である。大宰相という位は、宰相の中でスルタンの代行者とその他の宰相を峻別するために設けられた。初めのうちはヴェズィール・イ・アーザム (vezir-i âzam) と呼ばれることが多かったが、次第にサドラザム (sadrazam) と呼ばれるようになった。どちらも意味としては同じである。大宰相はまた、オスマン帝国の歴史を通じてサドル・イ・アーリー (sadr-ı âlî、英: 'high vizier')、ベキル・イ・ムトラク (vekil-i mutlak、英: 'absolute attorney')、サーヒブ・イ・デヴレト (sâhib-i devlet、英: 'holder of the state')、セルダル・イ・エクレム、セルダル・イ・アザム、ザート・イ・アーサフィ (zât-ı âsafî、英: 'vizieral person') などと呼ばれた。 キョプリュリュ時代 (en)(1656年 – 1703年) には、歴代の大宰相がオスマン帝国の実権を握っていた。この時代には、スルタンの権力は弱められ、それが支配階級の下位に分散していた。 タンジマートの後、19世紀のオスマン帝国では、大宰相は現代の西洋国家政府における首相に近い役割を果たすようになった。.
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大トルコ戦争
大トルコ戦争(だいトルコせんそう、Great Turkish War, 1683年 - 1699年)は、17世紀後半に起こったハンガリー、トランシルヴァニアを巡るオーストリア・ポーランド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の戦争である。1699年のカルロヴィッツ条約締結でオーストリアは再興のきっかけを作り、オスマン帝国は衰退の一途を辿っていった。.
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中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.
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メフメト4世
メフメト4世(Mehmed IV, 1642年1月2日 - 1693年1月6日)は、オスマン帝国の第19代皇帝(在位:1648年8月8日 - 1687年11月8日)。父イブラヒムが殺害された後7歳で即位。母はウクライナ人のトゥルハン(Turhan Hatice)。スレイマン2世、アフメト2世の兄。ムスタファ2世、アフメト3世の父。.
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アフメト2世
アフメト2世(Ahmed II, 1643年2月25日 - 1695年2月6日)はオスマン帝国の第21代皇帝(在位:1691年6月22日 - 1695年2月6日)。第18代皇帝・イブラヒムの子でメフメト4世、スレイマン2世の弟。.
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イブラヒム (オスマン帝国)
イブラヒム(オスマン語:ابراهيم اول, 英:Ibrahim I, 1615年11月5日 - 1648年8月18日)はオスマン帝国の第18代皇帝(在位:1640年2月9日 - 1648年8月8日)。父はアフメト1世、母は。オスマン2世、ムラト4世の弟。子にメフメト4世、スレイマン2世、アフメト2世。.
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オスマン家
マン家(オスマンけ、Osmanlı hanedanı)は、オスマン帝国の皇帝の家系として続いたテュルク系のヨーロッパ~アジアの皇帝家。13世紀末にアナトリア半島北東部を支配した初代オスマン1世に始まり、36代メフメト6世が廃位される1922年までオスマン帝国に君臨し、今日に至るトルコ人(オスマン人)を形成した。 かつてはオスマン部族(オットマン部族)と呼ばれることも多かったが、オスマンの名は遊牧部族的組織を脱してガーズィー(ジハードに従事するムスリム戦士)集団を率い、君侯国、帝国へと発展しはじめる基礎を打ち立てたオスマンベイ(オスマン帝国の建国者オスマン1世)に由来するため、適当な呼称ではない。現在、成員はオスマンオウル(オスマンの子の意味)という姓を名乗っているので、オスマンオウル家と呼ぶのが正式である。.
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オスマン帝国
マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.
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キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ
ョプリュリュ・ファズル・ムスタファ・パシャ(Köprülü Fazıl Mustafa Paşa, 1637年 - 1691年8月19日)は、オスマン帝国の大宰相(首相。在任:1689年10月25日 - 1691年8月19日)。皇帝はスレイマン2世とアフメト2世。.
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皇帝
皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.
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白須英子
白須 英子(しらす ひでこ、1935年 - )は、翻訳家。1958年、日本女子大学文学部英文学科卒業。.
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11月8日
11月8日(じゅういちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から312日目(閏年では313日目)にあたり、年末まであと53日ある。.
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1642年
記載なし。
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1687年
記載なし。
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1691年
記載なし。
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4月15日
4月15日(しがつじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から105日目(閏年では106日目)にあたり、年末まではあと260日ある。誕生花はモクレン、タンポポ。.
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6月23日
6月23日(ろくがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から174日目(閏年では175日目)にあたり、年末まであと191日ある。誕生花はササユリ、ムラサキツユクサ。.
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