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ステファノス・ガヴリイロプロス

索引 ステファノス・ガヴリイロプロス

ステファノス・ガヴリイロプロス(, Stephanos Gavriilopoulos, ? - 1333年)は東ローマ帝国地方名門貴族の出身、尊厳公(セヴァストクラトル )、セサリア君主国の独立支配者(1318年 - 1333年)。 ガヴリイロプロス家はセサリア地方有数の家門の一つ。その当主ステファノスは同地域に於いて大地主として絶大な権力を誇り、恐らくは若年・病弱なヨアニス2世ドゥカスの政権下でも大きな影響力を揮ったものと思われる。この時代に、セサリア君主国に対しては東ローマ帝国が宗主権を確立しつつあったが、ステファノスは同地域の有力者と協同してヨアニスをもり立て、東ローマの干渉を排除する姿勢をとり続けた。 ヨアニス2世は1318年に子なく没し、セサリアに於けるドゥカス・コムニノス・アンゲロス朝は断絶したが、ステファノス・ガヴリイロプロスは自らが実質的なその地位を次いで独立を維持し続けた。彼に対し、東ローマ皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスもアンゲロス朝と同じ尊厳公称号を贈り、名目的な宗主権に満足せざるを得なかった。 1333年にステファノスが没すると、セサリアはイピロス専制公ジョヴァンニ2世オルシーニと東ローマ帝国の間で係争の的となった。東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスは既にセサリア軍政官に任命しておいたミハイル・モノマホスを派遣し、オルシーニを追い払って漸くセサリアを帝国に併合した(完了は1335年頃)。 東ローマ併合後も、ガヴリイロプロス家はセサリアに於いて勢力を維持し続けた。ステファノスの遺児ミハイル・ガヴリイロプロスは東ローマの内乱に際して再度自立の傾向を強めると共に、ヨアニス6世カンダクジノスを支援してその登極に助力した。 (本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照。) Category:エピロス専制侯国 Category:1333年没.

12 関係: ヨハネス2世ドゥーカスヨハネス6世カンタクゼノステッサリアアンドロニコス2世パレオロゴスアンドロニコス3世パレオロゴスアンゲロス王朝エピロス専制侯国ジョヴァンニ2世オルシーニ東ローマ帝国1318年1333年1335年

ヨハネス2世ドゥーカス

ヨハネス2世ドゥーカス(, Ioannes II Doukas, ? - 1318年)は、テッサリア君主国の尊厳公。コンスタンティノス・ドゥーカスの子(在位:1303年 - 1318年)。中世ギリシア語の表記ではヨアニス2世ドゥカス。 1303年に父コンスタンティノスの後を継いで尊厳公(セバストクラトル)となる。1308年までは父の同盟者、叔父にあたるアテネ公ギイ2世ド・ラ・ロシュの後見を受けた。ギイの死後、妻に東ローマ帝国皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの娘エイレーネーを迎えているが、これは東ローマ側がテッサリアを併合する為の布石であった。ヨハネス自身、病弱であり、実権は自立傾向を強めていたテッサリアの有力者達によって掌握されていた。しかし彼らは東ローマ帝国に従う事もよしとしなかった為、隣国であるアテネ公国と同盟を結び、その君主をヨハネスの後見人にするなどしてテッサリア君主国の存続を支援した。 ヨハネス2世は1318年に後継者なく死去し、東ローマ帝国による併合が開始される。しかし血縁ではないながらドゥーカス・コムネノス・アンゲロス家同様に尊厳公の称号を名乗り、独立政権を樹立したステファノス・ガヴリイロプロスら有力者達の抵抗は続き、またエピロス専制公ジョヴァンニ2世オルシーニも干渉を重ねた。帝国が最終的に併合を完了するのは1335年頃の事である。 Category:エピロス専制侯国 Category:ドゥーカス家 Category:1318年没.

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ヨハネス6世カンタクゼノス

ヨハネス6世カンタクゼノス(Ιωάννης ΣΤ' Καντακουζηνός, ローマ字転写:JohannesⅥ Kantakouzenos, 1295年 - 1383年6月15日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1347年 - 1354年)、政治家、歴史家、修道士。中世ギリシャ語読みではヨアニス6世カンダクジノス(もしくはカンダクヅィノス)。慣例として使われる個人名のヨハネスはラテン語名で古典式表記はイオアンネス。ラテン語のフルネームはヨハネス・カンタクゼヌス(Johannes Cantacuzenus)。修道名はヨアサフ(Ιωάσαφ)。.

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テッサリア

テッサリア(Θεσσαλία / Thessalía、Thessaly)は、ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリエス(地方)のひとつである。 テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯である。.

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アンドロニコス2世パレオロゴス

アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1259年3月25日 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。.

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アンドロニコス3世パレオロゴス

アンドロニコス3世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος (Andronikos III Palaiologos)、1297年3月25日 - 1341年6月15日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第4代皇帝(在位:1328年5月24日 - 1341年6月15日)。同王朝第2代皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの孫で、同・第3代(共同)皇帝ミカエル9世パレオロゴスと皇后マリアの子。同名の祖父と区別する意味で「少帝(Νέος)」と呼ばれることもある。.

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アンゲロス王朝

アンゲロス王朝(アンゲロスおうちょう、ギリシャ語:Άγγελος、ラテン文字表記:Angelos)は、東ローマ帝国の王朝(1185年 - 1204年)。.

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エピロス専制侯国

ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.

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ジョヴァンニ2世オルシーニ

ジョヴァンニ2世オルシーニ(Giovanni II Orsini, ? - 1335年)はイタリア人イピロス専制公国君主(在位1323年-1335年)・ケファロニア宮廷伯(在位1323年-1335年)。ギリシア名はヨアニス・ドゥカス・コムニノス(Ιωάννης Δούκας Κομνηνός)。古典式慣例表記ではヨハネス・ドゥーカス・コムネノス。ジョヴァンニ1世オルシーニの息子、専制公ニコーラ・オルシーニの弟。 1323年に兄ニコーラを暗殺してケファロニア宮廷伯とイピロス専制公国の権力を掌握する。ジョヴァンニは兄以上に野心的な人物で、自らギリシア名「ヨアニス・ドゥカス」を名乗り、ドゥカス・コムニノス・アンゲロス家の正統な後継者としての立場を内外に表明した。更に、ニキフォロス1世ドゥカスの弟ディミトリオス-ミハイル・ドゥカス専制公(妻は東ローマ帝国皇帝ミハイル8世パレオロゴスの娘アンナ)の孫娘アンナ・パレオロギナを妻に迎え、血統意識を強く押し出した。二人の結婚からは、息子ニキフォロス2世、娘ソマイスともう一人、個人名の記録がない娘が生まれている。ソマイスはセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟シメオン・ウロシュ・パレオロゴスと結婚し、セルビアのイピロス・セサリア支配の下地を作った。彼は生まれ育ったケファロニア島を弟グィードに任せ、新天地イピロスに定着した。 ジョヴァンニはイピロス専制公として積極的な対外発展を目論んだ。イピロス専制公国から分離したセサリア君主国のアンゲロス王朝は1318年に断絶していたが、その遺領は土着有力者でかつての君主と同じく尊厳公称号を名乗ったステファノス・ガヴリイロプロスが掌握し、北から侵攻してきた東ローマ帝国と勢力を二分していた。1333年にそのガヴリイロプロスが死去すると、ジョヴァンニはかつてのイピロス専制公国領の統合を企て、ピンドス山脈を越えてセサリアに侵攻した。しかし、東ローマ側から派遣されたセサリア軍政官ミハイル・モノマホスの攻撃に遭い撃退され、ジョヴァンニの野望は潰えた。 悲劇はその後にやってきた。ジョヴァンニは兄同様に身内の裏切りに遭い非業の死を遂げる。1335年(1336年ないし1337年説もある)、妻アンナ・パレオロギナが彼に毒を盛って殺害してしまったのである。同時代の東ローマ歴史家ニキフォロス・グリゴラスは、オルシーニ家歴代に伝わる気性の激しさに対する恐怖がアンナをして毒殺という凶行に向かわせたのではないかと推測している。 ジョヴァンニの死はイピロス専制公国史の中で一つの転換点となった。即ち、東ローマ帝国による直接併合の契機となった事である。 (本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照。また国号については「専制公国」とした) Category:エピロス専制公 Category:オルシーニ家 Category:ドゥーカス家 Category:1335年没.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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1318年

記載なし。

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1333年

記載なし。

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1335年

記載なし。

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