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ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

索引 ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ

ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(Giovanni dalle Bande Nere,1498年4月5日 - 1526年11月30日)は、イタリアの傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、メディチ家の一人。初代トスカーナ大公コジモ1世の父。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ。 1498年、メディチ家の傍系ジョヴァンニ・イル・ポポラーノとカテリーナ・スフォルツァの子としてフォルリに生まれる。フォルリ・イモラの僭主・オッタヴィアーノ(リアーリオ家)の異父弟に当たる。 生まれてすぐ父が、11歳の時母が亡くなったため、親類のレオ10世のもとで軍人になるための訓練を受け、その後教皇軍の指揮をとる。イタリア戦争ではカール5世の皇帝軍に勇猛に立ち向かい、後年「ルネサンス最後の傭兵隊長」と賞讃された。18歳でロレンツォ・デ・メディチの孫のマリア・サルヴィアティと結婚し、息子のコジモ(後のコジモ1世)をもうける。 レオ10世が亡くなった時、哀悼の意を表して黒い帯を彼の記章に付け加えたため、バンデ・ネーレ(黒バンド、黒帯)という通名で呼ばれるようになる。彼の部隊(it)は全員黒い絹のリボンを付け、槍にも黒の槍旗を付けていた。日本語では黒隊長、黒旗、または黒備えのジョヴァンニとも訳される。 1526年、マントヴァ近郊カステル・ゴッフレードでの戦いで右足を砲弾で砕かれ、敗血症により死亡。半年後にローマ略奪が起こった時、人々は「彼が生きていたらこれほどのことにはならなかったのに」と嘆いたと伝えられる。 格言 "理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず" NON MI SNVDARE SENZA RAGIONE,NON M'IMPVGNARE SENZA VARORE "私が前に進む時は、皆私についてこい。もしも私が退(ひ)こうとしたら、私を殺せ!" Category:メディチ家 Category:イタリア戦争の人物 Category:イタリアの軍人 Category:コンドッティエーレ Category:1498年生 Category:1526年没.

25 関係: マリア・サルヴィアティマントヴァメディチ家ルネサンスレオ10世 (ローマ教皇)ロレンツォ・デ・メディチローマ劫掠トスカーナ大公国フォルリイモライタリアイタリア戦争カール5世 (神聖ローマ皇帝)カテリーナ・スフォルツァカステル・ゴッフレード傭兵コンドッティエーレコジモ1世ジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノ軍人敗血症11月30日1498年1526年4月5日

マリア・サルヴィアティ

マリア・サルヴィアティ(Maria Salviati, 1499年7月17日 - 1543年12月29日)は、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの妻。 ヤコポ・サルヴィアティとルクレツィア・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの娘)の娘として、フィレンツェで生まれた。1516年にジョヴァンニと結婚し、1519年に長男コジモを産んだ。 Image:Pontormo, Maria Salviati.jpg|マリアと幼いジュリア・デ・メディチ。ポントルモ画。 Image:Pontormo, Maria Salviati 2.jpg Category:フィレンツェ共和国の人物 Category:1499年生 Category:1543年没.

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マントヴァ

テ宮殿 パラッツォ・ドゥカーレ マントヴァ最古の教会、ロトンダ・ディ・サン・ロレンツォ マントヴァ(Mantova )は、イタリア共和国ロンバルディア州南東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約4万9000人の基礎自治体(コムーネ)。マントヴァ県の県都である。 マントヴァは三方を12世紀につくられた人工湖によって囲まれている。これらはガルダ湖から発したミンチョ川の水をせき止めたものである。3つの湖はそれぞれ大きな方から、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖と呼ばれている。4番目の湖パジョロ湖はかつて市を環状に巡った防御用のものであったが、18世紀末に干拓された。 マントヴァは、ウィリアム・シェイクスピア作の悲劇『ロミオとジュリエット』の中に登場する。劇中、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放される。彼はただちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いてヴェローナへ帰還する。 またヴェルディ作曲のオペラ「リゴレット」の舞台であり、市内にはオペラに縁のある建物や登場人物の像が現存するが、劇中の人物は全て架空の人物である。 マントヴァは、カトリック教会のマントヴァ司教座が置かれている。 マントヴァの中心市街などは、サッビオネータの中心部とともに「マントヴァとサッビオネータ」の名で世界遺産リストに登録されている。.

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メディチ家

メディチ家(メディチけ、Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。.

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ルネサンス

レオナルド・ダ・ヴィンチによるウィトルウィウス的人体図、科学と芸術の統合 ルネサンス(Renaissance ルネサーンスイギリス英語発音: リネイスンス、アメリカ英語発音: レナサーンス)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。.

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レオ10世 (ローマ教皇)

レオ10世(Leo X 1475年12月11日 - 1521年12月1日)は、ルネサンス期のローマ教皇(在位:1513年 - 1521年)。本名はジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de Medici)。メディチ家出身で、派手好き、イベント好きの教皇のもと、ローマのルネサンス文化は最盛期を迎えた。.

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ロレンツォ・デ・メディチ

レンツォ・デ・メディチ ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449年1月1日 - 1492年4月8日)は、イタリア、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主。公的な肩書きはなかったが、当時のフィレンツェ共和国を実質的に統治した。ロレンツォ・イル・マニーフィコ(Lorenzo il Magnifico)とも呼ばれる。 優れた政治・外交能力を持っており、イタリア各国の利害を調整する立場として大きな影響力を振るい、信頼を得ていた。また、一般市民には気前良く振舞い、絶大な支持を得た。学問や芸術(ことに文学)のパトロンとしても知られ、彼のもとでルネサンス文化は最盛期を迎える。.

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ローマ劫掠

ーマ劫掠を描いた銅板画 Johannes Lingelbach''作) ローマ劫掠(ローマごうりゃく、Sacco di Roma)は、1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件を指す。 この頃、イタリアを巡ってはヴァロワ朝のフランス王国と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた(イタリア戦争)。1515年にはフランス王フランソワ1世の軍がミラノに侵攻し、1521年にミラノ公国を支配するスフォルツァ家を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は教皇レオ10世と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇クレメンス7世(レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、フランスと結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。 1526年、パヴィアの戦いに敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗するコニャック同盟を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ1世・デステを破門し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍とドイツの傭兵(ランツクネヒト)がローマに進軍した。ドイツ兵にはカトリックを憎むルター派が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。 1527年5月6日、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であったブルボン公シャルル3世が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。 モーリス・セーヴはその惨状を以下のように綴っている。 ローマに集まっていた文化人・芸術家は殺され、あるいは他の都市へ逃れた。文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅、停滞の時期を迎えた。これによって1450年代から続いていた盛期ルネサンス時代は終わりを告げた。 カール5世自身はカトリック教徒であり、これほどまでの略奪を意図していたわけではなかったが、事態は皇帝側に有利となった。1529年、教皇と皇帝はバルセロナ条約を結んで和解、イタリアはカール5世の支配下に入った。1530年、ボローニャにおいて教皇クレメンス7世の下、カール5世に対して神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われている。アルフォンソ1世も破門を解かれ、モデナとレッジョを与えられた。 なお、フィレンツェ共和国を治めていたクレメンス7世の庶子アレッサンドロもこの騒ぎに乗じた市民に追放されたが、1530年にカール5世の支援で復帰、1532年に公爵位を授与され、フィレンツェ公国を成立させた。.

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トスカーナ大公国

トスカーナ大公国(トスカーナたいこうこく、Granducato di Toscana、Großherzogtum Toskana)は、16世紀から19世紀にかけて北イタリアに存在した国家。領域はほぼ現在のトスカーナ州にあたり、同州の前身となった。.

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フォルリ

フォルリ(Forlì)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。フォルリ=チェゼーナ県の県都の一つである。.

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イモラ

イモラ.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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イタリア戦争

イタリア戦争におけるイタリアの領土変更 イタリア戦争(イタリアせんそう、Guerre d'Italia、Guerres d'Italie)、またはイタリア大戦争(イタリアだいせんそう、Grandi Guerre d'Italia)、ハプスブルク・ヴァロワ戦争(Habsburg–Valois Wars)、ルネサンス戦争(Renaissance Wars)は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。教皇領、、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、前出のフランス、スペイン、神聖ローマ帝国)も参戦した。戦争の期間は、本項では1494年から1559年としてはいるが、戦争の期間や区分けは諸説あり、必ずしも一定しているわけではない。 ミラノ公国とナポリ王国の継承争いから始めたこの戦争は、やがて諸国を巻き込み、権力と領土を争うための戦争となり、数々の同盟、対抗同盟、裏切りが行われた。.

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カール5世 (神聖ローマ皇帝)

ール5世(Karl V., 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)、およびスペイン国王(在位:1516年 - 1556年)。スペイン国王としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 ハプスブルク家の絶頂期に君臨し、その治世は、ヨーロッパ統合を果たしたカール大帝以来の歴史的ヨーロッパ概念の体現者とも言われる。さらに当時は大航海時代の真っ只中にあったため、「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げた。カールの理想は、オットー1世以来有名無実化していた神聖ローマ帝国を統一し、最終的には西ヨーロッパの統一とカトリック的世界帝国の構築であったが、覇権を争うフランス王国との戦い、宗教改革の嵐、スレイマン1世が率いるオスマン帝国の伸張など相次ぐ戦いに阻まれ、あと一歩のところで目的は果たせなかった。晩年は長年の痛風と相次ぐ戦争に疲れ果て自ら退位し、修道院に隠棲した。.

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カテリーナ・スフォルツァ

テリーナ・スフォルツァの肖像画 カテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza 1463年 - 1509年5月10日)は、ルネサンス期の女傑として知られる女性領主。 ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(在位:1466年 - 1476年)の庶腹の娘。スフォルツァ家の当主ジャン・ガレアッツォの姉に当たる。母は、ドミニコ・ヴェネツィアーノの肖像画でよく知られている美人ルクレーツィア・ランドリアーニ。 11歳でリアーリオ家のジローラモ(1443年 - 1488年、教皇シクストゥス4世の甥)伯爵と結婚し、その間にビアンカ(1478年 - 1522年)とオッタヴィアーノ(1479年 - 1533年)姉弟を儲けて、ローマで暮らす。夫ジローラモはイーモラとフォルリの領主でもあった。1484年、シクストゥスが急逝するとジローラモはローマで反乱を起こそうとするが、失敗したため、彼女は子のビアンカとオッタヴィアーノとともに領地のフォルリに戻った。 1488年、叔父のルドヴィーコによるスフォルツァ家による援助が意図的に怠ったことが原因で、フォルリに反乱が起こりジローラモが暗殺され、叔父のルドヴィーコと距離を置き始めた。 後にフィレンツェのメディチ家のロレンツォの支援で反乱を抑え、支配を続ける。その後、ジャコモ・フェロ(1471年 - 1495年)と再婚。ジャコモの死後、メディチ一族傍系でロレンツォの従弟であるジョヴァンニ・デ・メディチ(イル・ポポラーノ 1467年 - 1498年)と再婚し、1498年に1子ジョヴァンニ(1498年 - 1526年)を儲ける。 1499年、チェーザレ・ボルジアに攻められ、イーモラ・フォルリが相次いで陥落。カテリーナはその後、ローマに移送され、修道院に入れられた。 1509年4月、重度の肺炎に罹患した。一旦回復したように見えたが再発し、遺言と埋葬の手配を行ったのち、1509年5月28日に死去した。46歳。.

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カステル・ゴッフレード

テル・ゴッフレード(Castel Goffredo)は、イタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県にある、人口約13,000人の基礎自治体(コムーネ)。.

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傭兵

イス人傭兵達の記念碑である。国土の大半が山岳地帯であるため、農業や産業が育たない貧しい国だったスイスを支えていたのは「血の輸出」と呼ばれる傭兵派遣であった。 傭兵(ようへい、mercenary)は、金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である。 「傭」という漢字が常用漢字および新聞漢字表に含まれないため、一部の新聞等の報道では「雇い兵」と表記される。 傭兵は現代でも存在しており、民間軍事会社のような新しい形態の傭兵も登場している。.

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コンドッティエーレ

ンドッティエーレ(condottiere)は、中世末期から近世にかけて活躍したイタリア人の傭兵、傭兵隊長をいう。複数形のコンドッティエーリ(condottieri)の形でも使用する。ちなみに発音は古イタリア語で、現代イタリア語ではcondottiero(コンドッティエーロ)がより正しく、「契約する者」を意味する。転じて、イタリア以外の国々でもしばしば高名な傭兵をこの名で呼ぶ習慣が出来た(ヴァレンシュタインもこの名で呼ばれたという)。 中世から近世のイタリアは東方貿易によってヨーロッパの文化と経済の中心地として栄えており、特にヴェネツィア共和国やフィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国、シエナ共和国など規模の大きい地方国家は莫大な富を得ていた。しかし、同じく利潤を得ている存在でも既存の権力機構に組み込まれているミラノ公国やナポリ王国とは違って、これらの国々は周辺国から常に妬みと野心の対象とされていた。したがって彼らは、市民軍の他に大量の傭兵部隊を雇用するのが伝統となっていた。 最初のうち、これらの受け皿となったのはイタリアに野心を持つ神聖ローマ皇帝、アンジュー家、アラゴン家など外国人君主に伴われてイタリアへ来た外国兵、それに比較的少数ではあったが、貧困な地方の流民たちだった。この傭兵需要は、「冒険団」(Compagnie di Ventura)を生み出した。主として外国人からなるこの冒険団は程なくしてイタリア人自身が担うようになり、さらには地方の小領主(シニョリーア)が自国の徴用兵ごと「傭兵」として自身を売り込むようになっていった。彼らと雇い主の間では契約(コンドッタ)が結ばれ、そこからコンドッティエーレと呼ばれるようになった。 こうしたイタリア独自の傭兵制度の中で、傭兵隊長たちは栄達の機会をつかむことも少なくなかった。フランチェスコ・スフォルツァやフランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラのような大きな成功例を挙げるまでもなく、多くのコンドッティエーレは諸国や地方領主から重職を委ねられた。またイタリア人の傭兵隊長たちは、ルネサンスの万能人思想に影響されてか、粗野で野蛮であるよりも、洗練され教養のある人間であることを尊んだ。戦術にしてみても、騎士道精神に立脚する蛮勇よりも、自らの祖先であるラテン人が古代ローマで行った戦術を模倣することを好んだ。すなわち、勝てる状況を作り出した上で戦うのが戦の上策であり、負け戦は積極的にかかわるのを避けたし、また全滅するまで戦うのではなく、勝つ見込みがあるまで戦うのが基本だった。このことは、同時代人のマキャヴェッリによって辛辣に批判されたが、これは市民軍の組織に失敗したマキャヴェリの私怨も多分に含まれている。 また数は多くないが、アンドレア・ドーリアなどの「海のコンドッティエーレ」も存在した。主にジェノヴァ共和国や教会軍が活用したが、逆にヴェネツィア共和国は決して雇わなかった。.

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コジモ1世

コジモ1世 コジモ1世(, 1519年6月11日 - 1574年4月21日)は、初代トスカーナ大公で、フィレンツェの名門メディチ家の1人。子はフランチェスコ1世。 メディチ傍系であり、勇敢な傭兵隊長として知られた「黒隊長」ジョヴァンニ(1498-1526年)と、その妻でロレンツォ・デ・メディチの孫にあたるマリーアの間に生まれる。また、ルネサンス期の女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァの孫に当たる。1537年、フィレンツェ公アレッサンドロ(ローマ教皇クレメンス7世の庶子)が暗殺された後、18歳のコジモがフィレンツェ公を継ぐ。こうしてコジモ率いるフィレンツェ公国は神聖ローマ帝国ハプスブルク家の支援のもと、フィレンツェの中央集権体制を確立していく。 トスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世の神聖ローマ帝国側に組してスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領した。そして、1559年のカトー・カンブレジ条約によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。さらに1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に任じられここにトスカーナ大公国が成立した。 さらに海軍を創設した。この海軍は1571年のレパントの海戦にも参戦している。しかしスペインの警戒もあり、公国は完全には自立できなかった。コジモ1世の最大の功績は、首都フィレンツェの都市改造事業であり、現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げるのである。 ジョルジョ・ヴァザーリ、アニョロ・ブロンズィーノらを宮廷画家として迎える。有名なヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』はコジモに捧げられており、ブロンズィーノはコジモや妻エレオノーラなど一家の肖像を多く残した。 また、ミケランジェロの葬儀(1564年)を行った。コジモ1世の時代、再びフィレンツェでのルネサンス文化が花開いたといえる。 1562年、2人の子と妃エレオノーラ・ディ・トレドがマラリアで相次いで死去。これ以後、コジモ1世の晩年は悲劇とスキャンダルに見舞われる事となる。1569年、教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公となった。 晩年は半身不随となり、また再婚するが家庭的に恵まれなかった。トスカーナ大公は子のフランチェスコが継ぐ。 Category:フィレンツェ公 Category:トスカーナ大公 Category:メディチ家 Category:イタリア戦争の人物 Category:イタリア・ルネサンスの人物 Category:フィレンツェ出身の人物 Category:1519年生 Category:1574年没.

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ジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノ

ョヴァンニ・イル・ポポラーノ像、フィリッポ・リッピ画 ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni de' Medici, 1467年10月21日 - 1498年9月14日)は、イタリアの貴族。イル・ポポラーノ(Il Popolano)と呼ばれた。メディチ家の傍系の出身で、ピエルフランチェスコ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの息子。.

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軍人

大日本帝国陸軍の軍人と軍旗1931年(昭和6年) 軍人(ぐんじん)は、当該国家の正規の軍事組織に所属し、正規の軍事訓練を受け、国家により認められた階級を与えられた者を指す。軍人は国際法上交戦権として、敵対勢力を破壊する権利を持つ。また敵対勢力に投降した場合には、捕虜として基本的人権が保障されている。 文民や民間人の対義語として用いられ、軍人としての籍のことを兵籍・軍籍などといい、軍人としての履歴を軍歴という。軍属は原則として、文官(雇員・傭人等を含む。)であり軍人とは異なる。また、武官は軍人のうち、官吏でもある職業軍人を指し、徴兵された者は含まない。英語ではsoldierは通常陸軍軍人のみを指し、海軍、空軍、海兵隊の軍人はそれぞれseaman(またはsailor)、airman、marineという。全軍の軍人の総称としてはMilitary personnel、ラテン語ではmiles(ミーレス)という。 なお、自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めた日本国憲法第九条に従い、自衛のための必要最低限の実力組織と定義されているが、中山太郎外務大臣が国会答弁で「自衛隊は、憲法上必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の厳しい制約を課せられております。通常の観念で考えられます軍隊ではありませんが、国際法上は軍隊として取り扱われておりまして、自衛官は軍隊の構成員に該当いたします」と述べているように、諸外国における軍人にあたる自衛官は国際法上は軍隊の構成員(軍人)と扱われるとされる。.

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敗血症

感染症と全身性炎症反応症候群と敗血症の関係。 敗血症(はいけつしょう、sepsis)とは、感染症に対する制御不能な生体反応に起因する生命を脅かすような臓器障害のことで、患者数は世界で年間約2700万人。そのうち約800万人が死亡していると報告されている。国際的な診断基準では感染症が疑われSOFAスコアがベースラインから2点以上増加しているものを敗血症としている。細菌感染症の全身に波及したもので非常に重篤な状態であり、無治療ではショック、播種性血管内凝固症候群(DIC)、多臓器不全などから死に至る。元々の体力低下を背景としていることが多く、治療成績も決して良好ではない。 これに対し、傷口などから細菌が血液中に侵入しただけの状態は菌血症と呼ばれ区別される。また、敗血症と全身性炎症反応症候群(SIRS)は似た概念だが、全身性炎症反応症候群は感染によらない全身性の炎症をも含む概念である『日本版敗血症診療ガイドライン』2013年版による。.

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11月30日

11月30日(じゅういちがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から334日目(閏年では335日目)にあたり、年末まであと31日ある。11月の最終日である。.

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1498年

記載なし。

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1526年

記載なし。

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4月5日

4月5日(しがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から95日目(閏年では96日目)にあたり、年末まであと270日ある。誕生花はカイドウ、コデマリ。.

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ジョバンニ・ディ・メディチジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレ

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