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シュテファン3世 (モルドヴァ公)

索引 シュテファン3世 (モルドヴァ公)

ュテファン大公の肖像。フモール修道院の細密画より。 シュテファン3世(Ştefan al III-lea, Ştefan cel Mare, 1433年頃 - 1504年7月2日)は、15世紀のモルドヴァ公国の公。シュテファン大公と呼ばれる。正教会で聖人。.

17 関係: 大公モルダヴィアルーマニア正教会ワラキアヴラド・ツェペシュトランシルヴァニアプトナ修道院フニャディ・ヤーノシュオスマン帝国聖人正教会教皇1433年1475年1504年7月2日

大公

大公(たいこう、、)は、称号の一つ。ヨーロッパの称号のうち公と訳されるものよりさらに上の称号を訳すのに使われる。大公と訳される称号には、grand duke などいくつかある(以下、原義を示すのに便宜上原則として英語を用いる)。.

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モルダヴィア

モルダヴィア、モルダビア(、、)もしくはモルドヴァ、モルドバ(、)、モルダウ()は、東ヨーロッパの一角を占める地域の名称である。ルーマニアの東北部、すなわちカルパティア山脈の東、プルート川の西で両者に挟まれた地域にあたり、時にはルーマニア領を越えてプルート川の東にあるドニエプル川を西限とするベッサラビア地方を含めた、さらに広い地域を指す。 中世に建国されて現ルーマニア領モルダヴィアとベッサラビアを支配したルーマニア人の国家であるモルダヴィア公国の領有した地域であり、21世紀においてはルーマニア領、モルドバ共和国領、ウクライナ領の3か国に分割されている。 モルドバ(モルドヴァ)共和国の国名となっている「モルドヴァ」とは、「モルダヴィア」のルーマニア語・モルドバ語における呼称である。モルドバ共和国がソビエト連邦(以下「ソ連」)の構成共和国であった時代は、ロシア語に基づく「モルダビア・ソビエト社会主義共和国」を正式国名としていた。.

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ルーマニア正教会

ルーマニア正教会(ルーマニアせいきょうかい、ルーマニア語:Biserica Ortodoxă Română 、英語:Romanian Orthodox Church)は、正教会に属する独立教会のひとつ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。 正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(ルーマニア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。.

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ワラキア

ワラキア(Wallachia, Walachia 、Valahia 、Havasalföld )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。.

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ヴラド・ツェペシュ

ヴラド3世(Vlad III, 1431年11月10日 - 1476年12月19日)、通称ドラキュラ公(Vlad Drăculea) または串刺し公(Vlad Țepeș / Kazıklı Bey)は、15世紀のワラキア公国の君主(ワラキア公)。諸侯の権力が強かったワラキアにあって中央集権化を推し進め、オスマン帝国と対立した。 日本ではしばしばヴラド・ツェペシュと呼ばれるが、「ツェペシュ」は姓でもミドルネームでもなく、「串刺し公」、原義では「串刺しにする者」を意味するルーマニア語の異名、すなわち「ドラキュラ」と同様にニックネームであって、名前は単にヴラドである(呼び名の節を参照)。 ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルの一人として知られる。現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されている。.

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トランシルヴァニア

トランシルヴァニア(Transylvania)は、ルーマニア中部・北西部の歴史的地名。東にはカルパティア山脈、南にはトランシルヴァニアアルプス山脈(南カルパティア山脈)が横たわる。北はウクライナ、西はハンガリー、南西はセルビアに接している。 歴史的な狭義のトランシルヴァニアは、マラムレシュ(マーラマロシュ)、サトゥ・マーレ(サトマール)、ビホル(ビハル)、アラド、ティミシュ、カラシュ・セヴェリン(クラッショー・セレーニ)地方は含まれない。オーストリア直轄時代にはサラジュ(シラージ)地方も含まれていなかった。 なお、ハンガリー時代のトランシルヴァニアとルーマニア時代のトランシルヴァニアは微妙に範囲が異なり、県の境界線が変更され、西部の一部が「モルダビア」に組み込まれた。.

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プトナ修道院

プトナ修道院(ルーマニア語:Mănăstirea Putna)は、ルーマニア正教会の修道院であり、中世モルダヴィアの重要な文化・宗教・藝術の中心である。多くの他の建造物とともに修道院はシュテファン大公によって献堂された。プトナはプトナ川(水源はブコヴィナのオブチナ・マレ山: Obcina Mare)に取り囲まれた土地に建設された。シュテファン大公はモルダヴィア全土にかなりの数の教会と修道院を建設し支配した事で有名である(重要な軍事的勝利のたびに宗教的大建築物を建てていったとも伝えられる)。プトナ修道院の建物にはシュテファンおよび何人かのシュテファンの家族の墓所(現在は巡礼者のための施設となっている)がある。イコンの覆いと墓石はシュテファン大公の時代のモルダヴィア芸術の素晴らしい作品例として所蔵されている。.

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フニャディ・ヤーノシュ

フニャディ・ヤーノシュ(Hunyadi János、イオアン・デ・フネドアラ(Iancu/Ioan de Hunedoara)、ヨハネス・コルヴィヌス(デ・フニャド)(Ioannes Corvinus/de Hunyad、1387年/1407年南塚『図説ハンガリーの歴史』、23-24頁/1409年 - 1456年8月11日)は、現在のルーマニア出身のハンガリーの貴族。 同時代の史料には、ルーマニア南部のワラキアの貴族の家系の出身と記される。オスマン帝国の侵入に晒されるハンガリー南部の国境地帯に身を置き、戦闘を経て軍事技術を習得した。1441年にトランシルヴァニアの公(ヴォイヴォダ)といくつかの地区の知事に任ぜられ、国境の防衛を一手に引き受けた。 フニャディは気分次第で従軍を決める貴族出身の騎士に頼らず、錬度が高い傭兵と士気の高い志願兵を戦力の中心に据えたパウル・レンドヴァイ『ハンガリー人 光と影の千年史』(稲川照芳訳, 信山社出版, 2008年12月)、77-79頁。ボヘミアのフス派の傭兵が戦力の中心であり、親族、信奉者、家臣を軍に加え、一般の民衆も軍隊に編入したエルヴィン『ハンガリー史』1 増補版、132頁。そして、戦闘に大型の四輪荷車を連結するフス派の戦法(英語版)を導入したオツェテァ『ルーマニア史』1巻、203-204頁。一連の軍事技術の革新によって、フニャディは1440年代初頭にハンガリー南部に侵入したオスマン軍に勝利することができた。1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦いでの敗北にもかかわらず、1443年から1444年にかけてのバルカン山脈を越えての「大遠征」と1456年のベオグラードでのにおけるオスマン帝国皇帝メフメト2世に対する勝利によって、偉大なる指揮官としての名声を確立した。キリスト教世界のために戦う兵士を激励するため、ローマ教皇は週に一度教会の鐘を鳴らすよう命じていたが、1456年のベオグラード防衛の後、カトリックの教会と一部のプロテスタントの教会はフニャディの勝利を記念して毎日の正午に鐘を鳴らすようになった。 フニャディは、政治家としても優れた素質を持っていたピーターズ「フニャディ」『世界伝記大事典 世界編』8巻、473-474頁。1440年代初頭にヴワディスワフ3世(後のウラースロー1世)とラディスラウス・ポストゥムス(後のラースロー5世)がハンガリー王位を巡って争った時、フニャディは前者を積極的に支持した。議会の中小貴族から支持を集めたフニャディは、1445年にウラースロー1世の死後にハンガリー王に選出されたラースロー5世が成年に達するまでの間、ハンガリーの国政を担当する7人の「レルムの指導者」のうちの1人に選出された。続く国会で、フニャディは唯一の摂政に選出された。1452年に摂政の地位を辞した後、ラースロー5世はフニャディを総司令官に命じ、多くの爵位を与えた。かくしてフニャディはハンガリーの有力な大貴族の1人になり、その死去まで議会における影響力を維持した。 教皇ピウス2世はフニャディを「」(キリスト教の守護者)と讃えたが、フニャディはベオグラードの勝利の3週間後に軍内で流行していた疫病に罹って没した。フニャディの勝利によって、ハンガリー王国は長らくオスマン帝国の侵入から守られた。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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公(こう)とは、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。 この項目では中国に限らず、「公」に相当する日本やヨーロッパにおける称号、爵位、尊称などについても述べる。.

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聖人

聖人(せいじん[漢音]、しょうにん[呉音])とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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1433年

記載なし。

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1475年

記載なし。

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1504年

記載なし。

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7月2日

7月2日(しちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から183日目(閏年では184日目)にあたり、年末まではあと182日ある。平年では1年のちょうど真ん中にあたる日である。誕生花はキンギョソウ、カラー。.

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