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サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

索引 サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群

ンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(サンクトペテルブルクれきしちくとかんれんけんぞうぶつぐん)は、ロシアの都市サンクトペテルブルクの中心部およびその郊外の建造物を含むユネスコの世界遺産の登録物件。 これらの建築遺産は、バロック様式・新古典主義にロシア文化が融合したものとして特徴づけられる。.

44 関係: 大理石宮殿 (サンクトペテルブルク)世界遺産ペトロパヴロフスク要塞ペテルゴフミハイロフスキー城マリインスキー劇場マリインスキー宮殿ネヴァ川ネフスキー大通りバロックモイカ宮殿ロモノソフロシアロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)ロシア美術館プルコヴォ天文台プーシキン (町)パヴロフスクフィンランド湾ニコラエフスキー宮殿ホテル・アストリアアレクサンドル・ネフスキー大修道院アヴローラ (防護巡洋艦)イリヤ・レーピンエラーギン宮殿エルミタージュ美術館カザン聖堂ガッチナクロンシュタットクンストカメラグランド・ホテル・ヨーロッパコトリン島シュリッセリブルクストロガノフ宮殿タヴリーダ宮殿サンクトペテルブルクサンクトペテルブルク美術大学冬宮殿国際連合教育科学文化機関聖イサアク大聖堂血の上の救世主教会首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)新古典主義旧海軍省 (サンクトペテルブルク)

大理石宮殿 (サンクトペテルブルク)

大理石宮殿(Мраморный дворец、Mramornyi Dvorets)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある宮殿。ロシアにおける最初の新古典主義建築のひとつ。冬宮の東側、ネヴァ川に面し、マルスの広場の北に面している。 大理石宮殿は、女帝エカテリーナ2世の愛人であった、グリゴリー・オルロフによって建てられた。設計はイタリア人建築家、アントニオ・リナルディの設計で、1768年に着工され1785年に完成した。 大理石宮殿の名は、宮殿を華やかに飾り立てた数多くの大理石装飾による。フィンランド産の花崗岩やカレリア産のピンク色の大理石、白や青のウラル産の大理石などが使用され、宮殿装飾に使われた大理石は32種類にも及んだ。 現在、大理石宮殿はロシア美術館の別館として使用されている。常設展示として、18-19世紀のロシアにおける外国人芸術家の作品や、アンディ・ウォーホルなどポップアートを収集していたペーター・ルートヴィヒのコレクションがある。.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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ペトロパヴロフスク要塞

ペトロパヴロフスク要塞(ロシア語:Петропа́вловская кре́постьピトラパーヴラフスカヤ・クリェーパスチ)は、ロシア、サンクトペテルブルクの要塞である。名称は、ロシア語で「ペトロとパウロの要塞」という意味で、ペトロ・パウロ要塞、あるいはペトロ・パヴロ要塞とも表記される。 正式名称はサンクトペテルブルク要塞(Санкт-Петербургская крепостьサンクトピチルブールクスカヤ・クリェーパスチ)。1914年から1917年にかけては、都市の名称が「ペトログラード」であったため、要塞もペトログラード要塞(Петроградская крепостьピトラグラーツカヤ・クリェーパスチ)を称した。.

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ペテルゴフ

聖使徒ペトル・パウェル大聖堂 New Peterhof駅 ペテルゴフの住宅街 ペテルゴフの夜景 ペテルゴフ(Петерго́ф, Peterhof)はロシア・サンクトペテルブルクのペトロドヴォレツォヴヌイ区(ru:Петродворцовый район Санкт-Петербурга)にある町である。ドイツ語で「ピョートルの邸宅」の意。.

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ミハイロフスキー城

ミハイロフスキー城(Михайловский замок、Mikhailovskii zamok、Mikhailovsky Castle)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある城塞。別名をインジェネールヌィ城(Инженерный замок、Inzhenerny zamok、「技師の城」の意)という。英語版では聖ミハイル城、St.

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マリインスキー劇場

マリインスキー劇場 マリインスキー劇場のメインホール マリインスキー劇場 (Мариинский театр) は、ロシアのサンクトペテルブルクにあるオペラとバレエ専用の劇場。ソビエト連邦時代(1924年 - 1991年)は、キーロフ劇場と呼ばれていた。.

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マリインスキー宮殿

マリインスキー宮殿(Мариинcкий дворец マリイーンスキイ・ドヴァリェーツ;ラテン文字転写の例: Mariinskii dvorets;Mariinsky Palace)は、ロシアの宮殿。「マリア(ロシア語ではマリーヤ)の宮殿」という意味で、マリア宮殿(Marie Palace)とも訳される。1839年から1844年にかけてサンクトペテルブルクに造営された。設計者は宮廷建築家のアンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)で、ロシアにおける新古典主義様式で造営された最後の宮殿とされる。.

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ネヴァ川

ネヴァ川の位置 ネヴァ川の流路 ネヴァ川(ロシア語:Нева )は、ロシア北西部のラドガ湖からカレリア地峡を経てサンクトペテルブルク市内を流れ、フィンランド湾に注ぐ全長約74kmの川である。.

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ネフスキー大通り

ネフスキー大通り(ロシア語:(ニェーフスキイ・プラスピェークト))は、ロシアのサンクトペテルブルクにあるメインストリートである。ネフスキー大通りは、ピョートル1世(大帝)によって、ノヴゴロドとモスクワへの街道として建設が計画された。「ネフスキー」の名は「ネヴァ(川)」が、ロシア語の文法規則により語尾変化したものである。現在のネフスキー大通りは、旧海軍省、アレクサンドロフスキー公園からモスコーフスキー駅(モスクワ駅)のある蜂起広場を経て、アレクサンドル・ネフスキー大修道院に至る。 沿道には、ペテルブルクを代表する建築が立ち並ぶ。主なものとしては、建築家バルトロメオ・ラストレッリによるストロガノフ宮殿、ペテルブルクにおける巨大な新古典主義建築として知られるカザン聖堂、アール・ヌーヴォー様式の「本の家」(ジンガー書店)、18世紀に建立された6つの教会や、啓蒙専制君主として名高い女帝エカテリーナ2世の記念碑など歴史的、宗教的施設の他、ゴスチーヌイ・ドヴォールと呼ばれる18世紀のショッピングセンター、パサージュ百貨店(The Passage)や、グランド・ホテル・ヨーロッパ、ネフスキー・パレスなどのホテルが林立している。この他、文教施設としては、ロシア国立図書館がある。ネフスキー大通りのほぼ真ん中をフォンタカ運河が横切るが、ここに掛けられているアニーチコフ橋は馬の銅像とともに有名である。 ネフスキー大通りは、ペテルブルクを舞台とするロシア文学、小説に頻繁に登場する。ゴーゴリは、ペテルブルクの喧噪を『ネフスキー大通り』などの小説に書き表している。19世紀ロシア文学の黄金時代を築いた文豪たちが通ったカフェ・レストランが「文学カフェ」としてこの通りに面して残っている。 ロシア革命後、ソビエト政権が樹立すると、1918年から1944年までの間、ロシアで起きた最初の革命的出来事であるデカブリストの乱を記念する「十月二十四日大通り」の名で呼ばれた。 今日、ネフスキー大通りは、サンクトペテルブルクの目抜き通りとして都市機能の中枢を担っている。繁華街として昼夜を分かたず、多くの市民の生活の中心であり、高級な商店、住宅などが存在または建設中である。「日本センター」もカザン聖堂近くのこの大通りに面したビル内に設置されている。 また、金融街としても注目されている。.

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バロック

ピーテル・パウル・ルーベンス『東方三博士の礼拝』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。 バロック(barocco, baroque baroque, Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。.

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モイカ宮殿

モイカ宮殿(Moika Palace、Дворец Юсуповых на Мойке)またはユスポフ宮殿(Yusupov Palace)は、ロシアのサンクトペテルブルクにある、かつてのユスポフ家の居城であった建物である。1916年には、グリゴリー・ラスプーチンの暗殺の現場となった。 宮殿の劇場 この宮殿は1770年頃にフランスの建築家ド・ラ・モットによって初めて建設された。建設には多くの著名な建築家が携わり、この建物は複数の建築家のスタイルの寄せ集めになっていることでも知られている。ユスポフ家がこの宮殿のオーナーとなった1830年代に、A・ミハイロフが建て直した。この時に、宮殿の近代的な外観が形成された。 1830年から1917年までこの宮殿は、慈善活動や美術品の蒐集でも知られたロシアの貴族ユスポフ家の所有であった。そのため、帝政ロシアの時代にはユスポフ宮殿として知られていた。 宮殿の豪華な内装は、皇帝の宮殿にも劣らなかった。宮殿内には、レンブラント・ファン・レインのものを含む絵画作品、宝石、彫刻等が4万以上もあった。ユスポフ家のコレクションは国有化され、エルミタージュ美術館その他の美術館に収められた。エルミタージュ美術館の絵画部門のキュレーターであるアーネスト・フリードリッヒ・フォン・リファートは、宮殿のカーテン画や劇場の天井画を初期に手がけた1人である。 ジャック=ルイ・ダヴィッドの描いた''Sappho and Phaon'' しかし、この宮殿は最後の住人であったフェリックス・ユスポフ公爵の行動によって最もよく知られている。彼は皇帝と同じくらいに裕福だと考えられていた。ユスポフ家は、ロシア内にサンクトペテルブルクの4つを含む57個の宮殿を所有していた。モイカの宮殿は、ユスポフ公のお気に入りであった。ラスプーチンの死の周辺の出来事については、現在も議論のさなかにある。ユスポフによると、1916年12月16日の夜、 彼とドミトリー・パヴロヴィチ大公は、ラスプーチンをモイカ宮殿に招いた。そして恐らく、彼らはラスプーチンに、致死量以上のシアン化物入りのケーキと赤ワインを勧めた。しかし、ラスプーチンには効果がないように見えたので、ユスポフは銃を取り出し、背後からラスプーチンを撃った。しかし彼はラスプーチンがなお生きているのを確認したため、至近距離からさらに3度撃ったが、ラスプーチンはなおも立ち上がろうとした。彼らはさらに鉄の棒で何度もラスプーチンの頭を殴り、毛布で包み、外に出てモイカ川に投げ捨てた。ラスプーチンの検死結果によると、彼は毒でも射撃でも殴打でも死なず、低体温で死んだことが明らかとなった。 ラスプーチンの死の直後にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が権力を持つと、貴族の財産は没収された。1925年、この宮殿は街の教育委員会に譲渡された。貴族の宮殿のほとんどは世俗の用途に転用されたが、教育委員会はこの宮殿を公共の博物館として保存することを決定した。今日でも、この宮殿は教育用に残され、ラスプーチンの殺害現場を残す役割も果たしている。ラスプーチンが逃れようとした中庭は、現在では、宮殿に隣接する幼稚園の遊び場になっている。.

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ロモノソフ

モノソフの位置 ロモノソフ(Ломоносов, Lomonosov, ロモノーソフとも)はロシア連邦サンクトペテルブルク市ペトロドヴォレツォヴヌイ区の町。サンクトペテルブルク市街から西に39km。フィンランド湾の南岸に位置し、沖合いにはコトリン島のクロンシュタットを望む。人口は42,000人(1992年)。 以前はオラニエンバウム(Ораниенбаум, Oranienbaum, ドイツ語で「オレンジの木」の意)と呼ばれていた。これは、もともと帝室の宮殿に付属していた植物園を呼んだ名前であった。 1948年、科学者ミハイル・ロモノーソフに因んで、ロモノソフに改称。ミハイル・ロモノーソフは、1754年、オラニエンバウム付近のウスチ・ルジツァ村にガラス工場を建設した。 1707年、ピョートル大帝は忠臣アレクサンドル・メンシコフに一帯の土地を与えた。メンシコフは、1710年から1727年にかけてここに大きな宮殿を建設した。メンシコフの死後、1743年にオラニエンバウムは皇太子ピョートル(後のピョートル3世)の避暑地となり、宮殿は建築家バルトロメオ・ラストレッリによって改修された。1762年には、エカチェリーナ2世が別荘を建設した。 オラニエンバウムは、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーの生地である。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)

モスクワ大通りの新館 サンクトペテルブルクにあるロシア国立図書館(Российская национальная библиотека;Russian National Library)は、ロシア最古の公共図書館である。ロシア帝国時代の名称は帝国公共図書館、1925年までの名称はロシア公共図書館、1932年から1992年のソ連時代の名称はM・Ye・サルトゥイコフ=シチェドリン記念公共図書館であった。それに因んで今でも「プブリーチカ(公共ちゃん)」という愛称で呼ばれる。モスクワにある国立図書館も「ロシア国立図書館」と呼ばれるが、全く別の図書館である。 この図書館は、1795年に時の皇帝エカチェリーナ2世によって建てられた。エカチェリーナは、この帝国公共図書館を創設するに当たって、ヴォルテールとディドロの蔵書をそれぞれの子孫から買い取った。 図書館の蔵書の基底をなすのは、ポーランド・リトアニア共和国から獲得した25万冊に及ぶザウスキ図書館(Biblioteka Załuskich)だったが、後にそれらはポーランド・ソビエト・リガ平和条約(1921年)を踏まえてポーランドへ移送されたGreat Soviet Encyclopedia, 3rd.

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ロシア美術館

国立ロシア美術館(Государственный Русский музей、State Russian Museum)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある美術館。旧名は、アレクサンドル3世皇帝記念ロシア美術館(Русский Музей Императора Александра III)。ロシアの美術館中、最大のコレクションを誇る。また、ロシア美術館本館に使用されているミハイロフスキー宮殿は、19世紀初頭におけるロシア新古典主義建築の傑作である。 ロシア美術館は、1895年4月13日にロシア皇帝ニコライ2世によって父帝アレクサンドル3世を記念してロシア最初の国立美術館として開館した。ロシア美術館の最初のコレクションは、エルミタージュ美術館および、アレクサンドロフスキー宮殿、の収蔵品から移動させられた。1917年のロシア革命後、多くの個人蔵のコレクションが国有財産となり、ロシア美術館の収蔵品となった。この中にはカジミール・マレーヴィチの「黒の正方形」(1915年)なども含まれる。.

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プルコヴォ天文台

プルコヴォ天文台(プルコヴォてんもんだい、Pulkovo Astronomical Observatory, ロシア語表記:Пулковская астрономическая обсерватория)はロシア科学アカデミーが運営する天文台で、サンクトペテルブルクの南19kmの海抜75mのプルコヴォ Pulkovo の丘の上にある。位置は北緯 59° 46′ 18″、西経 30° 19′ 34″の位置にある。 1839年にフリードリッヒ・フォン・シュトルーベの設立により開所し、彼が初代の所長となった。1861年に息子のオットー・フォン・シュトルーベが所長の座を継いだ。 17世紀当時としては世界最大の 38cmの屈折望遠鏡を備えていた。天体の位置の計測、歳差などの計測を行い、ロシア各地の地理的位置の基準となった。 基礎的な測地測量事業にも参画し、1851年までドナウ川から北極海に至る子午線弧の測量(シュトルーヴェの測地弧を参照)を実施し、1899年から1901年にかけてはスピッツベルゲンでの三角測量を実施した。 その後も観測設備の増強が行われ、ロシア天文学の中心的な施設となった。ロシア革命、1930年代の大粛清による天文学者の亡命などを経て、第2次大戦によるドイツ軍の空襲によって施設は破壊されたが、1946年から再建が始められ、電波望遠鏡など新しい設備を備えて、1954年に開所された。 小惑星(762)プルコヴァは、プルコヴォ天文台にちなみ命名された。 Category:ロシアの天文台 Category:ロシア科学アカデミー Category:サンクトペテルブルク Category:天文学に関する記事.

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プーシキン (町)

プーシキン(Пу́шкин)はサンクトペテルブルク市の管轄下にある町。市の中心より24km(15マイル)南のところにある。人口は84628人(2002年国勢調査時)、95415人(1989年調査時)。.

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パヴロフスク

パヴロフスクの紋章 パヴロフスク(パブロフスク、Па́вловск、ラテン文字表記の例: Pavlovsk)は、サンクトペテルブルク市の中心の南方30kmほどの位置にある町。ロシア皇帝の離宮のあるツァールスコエ・セローの町の南に位置し、行政的にはサンクトペテルブルク市プーシキン区に属する。以前はレニングラード州プーシキン市の一部であったが、同市は1998年にサンクトペテルブルク市に併合されその一部となった。人口は14,960人(2002年国勢調査)。 パヴロフスクの町は、ロシア皇族の夏の邸宅の一つであるパヴロフスク宮殿の周りに発展した町である。同宮殿はユネスコの世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の一部である。.

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フィンランド湾

フィンランド湾(フィンランドわん、Suomenlahti、Soome laht、Finska viken、p)は、バルト海東部にある湾。北のフィンランド、東のロシア、南のエストニアに囲まれた東西約400kmの細長い湾である。 この湾に面する主要都市は、北岸にフィンランドの首都ヘルシンキ、南岸にエストニアの首都タリン、湾の東奥にロシアのサンクトペテルブルクがある。東のネヴァ川はフィンランド湾に注いでいる。湾の東部はロシア領であり、など重要な港がある。フィンランド湾はサンクトペテルブルクへの航路となっているため、ロシアにとっては戦略上の要地である。.

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ニコラエフスキー宮殿

ニコラエフスキー宮殿(1861年)現在のニコラエフスキー宮殿 ニコラエフスキー宮殿(ロシア語:Николаевский дворец、Nikolayevsky dvorets)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある宮殿。ロシア皇帝ニコライ1世の皇子女のために造営された。設計は宮廷建築家のアンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)Andrei Stackensneider。 ニコライ1世の第3皇子ニコライ・ニコライヴィチ大公が長じて後、その居殿となった。ニコライ大公没後は再び帝室の所有に帰し、1894年クセニア・アレクサンドロヴナ大公女名称女子大学となった。ロシア革命後は、ボリシェヴィキによって「労働宮殿」と改称された。宮殿は労働組合の事務所となったが、この際、内装は著しく破壊された。ソ連崩壊後は労働組合事務所のほか、組合は他の企業などに事業所などの用途で賃貸している。.

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ホテル・アストリア

ホテル・アストリア(アストリア・ホテル、гости́ница Асто́рия、Hotel Astoria)は、ロシア、サンクトペテルブルクにあるホテル。グランド・ホテル・ヨーロッパ、ネフスキー・パレスと並ぶペテルブルクを代表する5つ星ホテルである。創業は1912年。 サンクトペテルブルク市内中心部の聖イサーク広場に面し、聖イサアク大聖堂に隣接している。1911年から1912年にかけて、フョードル・リドヴァリの設計で建設された。全体的な建物の宗匠はアール・デコによる。1階のロビーの天井には、ソ連時代鎌と鎚の装飾が施された。また、サンクトペテルブルク建都300周年に合わせて2002年に全館リニューアルが行われた。現在は、ロッコ・ホテル・グループの傘下にある。 1912年の創業以来、多くの貴人、著名人に愛された。第二次世界大戦のレニングラード攻防戦では、アドルフ・ヒトラーが、レニングラード陥落後の祝勝会をこのホテルで行おうと考えたと言われる。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領も宿泊している。部屋数はその時によって、変動があるが、英語版によると29室のスイート・ルームを含む223室。.

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アレクサンドル・ネフスキー大修道院

アレクサンドル・ネフスキー大修道院(アレクサンドル・ネフスキーだいしゅうどういん、ロシア語:Александро-Невская лавра)は、18世紀にロシア、サンクトペテルブルク市のネフスキー地区の南端に建設された修道院。1724年、ピョートル大帝の命により、ウラジーミルにあったアレクサンドル・ネフスキーの聖骸がこの修道院に移され、聖アレクサンドル・ネフスキーは新首都サンクトペテルブルクの守護聖人となった。1797年、それまでキエフ・ペチェールシク大修道院と至聖三者聖セルギイ大修道院にのみ用いられてきた修道院の称号である「ラヴラ」 Ла́вра、Lavra(大修道院)に昇格した。 修道院の敷地内にある2つのバロック様式の教会は、トレジーニ父子によってそれぞれ1717年 - 1722年、1742年 - 1750年に建てられた。修道院の中心である新古典主義建築の至聖三者聖堂は、イヴァン・スタローフの設計により1778年 - 1790年にかけて建設された。聖骸を納めた棺はこの聖堂に安置されている。その他にも、神学校棟など重要な建造物が多数存在する。 敷地内にはラーザレフ墓地とチーフヴィン墓地があり、古今のロシア各界の偉人達が眠っている。また、18世紀から19世紀にかけての著名な彫刻家による新古典主義彫刻の墓碑の数々でも知られている。.

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アヴローラ (防護巡洋艦)

アヴローラ(ロシア語:Аврораアヴローラ)は、ロシアの防護巡洋艦である。現在は、ロシア革命の象徴のひとつとして記念艦となり、サンクトペテルブルクのネヴァ川の河畔に係留・保存されている。艦名はローマ神話に登場するアウロラのロシア語名に因み、日本語文献ではしばしばアウロラ、オーロラとも書かれる。.

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イリヤ・レーピン

イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(Илья́ Ефи́мович Ре́пин, Ilya Yefimovich Repin, 1844年8月5日〈ユリウス暦7月24日〉 ハリコフ近郊 - 1930年9月29日 フィンランド領)は、移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家。 心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしている。社会的名士の肖像画を制作する一方、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材として、数多くの作品を残した。その作品やテーマの社会性から、1920年代半ば以降のソビエト連邦においては当時の社会主義リアリズムに適合する模範的画家として評価されていたが、ソ連崩壊後の現在は扱ったテーマの多様性を客観的に見据えたうえでの、業績の再認識が求められている。.

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エラーギン宮殿

ラーギン宮殿 エラーギン宮殿(エラーギンスキー宮殿、エラーギノオストロフスキー宮殿、Yelaginskii Dvorets、Yelaginoostrovsky Dvorets)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある宮殿。ペテルブルク市内を流れるネヴァ川の中州エラーギン島にある。1780年代にイワン・エラーギン伯が建設した屋敷が宮殿の起こりでその後、エラーギン伯によって売却され国家の所有となった。1818年から1822年にかけて、皇帝アレクサンドル1世によって母である皇太后マリア・フョードロヴナのために夏の離宮として建設された。エラーギン島の宮殿や施設の設計は、建築家カルロ・ロッシ Carlo Rossiの手になる。宮殿は第二次世界大戦におけるレニングラード攻防戦で大きな被害を受けたが、戦後、復興され現在では宮殿を含むエラーギン島全体がペテルブルク私立文化休暇公園と博物館になっている。.

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エルミタージュ美術館

ルミタージュ美術館(エルミタージュびじゅつかん、Эрмитаж エルミターシ、Hermitage Museum)は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。.

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カザン聖堂

ン聖堂(カザン大聖堂、カザン寺院、Каза́нский кафедра́льный собо́р)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある正教会(ロシア正教会)の大聖堂。 なお、ロシア正教会の大聖堂には、複数の同名の聖堂が存在する。これらの聖堂は、ロシア正教会においてもっとも重要視されるイコンのひとつ、「カザンの生神女」に由来する。カザン聖堂の主要なものとして本項で詳述するサンクトペテルブルクのカザン聖堂とモスクワのカザン聖堂(Kazan Cathedral, Moscow)がよく知られており、他にはイルクーツクのカザン大聖堂(Казанская церковь)などがある。.

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ガッチナ

ッチナの紋章 ガッチナ(ガーッチナ、ガトチナ、ガートチナ、ガチナ、Га́тчина、ラテン文字表記の例: Gatchina; Hatsina)はロシア・レニングラード州の西部にある都市。州都サンクトペテルブルクからは南へ45kmの近郊にあり、サンクトペテルブルクとプスコフを結ぶ道路や鉄道が通る。人口は88,420人(2002年国勢調査。1989年ソ連国勢調査では79,714人)。 ガッチナの町は、ロシア皇族の夏の邸宅の一つであるガッチナ宮殿で知られ、ロシアの歴史の舞台ともなってきた。同宮殿はユネスコの世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」のうちの一つである。.

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クロンシュタット

1888年の地図(湾内の島がクロンシュタット) 海の大聖堂,高さは約70m,1903–1913の建築 クロンシュタット(Кронштадт, Kronstadt)はサンクトペテルブルク中心から北西に約32km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に位置する都市。行政的にはサンクトペテルブルク市クロンシュタット区に属する。人口は44,727人(2001年)。バルチック艦隊の軍港がある。 1921年のクロンシュタットの反乱のほか、聖人クロンシュタットのイオアンで知られる。.

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クンストカメラ

ンストカメラ(Кунсткамера、Kunstkamera、希少なものの陳列所)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある博物館ダニロフ&コスリナ「ロシアの歴史 16世紀末から18世紀まで」(2011)p.416。ロシア史上、最初に創設された博物館とみられる。1714年にロシア帝国の皇帝ピョートル1世(ピョートル大帝)によりつくられ、鉱物や医療用の薬剤、古銭のコレクションが保存され、動物学資料館や地球儀・天体儀が置かれた。現在は、国立の人類学・民族学博物館となっている。なお、「クンストカメラ」という名称は、ドイツ語のKunstkammer(驚異の部屋)が由来である1714年には、ペテルブルクでロシア最初の学術的な図書館が開かれた。。.

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グランド・ホテル・ヨーロッパ

ランド・ホテル・ヨーロッパ(Гранд Отель Европа、Grand Hotel Europe)は、ロシア、サンクトペテルブルクにあるホテル。 ホテル・アストリア、ネフスキー・パレスと並ぶ5つ星ホテル。1991年まで、ホテル・エフロペイスカヤ Hotel Evropeiskayaの名称で知られていた。 創業は、1875年1月28日である。 アールヌーボーの内装・調度は、大理石や金がふんだんに使われた豪奢なもので、19世紀ヨーロッパでもっとも大きなグランドホテルの一つであった。このグランド・ホテル・ヨーロッパには、ヨーロッパ社交界の数多くの名士が集い宿泊した。 主な利用者、宿泊客としては、ツルゲーネフ、チャイコフスキー、ドビュッシー、ハーバート・ジョージ・ウェルズ、ストラヴィンスキー、グスタフ5世 (スウェーデン王)、エルトン・ジョン、ジャック・シラクなどがいる。また、これとは別に、1995年007 ゴールデンアイでホテルが出た。 1989年から1991年にかけて、リフォームされている。.

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コトリン島

トリン島(コートリン島;ロシア語:Котлин;ラテン文字表記:Kotlin)はバルト海、フィンランド湾の奥に位置するロシア連邦の島。サンクトペテルブルクから西に約30km。フィンランド語ではレトゥサーリ(Retusaari)と呼ばれる。 東西の長さ14km、南北の幅は約2kmで長細い形をしており、島の東側にクロンシュタット市がある。西端から約2km沖の岩礁に灯台がある。 この地域は歴史的にフィンランドの地勢であったと思われる。12世紀以降、スウェーデン(北方十字軍)とノヴゴロド公国(ロシア人)の争奪地の一つとなった。13世紀にスウェーデンとノヴゴロドの間で国境線が確定。この島はノヴゴロドのものとなった。その後この島は、ロシア・ツァーリ国(ロシア帝国)に引き継がれたが、1613年にスウェーデンがカレリアと共に領有する。この島が最終的にロシアの領土と確定したのは、大北方戦争の最中の1703年である。以後、海港サンクトペテルブルクを防衛するために、コトリン島は要塞となった。 ブレジネフ時代に、東側の対岸からコトリン島とのあいだに飛び石状に並んでいた小島を結んで防潮堤が築かれ、現在はその上につくられた自動車道路で大陸と結ばれている。また、南側の対岸にはロモノソフ市があり、そのあいだを海底トンネルで結ぶことが計画されている。 バルチック艦隊の主力基地があり、軍事的に重要な島である。サンクトペテルブルクへ接近する海路を二つの海峡に分けており、都市の防衛に大きな役割を果たしてきた。.

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シュリッセリブルク

ュリッセリブルクの紋章 シュリッセリブルク(Шлиссельбу́рг、ラテン文字表記の例: Shlisselburg)はロシア・レニングラード州の西部にある都市。ラドガ湖からネヴァ川が流れ出す地点に位置する。ネヴァ川河口の街サンクトペテルブルクからは35キロメートル東。1944年から1992年まではペトロクレポスチ(Петрокрепость、Petrokrepost)と呼ばれていた。 ラドガ湖とネヴァ川を経由する水上交易路をにらむ要塞(クレムリ)が古くから有名。人口は12,401人(2002年国勢調査。1989年ソ連国勢調査では12,589人)。要塞および歴史的街並みはユネスコの世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に指定されている。.

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ストロガノフ宮殿

トロガノフ宮殿(Строгановский дворец)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある宮殿。建築家バルトロメオ・ラストレッリの設計によるロシア・バロック様式の建築。のために1753年から1756年にかけて建造された。1988年からロシア美術館の分館として使用されている。 住所はサンクトペテルブルク市ネフスキー大通り17番地。.

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タヴリーダ宮殿

タヴリーダ宮殿(タヴリーチェスキー宮殿;ロシア語Таврический дворец;ラテン文字転写の例:Tavrichesky dvorets;英語:Taurida Palace)は、ロシア、サンクトペテルブルクにある宮殿。サンクトペテルブルクにおける、規模の大きく歴史的由緒のある宮殿建築のひとつであり、エカテリーナ2世時代のロシア古典主義建築の傑作である。 タヴリーダ宮殿の名称は、宮殿の所有者であるタヴリーダ(クリミアの古名)公爵グリゴリー・ポチョムキンに由来する。1791年ポチョムキンの死後、タヴリーダ宮殿の名称で呼ばれるようになった。.

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サンクトペテルブルク

'''サンクトペテルブルク周辺の人工衛星写真'''ラドガ湖から南西に流れ出したネヴァ川は北西に流路を変え、フィンランド湾最深部に流れ込む。サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した。 サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург,, IPA: )は、バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置するロシア西部の都市、レニングラード州の州都。1917年までロシア帝国の首都であった。 都市建設ののち、第一次世界大戦まで(1703年 - 1914年)はペテルブルク(Петербург)、第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード(Петроград)、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はレニングラード(Ленинград)と呼ばれた。.

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サンクトペテルブルク美術大学

ンクトペテルブルク美術大学の建物は、1764-89年にフランス人とロシア人の共同デザインによって、ロシア帝国美術アカデミーとして建てられた。 サンクトペテルブルク美術大学(Санкт-Петербургский государственный институт живописи, скульптуры и архитектуры имени И. Е. Репина)はロシアのサンクトペテルブルクにある美術大学で、正式名はイリヤ・レーピン名称サンクトペテルブルク国立絵画・彫刻・建築学院で、文字通り絵画・彫刻・建築学科がある。 1757年に設立されたロシア帝国美術アカデミーが母体になっていて、いまでも「美術アカデミー」とも、レーピン学院(Repin Institute of Arts)とも呼ばれている。.

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冬宮殿

冬宮殿(ふゆきゅうでん、Winter Palace、、ラテン文字表記:Zimniy Dvorets(ズィームニイ・ドヴァリェーツ))は、サンクトペテルブルクにあるかつてのロシア帝国の宮殿である。冬宮(とうきゅう)ともいい、ロシア皇帝の冬季の王宮として1754年~1762年の間に建設された。 建築家はバルトロメオ・ラストレッリで、緑と白の石材を用いたロココ建築は1,786のドアと1,945の窓がある。宮殿の北側はネヴァ川に面し、南側には宮殿広場が広がる。 帝政時代は王宮として機能し、最初に使用したのはエカテリーナ大帝(在位:1762年 - 1796年)。 レフ・トルストイによる小説『戦争と平和』に描かれる1812年ロシア戦役前後のロシア宮廷の舞台の一つである。 ロシア二月革命による帝政廃止後は臨時政府(首相:リヴォフ公、後にケレンスキー)が置かれた。十月革命においてボリシェヴィキが突入し臨時政府のメンバーを逮捕、臨時政府庁舎としての役割を終える。ロシア革命期の宮殿については、ジョン・リードの著書『世界を揺るがした10日間』および同書を原作とした映画「レッズ」に描かれている。 十月革命後、建物はエルミタージュ美術館の本館となった。同宮殿はエカテリーナ宮殿などのその他の建築物とその周辺とともにサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群として世界遺産に登録されている。.

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国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭園(日本庭園) 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2016年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国(22%)、2位は日本(9%)である(米国は拠出金支払いを全額停止しているため、実質的に最大の拠出国は日本であるなおアメリカは2018年12月31日付でのユネスコ脱退を表明している。)。.

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聖イサアク大聖堂

聖イサアク大聖堂 聖イサアク大聖堂(Исаакиевский собор、Saint Isaac's Cathedral)は、ロシア、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂である。ドームの高さは101.5メートル。聖イサーク大聖堂、聖イサーク寺院とも表記される。聖イサアク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアク(聖イサク・ダルマツキー、w:Isaac of Dalmatia)に由来する。.

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血の上の救世主教会

血の上の救世主教会。北側ファサード 血の上の救世主教会。 血の上の救世主教会(血の救世主教会、Храм Спаса на Крови、スパース・ナ・クラヴィー教会)は、ロシア、サンクトペテルブルクにあるロシア正教会の聖堂である。 公式名は、ハリストス復活大聖堂(Собор Воскресения Христова)。このほか、血の上の教会(Church on Spilt Blood)の名称でも知られる。この名称は、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場所は、皇帝遭難の地である。高さは94m。.

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首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)

首座使徒ペトル・パウェル大聖堂(ペトロパヴロフスキー大聖堂)の全景 首座使徒ペトル・パウェル大聖堂(しゅざしとペトル・パウェルだいせいどう、собор во имя первоверховных апостолов Петра и Павла、Peter and Paul Cathedral)はロシア・サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞にあるロシア正教会の聖堂である。通称・略称としてのロシア語名"Петропавловский собор"の前半部分をそのまま転写してペトロパヴロフスキー大聖堂とも呼ばれる。 この大聖堂は首座使徒たる聖使徒ペトル(ペトロの教会スラヴ語読み)と聖使徒パウェル(パウロの教会スラヴ語読み)を記憶するもので、最初の大聖堂は、サンクトペテルブルクの石で造られた。大聖堂の尖塔は、404フィート(約123メートル)あり、天井には十字架を持った天使を描いている。この天使はサンクトペテルブルクを象徴する最も大事なものの一つである。大聖堂内部にはピョートル大帝からニコライ2世までのツァーリと皇后の殆どが埋葬されている。 2006年9月、ニコライ2世の母、マリア・フョードロヴナの遺体がデンマークから返還され、大聖堂に埋葬された。 ペトロパヴロフスク要塞は元々ピョートル大帝の時代に建造され、ドメニコ・トレッツィーニが設計したもので、ネヴァ川沿いのザーヤチイ島に1703年から1733年にかけて建造されたサンクトペテルブルクで最初にして最古の旧所名跡になっている。ピョートル大帝がこの要塞を建造した主な理由は、大北方戦争でスウェーデン海軍の攻撃があった場合の防衛施設とすることにあった。.

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新古典主義

新古典主義(しんこてんしゅぎ、英語:neoclassicism)は、18世紀中頃から19世紀初頭にかけて、西欧で建築・絵画・彫刻など美術分野で支配的となった芸術思潮を指す。それまでの装飾的・官能的なバロック、ロココの流行に対する反発を背景に、より確固とした荘重な様式をもとめて古典古代、とりわけギリシァの芸術が模範とされた。18世紀後期にはこの様式を記述する為に用いられたのは「真の様式」であり、如何なる意味でも、偶有的であるとは看做されていなかったが、その一方で、流入する文化に対する反応や異国情緒の現れのような偏執は、「ロココのあの数々の局面の一つ」であったと評される。 音楽については第一次・第二次大戦間にストラヴィンスキーやフランスの「六人組」が中心になって採用した音楽全体のスタイルを指す。.

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旧海軍省 (サンクトペテルブルク)

旧海軍省(きゅうかいぐんしょう、=アドミラルテイストゥヴァ、英語:Admiralty)は、ロシア・サンクトペテルブルクにある建物で、もとロシア海軍省本部がここにあった。現在の建物はアンドレヤン・ザハーロフが設計して1806~1823年に建設されたものである。建物の頂上の細い塔の頂上に金の風見鶏がある。 この建物は「青銅の騎士」像の隣りに当たり、ネヴァ川に面していて、反対側はアレクサンドロフスキー公園に面している。ここからサンクトペテルブルクの目抜き通りである「ネフスキー大通り」が始まるので、観光名所のひとつでもある。.

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