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サミュエル・ウォリス

索引 サミュエル・ウォリス

ミュエル・ウォリス(Samuel Wallis、1728年4月23日 - 1795年1月21日)は、コーンウォールの航海士。世界一周航海を行った。 コーンウォールのカメルフォード郊外に生まれる。1766年に、フィリップ・カートレット指揮のスワロー号とともに世界周航を行うドルフィン号の指揮官に任命された。ドルフィン号はマゼラン海峡を通過後にスワロー号と別れた後、タヒチ島に向かった。ウォリスは、この島をキング3世島と命名した(1767年6月)。ウォリス自身は体調不良で船室にこもっていたため、副官のトバイアス・フルノーが初めて足を踏み入れ、ペナントを掲揚し、国王の名のもとに島を領有した。その後、ドルフィン号はバタビアに寄港したが、そこで船員の多くが赤痢で死んだ。さらに喜望峰を経由して、1768年5月にイングランドに帰港した。ウォリスはそこで、太平洋に向けてまもなく出発するジェームズ・クックに有益な情報を伝えることができた。ドルフィン号の乗組員のなかにも、クックと航海をともにする者がいた。 1780年に海軍本部のコミッショナー(委員)に任命された。 ポリネシアのウベア島は、ウォリスにちなんでウォリス島と命名された。 File:The Natives of Otaheite Attacking Captain Wallis retouched.jpg|敵対するタヒチ人に立ち向かうドルフィン号 File:Memorial to Samuel Wallis in Truro Cathedral.jpg|トゥルーロ大聖堂にあるウォリスとその部下たちの記念プレート.

19 関係: 太平洋マゼラン海峡バタヴィアポリネシアトバイアス・フルノーフィリップ・カートレット喜望峰イングランドウベア島 (フランス領ウォリス・フツナ)コーンウォールジェームズ・クックタヒチ島赤痢海軍本部 (イギリス)1728年1766年1795年1月21日4月23日

太平洋

太平洋(たいへいよう)は、アジア(あるいはユーラシア)、オーストラリア、南極、南北アメリカの各大陸に囲まれる、世界最大の海洋。大西洋やインド洋とともに、三大洋の1つに数えられる。日本列島も太平洋の周縁部に位置する。面積は約1億5,555万7千平方キロメートルであり、全地表の約3分の1にあたる。英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記されることもある。.

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マゼラン海峡

マゼラン海峡/マガリャネス海峡(マゼランかいきょう、〔エストレーチョ・デ・マガリャネス〕、〔エストレイト・デ・マガリャンイス〕)は、南アメリカ大陸南端とフエゴ島とを隔てる海峡である。太平洋と大西洋を結ぶ。.

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バタヴィア

バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。.

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ポリネシア

右 右 ポリネシア(Polynesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つである。太平洋で、概ねミッドウェー諸島(北西ハワイ諸島内)、アオテアロア(ニュージーランドのマオリ語名)、ラパ・ヌイ(イースター島)を結んだ三角形(ポリネシアン・トライアングル)の中にある諸島の総称で、2017年の人口は約700万人。.

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トバイアス・フルノー

フルノー トバイアス・フルノー(Tobias Furneaux、1735年8月21日 – 1781年9月19日)は、イギリスの航海者、イギリス海軍将校。イングランド南西部プリマス近郊w:Swillyの生まれ。ジェームズ・クックの第2次航海に参加。世界一周航海を最初に両周り(東周り・西周り)で行った。.

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フィリップ・カートレット

トリニティ卿フィリップ・カートレット(Philipp Carteretまたは Philip Carteret、Philip de Carteret, Seigneur of Trinity 、1733年1月22日 - 1796年7月21日)はイギリス海軍将校、探検家である。世界周航航海を指揮した。.

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喜望峰

喜望峰 喜望峰とアガラス岬の位置 喜望峰に生息するダチョウ 喜望峰(きぼうほう、、、、)は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンにある岬。.

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イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

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ウベア島 (フランス領ウォリス・フツナ)

ウベア島(Uvea、英語ではウォリスWallis島)は、フランス領ウォリス・フツナの島。ウォリス・フツナで最も大きく人口も多いため、島の都マタウトゥには同海外領の首都が置かれている。 ウベア島は面積77.5km、周囲50km。島の最高点は131mのロカ山である。島内にはいくつかの湖があるが、これは火山起源のものであり、ラロラロ湖のようにほぼ完全な円形と垂直な崖を持っている。ウベア島はウォリス・フツナのもう一方であるフトゥナ島及びアロフィ島から北東に240km離れている。ウベア島の周りには環礁が広がっており、15の小島が浮かんでいて、ウベア諸島を形成している。 考古学的な調査によれば、ウベア島には1400年ごろには人類が住んでいた。13世紀から16世紀ごろまではトンガ大首長国の一部だったが、やがてツイ・トンガの影響力は弱まり、ウベア独自の王朝が成立した。ウベア島は1767年8月16日にコーンウォール人の探検家サミュエル・ウォリスによって「発見」され、この島はウォリス島と名づけられた。 1842年4月5日、ウォリス政府はフランスの保護を要請し、1887年4月にフランスはこの地を保護領とした。1959年の国民投票により、1961年にウベア島はフランスの海外領となった。 ウベア島の人口は10,071人(2003年)で、住民のほとんどはウベア語を話す。住民のほとんどはローマ・カトリックを信仰する。主都は東海岸のマタウトゥ。ウベア島は西のヒヒフォ、東のハハケ、南のムッアの3地区に分かれている。 ウベア島北部のヒヒフォ空港へはエア・カレドニア・インターナショナルが定期便を運行しており、マタウトゥにオフィスがある。.

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コーンウォール

ーンウォール(Cornwall; Kernow ケルノウ)は、イングランド南西端の典礼カウンティかつ単一自治体である。連合王国の最も南および西に位置し、コーンウォール州とも呼ばれる。形容詞は英語で"Cornish"(「コーニッシュ」)である。州都はボドミン。独自の文化や言語、帰属意識を持った地域であり、イングランドの他の地域とは趣を異にしている。コーンウォール語で「Kernow」 あるいは「Curnow」と綴られる。6つのケルト地域のうちの1つである。名目上は、連合王国の国王の長男が世襲の爵位であるコーンウォール公として領有する。.

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ジェームズ・クック

ェームズ・クック(、 1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者。通称キャプテン・クック (Captain Cook)。 一介の水兵から、英国海軍の (Post Captain) に昇りつめたネルソンの時代(1800年前後)の英国海軍には、水兵から士官(海尉と航海長を指すと思われる)に這い上がった男が120人存在し、そのうちの22人が勅任艦長となり、22人のうちの3人が提督、最終的には海軍大将まで上り詰めた(「風雲の出帆 - 海の覇者トマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫、2002年、508頁、訳者の大森洋子によるあとがき)。1814年、ナポレオン戦争が終わろうとしていた年、最大規模にあった英国海軍は、戦列艦99隻、フリゲイト以下505隻を現役で運用し、乗組みの下士官兵は20万人を超えていたと思われる。指揮する士官は、将官が220名、勅任艦長が860名、海尉艦長が870名、海尉級の士官が4,200名を超えていた(「セーヌ湾の反乱 - 海の男ホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫、2008年15刷、410頁、訳者の高橋泰邦によるあとがき)。。 太平洋に3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し(第2回航海)、ニューファンドランド島とニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた(第1回航海)。 10代を石炭運搬の商船船員として過ごした後、1755年に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わった。船員としての能力を認められたクックは1757年に士官待遇のに昇進し当時の英国海軍では、現在の海軍に通じる、『艦長(勅任艦長 Post Captain、海尉艦長 Commander、軍艦を指揮する海尉 Commanding Lieutenant)→ 海尉 Lieutenant → 士官候補生 Midshipmen → 下士官兵』の指揮系列と、『航海長 Master → 航海士 Master's Mate → 下士官兵』の指揮系列が併存していた。航海長は、複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職であった。航海長は、正規の指揮権を有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であった。現代の海軍とは異なり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかった。 、英国軍艦Solebay号の航海長として、セントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。クックの作成した海図はウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦(1759年)の成功を導き、クックの存在は英国海軍本部と英国王立協会に注目されることとなった。クックは南方大陸探索の命を受けて、英国軍艦エンデバー号を指揮し、1766年に第1回航海に出帆した。 クックは多数の地域を正確に測量し、いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、すぐれた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、これらのすべてであったと言えよう。また壊血病の予防に尽力し表彰されている。 第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。 かつてニュージーランドで発行されていた10シリング(1940年 - 1955年)、5ポンド・10ポンド紙幣(1956年 - 1967年)に肖像が使用されていた。.

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タヒチ島

タヒチ島(タヒチとう、Tahiti)は、南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島にある島。首都はパペーテ。面積1,048 km、人口約17万人(2002年推計)。南太平洋有数のリゾート地として知られる。冒険家ヘイエルダールの逸話や、画家ゴーギャンが晩年移り住んだ島としても有名。かつてオタハイト島(Otaheite)とも呼ばれた。標準時UTC-10。.

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赤痢

赤痢(せきり)は、下痢・発熱・血便・腹痛などをともなう大腸感染症である。 俳句では夏の季語として扱われる。古称は血屎(ちくそ)。従来、赤痢と呼ばれていたものは、現代では細菌性赤痢とアメーバ性赤痢に分けられ、一般的に赤痢と呼ばれているものは赤痢菌による細菌性赤痢のことを指す。.

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海軍本部 (イギリス)

Admiralty は、イギリス海軍を統括・管理する機関の一般的な呼称であり、日本語では海軍本部(かいぐんほんぶ)と訳されることが多い。その正式名称や組織及び機能は時代により大きく異なる。.

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1728年

記載なし。

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1766年

記載なし。

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1795年

記載なし。

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1月21日

1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.

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4月23日

4月23日(しがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から113日目(閏年では114日目)にあたり、年末まではあと252日ある。誕生花はハナミズキ、ボタン。.

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