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コンスタンティノープル大宮殿

索引 コンスタンティノープル大宮殿

大宮殿にあった床のモザイク。日常生活や神話が描かれているが、それがあったホールの建設時期や用途については定説がない。 イスタンブール考古学博物館の中庭にある大宮殿の柱の1つ コンスタンティノープル大宮殿(コンスタンティノープルだいきゅうでん、Μέγα Παλάτιον、)は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあった巨大宮殿複合体で、半島南西端のイスタンブール旧市街地にあたる場所にあった。聖なる宮殿(、Ιερόν Παλάτιον)とも。330年から1081年まで東ローマ帝国歴代皇帝の居所とされ、800年以上に渡って帝国統治の中心地だった。ごく一部の遺構や基礎部分しか現存していない。.

33 関係: 古代ローマ古代ローマの公衆浴場古代末期宮殿ペルシア人ミカエル8世パレオロゴスマイルストーンバシレイオス1世ポロメフメト2世モンフェッラート侯国ユスティヌス2世ユスティニアヌス1世ラテン帝国ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)トプカプ宮殿パレオロゴス王朝テオフィロスフェルドウスィーアヤソフィアイスタンブールイスタンブール歴史地域オスマン帝国コムネノス王朝コンスタンティノープルコンスタンティノープル大学コンスタンティノープル競馬場コンスタンティヌス1世スルタンアフメト・モスク第4回十字軍東ローマ帝国東ローマ帝国の皇帝一覧

古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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古代ローマの公衆浴場

バース(イングランド)の古代ローマの公衆浴場。周囲の柱の土台部分より上層の建物は後世の再現である。 ドイツのヴァイセンブルクにあった古代ローマの公衆浴場を測域センサ技術を使って再現した図(CG) 古代ローマの公衆浴場(こだいローマのこうしゅうよくじょう)では、古代ローマの公衆浴場について記述する。 バルネア (balnea)またはテルマエ (thermae)とは、古代ローマの公衆浴場である。 古代ローマの多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場があり、社会生活の中心の1つになっていた。古代ローマ人にとって入浴は非常に重要だった。彼らは1日のうち数時間をそこで過ごし、時には一日中いることもあった。裕福なローマ人が1人か複数人の奴隷を伴ってやってきた。料金を支払った後、裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履いた。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどした。入浴前には運動をする。例えば、ランニング、軽いウェイトリフティング、レスリング、水泳などである。運動後、奴隷が主人の身体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れと共にオイルを落とした。 ヴィッラやドムスや砦にも私的な浴室があり、それらも「テルマエ」と呼ばれた。これらは付近を流れる川や用水路から水を供給していた。浴室の設計については、ウィトルウィウスが『建築について』で論じている。.

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古代末期

古代末期(こだいまっき、Late Antiquity, Spätantike, Antiquité tardive)は、ヨーロッパ史における時代区分で、古典古代から中世(中世初期)への変遷の説明に用いられる。 範囲は諸説あるが、最も広く見て、概ね西暦200年から800年までの間、すなわち3世紀から8世紀にかけての時期であるBrown, Bowersock, Graber, Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World (Harvard University Press Reference Library) 1999年南雲泰輔「英米学界における「古代末期」研究の展開」西洋古代史.

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宮殿

イタリア共和国カンパニア州 宮殿(きゅうでん)は、王族、皇族などの君主およびその一族が居住する、もしくは居住していた御殿。君主が政務や外国使節の謁見、国家的な儀式などを行う朝廷部分と、君主が私的な生活を行う宮廷(きゅうてい)部分に分かれる。中世ヨーロッパにおいては戦士階級と世俗君主階級が一体化していたため、城壁に囲まれた城砦の中に国王や領主が居住し、君主が住み政治的機能を有する城砦を宮殿と同時に呼ぶことが一般的であった。しかし、時代の変遷とともに城砦形式の有効性が低下したことなどから、防衛機能より見た目の豪華さ、壮大さや居住性を重視して、都市の中に建設されるようになった。ヨーロッパ大陸諸国では都市の中に建てられた貴族の壮麗な邸宅を指すことがある。ヨーロッパ諸語における「Palace(英)」、「Palast(独)」「 Palais(仏)」、「Palazzo(伊)」という表現は、古代ローマのローマの七丘の一つである「Palatinus Mons(パラティーノ)」に由来する。この丘にローマ貴族の多くが邸宅を建て、初代皇帝も居住したからである。 日本においては戦士階級(武士)に対して、天皇の形式上の地位が保たれていたことから、天皇の住居のみが宮殿と呼ばれ、武士の住居および軍事的基地である城砦とは明確に区別される。日本語の「御所」は「宮殿」と共に英語のPalaceに意味が近い。イタリア語のPalazzoは宮殿というより単に大邸宅を指す語となっている。.

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ペルシア人

古代ペルシヤの貴族と兵士の服装 ペルシア人(ペルシアじん、、)は、中東のイランを中心に住み、ペルシア語を話す人々。イラン系民族の一。.

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ミカエル8世パレオロゴス

ミカエル8世パレオロゴス(Μιχαήλ Η' Παλαιολόγος, ローマ字転写:Michaēl VIII Palaiologos, 1225年 - 1282年12月11日)は、東ローマ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝の初代皇帝(在位:1261年 - 1282年)。後に「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれる程の策略家で、ラテン帝国に奪われていたコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興した。彼の開いたパレオロゴス王朝は1453年にオスマン帝国によって帝国が滅亡するまで約200年間続いた。ミカエル8世パライオロゴスと表記される場合もある。中世ギリシア語表記ではミハイル8世パレオロゴス。.

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マイルストーン

Boston Post Road マイルストーン(Milestone)は、鉄道や道路等の起点よりの距離をマイルで表した距離標識。マイルマーカー(Milemarker)、マイルポスト(Milepost)ともいう。 ローマ帝国が前120年頃の道路関連法「センプローニウス法」に基き、主要な街道に1ローマ・マイル(1000歩)ごとに設置したのが始まりとされ、アッピア街道にはそれが現在でも残っている。 アメリカ合衆国においてはマイルを標準的に使用していることから、キロポストと同様に置かれるが、ヨーロッパにおいては、キロメートルを標準とする国々が多いことからキロポストの事をそう呼ぶ場合が多い。 また、あるプロジェクトや世界的なイベントなどが完成・成功した場合に比喩的に言葉として使用する場合がある。また、モニュメントとして残す場合もある。 日本には同様のものとして一里塚があり、旧街道で一里(約4km)ごとに見ることができる。.

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バシレイオス1世

バシレイオス1世(ギリシア語:Βασίλειος Αʹ, Basileios I, 811年頃 - 886年8月29日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の初代皇帝(在位:867年 - 886年)。アルメニア系農民の子から皇帝にまで上り詰めた。彼に始まるマケドニア王朝は10世紀から11世紀初頭にかけて、東ローマ帝国の最盛期をもたらした。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」。 テマ・マケドニア(アドリアノープル(現エディルネ)近傍)に住んでいたアルメニア系農民の子として生れた。彼の両親は(もしかしたら彼自身も)一時第一次ブルガリア帝国のハン・オムルタグによって、ドナウ川の北岸に拉致されていた経験を持つ。彼の孫のコンスタンティノス7世は、バシレイオス1世の父は古代アルメニアのアルサケス朝(パルティア王家の分家)の子孫、母はコンスタンティヌス1世の末裔という噂がある、と書き残しており、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』もそれを元にして書かれているが、これは皇帝となった後で作られた伝説に過ぎない。彼の両親は繁忙期にはいわゆる季節労働を利用していたことが史書からうかがえるので、(よく言われるような)彼が貧農だったというのは誇張がある。 バシレイオスははじめテマ・マケドニアの長官であったツァンツェスに仕えるが、後にコンスタンティノポリスに上った。最初はアモリア王朝3代目の皇帝ミカエル3世の一族で城壁防衛長官だったテオフィリッツェスに仕えるが、やがてミカエル3世の目に留まり、皇帝の警護役へと取り立てられた。865年には皇帝の寝室管理長官となり、ミカエル3世の愛人だったエウドキア・インゲリナと結婚した。当時既にバシレイオスにはマリアという妻がいたが、マリアは離縁されて故郷のテマ・マケドニアに送り返された。 バシレイオスの急速な出世は、皇帝の叔父で帝国の実力者であったカイサル(副帝)のバルダスとの衝突を引き起こした。そのためバシレイオスは866年4月に計略をめぐらしてバルダスを暗殺し、翌月にはミカエル3世によって共同皇帝の地位を与えられたが軍隊・市民・官僚の人気は得られなかった。その後バシレイオスはミカエル3世とも衝突し、最終的にはバシレイオスは867年9月23日の深夜にコンスタンティノポリス郊外の聖ママス離宮で酔って寝ていたミカエル3世を暗殺し、翌朝宮殿をも占拠して単独皇帝となった。 単独皇帝になったバシレイオスはコンスタンティノポリス総主教で当時ローマ教皇と激しく対立していたフォティオスを解任して、ローマ教会との関係改善を図った()。しかしブルガリアの改宗問題などで次第に齟齬を来すようになっていったことや、国内の聖職者の不満を抑えることができなかったため、フォティオスを872年頃に赦免し、877年には総主教に再任させた。ブルガリアは結局コンスタンティノポリス総主教の管轄下に入ることになる。 バシレイオスは軍事的にも様々な功績を残している。まずミカエル3世時代から小アジア半島で大きな勢力を誇っていたパウロ派に対しては何度も遠征軍を送った。当初は苦戦するものの、879年までには彼らの勢力を撃滅することに成功している。また正確な時期は不明なものの、当時イスラーム勢力との共有地になっていたキプロス島を7年間支配下に収めることに成功した。バシレイオス1世はダルマチア地方に対して宗主権を認めさせることにも成功している。 一方シチリア島ではアグラブ朝の攻勢を押しとどめることができず、878年に帝国最大の拠点であったシラクサを失った。反面イタリア半島においては中フランク王国のルートヴィヒ2世(ルイ2世)と連絡をとりつつイスラーム勢力の駆逐を進めた。885年には名将ニケフォロス・フォカス(後の東ローマ帝国皇帝ニケフォロス2世フォカスの祖父)をイタリアに派遣し、南イタリア(マグナ・グラエキア)の再征服を行った。以降11世紀まで、南イタリアは帝国領にとどまった。海上ではニケタス・オオリュファス率いる艦隊がコリント湾(コリンティアコス湾)でイスラーム艦隊に勝利を収めるなどの戦果はあったものの、クレタ島やシチリア島、北アフリカなどを拠点とするイスラーム艦隊の活動を完全に封じ込めることはできなかった。 バシレイオス1世はコンスタンティノポリスなどで数多くの建築物を造営・修復したことでも知られている。特にカイヌルギオン宮殿とネア・エクレシア(「新教会」の意味)は有名である。またフォティオスらに命じて『プロケイロン(法律便覧)』『エイサゴゲ(法律序説)』(一般には『エパナゴゲ』という名称で知られる)と呼ばれる法律書を編纂させ、ユスティニアヌス1世の『ローマ法大全』を改訂しようと試みた。これは彼の在位中には完成されなかったが、息子のレオーン6世の代に『バシリカ法典』として完成している。 彼は当初マリアとの間に生まれた長男のコンスタンティノスを後継者に考えていた。しかし彼が879年に夭折したため、次男でエウドキア・インゲリナとの間に生まれたレオーンが後継者となった。だがバシレイオス1世とレオーンの関係は882年頃にエウドキア・インゲリナが没したあと急速に悪化した。そして883年にはフォティオスの側近だったテオドロス・サンタバレノスがレオーンを陰謀の疑いで告発したため、レオーンを宮殿内の一室に幽閉した。レオーンは3年あまり後継者の地位を剥奪されていたが、886年7月に赦免され、後継者の地位に戻っている。しかしその直後、バシレイオス1世は狩猟中に負傷し、9日後の8月29日に死亡した。ただし死の状況には不審な点があるため、暗殺説もある。 Category:東ローマ皇帝 Category:マケドニア家 Category:886年没.

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ポロ

ポロ アルゼンチンポロ選手権 唐明皇撃鞠圖 ポロをする女性 唐朝・8世紀初期 ポロ(、 ポウロウ)は、世界で最も古い歴史をもつ競技の一つである。紀元前6世紀のペルシャ(現在のイラン)を起源とし、騎馬隊の軍事訓練としてインド、中国、日本へ伝播した。特に中国の唐の時代以降は、皇室で楽しまれ、当時の様子が壁画や唐三彩の美術品からうかがい知ることができる。日本にも神事としての打毬の伝統が一部で残っている。 近代ポロのルールは、19世紀になって英国人によって制定された。植民地インドでポロを「発見」した英国兵士たちが、ロンドンにこの競技を持ち帰ったことをきっかけに、ヨーロッパ各国に広まった。 その後、英国から南米に伝わり、現在ではアルゼンチンがレベル的にも規模的にも世界No.1のポロ大国である。 2015年現在、アルゼンチンにはポロのプレーヤー数6,000人存在し、ポロクラブが270つあるとされる。 それに続き、アメリカはプレーヤー数2,800人、クラブ数は250。イングランドはプレーヤー数2,760人、クラブ数は70。 日本にはプレーヤーは2、3人しかおらず、クラブはひとつもない。ただし、2016年4月にポロ競技の公式団体として一般社団法人「日本ポロ協会」が設立され、東京近郊と北海道でポロ競技を定着される試みが始まっている。 1936年のベルリン大会まで、ポロはオリンピック競技であった。.

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メフメト2世

メフメト2世(トルコ語: II.

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モンフェッラート侯国

モンフェッラート侯国(Marchesato del Montferrato)は、イタリア・ポー川沿いのピエモンテ南部とトリノ東部にあった侯国、あるいは侯爵領。1574年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によりモンフェッラート公国に昇格した。.

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ユスティヌス2世

ユスティヌス2世(Justinus II, 520年 - 578年10月5日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス朝の第3代皇帝(在位:565年 - 578年)。.

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ユスティニアヌス1世

ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.

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ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

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ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)

ボードゥアン2世・ド・クルトネー(Baudouin II de Courtenay, 1217年 - 1273年)は、ラテン帝国最後の皇帝(在位:1228年 - 1261年)、ナミュール侯。初代皇帝ボードゥアン1世の妹ヨランドと皇帝ピエール・ド・クルトネーの子。父方の祖父ピエール1世はフランス王ルイ6世の末子である。.

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ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)

モンフェッラート侯ボニファーチョ1世(Bonifacio I del Monferrato、1150年頃 - 1207年)は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープル攻略後、テッサロニキ王国を創設した。 ボニファーチョは、モンフェッラート侯グリエルモ5世とジュディッタ・ダウストリア(オーストリア辺境伯レオポルト3世の娘)の3男として生まれ、兄にグリエルモ(ロングエペー)、モンフェッラート侯コッラード(コンラート1世)がいる。彼の父と兄2人は十字軍で活躍しており、兄グリエルモはエルサレム王女シビーユと結婚してボードゥアン5世の父となり、コンラートは第3回十字軍時にティルスの防衛に活躍し、シビーユの妹イザベルと結婚してエルサレム王になっている。 ボニファーチョも若いころから数々の冒険譚があり、彼のトゥルバドゥールによって戯曲化されている。フリードリヒ1世やハインリヒ6世に従い、ホーエンシュタウフェン朝のイタリア攻略に参加した。1193年に兄の跡を継いでモンフェッラート侯となり、1194年からシチリア遠征に参加する。 モンフェッラート家はヨーロッパ中の有力な家系と縁組をしており、フランス王フィリップ2世や神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世、フィリップ兄弟は従兄弟にあたる。当時、ピエモンテはオック語圏であり、その宮廷は宮廷詩人や騎士道物語等、文化の中心として栄えた。 1201年に第4回十字軍の指導者シャンパーニュ伯ティボー3世が亡くなった後、彼自身の軍歴とヨーロッパ王家との縁戚やエルサレム王国や東ローマ帝国等オリエントの事情に詳しいこと等から、新しい指導者に選ばれた。 同年のクリスマスに従兄弟のローマ王フィリップの元を訪れ、フィリップの義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスと会っており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。 第4回十字軍はヴェネツィア共和国の思惑もあり、ハンガリー王国ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は第4回十字軍参照。 1204年のコンスタンティノープル攻略後、イサキオス2世の未亡人となったハンガリー王ベーラ3世の娘マルギトと結婚し、ラテン帝国皇帝の最有力候補と見なされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向によりフランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同年ギリシアでテッサロニキ王国を建国した。しかし1207年9月にブルガリア帝国のカロヤンに急襲され、戦死。モンフェッラート侯国を先妻の子であり長男であるグリエルモが、テッサロニキ王国はマルギトの子であり次男であるデメトリオが継いだ。 Category:テッサロニキ国王 Category:モンフェッラート侯 Category:アレラーミチ家 Category:生年不明 Category:1207年没.

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トプカプ宮殿

トプカプ宮殿(土:Topkapı Sarayı、「大砲の門宮殿」の意)は、15世紀中頃から19世紀中頃までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘に位置する。 発音は「トプカプ」()が正しいが、日本語ではしばしば「トプカピ宮殿」と表記されることがある。 トプカプ宮殿と呼ばれるようになったのは19世紀の皇帝が去った後からで、それ以前はに元々あった宮殿(旧宮殿)に対する「新宮殿」ということで、新宮殿を意味する「イェニ・サライ」、帝国新宮殿を意味する「サライ・ジェディード」(オスマン語: سراى جديد عامره)と呼ばれた。また、イスタンブールに営まれた多くの宮殿のうちの正宮殿として「帝王の宮殿」(サライ・ヒュマーユーン)とも呼ばれた。 宮殿はよく保存修復され、現在は博物館として公開されているが、15世紀に建設されて以来増改築を繰り返しており、現在見られる姿を保ちつづけているわけではない。.

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パレオロゴス王朝

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。.

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テオフィロス

テオフィロス(ギリシア語:Θεόφιλος (Theophilos), 813年? - 842年1月20日)は、東ローマ帝国アモリア王朝の第2代皇帝(在位:829年 - 842年)。同王朝初代皇帝ミカエル2世の子。中世ギリシア語読みは「セオフィロス」。「テオフィロス(テオピロス)」はギリシア語で「神に愛されし者」の意で、ラテン語では "Theophilus" (意訳:Amadeus)となる(モーツァルトの項も参照)。.

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フェルドウスィー

フェルドウスィー(ペルシャ語: فردوسی, Ferdowsī/Firdawsī、 حکیم ابوالقاسم منصور ابن حسن فردوسى طوسى Hakīm Abū al-Qāsim Manṣūr ibn Ḥasan Firdawsī Ṭūsī 、934年 - 1025年)は、サーマーン朝およびガズナ朝時代に活躍したペルシャ詩人である。イランのホラーサーン中部トゥースの地主階層(デフカーン)の出身で、12世紀初期の『』(Chahar Maghaleh)の作者ニザーミー・アルーズィーによれば、トゥース近郊のタバラーン地区のバージュという大村で生まれたという。土地からの収益だけで不自由なく暮らせるほど大変に裕福であったと伝えられる。正則アラビア語および古典的な近世ペルシャ語風に読んで「フィルダウスィー」(Firdawsī)と呼ばれることもある。 ペルシャ歴代の王や英雄を詠った叙事詩『シャー・ナーメ』(王の書)がその代表作で、30年以上の歳月を費やし約6万対句(バイト)の大作としてヒジュラ暦400年(西暦1009年、1010年)に完成した。アラブ帝国に征服されたペルシャ民族の精神を高揚させるために作ったという。ガズナ朝の君主スルターン・マフムードに献呈したが、その努力を評価されず失意のうちに郷里で没した。タバラーン市街のフェルドウスィー所有の庭園に埋葬されたという。 ちなみに、「フェルドウス」(Ferdows)とは古代ペルシャ語に起源する「パラダイス」の中世ペルシャ語および近世ペルシャ語形で、パラダイス同様「楽園・天国」の意味である。 Category:ペルシア語の詩人 Category:イスラム史の人物 Category:マシュハド出身の人物 Category:サーマーン朝の詩人 Category:ガズナ朝 Category:934年生 Category:1025年没.

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アヤソフィア

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったMüller-Wiener (1977), p. 112.が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり"." ArchNet.、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(Ayasofya Müzesi)として使われている。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。.

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イスタンブール

イスタンブール(İstanbul 、Istanbul 、Constantinopolis コーンスタンティーノポリス、Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολι コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。トルコ語の発音に準じて「イスタンブル」と表記される場合もある。.

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イスタンブール歴史地域

イスタンブール歴史地域は、トルコ最大の都市イスタンブールの旧市街にある歴史的建造物群に設定されたユネスコの世界遺産リスト登録物件(文化遺産)。日本では「イスタンブール(の)歴史地区」などとも表記される。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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コムネノス王朝

ムネノス王朝(Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。ユスティニアヌス王朝、マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の繁栄の時代を担った王朝。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンティノープル大学

タンティノープル大学(University of Constantinople、別名Pandidakterion (Πανδιδακτήριον)、 University of the palace hall of Magnaura (Πανδιδακτήριον της Μαγναύρας)、 は、テオドシウス2世が西暦425年にローマ・ビザンツ帝国に開設し、15世紀まで運営されていた教育機関・大学。  同時代には、アンティオキア、アレクサンドリアでも類似教育機関が存在した.

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コンスタンティノープル競馬場

在の様子。手前に Walled Obelisk、右奥にトトメス3世のオベリスク(テオドシウス1世のオベリスク)がある。 地図 ヒッポドロームにいるスルタンの前のギルドの行列。トルコの細密画 ''Surname-i Vehbi'' (1582) テオドシウス1世のオベリスク(本来はトトメス3世のオベリスク) トトメス3世のオベリスクの台座。テオドシウス1世が競馬場の観覧席から勝者に月桂冠を授けているところ 蛇の柱 コンスタンティノス7世のオベリスク (Walled Obelisk) コンスタンティノープル競馬場(コンスタンティノープルけいばじょう、Ιππόδρομος της Κωνσταντινούπολης Hippodrome of Constantinople)は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあったキルクス(競馬や戦車競走を行う施設)である。現在はスルタンアフメト・メイダヌ(スルタンアフメト広場、)またはアト・メイダヌ(馬の広場、)と呼ばれる広場になっており、トルコのイスタンブールにある。単にヒッポドロームとも呼ぶ。本来の構造で現存している部分はごくわずかである。 「ヒッポドローム (hippodrome)」とは古代の競馬場を意味し、ギリシア語の「ウマ」を意味する hippos ('ιππος) と「道」を意味する dromos (δρομος) を組み合わせた語である。ここで、競馬や戦車競走が娯楽として開催されていた。.

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コンスタンティヌス1世

アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大) ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:、272年2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。 ミラノ勅令を発布したことでキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。 1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。.

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スルタンアフメト・モスク

ルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)は、トルコのイスタンブールを代表するモスクで、世界遺産であるイスタンブール歴史地域の歴史的建造物群のひとつ。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造された。設計はメフメト・アー。『世界で最も美しいモスク』と評される。 世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚のイズニク製の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られ、白地に青の色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれる。 夏には音と光のショーも催され、幻想的にライトアップされた夜の姿も楽しむことができる。.

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第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東ローマ帝国の皇帝一覧

東ローマ帝国皇帝の一覧.

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