ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

コンスタンティヌス3世

索引 コンスタンティヌス3世

フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス(Flavius Claudius Constantinus, 生年不詳 - 411年9月18日以前)は、西ローマ帝国の将軍・簒奪皇帝(407年僭称)・共同皇帝(在位:409年 - 411年)。 407年に駐在地のブリタンニアで西ローマの共同皇帝コンスタンティヌス3世を僭称し、409年にホノリウス帝から承認されるも、411年に敗北して処刑された。 コンスタンスとユリアヌスという息子がおり、前者はコンスタンス2世として409年 - 411年、父と共同皇帝になっている。 12世紀の偽史『ブリタニア列王史』でアーサー王伝説に組み込まれ、ブリテン王コンスタンティン2世として登場。コンスタンス、ヴォーティガーン、オーレリアン・アンブロジアス(アンブロシウス・アウレリアヌス)、ユーサー・ペンドラゴンの父とされており、ユーサーを通じてアーサー王の祖父になる。.

13 関係: ユーサー・ペンドラゴンヴォーティガンブリタンニアブリタニア列王史ホノリウスアンブロシウス・アウレリアヌスアーサー王アーサー王物語西ローマ帝国407年409年411年9月18日

ユーサー・ペンドラゴン

ユーサー・ペンドラゴン(Uther Pendragon、ウーサー、ウーゼルなどとも表記される)はブリタニアの王の一人でアーサー王の父ともされる伝説的な人物。ブリタニアの王コンスタンスの末弟。1100年以前に成立した『門番は何者か(Pa Gur yv y Porthaur)』に名前が出るため、ジェフリー・オブ・モンマスによる創作以前からアーサー王伝説において役割を果たしていたと考えられているが詳細は不明である。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とユーサー・ペンドラゴン · 続きを見る »

ヴォーティガン

ヴォーティガン(英: Vortigern)とは、5世紀、七王国時代のブリタンニア(現在のグレートブリテン島)に存在したと伝えられるブリトン人諸侯。ヴォーティガーンとも記載され、英語では Vortiger ないし Vortigen とも記載される。当時ブリトン人が支配していたイングランドと対峙するスコット人、ピクト人に抗するためにヨーロッパ大陸から傭兵としてサクソン人をケントの地に招き入れた人物として知られる。しかし彼の行動はサクソン人のイングランドへの移住、侵攻、先住者ブリトン人との抗争を招き、争いに敗れたブリトン人はウェールズの地に敗走する事となった。 彼の名は6世紀の修道士ギルダスの『ブリトン人の没落』の23章に Gurthrigern という名で、サクソン人をイングランドに招き入れた傲慢で見識のない王として書かれている。そして8世紀にはノーサンブリアの歴史家ベーダ・ヴェネラビリスが著書『イングランド教会史』に残しており、9世紀のウェールズに生きた修道士ネンニウスの『ブリトン人の歴史』にその存在が記されている。また七王国時代における重要な資料である『アングロサクソン年代記』の449年の項目にも言及され、七王国時代が終わった時代にも12世紀の歴史家モンマスのジェフリーが残した『ブリタニア列王史』にその名は残されている。 彼の存在は文学的にも注目され、前述の「ブリタニア列王史」にその名が見られた事からアーサー王伝説の登場人物の一人として取り上げられる事となり、さらに後年になってシェイクスピア外典の題材としても取り扱われている。サクソン人の侵攻を誘発した人物として古くから名が記されている事から歴史の流れにおいて彼の役割をした人物は存在すると考えられているが、史的人物としてのヴォーティガンの実在性は、はっきりとしていない。 Category:七王国時代の人物 Category:アーサー王伝説の人物 Category:ケルト.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とヴォーティガン · 続きを見る »

ブリタンニア

茶色がブリタニアの領域 ブリタンニア(Britannia)は、古代ローマが現在のイギリス南部に設置した属州の一つ。また属州の置かれた島(現在のグレートブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。住民は主にケルト系ブリトン人で、属州化以降ローマ人やガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来した。ローマの支配は40年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。五賢帝の一人ハドリアヌスが北部からの蛮族の侵攻を食い止めるために築いたハドリアヌスの長城が有名である。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とブリタンニア · 続きを見る »

ブリタニア列王史

『ブリタニア列王史』(ブリタニアれつおうし、ブリタニア列王伝、Historia Regum Britanniae)は、1136年頃にジェフリー・オブ・モンマスがラテン語で書いたブリテン(グレートブリテン島)に関する偽史書。ホメーロスの『イーリアス』に登場するトロイア人たちの子孫がブリテン国家を建設するところから、7世紀のアングロ・サクソン人によるブリテン支配までの、2000年間のブリトン人王たちの生涯を年代順に物語っている。「アーサー王物語」など「ブリテンの話材」の核となっている。 歴史書としての独立した価値はない。ガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍によるブリタンニア侵攻などを描いた部分は、その時代の歴史で補強することも可能だが、ジェフリーの記録は甚だ不正確である。しかし、中世文学としての価値はある。レイア(リア王)と3人の娘たちの話のわかっている限りで最古のヴァージョンがこれに含まれ、また、非ウェールズ語圏にアーサー王伝説を紹介した。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とブリタニア列王史 · 続きを見る »

ホノリウス

フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウス(Flavius Augustus Honorius, 384年9月9日 - 423年8月15日)は、西ローマ帝国テオドシウス王朝の最初の皇帝(在位:393年 - 423年)。テオドシウス1世の次男。西ローマ帝国の実質的な滅亡の一因を作った暗君として知られる。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とホノリウス · 続きを見る »

アンブロシウス・アウレリアヌス

アンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus、ウェールズ語:エムリス・ウセディグ, Emrys Wledig)は5世紀ごろアングロ・サクソン人と戦ったブリトン人の指導者。『ブリタニア列王伝』などの文献に登場する。また、ペンドラゴンとも。学者の中には、アンブロシウス・アウレリアヌスはベイドン山の戦いでも軍を率いて戦ったと考える者がいる。また、アーサー王のモデルとなった人物ではないかと考える者もいる。9世紀初めに書かれた『ブリトン人の歴史』では英雄とされている。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とアンブロシウス・アウレリアヌス · 続きを見る »

アーサー王

アーサー王(King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の君主。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とアーサー王 · 続きを見る »

アーサー王物語

アーサー王像(ペーター・ヴィッシャー作、1480年ごろ、インスブリュック宮廷内教会) アーサー王物語(アーサーおうものがたり)またはアーサー王伝説(アーサーおうでんせつ)とは中世の騎士道物語。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世とアーサー王物語 · 続きを見る »

西ローマ帝国

西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世と西ローマ帝国 · 続きを見る »

407年

記載なし。

新しい!!: コンスタンティヌス3世と407年 · 続きを見る »

409年

記載なし。

新しい!!: コンスタンティヌス3世と409年 · 続きを見る »

411年

記載なし。

新しい!!: コンスタンティヌス3世と411年 · 続きを見る »

9月18日

9月18日(くがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から261日目(閏年では262日目)にあたり、年末まであと104日ある。.

新しい!!: コンスタンティヌス3世と9月18日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »