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コロンナ家

索引 コロンナ家

ンナ家(Colonna)は、中世ローマで力を持ったイタリアの有力貴族。ローマのトラヤヌス帝のコロンナ(円柱)の近くに一族が住んでいた事からこの名となっている。 特に教皇庁がアヴィニョンに移転したアヴィニョン捕囚の時期、オルシーニ家と覇権を争い、ローマは一時荒廃し不穏な状況となった。アヴィニョン捕囚が終わった後もしばしばローマ教皇庁の施策に反対して、反乱を起こすことがあった。 ペトラルカが仕えたことで知られるジョヴァンニ・コロンナをはじめ、枢機卿になった者も多い。15世紀に一族からマルティヌス5世が初めて教皇となった。 ミケランジェロとの友情で知られるヴィットリア・コロンナ、レパントの海戦で教皇庁総司令官、連合艦隊副総司令官となったマーカントニオ・コロンナも一族出身である。.

18 関係: 中世ペトラルカミケランジェロ・ブオナローティマルティヌス5世 (ローマ教皇)マーカントニオ・コロンナレパントの海戦ローマローマ教皇庁ヴィットリア・コロンナトラヤヌスの記念柱アナーニ事件アヴィニョンアヴィニョン捕囚イタリアオルシーニ家コロンナ枢機卿15世紀

中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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ペトラルカ

フランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304年7月20日 - 1374年7月19日)は、イタリアの詩人・学者・人文主義者。ペトラルカは、学者としてはキケロに範を取ってラテン語の文法を整備し、また詩人としては一連の抒情詩集(カンツォニエーレ)を物した。なお、「ペトラルカ」とはラテン語式に付けた名で、本名はフランチェスコ・ペトラッコ(Francesco Petracco)。.

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ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475年3月6日 - 1564年2月18日)は、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能(の)人」と呼ばれる。 ミケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、最も有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家の中で最もその記録が詳細に残っている人物でもある。 ミケランジェロの彫刻で最も有名と思われる『ピエタ』(1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と『ダヴィデ像』(1504年、アカデミア美術館)は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェので、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側(奥)はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。 ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえるMichelangelo.

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マルティヌス5世 (ローマ教皇)

マルティヌス5世(Martinus V、1368年 - 1431年2月20日、在位:1417年11月11日 - 1431年2月20日)は、コンスタンツ公会議での教会大分裂の解消後に選出されたローマ教皇である。本名オットーネ・コロンナ(Ottone Colonna)。.

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マーカントニオ・コロンナ

マーカントニオ・コロンナ(Marcantonio Colonna、1535年 - 1584年8月1日)は、ローマの名家コロンナ家出身の提督。.

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レパントの海戦

レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。 スペイン王国は、支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。この海戦は西ヨーロッパ史において初めての大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ教皇庁

ーマ教皇庁(ローマきょうこうちょう、Curia Romana)は、使徒ペトロに由来するとされる使徒継承教会の首長としての地位の継承者として存続するカトリック教会の使徒座のこと。また、ローマ教皇の下に全世界のカトリック教会を統率する組織でもある。現在の所在地はローマのバチカンであり、バチカン市国という世界最小の主権国家の中に置かれている。カトリック教会内や国際連合などでは、聖庁、聖座(Holy See, Sancta Sedes)という呼称も用いられる。 かつて教皇は世俗の領主のように自らの領地(教皇領)を持っており、事実上国家と同様に独立した行政権を領地内で行使していたが、19世紀末のイタリア統一運動の中で失っている。ラテラノ条約によって成立したバチカンは、教皇庁が支配する国際法上の主権国家であるが、かつての教皇領のような世俗的支配を行う領地ではなく、国民は教会関係者のみである。 なお、14世紀のいわゆる「アヴィニョン捕囚」の時代、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに遷座された(アヴィニョン教皇庁)。.

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ヴィットリア・コロンナ

ヴィットリア・コロンナ (Vittoria Colonna、1492年4月 - 1547年2月25日)は、ペスカーラの侯爵夫人、イタリアの貴婦人であり詩人。ミケランジェロと詩を交換し、芸術的な親交を深めた。1525年、夫の早すぎる死によって、コロンナは文学的友人との接触を維持し、発展させた。そして彼女は16世紀のイタリアで最も人気のある詩人の1人となった。.

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トラヤヌスの記念柱

トラヤヌスの記念柱(トラヤヌスのきねんちゅう、Columna Traiana、Colonna Traiana)は、イタリアのローマにあるモニュメントの1つで、ローマ皇帝トラヤヌスのダキア戦争での勝利を記念したものである。この柱は、元老院の依頼により、建築家ダマスカスのアポロドーロスの指揮で建設されたと言われている。位置はフォルム・ロマヌムの北、クイリナーレの丘付近に建設されたトラヤヌスのフォルムに所在する。113年に完成した独立した円柱で、ローマとダキアの間の戦争(101年 - 102年、105年 - 106年)を叙事詩的に描いたフリーズ(レリーフ)が円柱の表面に螺旋状に描かれていることでよく知られている。そのデザインは後の様々な記念柱で模倣されることになった。.

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アナーニ事件

アルフォンス·マリー·アドルフ=ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」 アナーニ事件(アナーニじけん、Outrage of Anagni)は、1303年、フランス国王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をイタリアの山間都市アナーニで捕らえた事件。.

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アヴィニョン

アヴィニョン(Avignon)は、フランスの南東部に位置する都市(コミューン)で、ヴォクリューズ県の県庁所在地である。.

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アヴィニョン捕囚

アヴィニョン教皇庁 アヴィニョン捕囚(アヴィニョンほしゅう)とは、キリスト教のカトリック・ローマ教皇の座が、ローマからアヴィニョンに移されていた時期(1309年 - 1377年)を指す。日本語では、アヴィニョン教皇と表記されることもある。古代のバビロン捕囚になぞらえ、教皇のバビロン捕囚とも呼ばれた。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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オルシーニ家

オルシーニ家(Orsini)は、中世ローマの有力貴族。コロンナ家とはライバル関係にあり、ローマの覇権を争った。 12世紀のケレスティヌス3世、13世紀のニコラウス3世、18世紀のベネディクトゥス13世とローマ教皇を出した。 なお、マイオ・オルシーニを祖とする一傍流がアドリア海からギリシア地域に進出、ケファロニア宮廷伯として独立した。この家系は14世紀にはニコーラ・オルシーニ、ジョヴァンニ2世オルシーニ、ニケフォロス2世ドゥーカス・オルシーニと、3人のエピロス専制公を出している。 *.

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コロンナ

ンナ (Colonna).

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枢機卿

枢機卿(すうききょう、すうきけい、、)は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は、教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿()」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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