ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

クロアチア防衛軍

索引 クロアチア防衛軍

アチア防衛軍(Hrvatske obrambene snage; HOS)は、クロアチア権利党(HSP)の武装勢力で、1991年から1992年まで存続した。1992年に指導者のブラジュ・クラリェヴィッチが殺害されると、HOSは解体され、クロアチアではクロアチア陸軍に、ヘルツェグ=ボスナではクロアチア防衛評議会に吸収された。クロアチア防衛軍はクロアチア人およびボシュニャク人によって構成されていた。中央ボスニアに最後まで残ったHOSは1993年に解体された。クロアチア防衛軍は、頻繁にそのクロアチア語略称である「HOS」を用いた。「HOS」は、第二次世界大戦のナチスの傀儡国家であるクロアチア独立国の軍備であるクロアチア武装軍(Hrvatske oružane snage; HOS)と頭文字が一致する。第二次世界大戦のクロアチア武装軍は、クロアチア独立国を支配したファシスト組織・ウスタシャの率いたウスタシャ民兵の流れを汲む戦力であった。.

22 関係: 中央ボスニア県モスタルボシュニャク人ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国ウスタシャクロアチア人クロアチア共和国軍クロアチア独立国クロアチア独立国軍クロアチア防衛評議会クロアチア陸軍クロアチア民主同盟ザ・ドム・スプレムニザグレブ国家社会主義ドイツ労働者党第二次世界大戦HOS旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷1991年1992年1993年

中央ボスニア県

中央ボスニア県(ちゅうおうボスニアけん、ボスニア語:、クロアチア語:、セルビア語:Средњoбосански кантон)、あるいは中央ボスニア・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はトラヴニク。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と中央ボスニア県 · 続きを見る »

モスタル

モスタル(Mostar、Mostar、Мостар) は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する。また、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都 Mostar でヘルツェゴビナ地方 では最大の中心都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市で、市内をネレトヴァ川が流れている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期には事実上独立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都と定められていた。ただし政治情勢によって、事実上の首都はモスタル近郊のグルデであった。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とモスタル · 続きを見る »

ボシュニャク人

ボシュニャク人(男性単数: Bošnjak/Бошњак 、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。 バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とボシュニャク人 · 続きを見る »

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ミハイル・エフスタフィエフ撮影) ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナふんそう、Bosnian War)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。単にボスニア紛争とも呼ばれる。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 · 続きを見る »

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国(ヘルツェグ=ボスナ・クロアチアじんきょうわこく、クロアチア語:Hrvatska Republika Herceg-Bosna)は、1990年代の前半にボスニア・ヘルツェゴビナの中で分離を宣言し、事実上独立していた国家。ボスニア紛争における分離主義の動きの中で、国際的承認のないまま1991年から1994年まで存続した。モスタルを首都と定めたものの、そこは政治情勢が安定しなかったため、実際の政府はモスタルから西に19km離れていて政治的に安定していたグルデに置かれた。その後のワシントン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ連邦へと併合された。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県のひとつである第十県はこの国と同じ「ヘルツェグ=ボスナ県」を名乗っている。しかしながら、この名前は連邦憲法裁判所により憲法違反とされた(理由のひとつとして、第十県の領域はヘルツェゴヴィナ地方にはまったく及んでいないことが挙げられる)。それでもなおヘルツェグ=ボスナの呼称はこの県をさして広く用いられている。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国 · 続きを見る »

ウスタシャ

ウスタシャ(Ustaše)は、クロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。 アンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した、農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながらも私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とウスタシャ · 続きを見る »

クロアチア人

アチア人(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。 クロアチアのサヴァ川、ドラーヴァ川流域、それらの地域より南のダルマチア地方沿岸部に居住する柳田「クロアチア」『世界民族事典』、240-241頁。1991年当時のクロアチア共和国ではクロアチア人の人口はおよそ3,736,000人で総人口の78%を占めていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナには約760,000人のクロアチア人が住み、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチンなどの地域にクロアチア移民が生活している。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア人 · 続きを見る »

クロアチア共和国軍

アチア共和国軍(クロアチアきょうわこくぐん、Oružane snage Republike Hrvatske、略称:OSRH)は、クロアチア共和国の国軍。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア共和国軍 · 続きを見る »

クロアチア独立国

アチア独立国(クロアチアどくりつこく、Nezavisna Država Hrvatska)は、主に現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの領域に存在した国家。一般にドイツ及びイタリアの傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア独立国 · 続きを見る »

クロアチア独立国軍

アチア独立国軍の徽章 クロアチア独立国軍(クロアチアどくりつこくぐん)は、クロアチア独立国の国軍。1941年に創設。1945年に解体。なお、1941年4月から1943年1月までの総司令官はスラヴコ・クヴァテルニク。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア独立国軍 · 続きを見る »

クロアチア防衛評議会

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の旗 クロアチア防衛評議会(クロアチア語:)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に設立された軍事組織である。マテ・ボバンによって、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にて建国が宣言されたヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の軍事組織として1992年に設立された。クロアチア権利党を母体とする軍事組織クロアチア防衛軍をはじめとする、他のクロアチア人の武装組織は徐々に解体され、クロアチア防衛評議会へと合流していった。紛争終結後の2005年、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍に統合された。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア防衛評議会 · 続きを見る »

クロアチア陸軍

アチア陸軍 クロアチア陸軍(Hrvatska kopnena vojska;略称HKoV)は、クロアチア共和国軍の陸軍組織。総員1万2千人。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア陸軍 · 続きを見る »

クロアチア民主同盟

アチア民主同盟(クロアチアみんしゅどうめい、クロアチア語: Hrvatska demokratska zajednica, HDZ)は、クロアチアの中道右派政党である。キリスト教民主主義を党是とし、1990年から2000年まで、および2003年以降、クロアチアの政権を主導する立場にある。欧州人民党の協力政党となっている。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とクロアチア民主同盟 · 続きを見る »

ザ・ドム・スプレムニ

ユーゴスラビア紛争時にクロアチア権利党によって結成された民族主義の武装勢力クロアチア防衛軍の紋章。下に「ZA DOM SPREMNI」とある。 「ザ・ドム - スプレムニ!」(クロアチア語:Za dom - spremni!)は「故郷のために - 備えよ!」という意味で、クロアチアの民族主義者のスローガン。その起源は19世紀にさかのぼり、当時のクロアチアの総督(バン)であるヨシップ・イェラチッチ(Josip Jelačić)に対する挨拶であった。しかしながら、第二次世界大戦時にセルビア人などを虐殺したクロアチア独立国のファシスト組織・ウスタシャが、クロアチア版「ジークハイル」としてこのスローガンを使用したことにより、それ以降は人々に嫌悪感を抱かせるような、否定的な意味合いを帯びるようになった。 その意味するところは「故郷のために、常に戦う備えあり」であり、常にクロアチアを守るために戦う準備があるという愛国的なクロアチア人の精神を表現した、呼びかけと応答の形式の掛け声である。これは単にウスタシャのスローガンにとどまらず、常に祖国を守るために戦うというクロアチア人の誇りや愛国心を表現したものである。 オペラ、ニコラ・シュビッチ=ズリンスキ(Nikola Šubić-Zrinski)にはクロアチアの愛国歌「U boj, u boj」が含まれ、その歌詞にはこの掛け声が含まれている。 このスローガンは、1990年代のクロアチア紛争以降、特にクロアチアの民族主義者の間でよく見られるようになった。クロアチアの人気ロック・バンド、トンプソンはコンサートでこのスローガンを使用し、集まったファンたちはこれにナチス式敬礼で応えている。バンドのリーダーであるマルコ・ペルコヴィッチ本人は自らこの敬礼をすることは否定している。 2013年、サッカークロアチア代表DFヨシプ・シムニッチがW杯欧州予選プレーオフでアイスランドを破った後スタジアムでこのスローガンを叫んだとして、FIFAから2014年W杯開幕以降10試合の出場停止を言い渡された。また、3万スイスフラン(約350万円)の罰金も科せられた。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とザ・ドム・スプレムニ · 続きを見る »

ザグレブ

レブ()はクロアチア共和国の首都で同国最大の都市である。クロアチア北西部サヴァ川河畔に位置しの南斜面にあり海抜は122mである。2011年の国勢調査による人口はザグレブ市街が686,568人、ザグレブ市域では792,875人であった。ザグレブ市と周辺の行政的に分かれているザグレブ郡の人口317,642人を合わせたザグレブ都市圏の人口は1,110,517人である。ザグレブはクロアチアでは唯一、100万人を超える都市圏を形成している。 アルプスやディナルアルプス、アドリア海方向へ広がるパンノニア平原南西部の有利な地理的な条件により、中央ヨーロッパとアドリア海を結ぶ良く整備された交通回廊によって周辺地域と結ばれている。ザグレブは交通の要衝である他、産業の集積や科学研究機関、伝統的な産業などでクロアチアで先導する地位にある。また、首都としてクロアチアの中央政府や行政機関、省庁のほとんどがザグレブに拠点を置いている。.

新しい!!: クロアチア防衛軍とザグレブ · 続きを見る »

国家社会主義ドイツ労働者党

国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP)は、かつて存在したドイツ国の政党。一般にナチス、ナチ党などと呼ばれる(詳細は#名称を参照)。1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、1920年に改称した。指導者原理に基づく指導者(Führer)アドルフ・ヒトラーが組織全体の意思決定を行い、カリスマ的支配を行っていた。1933年の政権獲得後、ドイツ国に独裁体制を敷いたものの(ナチス・ドイツ)、1945年にドイツ国が第二次世界大戦で敗戦し崩壊したことに伴い事実上消滅し、連合国によって禁止(非合法化)された。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と国家社会主義ドイツ労働者党 · 続きを見る »

第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と第二次世界大戦 · 続きを見る »

HOS

HOS.

新しい!!: クロアチア防衛軍とHOS · 続きを見る »

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷

旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(きゅうユーゴスラビアこくさいせんぱんほうてい、International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia, ICTY(アイシーティーワイまたはイクティ))は、国際連合の安全保障理事会決議827によって1993年5月に設置された、旧ユーゴスラビア紛争の戦後処理を目的とした国際司法機関。正式名称は1991年以後旧ユーゴスラビアの領域内で行われた国際人道法に対する重大な違反について責任を有するものの訴追のための国際裁判所(International Tribunal for the Prosecution of Persons Responsible for Serious Violations of International Humanitarian Law Committed in the Territory of the Former Yugoslavia since 1991)。旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所ともいわれる。 2017年12月21日に閉廷式典が開かれた。合計161人が訴追(うち90人以上はセルビア人)され、有罪判決が下った受刑者はICTYと協定を結んだ欧州14カ国で収監された。召喚された証人は約4650人、起訴状や判決文は約250万ページに達した。今後は、1000人以上いた職員が半分以下に減って残務処理を行い、ラドヴァン・カラジッチら2被告の控訴審は国連の国際刑事裁判メカニズムが引き継ぐ。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷 · 続きを見る »

1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と1991年 · 続きを見る »

1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と1992年 · 続きを見る »

1993年

この項目では、国際的な視点に基づいた1993年について記載する。.

新しい!!: クロアチア防衛軍と1993年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »