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クヤヴィ・ピャスト家

索引 クヤヴィ・ピャスト家

ヴワディスワフ短躯王 クヤヴィ・ピャスト家(Piastowie kujawscy)は、ポーランドのピャスト家の分枝の一つ。カジミェシュ2世正義公の孫の一人であるクヤヴィ公カジミェシュ1世を始祖とする。マゾフシェ・ピャスト家から分かれ、クヤヴィ公国を領有した。 クヤヴィ公カジミェシュ1世の息子たちのうち、レシェク2世黒公とヴワディスワフ1世短躯王はポーランド君主(クラクフ公)の地位についた。ヴワディスワフ1世は1320年、ポーランド国王として戴冠し、その王位を息子カジミェシュ3世大王に引き継がせることに成功した。しかし1370年、カジミェシュ3世大王が男子を残さずに死ぬと、ポーランド王位はアンジュー家出身のハンガリー王ラヨシュ1世にわたり、以後ピャスト家の王子たちがポーランド王位を獲得することは二度となかった。クヤヴィ・ピャスト家は1388年、グニェフコヴォのヴワディスワフ白公の死により断絶した。 *.

22 関係: マゾフシェ・ピャスト家ポーランド君主一覧ポーランド国王ポーランド王国ラヨシュ1世レシェク2世ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)ヴワディスワフ・ビャウィピャスト家フェネンナ・クヤフスカアンナ・カジミェジュヴナアンジュー=シチリア家エルジュビェタ・ウォキェトクヴナエルジュビェタ・カジミェジュヴナエルジュビェタ・クヤフスカカジミェシュ1世 (クヤヴィ公)カジミェシュ2世カジミェシュ3世 (ポーランド王)カジミェシュ3世 (グニェフコヴォ公)クネグンダ・ウォキェトクヴナジェモミスウ (イノヴロツワフ公)長子領

マゾフシェ・ピャスト家

コンラト1世 マゾフシェ・ピャスト家(Piastowie mazowieccy)は、ポーランドのピャスト家の分枝の一つ。カジミェシュ2世(正義公)の息子コンラト1世を始祖とする。マウォポルスカ・ピャスト家から分かれ、マゾフシェ公国を領有した。 始祖コンラト1世は1226年、異教徒のプルーセン人を平定するためにドイツ騎士団を招聘したことで知られている。またコンラト1世は1241年から1243年までポーランド君主(クラクフ公)を務めた。コンラト1世の次男カジミェシュ1世の子孫であるクヤヴィ公家は14世紀にポーランド王位を獲得したが、3男シェモヴィト1世の直系であるマゾフシェ公家の王子達はポーランド君主の地位を得ることはできなかった。シェモヴィト1世の曾孫の一人ボレスワフ・イェジ2世(ユーリー2世)はハールィチ・ヴォルィーニ王国の君主となったものの、子供を残さずに死んだことで国際戦争を引き起こした。 1526年、一族最後の男子ヤヌシュ3世が死ぬと共にマゾフシェ公家は断絶し、一門の支配してきた公国はポーランド王国に併合された。 *.

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ポーランド君主一覧

ポーランド君主一覧では、現在のポーランドにあった諸王朝、諸国の君主を一覧で挙げる。.

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ポーランド国王

ポーランド国王の称号はポーランドの支配者によって支配された称号であり、最初の国王は1025年に戴冠したボレスワフ1世・勇敢王である(992年以来、称号は公であった)。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ラヨシュ1世

ラヨシュ1世(Anjou I Lajos, 1326年3月5日 - 1382年9月10日 トルナヴァ)は、アンジュー家のハンガリー王(在位:1342年 - 1382年)、ポーランド王(ハンガリー人のルドヴィク1世 Ludwik I Węgierski, 在位:1370年 - 1382年)。父はカーロイ1世。大ラヨシュ(Nagy Lajos király)とも呼ばれる。 大貴族の台頭によって弱体化していたハンガリー王国は、父カーロイ1世の治世の下で大貴族の抑制と王権の強化に成功し、大国へと成長していた。 1342年、父の後を継いで即位したラヨシュ1世は、勢力拡大のために積極的な対外政策を行なった。まず、ヴェネツィア共和国と交戦してクロアチアとダルマチアを支配下に収めた。次いで1370年、ポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして死去すると、母エルジェーベトがその姉に当たるという縁故からポーランド王位も継承することとなる。 ラヨシュ1世はさらにナポリ王国の王位も狙い、同族の女王ジョヴァンナ1世と敵対した。弟で女王の最初の夫であったアンドラーシュが暗殺された後、1347年には軍勢を動かして王都ナポリを占領したが、王位を得ることはできずに終わった。しかし、晩年の1382年には同じく同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位につけた。 ポーランドの画家ヤン・マテイコによる「ポーランド王ルドヴィク1世」としての肖像画。王冠、法衣、王錫はポーランドのもの。 男児が無かったため、死後ハンガリー王位は年長の娘マーリア、ポーランド王位は末娘ヤドヴィガ、そして彼女らの夫たちが継承することとなった。ただし、ハンガリー王位は一時マーリアとカルロ3世(カーロイ2世)との間で争われている。 対外政策に成功を収めて勢力を拡大し、ポーランド王も兼ねたことから、ラヨシュ1世は「大王」と呼ばれている。しかしバルカン半島への勢力拡大には失敗した。ヴェネツィアとダルマツィアを巡る戦争を起こし、このためアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展し、ワラキア・トランシルヴァニアの発展を促す結果を招いた。また大貴族層の反発にも遭って、晩年には大貴族層に対して特権を与えるなどの譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を現わすものでもあった。 ラヨシュの王国(赤線枠)と宗主下の国(青字).

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レシェク2世

レシェク2世 レシェク2世チャルヌィ(Leszek Czarny, 1241年 - 1288年9月30日)は、ポーランド大公(在位:1279年 - 1288年)。シェラツ公(在位:1261年 - 1288年)、ウェンチツァ公(在位:1267年 - 1288年)、サンドミェシュ公(在位:1279年 - 1288年)でもあった。クヤヴィ公カジミェシュ1世(マゾフシェ公コンラト1世の子)と、シロンスク公ヘンリク2世の娘コンスタンツィヤ(:pl:Konstancja wrocławska)の子。ジェモミスウの同母弟、ヴワディスワフ1世、カジミェシュ2世、シェモヴィトの異母兄。妻はスラヴォニア公ロスティスラフ(キエフ大公ミハイル2世の子)とハンガリー王ベーラ4世の娘アンナの娘アグリッピナ。黒公(Czarny)と呼ばれる。 1261年に父からシェラツ公国を譲られ、1267年の父の死でウェンチツァ公国も獲得した。1279年に従伯父に当たるボレスワフ5世が子供の無いまま亡くなったため、ポーランド大公に即位した。治世中にヴロツワフ公ヘンリク4世と紛争を起こし、1287年にはノガイによるモンゴルの3度目のポーランド襲撃が起こった。 1288年に死去。子供が無かったため、異母弟のヴワディスワフ1世とヘンリク4世が争った末、ヘンリク4世が大公位を継承した。 Category:ポーランド大公 Category:シェラツ=ウェンチツァ公 Category:サンドミェシュ公 Category:クヤヴィ・ピャスト家 Category:1241年生 Category:1288年没.

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ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)

ヴワディスワフ1世ウォキェテク(Władysław I Łokietek, 1260年/1261年 - 1333年3月2日)は、ポーランド王(在位:1320年 - 1333年)。短身王(Łokietek)と呼ばれた。1305年よりクラクフ公であり、1320年に国王として戴冠した。父はウェンチツァ、シェラツ、ドブジン、クヤヴィ公であったカジミェシュ1世、母はその3番目の妻でオポーレ公カジミェシュ1世の娘エウフロジナである。レシェク2世、ジェモミスウの異母弟、カジミェシュ2世、シェモヴィトの同母兄。.

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ヴワディスワフ・ビャウィ

ディジョンにおけるヴワディスワフ白公、ヤン・マテイコ画 ヴワディスワフ白公の印璽、1355年以後 ヴワディスワフ・ビャウィ(Władysław Biały, 1327年から1333年の間 - 1388年2月29日)は、グニェフコヴォ公。ポーランド王カジミェシュ3世の従弟であるグニェフコヴォ公カジミェシュ3世の息子(母は不明)。白公(Biały)の異称で呼ばれた。父方の伯母にハンガリー王妃となったフェネンナが、姪孫にポーランド女王ヤドヴィガがいる。 1357年から1360年の間に父が死去し、ヴワディスワフはグニェフコヴォを相続した。グニェフコヴォ公国は1314年、父カジミェシュが大叔父であるヴワディスワフ1世によるポーランド統合政策が進む中で創設した小規模な公国であった。1359年、ヴワディスワフはスチェルツェ公アルベルトの娘エルジュビェタと結婚した。しかしエルジュビェタとは結婚して1、2年後(1360年か1361年)に死別し、悲しみに打ちのめされたヴワディスワフは、自分の封建上の主君であるポーランド王カジミェシュ3世に1000フローリンで公国を売却することを決めた(1363年または1364年)。 その後、ヴワディスワフは旅行または巡礼のためにポーランドを離れた。旅行でマルボルク、プラハ、エルサレムなどをめぐり歩き、最終的にはフランスに流れ着いてアヴィニョンで教皇ウルバヌス5世と謁見、1366年にはシトー会の経営するシトー修道院に入った。しかし、翌1367年にはディジョンのベネディクト会修道院に移っている。 1370年にポーランドでカジミェシュ3世が死去すると、聖職者の身分から俗人の身分に戻らないうちに、ヴワディスワフはかつての自分の公国に帰った。ところがポーランド王位を継承したハンガリー王ラヨシュ1世(姪エリザベタ・コトロマニッチの夫)は、復権を望むヴワディスワフを支援するのを拒んだ。そこでヴワディスワフはポーランド王位を要求して、ラヨシュ1世に対する反乱を起こした。しかし反乱は失敗し、1375年から1377年の間にヴワディスワフはラヨシュ1世と和平を結んだ。約定により、ヴワディスワフは1万フローリンの補償金を受け取る代わりに、ポーランド王位請求権を完全に放棄することになった。またラヨシュ1世はヴワディスワフにハンガリーの都市パンノンハルマにある修道院の院長の地位を与えた。ヴワディスワフは1379年までパンノンハルマにいたが、ラヨシュ1世からの補償金の支払いが滞るとクヤヴィに戻り、残金を支払うようラヨシュ1世に圧力をかけ、ついにはフランスに舞い戻ってディジョンの修道院に引きこもった。 その冒険に満ちた生涯から、歴史家ヨアヒム・レレヴェルは彼を「ランスロット王」と呼んだ。1382年にラヨシュ1世が死去すると、アヴィニョンの教皇クレメンス7世はヴワディスワフを還俗させたが、ヴワディスワフは公国を取り戻すことは出来ず、1388年にディジョンで没した。彼の死により、クヤヴィ・ピャスト家は最終的に断絶した。.

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ピャスト家

ピャスト家はポーランドの王家及び諸侯の名称。伝説上のピャストに由来する。 ピャストの後は、その息子シェモヴィト―レストコ―シェモミスウ―ミェシュコ1世に至る。ミェシュコ1世が実質的なポーランドの君主であり、それ以前の人物に関しては、『ポーランド年代記』以外の書物に記されていないことから非実在の人物と思われていた。しかし、第二次世界大戦後の発掘調査の結果、年代記の記述が裏付けられ、シェモヴィトまでの存在は確実視されるに至った。 しばしば誤解されているが、1370年のカジミェシュ3世の死でピャスト家の血は絶えたわけでない。カジミェシュ3世の死亡時点でピャスト家の分家は多数存在し、これ等の一族はヤギェウォ朝成立後も一種の独立した諸侯として君臨したのである。ピャスト家の完全なる断絶は、諸侯家では1675年のイェジ・ヴィルヘルムの死であり、男系男子の方は1702年のフェルディナンド2世・フォン・ホーエンシュタインの死である。 ピャスト家の分流はボレスワフ3世(口曲公)の息子達の代で行われるが、これは同時にポーランドの分裂時代の始まりを意味していたのである。.

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フェネンナ・クヤフスカ

フェネンナ・クヤフスカ(Fenenna kujawska/inowrocławska、1268/77年 - 1295年)は、ハンガリー王アンドラーシュ3世の妃。イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘、母はポモジェのルビシェヴォ公サンボル2世の娘サロメア。 フェネンナはハンガリー語の史料のほか、「聖ヤドヴィガの系統図」とヤン・ドゥゴシュの年代記という2つのポーランド語史料の中に登場している。「系統図」はジェモミスウ公の名称不明の娘がハンガリー王と結婚したとしている。この情報をもとに、ヤン・ドゥゴシュは彼女がイシュトヴァーン5世と結婚したと主張した。ドゥゴシュの情報の誤りは19世紀までの歴史研究の結果、アンドラーシュ3世の妃であると訂正された。 フェネンナがハンガリー宮廷で重要な役割を果たすことはなかったが、ハンガリー王妃としての彼女の存在は、夫アンドラーシュ3世と父方の叔父ヴワディスワフ1世短躯王との同盟関係を強化し、実家クヤヴィ公家の親族たちがライバル関係にあったボヘミア王ヴァーツラフ2世に対して優位に立つことにつながった。アンドラーシュ3世の死後間もなく、国王夫妻の一人娘エルジェーベトは、ハンガリー王位を要求するヴァーツラフ3世と一時婚約していた。.

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アンナ・カジミェジュヴナ

アンナ・カジミェジュヴナ(Anna Kazimierzówna、1366年 - 1425年)は、ポーランドの王女で、中世スロヴェニアの封建君主ツェリェ伯に嫁いだ女性。15世紀初頭のポーランドの国政に影響力を持った。.

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アンジュー=シチリア家

アンジュー=シチリア家の紋章 アンジュー=シチリア家(仏:maison d'Anjou-Sicile)は、フランス王家であるカペー家の支流の一つで、アンジュー家と呼ばれる家系のうち第3のもの。カペー(家)系アンジュー家(仏:maison capétienne d'Anjou)などとも呼ばれる。.

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エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ

ルジュビェタ・ウォキェトクヴナ(ポーランド語:Elżbieta Łokietkówna, 1305年 - 1380年12月29日)は、ハンガリー王カーロイ1世の3番目の妃。ポーランド王ヴワディスワフ1世ウォキェテクの次女で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘ヤドヴィガ。ハンガリー語名はエルジェーベト(Łokietek Erzsébet)。.

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エルジュビェタ・カジミェジュヴナ

ルジュビェタ・カジミェジュヴナ(Elżbieta Kazimierzówna、1326年 - 1361年)は、中世ポーランドの王女。ポーランド王カジミェシュ3世と、その最初の妃アルドナ・オナ・ゲディミナイテとの間に生まれた長女。同父母妹に、バイエルン公ルートヴィヒ6世と結婚したクネグンダがいる。.

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エルジュビェタ・クヤフスカ

エルジュビェタ・クヤフスカ(ポーランド語:Elżbieta kujawska、1315/1320年 - 1345年8月22日以後)は、ボスニア太守スティエパン2世コトロマニッチの妻。ポーランドのグニェフコヴォ公カジミェシュ3世の娘。 1323年までに、ハンガリー王カーロイ1世ローベルトはボスニア太守スティエパン2世コトロマニッチに対する影響力を強めようと考えるようになった。そこで国王は王妃エルジュビェタの親戚の娘で同名のエルジュビェタをスティエパン2世に妻として与えた。エルジュビェタとの結婚により、スティエパン2世はハンガリー王からの贈り物として、クロアチア太守でボスニア太守位をめぐるライバルであったムラデン2世・シュビッチ・ブリビルスキが公的には領有するボスニアの西部地域を獲得し、またセルビア王ステファン・ドラグティンとその息子が公的には領しているボスニア北部のウソラとソリをも獲得した。 結婚は1339年までには合法なものとなった。しかし1339年に至るまでに、スティエパンはブルガリア皇帝の娘と結婚している。彼はエルジュビェタと正式に結婚するためにブルガリアの王女との結婚を解消したか、もしくは重婚という形で2人の妻を持ったのだろう。エルジュビェタはローマ・カトリック教会の信徒だったが、スティエパン2世はカトリック教会から異端として断罪されていたボゴミル派に属するボスニア教会の一員だった。エルジュビェタは夫とのあいだに娘エリザベタを産んだことは間違いない。エリザベタは1340年に生れ、1353年にハンガリー王ラヨシュ1世と結婚し、間にマーリア(ハンガリー)とヤドヴィガ(ポーランド)の女王姉妹をもうけた。 一部の歴史家たちは、スロヴェニアの封建君主ツェリェ伯ヘルマン1世の夫人カタリナ・コトロマニッチが、エルジュビェタとスティエパン2世の間に生れたもう一人の娘だと主張している。別の歴史家たちは、カタリナはスティエパン2世の弟ヴラディスラフと、その妻イェレナ・シュビッチ(ムラデン2世の姪)の間の娘だと考えている。また、スティエパン2世には若くして亡くなった息子ヴクがいたが、このヴクもエルジュビェタの所生の可能性がある。もっとも、スティエパンの前の2人の妻が産んだ息子だった可能性もある。 エルジュビェタは夫スティエパンよりも早くに死んだ。死亡時期から考えると、死因は14世紀のヨーロッパ全土を襲った黒死病だったと考えられる。 Category:クヤヴィ・ピャスト家 Category:14世紀生 Category:1345年没.

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カジミェシュ1世 (クヤヴィ公)

ミェシュ1世、13世紀制作のプウォツクの聖体皿に描かれた肖像 カジミェシュ1世の印璽 カジミェシュ1世(Kazimierz I kujawski, 1211年頃 - 1267年12月14日)は、クヤヴィ公(在位:1233年 - 1267年)、シェラツ公(在位:1247年 - 1259年、1260年 - 1261年)、ウェンチツァ公(在位:1247年 - 1267年)、ドブジン公(在位:1248年 - 1267年)。マゾフシェ公コンラト1世の次男、母はノヴホロド=シーヴェルスキー公スヴャトスラフの娘アガフィア。息子のうちレシェク2世、ヴワディスワフ1世はそれぞれポーランド大公、ポーランド国王となっている。.

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カジミェシュ2世

ミェシュ2世スプラヴィエドリヴィ(Kazimierz II Sprawiedliwy, 1138年 - 1194年5月5日)は、ポーランド大公(在位:1177年 - 1190年、1190年 - 1194年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲンの末子。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世、ミェシュコ3世、ヘンリクの同母弟。正義公(Sprawiedliwy)とも呼ばれている。マウォポルスカ・ピャスト家の祖。 父は死去にあたって、遺言状によりポーランド王国の領土を多くの子供達に分割相続させていた。このため、ポーランドは分裂状態となり、ポーランド王はクラクフとその周辺を領するだけの一諸侯に過ぎなくなってしまった。 カジミェシュ2世は1177年、貴族の支持を得て兄でクラクフ領主でもあったヴィエルコポルスカ公ミェシュコ3世を追放し、ポーランド王として即位した。その後は王権強化のためにウクライナなどへの進出も行なったが、ミェシュコ3世に短期間公位を奪われ、国内では貴族による反乱が起こるなど、王権は常に不安定であった。1194年に死去、息子のレシェク1世が後を継いだ。.

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カジミェシュ3世 (ポーランド王)

ミェシュ3世ヴィエルキ(Kazimierz III Wielki、1310年4月30日 - 1370年11月5日)は、ポーランド王(在位:1333年 - 1370年)。大王(Wielki)の異称で呼ばれる。ヴワディスワフ1世(短身王)の三男で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフ(敬虔公)の娘ヤドヴィガ。 現在ポーランドで発行されている50ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。.

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カジミェシュ3世 (グニェフコヴォ公)

ニェフコヴォ公カジミェシュ3世の印璽、1307年 カジミェシュ3世(Kazimierz III gniewkowski, 1277年/1280年 - 1347年8月22日/1350年5月13日)は、イノヴロツワフ公(在位:1287年 - 1314年、兄弟と共同統治)、グニェフコヴォ公(在位:1314年 - 1347年/1350年、但し1332年から1343年はドイツ騎士団が占領支配)、トチェフ総督(在任:1306年以後 - 1309年)。イノヴロツワフ公ジェモミスウの末息子、母はポモジェのトチェフ公サンボル2世の娘サロメア。姉にハンガリー王妃フェネンナがいる。.

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クネグンダ・ウォキェトクヴナ

ネグンダ・ウォキェトクヴナ(Kunegunda Łokietkówna、1298年頃 - 1331年4月9日)は、中世ポーランドの王女。ポーランド王ヴワディスワフ1世と、ヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘ヤドヴィガの間に生まれた長女。妹にハンガリー王妃エルジュビェタが、弟にポーランド王カジミェシュ3世がいる。 1310年、シフィドニツァ公ベルナルトと結婚し、5人の子供をもうけたが、1326年に夫に先立たれた。.

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ジェモミスウ (イノヴロツワフ公)

ェモミスウ(Ziemomysł inowrocławski, 1245年頃 - 1287年)は、イノヴロツワフ公(実質的なクヤヴィ公、在位:1267年 - 1271年、1278年 - 1287年)。クヤヴィ公カジミェシュ1世の次男、母はその2番目の妻でヴロツワフ公ヘンリク2世の娘であるコンスタンツィア。レシェク2世の同母弟、ヴワディスワフ1世の異母兄。.

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長子領

ポモジェ、長子領の支配者の封土 長子領(ポーランド語:Dzielnica senioralna)またはクラクフ公国は、ボレスワフ3世の遺言状によって1138年に成立したポーランド国家を構成する5つの地域の中で最も上位に位置づけられた地域。ピャスト家の諸公が輪番で支配する地域となり、クラクフ公国を領する公がポーランドの最高権威者(大公)となった。.

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