ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

キトゥグム県

索引 キトゥグム県

トグム県と2001年から2005年の県境 キトグム県の副郡黄土色がラムウォ郡、茶がチュア郡 キトゥグム県 (Kitgum) はウガンダ北部アチョリ地方北東部の県。1974年にアチョリ県が東西に分割された際に東アチョリ県として設置された。1980年にキトゥグム県に改名され、2001年12月4日に南部がパデル県に分割された。東はカラモジャ地方のカボング県、コティド県、西はグル県、アムル県、北はスーダン南部の東エクアトリア州と接する。 1986年以降国民抵抗軍とウガンダ人民民主軍及び神の抵抗軍の戦争により、アチョリの住民のほとんどは強制移住させられ国内避難民 (IDP) となった。旧キトゥグム県にはウガンダ聖公会のキトゥグム主教区が置かれている。 新キトゥグム県にはラムウォ郡とチュア郡が置かれている。面積は 9,773.63 kmで県庁所在地のキトゥグムはカンパラの北北東約452kmにある。2002年の国勢調査人口は 283,546 人。 2007年10月以降ウガンダ北部ではE型肝炎ウイルスの流行が報告されている。.

17 関係: 南スーダンパデル県アチョリアチョリ地方ウガンダウガンダの行政区画カラモジャ地方カンパラカボング県グル県コティド県国内避難民国民抵抗軍神の抵抗軍E型肝炎IRIN東エクアトリア州

南スーダン

南スーダン共和国(みなみスーダンきょうわこく、Republic of South Sudan)、通称南スーダンは、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国である。 2011年7月9日に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立した。.

新しい!!: キトゥグム県と南スーダン · 続きを見る »

パデル県

パデル県と2001年から2005年の県境 パトンゴの日の出 パデル県 (Pader District) はウガンダ北部、アチョリ地方南東部の県。2002年の国勢調査人口は 293,679 人。2001年にキトゥグム県の南部のアルウ郡とアガゴ郡が分割され設置された。東にアガゴ郡、西にアルウ郡があり、住民の多くは神の抵抗軍の反乱に伴って国内避難民キャンプへ強制移住された。県庁所在地のパデルは県の中心部にある。知事に相当する第5地域議会 (LC5) の議長はピーター・オドックである。西部にはリラとキトゥグムを結ぶ幹線道路が走る。西にグル県、東にカラモジャ地方のアビム県及びコティド県、南にランゴ地方のリラ県と接する。地図によってはアモロ副郡をパデル県としておりオヤム県と接しているように描いている。 Category:ウガンダの県 Category:ウガンダ北部地域.

新しい!!: キトゥグム県とパデル県 · 続きを見る »

アチョリ

アチョリ(Acholi, Acoli) は主に現在のウガンダ北部のアチョリ地方(キトグム県、グル県、パデル県)から南スーダン東エクアトリア州などに住むナイル系民族。人口は1991年のウガンダの国勢調査で746,796人、スーダンに45,000人 (2000年) である。.

新しい!!: キトゥグム県とアチョリ · 続きを見る »

アチョリ地方

アチョリ地方 (Acholiland, Acholi sub-region) は現在のウガンダ北部に位置するウガンダの伝統的地域。 およそウガンダ領内でのアチョリの伝統的居住地域であり、イギリス領とされた際に地方として形作られた。アチョリは他に現在の南スーダンにも居住している。東にカラモジャ地方、南にランゴ地方、ブニョロ王国、西に西ナイル地方と接する。1962年の独立時には西ナイル県、ランゴ県と共に北部州内のアチョリ県 (Acholi District) とされ、1974年に東西に分割され、1980年にキトゥグム県とグル県に改称された。ヨウェリ・ムセベニ政権期以降はランゴ地方と共にウガンダ人民民主軍とその後身の神の抵抗軍の主な活動地域となり、2001年12月にはキトゥグム県南部がパデル県に、2006年7月にはグル県西部がアムル県に分割された。推計人口はおよそ105万人でうち約80万人が国内避難民となっている。.

新しい!!: キトゥグム県とアチョリ地方 · 続きを見る »

ウガンダ

ウガンダ共和国(ウガンダきょうわこく)、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ。アフリカの中でも難民受入れに積極的である。 ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。.

新しい!!: キトゥグム県とウガンダ · 続きを見る »

ウガンダの行政区画

2017年7月以降の122県(数字は下記の表に対応) ウガンダには2017年7月以降、行政区でない4つの地域(地方とも)に122の県が置かれている。ただし、首都カンパラを領域としている県については含めない場合がある。また2018年に6県(計128県)、2019年には7県(計135県)の新設が予定されている。 イギリス植民地時代に人口を基準に村、教区(ムルカ)、副郡(ゴンボロラ)、郡(サザ)、県が置かれ、1990年代初頭には33県であったが、2000年前半では45に、さらに2006年には80に、2010年3月では112と大きく増加した。県の増加だけでなくその下の地方自治体も増え、また地方議員や行政官も増えるため財政的に深刻な問題が生じてきている。しかし県の新設を求める住民も多いのが実情であり、2015年にウガンダ議会が23の県の創設を承認したが、条件を満たした(必要な書類の送付)にもかかわらず承認されなかった地域からは不満の声が出ている。 2014年8月の国勢調査では、112の県(District)、181のカウンティ(County、郡)、1,382のサブ・カウンティ(Sub County、副郡)、22の自治体(Municipalitiy)と174の町協議会(Town councils)があった。また県の長は第5地域議会 (LC5) の議長である。.

新しい!!: キトゥグム県とウガンダの行政区画 · 続きを見る »

カラモジャ地方

ラモジャ地方 (Karamoja) はウガンダ東北部の地域。北に南部スーダン、東にケニアリフトバレー州、南にセベイ(カプチョルワ県)、ブギス(ムバレ県、シロンコ県)、南西にテソ地方及びランゴ地方、西にアチョリ地方と接する。北からカボング県、コティド県、アビム県、モロト県、ナカピリピリ県が置かれている。カボング県北部にはキデポ国立公園があり、ナカピリピリ県の南方にはウガンダ・ケニア両国にエルゴン山国立公園がある。.

新しい!!: キトゥグム県とカラモジャ地方 · 続きを見る »

カンパラ

ンパラ()は、東アフリカに位置する国家ウガンダの首都。人口165万人(2011年)。ウガンダ最大の都市で、ヴィクトリア湖の北岸、標高1190mにある。なお、ヴィクトリア湖の湖面自体が標高1134mと高い。ほぼ赤道直下(北緯0度19分)に位置する。経度は東経32度35分。.

新しい!!: キトゥグム県とカンパラ · 続きを見る »

カボング県

2001年から2005年のコティド県、北部がカボング県 カボング県 (Kaabong District) はウガンダ北東部カラモジャ地方北部の県。2005年7月1日にコティド県の北部のドドス郡が分割され設置された。カボングを含め9つの副郡が置かれている。2002年の国勢調査人口は 379,775 人。主な住民はカラモジョン系のドドスで、東部の山岳部にはイク族が住む。北部はキデポ渓谷国立公園に指定されている。知事に相当する第5地域議会 (LC5) 議長はサム・ロケリス。南東にモロト県、西にアチョリ地方キトゥグム県、北に南部スーダンの東赤道州、東にケニアのリフトバレー州と接する。.

新しい!!: キトゥグム県とカボング県 · 続きを見る »

グル県

2001年から2005年の旧グル県 グル県 (Gulu District) はウガンダ北部の県。1974年にアチョリ県が東西に分割された際に西アチョリ県として設置され、1980年に県庁所在地のグルからグル県に改名された。2006年7月に西部の過半がアムル県に分割された。カンパラの北約330kmに位置し、北東にキトゥグム県、東にパデル県、南にランゴ地方のオヤム県と接する。旧グル県の南は白ナイルを挟みブニョロのマシンディ県、西は西ナイル地方のアルーア県及びネビ県、北西はアジュマニ県、北はスーダン南部であった。 オモロ郡とアチュワ郡が置かれている(ンウォヤ郡及びキラク郡はアムル県となった)。2002年の旧グル県の人口は 479,496 人、うち新グル県の人口は 290,624 人である。人口の多くは農民である。グルからは南にリラ方面、西にアルーア方面、北東にキトゥグム方面、北西にスーダン・ニムレ方面への幹線道路が伸び北部の中心都市の1つである。 グル県はアチョリの詩人オコト・ビテックやアリス・アウマ、ジョゼフ・コニーの出生地であり、1986年以来ヨウェリ・ムセヴェニの国民抵抗軍とウガンダ人民民主軍及び神の抵抗軍 (LRA) の戦争の舞台となった。住民の9割以上は強制移住をさせられ、町や市場の近くのキャンプに入れられた。LRAによる誘拐を避けるためこどもたちは農村から都市部へ毎晩通うようになり、「夜の通勤者」と呼ばれた。ユニセフによるとグル県での「夜の通勤者」の数は最大22,000人から2006年8月には3,664人にまで減少した。.

新しい!!: キトゥグム県とグル県 · 続きを見る »

コティド県

2001年から2005年のコティド県、中南部がコティド県 コティド県 (Kotido District) はウガンダ北東部カラモジャ地方北部の県。1971年に北カラモジャ県として設置され、1979年に改名された。ジエ、ドドス、ラブウォルの3郡が置かれていたが、2005年7月1日に北部のドドス郡がカボング県に、2006年7月1日に南西部のラブウォル郡がアビム県に分割された。コティド市を含め6つの副郡に28の教区が置かれている。2002年の国勢調査人口は 157,765 人。主な住民はカラモジョン系のジエである。知事に相当する第5地域議会 (LC5) 議長はポール・ロマニオ。遊牧民の間ではレイディングと呼ばれる家畜の奪い合いが行われ、ケニアからトゥルカナが越境してくる場合もある。南東にモロト県、北西にアチョリ地方のキトゥグム県及びパデル県と接する。.

新しい!!: キトゥグム県とコティド県 · 続きを見る »

国内避難民

ンゴ民主共和国北キヴ紛争でのIDP(2008年11月7日キバチ) ウガンダアチョリ地方キトゥグム県ラブジェIDPキャンプの仕立屋 国内避難民(こくないひなんみん)とは、政治的な迫害、武力紛争、内乱、武力による強制立ち退き、あるいは自然災害などの理由から自宅(あるいは自宅周辺の地域)には住めず、ある程度以上の遠方での避難生活を余儀なくされている人々のうち、国を出ることなく(国境を越えることなく)自国内で生活している人々をいう。国連は英語で、internally displaced people あるいはinternally displaced person(s)と呼び、またIDPと略す。一方、国境を越えて自国を出た人々は難民とよばれる。難民には条約による明確な定義が存在するが、国内避難民には明確な法的定義が存在しない。.

新しい!!: キトゥグム県と国内避難民 · 続きを見る »

国民抵抗軍

国民抵抗軍(こくみんていこうぐん、National Resistance Army, NRA)はウガンダの旧反政府勢力国民抵抗運動の軍事部門で、現ウガンダ国軍であるウガンダ人民国防軍 (UPDF) の前身。 1980年に結成された2つの反政府勢力ヨウェリ・ムセベニの人民救済軍 (PRA) とユスフ・ルレのウガンダ自由戦士 (UFF) が1981年に統合して結成された。当初は27人でありムセベニの副官にはルワンダ難民のフレッド・ルウィゲマや後のルワンダ大統領となるポール・カガメなどがいた。政治部門も統合され、ウガンダ愛国運動から国民抵抗運動となった。2月27日のムベンデ県の兵営の攻撃から始まり、ミルトン・オボテ政権のウガンダ民族解放戦線 (UNLF) はオイテ・オジョク参謀総長が1983年にヘリコプター事故で亡くなるまで優勢であったが、スウェーデンに亡命していたムセベニの「オボテが北部人のみを優遇している」とする宣伝活動とUNLFの内部分裂で次第に弱体化し、NRAは抵抗議会で人心を掌握し少年兵を含む徴兵China Keitetsi,, 2008年6月3日閲覧。で次第に勢力を増した。オジョクの後任にスミス・オポン・アカク准将が選ばれると、ランゴ族であったためにアチョリ族の不満が高まり、1985年7月のバジリオ・オララ=オケロ及びティト・オケロのクーデタに至った。1986年ムセベニの弟、サリム・サレー率いるNRA部隊がカンパラに迫ると、UNLF部隊は北へ逃れた。ムセベニは1月29日に大統領就任を宣言し、国民抵抗軍は正規軍とされた。UNLFはウガンダ人民民主軍 (UPDA)などに分裂しつつ戦闘を続けたが、停戦に至ると、それに不満をもったアチョリが神の抵抗軍 (LRA) に流れるなどして北部での人権侵害が継続した。後にムセベニはLRA幹部を国際刑事裁判所に提訴したが、程度の差こそあれ、NRAも同様の行為を行っていた。 1990年以降のルワンダ紛争に際して、NRAのルワンダ人がルワンダ愛国戦線 (RPF) の主力であったため批判を受け、RPFがルワンダで政権を獲得すると、NRAは1995年憲法に伴いウガンダ人民国防軍に改編された。.

新しい!!: キトゥグム県と国民抵抗軍 · 続きを見る »

神の抵抗軍

の抵抗軍(かみのていこうぐん、Lord's Resistance ArmyLRA はこれまでに複数の異なる名称で知られる。Lakwena Part Two(第二ラクウェナ)、Lord's Army(主の軍、1987年 - 1988年)、Uganda Peoples' Democratic Christian Army(ウガンダ人民民主キリスト教軍、UPDCA, 1988年 - 1992年)1992年以降、神の抵抗運動/軍 (Lord's Resistance Movement/Army, LRM/A, LRA/M) と名乗るようになった。: 略称 LRA)は、ウガンダの反政府武装勢力。.

新しい!!: キトゥグム県と神の抵抗軍 · 続きを見る »

E型肝炎

E型肝炎ウイルス E型肝炎(Eがたかんえん、)は、ウイルス性肝炎の一種で、E型肝炎ウイルス(略称HEV)と呼ばれる接触感染性ウイルスによって起こる。ウイルスが発見されるまでは日本においては経口伝播型非A非B型肝炎と呼ばれていた。日本の感染症法での取り扱いは4類感染症 厚生労働省。.

新しい!!: キトゥグム県とE型肝炎 · 続きを見る »

IRIN

IRIN(Integrated Regional Information Networks, 統合地域情報ネットワーク)は1995年に設立された国際連合人道問題調整事務所 (OCHA) によるアジアの一部、中東、サブサハラ・アフリカにおける、紛争・災害情報等の普及を目的とした独立した報道部門である。1994年のルワンダ虐殺と大湖沼地帯での難民危機を契機として人道援助関係者その他に広く情報を提供する目的で設置された。 ルワンダ虐殺とその後の難民危機の規模と複雑さは各援助団体の情報網を圧倒していた。このため、援助関係者とその本部は共同で IRIN をつくり、時宜を得た非党派の情報を提供し始めた。代表部はケニアのナイロビに置かれている。IRIN は OCHA の事業であり国連機関であるが、記者は編集の独立を保障されており、全ての IRIN の記事には国連の見解を示すものではないとの但し書きが付く。 これ以降 IRIN は情報提供地域と分野を広げ、中央アジアの一部と中東をカバーし情報利用者は100万人を超えると見られている。2005年にネパールを加え、配信先は62ヶ国となった。ほとんどの記事は英語だが、僅かにフランス語、スワヒリ語、ダリー語の記事も配信している。ロシア語、アラビア語、ポルトガル語でも一部のサービスが計画されている。IRIN は地域編集部をナイロビ、ヨハネスブルグ、ダカール、ドバイに持つ。 2000年には IRINラジオ事業が開始され、地域の課題に対する報道能力が増大した。人道上の非常時にある多くの国では住民の大半は近くの田舎に留まっており、また都市のテレビの視聴や新聞の購読ができない貧困層も対象としている。このためラジオは多くの人々に情報を伝える最も有効な手段となっている。IRINラジオはアフガニスタン、アンゴラ、ブルンジ、コートジボワール、リベリア、ソマリア、スーダンで運営されている。 2001年にはアフリカでのエイズに関する情報の必要性に対応して専門の PlusNews が開設された。ヨハネスブルグを起点にして全配信国へサービスを広げつつある。2004年にはダカールを拠点にフランス語版も開設された。 2003年には分析部門をナイロビ本部につくり、国際的な問題に関する重要な報告も発表するようになった。それらは紛争地域での性暴力、難民の帰還、地雷などである。同年には北部ウガンダでの神の抵抗軍の反乱による影響に関する人道援助関係者とメディア向けの短編映画も作られた。2004年には正式に短編映画部門がナイロビ本部に開設され、いくつかの映画が制作された。これまでに制作された映画では女性器切除、2004年の西アフリカの蝗害、アフガニスタンでのアヘン栽培を扱っている。 2006年のメールとウェブ利用者の調査では、IRIN は回答者の57%が人道救助関係で働いており、14%についてはその多くが人道援助に関する学者であることが分かった。残りの多くは、コンサルタント、役人または他のメディアであった。IRINウェブサイトの利用者はより多様であり、自身の刊行物でIRINの報道を利用するメディアなどの二次情報の読者数は、直接ウェブサイトを見たり、メールサービスへ加入する者よりはるかに大きい。 IRIN への主な出資者はノルウェー、イギリス、スウェーデン、米国、EU、日本、オーストラリアなどの人道援助団体・機関等である。.

新しい!!: キトゥグム県とIRIN · 続きを見る »

東エクアトリア州

東エクアトリア州()は、南スーダンにかつて存在した州。州都は。面積82,542 km2、人口906,126人(2008年)。.

新しい!!: キトゥグム県と東エクアトリア州 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

キトグム県

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »