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オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群

索引 オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群

ラシュチエ山脈のダキア人の要塞群は、ルーマニアの世界遺産の一つである。紀元前1世紀から1世紀にかけて、ローマ帝国の侵攻に対抗するために、ダキア人独特のムルス・ダキクス様式で建造された6つの要塞が登録対象となっている。 その広範囲に及び、なおかつ保存状態の良好な遺跡群は、精力的で革新的であった古代文明の姿を良く伝えるものである。ただし、この一帯に関する保護措置をルーマニアが講じていなかったことから、盗掘も行われてきた。.

8 関係: ムルス・ダキクスルーマニアの世界遺産ローマ帝国デケバルスダキア人サルミゼゲトゥサ紀元前1世紀1世紀

ムルス・ダキクス

ムルス・ダキクス(ラテン語: Murus Dacicus, 「ダキア人の城壁」)は、ローマ帝国征服以前にダキア王国で発達した城壁や要塞の構築理論である。それは、従来のダキア人の伝統的建築理論と、ギリシャ・ローマ建築や石工術から輸入された理論を混成させたものである。それは、それ以前にも、その時代にも、後代にも幾分似通った建築技術はあるものの、ムルス・ダキクスを独特のものとならしめている要素はある。 ムルス・ダキクスは直方体に切り分けられた石のブロックを組み上げた2つの外壁から成っている。それらはモルタルを用いていない切石積みの好例であるが、ブロックの規格は平均的なものよりも大きい。これは技術的要請によるものである。 2つの外壁が出来あがった後に、その隙間を砂利と石のセメントや粘土、土などで埋めてしまう。こうすることで、どちらの壁も水平方向の強度が増す。外壁は焦がした木製のつなぎ梁で接続される。その繋ぎ梁は、石のブロックの上面に蟻継手でつながれる。この壁は、攻城兵器から射出される投射体から受ける衝撃を吸収し、運動エネルギーを拡散させることに秀でている。その高度な柔軟性により、この構造は、たとえばミュケーナイの巨大な切石積みに見られるような「古典的」な堅い石壁よりも、明らかに優越しているのである。 適正に建てられたムルス・ダキクスは労働集約的で、なおかつ時間も相当にかかる。そこで、二度のダキア戦争の間の短い期間には、急拵えになった。とはいえ、その典型的な様式は厚さ3-4m、高さ10mで、与えられた条件下での急造としては傑出した成果といえる。 ユネスコの世界遺産に登録されている「オラシュチエ山脈のダキア人の要塞群」(ルーマニア)は、この理論が適用された城塞の好例である。ムルス・ダキクスは、ローマのTrajan's columnにも描かれている。.

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ルーマニアの世界遺産

ルーマニアの世界遺産(ルーマニアのせかいいさん)はユネスコの世界遺産に登録されているルーマニア国内の文化・自然遺産の一覧。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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デケバルス

デケバルス(Decebalus, ? - 106年)は、ダキア族の王(在位87年-106年)。ローマ皇帝トラヤヌスとのダキア戦争で相対した人物である。.

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ダキア人

ダキア人(dacică)は、紀元前1000年頃から、ダキア地方(現在のルーマニア)に住んでいたトラキア系の民族のこと。 現在のルーマニアでは、このダキア人とローマ人の混血した人々がルーマニア人の祖先であるとされている。.

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サルミゼゲトゥサ

ルミゼゲトゥサ内の要塞に設置された神殿跡地 サルミゼゲトゥサ遺跡のマップ サルミゼゲトゥサ(Sarmizegetusa)は、古代ダキア人による軍事・宗教・政治上の最も重要な古代都市である。1200メートルの高地に建設され、狭隘なオラシュチエ山脈の立地を生かした6箇所の要塞群の一つでもあり(なお、サルミゼゲトゥサ以外はブリダル、ピアトラ・ロシエ、コステシュティ、カプルナ、バニツァ)、戦術的な防衛システムが設置されていた。サルミセゲトゥサ(Sarmisegetusa、Sarmisegethusa), サルミセゲトゥザ(Sarmisegethuza)、ザルミゼゲトウサ(Ζαρμιζεγεθούσα、アルファベット表記:Zarmizegethousa)、ゼルミゼゲトオウセ(Ζερμιζεγεθούση、アルファベット表記:Zermizegethouse)などとも呼ばれる。.

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紀元前1世紀

ーマ帝国の成立。紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像はヴァティカン美術館所蔵の「プリマポルタのアウグストゥス」。 エジプト女王クレオパトラ7世。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家ジャン・レオン・ジェロームの歴史画で、女王とユリウス・カエサルの出会いの状況を描いている。 カッシウスやブルートゥスに暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画。 アグリッパによって建設された。 ケルト人の消長。カエサルの遠征でアルプス以北のガリアは共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちはラ・テーヌ文化の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表するグンデストルップの大釜。 アンティオコス1世により独特な墳墓が営まれた。 王昭君。前漢と匈奴の和平のために呼韓邪単于へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の菱田春草の「王昭君図」。 銅鐸の祭祀。荒神谷遺跡と並ぶ古代出雲を代表する加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は島根県立古代出雲歴史博物館での展示の様子。 紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもある。紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.

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1世紀

全能者キリスト(ハリストス)」。 1世紀(いっせいき、いちせいき)は、西暦元年(1年)から西暦100年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最初の世紀でもある。 天文学以外では通常、西暦0年は存在せず、また0世紀もない。これは、ヨーロッパで西暦ができた6世紀の時点では、まだヨーロッパ人は零の概念を知らなかったためであると言われることもあるが、元年以前を表すために紀元前が導入されたのは零の概念が普及した後の17世紀のことである。 なお、天文学やISO 8601では、紀元1年の前年、すなわち紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.

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