ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

索引 オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

ットー3世(Otto III., 980年7月 - 1002年1月23日)は中世ドイツの王(在位:983年12月 - 1002年)及びイタリア王(在位:996年4月 - 1002年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:996年5月 - 1002年)。ザクセン朝第4代の王、第3代の皇帝。第2代皇帝オットー2世とギリシャ皇女テオファヌの子、初代オットー1世大帝の孫。古代ローマ帝国の復興を図った。ローマを首都とした帝国の再興を試みたが、現実に合わず果たせなかった。1002年に21歳で死去。.

71 関係: はとこいとこ大司教対立教皇復活祭マラリアマインツ大司教ハインリヒ2世 (バイエルン公)ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)バイエルン大公バシレイオス2世ヨハネス15世 (ローマ教皇)ヨハネス16世 (対立教皇)ヨハネス1世ツィミスケスラヴェンナリウドルフィング家ローマローマ帝国ローマ王ブルグントのアーデルハイトプラハプッリャ州パラティーノパヴィーアティヴォリテオファヌフルダファレーリアドイツ王国アーヘンイエス・キリストイタリア王イタリア遠征オットー1世 (神聖ローマ皇帝)オットー2世 (神聖ローマ皇帝)カール大帝ガエータギリシア語グレゴリウス5世 (ローマ教皇)コンスタンティノス8世コンスタンティヌス1世コンスタンティヌスの寄進状シルウェステル1世 (ローマ教皇)シルウェステル2世 (ローマ教皇)ゾエ (東ローマ女帝)サンタンジェロ城皇帝神聖ローマ帝国神権政治独身...東ローマ帝国教皇1000年1001年1002年12月7日1月23日2月18日4月12日4月29日5月21日5月3日980年983年991年994年996年997年998年999年 インデックスを展開 (21 もっと) »

はとこ

はとこは、自分からみて祖父母の兄弟姉妹の孫である。6親等の傍系親族の一つ。再従兄弟、又従兄弟(またいとこ)、二従兄弟(ふたいとこ)ともいう。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とはとこ · 続きを見る »

いとこ

いとこは、自分からみて親の兄弟姉妹の子供である。4親等の傍系親族の一つ。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)といとこ · 続きを見る »

大司教

大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と大司教 · 続きを見る »

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と対立教皇 · 続きを見る »

復活祭

復活祭(ふっかつさい、Πάσχα、Pascha、Pâques、Easter、Ostern、Пасха)は、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教において最も重要な祭正教会の出典:()カトリック教会の出典:(カトリック中央協議会)聖公会の出典:(日本聖公会 東京教区 主教 植田仁太郎)プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』910頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版(正教会:教会用語辞典)(カトリック百科事典)。 多くの教会で特別な礼拝(典礼・奉神礼)が行われるほか、様々な習慣・習俗・行事がある。 正教会ではギリシャ語から「パスハ」とも呼ぶ「パスハ」表記の大本はギリシア語である。Πάσχαは、古典ギリシア語再建からは「パスカ」と転写し得るが、現代ギリシア語では「パスハ」。新約時代以降のギリシア語の発音はアクセントやイ音化、各種子音の発音等、かなり現代ギリシア語に近くなっていた。正教が優勢な地域におけるスラヴ系言語、ルーマニア語等における、ギリシア語に由来する教会関連の語彙の発音は、中世以降のギリシア語発音に則っている。。カトリック教会では「復活の主日」(カトリック中央協議会)とも呼ばれ、聖公会、プロテスタントなどでは「復活日」(ふっかつび)「祭」の表記が教会暦において頻繁に使われる教会(正教、カトリックなど)では「復活祭」の表記が使われ、「祭」と位置づけられ呼ばれるが、「祭」の表記が比較的もしくはあまり使われない教会(聖公会、プロテスタントなど)では「復活日」という表記が一般的であり、「祝日」といった説明がなされる。プロテスタントの参照元である『キリスト教大事典』でも項目名は「復活日」となっていて、その説明冒頭において「祝日」としており「祭」とは書かれて居ない。や、英語から「イースター」とも呼ぶ。「復活節」(ふっかつせつ)は、西方教会において復活祭からの一定期間を指す用法の他、プロテスタントの一部で復活祭(復活日)当日を指す用法がある。 基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、年によって日付が変わる移動祝日である。日付は変わるものの、必ず日曜日に祝われる。キリスト教が優勢な国においてはその翌日の月曜日も休日にされていることがある。欧州における主要株式・債券市場は、復活祭の前の聖金曜日、復活祭後の月曜日に休場する。 東方教会と西方教会とでは日付の算定方法が異なるため、日付が重なる年もあるものの、日付が異なる年の方が多い春分の日の扱いが異なること、正教会では復活祭をユダヤ教の過越とともに祝わないという古い規定をそのまま守っていること、これら二つの違いが東西教会間にある。。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と復活祭 · 続きを見る »

マラリア

マラリア(麻剌利亜、「悪い空気」という意味の古いイタリア語: mal aria 、Malaria、malaria)は、熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症。高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈する。悪性の場合は脳マラリアによる意識障害や腎不全などを起こし死亡する。古典などで出てくる瘧(おこり)とは、大抵このマラリアを指していた。 マラリアは予防可能、治療可能な病気である。全世界ではマラリアに年間2.16億人が感染し、うち44.5万人が死亡している(2016年)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とマラリア · 続きを見る »

マインツ大司教

マインツ大司教(Erzbistum Mainz)、またはマインツ選帝侯(Kurfürstentum Mainz または Kurmainz )は、780/82年から1802年まで神聖ローマ帝国にあった、大きな力を持った司教領主である。 カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者(primas Germaniae)であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった。マインツ大司教座は司教座の中でも、ローマ大司教座を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていたが、現在ではこのような呼び方はあまり一般的ではなくなってきている。 マインツ大司教区は神聖ローマ帝国に相当の領地を持っていた。その範囲はマインツ近郊のライン川両岸地帯、フランクフルトの上流までのマイン川一帯(アシャッフェンブルク含む)、ニーダーザクセン州とテューリンゲン州にまたがるアイヒスフェルト(Eichsfeld)地方、テューリンゲン州エアフルト周辺に及んでいた。マインツ大司教はまた選帝侯の1人であり、ドイツ大書記官長であり、実質的には1251年から、そして1263年から1803年の間は一貫して、皇帝選挙の投票場管理官でもあった。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とマインツ大司教 · 続きを見る »

ハインリヒ2世 (バイエルン公)

ハインリヒ2世(Heinrich II., 951年 - 995年8月28日)は、バイエルン大公(在位:955年 - 976年および985年 - 995年)、ケルンテン大公(在位:989年 - 995年)。リウドルフィング家のバイエルン大公ハインリヒ1世とバイエルン公アルヌルフの娘ユーディトの間の息子で、神聖ローマ皇帝オットー2世の従兄にあたる。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の父。喧嘩公(der Zänker)とよばれる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とハインリヒ2世 (バイエルン公) · 続きを見る »

ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ2世(Heinrich II., 973年5月6日 - 1024年7月13日)は中世ドイツの王(在位:1002年 - 1024年)及びイタリア王(在位:1004年 - 1024年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1014年 - 1024年)。ザクセン朝第5代の王、第4代の皇帝。皇帝としてはハインリヒ「1世」だが曾祖父であるザクセン朝の初代国王ハインリヒ1世捕鳥王から数えて「2世」とするのが一般的である。父は初代皇帝オットー1世大帝の甥であるバイエルン公ハインリヒ2世、母はブルグント王コンラートの娘ギーゼラ成瀬、p.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

バイエルン大公

バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とバイエルン大公 · 続きを見る »

バシレイオス2世

バシレイオス2世“ブルガロクトノス”(Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος、958年 - 1025年12月25日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:976年 - 1025年)。禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とバシレイオス2世 · 続きを見る »

ヨハネス15世 (ローマ教皇)

ヨハネス15世(Ioannes XV、? - 996年4月1日)は、ローマ教皇(在位:985年 - 996年)。ローマ生まれ。レオ司祭という人物の子。クリュニー修道院による教会改革運動の保護者でもあった。 ヨハネス15世が教皇に就任した頃のローマは、ローマ貴族クレッシェンティウス2世の勢力下にあった。しかし989年に神聖ローマ帝国皇帝オットー3世の母にして摂政のテオファヌがローマに入城すると、クレッシェンティウス2世らローマ貴族勢力は抑えられ、その状況は991年まで続いた。 993年1月31日にラテラノで開催した教会会議にて、ヨハネス15世はアウクスブルクのウルリヒ司教の列聖式を執り行った。この列聖式は2月3日付けの教皇公文書にて仏独の司教たちに広報したものであった。これが史上初の教皇による列聖となる。 またヨハネス15世の在任中には、フランス王によるランス大司教叙解任に端を発する論争が巻き起こっていた。この混乱は叙任権闘争の初期段階と位置づけられる。 フランス王ユーグ・カペーはカロリング家出身のアルヌルフ(ロテールの庶子)を989年3月にランス大司教に任命した。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切り、叔父のロレーヌ公シャルルとともに同年9月にランスとランを占領。ユーグ・カペーは反撃して2人を捕らえてオルレアンに幽閉。991年6月にランス近郊サン・バールでの教会会議でアルヌルフは叛逆罪により降位させられ、後任にジェルベール(後のシルウェステル2世)が選出された。 サン・バール教会会議は教皇使節不在で行われたため、ヨハネス15世はローマから特使を派遣してアーヘンで教会会議を開催しサン・バール会議の反対決議を採択させようとしたが、アーヘン会議にフランス司教たちは参加せず、集まったドイツやロレーヌ地方の司教たちのみにより採択され、ジェルベールを破門とした。インゲルハイムでの会議にもフランス司教たちは参加しなかった。しかもフランス司教たちは994年にシェル教会会議を開いてアーヘンとインゲルハイムでの決議を無効とした。 ヨハネス15世はシェル教会会議に抗するためローマでの教会会議開催を求めたが、ローマは遠くその道程は厳しいとしてフランス司教たちは参加を拒否。それならばとヨハネス15世は再び特使を遣わしてムーゾンでの教会会議開催を通達。995年5月2日にムーゾン教会会議は開催。だがフランス側司教はフランス王によって参加が禁止されており、弁明を求めるジェルベール一人のみの参加であった。ムーゾン教会会議ではアルヌルフ罷免の無効が再び宣言された。 しかし皇太后テオファヌが離れたローマでは、金銭欲が強く血縁者を優遇していたヨハネス15世に対するローマ市民の不満が募っており、995年から996年の間にヨハネス15世はローマから追放される。皇帝オットー3世はローマを回復しようと進軍し、ジェルベールは皇帝に随行した。だがヨハネス15世は皇帝がローマに到着するよりも前の996年4月初旬に熱病で死亡。ランス大司教座の問題を解決する前に没することとなった。 ヨハネス15世の後任には、オットー3世によりオットー1世の曾孫ブルーノがグレゴリウス5世として選出された。 ヨハネス15世は自らのことを「教皇ヨハネス」の第15代目だと自覚し、公文書にも記している。だが、14世と15世の間にもう一人「教皇ヨハネス」が存在したという伝説があり、一部の歴史家はヨハネス15世のことを「16世」ないし「15世(16世)」としていた(対立教皇ボニファティウス7世がこの時期に教皇として君臨していた)。現在この伝説は否定されているが、混乱に起因する21世以降の世数は修正されないままである。 Category:教皇 Category:996年没 Category:ローマ出身の人物.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とヨハネス15世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ヨハネス16世 (対立教皇)

ヨハネス16世(Ioannes XVI (antipapa)、? - 1001年頃ないし1013年)は、対立教皇(在位:997年 - 998年)。本名ヨハネス・フィラガトスJohannes Philagathos。年代記作家はピラガートPiligato、フィラガットFilagattoとも記述する。 ヨハネス・フィラガトスは東ローマ帝国領土であった南イタリアカラブリア地方ロッサーノ(Rossano)の出身でギリシア系の出自であった。修道士であった彼は、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世妃テオファヌ(東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスの姪とされる)の側近となり、980年から982年まで神聖ローマ帝国のイタリアでの文書局長を勤め、またオットー2世の幼子(のちのオットー3世)の名付け親にして養育係であった。 983年12月7日にオットー2世が死去してのちもテオファヌの側近として助言を行う。988年にはピアチェンツァ司教となり、ピアチェンツァを司教座教会から大司教座教会に昇格させた。991年から992年まではノナントゥラNonantula修道院長となる。995年末には東ローマ帝国皇女をオットー3世妃に迎えるための調整役としてコンスタンティノポリスへ派遣される。 貴族クレッシェンティウス2世によるローマでの反乱を鎮圧したオットー3世は、血縁のブルーノをグレゴリウス5世として教皇座に就け、そして996年5月21日に戴冠を行わせた。オットー3世がローマを去ると、クレッシェンティウス2世らローマ貴族は東ローマ皇帝バシレイオス2世の援助を受けて蜂起、ドイツ人初の教皇であったグレゴリウス5世を996年9月にローマから追放した。そして翌997年5月、コンスタンティノポリスから帰還して間もないヨハネス・フィラガトスをヨハネス16世として教皇座に就任させた。その際、ヨハネスと親交のあったロッサーノの聖ニルスは、この教皇座簒奪を思い留まるよう説得している。 ヨハネス16世の即位に対し、グレゴリウス5世は神聖ローマ皇帝領のパヴィアにて997年の聖霊降臨祭の日に教会会議を開催。グレゴリウス5世の地位の確認と、クレッシェンティウス2世とヨハネス16世の破門を宣言した。6月にはピアチェンツァをラヴェンナ大司教管区下の司教座教会に戻した。冬にオットー3世はイタリアに進軍、998年2月にローマに入城しクレッシェンティウス2世の反乱を鎮圧した。そのときヨハネス16世はローマから逃走したが追捕され、鼻と耳を削がれ、舌を引き抜かれ、手の指を折られ、眼を潰され、ローマへと連行された。そしてラテラノで開催された教会会議にてオットー3世とグレゴリウス5世の面前で退位させられた。聖ニルスの取り成しによって一命は取り留めたものの、ローマ市内の修道院に収監されることとなった。反乱の首領クレッシェンティウス世はサンタンジェロ城に篭城したが、998年の復活祭に陥落、4月29日に斬首され、遺体は城壁に吊るされた。 ヨハネスはそののち一度司教の衣服を纏ってグレゴリウス5世の前に姿を現したが、そのときグレゴリウス5世によって服は引き裂かれ、ロバに乗せられてローマ民衆の見世物にされ、修道院に再び収監された。これらは聖ニルスについての信憑性の乏しい『聖者伝』(Vita)に記されており、それにはまた再収監後1001年頃に死亡したとある。また退位後修道院に収監されてのちにドイツのフルダ修道院に移送されたとも伝えられており、『フルダ年代記』(Annales Fuldenses)には1013年4月2日の日付でヨハネスの死が記載されている。 ヨハネス16世は自らを「16世」と名乗った。16世は正当な教皇ではなかったものの、次の「教皇ヨハネス」(在位:1003年)は17世を襲名している。しかし後世の歴史家は、おそらく22世の番号の理由付けのため、16世を「ヨハネス17世」ないし「ヨハネス16世(17世)」と呼んだ。というのも伝説では14世と15世の間にもう1人の「教皇ヨハネス」が存在したとされているからで、その伝説の教皇を歴史家がしばしば「16世」と呼んだからである。この混乱は対立教皇ボニファティウス7世の存在に起因すると考えられる。なお、教皇ヨハネス23世(在位:1958年-1963年)は実際には21番目の「教皇ヨハネス」である。 よはねす16 よはねす16.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とヨハネス16世 (対立教皇) · 続きを見る »

ヨハネス1世ツィミスケス

ヨハネス1世ツィミスケス(ギリシア語:Ἰωἅννης Αʹ Τζιμισκής, Iōhannēs I Tzimiskēs, 925年 - 976年1月10日)は、東ローマ帝国中期、マケドニア王朝の皇帝(在位:969年 - 976年)。軍人皇帝として活躍し、東ローマ帝国領を東方へ拡大させた。「ヨハネス」は慣用読みで、中世ギリシア語では「ヨアニス1世ツィミスキス」となる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とヨハネス1世ツィミスケス · 続きを見る »

ラヴェンナ

ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。 古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とラヴェンナ · 続きを見る »

リウドルフィング家

リウドルフィング家(Liudolfinger, Liudolfings)は、中世ドイツにおいて国王および皇帝を務めたザクセン出身の諸侯の家系である。「オットー家」(Ottonen)、あるいは国王を世襲した家系としてザクセン朝と呼ばれる(同じザクセン朝と呼ばれたズップリンブルク家とは直接関係はない)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とリウドルフィング家 · 続きを見る »

ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とローマ · 続きを見る »

ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とローマ帝国 · 続きを見る »

ローマ王

ーマ王は、古代ローマや神聖ローマ帝国における君主の呼称である。神聖ローマ帝国のローマ王はドイツ王とも通称される。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とローマ王 · 続きを見る »

ブルグントのアーデルハイト

ブルグントのアーデルハイト(Adelheid von Burgund, 931/932年 - 999年12月16日)は、イタリア王妃、東フランク王妃、そして最初の神聖ローマ帝国皇后。カトリック教会の聖人。オットー1世大帝の2番目の妃で、皇帝オットー2世の母親、皇帝オットー3世の祖母である。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とブルグントのアーデルハイト · 続きを見る »

プラハ

プラハ(チェコ語・スロヴァキア語: Praha )は、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市である。中央ヨーロッパ有数の世界都市。人口は、約120万人。北緯50度02分、東経14度45分に位置する。ドイツ語では Prag(プラーク)、マジャル(ハンガリー)語では Prága(プラーガ)、英語では Prague(プラーグ)と呼ばれる。漢字表記は布拉格。プラーグ、フラーグとも。 市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れる。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れる。カレル大学は中欧最古の大学である。尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれる。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もそのひとつである。市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがある。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっている。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とプラハ · 続きを見る »

プッリャ州

プッリャ州(Puglia)は、イタリア共和国南部にある州。州都はバーリ。 しばしばブーツに喩えられるイタリアの「かかと」に当たる地域で、南東にサレント半島が突き出している。東はアドリア海を隔ててギリシャ・バルカン半島と向き合い、南はターラント湾に面している。肥沃な平原が広がる地形で、古くから穀倉地帯として知られた。古代にはギリシア人が植民都市を築き、次いでローマ人がこの地を征服してアッピア街道を延伸した。以後、東ローマ帝国、ノルマン人・フランス人・スペイン人(シチリア王国・ナポリ王国)など、さまざまな民族や国家の支配を受けた。ターラントやブリンディジなどの港湾都市は古代以来の歴史を有する。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とプッリャ州 · 続きを見る »

パラティーノ

パラティーノ(Palatinus, パラティヌス、Palatino)、パラティーノの丘(Mons Palatinus モンス・パラティヌス)は、ローマの七丘のうちの一つ。最も歴史が古いといわれている。 パラティヌスの丘には、パラティウム(Palatium)とケルマヌス(Cermalus)の二つの頂があるが、紀元前3世紀頃以降は、パラティウムはパラティヌスの丘全体のことを指すようになる。 フォルム・ロマヌムとキルクス・マクシムス(大競技場)の間にある。古代にはローマ建国の英雄ロムルスとレムスがかつて住んだとされ、その後貴族の邸宅が建てられ、のちに初代皇帝アウグストゥスを筆頭に歴代の皇帝の宮殿が建てられたため、イタリア語や英語で宮殿(Palazzo, Palace)を意味する語の語源となった。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とパラティーノ · 続きを見る »

パヴィーア

パヴィーア(Pavia)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約7万3000人の基礎自治体(コムーネ)。パヴィーア県の県都。 ミラノの南約30km、ポー川との合流点にほど近いティチーノ川の河畔にあるこの都市には、東ゴート王国やランゴバルド王国が首都を置いた。中世においてはイタリア王権の首都とみなされており、神聖ローマ皇帝は12世紀に至るまでイタリア王としての戴冠式をこの都市で挙行した。1361年に設立されたパヴィーア大学を中心に学問の風土を持つ、閑静な都市である。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とパヴィーア · 続きを見る »

ティヴォリ

ティヴォリ(Tivoli)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市で、その周辺地域を含む基礎自治体(コムーネ)。ローマの東約30kmに位置する。人口は、約5万6000人である。 古代ローマ時代から保養地として知られ、ハドリアヌス帝や多くの貴族たちによって別荘(ヴィラ)が営まれた。ヴィッラ・デステ(エステ家の別荘)とヴィッラ・アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘)のふたつが、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、多くの芸術家によって、この地を題材にした作品が作られている。 日本語文献では「チボリ」などの表記もされる(#名称節参照)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とティヴォリ · 続きを見る »

テオファヌ

テオファヌ(Theophanu, 960年 - 991年6月15日)は、神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后。ギリシャ語名のテオファノ(Theophano)、テオファニア(Theophania)という記載もある。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とテオファヌ · 続きを見る »

フルダ

フルダ(Fulda)は、ドイツ連邦共和国の都市。ヘッセン州に属する。ブラウン管の発明で知られる、カール・フェルディナント・ブラウンの出生地。人口は約6万3千人(2003年末)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とフルダ · 続きを見る »

ファレーリア

ファレーリア(Faleria)は、イタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県にある、人口約2200人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とファレーリア · 続きを見る »

ドイツ王国

ドイツ王国(ドイツ語:Deutsches Reich)は、通常は9世紀から10世紀に現在のドイツを中心とする地域を支配した東フランクに成立しシュルツェ、p.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とドイツ王国 · 続きを見る »

アーヘン

アーヘン大聖堂 アーヘン大聖堂の内部 市庁舎 アーヘン(標準Aachen )は、ドイツ連邦共和国の都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。フランス語名はエクス・ラ・シャペル (Aix-la-Chapelle)。オランダ語名はアーケン (Aken)。ラテン語名はアクアエ・グラニ (Aquae-Grani, Aquisgranum)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とアーヘン · 続きを見る »

イエス・キリスト

イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、Ίησοῦς Χριστός、יְהוֹשֻׁעַ/יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ, )は、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されているX.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とイエス・キリスト · 続きを見る »

イタリア王

イタリア王(rex Italiae, re d'Italia)は、君主号の一つで、西方正帝の廃止後にローマ帝国の本土であったイタリア(半島部及び大陸部)を支配した人々が多くの場合に使用した歴史的背景を持つ王位。ただし実態を伴うかについては議論が残り、例えば1870年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるローマ占領が行われるまで、長らくイタリアの中心地であったローマ市は歴代国王の支配下になかった。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とイタリア王 · 続きを見る »

イタリア遠征

イタリア遠征(イタリアえんせい)とは、イタリアへ軍隊を遠征させて戦争などを行うこと。 中世にはイタリアは諸小邦に分裂していたため、西ヨーロッパの大国が相次いでイタリア遠征を行っている。次のようなものが知られている。なお、初期の神聖ローマ帝国では、イタリアに関わる政治をイタリア政策と呼んでいた。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とイタリア遠征 · 続きを見る »

オットー1世 (神聖ローマ皇帝)

ットー1世(Otto I.、912年11月23日 - 973年5月7日)は中世ドイツの王(在位:936年 - 973年)及びイタリア王(在位:951年 - 973年)、並びに西ヨーロッパの皇帝(在位:962年 - 973年)。ザクセン朝第2代の王、初代皇帝で初代国王ハインリヒ1世の子。形骸化して消滅したローマ皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。彼の時代にアブド・アッラフマーン3世から使節があった瀬原、p.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とオットー1世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

オットー2世 (神聖ローマ皇帝)

ットー2世(Otto II., 955年 - 983年12月7日)は中世ドイツの王(在位:961年 - 983年)及びイタリア王(在位:980年 - 983年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:967年 - 983年)。ザクセン朝第3代の王で第2代の皇帝。初代皇帝オットー1世大帝とその2番目の妻ブルグントのアーデルハイトの息子。実質的に君主となったのは父帝が死去した973年からである。それまでは父帝の後継者としての共立王、共同皇帝であった。偉大なる父の偉業を受け継いで、その版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが、帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とオットー2世 (神聖ローマ皇帝) · 続きを見る »

カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とカール大帝 · 続きを見る »

ガエータ

ータ(Gaeta)は、イタリア共和国ラツィオ州ラティーナ県にある、人口約2万1000人の基礎自治体(コムーネ)。ティレニア海に面する。軍港があり、アメリカ海軍の第六艦隊の母港となっている。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とガエータ · 続きを見る »

ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とギリシア語 · 続きを見る »

グレゴリウス5世 (ローマ教皇)

レゴリウス5世の墓碑 グレゴリウス5世(Gregorius V, 972年? - 999年2月18日)は、ローマ教皇(在位:996年5月3日 - 999年2月18日)。ドイツ人初のローマ教皇と言われる。本名はブルーノ1世(Bruno I)。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とグレゴリウス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

コンスタンティノス8世

ンスタンティノス8世(ギリシア語:Κωνσταντίνος Ηʹ, Kōnstantinos VIII, 960年? - 1028年11月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:1025年 - 1028年)。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス」となる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とコンスタンティノス8世 · 続きを見る »

コンスタンティヌス1世

アヤソフィアのモザイク画:聖母子にコンスタンティノポリスの街を捧げるコンスタンティヌス1世(顔の部分を拡大) ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:、272年2月27日 - 337年5月22日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年 - 337年)。帝国を再統一し、専制君主制を発展させたことから「大帝」と称される。 ミラノ勅令を発布したことでキリスト教を公認、その後の発展の政治的社会的基盤を用意したことから、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会では、聖人とされている。記憶日は、その母太后聖ヘレナと共に6月3日。日本正教会では正式には「亜使徒聖大帝コンスタンティン」と呼称される。 1950年にギリシャで発行された旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とコンスタンティヌス1世 · 続きを見る »

コンスタンティヌスの寄進状

教皇シルウェステル1世に寄進する皇帝コンスタンティヌス1世。13世紀のフレスコ。 コンスタンティヌスの寄進状(コンスタンティヌスのきしんじょう、Constitutum Donatio Constantini)は、8世紀中ごろに偽造された文書(偽書)。かつてはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が教皇領を寄進した証拠の文書とされ、教権の重要な根拠の一つであった。『偽イシドールス教令集』に掲載されていた。 8世紀当時、東ローマ帝国からの独立性を主張するために造られたと考えられている。800年のフランク王国カール大帝への戴冠もこの偽書を根拠として行われた。中世におけるローマ教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争の際にも根拠とされ、また東方教会との対立問題ではカトリック教会の独立性を主張するために引用された。11世紀以後も、教皇の世俗権と皇帝に対する優位性(「世界はローマ教皇に帰属する」という主張)の根拠として使用された。 15世紀にイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラが古いラテン語文献に使われている用法とは異なる点があることに気付き、『コンスタンティヌス寄進状の偽作論』を発表した。その後幾度もの論争を経て、18世紀に偽作であることが確定した。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とコンスタンティヌスの寄進状 · 続きを見る »

シルウェステル1世 (ローマ教皇)

ルウェステル1世(Papa Silvester / Sylvester I、? - 335年12月31日)は、ローマ教皇(在位: 314年1月31日 - 335年12月31日)。在位期間は21年11か月1日で、歴代教皇の中で8番目に長い在位期間をもつ。カトリック教会と正教会で聖人。カトリック教会での記念日は12月31日であるため西ヨーロッパでは12月31日を「シルヴェスター」等と呼称する地域もある。 正教会では聖神父ロマの「パパ」聖シルウェストルと呼ばれ、記憶日は1月2日(ユリウス暦を使用する正教会では1月15日に相当)。 ローマ皇帝のコンスタンティヌス1世に洗礼を施した教皇とされてきたが、現在ではこれは史実でなく、伝説であることがわかっている。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とシルウェステル1世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

シルウェステル2世 (ローマ教皇)

ーリヤックにあるブロンズ像 シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をまたいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とシルウェステル2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ゾエ (東ローマ女帝)

ゾエ(ギリシア語:Ζωή, Zoë, 978年頃 - 1050年6月)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の女帝(在位:1042年 - 1050年)。コンスタンティノス8世の次女で、妹テオドラはゾエと共に女帝の位に就いた。ゾエはロマノス3世アルギュロス、ミカエル4世およびコンスタンティノス9世モノマコスの3人と結婚し、夫らは皇帝位に就いた。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とゾエ (東ローマ女帝) · 続きを見る »

サンタンジェロ城

ンタンジェロ城 テヴェレ川対岸から見たサンタンジェロ城とサンタンジェロ橋 サンタンジェロ城(サンタンジェロじょう、Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によっては、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。 正面にはサンタンジェロ橋(ponte Sant'Angelo)があり、わずかに離れた場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている。かつてはハドリアヌス廟(Mausoleum Hadriani)と呼ばれていた。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)とサンタンジェロ城 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と皇帝 · 続きを見る »

神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と神聖ローマ帝国 · 続きを見る »

神権政治

権政治(しんけんせいじ、θεοκρατια,theocracy シオクラシー)または神政政治、神聖政治(しんせいせいじ)とは、国家の政体の1種で、特定宗教を統括する組織と、国家を統治する機構が実体的に同等な場合である。対比概念は世俗主義である。ウェブスター辞典は「神の直接の導きによる、または神に導かれたと看做された高官による国家の統治」と定義している(Merriam-Webster).2017.3.13.検索。。 語源は、古典ギリシア語で「神」を意味する、theos (θεος) と、「支配する」という意味の動詞 kratein (κρατειν) から派生した名詞 kratia (κρατια) との合成語で、「theokratia (テオクラティア) 」とは文字通りには「神による支配」である。フラウィウス・ヨセフスが初めて用いたとされる。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と神権政治 · 続きを見る »

独身

身(どくしん)とは、法に基づいた婚姻契約が無い状態のこと(者)を指す。民法上において配偶者がいないこと(者)のこと。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と独身 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と東ローマ帝国 · 続きを見る »

GHSの高い急性毒性を示す標章 EUでの一般的な毒のシンボル(2015年までの使用)。 毒(どく)、毒物(どくぶつ)は、生物の生命活動にとって不都合を起こす物質の総称である。 毒物及び劇物指定令で定められる「毒物」については毒物及び劇物取締法#分類の項を参照のこと。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と毒 · 続きを見る »

教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と教皇 · 続きを見る »

1000年

月曜日から始まる。また、10世紀および1千年紀における最後の年でもある。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と1000年 · 続きを見る »

1001年

11世紀および2千年紀における最初の年である。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と1001年 · 続きを見る »

1002年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と1002年 · 続きを見る »

12月7日

12月7日(じゅうにがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から341日目(閏年では342日目)にあたり、年末まであと24日ある。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と12月7日 · 続きを見る »

1月23日

1月23日(いちがつにじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から23日目に当たり、年末まであと342日(閏年では343日)ある。誕生花は、スノーフレークなど。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と1月23日 · 続きを見る »

2月18日

2月18日(にがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から49日目にあたり、年末まであと316日(閏年では317日)ある。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と2月18日 · 続きを見る »

4月12日

4月12日(しがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から102日目(閏年では103日目)にあたり、年末まではあと263日ある。誕生花はアンズ、カタクリ。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と4月12日 · 続きを見る »

4月29日

4月29日(しがつにじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から119日目(閏年では120日目)にあたり、年末まではあと246日ある。誕生花はフジ、ミヤコグサ。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と4月29日 · 続きを見る »

5月21日

5月21日(ごがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から141日目(閏年では142日目)にあたり、年末まではあと224日ある。誕生花はボリジ。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と5月21日 · 続きを見る »

5月3日

5月3日(ごがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から123日目(閏年では124日目)にあたり、年末まではあと242日ある。誕生花はミズバショウ。.

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と5月3日 · 続きを見る »

980年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と980年 · 続きを見る »

983年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と983年 · 続きを見る »

991年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と991年 · 続きを見る »

994年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と994年 · 続きを見る »

996年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と996年 · 続きを見る »

997年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と997年 · 続きを見る »

998年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と998年 · 続きを見る »

999年

記載なし。

新しい!!: オットー3世 (神聖ローマ皇帝)と999年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »