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ウンベルト・ジョルダーノ

索引 ウンベルト・ジョルダーノ

ウンベルト・ジョルダーノ(Umberto Giordano, 1867年8月28日フォッジャ - 1948年11月12日)はイタリアのオペラ作曲家。 南イタリアの町フォッジャ生まれ。父は薬剤師で、家族の反対を押し切って音楽の道を志す。故郷で音楽の基礎教育を受けた後、13歳でナポリ音楽院に学ぶ。在学中実家の経済状態が悪化し、一時退学して地元のオペラ劇場でアルバイトをしながら糊口をしのぐが、学校関係者の尽力で復学が叶い、1890年まで同音楽院にて作曲を学ぶ。この学生時代からの友人にフランチェスコ・チレア(ジョルダーノと同じ南イタリア出身)がいる。 1890年、最初のオペラ《マリーナ Marina》を学内の選抜試験のために作曲。同作を地元出版社ソンゾーニョ社主催の「一幕オペラコンテスト」に応募するも落選(ちなみに第一位はマスカーニの《カヴァレリア・ルスチカーナ Cavalleria Rusticana》)。しかし彼の音楽に可能性を見出したソンゾーニョ社の後援を受けて第2作目《堕落した生活 Mala Vita》の上演に漕ぎつけた。これは自分の結核が治るなら娼婦を改心させてみせるという人夫についてのヴェリズモ・オペラで、1892年にローマで上演された時、煽情的な内容と激しい音楽が受け入れられず大失敗となり、地元ナポリでは町の恥だと観客が怒り、暴動騒ぎとなる。ジョルダーノは、次回作のオペラ《ディアス女王 Regina Diaz》(1894年)によって、もっとロマンティックな創作姿勢をとろうとしたが、これもまた失敗作となり、わずか2回の上演で舞台から消えてしまい、ソンゾーニョ社からの支援も打ち切りが決定、心機一転をはかるべく、ジョルダーノは同年のうちに活動の拠点をミラノに移す。 その後はヴェリズモ・オペラの第一人者であるマスカーニやソンゾーニョ社と契約していた貴族出身作曲家アルベルト・フランケッティの知遇を得、私生活でも結婚する(オルガ夫人はミラノ・グランドホテルのオーナーの娘)など、幸運な時期を迎える。フランケッティはソンゾーニョ社に掛け合って、ジョルダーノへの支援を再開させてくれ、更に、作曲面では良い台本に恵まれていなかったジョルダーノに、自分が作曲を依頼されていた台本の作曲権を無償譲渡してくれた。好転してきた環境でジョルダーノは譲渡された作品である、フランスの詩人アンドレ・シェニエの生涯に基づくオペラ《アンドレア・シェニエ Andrea Chénier》に取り組み、1896年初演。作曲家として初めての大成功をおさめる。現在に至るまで彼の代表作に挙げられるこの作品でジョルダーノは再び「ヴェリズモ」的な創作姿勢に立ち返った。本作の上演にあたってはマスカーニの支援もあったという。続く第5作目の《フェドーラ Fedora》(1898年)も成功し、今なお上演されている。その後の作品はヴェリズモ・オペラの影響から抜け出せず、第二次世界大戦後の1948年、過去の栄光の中で亡くなった。享年81。後年の作品はそれほど有名とはいえないが、時どき蘇演されることがある。 《フェドーラ》以降の後半生での不振の要因として、《アンドレア・シェニエ》全曲盤の解説を執筆した音楽評論家・高崎保男は「ジョルダーノの音楽の特徴として、転調、それもかなり遠隔な調性への大胆な転調が挙げられ、転調はマスカーニに比較しても頻繁で、その特徴が音楽的昂奮に繋がっていた。そうした激しい音楽によって劇場的昂奮を生み出す才能において、ジョルダーノは確かにプッチーニに匹敵するほどの作曲家だったが、その音楽によって語られるドラマの実質がそれに伴わない場合、音楽の刺戟と昂奮はいたずらに空転してしまい、かえって抑制と気品の欠如が露呈されることになる。『アンドレア・シェニエ』はそのドラマの激しさと巧みな作り方のお陰で、ジョルダーノの音楽の威力と魅力を十分に生かすことができた作品といってよい」という趣旨の分析を述べており、ヴェリズモ・オペラの影響から抜け出せなかったことの他、ジョルダーノの作曲手法・旋律様式等にも限界があったのではないかとの見方を示している。.

33 関係: 作曲家ナポリ音楽院ミラノローマヴェリズモ・オペラピエトロ・マスカーニフランチェスコ・チレアフランスフォッジャアルベルト・フランケッティアンドレ・シェニエアンドレア・シェニエイタリアオペラカヴァレリア・ルスティカーナ結核詩人11月12日1867年1892年1894年1896年1897年1898年1903年1907年1910年1915年1924年1927年1929年1948年8月28日

作曲家

作曲家(さっきょくか)は、音楽を創作(作曲)する人のことであり、とくにそれを生業とする人を指す。日本語で作曲者というとそれより広い意味を持つことがある。.

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ナポリ音楽院

音楽院の看板 ナポリ音楽院(正式にはサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院 Conservatorio di musica San Pietro a Majella)は、南イタリア、ナポリにある音楽院。の複合施設中に位置している。 この音楽院はもともと修道院であったサン・セバスティアーノ(San Sebastiano)の教会に入居しており、1807年成立年に若干の揺れが見られるが、原文の表記に従った。に設立されたサン・セバスティアーノ音楽院(Conservatorio di San Sebastiano)だった。これはサンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院(Santa Maria di Loreto)、サントノフリオ・ア・ポルタ・カプアーナ音楽院(Sant'Onofrio a Porta Capuana)、ピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院(Pietà dei Turchini)が合併したものである。音楽院はレアル・コッレージョ・ディ・ムージカ(Real Collegio di Musica)としても知られるようになり、1826年以降は現在の場所に移動してサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院となった。.

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ミラノ

ミラノ(Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(Milan)、フランス語ではミラン(Milan)、ドイツ語ではマイラント(Mailand)、スペイン語ではミラン(Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(Mediolanum)と言う。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ヴェリズモ・オペラ

ヴェリズモ・オペラ(verismo opera)は、1890年代から20世紀初頭にかけてのイタリア・オペラの新傾向である。同時代のヴェリズモ文学に影響を受け、内容的には市井の人々の日常生活、残酷な暴力などの描写を多用すること、音楽的には声楽技巧を廃した直接的な感情表現に重きを置き、重厚なオーケストレーションを駆使することをその特徴とする。 そうした傾向をもっともよく示す作品として今日も上演機会が多いオペラとしては、ピエトロ・マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』(初演1890年)、ルッジェーロ・レオンカヴァッロ『道化師』(同1892年)などがある。時には、同時代に作曲されたウンベルト・ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』(同1896年)やジャコモ・プッチーニ『トスカ』(同1900年)など、同時代の庶民生活を題材とせず、歴史上あるいは架空の人物を主人公とするオペラも、その激しい感情表出に着目した場合「ヴェリズモ・オペラ」の範疇に含めて論じられることもある。.

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ピエトロ・マスカーニ

ピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni, 1863年12月7日リヴォルノ - 1945年8月2日ローマ)は、イタリアのオペラ作曲家、指揮者。.

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フランチェスコ・チレア

フランチェスコ・チレア(Francesco Cilea、1866年7月23日 - 1950年11月20日)は、イタリアのオペラ作曲家。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フォッジャ

フォッジャ(Foggia)は、イタリア共和国プッリャ州の都市で、その周辺地域を含む人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。フォッジャ県の県都である。 「イタリアの穀倉」とも呼ばれるタヴォリエーレ平原の中心都市である。.

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アルベルト・フランケッティ

アルベルト・フランケッティ(Alberto Franchetti, 1860年9月18日 - 1942年8月4日)はイタリアのオペラ作曲家。トリノ出身。物心ともに不自由のない貴族の出自で、ヴェネツィアやミュンヘンに学ぶ。 プッチーニ、マスカーニ、ジョルダーノ、レオンカヴァッロらとともに、いわゆる「新イタリア楽派」giovane scuola italianaの一員とされる。特に彼の作風はこの楽派中でも最も先鋭的と考えられ、ワーグナーの楽劇をイタリアのヴェリズモ・オペラに融合させた、と評されている。 代表作に1892年の歌劇《クリストフォロ・コロンボ Cristoforo Colombo》(コロンブスを描いた「新大陸発見」400周年記念作品)と1902年の歌劇《ジェルマニア Germania》があるが、貴族出身の故か他の同年代作曲家に対する競争心・敵対心に乏しく、《アンドレア・シェニエ Andrea Chénier》と《トスカ Tosca》のオペラ化の権利をそれぞれジョルダーノとプッチーニに無償で譲渡してしまい、それらが彼らの傑作になったのは皮肉であった。 Category:イタリアの作曲家 Category:ロマン派の作曲家 Category:オペラ作曲家 Category:トリノ出身の人物 Category:1860年生 Category:1942年没.

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アンドレ・シェニエ

アンドレ・マリ・シェニエ(André Marie Chénier, 1762年10月30日 - 1794年7月25日)は、フランス革命に関係したフランスの詩人。官能的で情感豊かな詩作によって、ロマン主義文学運動の先駆者のひとりに位置付けられている。恐怖政治が終わるわずか3日前に、「国家反逆罪」を宣告されて断頭台の露と消えたため、その活動は唐突に終わりを迎えた。ウンベルト・ジョルダーノのオペラ作品「アンドレア・シェニエ」などに取り上げられている。弟ジョゼフは文人・政治家。.

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アンドレア・シェニエ

『アンドレア・シェニエ』(Andrea Chénier )は、イタリアの作曲家ウンベルト・ジョルダーノによる全4幕のオペラである。1896年3月ミラノ・スカラ座で初演された。18世紀、革命前後のフランスを舞台に、実在の詩人アンドレ・シェニエ(アンドレアはイタリア語読み)の半生を描き、ヴェリズモ・オペラの傑作のひとつとして数えられる作品。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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オペラ

イタリア・ミラノにあるスカラ座。1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。 オペラ(イタリア語・英語: opera、フランス語: opéra、ドイツ語: Oper)は、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。歌劇(かげき)とも呼ばれる。.

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カヴァレリア・ルスティカーナ

『カヴァレリア・ルスティカーナ』(Cavalleria Rusticana)は、イタリアの小説家、ジョヴァンニ・ヴェルガによる小説(1880年出版)、同人による戯曲(1884年初演)、およびピエトロ・マスカーニが同戯曲に基づいて作曲した1幕物のオペラ(1890年初演)。題名は「田舎の騎士道」といった意味である。今日、特にイタリア語圏以外では最後のオペラ作品が有名となっており、本項でもオペラを中心に記述する。 ヴェルガの出身地シチリアの山間部を舞台として、貧しい人々の暮らし、三角関係のもつれから起きる決闘と殺人を描いたこの小説は、イタリアにおけるヴェリズモ(リアリズム文芸運動)の典型的作品とされている。 一方、マスカーニのオペラは1890年に完成し、楽譜出版社ソンゾーニョ社主催の1幕物オペラ・コンクールで圧倒的な支持を受けて優勝、マスカーニはたちまちオペラ界の寵児となった。また、このオペラはヴェリズモ・オペラ形式の端緒をなすものとされる。.

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結核

結核(けっかく、Tuberculosis)とは、マイコバクテリウム属の細菌、主に結核菌 (Mycobacterium tuberculosis) により引き起こされる感染症Kumar, Vinay; Abbas, Abul K.; Fausto, Nelson; & Mitchell, Richard N. (2007).

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詩人

詩人(しじん)とは、詩を書き、それを発表する者。また、そのことを職業にしている者。 後者でも詩作のみで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、評論、随筆、翻訳、小説、音楽、絵画、演劇、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは(文学と縁遠い)他の職業を持っている。たとえば高村光太郎は彫刻家としても多数の作品を残しているし、草野心平にはバーや居酒屋の経営をしていた時期がある。アルチュール・ランボーは10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は貿易商などさまざまな仕事に捧げた。 シンガーソングライターが詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。ボブ・ディラン、パティ・スミスなどがその例である。 また、詩人は古くから聴衆を前に自身の詩を朗読するのを常としていたが、その行為を、ポエトリーリーディングという表現形態において現代社会に甦らせた動きが、欧米のみならず、日本においても1990年代の半ば以降見受けられる、フランスのパリのレーベルで自身のポエトリーリーディングのCDを出している詩人であり美術家でありポエトリーリーディングアートパフォーマーである千葉節子等がその代表的な例である。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。新明解国語辞典第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、三好達治は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている。 歌の歌詞の作者のことは一般に作詞家と呼ばれる。.

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11月12日

11月12日(じゅういちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から316日目(閏年では317日目)にあたり、年末まであと49日ある。.

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1867年

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1892年

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1894年

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1896年

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1897年

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1898年

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1903年

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1907年

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1910年

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1915年

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1924年

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1927年

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1929年

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1948年

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8月28日

8月28日(はちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。.

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