ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ウラジーミル・スーズダリ大公国

索引 ウラジーミル・スーズダリ大公国

ウラジーミル・スーズダリ大公国(ウラジーミル・スーズダリたいこうこく)は、ルーシの公国の一つ。12世紀後半以後は大公国。現在のスーズダリ・モスクワなどを含む地域で、当時の辺境地であった北東ルーシに位置した。首府はウラジーミル。.

60 関係: 古東スラヴ語大公ミハイル・ヤロスラヴィチミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)バトゥモンゴルのルーシ侵攻モンゴル帝国モスクワヤロスラヴリヤロスラフ2世ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)ヤロスラフ3世ユーリー2世ユーリー3世 (モスクワ大公)ユーリー・ドルゴルーキーヨーロッパロストフヴァシーリー1世ヴァシーリー2世ヴァシーリー3世ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公)フセヴォロド3世ドミートリー・ドンスコイドミトリー・アレクサンドロヴィチドイツ騎士団ダニール・アレクサンドロヴィチアレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)アレクサンドル・ネフスキーアレクサンドル・ボロディンアンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)イヴァン1世イヴァン2世イヴァン3世イヴァン4世イーホル・スヴャトスラーヴィチイーゴリ公イーゴリ遠征物語ウラジーミル (ウラジーミル州)エフロシニヤ・ヤロスラヴナオペラキエフ大公国コンスタンチン (ウラジーミル大公)シチ川 (ヴォルガ川水系)シチ川の戦いジョチ・ウルススラヴ民族の北東ルーシへの移動スーズダリスウェーデンセミョーン (モスクワ大公)タタールのくびき...冊封1157年1176年1195年1212年1238年1263年1271年1276年1363年 インデックスを展開 (10 もっと) »

古東スラヴ語

古東スラヴ語(こひがしスラヴご、Old East Slavic, OES、古代ロシア語、古ルーシ語などとも)は、10世紀から15世紀にかけて、キエフ・ルーシとその後継諸国の東スラヴ人によって使用された言語。かつて現在の東ヨーロッパのウクライナ、ベラルーシ、ロシアやポーランドの県の一部で話されており、今日のウクライナ語、ベラルーシ語、ロシア語などに発展したとされる(否定説もある中井「ウクライナ語小史」p.157)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と古東スラヴ語 · 続きを見る »

大公

大公(たいこう、、)は、称号の一つ。ヨーロッパの称号のうち公と訳されるものよりさらに上の称号を訳すのに使われる。大公と訳される称号には、grand duke などいくつかある(以下、原義を示すのに便宜上原則として英語を用いる)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と大公 · 続きを見る »

ミハイル・ヤロスラヴィチ

ミハイル・ヤロスラヴィチ(、1271年 - 1318年11月22日)は、最初トヴェリ公(1285年 - 1318年)、従兄弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチの死後ウラジーミル大公(在位:1304年-1318年)。別名トヴェリのミハイル。モスクワのユーリー3世のライヴァルであり、サライで処刑された。正教会の聖人。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とミハイル・ヤロスラヴィチ · 続きを見る »

ミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公)

ミハイル・アレクサンドロヴィチ(, 1333年 - 1399年)は、トヴェリ大公(1368年 - 1399年)、父はアレクサンドル・ミハイロヴィチ、母はアナスタシア某。1340年頃からミクリン公。叔父ヴァシーリー・ミハイロヴィチの死後、トヴェリ大公位を継ぐ。息子には二人のアレクサンドル、イヴァン、ヴァシーリー、ボリス、フョードルがいる。1370年に一時的にウラジーミル大公になった。モスクワと争ったトヴェリ公としては、実質最後の公。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とミハイル・アレクサンドロヴィチ (トヴェリ大公) · 続きを見る »

バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とバトゥ · 続きを見る »

モンゴルのルーシ侵攻

モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になったという見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある。 また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とモンゴルのルーシ侵攻 · 続きを見る »

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とモンゴル帝国 · 続きを見る »

モスクワ

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: マスクヴァー、)は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独でロシア連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市」(Город Москва)となる。人口は約1150万人でヨーロッパで最も人口の多い都市であり、世界有数の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。英語で発音した場合には、モスコーあるいはモスカウ(Moscow )のようになる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とモスクワ · 続きを見る »

ヤロスラヴリ

ヤロスラヴリ(ヤロスラーヴリ;ロシア語:Ярославльイラスラーヴリ、ラテン文字転写の例:Jaroslavl’)は、ロシアの都市である。ヤロスラヴリ州の州都。人口は約61万人(2002年)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヤロスラヴリ · 続きを見る »

ヤロスラフ2世

ヤロスラフ2世(ロシア語表記:Ярослав II).

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヤロスラフ2世 · 続きを見る »

ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)

ヤロスラフ・フセヴォロドヴィチ(、1191年2月8日 - 1246年9月30日)は、フセヴォロド3世の子、母はチェコ公女マリヤ。キエフ大公としてはヤロスラフ3世と数えられる。ペレヤスラヴリ・ザレスキーで生まれる。ペレヤスラヴリ公、ノヴゴロド公、キエフ大公(1236年)を歴任。兄ユーリー2世の死後、ウラジーミル大公(1238年-1246年)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公) · 続きを見る »

ヤロスラフ3世

ノヴゴロドにおけるヤロスラフ3世 ヤロスラフ3世 (1230年 - 1271年)は、最初トヴェリ公(1247年 - 1271年)、兄の死後ウラジーミル大公(在位:1263年-1271年)。ヤロスラフ2世の子で、ロシアの英雄と言われるアレクサンドル・ネフスキーの弟。トヴェリ公国の祖で、彼の血筋が1485年までトヴェリ公国を引き継いだ。息子は、モスクワのユーリー3世のライヴァルであり、サライで処刑されたミハイル公。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヤロスラフ3世 · 続きを見る »

ユーリー2世

ユーリー・フセヴォロドヴィチ(、1188年11月26日 - 1238年3月4日)は、フセヴォロド3世の子。母はチェコ公女マリヤ。兄コンスタンチンとウラジーミル大公位を争った。彼の在位は1214年-1216年、1218年-1238年。彼の命令で、キーテジという町がヴォルガ川の河畔に建設された。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とユーリー2世 · 続きを見る »

ユーリー3世 (モスクワ大公)

ユーリー3世 ユーリー・ダニーロヴィチ(Юрий Данилович、1281年 - 1325年11月21日)、またはゲオルギー・ダニーロヴィチ(Гео́ргий Дани́лович)は、モスクワ大公(在位:1303年 - 1325年)、ウラジーミル・スーズダリ大公(在位:1318年 - 1322年)。ウラジーミル・スーズダリ大公としてはユーリー3世(Юрий III)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とユーリー3世 (モスクワ大公) · 続きを見る »

ユーリー・ドルゴルーキー

ユーリー1世ドルゴルーキー(、1099年頃 - 1157年5月15日)は、スーズダリ公、ペレヤスラヴリ公、キエフ大公(在位:1149年 - 1150年、1150年、1155年 - 1157年)。ウラジーミル2世モノマフの六男、母はコンスタンティノポリス貴族の娘。ドルゴルーキー(手長公)のあだ名は、彼が北東ルーシのスーズダリに居を構えつつ、しばしば南方キエフに攻め入り、これを占領したことに由来する。彼はモスクワの建設者としても知られる。洗礼名はゲオルギイ。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とユーリー・ドルゴルーキー · 続きを見る »

ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヨーロッパ · 続きを見る »

ロストフ

トフ(Росто́в, Rostov, 古ノース語: Rostofa)はロシアのヤロスラヴリ州にある都市。モスクワから北東へ225km、ヤロスラヴリの南西53キロ、ネロ湖のそばに栄えたロシア最古級の古都で、住民は2002年国勢調査で34,141人。いわゆる「黄金の輪」を構成する都市の一つ。年代記では862年が初出。 ドン川沿いの大都市ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)と区別するために、ロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий, 大ロストフ)、或いはロストフ・ヤロスラフスキーと呼ばれることもある。鉄道駅はロストフ・ヤロスラフスキー駅と呼ばれ、モスクワからヤロスラヴリ方面行きの多くの列車が停車する。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とロストフ · 続きを見る »

ヴァシーリー1世

ヴァシーリー1世(Василий I,Vasilii I, 1371年12月30日 - 1425年2月27日、在位:1389年 - 1425年)は、モスクワ大公。ドミトリイ・ドンスコイと公妃エフドキヤの長男。息子には ヴァシーリー2世がいる。弟には、後に一時的にモスクワ大公位に就くガーリチ公、そしてモジャイスク公アンドレイ、ドミトロフ公ピョートル、コンスタンチンがいる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヴァシーリー1世 · 続きを見る »

ヴァシーリー2世

ヴァシーリー2世 ヴァシーリー2世(Василий II, Vasilii II、1415年3月10日 - 1462年3月27日)はモスクワ大公(在位:1425年 - 1434年、1434年 - 1462年)。ヴァシーリー1世の次男。母親はリトアニア大公ヴィータウタスの娘ソフィヤ。息子にはイヴァン3世、ユーリー、アンドレイ、ボリス、アンドレイがいる。1420年代から1450年代までの内戦期を戦い抜き、モスクワ大公国の多くの分領を廃止して、統一国家の土壌を整えた。内戦期に盲目にされたため、ヴァシーリー盲目公とも呼ばれる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヴァシーリー2世 · 続きを見る »

ヴァシーリー3世

ヴァシーリー3世(Василий III Иванович、1479年3月25日 - 1533年12月4日)はモスクワ大公(在位:1505年 - 1533年)。イヴァン3世の次男、母はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスの娘ソフィヤ。イヴァン4世の父。 1490年代、ヴァシーリーと異母兄イヴァンの遺児ドミトリーとの間で、双方の母親ゾエとエレナを中心に激しい後継者レースが展開された。イヴァン3世は1497年一旦は孫のドミトリーを共同統治者としたものの、1500年にはヴァシーリーを共同統治者および後継者に指名し、ドミトリーとその母親エレナは失脚した。この争いには正教会と「ユダヤ派」という異端との宗派対立も絡んでおり、ヴァシーリーは正教会側に担がれていた。 即位後は父親の領土併合・拡張政策を継承し、未婚で死去した二人の弟の領地を奪って分割相続の弊害を抑止した。さらにプスコフ共和国(1510年)、ヴォロク公国(1513年)、リャザン公国(1521年)、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公国(1522年)など近隣地域をモスクワ国家に組み込む。リトアニア大公国との戦いでも勝利してスモレンスクなどを獲得した。南方ではカザン・ハン国に親モスクワ派のハンを立てた。外交にも積極的で、神聖ローマ帝国やオスマン帝国、ムガル帝国に使節を送った。内政では地方行政を整備して直接統治に移行させ、財政・外交分野の専門家を登用して非貴族出身者にも役人となる道を開いた。また正教会との関係も一気に強まり、ツァーリが教会を保護する義務を負い、教会がツァーリ権力を支持するという形が定まった。 ヴァシーリー3世は1505年に即位すると伝統の花嫁コンテストを開き、1500人の高貴な娘の中からソロモニヤ・サブーロヴァを妻に選んだ。しかし子供に恵まれず、1525年、府主教ダニールに婚姻無効の宣言させ、彼女を修道院に幽閉する。1526年、タタールの血を引くリトアニア生まれの大貴族の娘エレナ・グリンスカヤと再婚し、間に後継者イヴァンおよびユーリーの二人の息子をもうけた。 この離婚と再婚の経緯に対しては、聖マクシム・グレクが反対したが、ためにマクシムは投獄されることとなった。マクシムはその前に、異端の出現による思想的混乱の終息をねらって聖書・各種祈祷書等を翻訳させるために、ヴァシーリー3世がギリシャのアトス山から呼び寄せていた修道士であった。 1533年12月に敗血症で没し、幼いイヴァン4世のもとで大貴族が権力を奪い合う時代が続いた。ヴァシーリー3世は狩猟や修道院巡礼を趣味とし、西欧の思想・技術にも関心を抱く開明的な君主だったという。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヴァシーリー3世 · 続きを見る »

ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公)

ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ(、1241年? - 1276年)は、コストロマー公を経てウラジーミル大公。ヤロスラフ2世の末子で、アレクサンドル・ネフスキーとヤロスラフ3世の弟に当たる(在位:1272年 - 1277年)。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公) · 続きを見る »

フセヴォロド3世

フセヴォロド3世(Все́волод III Ю́рьевич Большо́е Гнездо́, 1154年 - 1212年4月15日)は、ウラジーミル大公。短期的にはキエフ大公位にも就いた。父はユーリー・ドルゴルーキー、兄はアンドレイ1世(アンドレイ・ボゴリュプスキー)。祖父はウラジーミル2世モノマフ。子が多く、大巣公と呼ばれた。息子にはコンスタンチンやユーリー2世、ヤロスラフ2世ら、孫にアレクサンドル・ネフスキーがいる。妻はオセット人といわれるマリヤ、のちヴィテプスク公ヴァシリコ2世娘リュバヴァ(子はない)。 洗礼名はドミートリー。モスクワ北方の町ドミトロフは彼の生誕に伴い建設された。 1169年には兄アンドレイ1世の命により、甥のムスチスラフ(ru)と共にキエフを陥落させる。 1173年には、キエフにおいて、従兄弟のダヴィド、ムスチスラフにより捕らわれる。 1176年にウラジーミルの市民により、公として招かれる。 1182年頃から、ヴォルガ・ブルガールに視線を向け始める。 1186年にはブルガールにゴロジェッツから遠征軍を送る。 Category:ウラジーミル大公 Category:キエフ大公 Category:ペレヤスラヴリ・ザレスキー公 Category:ユーリー家 Category:リューリク朝 Category:1154年生 Category:1212年没.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とフセヴォロド3世 · 続きを見る »

ドミートリー・ドンスコイ

ドミートリー・ドンスコイ ドミートリー・ドンスコイ(ドミートリイ、ドミトリー、またドンスコーイとも;Дмитрий Донской ドミートリイ・ダンスコーイ、1350年10月12日 - 1389年5月19日、在位は1359年 - 1389年)は、第4代モスクワ大公。イヴァン2世の子。イヴァン1世の孫。本名はドミートリー・イヴァーノヴィチ。ドミートリー・ドンスコイという名は「ドン川のドミートリー」という意味の称号で、ドン地方で武功を挙げたことによる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とドミートリー・ドンスコイ · 続きを見る »

ドミトリー・アレクサンドロヴィチ

ドミトリー・アレクサンドロヴィチ(、1250年頃? - 1294年)は、アレクサンドル・ネフスキーの次男。母はポロツク公妃アレクサンドラ・ブリャチェスラヴナ。 ペレヤスラヴリ公。一時期ノヴゴロド公に就任した後、ウラジーミル大公(1276(或いは1277)年-1281年、1283年-1285年)。 父の存命中に頭角を現す。1262年には叔父にあたるヤロスラフ3世とともにドイツ騎士団と戦い、ユーリエフ(ドルパト)を攻め落とす。 1277年に、叔父のウラジーミル大公ヴァシーリー・ヤロスラヴィチを継ぎ、大公に就任。1281年以降は弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチと大公位を争った。ドミトリーにはノガイが、アンドレイにはキプチャク・ハン国が付き、争いは熾烈を極め、両者は交互に大公位に就いた。1294年に死去。ペレヤスラヴリを彼の息子イヴァンが継ぐが、彼も8年後に父の後を追う。このイヴァンの遺言により、ペレヤスラヴリはドミトリーの弟のダニール・アレクサンドロヴィチに遺贈された。 Category:ペレヤスラヴリ・ザレスキー公 Category:ノヴゴロド公 Category:ウラジーミル大公 Category:ユーリー家 Category:リューリク朝 Category:1294年没.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とドミトリー・アレクサンドロヴィチ · 続きを見る »

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツきしだん、Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum、Orden der Brüder vom Deutschen Haus der Heiligen Maria in Jerusalem)。英語では Teutonic Order と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者の護衛と病院設立の目的で設立された。メンバーは、中世には十字軍の騎士修道会とし任務していたので、一般的にはチュートン騎士として知られていた。プロイセンなど統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とドイツ騎士団 · 続きを見る »

ダニール・アレクサンドロヴィチ

ダニール・アレクサンドロヴィチ(『ツァールスキー・チトゥリャールニク』より、1672年) ダニール・アレクサンドロヴィチ(Даниил Александрович, Daniil Aleksandrovich, 1261年 - 1303年3月4日または5日)はモスクワ公。ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの末子。リューリク朝モスクワ大公家の祖。ユーリー3世、イヴァン1世の父。 父アレクサンドルの死後、その遺領のうちのモスクワを得たが、幼少であったため叔父のトヴェリ公ヤロスラフ3世の後見を受けた。1271年にヤロスラフが死去するとモスクワ公として自立した。 1301年にオカ川沿いの重要拠点都市コロムナを獲得し、次いで1302年にペレヤスラヴリを後嗣のなかったペレヤスラヴリ公イヴァン・ドミトリエヴィチの遺言により併合した。これにより、モスクワ公国は当時の経済的先進地域と重要河川への出口を得ることになった。モスクワ公国の領域は当初小さかったが、治世末期までに領土を倍増させた。彼自身はウラジーミル大公にはならなかった。 死の直前に修道士として剃髪し、その遺骸は自らが建立したダニーロフ修道院に葬られた。 1652年にロシア正教会から列聖された。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とダニール・アレクサンドロヴィチ · 続きを見る »

アレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公)

アレクサンドル・ミハイロヴィチ( 1301年10月7日 - 1339年10月29日)は、ウラジーミル大公(1326年-1327年)、トヴェリ大公(1326年-1327年、1337年-1339年)、アレクサンドル2世とも呼ばれる。父はミハイル・ヤロスラヴィチ、母はロストフ公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とアレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェリ大公) · 続きを見る »

アレクサンドル・ネフスキー

アレクサンドル・ネフスキーのイコン。 1967年にソビエト連邦が発行したアレクサンドル・ネフスキーの切手。 アレクサンドル・ネフスキー(, 1220年5月30日 - 1263年11月14日)は、ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。アレクサンドル・ネフスキイ、アレクサンドル1世とも。中世ロシアの英雄として讃えられている人物。正教会で列聖されている。妻はポロツク公ブリャチスラフの娘・アレクサンドラ、息子にはヴァシーリー、ドミトリー、アンドレイ、ダニールがいる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とアレクサンドル・ネフスキー · 続きを見る »

アレクサンドル・ボロディン

アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) - 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とアレクサンドル・ボロディン · 続きを見る »

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公)

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ(、1255年頃 - 1304年)は、アレクサンドル・ネフスキーの三男。母はポロツク公女アレクサンドラ(ブリャチスラフ・ヴァシリコヴィチの娘)。 ゴロジェッツおよびコストロマ公。1294年以降ウラジーミル大公。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とアンドレイ・アレクサンドロヴィチ (ウラジーミル大公) · 続きを見る »

イヴァン1世

イヴァン1世ダニーロヴィチ(, ? - 1340年3月31日)は、モスクワ大公(在位:1325年 - 1340年)、ウラジーミル大公(在位:1328年 - 1340年)。モスクワ公ダニール・アレクサンドロヴィチ(? - 1303年)の子。イヴァン・カリター(, Ivan Kalita)とあだ名される。カリターとは「金袋」の意味。 息子にはセミョーン、イヴァン2世、アンドレイがいる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイヴァン1世 · 続きを見る »

イヴァン2世

イヴァン2世イヴァノヴィチ(Иван II Иванович, 1326年3月30日 - 1359年11月13日)はモスクワ大公(在位:1353年 - 1359年)。イヴァン1世の息子でドミートリー・ドンスコイの父。 父イヴァン1世の死後、ズヴェニゴロドとルザの公となる。兄セミョーンの死後、スズダリ公コンスタンチンとモスクワ大公位を争い、これに勝利する。死後、モスクワ大公位は、幼少の息子、ドミートリーが継ぎ、府主教アレクセイが摂政となった。 Category:モスクワ大公 Category:ウラジーミル大公 Category:ダニール家 Category:リューリク朝 Category:1326年生 Category:1359年没.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイヴァン2世 · 続きを見る »

イヴァン3世

イヴァン3世ヴァシーリエヴィチ(ロシア語:Иван III Васильевич;ラテン文字転写の例:Ivan III Vasilevich, 1440年1月22日 - 1505年10月27日)は、モスクワ大公(在位1462年 - 1505年)。 ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイヴァン3世 · 続きを見る »

イヴァン4世

イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイヴァン4世 · 続きを見る »

イーホル・スヴャトスラーヴィチ

イーホル・スヴャトスラーヴィチ公。 イーホル・スヴャトスラーヴィチ(古ルーシ語: Игоръ Ст҃ославич, Игорь Святъславличь;І́гор Святосла́вич;1151年 - 1202年)は公。シヴェーリア公(1178年 - 1198年)、チェルニーヒウ公(1198年‐1202年)の次男。日本語では名は「イーゴリ」とも表記される。 1161年、公によるキエフへの出兵に参陣した。1174年、ペレヤースラウの周辺でコンチャク・ハンとコビャク・ハンが率いる欽察人の軍勢を破った。兄の死後、公となった。キエフ大公の座を巡る内紛に参加した。1183年、欽察人の領土へ出兵し、勝利を収めた。しかし、1185年に行った新たな出兵において惨敗を喫し、欽察人の捕虜となった。1185年度の出兵は『イーゴリ遠征物語』のモチーフとなった。その後、父の跡を継ぎチェルニーヒウ公をつとめた。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイーホル・スヴャトスラーヴィチ · 続きを見る »

イーゴリ公

『イーゴリ公』(イーゴリこう、原題:Князь Игорь)は、アレクサンドル・ボロディンによって書かれたオペラである。中世ロシアの叙事詩『イーゴリ遠征物語』を題材に、1185年、キエフ大公国の公(クニャージ)イーゴリ・スヴャトスラヴィチによる、遊牧民族ポロヴェツ人(韃靼人)に対する遠征を描く。序幕付き4幕からなる。 ボロディンはこの作品を完成させないまま1887年に死去したため、リムスキー=コルサコフとグラズノフの手により完成された。総譜には「このオペラはリムスキー=コルサコフが序幕と第1・2・4幕、第3幕の「ポロヴェツ人(韃靼人)の行進」の編曲されていなかったところを編曲し、グラズノフはボロディンに残された断片を使い、第3幕を構成し作曲し、ボロディンが何度かピアノで弾いた序曲を思い出しながら再構成と作曲をした。」と書かれている。 初演は1890年11月4日、サンクトペテルブルクのマリンスキー劇場にて行われた。アメリカでの初演は1915年12月30日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にて行われた。日本での初演は1965年のスラブ歌劇(当時ユーゴスラヴィア(現クロアチア)ザグレブ国立劇場合唱団、管弦楽はNHK交響楽団)によるもの。 このオペラの中の序曲、「ポロヴェツ人(韃靼人)の踊り」(第2幕)は有名で、広くオーケストラ・コンサートなどでも演奏されている。また、この2曲に「ポロヴェツ人(韃靼人)の娘たちの踊り」「ポロヴェツ人(韃靼人)の行進」を加えて組曲のようにも扱われる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイーゴリ公 · 続きを見る »

イーゴリ遠征物語

ヴィクトル・ヴァスネツォフ画 『ポロヴェツとの戦いに敗れたイーゴリ公』 『イーゴリ遠征物語』(イーゴリえんせいものがたり、古東スラヴ語:Слово о пълку Игоревѣ, Игоря сыня Святъславля внука Ольгова)は、12世紀末キエフ・ルーシの文学作品。 日本語訳題には『イーゴリ遠征物語』の他『イーゴリ軍記』(神西清訳)、『イーゴリ遠征譚』などがある。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とイーゴリ遠征物語 · 続きを見る »

ウラジーミル (ウラジーミル州)

ウラジーミル(ヴラジーミル;ロシア語:Владимирヴラヂーミル;ラテン文字表記の例:Vladimir)は、ロシアの都市である。ヴラジーミル州の州都で、ヴォルガ川の支流クリャージマ川の河畔に建つ。モスクワの東200kmに位置し、モスクワとニジニ・ノヴゴロドとを結ぶ高速道路A7の沿線。ウラジーミル駅はモスクワからウラジオストクの間を結ぶ鉄道の途中の駅で、モスクワからは電車で約3時間ほどかかる。またセミャージノ空港を擁し、冷戦時代にはドブリンスコエ空軍基地があった。人口は2002年国勢調査で315,954人、1989年ソ連国勢調査では349,702人だった。 ロシアの古都の一つで、ウラジーミル・スーズダリ大公国の首都として栄えた。いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。1108年頃にキエフ大公ウラジーミル・モノマフにより要塞として建設されたといわれる。この要塞は、ロストフ・スーズダリ公国(ウラジーミル・スーズダリ大公国の前身)の南東を守るものであった。13世紀には北東ロシアの中心になったが、その後のモスクワの興隆と共に地方都市的存在になってゆき現在に至っている。 名所名跡も多い。1992年、ウラジーミル市の聖堂群は近郊のスーズダリ市に残る聖堂群とともに、「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」として、ユネスコの世界遺産に登録された。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とウラジーミル (ウラジーミル州) · 続きを見る »

エフロシニヤ・ヤロスラヴナ

フロシニヤ・ヤロスラヴナ(Ефросинья Ярославна、Єфросинія Ярославна、生没年不明)はノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリの妻であり、『イーゴリ軍記』には「ヤロスラヴナ」として登場する12世紀後半の人物である。『イーゴリ軍記』中の一場面である「ヤロスラヴナの嘆き」は、作品中最も詩的な場面と評されている。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とエフロシニヤ・ヤロスラヴナ · 続きを見る »

オペラ

イタリア・ミラノにあるスカラ座。1778年に完成したこの歌劇場は、世界で最も有名である。 オペラ(イタリア語・英語: opera、フランス語: opéra、ドイツ語: Oper)は、演劇と音楽によって構成される舞台芸術である。歌劇(かげき)とも呼ばれる。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とオペラ · 続きを見る »

キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とキエフ大公国 · 続きを見る »

コンスタンチン (ウラジーミル大公)

ンスタンチン・フセヴォロドヴィチ(Константин Все́володович、1186年5月18日 - 1218年2月2日)は、ウラジーミル大公(在位1216年-1218年)。フセヴォロド3世の長男。母はボヘミア王女マリヤ(オセット人とも)。祖父はユーリー・ドルゴルーキー。ロストフ公家の祖。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とコンスタンチン (ウラジーミル大公) · 続きを見る »

シチ川 (ヴォルガ川水系)

チ川(Сить)はロシアのトヴェリ州・ヤロスラヴリ州を流れる川である。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とシチ川 (ヴォルガ川水系) · 続きを見る »

シチ川の戦い

チ川の戦い(Битва на реке Сить)は、1238年3月4日に起きた、ウラジーミル大公ユーリー2世軍と、モンゴル帝国の万人長(ロシア側の呼称ではテムニク)・ブルンダイ(ru)軍との間の戦いである。モンゴルのルーシ侵攻(1237年 - 1240年)、モンゴル軍の北東ルーシへの遠征(1237年 - 1238年)の過程における重要な戦闘の1つであった。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とシチ川の戦い · 続きを見る »

ジョチ・ウルス

ョチ・ウルス()は、13世紀から18世紀にかけて、黒海北岸のドナウ川、クリミア半島方面から中央アジアのカザフ草原、バルハシ湖、アルタイ山脈に至る広大なステップ地帯を舞台に、チンギス・カンの長男ジョチの後裔が支配し興亡した遊牧政権(ウルス)。一般にキプチャク・ハン国の名で知られる国とほぼ同じものである。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とジョチ・ウルス · 続きを見る »

スラヴ民族の北東ルーシへの移動

Volga:ヴォルガ川、Oka:オカ川(Moscow:モスクワ) 本頁は、9世紀から13世紀にかけての、現ロシアのヴォルガ川 - オカ川間の地域へのスラヴ民族の移動の過程、また同地での殖民政策の過程をまとめたものである。同地には、スラヴ民族の移動以前はフィン・ウゴル民族の居住地が存在していた。一方、スラヴ民族の入植は9世紀に始まり、数世紀間にわたって続けられた。スラヴ民族がキエフを中心とする政権(キエフ大公国)を建国したキエフ・ルーシ期には、同地にはウラジーミル大公国等の諸公国が登場し、多くの都市の建設が行われた。 (留意事項):以下、「ルーシ(=キエフ・ルーシ、キエフ大公国)」領域内での立地に基づき、本頁が対象とするヴォルガ川 - オカ川間(公国でいえば主としてウラジーミル大公国領)を、便宜上「北東ルーシ」として記述する。また、ノヴゴロド公国領を「北西ルーシ」、キエフ公国などおおよそ現ウクライナに立地した諸公国領を「南東ルーシ」として記述する。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とスラヴ民族の北東ルーシへの移動 · 続きを見る »

スーズダリ

ーズダリ(Су́здаль, Suzdal′)は、ロシア、ウラジーミル州の都市。モスクワ北東、ウラジーミルから26km、カメンカ川 Kamenka River沿いに位置する古都である。2002年現在、人口1万1357人。 スーズダリの名が歴史的、記録上初めて見られるのが1024年である。12世紀前半、ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)の時代にロストフ・スーズダリ公国(ウラジーミル・スーズダリ大公国の前身)の首都となる。以後、14世紀末にモスクワ大公国の支配下に入るまで、ウラジーミル・スーズダリ大公国をはじめとする諸公国(スーズダリ公国等)の首都として機能しいわゆる「黄金の環」を形成した。政治的重要性が喪失された後も、ロシア正教の中心の一つとして、宗教的・文化的な役割を果たした。 今日、スーズダリは、古代から中世期の教会、修道院などの建築を多数保有する観光都市である。市街には多数の教会建築のほかに、小川の流れと牧草地を有する小さな村や草原があり、こうした田園とスーズダリの教会建築は、絵画的な風景をもたらしている。特に夏場には、こうした風景を求めて多くの観光客や絵を描く人々が訪れる。ソ連時代の1967年ソ連閣僚会議によってスーズダリの観光・旅行センターとしての建設が決議され、博物館都市としての都市整備が進んだ。 1992年「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」はユネスコの世界遺産に登録された。 ポクロフスキー修道院のパノラマ.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とスーズダリ · 続きを見る »

スウェーデン

ウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。西にノルウェー、北東にフィンランドと国境を接し、南西にカテガット海峡を挟んでデンマークと近接する。東から南にはバルト海が存在し、対岸のロシアやドイツとの関わりが深い。法定最低賃金は存在しておらず、スウェーデン国外の大企業や機関投資家に経済を左右されている。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とスウェーデン · 続きを見る »

セミョーン (モスクワ大公)

セミョーン・イヴァノヴィチ(Семен Иванович, 1316年12月7日 - 1353年4月27日)は、モスクワ大公(在位:1340年 - 1353年)、ウラジーミル大公。モスクワ大公イヴァン1世の息子。異名は尊大公。トヴェリ公国と一時期和解するが、ペストで息子たち、そして弟のアンドレイ(ru)と共に死去。彼の死後、モスクワ大公位は弟のイヴァン2世が継いだ。 Category:モスクワ大公 Category:ウラジーミル大公 Category:ダニール家 Category:リューリク朝 Category:ペストで死亡した人物 Category:1316年生 Category:1353年没.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とセミョーン (モスクワ大公) · 続きを見る »

タタールのくびき

タタールの軛(タタールのくびき)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、Монголо-татарское иго、Tataro-Mongol Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である。.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国とタタールのくびき · 続きを見る »

冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と冊封 · 続きを見る »

1157年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1157年 · 続きを見る »

1176年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1176年 · 続きを見る »

1195年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1195年 · 続きを見る »

1212年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1212年 · 続きを見る »

1238年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1238年 · 続きを見る »

1263年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1263年 · 続きを見る »

1271年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1271年 · 続きを見る »

1276年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1276年 · 続きを見る »

1363年

記載なし。

新しい!!: ウラジーミル・スーズダリ大公国と1363年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ヴラジーミル・スズダリヴラジーミル大公国ウラジーミル・スズダリ公国ウラジーミル大公国ウラジーミル=スーズダリ公国ウラジミール公

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »