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ウィカムのウィリアム

索引 ウィカムのウィリアム

ウィカムのウィリアム ウィカムのウィリアム(William of Wykeham、1324年 - 1404年8月16日)は、中世イングランドの神学者・政治家・教育家。「ウィカム」は出身地の地名であって姓ではない。また、日本語表記にはウィッカム、ワイカムなどとする例もある。 イングランドのウィカムの貧しい家庭に育つ。ウィンチェスター大聖堂で学んだ後に、1343年に侍従武官としてエドワード3世に仕える。以後、王の側近として1356年に王室付司祭、1364年に王璽尚書、1367年にはウィンチェスター司教と大法官を兼ねて事実上の宰相を務めた。この間に教区・修道院制度の改革などに努めた。 ところが、「反教権主義」論の高まりや政敵の中傷によって1371年と1376年に2度にわたって失脚した。その後、リチャード2世が潔白であると結論づけたが、1389年に大法官に再任されるまで公職には就かなかった。ジョン・ウィクリフ・トマス・アランデルの考え方にはともに同調せず、ロラード運動に対しては批判的であったが穏健に対応した。 また、晩年は教育にも力を注ぎ、1379年にはオックスフォード大学にニュー・カレッジを開設し、1394年には史上初のパブリック・スクールであるウィンチェスター・カレッジを開校して貴族以外の子弟にも門戸を開いた。.

30 関係: 反教権主義大法官中世侍従武官修道院リチャード2世 (イングランド王)ロラード派トマス・アランデルパブリックスクールイングランド王国ウィンチェスター大聖堂ウィンチェスター・カレッジエドワード3世 (イングランド王)オックスフォード大学ジョン・ウィクリフ王璽尚書神学者教区1324年1343年1356年1364年1367年1371年1376年1379年1389年1394年1404年8月16日

反教権主義

反教権主義(はんきょうけんしゅぎ、Anti-clericalism)は、宗教上の権威、特にローマ・カトリック教会または教皇の権威・権力(=教権)を否定する考えをさす。広義では、聖職者あるいは宗教自体が、政治や市民の日常生活など、精神世界以外の世俗分野に介入すること全般に反対する立場を意味する。無神論者や不可知論者、リベラル派や左翼だけでなく、ローマからの独立を主張したガリカニストあるいはジャンセニストなどのフランスのカトリック教会や、ラテンアメリカのカトリック教会など、キリスト教会内部にもこの考えを受け継ぐものがある。.

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大法官

大法官(だいほうかん、Lord Chancellor)は、イングランド・イギリスの役職である。かつては、上院(貴族院)議長を兼ねていたが、現在は枢密院と内閣の一員である。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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侍従武官

侍従武官(じじゅうぶかん)とは、天皇に常時奉仕し軍事に関する奏上の伝達等に当たる武官のこと。.

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修道院

イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院 シナイ山にある正教会の聖カタリナ修道院 カラー写真。 パドゥーラ修道院(イタリア、カトリック教会) グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った 修道院(しゅうどういん、Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。 男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。 カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。 帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が資産として処分されてしまった。.

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リチャード2世 (イングランド王)

リチャード2世(Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)は、プランタジネット朝最後のイングランド王(在位:1377年6月22日 - 1399年9月29日)。父はイングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの長男エドワード黒太子、母はその妃ジョーン・オブ・ケント。 幼少で即位したため治世初期は貴族達の補佐を受け、成長してからは専制のため側近を重用したことが周囲の反発を招き1度挫折した。やがて反対派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクーデターによって王位から追放・幽閉された末に死去、プランタジネット朝は断絶した。.

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ロラード派

ラード派(Lollards)あるいはロラード主義(英: Lollardy)は、14世紀中頃から宗教改革の時代にかけて、イングランドで起こった政治的かつ宗教的な運動のこと。ロラード主義はオックスフォード大学の神学者ジョン・ウィクリフの教えから発展し、その主張はローマ・カトリック教会の改革を要求するものであった。ロラード派はカトリックの事効論を否定し、信仰において「本物の」聖職者であるかどうかがサクラメントを行う者の必要条件であるとした。さらに信心深い俗人にも聖職者と同じ儀式を行う力があると説いた。つまりロラード派によれば、宗教的な力と権限は、聖職のヒエラルキーに基づくのではなく、信仰心に拠るものであった。同様に、ロラード主義は聖職者の権威が、聖書の権威に基づいていることを強調した。彼らは「救済された教会」の概念を説いた。それはキリストの本当の教会を意味し、敬虔な信者の共同体であり、公的なカトリック教会と重なりながらも同質ではないとされた。またロラード派は予定説を唱え、両体共存説両体共存説とは、聖餐において、キリストの肉体としての存在は、パンとブドウ酒の「なかに、とともに、もとに」共存しているとする説。ルター派に近い考え。カトリックはこれらが真にキリストの肉体と血に変わるとする全質変化(あるいは実体変化・化体説)を唱える。に同意して全質変化両体共存説を否定し、教皇には清貧を求め、教会財産への課税を主張した。.

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トマス・アランデル

トマス・アランデル(Thomas Arundel, 1353年 - 1414年2月19日)は、イングランドの聖職者。1396年、そして1399年から亡くなるまでカンタベリー大司教であり、ロラード運動を公に批判した。第10代アランデル伯とその妻(第3代ランカスター伯ヘンリーの娘)の間の三男で、第11代アランデル伯リチャード・フィッツアランは兄。 トーントンの助祭長などを務める。また、カンタベリー大司教座に移る前まで、1388年からヨーク大司教であった。彼は一度リチャード2世からカンタベリー大司教座を追放され、ロジャー・ウォールデンにその座を渡すこととなったが、1399年、ヘンリー4世によって再びカンタベリー大司教の座に返り咲くこととなる。 Category:カンタベリー大司教 Category:1353年生 Category:1414年没.

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パブリックスクール

パブリックスクール (public school).

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イングランド王国

イングランド王国(イングランドおうこく、英語:Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から、1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ1世が1603年に王位を兼ねて以来、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。.

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ウィンチェスター大聖堂

ウィンチェスター大聖堂 ウィンチェスター大聖堂 (Winchester Cathedral、正式名称、聖なる三位一体、聖ペトロ、聖パウロと聖スウィザンの主教座大聖堂、Cathedral Church of the Holy Trinity, and of St Peter and St Paul and of St Swithun)は、イギリス、ウィンチェスターにあるイングランド国教会の大聖堂。ヨーロッパのゴシック様式大聖堂のうち最も長い身廊と全長を持つ、イングランド最大級の大聖堂の一つである。聖なる三位一体、聖ペトロ、聖パウロ、聖スウィザンに捧げられており、ウィンチェスター主教管区を代表するウィンチェスター主教座が置かれている。 大聖堂には毎日4回の礼拝が行なわれ、特別の聖日にはその回数がさらに多くなる。大聖堂の聖歌隊音楽とウィリス社製パイプオルガンに有名されている。礼拝以外、大聖堂見学には入場料が必要となった。.

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ウィンチェスター・カレッジ

ウィンチェスター・カレッジ(Winchester College)は1382年に創設された最古の伝統を誇るイギリスの男子全寮制パブリックスクール。ハンプシャー州のウィンチェスターに位置する。 1382年にウィリカムのウイリアム(中世イングランドの神学者・政治家・教育家)によって創設され、オックスフォード大学のニューカレッジと連合した。 パブリックスクールの主流となる教育システムを形成し、イートン・カレッジや他のパブリックスクールの基盤となった。.

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エドワード3世 (イングランド王)

ドワード3世(Edward III, 1312年11月13日 - 1377年6月21日)は、プランタジネット朝のイングランド王(在位:1327年 - 1377年)。50年間在位し、イングランドを強国に育て上げ、百年戦争を開始した。父はエドワード2世、母はフランス王フィリップ4世の娘イザベラ。妃はエノー伯ギヨーム1世の娘フィリッパ。長男にエドワード黒太子がいる。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は義兄にあたる。.

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オックスフォード大学

ックスフォード大学 (University of Oxford) は、イギリスの大学都市、オックスフォードに所在する総合大学である。11世紀の末に大学の礎が築かれていることから、現存する大学としては世界で3番目に古く、英語圏では最古の大学である。また、ハーバード大学、ケンブリッジ大学、シカゴ大学等と並び、各種の世界大学ランキングで常にトップレベルの優秀な大学として評価される世界有数の名門大学である。2016年、2017年THE世界大学ランキングで世界1位の大学に2年連続で選ばれた。 イギリス伝統のカレッジ制を特徴とする大学である。貴族の大学としても有名である。 世界中の指導的政治家を輩出しており、テリーザ・メイ現首相、デーヴィッド・キャメロン前首相、トニー・ブレア元首相、マーガレット・サッチャー元首相など27人のイギリス首相、30人以上の各国元首らがオックスフォード大学出身である。さらに、50人以上のノーベル賞受賞者、6人のイギリス国王、150人以上のオリンピックメダリストなどを輩出している。また、皇太子徳仁親王、皇太子妃雅子、秋篠宮文仁親王ら、日本の皇族の留学先としても知られている。 ちなみに「オックスブリッジ」として並び称されるケンブリッジ大学の形成は、この大学に所属していた多くの教師と学生が1209年にケンブリッジに移住したことに端を発する。.

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ジョン・ウィクリフ

ョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1320年頃 - 1384年12月31日)は、イングランドのヨークシャーに生まれた、宗教改革の先駆者とされる人物である。 オックスフォード大学の教授であり、聖職者であったウィクリフは、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れている、ミサに於いてパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、当時イングランドにおいて絶対的権力を持っていたローマ・カトリックを真っ向から批判した。イングランド国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有していることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、彼がかつて司祭をしていたラタワースに戻り、聖書を英語に翻訳した。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧者たちを地方に派遣した。ウィクリフの思想はボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。 ウィクリフが訳した聖書の序文には、エイブラハム・リンカーンが引用した有名な言葉 があると言われることがあるが、実際にはウィクリフ聖書の序文にこの言葉は確認できない。 審問を受けるウィクリフ ウィクリフの最後の日々の著書の業績は、彼の学識の絶頂とも言えるものである。ウィクリフの最後の著書「反キリスト」は未完となった。 1384年12月28日の幼児虐殺の日の礼拝に出ている時、脳卒中が再発し、年の終わりに死去した。その後、ヨーロッパでフス派が広まった。 ウィクリフは死後30年ほど後、1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされ、著書と共に焼かれることが宣言された。これは、12年後にローマ教皇マルティヌス5世の命により実行された。ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて川に投じられた。 1401年の反ウィクリフ派法は、ウィクリフの名誉を汚し、ウィクリフに共鳴する者を迫害することを定めた。1408年には、ウィクリフの著書および聖書を英訳して読むことは死に値する異端の罪であるとした。.

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王璽尚書

王璽尚書(おうじしょうしょ、Lord Privy Seal または Lord Keeper of the Privy Seal)は、イングランド王国政府の、そして1707年以降はイギリス政府の伝統的官職である。国王の御璽の管理、およびそれに関連する行政事務を司る。現在、王璽尚書はイギリスの内閣の閣僚である。.

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神学者

学者(しんがくしゃ)は、神学の学者のことである。通例、単に「神学者」と言えばキリスト教神学を学ぶ者を指し、イスラーム神学(カラーム)など他宗教の神学を学ぶ者については「イスラーム神学者」などの表現が使われる事が多い。 正教会では聖人の称号としても用いられるが、「神学者」の称号を持つ聖人は4名のみである。.

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教区

教区(きょうく、、)とは、宗教組織が行政や布教活動などのために地域ごとに設定する単位である。.

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1324年

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1343年

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1356年

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1364年

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1367年

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1371年

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1376年

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1379年

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1389年

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1394年

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1404年

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8月16日

8月16日(はちがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から228日目(閏年では229日目)にあたり、年末まであと137日ある。.

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