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イブン・トゥーマルト

索引 イブン・トゥーマルト

アブー・アブド・アッラーフ・ムハンマド・イブン・トゥーマルト(Abu Abd Allah Muhammad Ibn Tumart、أبو عبد الله محمد ابن تومرت、1075年頃サイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグレブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、27頁/1080年頃佐藤「イブン・トゥーマルト」『岩波イスラーム辞典』、161頁 - 1130年)は、イスラム教の宗教指導者。12世紀の北アフリカのマグリブで始まったムワッヒド運動の創始者であり、彼の死後に弟子のアブドゥルムウミンが指導者の地位を継承し、ムワッヒド朝を創始した。.

43 関係: 偶像北アフリカマラケシュマーリク学派マフディーマグリブマシュリクチュニジアムハンマド・イブン=アブドゥッラーフムラービト朝ムワッヒド朝ムゥタズィラ学派モスクレオ・アフリカヌスベルベル人ベルベル語派ベジャイアアミールアルジェリアアンティアトラス山脈アンサールアブドゥルムウミンアシュアリー学派イスラム教ガザーリークルアーンコルドバ (スペイン)ザーウィヤシャリーアスンナタウヒードサハーバ聖人1075年1080年1107年1118年1121年1123年1125年1128年1130年12世紀

偶像

偶像(ぐうぞう、idol, cult image)とは、.

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北アフリカ

北アフリカ(きたアフリカ)は、アフリカのうちサハラ砂漠より北の地域を指す。また、狭義には西端部のマグリブ地域のみを指す場合もある。エジプトやリビアを中心に中東の一部として定義されることも多い。サハラ砂漠をはじめとした砂漠地帯やステップが大部分を占めるが、地中海を挟んでEU諸国と対しており、モロッコやチュニジアのように経済が比較的発達している国が多い。住民にはアラブ系のコーカソイドが多いため、ホワイトアフリカともよばれる。.

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マラケシュ

マラケシュ (مراكش marrākish) は、モロッコ中央部の都市。ラバトの南西約280kmのアトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置し、「南の真珠」と呼ばれてきた。.

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マーリク学派

マーリク法学派(まーりく ほうがくは المذهب المالكي, المالكية al-Mālikīya)はスンナ派におけるイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。マーリキ法学派とも表記される。4大法学派のうちで二番目に大きく、ムスリム全体のおよそ25%がこの法学派に属し、北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力である。かつてはイスラーム支配下のヨーロッパ、特に北アフリカ(マグリブ)一帯からアンダルスの主な政権で有力な法学派として発展し、シチリア首長国:en:Emirate of Sicily (831年 - 1072年)でも有力であった。.

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マフディー

マフディー(مهدي)は、アラビア語で「導かれた者」を意味する言葉で、イスラームの文脈においては救世主を意味する。.

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マグリブ

マグリブを表す地域 マグリブ(Maghreb、مغرب)は、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。ここでは、地域名としてのマグリブについて記す。.

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マシュリク

マシュリク(مشرق Mashriq)は、アラビア語の「日が昇るところ」を原義とし、「東方」を意味する語。マグリブ(西方)に対して東方を指し、普通には概ねエジプト以東のアラブ諸国(東アラブ)のことであるが、その地理範囲は一定ではない。 古くはアッバース朝の都バグダードを中心にとみて、イランの東部と中央アジアを指したこともあった。イスラム世界の中心から離れたマグリブの人々にとっては、マシュリクとは東方の聖地マッカ(メッカ)や学問の中心カイロの方面を指して漠然と呼ぶのに使われた地理概念であった。今日ではシリア地方やイラクを指す言葉として用いられることが多いが、マグリブの地理概念に比べるとマシュリクのそれは曖昧であり、地域内の経済的・政治的繋がりもマグリブ諸国ほど緊密であるとはいえない。.

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チュニジア

チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵏ ⵜⵓⵏⴻⵙ、République tunisienne)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早く「アフリカ」と呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。.

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ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ

ムハンマド(محمد、Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。.

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ムラービト朝

ムラービト朝(アラビア語:المرابطون al-Murābiṭūn)は、1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝。 英語読みでのアルモラヴィド朝(Almoravid dynasty)とも称される。.

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ムワッヒド朝

ムワッヒド朝(アラビア語: الموحدون al-Muwahhidūn)は、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ。 現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパではアルモハード朝(英語:Almohad Caliphate)という名前で知られている。.

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ムゥタズィラ学派

ムゥタズィラ学派(المعتزلة、al-muʿtazilah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀初頭から10世紀にかけてのイスラーム世界で大きな影響力を持ち、分散して少数派となった後も思想の一部はシーア派に継承された塩尻「ムゥタズイラ学派」『岩波イスラーム辞典』、959頁。.

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モスク

モスク(mosque)は、イスラム教の礼拝堂のことである。 アラビア語ではマスジド(, masjid, 「ひざまずく場所」(サジダ を行う場所)の意)といい、マスジドの訛った語で、イスラーム帝国がスペイン地方を占領したときマスジドがスペイン語でメスキータ (mezquita) となり、それが英語ではさらに訛ってモスク (mosque) となった。中国ではモスクを清真寺(せいしんじ、清真はイスラム教の中国での通称)と呼んでいる。 モスクは欧米、日本、韓国などにおける呼び名である。しばしばイスラーム寺院または回教寺院と訳されるが、モスクの中には崇拝の対象物はなく、あくまで礼拝を行うための場である。.

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レオ・アフリカヌス

バスティアーノ・デル・ピオンボ画「ある人文主義者の肖像」。一説によると、'''レオ・アフリカヌス'''を描いたものであるという。 レオ・アフリカヌス(Leo Africanus,1483年? - 1555年?)の名前で知られるハッサン・アル=ワッザーンは、全名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーン(al-Hasan ibn Muhammad al-Zayyātī al-Fāsī al-Wazzān, )といい、アラブの旅行家、地理学者である。“レオ”はローマ教皇レオ10世から与えられた名で、“アフリカヌス”はニックネーム。 スペインのグラナダで生まれ、1492年のレコンキスタによるグラナダ陥落後、モロッコのフェズに移り叔父から教育を受け17歳で伴われてソンガイ帝国を訪れた。数年後、再びこの地を訪れエジプトまで旅をした。1518年ごろトルコ旅行の帰途,シチリアの海賊に捕えられ,ローマに送られ教皇レオ10世に仕えるようになり、キリスト教に改宗した。しかし教皇の死後はチュニジアに行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれるが,晩年は謎が多い。 16世紀初めサハラの南を含む北アフリカ全域を旅し、その見聞を 口述筆記による見聞録『海と陸の旅(航海と旅について)』が1550年にヴェネツィアで(イタリア語)出版されて反響を呼び、後に『アフリカ誌』と改題されて1556年フランス語とラテン語に、1600年に英語に翻訳され出版されている。16世紀末までにほぼヨーロッパ全域で読まれるようになり、ヨーロッパにおいて黄金の国マリの風評が再生産されていき、トンブクトゥを黄金郷とする伝説がつくり出され、その伝説は19世紀まで存続するほどであった。この全9巻よりなる大著『アフリカ誌』は長いあいだ,当時ヨーロッパ人がイスラム世界アフリカを知るための最も貴重な手掛りであった。.

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ベルベル人

ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。 自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。.

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ベルベル語派

TAMAZIGHT(ティフィナグ文字) ベルベル語(ベルベル語: ⵜⴰⵎⴰⵣⵉⵖⵜ - Tamazight)は現在主にモロッコ、アルジェリア、リビアで話されているアフロ・アジア語族の言語。 正確に言えばベルベル語派またはベルベル諸語と呼ぶほうが実状に近い、少しずつ異なる同系統の言語群の総称である。.

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ベジャイア

ベジャイア ベジャイア(Bejaia, Vgaiet)は、アルジェリア北東部の都市。地中海南岸に位置し、ベジャイア湾に面する。ベジャイア県の県都であり、人口は14万7千人。かつてはブージー (仏: Bougie)、ブギア (伊: Bugia)、ブジャヤ (独: Budschaja) などと呼ばれた。.

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アミール

アミール()は、イスラム世界で用いられる称号である。君主号のひとつとしても用いられる。.

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アルジェリア

アルジェリア民主人民共和国(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称アルジェリアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジア、リビアと、南東にニジェールと、南西にマリ、モーリタニアと、西にモロッコ、サハラ・アラブ民主共和国と国境を接し、北は地中海に面する。地中海を隔てて北に旧宗主国のフランスが存在する。首都はアルジェ。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。2011年の南スーダン独立によりスーダンが分割され領土が縮小したことで、スーダンを超えてアフリカ大陸において最も領土が広い国となった。世界全体でも第10位の領土面積である。.

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アンティアトラス山脈

アンティアトラス山脈は地図の左下 モロッコにあるアンティアトラス山脈(Anti-Atlas、小アトラス山脈)はアトラス山脈の一部で、南西端は大西洋にかかり、北東へ500km延びる。3億年前の古生代にゴンドワナ大陸とユーラメリカ大陸が衝突した時に、北米のアパラチア山脈と同じで出来た。それらは現在のヒマラヤ山脈よりはるかに高かったと推定される。その後、第三紀にもイベリア半島を境にヨーロッパ大陸とアフリカ大陸が衝突したため隆起したが、古生代から続く浸食作用が現在の姿に変えたものである。 left Category:モロッコの山地.

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アンサール

アンサール()は、アラビア語で「援助する者」「助力者」を意味する言葉。固有名詞()としては、以下の用法がある。.

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アブドゥルムウミン

アブドゥルムウミン(‏عبد المؤمن بن علي もしくは عبد المومن الــكـومي, ティフィナグ文字: ⵄⴰⴱⴷ ⵍⵎⵓⵎⵏ ⵍⴳⵓⵎⵉ 1094年? - 1163年) は、12世紀に北アフリカで建国されたムワッヒド朝の創始者。ベルベル人のザナータ族の出身リトル「アブドゥル・ムーミン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、156-157頁。 12世紀初頭のモロッコで起きた宗教運動に参加し、北アフリカのモロッコからチュニジアにかけての地域とイベリア半島にまたがる国家を建設した。彼の時代に、マグリブの政治的統一が達成されたサイディ「アル・ムワッヒド指導下のマグリブの統合」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 上巻、56頁。.

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アシュアリー学派

アシュアリー学派(الأشعرية al-Asha`riyya、الأشاعرة al-Ashā`irah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀から10世紀にかけて活躍した神学者アシュアリー(en)を祖とし、マートゥリーディー学派と並ぶスンナ派を代表する学派となっている中村「アシュアリー派」『新イスラム事典』、46頁。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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ガザーリー

アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー(ابو حامد محمد بن محمد الطوسي الشافعي الغزالي、Abū Ḥāmid Muḥammad b. Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。通常名前の最後の部分を取ってガザーリーと呼ばれるが青柳『ガザーリー』、1頁、研究者の中にはガッザーリー( الغزّالي al-Ghazzālī)と発音するべきだとする意見もある。ヨーロッパではアルガゼル(Algazer)のラテン名で知られ、長らく哲学者と見なされていた。 「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」として敬意を集めヴァーダリー「ガザーリー」『世界伝記大事典 世界編』3巻、38-39頁、スンナ派がイスラーム世界の中で多数派としての地位を確立する過程の中で最も功績のあった人物の一人に数えられる松本「ガザーリー, アブー・ハーミド」『岩波イスラーム辞典』、255-256頁。ガザーリーはスンナ派と対立するシーア派への反論、イスラーム哲学への批判、スーフィズム(神秘主義)への接近を通して、スンナ派のイスラーム諸学を形作った。ガザーリーは存命中に高い名声を得ていたが、没後のイスラーム世界でも思想的権威と見なされ、彼の理論はファトワー(法的回答)を発する多くのウラマー(イスラーム世界の知識人)によって、コーラン(クルアーン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)とともに参照されている。弟のアフマド・ガザーリーもスーフィズムの思想家として知られており、彼の神秘主義思想の構築には弟の影響があったと考えられている。.

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クルアーン

ルアーン(قرآن )あるいはコーランは、イスラム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。 クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル.

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コルドバ (スペイン)

ルドバ(Córdoba)は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。 かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。.

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ザーウィヤ

ーウィヤ(Az Zawiyah、ザウィヤとも)は、リビアの都市。ザウィヤ県の県都である。2011年の人口は約20万人。リビア北西部、トリポリタニアの海岸に位置し、首都トリポリから50km西に位置する。1988年に創立された4月7日大学があり、またリビアに2つある巨大製油所のひとつがあるため、リビアの経済上重要な都市のひとつである。 2011年リビア騒乱において、ザーウィヤは政府軍と反政府軍の争奪の舞台となり、激しい戦いが繰り広げられた。2011年2月25日から戦闘が続き、27日に反政府軍が制圧したものの、その後もカダフィ大佐側の政府軍が侵攻を繰り返し、戦闘が長引いた。.

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シャリーア

ャリーア(شريعة Shari'a)は、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とする法律。1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものである。イスラム法、イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。 シャリーアはコーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とし、イスラム法学者が法解釈を行う。イスラム法を解釈するための学問体系(イスラム法学)も存在し、預言者ムハンマドの時代から1000年以上、法解釈について議論され続けている。法解釈をする権限はイスラム法学者のみが持ち、カリフが独断で法解釈をすることはできないとされる。預言者ムハンマドの言行録はハディースとよばれ預言者の言行に虚偽が混ざらぬように、情報源(出典)が必ず明記される。 シャリーアは民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。シャリーアのうち主にイスラム教の信仰に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と分類する。イバーダートは神と人間の関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における人間同士の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。 また、イスラム共同体(ウンマ)は、シャリーアの理念の地上的表現としての意味を持つとされる。 シャリーアが六法全書と国際法を合わせたような性格を持つようになったのは、預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことが大きく関わっている。 シャリーアでは、異教徒との戦闘において、異教徒に「ジズヤ(人頭税)を払う」と言われてしまうと、カリフには講和を拒否する権利がない。 日本語で読める原典に、アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ『イスラムの法 法源と理論』(中村廣治郎訳、東京大学出版会、1984年)と、イブン・ザイヌッディーン『イスラーム法理論序説』(村田幸子訳解説、<イスラーム古典叢書>岩波書店、1985年)がある。.

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スンナ

ンナ(سنة Sunnah)は字義通りには「踏み慣らされた道=慣行」。主にイスラームにおける預言者ムハンマドの言行・範例(السنة النبوية as-Sunnatu’n-Nabawīyah:預言者のスンナ)を指す(その他の用法については後述)。スンナ派イスラームにおける術語としてのスンナは、ムハンマドがウンマを指導した23年間におこなった慣行や範例であって、ムハンマドの教友ら(サハーバ)の合意を経て、世代から世代へと伝承された宗教的慣行・範例を意味する。またその上でイスラーム法においてクルアーンに次ぐ第二の法源となっている。 スンナは具体的なテクストではなく行いや範例であるため、なにに基づいて、ある慣行をスンナとするかが議論となった。スンナ派では主に預言者の言行についての言い伝えであるハディースから読み取るものとされる。つまりハディースはスンナの容れ物と考えるのである。この議論を確立したのがシャーフィイーである。しかしながら、ハディースそのものがスンナであるかどうかについては見解が分かれる。 シャーフィイーが登場した10世紀ころには、ハディースはハディース集というかたちで文書にまとめられる。ハディースが文書として整備されない時代には、具体的な仕草でスンナが継承されていることも当然あるが、このようなスンナはムハンマド以降、誰から誰に伝えられたか検証不可能であるため、ハディース集に収められることはない。このようなスンナは、単にスンナとして伝えられている。このようなスンナは検証可能性における瑕疵のため、法学的見地から法源として用いることはできず、立場によってはスンナとしてすら扱われない。 シーア派における「スンナ」は、預言者ムハンマドおよび預言者を継いで人生あらゆる局面で人類を指導するとされている十二イマームの言行と、預言者やイマームの承認した行いを意味する。また、スンナは実に預言者イブラーヒームが創始した宗教的行為から構成されるものであって、ムハンマドはそれを復活しただけにすぎないとする意見も一部にある。 ほかに神学的には、「アッラーのスンナ」(السنة الله as-Sunnatu’llāh)という用語を用いる。これは創造における慣行のことで、ある自然事象、社会事象を慣行(=神の定めた秩序体系)として読み解く。アッバース朝のカリフ・マアムーンのもとムゥタズィラ派などで盛んとなった議論であるが、恣意的政策を単に「神の慣行」で済ませることができるなど、これを政治的に危険な傾向もあり彼らの議論は「スンナ漁り」と非難されるようになった。.

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タウヒード

タウヒード(アラビア語表記:توحيد, トルコ語表記:Tevhid, ラテン語表記:Tawḥīd, あるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラームにおける一神教の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観と存在論、すなわち価値観の根本である。 また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン文字表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク(shirk、多元性)である。.

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サハーバ

ハーバ(‏صحابة)とは、預言者ムハンマドと直に接したイスラム教徒を指す語である。日本語では「教友」と訳される。狭義ではムハンマドと行動を共にしてイスラームの基盤を作り上げた人物を指すが、広義では一度でもムハンマドに接した経験のある全てのイスラム教徒を指す。 サハーバから直接教えを受けた第二世代のイスラム教徒は、タービウーン(従う者)と呼ばれる小杉泰『イスラーム文明と国家の形成』(諸文明の起源, 京都大学学術出版会, 2011年12月)、326-327頁。そして、サハーバ、タービウーンを通して記録されたムハンマドの教えから、ハディースが生まれる。スンナ派に属する人間はムハンマドの正しい言行はサハーバが伝えたハディースの中に見出されると考え、学者たちはサハーバにゆかりのあるマッカ(メッカ)、マディーナ(メディナ)などの土地を訪れてハディースを収集した。 サハーバの行動は神、神の意思を直接受けたムハンマドの認めるところと解され、サハーバの伝記は後世で重要視された清水「教友」『岩波イスラーム辞典』、311頁。ハディースを伝えたサハーバはイスラーム諸学において高い価値を有し、ブハーリーの時代からサハーバの定義が試みられてきた。サハーバの中ではアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーら4人の正統カリフと、彼ら4人を含む「楽園を約束された十人」が最も傑出した人物だとされている。 シーア派にとってアリーを除く3人の正統カリフと他のサハーバはアリー一族の権利を侵した憎むべき存在であり、彼らはサハーバに対する呪詛を行った。カリフ、スンナ派を信奉する人間たちは呪詛を行ったシーア派の人間を処罰し、あるいは私刑を加えて対抗した。.

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聖人

聖人(せいじん[漢音]、しょうにん[呉音])とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。.

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1075年

記載なし。

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1080年

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1107年

記載なし。

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1118年

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1121年

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1123年

記載なし。

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1125年

記載なし。

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1128年

記載なし。

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1130年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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イブン=トゥーマルト

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