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アルフォンソ天文表

索引 アルフォンソ天文表

アルフォンソ天文表 アルフォンソ天文表(西:Tablas alfonsíes)は、13世紀にカスティーリャ王アルフォンソ10世が作らせた惑星の位置の表である。それまで用いられていた、11世紀にアッ=ザルカーリーらによって作られたトレド天文表を改良したものである。 1年の長さの平均値を365日5時間49分16秒とした。これは、その後の精密な観測による値、365日5時間48分46秒 と比べて、30秒の誤差でしかない。1252年頃に着手、1270年頃に完成した。はじめスペイン語で出版され、後にラテン語に翻訳された。16世紀にコペルニクスの『天球の回転について』に基づくエラスムス・ラインホルトの天体運行表『プロイセン表』(Prutenicae Tabulae)が作られるまで、ヨーロッパで最も一般的な天体運行表であった。ゲオルク・プールバッハの『惑星の新理論』(Theoricae novae planetarum)の中で用いられている。.

10 関係: 天球の回転についてラテン語プロイセン表ニコラウス・コペルニクスアルフォンソ10世 (カスティーリャ王)エラスムス・ラインホルトカスティーリャ王国ゲオルク・プールバッハザルカーリースペイン語

天球の回転について

『天球の回転について』(Nicolai Copernici Torinensis De revolutionibus orbium coelestium, Libri VI、英語訳: On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books)は、1543年に出版されたニコラウス・コペルニクスの地動説を主張した著書である。 1512年から行われた第5ラテラン公会議においては、教会暦の改良についても議論された。このとき意見を求められたものの、1年の長さと月の運動の知識が不十分であったため問題の解決ができなかったことを認識したコペルニクスが、太陽系の構造を根本から考えなおしたものである。1539年にゲオルク・レティクスがコペルニクスの弟子となりコペルニクスの手稿を読み、レクティスの天文学の師のヨハネス・シェーナーに概要を送り、1540年に Narratioとして出版された。Narratioの評判とレクティスの強い勧めにより『天球の回転について』の出版にコペルニクスは同意し、彼の死の直前に出版された。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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プロイセン表

プロイセン表(ラテン語表記: Tabulae prutenicae、ドイツ語表記:Prutenische または Preußische Tafeln)は1551年に出版された天体運行表である。それまで300年間にわたって使われたアルフォンソ天文表にかわって使われることになった。 エラスムス・ラインホルトが、1543年にニコラウス・コペルニクスが出版した『天球の回転について』をもとに計算して作成した。 プロイセン公、アルバート1世がラインホルトの出版の費用を支払ったので、プロイセン表と題された。 これらの表がコペルニクスの計算方法をプロシアで広めるのに役立った。ラインホルトのプロイセン表とコペルニクスの研究がグレゴリウス13世の認可を受けたクリストファー・クラヴィウスのグレゴリオ暦作成に用いられた。14世紀から15世紀の間、使われてきたレギオモンタヌスの天文表に変わって航海に使われることになった。 ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーによってプラハで編纂され、1627年にケプラーによって出版されたルドルフ表に変わられた。 ラインホルトが所有し書込みのされたコペルニクスの『天球の回転について』は科学史家のオーウェン・ギンガーリッチによって見つけられ、それに着想を得て『誰も読まなかったコペルニクス』が執筆された。 category:天文学史 Category:プロイセンの歴史 Category:16世紀の書籍.

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ニコラウス・コペルニクス

ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク 、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。 コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。.

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アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)

アルフォンソ10世(アルフォンソじゅっせい、, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1252年 - 1284年)。一時ローマ王(対立王、在位:1257年 - 1275年)でもあった。 フェルナンド3世と最初の王妃ベアトリス・デ・スアビア(ローマ王フィリップの娘)の長男である。母のベアトリスは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の従姉妹であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の従兄にあたる。 学芸の振興に努めたため「賢王」「賢者」「学者」を意味するel Sabioの別名で知られている小林、P20 - P21。菊池、P129 - P130。。アルフォンソ10世自身は権力の基盤は英知にあると考えておりダニエル・ジャカール『アラビア科学の歴史』(吉村作治監修, 遠藤ゆかり訳, 「知の再発見」双書, 創元社, 2006年12月)、P95。、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教を統べる「三宗教の王」と称されることを好んだ。また、現在のスペイン語の母語となったカスティーリャ語の確立者の一人とみなされており、「カスティーリャ語散文の創始者」と呼ばれている伊藤ほか、P59。。彼の治世にカスティーリャの文化・宗教双方の中心地はコルドバから首都のトレドに移り、アラビア文化を学ぼうとするヨーロッパ各地の研究者がトレドに集まった。 学術面の功績とは逆に、政治の実績には否定的な評価が下されることが多いグリック、P258 - P259。トレモリエール、P362 - P364。。.

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エラスムス・ラインホルト

エラスムス・ラインホルト(Erasmus Reinhold、1511年10月22日 - 1553年2月19日)は、ドイツの天文学者で『プロイセン表』の作成者。 ザールフェルト出身。ヴィッテンベルク大学で学び、副牧師、後に牧師になった。 1536年、ラインホルトはフィリップ・メランヒトンからヴィッテンベルク大学の数学教授に任命され、天文学の研究に取り組むようになる(当時の数学は天文学も含んでいた)。ちなみに同じ年、ゲオルク・レティクスもヴィッテンベルク大学の教授に就任しており、ラインホルトの協力者となっている。 ラインホルトは多くの星表を作り、1551年には、ニコラウス・コペルニクスの理論に基づいた天体運行表を出版した。これは『プロイセン表』と命名され、ドイツにコペルニクス体系を広めるのに役立った他、グレゴリオ暦の基礎となった。 ラインホルトは他にも、ゲオルク・プールバッハの『惑星の新理論』の注釈書も著している。 Category:ドイツの天文学者 Category:16世紀の学者 Category:マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの教員 Category:1511年生 Category:1553年没 Category:ザールフェルト出身の人物.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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ゲオルク・プールバッハ

ルク・プールバッハ(Georg Purbach、1423年5月30日 - 1461年4月8日)は15世紀のオーストリアの天文学者。西洋における観測天文学の父とも呼ばれ、科学機器を発明し、プトレオマイオスの天動説理論『アルマゲスト』を踏まえた『惑星の新理論』を発表している。『アルマゲスト』の翻訳を改訂・修正したレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の師である。ポイエルバッハ(Georg von Peuerbach)、プルバキウス(Purbachius)などとも表記される。 オーストリアのリンツに近いポイエルバッハ(Peuerbach)に生まれた。1440年頃ウィーン大学で学位を得た。数学の師はグムンデンのヨハネスとされている。フェラーラの天文学教師ジョヴァンニ・ビアンキーニ(Giovanni Bianchini)やニコラウス・クザーヌスに認められフェラーラで天文学を教えた。1450年にボローニャやパドヴァ大学の教授職、ハンガリー王ラディスラウスの宮廷天文官の席を断ってウィーン大学に戻り、教授となった。最も有名な弟子は後にレギオモンタヌスと称したヨハン・ミューラーである。ウィーンで没した。プールバッハの著書の多くは彼の没後、レギオモンタヌスによって出版された。 基準にする恒星に対する月や惑星の角度を測るための「ヤコブの杖」と呼ばれる器具などの発明者とされる。またユードクソスの同心球宇宙のモデルとプトレマイオスの離心円の宇宙論を統一しようとしたことで知られる。.

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ザルカーリー

アッ=ザルカーリー(Al-Zarqali、Abu Ishaq Ibrahim ibn Yahya Al-Zarqali、Arzachel、Azarquiel、Azarquiel、1028年 - 1087年)は11世紀のアラブ系の数学者、天文学者である。現在のスペイン、アンダルシアのトレドで活躍した。.

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スペイン語

ペイン語(スペインご、)もしくはカスティーリャ語(カスティーリャご、)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。略して西語とも書く。.

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