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アルコバッサ修道院

索引 アルコバッサ修道院

アルコバーサ修道院(Mosteiro de Alcobaça)は、ポルトガル中部レイリーア県アルコバーサにあるシトー会修道院。正式名称はMosteiro de Santa Maria de Alcobaça(サンタ・マリーア・ディ・アルコバーサ修道院)、またReal Abadia de Santa Maria de Alcobaça(王立サンタ・マリーア・デ・アルコバーサ大修道院)とも呼ばれる。ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。アルコバサ修道院とも表記する。 ポルトガル初代国王アフォンソ1世の所願により、1178年に建築が始められた。フランスのシトー派の影響を強く受けている。修道院の正面ファサードは18世紀に改築されたバロック様式だが、内部はゴシック様式が残り、強い精神性を感じさせる。南の翼廊にはポルトガル文学で悲恋が歌われるペドロ1世と愛妾イネスの墓が並んでいる。.

33 関係: 中世世界遺産修道院ペドロ1世 (ポルトガル王)バロックポルトガルポルトガル文学レイリア県ブルゴーニュ王朝フランスフェルナンド1世 (ポルトガル王)ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・モリナアラゴン王国アルコバサアフォンソ1世 (ポルトガル王)アフォンソ4世 (ポルトガル王)イネス・デ・カストロカスティーリャ王国コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャコインブラゴシック様式シトー会国際連合教育科学文化機関1178年1325年1334年1355年1356年1357年1367年18世紀1989年1月7日

中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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修道院

イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院 シナイ山にある正教会の聖カタリナ修道院 カラー写真。 パドゥーラ修道院(イタリア、カトリック教会) グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った 修道院(しゅうどういん、Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。 男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。 カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。 帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が資産として処分されてしまった。.

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ペドロ1世 (ポルトガル王)

ペドロ1世(ポルトガル語:Pedro I, 1320年4月8日 - 1367年1月18日)は、ポルトガル(ブルゴーニュ朝)の国王(在位:1357年 - 1367年)。「正義王」(o Justiceiro)あるいは「残酷王」(o Cru)と呼ばれる。アフォンソ4世と王妃ベアトリス・デ・カスティーリャの息子。1357年に父王の死去をうけて王位に即いた。 名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれるカスティーリャ王ペドロ1世は甥にあたる。.

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バロック

ピーテル・パウル・ルーベンス『東方三博士の礼拝』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。 バロック(barocco, baroque baroque, Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。.

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ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

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ポルトガル文学

ポルトガル文学では、ポルトガルで書かれた文学およびポルトガル人によって書かれた文学について述べる。.

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レイリア県

レイリア県(Distrito de Leiria)は、ポルトガル中部に位置する県の1つ。北をコインブラ県と東はカステロ・ブランコ県とサンタレン県に、南は、リスボン県と接する。西は大西洋に面する。 レイリア県には、以下の16野地方自治体が属する。.

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ブルゴーニュ王朝

ブルゴーニュ王朝は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがブルゴーニュ出身であることに由来する金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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フェルナンド1世 (ポルトガル王)

フェルナンド1世(Fernando I, 1345年10月31日 - 1383年10月22日)は、第9代ポルトガル王(在位:1367年 - 1383年)。ポルトガル王ペドロ1世と2度目の王妃コンスタンサ・マヌエル(カスティーリャ王族フアン・マヌエルの長女)の子。「美男王」とも呼ばれる。.

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ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・モリナ

ベアトリス・デ・カスティーリャ・イ・モリナ(西:Beatriz de Castilla y Molina, 葡:Beatriz de Molina e Castela, 1293年3月8日 - 1359年10月25日)は、ポルトガル王アフォンソ4世の王妃。カスティーリャ王サンチョ4世と王妃マリア・デ・モリナの末子で、フェルナンド4世の同母妹。アフォンソ4世の父方の祖母であるアフォンソ3世の王妃ベアトリスの姪に当たる。.

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アラゴン王国

アラゴン王国(アラゴンおうこく、アラゴン語: カタルーニャ語: スペイン語:Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国。.

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アルコバサ

アルコバサ修道院 アルコバサ(Alcobaça)は、ポルトガルのセントロ地方のかつてのエストレマドゥーラ州内にある基礎自治体。街はアルコ川(Alcoa)とバサ川(Baça)に沿って成長したため、街の名前となった。2011年の自治体の人口は56693人で、面積は408.14km²。アルコバサ市の正式な人口は15,800人である。 アルコバサの街は、ポルトガルの王アフォンソ・エンリケスが、1147年にムーア人からサンタレンを征服したことを記念して、教会を建設した後に、有名になった。この教会は後に、ポルトガルで最も壮麗なゴシック式教会の一つであるアルコバッサ修道院へと発展した。教会内には、ポルトガル王のペドロ1世と殺害された王妃イネス・デ・カストロの墓がある。この修道院は何世紀にもわたり、ポルトガルの文化を形成する上で重要な役割を果たした。 アルコバサの北数キロメートルあるバターリャ修道院は、他の重要な戦いであるアルジュバロータの戦いを記念して建設されたゴシック様式の建物物である。アルコバサの西には現在は人気のあるリゾートタウンで、かつては漁村であったナザレがある。南にはカルダス・ダ・ライーニャの街と中世都市オビドスがある。また北東には再建された城とともにポルト・ド・モスの街がある。 Category:ポルトガルの都市 Category:レイリア県.

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アフォンソ1世 (ポルトガル王)

アフォンソ1世(Afonso I, 1109年? - 1185年12月6日)は、ポルトガル王国を建国したブルゴーニュ王朝(ボルゴーニャ王朝)の初代ポルトガル王(在位:1139年 - 1185年)。「エンリケの子」を意味するアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)の名前でも呼ばれる。 父はブルゴーニュ家出身のポルトゥカーレ伯エンリケ(フランス語名アンリ、公位を継いだユーグ1世、ウード1世の弟)。母はカスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘テレサ。 主君筋にあたるカスティーリャ=レオン王国の混乱を利用して独立を達成し、ポルトガル王国の基礎を築いたグリック「アフォンソ・エンリケス」『世界伝記大事典 世界編』1巻、145-146頁。.

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アフォンソ4世 (ポルトガル王)

アフォンソ4世(Afonso IV 、1291年2月8日 - 1357年5月28日)は、第7代ポルトガル王(在位:1325年 - 1357年)。ディニス1世と王妃イザベル・デ・アラゴンの子。1340年ので負傷しながらも自ら剣を振るって戦ったため、「勇敢王」と呼ばれる。 アフォンソ4世は隣国のカスティーリャ王国とイベリア半島のイスラーム勢力との抗争で多くの戦果を挙げたAlphonso(1911 Encyclopædia Britannica)。一方でポルトガル経済の発展はアフォンソ4世の治世から停滞し、1348年秋のペストの流行によって人口の3分の1が失われた。息子ドン・ペドロと恋仲になった侍女イネス・デ・カストロを処刑したことで、倫理・国家的大義を遵守する厳格な王という印象を持たれているブールドン『ポルトガル史』、34頁。イネスの処刑は後世の人間の非難の的にもなり、またイネスを題材とする多くの文学作品が制作された金七『図説 ポルトガルの歴史』、23頁。.

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イネス・デ・カストロ

イネス・デ・カストロ イネス・デ・カストロ (Inês de Castro,1325年 - 1355年1月7日)は、ポルトガル王ペドロ1世の愛妾または王妃。その美しさから、「しらさぎの首」と謳われた。 ガリシア貴族ペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(カスティーリャ王ペドロ1世の愛妾フアナ・デ・カストロの親族)とアルドンサ・スアレスの娘として生まれた。父がカスティーリャ王族のフアン・マヌエルに仕えていたため、1340年にポルトガル王太子妃コンスタンサ・マヌエルの輿入れに侍女として伴われた。イネスは、コンスタンサ・マヌエルを差し置いてペドロ王子の寵愛を受け、カスティーリャ王国との友好関係にひびが入った。イネスの周囲には、カスティーリャからの亡命貴族やイネスの兄弟がペドロの友人や相談者という立場で集まっていたため、ペドロの父アフォンソ4世はイネスを警戒するようになった。運の悪いことに、ペドロと父親の関係は悪化していた。 1349年にコンスタンサ・マヌエルは死去した。アフォンソ4世は息子を再婚させようとしたが、ペドロはイネス以外と結婚するつもりはないと拒絶した。もしイネスが正式に妃となれば、コンスタンサ・マヌエルの生んだフェルナンド王子(のちのフェルナンド1世)がないがしろにされ、イネスの子供らが厚遇されるようになると、王の重臣たちは王に忠言した。コンスタンサ・マヌエルの死後、イネスを宮廷から追放したというのに、ペドロは彼女と別れていなかったのである。もはや打つ手はないと考えたアフォンソ4世は、イネスを処刑するよう3人の貴族に命じた。 イネスの処刑 イネスはコインブラのサンタ・クララ修道院で捕らえられ、王の前に引き出された。彼女は3人の子供たちを抱き、「この子たちは陛下の孫ですから、どうぞ命だけはお助けください。」と哀願した。アフォンソ王はイネスの処刑を一旦は思いとどまったが、貴族たちはイネスを生かしたままにする危険を訴えた。王は「お前たちの好きなようにせよ。」とその場を立ち去り、イネスは断首刑に処された。 イネスの死を聞いたペドロは逆上し、父王に対して反乱を起こした。母ベアトリス王妃の取りなしでペドロは父と和解したが、彼はイネスの復讐を禁じられた。 ペドロは1357年に王位に就くと、イネス・デ・カストロとは正式に結婚しており、彼女は王妃であると宣言した。ペドロは既に葬られていた彼女の棺を掘り起こし、宮廷へ王妃の礼を持って運ばせ、臣下らに「王妃の手に接吻し、忠誠を示すよう」要求した。イネスを殺害した3人の貴族はカスティーリャへ逃亡していたが、ペドロは甥のカスティーリャ王ペドロ1世に逮捕を依頼した。 イネスは、再度アルコバッサ修道院へ葬られた。王と同じく大理石でできた棺に納められ、王の棺と向かい合って安置されている。「最後の審判の後、生き返った時に起き上がると、すぐ互いの顔が見られるように」というペドロ王の願いからである。.

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カスティーリャ王国

ティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。.

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コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ

ンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャ(西:Constanza Manuel de Castilla, 葡:Constança Manuel de Castela, 1310年代から1320年代 - 1345年11月13日)は、ポルトガル王ペドロ1世の2番目の妃。ただしペドロの即位以前に死去している。父はカスティーリャ王フェルナンド3世の孫ペニャフィエル公フアン・マヌエル、母はその2番目の妻でアラゴン王ハイメ2世の娘コンスタンサ。異母妹にカスティーリャ王エンリケ2世の王妃フアナ・マヌエルがいる。.

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コインブラ

インブラ(Coimbra )はポルトガルの都市および地方自治体。人口は約15万人、面積は約319.4km2。16の自治体、面積約3372km2が集まってコインブラ大都市圏を構成しており、その総人口は43万人以上。バイシュ・モンデーグ地域の中心都市で、コインブラ県の県都でもある。セントロ地方(Região Centro)で最も大きな街である。市外から大学に通う学生たちも多い。 リスボン大都市圏、ポルト大都市圏に次ぐ重要な地域であり、セントロ地方の都市を束ねる役割を果たしている。1139年から1255年までポルトガルの首都で、古代ローマ時代にはアエミニウムと呼ばれ、当時の遺跡が今でも残る。1290年にコインブラ大学が設立されたことによって、ポルトガルの文化的中心地に発展した。コインブラ大学はヨーロッパで最も古い大学のひとつで、観光客も多い。.

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ゴシック様式

ック様式(ゴシックようしき Gothic Style)とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語。最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適応範囲が広がった。この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。当時は既にゴート族と称される集団は存在しなかったが、「ゴート族」という言葉はしばしばゲルマン人全体を指して用いられ、アルプス以北のドイツ語を話す人々(Tedeschi)のことを指し示して使われたからである。そして「ゴート族」と言った場合には、ローマ帝国と古典芸術を破壊した蛮族という批判的な見方が含まれていた。 しかしこの様式に対する認識は間違いである。ゴシック様式はフランスのイル・ド・フランス地方から始まって各地へ広まった様式であり、ゴート族またはドイツ語を話す人々が創始した様式ではない。また、この様式が創始された時代の者たちは「現代様式」や「フランス様式」と言い表している。 ルネサンス期以後ゴシック様式は蔑まれ、一部その使用され続けたところもあるにせよ(ゴシック・サバイバル)、ほとんど採用されなくなった。しかし、18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスにおいてゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるゴシック様式再興運動が活発化する。以後ゴシック様式が再考されて再び脚光を浴びるようになり、名前が由来するところの侮蔑的な意味合いはなくなった。.

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シトー会

トー会の紋章 シトー会(シトーかい)またはシトー修道会(シトーしゅうどうかい、羅:Ordo Cisterciensis, 省略形:OCist  英語::W:Cistercians)は、カトリック教会に属する修道会。ベネディクト会から派生した。ベルナルド会(Bernardin)の別名もある。 改革を希求したフランス、ブルゴーニュ地方出身の修道士モレームのロベール(Robert de Molesme, 1027年 - 1111年)が1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院が発祥である。シトー会は、「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した点で、既存のベネディクト会修道院、とりわけクリュニー会(戒律のうち祈祷を重んじ、豪華な典礼を繰り広げ貴族的とも評された)と対峙する立場をとった。服装面にもその姿勢は現れており、壮麗・華美なクリュニー会と異なって染料を用いない白い修道服を着たことから、シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。シトー会は戒律の中でも労働と学習を重んじ、自ら農具をとり農民らを指導して、森林に覆われていた北フランスの開墾や新農法の普及を行った。 ロベールは元々クリュニー会の修道士であり、モレーム修道院院長であったが、「聖ベネディクトの戒律」をめぐって修道士の間で対立が起き、内部分裂の結果ロベールはシトー修道院を設立した。その後、1099年にロベールが教皇ウルバヌス2世の命によりモレーム修道院に戻ると、シトーのアルベリック(Albéric de Cîteaux, ? - 1108年または1109年)が後任として選出された。アルベリックが死去すると、ステファン・ハーディング(Stephen Harding, 1060年 - 1134年3月28日)が後を継いだ。シトー会は、この3人を創立者としている。 シトー会が発展したのはクレルヴォーのベルナールの功績が大きく、1115年にクレルヴォー修道院が創立されるとベルナールが院長に任命され、クレルヴォー修道院はシトー会の重要な拠点となった。シトー会の別名であるベルナルド会の呼称は、このベルナールにちなむ。ベルナールはシトー会のみならず、カトリック教会およびヨーロッパ全体に非常に大きな影響力をもち、それに伴いシトー会も大きな発展を遂げた。しかし、ベルナールの死後、シトー会は徐々に衰退していき、また国際紛争、疫病の流行などの社会情勢から地域ごとのグループに分裂していった。さらに、フランス革命によって決定的な打撃を受けて一時はフランス国内から姿を消したが、革命終了後に亡命していた修道士がフランス国内に戻ると復興し、現在のシトー会が作られた。このとき、フランスノルマンディー地方のトラップ修道院で行われていた、厳格な規律を元にしたのが厳律シトー会(トラピスト会)である。現在は、厳律シトー会は独立した修道会となっており、(寛律)シトー会と分かれている。.

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国際連合教育科学文化機関

フランス、パリのユネスコ本部庁舎と平和の庭園(日本庭園) 日本ユネスコ国内委員会が入居する東京都の霞が関コモンゲート東館(右側) 国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん、Organisation des Nations unies pour l'éducation, la science et la culture、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, UNESCO ユネスコ)は、国際連合の経済社会理事会の下におかれた、教育、科学、文化の発展と推進を目的とした専門機関である。 1945年11月に44カ国の代表が集い、イギリス・ロンドンで開催された国連会議 "United Nations Conference for the establishment of an educational and cultural organization" (ECO/CONF)において11月16日に採択された 「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づいて1946年11月4日に設立された。 分担金(2016年現在)の最大の拠出国はアメリカ合衆国(22%)、2位は日本(9%)である(米国は拠出金支払いを全額停止しているため、実質的に最大の拠出国は日本であるなおアメリカは2018年12月31日付でのユネスコ脱退を表明している。)。.

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1178年

記載なし。

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1325年

記載なし。

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1334年

記載なし。

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1355年

記載なし。

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1356年

記載なし。

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1357年

記載なし。

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1367年

記載なし。

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18世紀

Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。.

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1989年

この項目では、国際的な視点に基づいた1989年について記載する。.

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1月7日

1月7日(いちがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。誕生花はチューリップ(白)。.

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