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アミール・キャビール

索引 アミール・キャビール

ミールザー・タギー・ハーン・アミール・キャビール(1807年-1852年1月11日; امیرکبیر)は、ナーセロッディーン・シャー時代に活躍したガージャール朝時代の大宰相。アミール・キャビールは称号。エザーフェをとってアミーレ・キャビールとも呼ばれる。ほかにアミール・ネザーム、アターバクの称号をもつ。アターバクの称号を持つのはガージャール朝では他に2人を数えるのみで、イランではガージャール朝下のみならずイラン近代史における改革者の第一として挙げられる。.

17 関係: 大宰相宮田律中央公論新社ペルシアナーセロッディーン・シャーバーブ教トルコフィン庭園アミール・キャビール工科大学アタベクオスマン帝国カーシャーンガージャール朝1807年1851年1852年1月11日

大宰相

大宰相 (トルコ語: Vezir-i AzamまたはSadr-ı Azam(ザドラザム、Sadrazam)またはSerdar-ı Ekrem、オスマン帝国時代にはصدر اعظم または وزیر اعظم)は、オスマン帝国における最上位の官位で、ペルシャ語のヴェズィール (vizier、وزير、宰相の意)に由来する。また、ヴェズラザム (Vizrazam)、ヴェズザラム と呼ばれる場合もある。英語では、Grand Vizierと呼ぶ。支配構造上ではスルタンの直下に位置し、スルタンの絶対権力を代行する立場であり、原理的にはスルタン以外からは罷免されない。オスマン帝国運営の実務を担い、政務にあたって他の宰相を招集することができた。宮廷内の御前会議 (en) は、その開かれていた場所がトプカプ宮殿内の聖堂内 (Kubbealtı) であったことから、「聖堂宰相」(Kubbealtı viziers、英: under the dome visiers) と呼ばれた。また大宰相の公邸はバーブ・アーリー(大宰相府、en)と呼ばれた。大宰相 (Vazīr-e Azam) はまた、パキスタンの首相を指すウルドゥー語でもある(大臣一般は "vizier")。 オスマン帝国の成立してまもない頃には大宰相と言う名称はなく、宰相 (Vizier) とだけ呼ばれていた。その中で最初に大宰相と呼ばれたのはチャンダルル家出身のハイレッディン・パシャ (en) である。大宰相という位は、宰相の中でスルタンの代行者とその他の宰相を峻別するために設けられた。初めのうちはヴェズィール・イ・アーザム (vezir-i âzam) と呼ばれることが多かったが、次第にサドラザム (sadrazam) と呼ばれるようになった。どちらも意味としては同じである。大宰相はまた、オスマン帝国の歴史を通じてサドル・イ・アーリー (sadr-ı âlî、英: 'high vizier')、ベキル・イ・ムトラク (vekil-i mutlak、英: 'absolute attorney')、サーヒブ・イ・デヴレト (sâhib-i devlet、英: 'holder of the state')、セルダル・イ・エクレム、セルダル・イ・アザム、ザート・イ・アーサフィ (zât-ı âsafî、英: 'vizieral person') などと呼ばれた。 キョプリュリュ時代 (en)(1656年 – 1703年) には、歴代の大宰相がオスマン帝国の実権を握っていた。この時代には、スルタンの権力は弱められ、それが支配階級の下位に分散していた。 タンジマートの後、19世紀のオスマン帝国では、大宰相は現代の西洋国家政府における首相に近い役割を果たすようになった。.

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宮田律

宮田 律(みやた おさむ、1955年(昭和30年)5月5日 - )は、日本のイスラム研究者(現代イスラム地域研究・途上国の国際政治・イラン現代史・イラン現代政治)。学位は歴史学修士(カリフォルニア大学ロサンゼルス校・1985年)。一般社団法人現代イスラム研究センター理事長。 静岡県立大学国際関係学部講師、静岡県立大学国際関係学部助教授などを歴任した。.

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中央公論新社

株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.

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ペルシア

ペルシア、ペルシャ(ギリシャ語 Περσία)は、現在のイランを表す古名である。漢名は波斯(はし)・波斯国(はしこく)。波斯と書いてペルシャ、ペルシヤと読ませることもある。イランの主要民族・主要言語の名称でもある。.

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ナーセロッディーン・シャー

ナーセロッディーン・シャー(1831年7月16日 - 1896年5月1日、ناصرالدین شاه قاجار)は、ガージャール朝第4代シャー(在位:1848年9月17日 - 1896年5月1日)で、第3代シャーモハンマド・シャーの子。イランの歴史の中で、サーサーン朝のシャープール2世とサファヴィー朝のタフマースブ1世に次いで3番目に長く在位した君主で、治世は50年近くにわたる。シャーとしては初めて日記を刊行した人物でもある。.

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バーブ教

ハイファにあるバーブの霊廟 バーブ教(バーブきょう、بابی ها)は、イランなどに分布したイスラム教の流れを汲む一神教である。1840年代にバーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったが、のちにシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般にはイスラームの枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部はバハーイー教へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派はとも呼ばれ今もイランに残るという。 なお、発祥の地であるイラン・イスラーム共和国では、バーブ教の存在、信仰は、現在違法であるとされている。.

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トルコ

トルコ共和国(トルコきょうわこく、Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。.

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フィン庭園

フィン庭園(、Fin Garden)は、イラン・カーシャーンにあるペルシャ式庭園である。フィン庭園内には、1852年、ガージャール朝・ナーセロッディーン・シャーの宰相を勤めたアミール・キャビールが暗殺された浴場も含まれている。 2011年、「ペルシャ式庭園」(The Persian Garden,Le jardin persan)の登録名で、他のイラン国内の8つのペルシャ式庭園とともに、ユネスコの世界遺産に登録された。.

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アミール・キャビール工科大学

アミール・キャビール工科大学(AUT; دانشگاه صنعتی امیرکبیر)はイラン・テヘランの 男女共学の公立研究大学。以前はテヘラン・ポリテクニークと称した。同大学はイラン最初の工科大学として設立され、自然科学、工学、技術における国内最高の教育機関である。 1958年、ハビーブ・ナフィースィーによって設立。当初は工学部門の5学部から構成された。大学は順次拡大し、現在は自然科学部門と工学部門で14学部、5研究所を擁し、関連大学諸機関がテヘラン近郊タフレシュの街にある。専任教員は480人、職員550人、学生数は大学院・学部あわせて8000人以上である。 アミール・キャビール工科大学は大学院教育を対象に長期計画を策定、実施している。.

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アタベク

アタベク(atabeg、アターベク、アターベグとも書かれる)はテュルク語で「父なる君侯」を意味する。幼い君主の後見人・摂政であり養父となる有力者のこと。アラビア語・ペルシア語の資料では اتابك Atābak などと書かれている。 セルジューク朝などテュルク系の政権でしばしば活発に活動し大きな役割を果たした。その半面で混乱のもととなったこともあり、後には各地に自ら王朝を作ることとなり、トルコ系の国家における君主号のひとつともなった。後に位は王や皇帝の次席に位する単なる領主の称号となった。 日本の武家における傅役(ふやく、もりやく)と同じく幼い世継ぎの後見人であるので、「傅役」と訳されることもある。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カーシャーン

ーシャーンにあるタバータバーイー家邸宅 カーシャーン(کاشان:Kāshān)はイランのエスファハーン州にある都市である。قاشان(Qāshān)とも書かれる。 人口の推計は272,359人(2005年現在)。 都市名の語源はペルシア語の単語のKāshī(化粧タイルの意味)から来ている。カーシャーンは、イラン中央のカヴィール砂漠の端に沿って走る、コム - ケルマーン道の道沿いの場所にある。.

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ガージャール朝

ージャール朝(قاجاریه.、前近代ペルシア語ではガージャーリヤン)は、18世紀末から20世紀初にかけて現在のイランを中心に支配したトゥルクマーン系によるイスラム王朝(1796年 - 1925年)。首都はテヘラン。.

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1807年

記載なし。

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1851年

記載なし。

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1852年

記載なし。

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1月11日

1月11日(いちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から11日目に当たり、年末まであと354日(閏年では355日)ある。誕生花はミスミソウ、セリ。.

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