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アポクシュオメノス

索引 アポクシュオメノス

バチカン美術館のアポクシュオメノス(1849年、ローマのトラステヴェレ区で発見) アポクシュオメノス(Apoxyomenos)は古代ギリシアの彫刻によく見られる主題で、古代ローマなどでも使われた肌かき器を使って汗や汚れを落としているアスリートを表している。拭う者(Scraper)とも。 古典古代期の最も有名なアポクシュオメノスは、アレクサンドロス3世のお抱え彫刻家だったシキオンのリュシッポスが紀元前330年ごろ制作したものである。もともとのブロンズ像は失われたが、大プリニウスの『博物誌』の記述で知られており、さらに紀元前20年ごろローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパがローマに建設したアグリッパ浴場にリュシッポスの傑作を設置した。後の皇帝ティベリウスはこの像に夢中になり、それを自分の寝室に移させた。しかしこれが「我々のアポクシュオメノスを取り戻せ」という騒動に発展し、皇帝は恥をかいた。 ローマのバチカン美術館にある大理石製の複製は、1849年にローマのトラステヴェレ区で発見されたもので、この像の複製とされている(右図)。その石膏模型がすぐに各国のコレクションに入れられ、教科書にもよく掲載されるようになった。この像は等身大よりやや大きく、ポリュクレイトスの7頭身ではなく、リュシッポスの特徴である8頭身で、手足が長く薄い。大プリニウスによれば、リュシッポスはいつも、他の芸術家は人間をありのままに描くが、自分は人をそうあるべき姿に描くと言っていたと注記している。リュシッポスの彫像は真のコントラポストとなっており、外に伸ばした腕が動きを与え、見る角度によって違った表情を見せる。 大プリニウスはまた、同じ主題をポリュクレイトスやその弟子であるシキオンのダイダロスが制作していることにも言及している。ポリュクレイトス派の断片的なブロンズ像は、腕を低く構え、左腕から汗と汚れを落とそうとしている。この像は1896年、トルコのエフェソスの遺跡で出土した。現在はウィーンの美術史美術館で保管している。保存状態が非常によいため、紀元前4世紀のオリジナルなのか、ヘレニズム時代の複製なのかは学者の間でも議論になった。ウフィツィ美術館のメディチ家コレクションにはクラシック期のneo-Attic様式の像があり、エフェソスのブロンズ像が発掘される以前は紀元前5世紀のオリジナルと見られていた。 クロアチアのアポクシュオメノス 1999年、クロアチアのロシニ島近海でほぼ完全なアポクシュオメノスのブロンズ像が見つかった。これは今のところ、紀元前2世紀から紀元前1世紀のヘレニズム期の複製と見られている。現在はザグレブの美術館に Croatian Apoxyomenos として収蔵されている(左図)。ふくよかで短いあごや整っていない頭髪などの特徴がエフェソスのブロンズ像と共通している。 エルミタージュ美術館には頭部の素晴らしい複製がある。別のアポクシュオメノスのブロンズ像頭部が18世紀初頭にヴェネツィアで Bernardo Nani のコレクションに入っていた(現在は Kimball Art Museum にある)。Naniのコレクションには他にもペロポネソス半島で見つかったものが含まれていた。Kimball Art Museum はこの頭部もギリシア本土で見つかったものではないかとしている。この頭部もクロアチアのアポクシュオメノスと同様、唇に銅が化粧張りされていて、目にはガラスや銅が象嵌されていた。このようにクロアチアのアポクシュオメノスを代表とする特徴が共通な像の断片は6個ほど見つかっており、古代にはよくあるアポクシュオメノスだったとも示唆されている。一方、バチカンのアポクシュオメノスはポーズが逆向きであり、リュシッポスのオリジナルからの派生と見られている。.

36 関係: 博物誌古代ローマ古代ギリシア古典古代彫刻ペロポネソス半島マルクス・ウィプサニウス・アグリッパバチカン美術館ポリュクレイトスメディチ家リュシッポスローマロシニ島ヴェネツィアボストン美術館トラステヴェレトルコヘレニズムプラクシテレスピュグマリオーンティベリウスアレクサンドロス3世アグリッパ浴場アスリートウフィツィ美術館ウィーンエルミタージュ美術館エフェソスガイウス・プリニウス・セクンドゥスクロアチアクニドスのアプロディーテーコントラポストザグレブシキオン美術史美術館肌かき器

博物誌

1669年版の表紙 『博物誌』(はくぶつし、Naturalis Historia)は、古代ローマの大プリニウスが著した書。全37巻。地理学、天文学、動植物や鉱物などあらゆる知識に関して記述している。数多くの先行書を参照しており、必ずしも本人が見聞、検証した事柄だけではない。怪獣、巨人、狼人間などの非科学的な内容も多く含まれ、学問的な体系を完全に成しているわけではない。 古くから知られていたが、特にルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以来、ヨーロッパの知識人たちに愛読され、引用されてきた。科学史・技術史上の貴重な記述を含むほか、芸術作品についての記述は古代ローマ芸術についての資料として美術史上も珍重された。また、幻想文学にも影響を与えた。.

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古代ローマ

古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。当時の正式な国号は元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)であり、共和政成立から使用されて以来滅亡まで体制が変わっても維持された。伝統的には476年のロムルス・アウグストゥルスの退位をもって古代ローマの終焉とするのが一般的であるが、ユスティニアヌス1世によってイタリア本土が再構成される554年までを古代ローマに含める場合もある。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度に様々な形で残り、今日まで影響を与えている。.

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古代ギリシア

この項目では、太古から古代ローマに占領される以前までの古代ギリシアを扱う。.

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古典古代

古典古代(こてんこだい、Classical Antiquity)は、ヨーロッパ史(西洋史)において古代ギリシア・ローマ時代を指す名称である。この時代に生み出された文化・文明が現在のヨーロッパ文化の基盤になっていることに由来し、「古典的」という修飾句を冠することで他の古代(文化・文明)と区別したものである。 古典古代の文化は、先行して繁栄していた古代オリエントの文化(エジプト文明およびメソポタミア文明)からの大きな影響(文字や鉄器の使用など)を受けて成立し、地中海世界(特にその北半分)を中心に発展した。この地域からはアレクサンドロスの帝国およびローマ帝国が台頭し、オリエント世界をも統合する大帝国を現出した。言語的側面から見れば、古典古代文化は古代ギリシア語およびラテン語による文化であった。 古典古代の終焉は、古代末期の終了に伴う古代文化の崩壊と中世初頭の開始を以ってとされ、これ以後の西ヨーロッパ世界は、ローマ帝国末期から次第に力を増してきたキリスト教とゲルマン人の文化に支配されることになった(中世の始まり)。古典古代の文化的遺産は東ローマ(ビザンツ)に継承され、8世紀以降はアラビア語への翻訳を通じてイスラーム世界に引き継がれた。ここで古典古代文化は哲学・自然科学の研究の面で独自の発達を遂げ、十字軍・レコンキスタによる西欧世界との接触・交流の開始により、再び西欧へと「逆輸入」されることになり、12世紀ルネサンス、(14世紀以降の)イタリア・ルネサンスの成立につながった。この結果、古典古代文化はキリスト教・ゲルマン人文化に加え現代にいたるヨーロッパ文化の基盤とみなされるに至っている。.

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彫刻

彫刻(ちょうこく)とは、木、石、土、金属などを彫り刻んで、物の像を立体的に表すこと。または、それらの表面に書画や図版などを掘り込むこと。あるいは美術的な鑑賞を目的として、様々な素材を用いて立体的に制作された芸術作品のこと。また、その表現領域を指す。以下では西洋美術の概念における、芸術作品としての彫刻(スカルプチャー、英語:sculpture)について述べる。 硬い素材を彫り刻む技法も彫刻(カーヴィング、carving)と呼び、それに対して、可塑性素材を盛りつけて形を作る技法を彫塑(モデリング、modeling)という。彫塑で作られた作品を特に塑像と呼び分けることもある。 使われる素材は、石、木、土、フェルト、石膏、紙、繊維、金属(鉄、銅など)、樹脂、ガラス、蝋など、多種にわたり、また、複数の素材を組み合わせる作品も多い。 彫刻の対象(モチーフ)は元来、人間や身近な動物など具体物であった(具象彫刻)が、20世紀になると、心象を表したもの(抽象彫刻)も多く制作されるようになった。 現在では、表現が多様化し、従来の彫刻の概念では収まらないケースもあり、それらを「立体」、「立体アート」と呼ぶこともあるほか、表現が設置空間全体へ拡散したものは、特に「空間表現」や「インスタレーション」と呼び分けられる。.

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ペロポネソス半島

ペロポネソス半島(ペロポネソスはんとう、Πελοπόννησος / Pelopónnisos; Peloponnesos)は、ギリシャの大陸部分南端に広がる半島である。ギリシャの「本土」とはコリンティアコス湾およびサロニコス湾で隔てられており、コリントス地峡でつながっている。 「ペロポネソス」は古代ギリシア語での発音(Pelopónnēsos)に由来する表記(長音を表記すれば「ペロポンネーソス」)であり、現代ギリシャ語での発音では「ペロポニソス」となる。このほか「ペロポンネソス」などの表記も用いられる。ヴェネツィア語ではモレア(Morea)と称された。.

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マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ

マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ(Marcus Vipsanius Agrippa, 紀元前63年 - 紀元前12年)は、古代ローマの軍人、政治家でローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心。のちにアウグストゥスの娘婿となる。 ガイウス・ユリウス・カエサルに見出され、軍略の弱いアウグストゥスの補佐的役割を果たした。また、パンテオンやポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造した。.

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バチカン美術館

バチカン美術館 (Musei Vaticani) は、バチカン市国にあり、歴代ローマ教皇の収集品を収蔵展示する世界最大級の美術館である。日本語では「ヴァチカン美術館」、「ヴァティカン美術館」などとも表記する。.

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ポリュクレイトス

ポリュクレイトス『ドリュポーロス(槍を持つ人)』(複製)。古典的なコントラポストの初期の例 ポリュクレイトス(Polykleit or Polyklitos, Polycleitus, Polyclitus, ギリシャ語:Πολύκλειτος)は、紀元前5世紀〜紀元前4世紀初期の古代ギリシアのブロンズ像の彫刻家。大ポリュクレイトス(Polykleitos the Elder)とも呼ばれる。ペイディアス、ミュロン、クレシラスに続く、古典時代(:en:Classical antiquity)の重要な彫刻家。大プリニウスが美術のことを書くのに参考にした、紀元前4世紀のクセノクラテスが書いたとされるカタログ(Xenocratic catalogue)では、ペイディアスとミュロンの間にランクづけされている。.

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メディチ家

メディチ家(メディチけ、Casa de' Medici)は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭、フィレンツェの実質的な支配者(僭主)として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。歴代の当主たちが集めた美術品などはウフィツィ美術館などに残され、また、ピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに残された。これらは、メディチ家の直系で最後の女性アンナ・マリア・ルイーザの遺言により、メディチ家の栄華を現代にまで伝えている。一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。.

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リュシッポス

『弓を張るエロス』のローマの複製。ローマ、カピトリーノ美術館 リュシッポス(Lysippos, ギリシャ語:Λύσιππος)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの彫刻家。リュシッポス、スコパス、プラクシテレスは、ヘレニズム時代への移行をもたらした、ギリシアの古典時代の三大彫刻家と言われている。当時の世評では、リュシッポスは高名な彫刻家ポリュクレイトスの後継者とされていた。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ロシニ島

ニ島 (-ろしにとう、クロアチア語:Lošinj、イタリア語:Lussino、ドイツ語: Lötzing; ラテン語 Apsorrus, ギリシャ語: Apsorros, Αψωρος)は、クロアチアの島。アドリア海北部、クヴァルネル湾に位置する。本土の都市リエーカの南にあり、プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。面積は74.36平方km、人口は2001年時点で8,134人。.

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ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

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ボストン美術館

内部 ボストン美術館 (Museum of Fine Arts, Boston、略称はMFA) は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、全米有数の規模を持つ美術館。.

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トラステヴェレ

色部分がリオーネとしてのトラステヴェレの範囲 トラステヴェレ (Trastevere) はローマの地名。現行の行政区画としては13番目のリオーネ(it)にあたり、テヴェレ川西岸に位置する 。 トラステヴェレは日本語に訳せば「テヴェレ川の向こう側」であり、これはローマの中心地からみた場合のテヴェレ川を挟んだ向こう側ということを意味し、「ローマの下町」とも評される、p.1。。.

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トルコ

トルコ共和国(トルコきょうわこく、Türkiye Cumhuriyeti)、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有する、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる共和国。首都はアナトリア中央部のアンカラ。 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。.

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ヘレニズム

ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)の祖、ヘレーンに由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス3世(大王)(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。.

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プラクシテレス

プラクシテレス『クニドスのアプロディーテー』の紀元前1世紀の複製『ブラスキのアプロディーテー』ミュンヘン、グリュプトテーク アテナイのプラクシテレス(ギリシャ語:Πραξιτέλης, Praxiteles)は大ケフィソドトスの子で、紀元前4世紀の最も有名なアッティカの彫刻家。.

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ピュグマリオーン

ャン=レオン・ジェローム『ピグマリオンとガラテア』 (1890), メトロポリタン美術館 ピュグマリオーン(Πυγμαλίων, Pygmaliōn)は、ギリシア神話に登場するキプロス島の王である。長母音を省略してピュグマリオンとも表記される。 現実の女性に失望していたピュグマリオーンは、あるとき自ら理想の女性・ガラテアを彫刻した。その像を見ているうちにガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れる。そのうち彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテーがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオーンはそれを妻に迎えた。.

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ティベリウス

ティベリウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Tiberius Julius Caesar、紀元前42年11月16日 - 紀元後37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 - 37年)。初代皇帝アウグストゥスの養子。養子となる以前の名前は実父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。 なお、イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝である。イエスの言葉である「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(新約マタ 22:17-21、マコ12:14-17、ルカ 20:22-25)の「カエサル」とは、ティベリウスないし彼を含めた(皇帝の称号としての) カエサル(=ローマ皇帝)一般のことである。.

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アレクサンドロス3世

アレクサンドロス3世(Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日)、通称アレクサンドロス大王(Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)である。また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。その他にはイスカンダルなどと呼ばれている。 ハンニバルプルタルコスの『英雄伝』によると、史上最も優れた指揮官としてアレクサンドロス大王を挙げている。、ガイウス・ユリウス・カエサルプルタルコスの『英雄伝』によると、アレクサンドロスの銅像をみたカエサルは、自分の業績は、彼に比べればとるにたらないと言って泣いたという逸話がある。、ナポレオンMémoires de Napoléon Bonaparte, Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne(1821年)は、ナポレオンに同行した秘書の回想録であるが、「アレクサンドロスはナポレオンが最も尊敬する偉人であり、同列に並べられることを常に願っていた。」「エジプト遠征時も、自分とアレクサンドロスを重ねていた」という趣旨の内容が度々登場する。などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、ゾロアスター教、シャー・ナーメなど多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や旧100ドラクマ硬貨、1926年からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。.

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アグリッパ浴場

アグリッパ浴場(アグリッパよくじょう、Thermae Agrippae)は、初代皇帝アウグストゥスの右腕であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパが建設させた、古代ローマ史上初のローマのテルマエ(大型公衆浴場)である。また、ローマではこの浴場以外はすべて皇帝が建てたものである。パンテオンと同時期に balaneion (βαλανεῖον) としてパンテオンの軸線上に建てられ、当初は冷水プールと熱気風呂だけがあり、サウナ風呂とほとんど違わないものだった。同じくアグリッパが紀元前19年にヴィルゴ水道を完成させ、それによって豊富に水が供給できるようになって完全なテルマエとなり、記念碑的プール (Stagnum Agrippae) が追加された。アグリッパ浴場内は艶のあるタイルで装飾され、芸術作品が飾られていた。外にはリュシッポスのアポクシューオメノス像があった。アグリッパは浴場を市民に残し、紀元前12年に亡くなった。 アグリッパ浴場は紀元80年の火災で損傷を受けたが (Cassius Dio, lxvi.24)、再建され同時に拡張された。マルティアリスの時代に手狭となり、ハドリアヌス帝やその後の皇帝の下でも拡張されている。 7世紀には建築資材のために採掘され始めたが、16世紀になってもまだ原形の大部分を保っており、その廃墟をバルダッサーレ・ペルッツィやアンドレーア・パッラーディオが描いている。.

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アスリート

アスリート(英:athlete)とは、英語で運動選手、スポーツマン(和製英語:sports man)などという意味の言葉である。スポーツ選手(スポーツせんしゅ)とも。.

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ウフィツィ美術館

ウッフィーツィ美術館(ウッフィーツィびじゅつかん、)は、イタリアのフィレンツェにあるルネサンス絵画で有名な美術館である。1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館としてヨーロッパ最古のものの1つである。またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。また、トスカーナ方言であるUffiziは英単語officeの語源になった。 メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラッファエッロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。.

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ウィーン

ウィーン(標準Wien〈ヴィーン〉、Wean〈ヴェアン〉、Vienne〈ヴィエンヌ〉、Vienna〈ヴィエナ〉)は、オーストリアの首都。2017年1月1日時点の人口は186万7582人。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。クラシック音楽が盛んで過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。.

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エルミタージュ美術館

ルミタージュ美術館(エルミタージュびじゅつかん、Эрмитаж エルミターシ、Hermitage Museum)は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。.

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エフェソス

フェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。 現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。2015年に世界遺産リストに登録された。.

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ガイウス・プリニウス・セクンドゥス

イウス・プリニウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Secundus、23年 – 79年8月24日)は、古代ローマの博物学者、政治家、軍人。ローマ帝国の属州総督を歴任する傍ら、自然界を網羅する百科全書『博物誌』を著した。一般には大プリニウスと呼ばれる。 甥に、文人で政治家のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)がおり、養子としている。.

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クロアチア

アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.

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クニドスのアプロディーテー

Ludovisiコレクションの「クニドスのアプロディーテー」。ローマ時代の複製の大理石像(胴と腿)。頭部、腕、脚、手に持っている服などは後世の復元 クニドスのアプロディーテー(Αφροδίτη της Κνίδου, Aphrodite of Cnidus)は、古代ギリシアの彫刻家アテナイのプラクシテレス(紀元前4世紀)の代表作の1つである。そのオリジナルと複製は Venus Pudica(恥じらいのヴィーナス)型とも呼ばれ、右手で陰部を隠しているのが特徴である。ここから派生した型(胸を手で隠すなどのポーズをしているもの)として、やカピトリーノのヴィーナスがある。.

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コントラポスト

ポリュクレイトスの『ドリュポーロス(槍を持つ人)』の複製。古典的なコントラポストの初期の例。もともとのブロンズ像は失われた。 コントラポスト()とは、体重の大部分を片脚にかけて立っている人を描いた視覚芸術を指す用語で、もともとはイタリア語である。片脚に体重をかけているため、肩や腕が尻や脚の軸からずれているのが特徴である。このためより動的な見た目になったり、逆にゆったりした見た目になる。脚を休ませている状態から歩こう・走ろうとする状態への変化を描くことで、緊張を表すこともできる。コントラポストをさらに強調して曲がりくねらせたものをS字曲線という。 コントラポストは西洋の古典彫刻の勃興期から使われてきた。古代ギリシアの彫刻家ポリュクレイトス(紀元前4世紀)の『カノン』によれば、コントラポストは彼の彫刻作品の最重要な特徴の1つであり、彼の後継者リュシッポスやスコパスらにとっても同様だった。ポリュクレイトス派の彫像としてはディスコポーロス(円盤を持つ人)やドリュポーロス(槍を持つ人)があり、神のごとく理想化された運動競技選手の若者を描き、コントラポストのポーズを捉えている。これらの作品では、それ以前のアルカイク時代のクーロスと呼ばれる立像とは異なり、骨盤が体の軸に対して垂直ではない。その過渡期にあるのが紀元前480年ごろのクリティオスの少年像である。 コントラポストは古代ローマでも踏襲され、ヘルメースとヘーラクレースの像に見られる。代表作としてプラクシテレスの『幼いディオニューソスを抱くヘルメース』像がオリンピアにある。ポリュクレイトスのアマゾーン像をローマ人が複製したものもコントラポストになっている。 古典期のコントラポストはルネサンス期にイタリアの芸術家ドナテッロとレオナルド・ダ・ヴィンチによって復活し、ミケランジェロやラファエロや盛期ルネサンスの他の芸術家がそれに追従した。イタリア・ルネサンスの最大の成果の1つはコントラポストを再発見したことだと言われているが、マニエリスムにおいてはコントラポストが多用されすぎた感がある。 西洋の彫刻におけるコントラポストは、人体によって心理状態を表現するという最初の技法であり、彫刻の発展において非常に重要である。クリティオスの少年像の均整の取れた調和したポーズは、落ち着いてリラックスした気持ちを表しており、その像が表している理想的男性の気質の均一さを表している。これ以降、ギリシアの彫刻家は人体をつかって人間のあらゆる経験を表現しようとし、ヘレニズム期のラオコーン像(紀元1世紀)の必死の苦悶と哀感において最高点に達した。 ファイル:Michelangelos David.jpg|ミケランジェロの『ダビデ像』。肩の傾きと骨盤の傾きが異なっている。 ファイル:Leda and the Swan 1505-1510.jpg|チェザーレ・ダ・セストの『レダと白鳥』。レオナルド・ダ・ヴィンチの現存しない作品の模写。.

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ザグレブ

レブ()はクロアチア共和国の首都で同国最大の都市である。クロアチア北西部サヴァ川河畔に位置しの南斜面にあり海抜は122mである。2011年の国勢調査による人口はザグレブ市街が686,568人、ザグレブ市域では792,875人であった。ザグレブ市と周辺の行政的に分かれているザグレブ郡の人口317,642人を合わせたザグレブ都市圏の人口は1,110,517人である。ザグレブはクロアチアでは唯一、100万人を超える都市圏を形成している。 アルプスやディナルアルプス、アドリア海方向へ広がるパンノニア平原南西部の有利な地理的な条件により、中央ヨーロッパとアドリア海を結ぶ良く整備された交通回廊によって周辺地域と結ばれている。ザグレブは交通の要衝である他、産業の集積や科学研究機関、伝統的な産業などでクロアチアで先導する地位にある。また、首都としてクロアチアの中央政府や行政機関、省庁のほとんどがザグレブに拠点を置いている。.

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シキオン

ン(Σικυών, Sicyon)とは、ギリシャのペロポネソス半島北東部コリンティア県にある地名。古典ギリシャ語の発音はシキュオーン。長母音を略してシキュオンとも呼ばれる。 古代ギリシアにおいては著名な都市として繁栄し、現在でもその遺跡が残っている。.

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美術史美術館

美術史美術館(びじゅつしびじゅつかん、)は、オーストリア・ウィーンにある美術館。美術史博物館(びじゅつしはくぶつかん)とも呼ばれる。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している。自然史博物館と対になる施設として建てられ 、1891年に開館。現在は組織上ウィーン大学の一部局である。.

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肌かき器

''Strigils and sponges'' (1879) ローレンス・アルマ=タデマ画 肌かき器(strigil)は、小さな曲がった金属製器具であり、石鹸が一般に普及する以前、古代ギリシアや古代ローマで肌から汚れや汗をかきとるのに使った。まず香油を皮膚に塗り、その後肌かき器で汚れと共にこすり落とす。裕福な人々は、奴隷にこれをやらせた。肌かき器は古代ローマの公衆浴場でよく使われていた。 strigil sarcophagus とは、肌かき器を思わせるS字形の並列な溝が刻まれたサルコファガスである。 ファイル:Strigiles.jpg|古代ローマの肌かき器。紀元前1世紀 ファイル:Greek statue of a athlete cleaning himself.jpg|アポクシューオメノス。肌かき器を使っている若者の像 ファイル:Strigil Sarcophagus St Victor.jpg|Strigil Sarcophagus(マルセイユのサン・ヴィクトール修道院).

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