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アストゥリアス王国

索引 アストゥリアス王国

アストゥリアス王国(アストゥリアスおうこく、アストゥリアス語: Reinu d'Asturies、スペイン語: Reino de Asturias、ラテン語: Asturorum Regnum)は、イベリア半島にかつて存在した王国。 711年(または712年)、グアダレーテ河畔の戦いでイベリア半島をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が征服し、西ゴート王国が滅亡した。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国した。イスラーム勢力の攻撃を受けるが、722年頃にコバドンガの戦いで勝利して独立を保つと、カンガス・デ・オニスを都として支配を固めた。 アルフォンソ2世の時代にガリシア地方へと版図を拡大し、聖ヤコブを守護聖人とするサンティアゴ大聖堂を設けた。また、カンガス・デ・オニスにかわりオビエドを支配の拠点とした。このころより、イスラーム勢力に対する反撃が進められた。ガルシア1世の時代に、都はオビエドからレオンへと遷された。これ以降の王国はレオン王国と称される。.

33 関係: 守護聖人山川出版社ペラーヨヤコブ (ゼベダイの子)ラングレオラテン語レオン (スペイン)レオン王国アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)アストゥリアス家アストゥリアス公アストゥリアス王の一覧アストゥリアス語イベリア半島ウマイヤ朝オビエドカンガス・デ・オニスガリシア州ガルシア1世 (レオン王)グアダレーテ河畔の戦いコバドンガの戦いスペイン語サンティアゴ・デ・コンポステーラ立石博高西ゴート王国2000年711年712年718年722年737年842年925年

守護聖人

ヨーロッパの守護聖人 守護聖人(しゅごせいじん、ラテン語:patronus)は、キリスト教の伝統的な信仰の一つで、特定の職業・活動や国、地域などを、ゆかりのある聖人(あるいは天使)がそのために取りなし、守っているという思想。カトリック教会および正教会でよく見られる信仰である。プロテスタントの諸教会では聖人を職業や活動に結び付けることは一般的にはなされない。.

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山川出版社

山川出版社(やまかわしゅっぱんしゃ)は、高校教科書(地歴公民科)・参考書・歴史関係の一般書などを刊行する日本の出版社である。.

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ペラーヨ

ペラーヨ(スペイン語:Don Pelayo, ? - 737年)は、西ゴート王国の貴族で、初代アストゥリアス王(在位:718年 - 737年)。.

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ヤコブ (ゼベダイの子)

ベダイの子のヤコブは新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。正教会では聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれる。 『マルコによる福音書』1:19-20によるとヤコブは父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった。彼ら二人は「ボアネルゲス」(雷の子ら)とよばれていたようである(→ゼベダイの子)。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、『使徒行伝』12:2によるとユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。44年頃のことと推定される。.

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ラングレオ

ラングレオ(カスティーリャ語:Langreo)は、スペイン・アストゥリアス州のコンセユ(基礎自治体)。アストゥリアス語ではラングレウ(Llangréu)であり、カスティーリャ語名が公式名。サマ、チアーニョ、トゥイリャ、ラ・ファルゲラ、ラ・ベンタ、ラダ、バロス、リアーニョの8つの教区で構成されている。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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レオン (スペイン)

レオン(León)は、スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州レオン県のムニシピオ(基礎自治体)。レオン県の県都である。2012年の自治体人口は131,680人であり、レオン都市圏の人口は204,212人。.

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レオン王国

レオン王国(Reino de León、Reinu de Llión)は、イベリア半島に存在した王国。レオン・アストゥリアス王国ともいう。 イベリア半島に侵入したイスラム勢力の侵攻で崩壊した西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアス地方に建てたアストゥリアス王国が起源になっている。.

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アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)

アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias、760年 - 842年)は、アストゥリアス王(在位:791年 - 842年)。彼の治世は通算51年間を数え、その間に伝説上のサンティアゴの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたとされる。.

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アストゥリアス家

アストゥリアス家(スペイン語:Dinastía astur-leonesa)またはアストゥリアス=レオン王家、カンタブリア=ペラーヨ王家は、8世紀から11世紀までイベリア半島のアストゥリアス王国およびレオン王国を支配した王家。 西ゴート王国の貴族出身のペラーヨがアストゥリアス地方でイスラム軍を破り、同地に王国を建国したのが始まりである。以後、ペラーヨの一族とその婿でカンタブリア公ペドロの子アルフォンソ1世の一族の両方で王位を継承したが、789年アルフォンソ1世の甥ベルムード1世が王となって以降は、ベルムード1世の子孫が一族内で継承争いを繰り返しながら王位についた。910/4年にガルシア1世は首都をオビエドからレオンに遷し、国名も「レオン王国」となった。1037年、ベルムード3世がカスティーリャ・ナバラ連合軍との戦い(「カリオンの戦い」)で戦死したが、ベルムード3世に継嗣がなく、王位はベルムード3世の妹サンチャと結婚していたカスティーリャ王フェルナンド1世のものとなり、以後、カスティーリャ王家がレオン王位も継承した。.

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アストゥリアス公

アストゥリアス公紋章 モントブランク公としての紋章 サルベラ伯及びバラゲー領主としての紋章 アストゥリアス公()、アストゥリアス女公()は、スペイン国王の推定相続人に与えられる称号。王太子に相当するが、ある時点で王家に該当する人物(性別不問)が居ない場合、スペイン国外にいる権利者がこの称号を帯びることもある。推定相続人以外の王子・王女にはinfanta)の称号が与えられる。 フランシスコ・フランコが王政復古を前提にフアン・カルロスを後継者とした際には、アストゥリアス公ではなくスペイン公()の称号を用いた。 現在は1978年憲法第57条第2項で、国王の推定相続人に与えられることが規定されており、フェリペ6世の長女レオノールがこの称号を有している。.

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アストゥリアス王の一覧

Coat of arms of Asturias アストゥリアス王の一覧(アストゥリアスおうのいちらん)は、アストゥリアス王国歴代の君主(国王)の一覧。 オルドーニョ1世の統治中にアストゥリアス王国はレオン王国として知られるように発展していった。910年に王国は分割され、フルエラ2世がアストゥリアスを受け取った。その後の国王に関しては別項「レオン君主一覧」および英語版の「:en:list of Galician monarchs」を参考のこと。.

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アストゥリアス語

アストゥリアス語(アストゥリアス語:l'asturianu、スペイン語:asturiano)またはアストゥリエス語は、スペインのアストゥリアス州(アストゥリアス語ではアストゥリエス、Principau d'Asturies)で話されるロマンス諸語の一つ。歴史的にはバブレ語(この用語は現在口語アストゥリアス語の意味でつかわれる)と呼ばれていた。 アストゥリアスでは、自治政府の法律の下に保護されていて、学校では選択言語となっている。アストゥリアス語とカスティーリャ語(スペイン語)の間にダイグロシアコンフリクト(近接言語間の社会的衝突)がある。この言語はイベリア半島で話されているカスティーリャ語(スペイン語)、カタルーニャ語、ガリシア語やポルトガル語、またイタリア語、フランス語、ルーマニア語同様、俗ラテン語から変遷したロマンス語のひとつであり、カスティーリャ語(スペイン語)から派生した言語ではないのだが、現実にはカスティーリャ語の方言の扱いを受けることが多い。.

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イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.

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ウマイヤ朝

ウマイヤ朝(ウマイヤちょう 、、Banu Umayya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。.

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オビエド

ビエド(Oviedo、アストゥリアス語:Uviéu)は、スペイン・アストゥリアス州のムニシピオ(基礎自治体)。アストゥリアス州の州都である。.

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カンガス・デ・オニス

ンガス・デ・オニス (スペイン語:Cangas de Onís、アストゥリアス語:Cangues d'Onís)は、スペイン・アストゥリアス州のコンセユ(基礎自治体)。コバドンガを含む11の教区で構成される。アストゥリアス州に18ある司法区(es)の一つ。.

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ガリシア州

リシア州(Galicia、あるいはGaliza)は、スペインの自治州の1つである。スペイン北西に位置し、南はポルトガル、東はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州に接し、北と西は1490キロメートルの海岸で大西洋とカンタブリア海に面する。州都はサンティアゴ・デ・コンポステーラ。自治州政府はシュンタ・デ・ガリシア(Xunta de Galicia)。.

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ガルシア1世 (レオン王)

ルシア1世 (García I de León、870年頃 - 914年)は、初代レオン王(在位:910年 - 914年)。.

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グアダレーテ河畔の戦い

アダレーテ河畔の戦い(グアダレーテかはんのたたかい、英語: The Battle of Guadalete)は、711年もしくは712年にスペイン南部 ヘレス付近で起きた、ウマイヤ朝のアラブ・ベルベル軍 と西ゴート王国軍の間で起きた戦い。西ゴート王のロデリック率いる西ゴート軍は、ベルベル人の部将ターリク・イブン・ズィヤードのムスリム軍に敗れ、ロデリックは戦死。首都トレドが陥落した西ゴート王国は滅亡した。この戦いが、イスラームによるイベリア半島の征服の第一歩とされる。.

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コバドンガの戦い

バドンガの戦い(コバドンガのたたかい、英語: Battle of Covadonga、スペイン語: Batalla de Covadonga)は、722年夏にイベリア半島北西部のコバドンガ近くの山中で起こったアストゥリアス王国のキリスト教徒軍とウマイヤ朝のムスリム軍の戦いである。アストゥリアス王国の建国者のペラーヨ王率いるアストゥリアス軍がアル・クアマやベルベル人部将率いるウマイヤ朝軍を破った。この戦いに勝利したアストゥリアス王国は、イベリア半島のイスラーム支配に対する抵抗の拠点となったため、小規模な戦闘ながらレコンキスタ(国土回復運動)の出発点とされる。.

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スペイン語

ペイン語(スペインご、)もしくはカスティーリャ語(カスティーリャご、)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。略して西語とも書く。.

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サンティアゴ・デ・コンポステーラ

ンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は、スペイン北西端部ガリシア州のア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都である。コマルカ・デ・サンティアーゴに属する。ガリシア統計局によると、2012年の人口は95,671人(2010年:94,824人)で、州内ではビーゴ、ア・コルーニャ、オウレンセ、ルーゴに次ぐ5番目の人口規模の街である。住民呼称はcompostelán/-lá、santiagués/-esa、またpicheleiro/-aなどが使われる。本都市を中心に近隣の自治体アメス、ボケイション、ブリオン、テオ、バル・ド・ドゥブラ、ベドラとコマルカ(県と市の中間単位、コマルカ・デ・サンティアーゴ)を構成している。 サンティアゴ・デ・コンポステーラには自治州政府()が置かれ、ガリシア州の政治の中心であると同時に、宗教的には大司教座が置かれている。旧市街は1985年にUNESCO世界遺産に登録されており、また、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地のひとつでもあり、世界遺産に登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着地でもある。 ガリシア語話者の自治体人口に占める割合は35.92%(2011年)。.

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立石博高

立石 博高(たていし ひろたか、1951年2月23日『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.266 - )は、日本の歴史学者。専門は、スペイン近代史。東京外国語大学学長。神奈川県出身。.

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西ゴート王国

西ゴート王国(にしゴートおうこく、、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国とも。.

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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711年

記載なし。

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712年

記載なし。

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718年

記載なし。

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722年

記載なし。

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737年

記載なし。

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842年

記載なし。

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925年

記載なし。

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