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興安軍

索引 興安軍

興安軍(こうあんぐん)とは、満州国内のモンゴル族居住地域である興安省(興安四省)、熱河省を含む地域(現在の内モンゴル自治区の東部に相当。)を管轄した満州国軍の部隊の総称。兵員はモンゴル人によって構成されており、騎兵を主力部隊としていた。.

23 関係: ノモンハン事件ハーフンガーバトマラプタンモンゴル軍ホルローギーン・チョイバルサンウルジン・ガルマーエフカンジュルジャブジョンジュルジャブ哈爾哈廟事件凌陞軍服 (満州国)興安総省興安省蘇炳文葛根廟事件蒙古聯合自治政府虹色のトロツキー東モンゴル自治政府満州国満州国軍満州国陸軍軍官学校満州里会議日ソ国境紛争

ノモンハン事件

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に日本(大日本帝国)とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。.

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ハーフンガー

ハーフンガー(中国語名「哈豊阿」又は「藤 續文」、(モンゴル語:),1908年3月8日 - 1970年11月29日)は、ホルチン左翼中旗生まれの内モンゴル人。モンゴル民族の合併統一を唱えた民族独立運動のリーダー。.

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バトマラプタン

バトマラプタン()は、中華民国・満州国の軍人・政治家。モンゴル族。.

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モンゴル軍

モンゴル軍(モンゴルぐん)は、モンゴルの軍隊。.

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ホルローギーン・チョイバルサン

ホルローギーン・チョイバルサン(モンゴル語:、Хорлоогийн Чойбалсан、Khorloogiin Choibalsan、光緒21年1月14日(1895年2月8日) - 1952年1月26日)は、モンゴルの革命家、軍人、政治家。自国民を大量粛清した独裁者として知られる。.

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ウルジン・ガルマーエフ

ウルジン・ガルマーエヴィチ・ガルマーエフ(蒙古語:、漢字:烏爾金、Уржин Гармаевич Гармаев、1888年または1889年 - 1947年3月13日)は、満州国軍の軍人。ブリヤート人。ロシア内戦時は反革命軍に属し、のち満州へ移住して興安北省警備軍司令官、第10軍管区司令官などを務めた。最終階級は陸軍上将。.

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カンジュルジャブ

ンジュルジャブ(漢字:甘珠爾扎布、中国語名:韓紹約、1903年 - 1971年)は、モンゴル族出身の満州国軍の軍人である。満州事変の際に内蒙古自治軍を組織し、満州国建国後は興安軍の中心的人物となった。一時期、川島芳子と結婚していたことがある。最終階級は陸軍中将。カナ表記はカンジュルジャップとも。.

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ジョンジュルジャブ

ョンジュルジャブ(漢字:正珠爾扎布、1906年 - 1967年11月)は、満州国軍の軍人。モンゴル人。満蒙独立運動で戦死したバボージャブの三男で、日本で教育を受けたのち軍人となる。1945年8月のソ連参戦後、ハイラル市郊外で叛乱を起こし日系軍官を多数殺害した。最終階級は陸軍少将。日本名は“川島成信”、“田中正”。ジョンジュルジャップとも。.

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哈爾哈廟事件

哈爾哈廟事件(はるはびょうじけん)は、1935年に起きたモンゴル人民共和国と満州国の国境をめぐる日ソ国境紛争である。 モンゴル軍による不法行為や国境侵犯は満州国の建国以来、頻発していたが、1935年1月8日、モンゴル兵が貝爾湖(ボイル・ノール)東北岸オランガンガ哨所に出現し、監視兵を脅迫し撤退させ、哈爾哈廟および付近の土地を占領して哈爾哈廟に銃眼の構築、望楼の修築などをおこなった。 興安北警備軍は、事件調査のため指導官の本多少佐を現地に派遣した。1月24日、興安北警備軍派遣部隊瀬尾中尉が、部隊と共に哈爾哈廟に接近しようとすると、十数名のモンゴル兵の一斉射撃を受け、瀬尾中尉ほか1名が戦死、数名の負傷者が出た。 報告を受けた北警備軍騎兵第七団の主力は国境線の確保のために現地に向かい、また日本軍の応援を受け、哈爾哈廟のモンゴル兵に対して1月27日までに国境外に撤退するように要求したが応じず、ついに日満部隊は哈爾哈廟を包囲し、強制的にモンゴル兵を追放した。 1月24日に哈爾哈廟が日満軍により奪還された報告が伝わると、モンゴルおよびソ連はタス通信において、日本軍がモンゴルを侵犯したと伝えた。 日満側は事件を平和裏に処理しようとし、満州里会議が開催されることが満蒙2国間で決定した。6月1日に満州里会議が始まったが、成果を得ることができず、10月2日からの第二次会議も決裂に終わった。 Category:満州国の軍事 Category:フルンボイルの歴史 Category:日ソ国境紛争 Category:1935年の戦闘 Category:1935年のモンゴル Category:1935年の満州国 Category:1935年1月.

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凌陞

凌 陞(りょう しょう)は中華民国、満州国の政治家。ダウール族(達呼爾族)莫爾丁氏。字は雲志。父の貴福と共に満州国建国に参与し要職に就いたが、後にモンゴル人民共和国との通謀を問われ刑死した。弟は福齢。.

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軍服 (満州国)

この記事では、1932年から1945年まで存在した満州国における軍服について述べる。.

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興安総省

興安総省(こうあん-しょう)は満州国にかつて存在した省。中国東北部の北西に位置する。前身は1932年(大同元年)3月9日に設置された興安省であり、この項目では興安省及びその後の一時期の期間設置された興安四省も併せて解説する。.

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興安省

興安省(こうあんしょう)は、中華民国にかつて存在した省。中国東北部の北西に位置する。.

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蘇炳文

蘇 炳文(そ へいぶん、1892年10月22日‐1975年5月22日)は、中華民国の軍人。 字は翰章、号は鉄庵。北京政府、奉天派に属した。保定軍校第一期卒業。最終階級は二級上将。「ホロンバイル事件」の首謀者として知られる。.

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葛根廟事件

葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。引揚者の回想録によると、ソ連軍の攻撃で、避難民1,000名以上が虐殺されたと主張される。.

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蒙古聯合自治政府

蒙古聯合自治政府(もうこれんごうじちせいふ)は、1939年に内蒙古(南モンゴル)に樹立された自治政府。首府は張家口。1941年以降は蒙古自治邦政府(もうこじちほうせいふ)と称した。.

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虹色のトロツキー

『虹色のトロツキー』(にじいろのトロツキー)は、安彦良和による日本の漫画作品。『月刊コミックトム』(潮出版社)にて、1990年11月号から1996年11月号まで連載された。昭和初期の満州国を舞台に当時メキシコに亡命していたレフ・トロツキーを満州に招く「トロツキー計画」とノモンハン事件がモチーフになっている。潮出版社から単行本が中央公論社より中公コミック文庫版が出版されている。.

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東モンゴル自治政府

東モンゴル自治政府(ひがしモンゴル-じちせいふ)は、中華人民共和国内モンゴル自治区東部一帯にかつて存在した政権。満洲国興安南省及び興安西省に相当する。 1945年(民国34年)8月、日本軍の敗戦に伴い満洲国が崩壊すると、興安各省の幹部及び日本の敗戦に伴い蜂起した騎馬部隊(興安軍)が王爺廟(現在のヒンガン盟ウランホト市)で善後策を協議、8月18日に内モンゴル人民解放委員会が成立し、興安総省省長であったボヤンマンダフ(博彦満都)が代表に就任した。 ボヤンマンダフやハーフンガーらは同時にソ連留学組を組織し内モンゴル人民革命党を再建、マルクス・レーニン主義に基づきソ連の指導の下で内モンゴルの解放を目指すと同時に、コミュンテルンとの連携を行い最終的にモンゴル人民共和国への編入を目指した。同年10月に併合を求める嘆願書を携えモンゴルを訪問したが、ヤルタ会談に従い8月に締結された中ソ友好同盟条約で国民党政府によるモンゴル独立承認と引き換えに、ソ連は中国国内の独立問題に関与しないことが定められていたためモンゴル政府に要望を拒否されている。 モンゴル併合が実現できない状況下、東モンゴルの自治ないし独立を求める「東モンゴル人民代表大会」が1946年1月15日からゲケーン=スム(葛根)で開催され、同大会は最終日の19日に「東モンゴル自治政府樹立宣言」を公表、ボヤンマンダフが主席(首相)に選出された。同政府は内モンゴル東部での高度な民族自治を目標とし、同時に興安軍を改編し東モンゴル人民自治軍を組織した。 東モンゴル自治政府は満洲国時代の行政機構を継承し実効支配を強め、国民党政府に対し自治政府の承認と高度な民族自治を要求したが、国民党は東北問題に関する協定にも関わらず内外モンゴル統一を依然企んでるとしてソ連とモンゴルに抗議した。国共内戦によりソ連の斡旋で内モンゴル東部に進出した中国共産党はウランフを派遣し自治政府との交渉を開始、自治政府有力者の中国共産党への入党工作が行われた。 4月、承徳市において内モンゴル人民共和国から改組された内モンゴル自治運動連合会と自治政府の会談が行われ、それまでの目標であった内外モンゴル統一は東西モンゴルの統一へと変更され、また独立ではなく民族平等自治を標榜するようになった。この段階で自治政府の後ろ盾であった内モンゴル人民革命党の主要構成員は中国共産党に入党していたためボヤンマンダフはウランフの指導を受諾した。5月27日に東モンゴル自治政府は発展的解消を宣言、その後は内モンゴル自治運動連合会東モンゴル支部とされ、自治軍は内モンゴル人民自衛軍(後の人民解放軍内蒙古軍区)となった。.

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満州国

満洲国の地図 満州国(まんしゅうこく、、)は、1932年(大同元年元号は、 大同(1932年3月1日 - 1934年3月1日)、康徳(1934年3月1日 - 1945年8月18日))から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。「洲」が常用漢字でないため、日本の教育用図書を含め一般的に「満州国」の表記が使われるが、日本の法令や一部の文献では「満洲国」が用いられる。 帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」あるいは「満州帝国(滿洲帝國)」などと呼ばれていた。日本(朝鮮、関東州)および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。日本の傀儡政権であるという意見もある。.

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満州国軍

満洲国の徽章 満州国軍(満洲国軍、まんしゅうこくぐん)は、満洲国の国軍。1932年(大同元年)創設。1945年(康徳12年)解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務としており、軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満洲国軍も解体された。.

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満州国陸軍軍官学校

満州国陸軍軍官学校(滿洲國陸軍軍官學校、まんしゅうこくりくぐんぐんかんがっこう)は、満洲国新京特別市浄月区同徳台(現在の中華人民共和国吉林省長春市洋浦大街)に存在した、満洲国陸軍の軍官学校(士官学校)である。.

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満州里会議

満州里会議(まんしゅうりかいぎ、マンチューリかいぎ)は、モンゴル人民共和国と満州国の国境問題解決のため、1935年から1937年にかけて、数回に亘り満州里で開かれた一連の外交会合である。モンゴル人民共和国と満州国の政府代表が出席する形式で、両国の背後のソビエト連邦政府と日本政府の影響下で外交交渉が行われたが、具体的成果の無いまま途絶した。満蒙会議(まんもうかいぎ)とも呼ばれる。.

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日ソ国境紛争

日ソ国境紛争(にっそこっきょうふんそう)は、1930年代後半を中心に満州で起きた、大日本帝国とソビエト連邦間の国境紛争である。形式的には満州国とソ連、あるいはその衛星国のモンゴル人民共和国の国境が係争地のため、満ソ国境紛争や満蒙国境紛争とも呼ばれる。なお、日本及びソ連では一般に紛争にとどまるものととらえているが、モンゴルではノモンハン事件については戦争と評価している。.

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