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第三次マケドニア戦争

索引 第三次マケドニア戦争

三次マケドニア戦争(だいさんじマケドニアせんそう、イタリア語:Terza guerra macedonica)は、共和政ローマとマケドニア王国(アンティゴノス朝)の間で争われたマケドニア戦争の3度目にあたる戦争であり、紀元前171年から紀元前168年まで行われた。最終決戦となったピュドナの戦い (紀元前168年)でローマ軍はマケドニア軍に大勝して、アンティゴノス朝は断絶した。また、共和政ローマによるヘレニズム諸国征服の端緒となった。.

46 関係: 古代ギリシアペルセウス (マケドニア王)マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官)マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌスマケドニア属州マケドニア王国マケドニア戦争ポリュビオスヨーロッパの紛争一覧ラリサ県ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前173年の執政官)ルキウス・アニキウス・ガッルスルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスルクレティウス氏族ローマ建国史プトレマイオス8世プブリウス・ウァティニウスプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムピュドナの戦いピュドナの戦い (紀元前168年)ティベリウス・クラウディウス・ネロ (紀元前202年の執政官)ファルサラアンティゴノス朝アッタロス朝アカイア同盟イリュリア戦争ガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウスガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)キルキス県ギリシャの歴史ギリシア文学クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスクィントゥス・ファビウス・ラベオクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスグナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官)コザニ県スキピオ・アエミリアヌス共和政ローマ第二次ポエニ戦争第四次マケドニア戦争紀元前168年紀元前171年歴史 (ポリュビオス)戦争一覧戦闘の死傷者数一覧6月22日

古代ギリシア

この項目では、太古から古代ローマに占領される以前までの古代ギリシアを扱う。.

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ペルセウス (マケドニア王)

ペルセウス(Περσεύς, ラテン文字表記:Perseus, 在位:紀元前179年 - 紀元前168年)は、アンティゴノス朝マケドニア最後の王である。印欧語ではマケドニアのペルセウスの呼び名が用いられることもある。新興目覚しかった共和政ローマと対立し、第三次マケドニア戦争を勃発させするも敗北。廃位され、ここにアンティゴノス朝は滅亡した。 紀元前179年、父ピリッポス5世が没するとペルセウスは王位に就いた。前年にはペルセウスの讒言で王族内でのローマの擁護者であった弟デメトリオスが処刑されている。ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍にペルセウスは嫉妬し、父ピリッポスをけしかけてデメトリオスを王位簒奪者として断罪、処刑させたと言う。これによりマケドニアとローマの関係は冷却した。 ペルセウスが王位に就くとローマとの関係が見直され、マケドニアは反ローマの姿勢を示した。ペルセウスはデルフォイを訪問する際に軍隊を率いて赴き、またローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにした。これらはローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。 紀元前171年に第三次マケドニア戦争が勃発。ペルセウスは戦争初期にはある程度の成功を収めるものの、次第に状況はマケドニアに不利となった。紀元前168年にピュドナの戦いで致命的な敗北を喫すると、ローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏した。 降伏後、ペルセウスは捕虜として獄につながれて廃位され、マケドニアは4つの共和国に分割され、これを以ってアンティゴノス朝マケドニア王国は同年に滅亡した。第四次マケドニア戦争でローマに反乱を起こしたものの、マケドニアはローマに吸収され、紀元前146年にマケドニア属州が置かれた。 2005年にイタリアのラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け、注目を浴びた。.

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マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官)

マルクス・クラウディウス・マルケッルス(Marcus Claudius Marcellus、紀元前209年頃 - 紀元前148年)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。執政官(コンスル)を三度務めた(紀元前166年、紀元前155年、紀元前152年)。初回と二回目の執政官就任時には、何れもリグリアに勝利して凱旋式を二度実施している。紀元前153年にローマ軍がヒスパニアでケルティベリアに敗北を喫っすると、マルケッルスはその軍事能力を期待されて紀元前152年に三度目の執政官に就任したが、これはウィリウス法(en、執政官就任には10年の期間を開ける)に反するものであった。マルケッルスは比較的穏当な講和を結ぼうとしたが、元老院は戦争を継続することを要求した。紀元前151年、マルケッルスはケルティベリアを降伏させた。紀元前148年には外交使節としてヌミディアへ派遣されるが、船が沈没し溺死した。 マルケッルスはヒスパニア最初の植民都市であるコルドバの建設者でもある。.

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マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌス

マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌス(Marcus Servilius Pulex Geminus、生没年不詳)は紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前202年に執政官(コンスル)を務めた。.

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マケドニア属州

マケドニア属州の位置(120年頃のローマ帝国) マケドニア属州(Provincia Macedoniae、Επαρχία Μακεδονίας)は、マケドニア地方に成立した古代ローマの属州である。現在のギリシャ、ブルガリア、およびマケドニア共和国の領域に存在した。.

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マケドニア王国

マケドニア王国(Μακεδονικό βασίλειο)は、紀元前7世紀に古代ギリシア人によって建国された歴史上の国家である。現在のギリシャ共和国西マケドニア地方・中央マケドニア地方の全域と、マケドニア共和国南東部ドイラン・ボグダンツィ・ゲヴゲリヤ及び南西部レセン・オフリド各基礎自治体の一部、ブルガリア・ブラゴエヴグラト州のギリシャとの国境地帯、アルバニアのポグラデツ県・コルチャ県・デヴォル県の一部にまたがる地域にあった。北西ギリシア方言群のひとつであるマケドニア方言を話した。.

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マケドニア戦争

マケドニア戦争(マケドニアせんそう)は、共和政ローマとアンティゴノス朝マケドニアとの間で戦われた一連の戦争。.

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ポリュビオス

ポリュビオス(Πολύβιος, Polybius, 紀元前204年? - 紀元前125年?)は、古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家である。第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いの後、人質としてローマに送られ、スキピオ・アエミリアヌスの庇護を受けた。 著書『歴史』はローマの歴史を中心に第一次ポエニ戦争から紀元前146年までを取り扱い、ポエニ戦争など当時の状況についての第一級の史料である。またその中で述べられた政体循環論もよく知られる。.

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ヨーロッパの紛争一覧

これはヨーロッパの紛争一覧であり、ヨーロッパの国同士の戦争や内戦、ヨーロッパで起きたヨーロッパの国と非ヨーロッパの国との戦争や、ヨーロッパも舞台となった世界的な紛争を年代順に掲載している。 ヨーロッパにはいろいろな定義があり、東と南東の境界、特に旧ソ連諸国をどのように定義するかについて重大な論争がある。この一覧はヨーロッパと西アジアの間の境界国の多くを含む幅広い定義に基づいている。.

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ラリサ県

ラリサ県(ギリシャ語:Περιφερειακή ενότητα Λαρίσας)は、ギリシャのテッサリア地方の県である。県都はラリサ(Λάρισα / Lárisa)。.

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ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前173年の執政官)

ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス(Lucius Postumius Albinu)は共和政ローマのパトリキ(貴族)出身の政治家・軍人。紀元前173年に執政官(コンスル)を務めた。ヒスパニアとマケドニアで戦った。.

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ルキウス・アニキウス・ガッルス

ルキウス・アニキウス・ガッルス(Lucius Anicius Gallus)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前160年に執政官(コンスル)に就任し、第三次マケドニア戦争でイリュリア王国に勝利した。.

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ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス

ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス (Lucius Aemilius Paullus Macedonicus, 紀元前229年 - 紀元前160年) は、共和政ローマの軍人・政治家。第二次ポエニ戦争後、主に東方マケドニア王国の戦いで活躍をした。アエミリウス氏族パウルス家の出自で父は同名のルキウス・アエミリウス・パウッルス。.

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ルクレティウス氏族

ルクレティアの遺体を抱きかかえるルキウス・ユニウス・ブルトゥス シェーンブルン宮殿, ウィーン ルクレティウス氏族 (gens Lucretia) は共和政ローマの有名な氏族である。元々はパトリキ出身ではあるが、徐々にプレブスも取り込んでいった。ルクレティウス氏族は最も古い氏族の一つで、氏族の娘が王政ローマ二代目のヌマ・ポンピリウスの妻となっている。紀元前509年、共和政の最初の年に氏族から初の(補充)執政官スプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌスを出した, ウィリアム・スミス, Editor.

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ローマ建国史

『ローマ建国史』(ローマけんこくし、)は、紀元前17年頃にリウィウスによって書かれたとされる歴史書である。.

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プトレマイオス8世

プトレマイオス8世エウエルゲテス2世(Πτολεμαῖος Η΄ Εὐεργέτης、紀元前182年頃 – 紀元前116年6月26日)はその肥満からフュスコン(Φύσκων 「太鼓腹」の意)ともあだ名されたプトレマイオス朝エジプトのファラオ(在位:紀元前171年 - 紀元前163年、紀元前145年 - 紀元前131年、紀元前127年 - 紀元前116年)。.

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プブリウス・ウァティニウス

プブリウス・ウァティニウス(Publius Vatinius、紀元前87年頃 - 紀元前15年)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前47年に執政官(コンスル)を務めた。紀元前59年の護民官時代に、ガイウス・ユリウス・カエサルを5年間属州総督とする特権を与える法律を制定し、ガリア戦争でのカエサルの勝利のきっかけを作った。.

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プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム

プブリウス・コルネリス・スキピオ・ナシカ・コルクルム(Publius Cornelius Scipio Nasica Corculum, 紀元前141年没)は、共和政ローマの元老院議員。第二次ポエニ戦争から第三次ポエニ戦争の戦間期に元老院で活躍した。マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の政敵。 ここでは彼の名を「コルクルム」あるいは「ナシカ・コルクルム」とする。.

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ピュドナの戦い

ピュドナの戦い(ぴゅどなのたたかい、Battle of Pydna)は、古代ギリシアのピュドナで行われた会戦である。.

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ピュドナの戦い (紀元前168年)

ピュドナの戦い(ピュドナのたたかい、Battle of Pydna)は第三次マケドニア戦争において紀元前168年6月22日にルキウス・アエミリウス・パウルス率いるローマ軍とペルセウス王率いるアンティゴノス朝マケドニア軍との間で戦われた会戦である。この戦いはしばしば柔軟さを欠くマケドニアのファランクスに対して柔軟性に富むローマのレギオンが勝利したものと見なされている。.

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ティベリウス・クラウディウス・ネロ (紀元前202年の執政官)

ティベリウス・クラウディウス・ネロ(Tiberius Claudius Nero、生没年不詳)は紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前202年に執政官(コンスル)を務めた。.

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ファルサラ

ファルサラ(Φάρσαλα)はギリシャのテッサリア地方ラリサ県の南部に位置する町で、古代にはファルサロスまたはファルサルス(Φάρσαλος、Pharsalus)と呼ばれていた。また、オスマン帝国時代には町の名前はÇatalcaと呼ばれていた。 綿花栽培と畜産業が盛んで、繊維産業に雇用される住民も多い。菓子の一種ハルヴァの生産や、ファルサルスの戦いに代表される古代史の現場としても有名な場所である。.

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アンティゴノス朝

アンティゴノス朝(、紀元前306年 - 紀元前168年)は、アレクサンドロス3世(大王)のディアドコイ(後継者)の一人、アンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)の子孫がギリシャマケドニア地方に築いた、ペラを首都とする王国。.

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アッタロス朝

アッタロス朝(、)とは、アナトリア西部に紀元前282年から紀元前133年まで存在した王国である。ヘレニズム国家の一つで、ペルガモン王国やアッタロス朝ペルガモンとも称される。.

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アカイア同盟

アカイア同盟(Κοινὸν τῶν Ἀχαιῶν、Achaean League)は、古代ギリシア時代後期においてペロポネソス半島北部沿岸部のアカイア人都市同士でなされた同盟である。.

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イリュリア戦争

イリュリア戦争(イリュリアせんそう、Bella Illyrica、Illyrian Wars)は、紀元前229年から紀元前168年の間に3度に渡って行われた、共和政ローマとイリュリア人(族)との間の戦いのこと。.

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ガイウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウス

イウス・カエキリウス・メテッルス・カプラリウス(Gaius Caecilius Metellus Caprarius)はプレブス(平民)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前113年に執政官(コンスル)、紀元前102年には監察官(ケンソル)を務めた。.

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ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)

イウス・スルピキウス・ガッルス(Gaius Sulpicius Gallus)はパトリキ(貴族)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前166年に執政官(コンスル)を務めた。.

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キルキス県

ルキス県(Κιλκίς / Kilkís)は、ギリシャ共和国の中央マケドニア地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。県都はキルキス。.

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ギリシャの歴史

本項では先史時代から近現代に至るギリシャの歴史(ギリシャのれきし)について述べる。 現代のギリシャの版図は第二次世界大戦後形成されたものであるが、この範囲は古代ギリシャの版図とほぼ一致している。ただし、中核部分が過去と一致するといえども、ギリシャの歴史を記述するに当たり、ギリシャ文明による影響は、ギリシャから東はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈、南はエジプトのクシュに及び、その範囲は大きい。.

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ギリシア文学

リシア文学とはギリシア語で書かれた文学作品の総称。最も古くかつ最も知られた古代のホメーロスから現代の作家にいたるまで、その歴史と展開は幅広い。ヘレニズム文化のもとでギリシア語は古代東地中海世界の共通語となったため、非ギリシア人による著作も多い。古代から中世にかけての言語状況に関してはギリシア語の項を参照。.

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クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス

ィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス(Quintus Fabius Maximus Aemilianus, 生没年不詳、紀元前2世紀)は、共和政ローマの元老院議員。実父はルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスであったが、クィントゥス・ファビウス・マクシムスの養子となった。 実父マケドニクスとともに第三次マケドニア戦争に従軍、ピュドナの戦いで勝利を収めるが、その際にローマへ勝利の報を届ける役目を担った。そして紀元前149年から紀元前158年の間プラエトル待遇でシチリア島に赴任、そして紀元前145年にはコンスルに就任した。そしてプロコンスルとしてヒスパニアでルシタニア人討伐(ルシタニア戦争)を行うが、首領ウィリアトゥスを捕らえる事はできなかった。戦いはそれから10年間続き、彼の兄弟であるスキピオ・アエミリアヌスがヌマンティアを鎮圧するまで続いた。 彼と小スキピオは後のギリシア人歴史家ポリュビオスの庇護者であった。.

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クィントゥス・ファビウス・ラベオ

ィントゥス・ファビウス・ラベオ(Quintus Fabius Labeo)は共和政ローマのパトリキ(貴族)出身の政治家・軍人。紀元前183年に執政官(コンスル)を務めた。.

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クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス

ィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス(Quintus Caecilius Metellus Macedonicus、紀元前210年頃 -- 紀元前116年または115年)は、共和政ローマの政治家、軍人である。紀元前143年にはアッピウス・クラウディウス・プルケルと共にコンスルを務めた。第三次マケドニア戦争に参戦し、また第四次マケドニア戦争では総司令官として活躍した。結果、マケドニアはローマの属州となり、その功により「マケドニクス」の尊称を得た。.

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グナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官)

ナエウス・オクタウィウス(Gnaeus Octavius、 - 紀元前162年)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前165年に執政官(コンスル)に就任し、第三次マケドニア戦争でローマ海軍を指揮した。.

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コザニ県

ニ県(Περιφερειακή ενότητα Κοζάνης)は、ギリシャ共和国の西マケドニア地方を構成する行政区(ペリフェリアキ・エノティタ)のひとつ。県都はコザニ(Κοζάνη / Kozani)。.

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スキピオ・アエミリアヌス

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus、紀元前185年 - 紀元前129年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。カルタゴの破壊者である。スキピオ・アエミリアヌスと称され、第二次ポエニ戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)と区別して小スキピオとも称される。なお、以下文中では「アエミリアヌス」と記載する。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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第二次ポエニ戦争

ハンニバル ハンニバルの進軍路 アルプス山脈を越えるハンニバルの軍 第二次ポエニ戦争(だいにじポエニせんそう、Secundum Bellum Punicum)は、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。 またこの戦争において、カルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。.

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第四次マケドニア戦争

四次マケドニア戦争(だいよじマケドニアせんそう、Quattro guerra macedonica)は、共和政ローマとマケドニアの間で争われたマケドニア戦争の4度目にあたる戦争である。紀元前148年に行われた。マケドニアとの戦いに勝利したローマは、マケドニア全土をローマの属州(マケドニア属州)とした。.

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紀元前168年

紀元前168年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前171年

紀元前171年は、ローマ暦の年である。.

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歴史 (ポリュビオス)

『歴史』(希:Ἰστορίαι、Historiai)とは紀元前2世紀頃に書かれた古代ギリシアの政治家であり歴史家ポリュビオスによる歴史書である。.

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戦争一覧

戦争一覧(せんそういちらん)は、世界史上の主な戦争の年代別の一覧である。.

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戦闘の死傷者数一覧

以下は世界史での戦闘の死傷者数一覧である。この一覧には包囲戦 (厳密には戦闘ではないが、大抵は同様に戦闘関連死が発生する)と戦闘中の民間人の死傷者も含んでいる。大規模戦闘での死傷者数を正確に計測することは不可能に近いためこれらの数値の大半は推定であり、可能な場合推定の範囲を提示している。死傷者数は全ての種類(死亡、負傷、失踪及び罹患)の数値の合計数であるが、一部は死亡者数のみの数値を掲載している。また、可能な限り数値に捕虜の数を含めているかどうかを明示している。本リストには空爆(真珠湾攻撃や東京大空襲など)または大量の犠牲者が出ている可能性がある南京大虐殺などの虐殺は通常は「戦闘」としては分類されない(大抵は一方的な交戦または正式に交戦状態になっていない存在を国家が攻撃している) ため含まれていない。.

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6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。誕生花はスイカズラ、アマリリス。.

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第3次マケドニア戦争

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