ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

日本の貿易史

索引 日本の貿易史

日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。世界各地の貿易の歴史については、貿易史を参照。.

28 関係: 十三湊南蛮貿易受図書人大輪田泊夷狄の商舶往還の法度小葉田淳山丹交易三津七湊北方貿易唐物倭好琉球貿易秋田城蝦夷錦貿易史鴻臚館興利倭船長崎貿易長崎貿易銭条約港松原客館日宋貿易日唐貿易日元貿易日朝関係史日本の経済史日本の貨幣史日明貿易

十三湊

十三湊(とさみなと)は、日本の本州島の津軽半島北西部に所在する十三湖(※往時は内海であった)の西岸、現在行政上の青森県五所川原市十三(明治初期の西津軽郡十三村、江戸時代の陸奥国津軽郡十三村、中世期の陸奥国津軽郡域)にあって、13世紀初頭から15世紀半ば(鎌倉時代後期前葉から戦国時代初頭)にかけての中世期に、えぞ さたしき。蝦夷管領)を務めた安東氏(津軽の安藤氏)の許でとりわけ隆盛を極めた湊である。 地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん(:じふさん)」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる「十三湖」「十三村」「十三」など、「十三湊」関連以外は江戸時代後期以降の読みを踏襲している。。 遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には国指定史跡となっている。史跡としての中心地(説明板所在地)は十三古中道61番地五所川原市十三古中道61()。本項ではこの遺跡についても述べる。.

新しい!!: 日本の貿易史と十三湊 · 続きを見る »

南蛮貿易

南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人、南蛮人、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。.

新しい!!: 日本の貿易史と南蛮貿易 · 続きを見る »

受図書人

受図書人(じゅとしょにん)とは、李氏朝鮮の時代に朝鮮国王から「図書」と呼ばれる銅印を与えられて通交貿易上の特権が認められていた日本人のこと。 図書は銅製の私印の体裁を取り、受図書人の実名が刻されており、通交貿易に関する書類に捺印され、現地にてその真偽が照合された後に交易が許可された。応永の外寇以後、朝鮮側では貿易統制の意図から急速に実施されるようになったが、日本側からは貿易上の特権と解され、九州探題・守護大名・対馬島主をはじめ、元倭寇や商人・豪族など、九州地方から中国地方の広い範囲・階層に及んだ。このため、図書が濫発されることとなり、文引と呼ばれる規制が導入されることとなった。更に図書は受図書人1代限りとされ、原則的には後継者への相続は認められていたが、その場合でも一旦朝鮮側に図書を返納して改印されたものを受けることとなっていた。だが、その原則が徹底されず、改印が行われないケース、場合によっては第三者に譲渡・売却されるケースがあった。このため、朝鮮側が意図していた貿易統制のための真偽確認が困難となってトラブルを引き起こし、三浦の乱などの原因の1つとなった。 やがて、豊臣政権の朝鮮征伐における敵対行為を理由として朝鮮側は全ての図書の無効を宣言、日朝関係再開後もその状態が続き、対馬島主であった宗氏及びその一門・重臣らに限定して改めて図書が授けられ、彼らのみが受図書人とされた。.

新しい!!: 日本の貿易史と受図書人 · 続きを見る »

大輪田泊

大輪田泊の石椋 大輪田泊(おおわだのとまり)は、兵庫県神戸市兵庫区に所在していた港で、現在の神戸港西側の一部に相当する。12世紀後半の平清盛による大修築が有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた。.

新しい!!: 日本の貿易史と大輪田泊 · 続きを見る »

夷狄の商舶往還の法度

夷狄の商舶往還の法度(いてきの しょうはくおうかんのはっと)は、16世紀の渡島半島において取り決められた講和。夷狄の商舶往来の法度とも呼ばれる。 「日の本蝦夷」と呼ばれた半島東部シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタイン(チコモタイヌとも)と、「唐子蝦夷」と呼ばれた半島西部セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタイン(ハシタイヌとも)が、安東舜季立ち会いの下で松前大館の城主蠣崎季広と結んだ講和である。当時の季広は、アイヌの首長に対して財宝を分け与えたことからカムイトクイ(アイヌ語:kamuy-tokuy、「神のように素晴らしい友」の意)と称されたという。この講和の際、チコモタインは「東夷尹」(とういのおさ)、ハシタインは「西夷尹」(せいいのおさ)をそれぞれ称する。またハシタインは蠣崎氏の拠点の一つである上ノ国(天河)へと移住している。 この講和によって、他国の商人との交易において蠣崎季広が徴収した関銭の一部をチコモタインとハシタインに支払うこと、シリウチから天河までの地域より北東を蝦夷地とし和人の出入りを制限すること、渡島半島南西部の松前と天河は和人地としアイヌの出入りを自由とすること、シリウチの沖または天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼することが定められた。この内容については、中世の瀬戸内海における海賊の「海関」との類似性から、アイヌによる「海関」の設置を蠣崎季広が認める代わりに交易の安全性をアイヌ側が保障するという取り引きであったとする大石直正の説がある。.

新しい!!: 日本の貿易史と夷狄の商舶往還の法度 · 続きを見る »

小葉田淳

小葉田 淳(こばた あつし、1905年4月24日 - 2001年8月8日)は、日本の歴史学者(専攻は貨幣史・鉱山史・貿易史)。京都帝国大学名誉教授。日本学士院賞受賞者、学士院会員、文化功労者。.

新しい!!: 日本の貿易史と小葉田淳 · 続きを見る »

山丹交易

山丹交易(さんたんこうえき)とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウィルタ族の他、ニブヒ族、オロチョン族など沿海州の民族)と、アイヌとの間で、主として樺太(サハリン)を中継地として行われた交易のこと。広義には清朝が黒竜江(アムール川)下流域に設けた役所との朝貢交易から、山丹人、さらにアイヌを介して蝦夷地の松前藩にもたらされた交易をさす。.

新しい!!: 日本の貿易史と山丹交易 · 続きを見る »

三津七湊

三津七湊(さんしんしちそう)とは、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日本の十大港湾として記されている三津・七湊の港湾都市の総称。.

新しい!!: 日本の貿易史と三津七湊 · 続きを見る »

北方貿易

北方貿易(ほっぽうぼうえき)とは、奥州藤原氏、あるいはそれ以前に奥羽を支配した安倍氏や清原氏が中国(北宋)との間で行った貿易。主に十三湊を拠点として行われた。のちに平清盛が南宋との間で行った日宋貿易と違い、北方のルートを通ったと思われる。.

新しい!!: 日本の貿易史と北方貿易 · 続きを見る »

唐物

唐物(からもの)とは、中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である。狭義には宋、元、明時代の美術作品を指す場合もある。なおこの場合の「唐」は広く中国のことを指し、唐時代に作られたという意味ではない。 また、江戸時代以後「唐物屋」など長崎貿易で扱う舶来品全般を唐物とする場合がある。.

新しい!!: 日本の貿易史と唐物 · 続きを見る »

倭好

倭好(わこう)とは、明の鄭若曽が著書『日本図纂』(1561年)及び『籌海図編』(1562年)に所収した論文である。.

新しい!!: 日本の貿易史と倭好 · 続きを見る »

琉球貿易

琉球貿易(りゅうきゅうぼうえき)とは、琉球王国と、日本・中国(明・清)・朝鮮・東南アジア(南海諸国)の間で往復された中継貿易のこと上原『日本歴史大事典』「琉球貿易」。.

新しい!!: 日本の貿易史と琉球貿易 · 続きを見る »

秋田城

秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。 秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の軍事・行政の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流を伺わせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。 2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。.

新しい!!: 日本の貿易史と秋田城 · 続きを見る »

蝦夷錦

蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代にアイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜(うんりゅう)などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである。 かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌにも伝わった。その代表的な例が、蝦夷錦である。 江戸時代、アイヌは松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌにもたらされた満州風の錦の衣服が、松前藩にも伝わった。当時の参勤交代の際、松前藩主がその満州風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった。 その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して蝦夷錦と呼び、錦の輸入を独占した。.

新しい!!: 日本の貿易史と蝦夷錦 · 続きを見る »

貿易史

貿易史(ぼうえきし)は、歴史上に存在した貿易や貿易制度の歴史である。日本語の貿易は国家間の取引を指し、国際貿易という表現が用いられる場合もある。交易という語は、国内と国外の双方に用いられる。本記事では、これらの歴史について記述する。.

新しい!!: 日本の貿易史と貿易史 · 続きを見る »

鴻臚館

鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。 その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。.

新しい!!: 日本の貿易史と鴻臚館 · 続きを見る »

興利倭船

興利倭船(こうりわせん)とは、室町時代、日本から朝鮮へ交易のみを目的に訪れた商船のことを指す。別名興利船。 朝鮮王朝建国期において前期倭寇が猛威を奮っており、朝鮮王朝は交易の利を持って倭寇の沈静化を図った。九州探題や守護・国人のような大勢力に対しては外交と公貿易を兼ねた通交が許可され、それら通交使節を派遣する船は使送船と呼ばれた。一般庶民に対しても朝鮮に来港し自由に交易を行うことが許可され、こうして派遣された交易船は興利倭船、交易のみを目的として訪れる日本人は興利倭人もしくは興利倭と呼ばれた。 興利倭船の担い手は平常は漁を行なっているような庶民であり、使送船のように胡椒・丹木・銅のような高価な物資を取り扱うことは出来ず、塩や魚をもって米穀に替えていた。 興利倭は倭寇の転身したものであり、明で倭寇を働きその略奪品を持って朝鮮へ交易に訪れる、あるいは船中に武器を携帯し防備の厚い所では交易を行う一方、防備の薄い所では倭寇と化す者もあり、朝鮮王朝にとって油断のならない相手であった。1400年、朝鮮王朝は興利倭船の入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道昌原市)に限定するが徹底されず、1407年に居住地領主の行状(渡航証明書)の所持が義務化される。こうした入港場の制限は興利倭の生活を困窮させるものであり、1427年に倭寇出身の対馬の実力者早田左衛門太郎が慶尚道全域において任意に交易出来るよう朝鮮王朝に請願するが拒絶され、代わりに塩浦(蔚山広域市)のみ入港場に追加された。その後も早田氏・宗氏により入港場の増設が請願されるが許可されることはなかった。入港場の制限に伴い、取引相手が付かず長期滞在し、民家に散入し押し売りを働く興利倭が出現する。朝鮮王朝はそうした買い手の付かない物については王朝が買い取ることで興利倭船の早期出港を図ることになる。 こうした興利倭船はみな対馬を根拠地としていたと考えられている。朝鮮王朝建国当初においては対馬以外の地域からも興利倭船が派遣されていたが、入港場の制限・行状所持の義務化・文引制の施行等、通交統制が進み通交経費の増加に伴い、対馬以外の地域から派遣される興利倭船は姿を消すことになる。 1510年、三浦の乱において宗氏及び恒居倭(三浦に定住していた日本人)の蜂起が失敗に終わると、壬申約条において興利倭船は禁止され、以降姿を消した。.

新しい!!: 日本の貿易史と興利倭船 · 続きを見る »

長崎貿易

江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いたイラスト(17世紀) 江戸に向かうオランダ人たちの行列を描いた浮世絵(19世紀) 長崎貿易(ながさきぼうえき)は、日本の安土桃山時代から江戸時代に長崎において行われた貿易である。.

新しい!!: 日本の貿易史と長崎貿易 · 続きを見る »

長崎貿易銭

長崎貿易銭(ながさきぼうえきせん)とは、万治2年(1659年)に長崎において貿易取引専用に用いるために鋳造された、宋銭銘を用いた一連の銭貨である。.

新しい!!: 日本の貿易史と長崎貿易銭 · 続きを見る »

条約港

条約港(じょうやくこう)は、不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。.

新しい!!: 日本の貿易史と条約港 · 続きを見る »

松原客館

松原客館(まつばらきゃっかん)は、平安時代前期の9世紀頃に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるために越前国に設置されたと考えられる迎賓・宿泊施設。現在の福井県敦賀市・気比の松原近辺にあったのではないかといわれているが、考古学的な裏付けはなく、所在地は明らかでない。.

新しい!!: 日本の貿易史と松原客館 · 続きを見る »

日宋貿易

日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われ、日本の時代区分では平安時代の中期から鎌倉時代の中期にあたる。中国の唐朝に対して日本が派遣した遣唐使が停止(894年)されて以来の日中交渉である。.

新しい!!: 日本の貿易史と日宋貿易 · 続きを見る »

日唐貿易

日唐貿易(にっとうぼうえき)とは、日本と唐の間で行われた貿易関係のこと。.

新しい!!: 日本の貿易史と日唐貿易 · 続きを見る »

日元貿易

日元貿易(にちげんぼうえき)とは、日本と元の間で行われた貿易関係のこと。.

新しい!!: 日本の貿易史と日元貿易 · 続きを見る »

日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。.

新しい!!: 日本の貿易史と日朝関係史 · 続きを見る »

日本の経済史

*.

新しい!!: 日本の貿易史と日本の経済史 · 続きを見る »

日本の貨幣史

日本の貨幣史(かへいし)では日本の貨幣の歴史、および歴史上の各時代における貨幣の機能や貨幣制度の歴史を指す。日本に流入した海外の貨幣や、海外で流通した日本の貨幣についても取り上げる。また、歴史的に蝦夷地や琉球と呼ばれてきた地域の貨幣についても記述する。世界各地の貨幣の歴史については、貨幣史を参照。.

新しい!!: 日本の貿易史と日本の貨幣史 · 続きを見る »

日明貿易

日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易。特に室町幕府や大内氏との朝貢貿易は、倭寇や密貿易と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれる。.

新しい!!: 日本の貿易史と日明貿易 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

日本貿易史

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »