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旅順要塞

索引 旅順要塞

清の時代の沿岸砲台であるとされるもの 1906年に描かれた旅順の地図。要塞の拠点が地図上に示されている。 要塞遺構の内部 旅順要塞(りょじゅんようさい)とは、遼東半島先端部の旅順にあった要塞。近代において旅順軍港は清帝国、ロシア帝国、大日本帝国、中華人民共和国に利用され、その軍港を防衛するための拠点として旅順要塞は建設・運用された。.

101 関係: 厚東篤太郎十一年式軽機関銃坂の上の雲坂の上の雲 (テレビドラマ)堡塁大塚信照大久保徳明大谷一男大迫尚敏大連市大日本帝国陸軍大日本帝国陸軍連隊一覧奥保鞏宮崎市宮崎県出身の人物一覧宮地久寿馬安藤紀三郎山城山座円次郎川上俊彦工兵不凍港中野武二丹後 (戦艦)乃木希典乃木保典二十八糎砲井出台水今沢義雄伊地知幸介佐藤鋼次郎得利寺の戦い地底戦車ミトロファン・ナディンレトヴィザン (戦艦)ロマン・コンドラチェンコロシア帝国ロシア帝国の歴史ヴィクトル・レイスパルラーダ (防護巡洋艦)ベイジル・リデル=ハート初瀬 (戦艦)周防 (戦艦)アナトーリイ・ステッセリアレクサンドル・フォークグレート・ゲームコンスタンティン・スミルノフシドニー・ライリーセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン八島 (戦艦)...石光真臣税所篤文第3軍 (日本軍)篠田治策狼穽相模 (戦艦)白井二郎白石通則遼陽会戦遼東半島青木宣純要塞要塞司令部高砂 (防護巡洋艦)軍服 (大日本帝国陸軍)黄海海戦 (日露戦争)轟拳ヤマト阿蘇 (装甲巡洋艦)閉塞作戦野津道貫釜屋忠道柳田元三東京湾要塞榴弾砲機雷櫻井忠温水師営永野修身沖縄丸溝口直亮木下文次有坂成章明石元二郎春日型装甲巡洋艦日露戦争日清戦争日本の軍事史日本海海戦旅順南路旅順口の戦い旅順口区旅順口攻撃旅順虐殺事件旅順港閉塞作戦旅順攻囲戦愛媛県慶應義塾大学手榴弾 (日本軍)1905年の政治1月2日203高地 インデックスを展開 (51 もっと) »

厚東篤太郎

厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年7月22日 - 1958年9月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。.

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十一年式軽機関銃

十一年式軽機関銃(じゅういちねんしきけいきかんじゅう)は、大日本帝国で1910年代から1920年代前期にかけて開発・採用された軽機関銃。日本軍が初めて制式採用した軽機関銃であり、1941年(昭和16年)までに計約29,000挺が生産された。.

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坂の上の雲

秋山好古・真之兄弟が明治13年から15年まで下宿していた旧旗本佐久間正節屋敷の存在した場所。麹町区土手三番町(現:千代田区五番町) 東京陸軍士官学校(明治40年) 『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、司馬遼太郎の歴史小説。明治維新を成功させて近代国家として歩み出し、日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描く。 『産経新聞』夕刊紙上で、1968年(昭和43年)4月から1972年(昭和47年)8月にかけて連載された。.

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坂の上の雲 (テレビドラマ)

『坂の上の雲』(さかのうえのくも)は、2009年11月29日から2011年12月25日まで足掛け3年に亘ってNHKで放送されたテレビドラマの特別番組。.

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堡塁

広島県呉市 串山公園内に残るコンクリート製堡塁。旧串山防空機銃陣地内にある監視所 セメントにて覆われた堡塁入り口と堡塁 堡塁(ほうるい・ほるい)とは、敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のことを言う。それひとつで小型の要塞となり、本格的な要塞は複数の堡塁を備えた。あるいは複数の堡塁を結んだ防御線が巨大な要塞を構成した。 堡塁は大砲の発展と共に姿を現し、航空機の登場と共に姿を消していった。.

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大塚信照

大塚 信照(おおつか のぶてる、1886年(明治19年)1月1日 - 1958年(昭和33年)3月21日)は、日本の実業家。かつては大日本帝国陸軍の軍人であり、最終階級は陸軍少将であった。退役後、服部時計店取締役を務めた。.

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大久保徳明

大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。.

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大谷一男

大谷 一男(おおたに かずお、1879年12月7日 - 1949年8月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。.

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大迫尚敏

大迫 尚敏(おおさこ なおはる、天保15年11月15日(1844年12月24日) - 昭和2年(1927年)9月20日)は、日本の武士・薩摩藩士、陸軍軍人、華族。学習院長、第7師団長等を務める。栄典は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。.

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大連市

大連市(だいれん/ダーリェンし、中国語:大连市、英語:Dalian / Dairen City、旧名:ダルニー市、英語:Dalniy City)は、中華人民共和国遼寧省の南部に位置する地級市(地区クラスの市)。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。大連市総人口は約600万人超(市区人口は211万、都市的地域の人口は325万人)であり、遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市である。.

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大日本帝国陸軍

大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝國陸軍)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本 (大日本帝国) に存在していた軍隊組織である。通常は、単に日本陸軍や帝国陸軍と呼ばれた。解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍もしくは旧帝国陸軍という名称も使用される。.

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大日本帝国陸軍連隊一覧

大日本帝国陸軍連隊一覧(だいにっぽんていこくりくぐんれんたいいちらん)は、大日本帝国陸軍の連隊を一覧形式でまとめたものである。.

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奥保鞏

奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日)は、明治の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。.

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宮崎市

ェラトン・グランデ・オーシャンリゾート(154m、43階)。2016年現在、九州一の高さを持つ超高層建築物となっている。 宮崎市(みやざきし)は、宮崎県の南東部にある都市で同県の県庁所在地である。 フェニックス・シーガイア・リゾート、青島、プロ野球・プロサッカーキャンプといった数多くの観光資源を持つ観光都市であり、九州・沖縄地方では長崎市に次いで7番目に人口が多い。1998年(平成10年)から中核市に指定されている。.

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宮崎県出身の人物一覧

宮崎県出身の人物一覧(みやざきけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する宮崎県出身の人物の一覧表である。.

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宮地久寿馬

宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1945年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。.

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安藤紀三郎

安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年2月11日 - 1954年5月10日)は、日本の政治家、陸軍軍人。 太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。軍人としての最終階級は中将。戦後、A級戦犯として逮捕された。.

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山城

山城(やまじろ、やまじょう)は、険阻な山を利用して築かれた城の一種。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つ。 ヨーロッパの山城(ドイツ・マルクスブルク城).

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山座円次郎

山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(1866年12月2日) - 大正3年(1914年)5月28日)は、明治・大正期の日本の外交官。外務省政務局長、駐中国特命全権公使。.

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川上俊彦

川上 俊彦(かわかみ としつね、1862年1月28日(文久元年12月29日) - 1935年(昭和10年)9月12日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した外交官、実業家である。外交官時代はロシア関連の役職を歴任し、日露戦争では旅順要塞陥落時の水師営の会見で通訳を務め、ハルビン総領事時代には伊藤博文暗殺に遭遇した。退官後は日魯漁業社長などを務めた。.

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工兵

工兵(こうへい、military engineer, combat engineer, pioneer)は、陸軍における戦闘支援兵科の一種であり、歩兵、砲兵、騎兵に並ぶ四大兵科の一つである。陸上自衛隊においては施設科と呼ばれる。.

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不凍港

最北の不凍港」といわれるハンメルフェスト(ノルウェー) 不凍港(ふとうこう、Warm-water port/Ice-free port)とは、地理学、地政学の用語。冬季においても海面等が凍らない港、または砕氷船を必要としない港のこと。高緯度にある港湾は厳冬期にしばしば凍結するが、ノルウェーのフィヨルド地域にみられる諸港やロシアのムルマンスク(・ポリャールヌイ)のように、高緯度であっても暖流の影響で不凍港となる場合がある。不凍港は軍事的・経済的な価値が大きい。.

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中野武二

中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 1947年3月21日)は、東京都出身の野球選手、審判員。中野武営の子。.

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丹後 (戦艦)

丹後(たんご)は、大日本帝国海軍に所属した戦艦#達明治38年8月p.8『達第百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣男爵山本権兵衛|戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』。 元は、ロシア帝国海軍が建造したペトロパブロフスク級戦艦(ポルタヴァ級艦隊装甲艦)の1隻ポルタワ#福井戦艦物語壱108頁『◇丹後―ポルタワ』、ポルタヴァ(Полтава)である#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ67(原本101頁)『丹後(たんご) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、丹後國に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「ボルタワ」。明治31年進水、露國聖彼得堡造船所にて建造。日露戰役中露國太平洋艦隊として明治39年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港打ちに於て破壊沈没。同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「丹後」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正元年一等海防艦に編入、同年3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長大佐秋澤芳馬)、同5年4月5日露國政府へ譲渡す。―要目― 長367呎/幅69呎/吃水25.6呎/排水量10,960噸/機關 直立三汽筩三聯成汽機2基、宮原式罐/馬力11,000/速力16/乗組人員750/船材 鋼(甲帶406粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/3吋砲 10/47粍砲 4/發射管 4/起工 明治25/進水 同27-11-6/竣工 同31/建造所 露國セント・ピータースブルグ』。 姉妹艦にペトロパブロフスクとセヴァストポリがあるが、ともに日露戦争において沈没。本艦も旅順攻囲戦で大破、着底した。 その後、旅順要塞降伏時に日本海軍によって鹵獲され、戦利艦として「丹後」と改名してから再就役した。艦名は丹後国に由来する。 明治天皇に奏聞した候補艦名に「讃岐」があった。.

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乃木希典

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。 階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。.

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乃木保典

乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年(明治14年)12月16日 - 1904年(明治37年)11月30日)は、明治期の日本の陸軍軍人で陸軍大将・乃木希典、静子夫妻の次男。 戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。.

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二十八糎砲

二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)は、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲。旧称は二十八珊米榴弾砲(にじゅうはちさんちめーとるりゅうだんほう)および二十八珊榴弾砲(にじゅうはちさんちりゅうだんほう)。 主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍した。.

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井出台水

井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日『日本陸軍将官辞典』84頁。) - 1950年(昭和25年)8月1日)は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。別号に彭洋。.

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今沢義雄

今澤 義雄(いまさわ よしお、1858年11月29日(安政5年10月24日) - 1941年(昭和16年)12月5日)は、日本の武士(岡崎藩士)、日本陸軍の軍人。陸軍少将、従四位・勲三等・功三級。.

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伊地知幸介

伊地知 幸介(いぢち こうすけ、安政元年1月6日(1854年2月3日) - 大正6年(1917年)1月23日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦では乃木希典の下で第3軍参謀長を務めた。爵位は男爵、最終階級は陸軍中将。.

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佐藤鋼次郎

佐藤 鋼次郎(さとう こうじろう、文久2年4月9日(1862年5月7日) - 大正12年(1923年)9月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。 尾張国出身。陸軍士官学校卒。明治26年(1893年)ドイツに留学。日清戦争、日露戦争に従軍。旅順要塞参謀長を経て、明治45年(1912年)清国駐屯軍司令官に就任。第一次世界大戦にも従軍した。大正5年(1916年)中将に進む。予備役編入後は軍事評論家に転身し、また関東國粹会総長も務めた。.

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得利寺の戦い

得利寺の戦い(とくりじのたたかい)は、日露戦争中の戦いの一つで、旅順に篭っていたロシア軍を援護する為に得利寺に陣地を構築中であったシベリア第一軍団とそれを攻撃する日本陸軍第二軍の間で起きた。 日本陸軍第二軍が南山の戦いに勝利したことにより、ロシア軍主力は旅順要塞の二個師団及びロシア太平洋艦隊と切り離されることとなった。再びこれと合流する為スタケリベルク中将率いるシベリア第一軍団が南下し、得利寺付近に陣地の構築を始めた。第二軍は当初陣地を構築しロシア軍の攻勢を迎撃した上で攻勢に出る予定であったが、大本営から敵の陣地構築が完了する前に攻撃するように命令が出たため、得利寺のロシア軍陣地を攻撃することとした。 6月14日に得利寺付近に到着した第二軍は翌15日に火砲による陣地攻撃を開始ロシア軍も応戦するが、火砲の数が日本陸軍が200以上擁していたしたのに対し100足らずであったため、有利な地形を生かすことができなかった。ロシア軍は得利寺駅に火を放って熊岳城に撤退、第二軍の勝利に終わった。 戦闘後追撃を行わなかった第二軍に批判が行われたが、ロシアはこれ以降も旅順の部隊と合流することはなかった。 ロシア側の図 Category:日露戦争の戦闘 Category:大連の歴史 Category:1904年の戦闘 Category:1904年の日本 Category:1904年の中国.

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地底戦車

地底戦車(ちていせんしゃ)とは、SF作品に登場する架空の兵器の一種で、先頭に備えたドリルなどを用いて地盤を掘削し、地中を自由に行動できる車両のことである。作品によっては地中戦車、地下戦車、ドリル戦車(タンク)などとも呼称される。.

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ミトロファン・ナディン

ミトロファン・アレクサンドロヴィチ・ナディン(Митрофан Александрович Надеин, Mitrofan Alexandrovich Nadein)は、ロシア帝国の陸軍軍人。露土戦争や、日露戦争の旅順攻囲戦に参戦した。.

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レトヴィザン (戦艦)

レトヴヰザン#達明治38年9月p.13『達第百三十七號 戰利軍艦「レトヴヰザン」ヲ肥前ト命名セラル 明治三十八年九月二十四日 海軍大臣男爵山本権兵衛』、レトヴィザン、レトヴィザーン(ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン)は、ロシア帝国海軍の戦艦。 日露戦争の旅順攻囲戦で沈没。 引揚げ後、修理されて日本海軍の戦艦「肥前」となった#帝国軍艦帖コマ38-39『戰艦肥前(舊名レトウヰザン) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千七百二十五噸/一、馬力 一萬六千馬力/一、速力 十九節七/一、主砲 四十口經露式十二吋砲四門、六吋砲十二門/一、建造地及建造所 米國費府クラムブ造船所/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際需要なる事項 露國太平洋第一艦隊に属し、旅順口にありて皇國海軍に對抗すること数月、終に明治三十七年十二月六日旅順西港内に於て我軍の爲め撃沈せられ、三十八年九月二十二日浮揚同二十四日肥前と命名せられ、帝國軍艦に列せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 大正三年十月八日艦長川浪海軍大佐式下に横須賀軍港出發布哇「ホノルヽ」沖に至り獨砲艦「ガイヱル」を監視し同十一月八日之が武装解除を行はしめ爾後森田遣米枝對司令官の指揮下に入り南北米西海岸に遊弋索敵行動を取り四年二月十四日横須賀軍港に凱旋す/一、其他特に重要なる事項 明治四十四年艦長依田海軍大佐指揮下に第一艦隊に属し海軍戰技に於て第一等の集合成蹟を擧げ戰技優勝旗を授けられ御下賜品(銀盛花鉢一個)を辱ふす 以上』。 艦名は旧国名の肥前国に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ72(原本110頁)『肥前(ひぜん) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、肥前國に採る。艦歴米國費府造船所に於て建造、明治33年進水、舊露國軍艦、原名「レトヴヰザン」。日露戰役中露國太平洋艦隊に属し明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年9月24日帝國軍艦と定め「肥前」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正3乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年10月遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面の警備(艦長大佐川浪安勝)、同7年7月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐生野太郎八)、同8年9月同前の任務に就く(艦長大佐匝瑳胤次)、同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日除籍、廢棄(華府條約による)。―要目― 長372呎/幅72呎/吃水24.9呎/排水量12,700噸/機關 三汽筩聯成汽機2基、ニクローズ式/馬力16,000/速力18/乗組人員750/船材 鋼(甲帶225粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/12听砲 14/5听砲 4/機砲 4/發射管 2/起工 明治31-12/進水 同33-10-23/竣工 同35-3-25/建造所 米國費府』。.

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ロマン・コンドラチェンコ

マン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ(Роман Исидорович Кондратенко;ウクライナ語:Роман Ісидорович Кондратенко;1857年10月12日 - 1904年12月12日)は、帝政ロシアの軍人。ウクライナ人。日露戦争当時のシベリア第7狙撃兵師団長。旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官。陸軍中将。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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ロシア帝国の歴史

ア帝国の歴史では、1721年から1917年まで存在したロシア帝国およびその統治下に入った地域の歴史について詳述する。 ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。なお、1917年の帝政終焉後に成立したソビエト政権はロシア暦を廃止してグレゴリオ暦に移行し、1918年1月31日の翌日を2月14日としており、これ以降の日付は新暦のみとする。.

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ヴィクトル・レイス

ヴィクトル・アレクサンドロヴィチ・レイス(Рейс Виктор Александрович, Victor Alexandrovich Reis)は、ロシア帝国の陸軍軍人。日露戦争における旅順攻囲戦において、旅順要塞防衛軍の参謀長を務めた。.

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パルラーダ (防護巡洋艦)

パルラーダ、パルヲーダ#津軽引揚及回航pp.1-2『第九章津輕(元「パルヲーダ」)引揚及ヒ回航 第一節 損害程度及ヒ沈没原因』、パルラダ、パラーダ(ロシア語:Палладаパルラーダまたはパラーダ)は、ロシア帝国海軍のヂアーナ級防護巡洋艦である。 旅順攻囲戦で日本海軍に鹵獲(戦利艦)、二等巡洋艦「津軽」として再就役した#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.71『津輕(つがる) 艦種二等巡洋艦 二檣(信號用) 艦名考海峡名なり、津輕海峡に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「パルラダ」、明治32年露國「グレルヌイ」島海軍工廠にて進水。同37年2月日露戰役の劈頭、我が驅逐隊襲撃に於て先づ傷き、後ち8月10日の海戰に参加、其の後旅順港内に破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「津輕」と命名。大正9年敷設艦に編入。同11年4月1日除籍。 ―要目― 長 416呎/幅 55呎/喫水 21.0呎/排水量 6,630噸/機關 横置三汽筒三聯成汽罐3基、ベルビル罐24臺/馬力 11,600/速力 20/乗組人員 532/船材 鋼(シーズド式)/兵装 15栂砲8 8栂砲12 機砲2 發射管3|起工 明治29/進水 同32-8-28/竣工 同35|建造所 露國グレルヌイ海軍工廠』。.

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ベイジル・リデル=ハート

ー・バジル・ヘンリー・リデル=ハート(Sir Basil Henry Liddell-Hart, 1895年10月31日 - 1970年1月29日)は、イギリスの軍事評論家、軍事史研究者、戦略思想家。日本ではファーストネームを誤って「ベイジル」と発音されることが多いが、実際の発音は「バジル」が正しい。 軍事戦略、陸上作戦、核戦略の研究領域において奇襲、機動戦、間接アプローチ、大戦略などの研究業績を残した。20世紀という時代を象徴する戦略思想家と称される。リデル=ハートに影響を与えた人物には孫子やカール・フォン・クラウゼヴィッツ、ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーなどがおり、彼が影響を与えた人物にはハインツ・グデーリアン、オード・ウィンゲートやバーナード・ブローディなどがいる。.

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初瀬 (戦艦)

初瀬(はつせ)は日本海軍の戦艦#達明治31年4月p.25『達第七十六號 英國ニ於テ製造中ノ第三號甲鐡戰艦及第六號一等巡洋艦左ノ通命名セラル 明治三十一年四月二十七日 海軍大臣 侯爵西郷從道|第三號甲鐡戰艦 初ハツ瀬セ|第六號一等巡洋艦 出イツ雲モ』#達明治32年10月pp.6-7『達第百七十八號 明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス 明治三十二念十月十八日 海軍大臣 山本権兵衛 |軍艦|戰艦|一等|初瀬 三笠|/|巡洋艦|一等|出雲 磐手|』。敷島型戦艦の3番艦である。 艦名の由来は奈良県を流れる初瀬川(大和川上流部別称)による#幕末以降帝国軍艦写真と史実第60コマ(原本87頁)『初瀬(はつせ) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)艦名考川名に採る、初瀬川は大和國磯城郡上之郷小を夫ふの山中に發し、南流長谷寺の傍を過ぎ西流、朝倉三輪を過ぎ、西北に屈折し、山邊郡二階堂村に至りて佐保川となる、長さ凡そ十里。艦歴明治37・8年日露戰役に從軍:第一戰隊司令官少将梨羽時起の旗艦として行動中、同37年5月15日旅順口外に於て2回に亙り敵の機械水雷に觸れて沈没、副長中佐有森元吉外准士官以上35名、下士卒443名、傭人12名殉難。司令官及び艦長大佐中尾雄以下337名救助せらる。―要目― 長400呎/幅75呎/吃水27呎/排水量15,000噸/機關 三聯成汽罐2基、ベルビル罐25臺/馬力1,000/速力18/乗組人員741/船材 鋼/兵装 12吋砲4/6吋砲14/3吋砲20/3听砲8/2.5听砲6/發射管4/起工 明治31-1-10/進水 同32-6-27/竣工 同34-1-18/建造所 英國エルスウィック安社』。 日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により爆沈した#日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、初瀬が敵の水雷に罹りしは老鐡山の南東約十海里の所にして當時同方面には霧なく又其附近に敵の驅逐艦もあらざりしと云ふ此事實より判断するときは敵は其附近に機械水雷を沈置したるか或は又潜水艇を利用したるものならん初瀬は約三十分間を隔て二回の被害にて瞬時に沈没したるも敷島、八島、笠置、龍田等にて梨羽少将中尾大佐以下三百名を救助収容せり初瀬沈没の頃的の驅逐艦十六隻旅順口内より出で來り我を追尾せしが會々其他に來りし明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治及高砂は前記諸艦と協力して之を撃退し初瀬生存者の収容を果たすことを得たり以上の報告は混信の爲め文意不明瞭なる無線電信と今朝遭難報告の爲め來し龍田の少尉並に八島の艦載水雷艇指揮官の口頭報告等を綜合して制作したるものなり當地近傍霧未だ霽れず(五月十六日午後四時三十七分大本營着電)』#旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』。.

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周防 (戦艦)

周防(すはう/すおう)は日本海軍の戦艦#達明治38年10月p.9『達第百五十六號 戰利軍艦「ポピエダ」ヲ周防ト命名セラル 明治三十八年十月二十五日 海軍大臣男爵山本権兵衛』。 元はロシア帝国の前弩級戦艦ポベーダ(ロシア語:Победа、日本海軍の法令上はポピエダ、ペレスヴェート級)で、日露戦争の旅順攻囲戦で沈没。 その後、日本海軍に鹵獲されたものである帝国軍艦帖コマ95-96『一等海防艦 周防(舊名ポピエダ) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千九百七十噸/一、馬力 一萬五千馬力/一、速力 十八節六/一、主砲 十吋砲四門 六吋砲十門/一、建造地及建造所 露國バルチック工廠/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項  /一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 開戰時露國太平洋第一艦隊の主力として旅順方面に在り三十七年八月十日黄海々戰に参加す同年十二月我攻圍軍の爲めに旅順西港内に於て撃沈せられ三十八年一月旅順開城と共に我有に歸す/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 第二艦隊司令長官海軍中将加藤定吉の旗艦として青島攻圍戰に参加し「イルチス」湛山並に海岸の諸砲臺に於ける十吋砲の効果は當時日英艦隊中其右に出づるものなく殊功を奏す青島開城後は太平洋の殘敵殲滅に從事す/一、其他特に重要なる事項 三十八年十二月旅順に於て浮揚し佐世保に廻航四十年十月横須賀に於て修理に着手し四十一年十月竣成完成す 以上』。 艦名は旧国名「周防国」にちなむ#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ73(原本112頁)『周防(すはう) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、周防國に採る。 艦歴舊露國軍艦、原名「ポピエダ」、露國「ニュー・アドミラルチー」造船所建造、明治33年進水。日露戰役中に露國太平洋艦隊として明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同39年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年10月25日帝國軍艦と定め「周防」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正元年一等海防艦に編入、同3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(第二艦隊司令長官中将加藤定吉旗艦、艦長大佐丸橋彦三郎)、同11年4月1日除籍。―要目― 長435呎/幅71.5呎/吃水26.0呎/排水量12,674噸/機關 直立聯成汽機3基、ベルビル罐30臺/馬力14,500/速力19/乗組人員732/船材 鋼(シーズト式)/兵装 25拇砲 4/15拇砲 10/8拇砲 18/機砲 2/發射管 2/起工 明治31-8-1/進水 同33-5-24/竣工 同34/建造所 露國ニュー・アドミラルチー造船所』。 明治天皇に奏聞した候補艦名に「伊豫」があった。 旧式化により一等海防艦に類別。その後、ワシントン海軍軍縮条約により廃棄される。本艦は解体中に転覆、自沈処分となった#福井戦艦物語壱109-110頁『◇周防―ポピエダ』#福井世界戦艦306頁『▽ポビエダ(Pobieda のちの周防)』。.

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アナトーリイ・ステッセリ

旅順水師営 中央右がステッセル将軍 アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(またはステッセル)(ロシア語:Анатолий Михайлович Стессель;ラテン文字転写の例:Anatolii Mikhailovich Stoessel、1848年7月10日 - 1915年1月18日)は、ロシア帝国の軍人。陸軍中将。1904年からの日露戦争においては旅順要塞司令官、ロシア関東軍司令官。旅順攻囲戦で日本陸軍の乃木希典率いる第3軍と戦った。.

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アレクサンドル・フォーク

アレクサンドル・ヴィクトロヴィチ・フォーク(Александр Викторович Фок, Alexander Viktorovich Fok(Foch))は、ロシア帝国の陸軍軍人。日露戦争時、陸軍中将だった。.

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グレート・ゲーム

1848年頃の中央アジア グレート・ゲーム(The Great Game)とは、中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の敵対関係・戦略的抗争を指す、中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称。イギリス東インド会社の一員であったが1840年にヘンリー・ローリンソン少佐にあてた手紙の中ではじめて命名したといわれる。後に『ジャングル・ブック』で知られるイギリスの作家ラドヤード・キップリングの小説『』(1901年)により広く使われるようになり、なかば歴史用語として定着した。.

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コンスタンティン・スミルノフ

ンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ(Константин Николаевич Смирнов, Konstantin Nikolaevich Smirnov)は、ロシア帝国の陸軍軍人。日露戦争時、陸軍中将だった。.

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シドニー・ライリー

ドニー・ジョージ・ライリー(Sidney George Reilly、1874年3月24日 - 1925年11月5日)は、20世紀初頭に活動したイギリスのスパイ、情報機関員。その大胆不敵な行動と、波乱万丈な生涯からジェームス・ボンドのモデルの1人ともされる。階級は中尉。.

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セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン

ヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル(Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban、1633年5月15日 - 1707年3月30日)は、フランス国王ルイ14世に仕えた17世紀に活躍したフランスの軍人(技術将校)、建設技術者、建築家、都市計画家。軍隊技術者の中でもっとも有名な人物として知られる。150の戦場の要塞を建設あるいは修理し、53の城塞包囲攻撃を指揮したといわれる。近代的な稜堡式の要塞の築城法を体系化し、「落ちない城はない」と言われたほどの要塞攻城の名手であった。 建設した要塞のうち12箇所は、2008年にヴォーバンの防衛施設群として、世界遺産に登録された dans Le Monde du 7 juillet 2008.

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八島 (戦艦)

八島(やしま)は日本海軍の戦艦#達明治28年8月p.12『達第七十八號 英國ニ於テ製造中ノ甲號及乙號甲鐡戰艦並ニ呉鎮守府ニ於テ製造中ノ甲號報知艦左ノ通命名セラル 明治二十八年八月十六日 海軍大臣 侯爵西郷從道|甲號甲鐡戰艦 富フ士ジ|乙號甲鐡戰艦 八ヤ島シマ|甲號報知艦 宮ミヤ古コ』。 富士型戦艦の2番艦。 艦名は日本(日本列島)の美称の一つ#幕末以降帝国軍艦写真と史実第54コマ(原本75頁)『八島(やしま) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)艦名考八島は日本國の總稱なり、古事記に伊弉諾命、伊邪那美命御合、生子御淡あは道ぢ之穂之狭さわ別けの島しま(今の淡路島)次生伊豫之二ふた名な(今の四國)次生隠岐之三子島、次生筑紫島(今の九州)次生伊岐之島、次生津島、次生佐渡島、次生大おほ倭やまと豊とよ秋津洲あきつしま(今の本州)故因此八島先所生、謂大おほ八島やしまの國くにとあり。艦歴明治30年9月9日英國にて竣工、同年同月15日英國出發、同年11月30日横須賀到着、前記「富士」と姉妹艦なり。同31年3月一等戰艦に列す、第一艦隊第一戰隊として日露戰役に從軍中、同37年5月15日旅順港外に於て敵の機械水雷に觸れ沈没、乗員無事(艦長大佐坂本一)。―要目― 長372呎/幅74呎/吃水26呎/排水量12,517噸/機關 直立三段膨張2基、圓罐/馬力13,600/速力18/乗組人員741/船材 ハーベイ鋼(甲鐡帶457粍)/兵装 12吋安式砲4/15拇砲10/47粍(速)砲24/發射管5/起工 明治27-12-28/進水 同29-2-28/竣工 同30-9-9/建造所 英國安社』。 日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により戦没。.

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石光真臣

石光 真臣(眞臣)(いしみつ まおみ、明治3年5月9日(1870年6月7日) - 1937年(昭和12年)12月8日)は、日本陸軍の軍人。陸軍中将従三位勲一等功四級。.

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税所篤文

所 篤文(さいしょ あつふみ、1855年8月13日〈安政2年7月〉 – 1910年〈明治43年〉2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将『日本陸軍将官総覧』102項、鹿児島県出身.

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第3軍 (日本軍)

3軍(だいさんぐん)は大日本帝国陸軍における軍の一つ。 第3軍は日露戦争に当って1904年(明治37年)5月に編成されたものと、日中戦争期の1938年(昭和13年)1月に編成されたものとに分かれる。前者は乃木希典大将が指揮した部隊で、満州軍に所属し日露戦争の終結とともに解隊された。後者は関東軍の指揮下にあって太平洋戦争(大東亜戦争)後解隊された。.

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篠田治策

治策(しのだ じさく、明治5年10月12日(1872年11月12日) - 昭和21年(1946年)1月23日)は、明治後期から昭和前期にかけての法学者・拓務官僚。.

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狼穽

穽(ろうぜい)は、陸軍の、敵の突撃を擾乱させる副防御のひとつである。.

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相模 (戦艦)

模(さがみ)は、日本海軍に所属した戦艦#達明治38年8月p.8『達第百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣男爵山本権兵衛|戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』。 元は、帝政時代のロシア海軍の戦艦ペレスヴェート(ロシア語:Пересвет)、日本海軍の法令上はペレスウェート、日露戦争(旅順攻囲戦)において沈没。その後、日本海軍に鹵獲されたものである。 艦名は旧国名「相模国」にちなむ#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ70(原本106頁)『相模(さがみ) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、東海道相模國に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「ペレスウェート」。露國「ニュー・アドミラルチー」造船所建造、明治31年進水、日露戰役中露國太平洋艦隊として明治37年8月10日黄海々戰に於て(公爵「ウフトムスキー」少将坐乗)我が軍と交戰、後ち旅順港内に於て破壊沈没。明治38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「相模」と命名す。同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正5年一等海防艦に編入、同年4月4日露國政府へ譲渡す。―要目― 長435呎/幅750呎/吃水27.25呎/排水量12,674噸/機關 直立三汽筩三聯成汽機3基、ベルビル罐30臺/馬力14,500/速力19/乗組人員732/船材 鋼(シーズト式)/兵装 25拇砲 4/15拇砲 10/8拇砲 16/2.5听砲 4/發射管 2/起工 明治28-11-21/進水 同31-5-19/竣工 同34-6/建造所 露國ニュー・アドミラルチー造船所』。 明治天皇に奏聞した候補艦名に「阿波」があった。.

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白井二郎

白井 二郎(しらい じろう、慶応3年6月11日(1867年7月12日) - 昭和9年(1934年9月3日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。.

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白石通則

白石 通則(しらいし みちのり、1873年11月5日 - 没年不詳)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。.

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遼陽会戦

遼陽会戦(りょうようかいせん)は、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。.

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遼東半島

遼東半島の位置 遼東半島(りょうとうはんとう/リャオトンはんとう、中国語簡体字:辽东半岛 Liáodōng Bàndăo)は、中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。.

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青木宣純

青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」。通算13年の中国生活を送った。.

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要塞

堡式城郭の例。オランダのブールタング 要塞(ようさい)とは、外敵等から戦略上重要な地点を守る為に築かれた構築物。とりで(砦、堡、塞)、城砦(じょうさい)、城堡(じょうほ)ともいう。.

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要塞司令部

要塞司令部(ようさいしれいぶ)は、大日本帝国陸軍の要塞の管理を掌る司令部である(明治41年軍令第2号要塞司令部条例)。 要塞司令部は、平時はあくまで官衙(役所)であり、師団長に隷属するものの軍隊である師団には含まれず、戦時において要塞戦備の下令があってはじめて部隊を指揮することになる(東京湾要塞司令部を例にすると、第1師団長に隷属し横須賀に在る東京湾要塞司令部は、平時には同じく横須賀に在って第1師団に所属する横須賀重砲兵連隊を指揮するわけではない)。 日中戦争が拡大化し、太平洋戦争開戦を翌年に控えた昭和15年(1940年)には、師団長の隷下を離れ、東部軍・中部軍・西部軍・北部軍に隷属し(外地は元々軍に隷属)、その後本土決戦に備えて第1総軍・第2総軍隷下の方面軍・軍に所属、また多くの要塞が海軍の鎮守府司令長官の指揮を受けるようになった。;大日本帝国陸軍の要塞司令部.

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高砂 (防護巡洋艦)

(たかさご)は、日本海軍の二等巡洋艦(防護巡洋艦)#達明治30年3月(4)p.3「達第三十三號 英國ニ於テ製造ノ第一號甲鐡戰艦及第三號二等巡洋艦米國ニ於テ製造ノ第一號及第二號ニ等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル|明治三十年三月二十六日 海軍大臣侯爵 西郷從道|第一甲鐡戰艦 敷シキ島シマ|第一號二等巡洋艦 笠カサ置キ|第二號二等巡洋艦 千チ歳トセ|第三號二等巡洋艦 高タカ砂サゴ」。 艦名は加古郡加古川河口の高砂浦に由来する#幕末以降帝国軍艦写真と史実第55コマ(原本76頁)「高砂(たかさご)艦種二等巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)艦名考名所の名にして播磨國加古郡加古川口の高砂浦に採る、此地古來船の場にして景勝を以て奢はる。又本邦人往時より臺灣を呼んで高砂と稱せしことあるも、此の艦名は前記播磨の高砂に因めるものなり。艦歴明治31年5月17日英國にて竣工、同月25日英國出發、8月14日横須賀到着、同33年北清事變に從軍、同35年6月、淺間と共に英國皇帝陛下の戴冠式に参列(司令官伊集院五郎)、同37・8年戰役に從軍(第三戰隊):同37年12月、黄海々戰に参加(艦長大佐石橋甫)、同37年12月、旅順口外哨區行動中、同月13日機械水雷に觸れ沈没、副長中佐中山鋋次郎外准士官以上22名、下士官卒傭人251名殉難。―要目― 長360呎/幅47呎/喫水17呎/排水量4,160噸/機關 直立三段膨張式 2臺 圓罐雙螺/馬力15,900/速力22.5/乗組人員400/船材 鋼/兵装 8吋砲2/12拇砲10/12听砲12/47mm砲6/發射管5/起工 明治29-5-29/進水 同30-5-17/竣工 同31-5-17/建造所 英國エルスウィック安社」。 日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日、旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)、ロシア海軍の機雷により沈没した。.

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軍服 (大日本帝国陸軍)

この記事では、明治維新の建軍から第二次世界大戦敗戦による解体まで、大日本帝国陸軍の軍人が着用した制服について解説する。軍服一般については軍服を参照。.

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黄海海戦 (日露戦争)

海海戦(こうかいかいせん)は1904年(明治37年)8月10日に大日本帝国海軍連合艦隊とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)との間で戦われた海戦。この海戦でロシア太平洋艦隊の艦船は激しく損傷し、以後大規模な海戦を行うことはなかった。.

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轟拳ヤマト

『轟拳ヤマト』(ごうけんヤマト 英語表記:Thunder Knuckler YAMATO)は飯島祐輔による日本の漫画作品。全5巻の単行本として描き下ろされた。 大陸を結ぶ巨大な橋と「大艦機」と呼ばれる人型有人兵器が存在する20世紀の世界を舞台とした作品。コミック版『新・旭日の艦隊』最終巻に本作の予告が掲載された。 元々は全6-7巻程度の予定で執筆していたが、諸事情により全5巻での完結となった。そのため、伏線の回収が十分に行われなかった箇所がある。.

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阿蘇 (装甲巡洋艦)

阿蘇」(あそ)は、日本海軍の保有した装甲巡洋艦#海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰利軍艦相摸肥前命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』。日本海軍の正式な類別は 1 等巡洋艦#海軍制度沿革(巻8、1940)p.52『◎明治三十八年八月二十七日(達一一四)軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ』。 元はロシア帝国のバヤーン級装甲巡洋艦1番艦「バヤーン」であり、日露戦争における旅順攻囲戦において沈没(大破着底)。旅順港を占領した日本海軍に鹵獲される。 浮揚修理後、日本海軍の軍艦籍編入時に「阿蘇」と改名した。 艦名は阿蘇山に依る#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.71『阿蘇(あそ) 艦種巡洋艦二等 二檣(信號用) 艦名考山名なり、肥後國阿蘇嶽に採る、此山は肥後國阿蘇郡の中央に在る活火山なり、標高5,577尺。艦歴舊露國軍艦、原名「バヤーン」、明治33年佛國「ラセーヌ」に於て進水。明治36年12月2日旅順に回航、同37年2月日露開戰後太平洋艦隊として旅順にありて活動し、其の高速力は我が驅逐隊の最も悩む所となる、同37年7月27日機雷に觸れ大損傷を蒙り、以來旅順港内に蟄居し出でず。復た後ち港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「阿蘇」と命名。大正3年乃至9年戰役從軍:同9年敷設艦に編入。―要目―(略)起工 /進水 明治33-5-12/竣工 同35/建造所 佛國セーヌ』(註:実際は6月12日進水)。 天皇に奏聞した候補艦名には「熊野」および「生野」があった。.

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閉塞作戦

閉塞作戦(へいそくさくせん)とは、港湾の入り口に大型船舶を沈没させて港内の船舶を内部に閉じ込める海上封鎖の一種である。主に軍港に対して実施された。.

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野津道貫

野津 道貫(のづ みちつら / どうがん)、天保12年11月5日(1841年12月17日) - 1908年(明治41年)10月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。.

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釜屋忠道

釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日(文久2年9月13日) - 1939年(昭和14年1月19日)は日本の海軍軍人。手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀、日露戦争では「龍田」、「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎。.

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柳田元三

柳田 元三(やなぎた げんぞう、1893年1月3日 - 1952年10月7日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。.

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東京湾要塞

東京湾要塞(とうきょうわんようさい)とは、東京湾周辺の防衛を目的に設置された要塞。東京湾の砲台及び海堡等の建築物を東京湾要塞司令部が管理をした。終戦時は第12方面軍隷下の東京湾兵団に属している。明治時代に建設が始まり、逐次設備を増やしつつ、太平洋戦争(大東亜戦争)の終了時まで運用された。.

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榴弾砲

榴弾砲(りゅうだんぽう、りゅうだんほう)は、 火砲(大砲)の一種。基本の定義は同口径のカノン砲(加農砲・カノン・加農)に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程であるが軽量でコンパクト、高仰角の射撃を主用する(定義)。しかしながら、概ね冷戦後の現代は火砲の進化(榴弾砲の長砲身化)による砲種の統廃合(榴弾砲の統一)により、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっている(歴史)。旧日本陸軍による呼び名は、りゅうだんぽうである。.

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機雷

EODにより爆破処分される係維機雷。 機雷(きらい)とは、水中に設置されて艦船が接近、または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する水中兵器をいう。水中で人為的に仕掛けられる爆発装置のリムペットマインなどは含まない。機雷は機械水雷の略である。機雷に触れることを触雷(しょくらい)、機雷を設置した海域を機雷原(きらいげん)、機雷を撤去することを掃海という。.

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櫻井忠温

櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。.

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水師営

水師営(すいしえい、、、シュイシーイン)は、中国清朝・北洋艦隊(清国での呼称:北洋水師)隊員の駐屯地の意味。 元々は清国各地の海岸や河の軍港近くにあったが、現代日本では一般的に、1905年、日露戦争中の旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されたことで有名な、遼寧省大連市旅順の水師営を指す。.

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永野修身

永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。.

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沖縄丸

沖縄丸(おきなわまる)は、日本の逓信省に所属した海底ケーブル敷設船である。日本が保有した最初の本格的海底ケーブル敷設船で、台湾への海底電信線敷設を目的として1896年(明治29年)にイギリスで竣工した。40年以上にもわたり日本の海底ケーブル敷設の主役として活躍し、日露戦争では軍用通信網整備により日本軍の勝利に貢献した。1938年(昭和13年)に民間に払い下げられて貨物船に改装されたが、太平洋戦争中に撃沈された。.

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溝口直亮

溝口直亮の肖像写真 溝口 直亮(みぞぐち なおよし、1878年4月11日 - 1951年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。陸軍政務次官、貴族院議員、伯爵。.

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木下文次

木下 文次(きのした ぶんじ、1875年(明治8年)1月3日 - 1968年(昭和43年))は、明治・大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍中将。栄典は正二位勲二等。.

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有坂成章

有坂 成章(ありさか なりあきら 1852年4月5日(嘉永5年2月18日) - 1915年(大正4年)1月12日)は、日本陸軍軍人、男爵。帝国陸軍の国産小銃を村田経芳に次いで開発した。最終階級は陸軍中将。別名に淳蔵。.

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明石元二郎

明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。.

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春日型装甲巡洋艦

春日型装甲巡洋艦(かすががたそうこうじゅんようかん)は、大日本帝国海軍が日露戦争前に購入した装甲巡洋艦。.

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日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、Русско-японская война 、Russo-Japanese War、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利で終わった。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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日本の軍事史

日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、豪族(国造)の私兵から律令制に基づく大規模な国家兵力たる軍団の設立、その廃止に伴う治安悪化のために私的に自己武装した武士の誕生、その武士の武力と主従関係が公的権力となった武家政権(封建制)、江戸幕府の文治政治による武力の抑制、19世紀の国際関係に対応するための近代的徴兵制に基づく国民軍たる帝国陸軍・帝国海軍の設立とその巨大化、第二次世界大戦の敗戦による日本国憲法による武力の放棄、さらに自衛に特化した自衛隊の創設という流れをたどり、現在に至る。.

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日本海海戦

東郷平八郎(1907年〈明治40年〉) ロジェストヴェンスキー 日本海海戦(にほんかいかいせん、1905年5月27日 - 28日)は、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを主力決戦の場所に因み対馬沖海戦(つしまおきかいせん、 (Tsusimskoye srazheniye)、英語:Battle of Tsushima)と呼ぶ。 この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。連合艦隊はロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力のほとんどを失わせたが、連合艦隊の損失は軽微という海戦史上稀な一方的勝利となった。これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着しており本稿でもこの呼び名を用いる。.

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旅順南路

旅順南路を黒石礁からスタートしてすぐ、学苑広場を通る。 旅順南路(りょじゅんなんろ)は中国遼寧省大連市にある旅順軍港と大連の市中心を結ぶ3つの道路の内、最も南の、黄海沿岸を行く道路である。G201国道(鶴崗~佳木斯~通化~大連~旅順)の最終段で、距離は約40キロメートルある。.

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旅順口の戦い

旅順口の戦い(りょじゅんこうのたたかい)は、日清戦争の陸戦である。.

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旅順口区

旅順口区(りょじゅんこうく)は中華人民共和国遼寧省大連市に位置する市轄区。遼東半島の最西部(突端部)にあり、天然の良港として知られて、かつては旅順軍港の軍港都市であり、現在は大連市に編入されている。区人民政府の所在地は新城大街1号にある。大連市内からは45kmの距離で、国家級風景名勝区、国家級自然保護区に指定されている。陸地面積506.8平方km、海岸線の長さは169.7km。沿海では真珠の養殖が盛んである。 旅順口区政府は2009年3月20日付の招待会で、旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになったと発表した。しかし、この発表は大連市や国家レベルの承認も得たものでない旨、日本領事館大連事務所から注意喚起されている。市および国家からの正式文書を得た段階で、下の「現状」にある訪問制限の記述も変更される。.

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旅順口攻撃

旅順口攻撃(りょじゅんこうこうげき)は日露戦争の開戦した1904年(明治37年)2月から5月にかけて行われた大日本帝国海軍連合艦隊によるロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(旅順艦隊)に対する攻撃。 日本海軍は、日本本土から大陸への海上輸送を脅かすロシア艦隊を無力化するため、旅順口攻撃を計画した。日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞作戦を実施した。 この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が容易になった他、第一次日韓協約が締結されるなど戦地に連なる韓国との外交関係を有利なものとした。しかし、旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を与えることには成功せず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が脅かされたため、陸上側からの旅順要塞の攻略が必要となった。.

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旅順虐殺事件

旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん)は、1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した。この事件の報道に関するアメリカのジャーナリズム史研究では、クリールマンはこの報道で扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)のやり方を身につけて、4年後の1898年の米西戦争でスペインとの開戦世論誘導で活躍したため、「虐殺」と呼ぶことに疑義がだされている。遼東半島.

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旅順港閉塞作戦

旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)とは、1904年(明治37年)2月からの日露戦争における旅順口攻撃において、大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦(閉塞作戦)である。三次にわたって行われたがいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかった。.

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旅順攻囲戦

3軍の旅順への前進 第3軍による旅順包囲 攻撃準備中の日本軍 砲撃によって生じた黄金山麓石油庫の火災 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。.

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愛媛県

愛媛県(えひめけん)は、日本の都道府県の一つで四国地方の北西部から北中部に位置する県。県庁所在地は松山市。令制国の伊予国に当たる。.

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慶應義塾大学

記載なし。

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手榴弾 (日本軍)

手榴弾(てりゅうだん)は大日本帝国陸軍が1907年(明治40年)に最初に制式化した手榴弾である。初期には壺型手榴弾と書類で表記されたが、後には単に手榴弾と呼ばれ、採用年や特徴を現わすことばをつけなかった。.

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1905年の政治

1905年の政治(1905ねんのせいじ)では、1905年(明治38年)の政治分野に関する出来事について記述する。.

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1月2日

1月2日(いちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から2日目に当たり、年末まであと363日(閏年では364日)ある。誕生花は孟宗竹、または蝋梅。.

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203高地

203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。 1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。.

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