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新感覚派

索引 新感覚派

新感覚派(しんかんかくは)は、戦前の日本文学の一流派。1924年(大正13年)10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した新進作家のグループ、文学思潮、文学形式を指す。おもに、横光利一、川端康成、中河与一、片岡鉄兵、今東光、佐佐木茂索、十一谷義三郎、池谷信三郎、稲垣足穂、藤沢桓夫、吉行エイスケ、久野豊彦らを指すことが多い「新感覚派」(文藝 1952年6月号)。。 戦前の評論家・ジャーナリストの千葉亀雄が同人の言語感覚の新しさにいち早く注目し、『文藝時代』創刊号の印象を『世紀』上で評論し千葉亀雄「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号)。、、千葉が「新感覚派の誕生」と命名して以来、文学史用語として広く定着した「新感覚時代――国語との血戦」()「新感覚派の弁」(新潮 1925年3月号)。に所収。モダニズム文学として注目された新感覚派は、同年6月に創刊された『文芸戦線』のプロレタリア文学派とともに、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった「第一編 評伝・川端康成――出発」()羽鳥徹哉編「年譜」()。.

44 関係: 千葉亀雄古都 (小説)堀口大學実話唐人お吉富ノ澤麟太郎川端康成中間小説中河与一井上正夫今東光伊豆の踊子伊藤貴麿弓浦市ハエモダニズム文学唐人お吉 (小説)石浜金作稲垣足穂純文学紅野敏郎片岡鉄兵片腕 (小説)狂つた一頁菅虎雄青空 (雑誌)頭ならびに腹衣笠貞之助袁犀都会交響楽鈴木彦次郎藤沢桓夫金星堂連合映画芸術家協会抒情歌 (小説)梶井基次郎横光利一春は馬車に乗って昭和モダン浅草紅団新居格文芸戦線文藝時代日本の近現代文学史意識の流れ

千葉亀雄

千葉 亀雄(ちば かめお、1878年(明治11年)9月24日 - 1935年(昭和10年)10月4日)は、日本の評論家、ジャーナリスト。山形県酒田市に生まれ、5歳から母の実家がある宮城県美里町、13歳から仙台市で育つ。早稲田大学高等師範部中退。はじめ江東の号で小説を書いたが、以後国民新聞、読売新聞、時事新報、東京日日新聞など新聞の社会部長や学芸部長を務め、その傍ら文芸評論も書いた。『サンデー毎日』編集長として「サンデー毎日新人賞」を開始するなど大衆文学にもかかわる。 大正末から昭和初年にかけての大きな文学潮流となった「新感覚派」の命名者として知られる。.

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古都 (小説)

『古都』(こと)は、川端康成の長編小説。古都・京都を舞台に、生き別れになった双子の姉妹の数奇な運命を描いた川端の代表作の一つ。京都各地の名所や史蹟、年中行事が盛り込まれた人気作品であるが、国内より海外での評価の方が高くノーベル文学賞の授賞対象作にもなった上田渡「古都」()「第9章 抱擁する『魔界』――たんぽぽ」()。老舗呉服商の一人娘として育った捨て子の娘が、北山杉の村で見かけた自分の分身のような村娘と祇園祭の夜に偶然出逢う物語。互いに心を通わせながらも同じ屋根の下で暮らせない双子の娘の健気な姿が、四季折々の美しい風景や京都の伝統を背景に、切なく可憐に描かれている。 川口松太郎脚色で新派で舞台化され、これまで2度映画化されている。.

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堀口大學

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年(明治25年)1月8日 - 1981年(昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。.

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実話唐人お吉

『実話唐人お吉』(じつわとうじんおきち)は、1927年(昭和2年)に発表された村松春水による日本の小説である。同作を原作とし、『唐人お吉』のタイトルで、1930年(昭和5年)に河合映画製作社製作、村越章二郎監督により、1931年(昭和6年)に松竹下加茂撮影所製作、衣笠貞之助監督により、それぞれ製作・公開された日本のサイレント映画についても、本項で詳述する。.

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富ノ澤麟太郎

富ノ澤 麟太郎(とみのざわ りんたろう、本名:富澤 麟太郎、1899年3月25日 - 1925年2月24日)は、日本の小説家。.

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川端康成

川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。 大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った原善「川端康成」()。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築いた羽鳥徹哉「作家が愛した美、作家に愛された美―絶望を希望に転じ、生命の輝きを見出す」()羽鳥徹哉「川端文学の世界――美についての十章」()。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。 代表作は、『伊豆の踊子』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」()。 川端は新人発掘の名人としても知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる「新感覚――『文芸時代』の出発」()「第一編 評伝・川端康成――非情」()「第二部第五章 新人才華」()。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。 多くの名誉ある文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した(なお、遺書はなかった)「『美しい日本の私』――ノーベル賞受賞」()「第三部第八章 末期」()。.

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中間小説

中間小説(ちゅうかんしょうせつ)は、20世紀後半の日本の小説の分類で、純文学と大衆小説の中間的な作品。この層の作品を掲載する雑誌である、中間小説誌(ちゅうかんしょうせつし)という言葉でむしろ多く使われる。第二次世界大戦後の小説の大きな位置を占めるようになるが、大衆小説(娯楽小説)自体の地位の向上につれて、小説の分野を指す言葉として使われることは少なくなる。また個々の作家、作品については、歴史・時代小説、推理小説、恋愛小説、冒険小説などといった、娯楽小説の分類に従って呼ばれることが多く、中間小説とそれ以外の小説の厳密な区分けも存在しない。.

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中河与一

中河与一 (なかがわ よいち, 1897年(明治30年)2月28日 - 1994年(平成6年)12月12日) は、香川県生まれの小説家・歌人である。横光利一、川端康成と共に、新感覚派として活躍した。正字で中河與一と表記される場合もある。中河哀秋という筆名も持つ。.

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井上正夫

井上 正夫(いのうえ まさお、1881年6月15日 - 1950年2月7日)は、日本の新派俳優、映画監督、書家。本名は小坂 勇一。 松山で初舞台を踏み、新派の一座を転々とした後、伊井蓉峰の一座で頭角を現し幹部俳優となる。やがて新派を離れ、新時代劇協会を結成して近代劇の上演に意欲を見せ、連鎖劇も手掛ける。この頃活動写真の『大尉の娘』等で監督・主演し、画期的な技法を用いて映画を芸術的な域に高めた功労者の一人となった。新派に復帰後は大幹部として、優れた性格描写と重厚な演技で活躍。戦中は中間演劇を提唱して井上演劇道場を創設し、多くの俳優を育成したとともに、商業演劇の向上に務めた。1949年(昭和24年)に芸術院会員。著書に自伝『化け損ねた狸』。.

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今東光

今 東光(こん とうこう、1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日)は、横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽仏門に入った後は今春聽が戸籍名、今東光が筆名となった。自筆年譜には「午前5時、日輪と共に生る。依て父母之に命名して東光」とある。)、小説家、参議院議員。大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。 作家・評論家で、初代文化庁長官を務めた今日出海(ひでみ)は三弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は父方の遠縁にあたる。.

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伊豆の踊子

『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)。『少年』内への引用作品。に抜粋掲載「少年」(人間 1948年5月号-1949年3月号)。に所収。に第5、6、7、9回分掲載「『伊豆の踊子』成立考」(「新感覚派――『文藝時代』の出発」()。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている「三 出世作『伊豆の踊子』の慕情」()。 日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている奥野健男「解説――鮮やかな感覚表現」()。.

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伊藤貴麿

伊藤 貴麿(いとう たかまろ、1893年9月5日 - 1967年10月30日)は、日本の児童文学者、翻訳家。 兵庫県神戸市生まれ。1920年早稲田大学英文科卒。1924年新感覚派の同人誌『文藝時代』に参加し、のち文芸春秋系の作家となる。その後児童文学界の重鎮となり、『西遊記』の再話などで知られた。.

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弓浦市

『弓浦市』(ゆみうらし)は、川端康成の短編小説。30年前に九州の「弓浦市」という町で会って求婚されたと言う婦人の来訪に戸惑う小説家の奇妙な体験の物語「カバー解説」(『再婚者・弓浦市』)(講談社文芸文庫、1994年)。突然訪れた一人の婦人の言葉により、虚と実の間の空間に誘われてゆく主人公の心理が描かれ森本穫「弓浦市 解説」(『短編の愉楽2―近代小説のなかの異空間』)(有精堂出版、1991年)p.228、婦人の妄想の過去と推測されるにもかかわらず、その語りの細部や、真実らしさに、読者も主人公と共に「あやしい時空」に引き込まれてゆくような、狂気と隣り合わせた異様な世界が提示されている作品となっている。実話怪談系のサイコ・ホラーにも一脈通ずる作品でもある東雅夫「心霊と性愛と」(『文豪怪談傑作選 川端康成 片腕』)(ちくま文庫、2006年7月)。.

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ハエ

ハエ(蠅・蝿)は、ハエ目(双翅目:そうしもく)に属する昆虫のうち、ハエ亜目(短角亜目)・環縫短角群(かんぽうたんかくぐん)・ハエ下目(Muscomorpha)に属するものの総称である。日本だけで 60 ほどの科と、そこに属する 3,000 種近い種が存在する。 成虫は一般にコンパクトな胴体、よく発達した前翅、後翅が変化した平均棍を持つ。飛翔能力は昆虫類の中でも非常に高い部類で、空間に完全に固定されたかのようなホバリングや、高速での急激な方向転換など、複雑で敏捷な飛翔をこなせるものが多い。「短角亜目」という名の通り触角は通常短い。 羽化の際にはさなぎの背中が縦に割れずに環状に開く。このためさなぎの縫い目が環状になっているとの意で「環縫短角群 」、あるいは単に「環縫群」「環縫類」とも呼ばれる。アブは通常ハエとは別の直縫短角群を指す呼称だが、「アブ」と名のつくもののうちハナアブ科やアタマアブ科などはハエの仲間であり、逆に「ハエ」と名のつくもののうち、アシナガバエ科やオドリバエ科などはアブの仲間である。.

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モダニズム文学

モダニズム文学(モダニズムぶんがく)は、20世紀文学の一潮流で、1920年前後に起こった前衛運動をさす。都市生活を背景にし、既成の手法を否定した前衛的な文学運動。ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本、ラテンアメリカなど各国でその動向が見られる。.

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唐人お吉 (小説)

『唐人お吉』(とうじんおきち)は、1928年(昭和3年)に発表された十一谷義三郎による日本の小説であり、同作を原作とし、1930年(昭和5年)に日活太秦撮影所が製作し、溝口健二が監督した日本のサイレント映画である。同作は、同撮影所が日活京都撮影所と改称したのちの1937年(昭和12年)に、池田富保を監督に『唐人お吉 黒船情話』のタイトルでリメイクしている。リメイク作品も含めて本項で詳述する。.

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石浜金作

石濱 金作(いしはま きんさく、1899年2月28日 - 1968年11月21日)は、日本の小説家。 東京市京橋木挽町出身。父は時事新報記者の石浜鉄郎、兄は経済学者の石浜知行。子供時代は大阪で育ち、第一高等学校を経て1924年東京帝国大学英文科卒。 1921年川端康成らと第6次『新思潮』を創刊。その後、『文藝春秋』の編集同人となる。1924年に『文藝時代』の創刊に携わり、新感覚派の新人作家として活躍する。.

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稲垣足穂

垣 足穂(いながき たるほ、1900年12月26日 - 1977年10月25日)は、日本の小説家。 1920年代(大正末)から1970年代(昭和後期)にかけて、抽象志向と飛行願望、メカニズム愛好、エロティシズム、天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表した。代表作は『一千一秒物語』、『少年愛の美学』など。.

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純文学

純文学(じゅんぶんがく)は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。.

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紅野敏郎

紅野 敏郎(こうの としろう、1922年6月19日 - 2010年10月1日)は、日本近代文学の研究者。.

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片岡鉄兵

片岡 鉄兵(かたおか てっぺい、1894年(明治27年)2月2日 - 1944年(昭和19年)12月25日)は、大正・昭和前期の小説家。「鉄平」と表記されることもある。.

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片腕 (小説)

『片腕』(かたうで)は、川端康成の短編小説。ある男が、ひとりの若い娘からその片腕を一晩借りうけて、自分のアパートに持ち帰り一夜を過ごす物語。官能的願望世界を、シュール・レアリズムの夢想で美しく抒情的に描いた作品で、後期の川端の珠玉の短編として知られている「解説」()。に所収筒井康隆「コラム――漂流 本から本へ」(朝日新聞 2010年03月14日号)。「第四章 作家になる――川端康成『片腕』」()原善「『片腕』論―そのフェティシズムの構造を中心に―」(川端文学研究会編『川端文学への視界』教育出版センター、1965年1月)。「『片腕』論」()。.

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狂つた一頁

『狂つた一頁』(くるったいっページ)は、1926年(大正15年)に製作・公開された日本映画である。衣笠貞之助監督、井上正夫主演。 衣笠が横光利一、川端康成ら新感覚派の作家と結成した新感覚派映画聯盟と、衣笠映画聯盟で製作した作品で、無字幕のサイレント映画として公開された。激しいフラッシュバックや多重露光などの技法を駆使して斬新な映像表現を試み、日本初のアヴァンギャルド映画で、大正モダニズムの成果である『狂つた一頁』は、ドイツ映画『カリガリ博士』に触発されたものであるが、そこに日本人固有の家族観が入れられているところに独自の工夫がある栗坪良樹「作家案内―川端康成」(文庫版『浅草紅団/浅草祭』)(講談社文芸文庫、1996年)保昌正夫『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)。.

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菅虎雄

菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日(元治元年10月18日) - 1943年(昭和18年)11月13日)は明治-昭和前期のドイツ語学者。書家。号は無為、白雲、陵雲。夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授としても知られた「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第五節 [掌の小説]と『感情装飾』」()。芥川龍之介から尊敬され、芥川の処女刊行本『羅生門』の題字の揮毫をした挿話も有名である。.

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青空 (雑誌)

『青空』(あおぞら)は、日本の文芸雑誌。1925年(大正14年)1月に、東京帝国大学在学中の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂らが創刊した同人雑誌である「『青空』と友人たち」()。誌名は、快晴の青空を見たことと、武者小路実篤の詩の一節「さわぐものはさわげ、俺は青空」にちなんで付けられた平林英子「梶井基次郎」(『青空の人たち』皆美社、1969年12月)。に部分所収「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」()「第一部 第一章 同人たち」()鈴木貞美「梶井基次郎年譜」()。梶井基次郎の代表作となる「檸檬」「城のある町にて」が、活字で掲載された最初の出版雑誌として知られる「第一部 第六章 『青空』創刊」()。 参加した同人には、稲森宗太郎、淀野隆三、飯島正、三好達治、北川冬彦、阿部知二、古澤安二郎などがいた「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」()。アマチュアの同人雑誌として創刊されながらも、多様なメンバー構成の点などからも近代文学史の中で果たした役割は大きく、意義のある雑誌である紅野敏郎「解説」(復刻版『青空』近代文学館、1970年)。に抜粋掲載野村吉之助(忽那吉之助)「回想 梶井基次郎」(群女国文 1971年4月号、1972年4月号)。に所収。.

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頭ならびに腹

『頭ならびに腹』(あたまならびにはら)は、横光利一の短編小説。1924年(大正13年)10月に同人雑誌『文藝時代』創刊号に掲載され、横光の属する同人が「新感覚派」と命名される大きなきっかけの一つとなった作品である井上謙『新潮日本文学アルバム44 横光利一』(新潮社、1994年)。線路故障で立ち往生する特別急行列車から迂回線に乗り換える乗客たちと、一人そのまま残ったお道化た小僧との対比の一幕を描いた小品。タイトルの意味は、太った「腹」の紳士につられて迂回線に移動してゆく人々の「頭」と、小僧の「頭」のことである。 冒頭の一文、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」は、新感覚派表現の代表的な例としてよく引用されている橋本威「『新感覚』的文章: 横光利一『頭ならびに腹』について」(広島大学近代文学研究会 近代文学試論、1974年2月)。この擬人法と比喩を巧妙に混ぜ、特急列車のスピード感を表現した独特の新しい文体は、発表当時文壇の大きな話題となり、同人誌発行意義の決定打となった。.

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衣笠貞之助

衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名は小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。 女形俳優から転身した映画監督で、新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督となった。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった佐藤2007、p.202。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。.

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袁犀

袁犀 (えん さい、1919年 - 1979年)は、中国の作家・小説家。 本名は郝維廉。袁犀は筆名。他に李克異などの筆名もある。 遼寧省瀋陽市の出身。 袁犀は青年時代北京に流亡し、中国共産党の地下活動に参加すると同時に創作活動を始めた。袁犀の小説は中国東北部の淪陥区(日本軍占領地域)における人々の生活を反映しており、当時多大な影響があった。.

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都会交響楽

『都会交響楽』(とかいこうきょうがく)は、1929年(昭和4年)製作・公開、溝口健二監督による日本の長篇劇映画である。サイレント映画であり、傾向映画とされる。日本映画データベースでの「都会交響曲」の表記、日本映画データベース、2010年1月8日閲覧。は誤り。.

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鈴木彦次郎

鈴木 彦次郎(すずき ひこじろう、1898年12月27日 - 1975年7月23日)は、日本の小説家。 東京府生まれ。岩手県選出の衆議院議員・鈴木巌の二男として生まれた。6歳から父の転勤に伴って盛岡に移る。盛岡中学校、第一高等学校をへて東京帝国大学英文科、のち国文科に転じて1923年卒業。高校時代寮の同室だった川端康成、石浜金作、酒井眞人に今東光の五人で第6次『新思潮』を1921年創刊。1923年文藝春秋同人、1924年川端、横光利一らの『文藝時代』に参加。新感覚派の一人とされた。1928-1930年舟橋聖一、村山知義らと心座の新劇運動に携わる。のち農民小説、大衆小説、歴史小説、相撲小説に転じる。 1944年盛岡に疎開し、地方文化人となる。岩手県立図書館長、岩手県教育委員長、東京薬科大学教授、盛岡短期大学教授を務め、岩手日報文化賞を受賞。 1949年に盛岡文士劇を立ち上げ、1962年まで継続した。後に高橋克彦が復活させ現在に至る。.

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藤沢桓夫

藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 1989年6月12日)は、日本の小説家。「藤沢恒夫」と表記される場合もあるが、これは誤記である。 大阪市生まれ。藤沢南岳の孫で関西大学初の名誉教授となった藤沢黄坡の長男。旧制大阪高校在学中に武田麟太郎(三高)・長沖一・林広次・神崎清らとともに同人誌『辻馬車』を発刊、1925年同誌に発表した「首」でデビューし新感覚派として目された。1927年大阪高校を卒業し東京帝国大学に入学、在学中は新人会で活動しプロレタリア文学に転向、1930年『傷だらけの歌』を書く。1931年文学部国文科を卒業したのち肺病で大阪に帰り、1936年『花粉』、1941年 - 1942年の『新雪』で新聞小説家として復帰。その後、大衆・流行作家として数多くの小説を書き、晩年まで関西文壇の長老として活動を続けた。アマチュア五段(没後七段を追贈された)の段位を持つ程の、文士きっての将棋好きとしても知られ、その腕前は山口瞳から「ほとんどプロに近い」と評されている。また、それを生かした将棋を題材にした小説や随筆を多く書き、新境地を開いた。 作家石浜恒夫の従兄にあたる。また、直接の関係は無いが歌手の藤島桓夫の芸名の由来である。.

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金星堂

金星堂(きんせいどう)は東京都千代田区神田神保町3-21にある日本の出版社。 創業時は文芸作品を扱っていたが、現在は大学向け語学教科書の出版社として活動している。.

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連合映画芸術家協会

聯合映畫藝術家協會(れんごうえいがげいじゅつかきょうかい、大正14年(1925年)設立 -昭和2年(1927年) 解散)は、かつて奈良に存在した日本の映画会社である。小説家の直木三十五が設立し、マキノ・プロダクションから撮影所を提供されて映画を連作した。.

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抒情歌 (小説)

『抒情歌』(じょじょうか)は、川端康成の短編小説。川端が新境地をみせた初期の代表作の一つで、川端の死生観がよく示されている作品である「新感覚派――『文芸時代』の出発」()「川端康成と心霊学」(国語と国文学 東京大学国語国文学会1970年5月号)。に所収。また、川端自身が「最も愛してゐる」作品の一つでもあり「文学的自叙伝」(新潮 1934年5月号)。、に所収、川端文学の基本的なものを内包している重要作品でもある三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」()。「『伊豆の踊子』『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』について」としてに所収「第一部 第三章 『抒情歌』の意味」()。 ある霊感の強い女人が恋人に捨てられ、彼の死を知り、その苦悩や失意の中で「輪廻転生の抒情詩」に救いを求める愛と死の物語。嫉妬や呪詛、悲しみの末、禽獣草木、天地万物のうちに愛する人や自身を見出し、霊の国や冥土、来世で愛する人の恋人になるよりも一つの花になりたいという汎神論的心境に思い至るまでの詩的な心の軌跡が、霊のモチーフで神秘的に描かれている「川端氏の『抒情歌』について」(民生新聞 1946年4月29日号)。に所収。.

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梶井基次郎

梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年(明治34年)2月17日 - 1932年(昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した「生い立ち」()「文章読本――短篇小説の文章」(婦人公論 1959年1月号付録)。、に所収高橋英夫「存在の一元性を凝視する」()。 死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている平田次三郎「解説」(『現代文学代表作全集第1巻』万里閣、1948年6月)。「III 反響と残映――資料編」()。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。 梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鴎外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。.

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横光利一

横光 利一(よこみつ りいち、1898年(明治31年)3月17日 - 1947年(昭和22年)12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家である。本名は横光利一(としかず)。 菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蝿』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された十重田裕一、早稲田大学、2010.。 戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。.

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春は馬車に乗って

『春は馬車に乗って』(はるはばしゃにのって)は、横光利一の短編小説。作者本人の体験をもとに執筆された横光の代表的作品の一つである。病身に苦しむ妻と、妻を看護する夫との愛の修羅場と、その苦しみの後の融和と静寂の物語。湘南の海岸の自然や動植物、夫の心理描写の映像的な新感覚派の文体を織り交ぜながら、悲運に置かれた夫婦の葛藤と愛情が、会話文を多用した淡々とした趣きで描かれている。春の訪れる終章では、生と死との対比が詩的に表現され、愛する亡妻への鎮魂となっている井上謙『新潮日本文学アルバム44 横光利一』(新潮社、1994年)。 1926年(大正15年)、雑誌『女性』8月号に掲載され、翌年1927年(昭和2年)1月12日に改造社より単行本刊行された。文庫版は新潮文庫、岩波文庫などから刊行されている。翻訳版もDennis Keene訳(英題:Spring Riding in a Carriage)で行われている。.

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昭和モダン

昭和モダン(しょうわモダン)とは、昭和時代の初めの1930年代に花開いた、和洋折衷の近代市民文化のことである。現在では1920年(大正9年)以後の文化(大正ロマン)をも含む。昭和時代は第二次世界大戦を挟んで戦前と戦後に分かれるが、昭和モダンは戦前に該当し、戦後の文化は平成時代の文化との比較から「昭和ノスタルジー」と呼ばれる。.

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浅草紅団

『浅草紅団』(あさくさくれないだん)は、川端康成の長編小説。旧漢字表記では『淺草紅團』。全61節から成る。川端が30歳から31歳にかけての執筆作で、昭和初頭の浅草の人間模様を見聞記風・叙景詩風に描いた作品である「新感覚――『文芸時代』の出発」()。昭和モダニズム文学とも呼ばれ、この作品の影響で、浅草を訪れる人々が増えるという浅草ブームが起きた「『浅草紅団』について」(文學界 1951年5月号)。、、に所収「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第七節 『海の火祭』と『浅草紅団』」()「第3章 モダニズムの結界――『浅草紅団』」()。 姉を捨てた男への復讐のために、浅草の街をさまよう不良少年少女パフォーマンス集団「浅草紅団」首領の中性的美少女に案内され、浅草の裏社会に生きる人々の有様を綴る「私」のルポルタージュ風な物語。関東大震災以降の都市の街並、浮浪者、乞食、娼婦、ポン引き、踊子、見世物小屋、エログロ・ナンセンスなどの美と醜が混在する風俗、新旧の現象が、世界恐慌から昭和恐慌の波が押し寄せる不穏な空気感を背景に、抒情的な目線で描かれている。.

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新居格

新居 格(にい いたる、1888年(明治21年)3月9日 - 1951年(昭和26年)11月15日)は、日本の文筆家。主に評論や翻訳などで活躍した。.

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文芸戦線

『文芸戦線』創刊号の表紙 『文芸戦線』(ぶんげいせんせん)は、1920年代から30年代にかけてのプロレタリア文学の雑誌である。 雑誌『種蒔く人』が関東大震災の影響もあって1923年(大正12年)に廃刊したのち、新しいプロレタリア文学の書き手たちの同人誌として1924年(大正13年)6月に出発した。当初は、関係者の頭文字をつなげて〈ココラキョウ〉というタイトルも考えられたが、あまりにふざけすぎだという意見が出て、シンプルな〈文芸戦線〉になった。。 創刊当初は、平林初之輔、青野季吉らが論陣をはり、プロレタリア文学の理論化にちからをつくした。また、葉山嘉樹、黒島伝治、平林たい子たちが作品を発表し、プロレタリア文学の有力な発表舞台として認められるようになった。新感覚派の雑誌『文藝時代』とともに、新しい時代のさきぶれとして、当時の作家をめざす若者に人気があった板垣信著・福田清人編『川端康成 人と作品20』(センチュリーブックス/清水書院、1969年)羽鳥徹哉「年譜」(『作家の自伝15 川端康成』)(日本図書センター、1994年)。 1925年(大正14年)、日本プロレタリア文芸連盟(プロ連)発足の際には、実質的に機関誌として機能した。その後、プロ連が発展して日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)が結成されると、そのなかの福本イズムに影響された鹿地亘や中野重治から批判を受け、それをひとつのきっかけとして、労農芸術家連盟(労芸)が結成されると、その機関誌として位置づけられた。 1927年、山川均の論文掲載をめぐって、蔵原惟人たちが労芸を脱退、前衛芸術家同盟(前芸)を発足させると、『文芸戦線』は労芸に残った、いわゆる労農派と呼ばれる人たちの根拠地となり、社会民主主義的傾向をもつようになった。1928年のプロ芸と前芸の合同による全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成と、雑誌『戦旗』創刊に対しても、距離をおき、独自のプロレタリア文学を追求した。この時期には、伊藤永之介、岩藤雪夫らが活躍した。 しかし、プロレタリア文学の主流が『戦旗』にあるとは衆目の一致するところであり、そうしたことや、労芸内部での親分子分の関係のもつれなどから、何度も脱退者がでて、二度にわたって〈文戦打倒同盟〉が結成されるなどの、内部の問題もあり、雑誌名をその後『文戦』『レフト』『新文戦』と改名しながらもちこたえたが、弾圧もあり、1932年(昭和7年)には労芸は解散、雑誌も1934年(昭和9年)に廃刊した。.

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文藝時代

『文藝時代』(ぶんげいじだい)は、日本の文芸雑誌。1924年(大正13年)10月に金星堂から創刊された。誌名は、「宗教時代より文藝時代へ」という意図で、発起人の川端康成により名付けられた「『文藝時代』創刊の辞――〈新しき生活と新しき文藝〉」(文藝時代 1924年10月・創刊号)。、に所収。創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』により、同人らは「新感覚派」として注目を浴びたが千葉亀雄「新感覚派の誕生」(世紀 1924年11月号)。、「第二章 新感覚派の誕生――文壇への道 第三節 『文藝時代』発刊と新感覚派の誕生」()、主要な有力同人の個別活動の活発化や、左傾化した一部同人の脱退などにより1927年(昭和2年)5月号(第4巻第5号)をもって終刊した福岡益雄(金星堂社長)「創刊の前後」(『復刻版 文藝時代』別冊 日本近代文学館、1967年5月)。、に抜粋掲載「第一編 評伝・川端康成――出発」()「新感覚時代――国語との血戦」()。 第一次世界大戦後のヨーロッパに興ったダダイスム、芸術の革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義に触発されて創刊された『文藝時代』は、従来の自然主義文学や客観主義を超える独自の新主観主義的な新しい感覚表現を目指した「新進作家の新傾向解説」(文藝時代 1925年1月号)。に所収「新感覚派の弁」(新潮 1925年3月号)。に所収羽鳥徹哉編「年譜」()。主要同人の川端康成、横光利一らの作品はモダニズム文学として評価され、『文藝時代』は、青野季吉らプロレタリア文学派により創刊された『文芸戦線』と共に、大正後期から昭和初期にかけての大きな文学の二大潮流となった。.

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日本の近現代文学史

日本の近現代文学史(にほんのきんげんだいぶんがくし)では、近代(戦前)と現代(戦後)における、日本文学の歴史を述べる。 明治維新後、西洋の思想や文化を取り入れる文明開化が推進され、文学にも大きな影響を与えた。言文一致運動もその一つである。言文一致の結果、日本語の書き言葉は、それまで日本文学において重きをおかれていた漢文の伝統から切り離され、明治中期には現代の日本語の書き言葉に直接連なる文体(「だ・である」調と、「です・ます」調)が確立した。文学という語自体、翻訳語として創り出されたものであり、この頃に現在一般に使われ私たちが考える文学という概念が生まれた。 第二次世界大戦の敗北の後、日本語の表記には現代仮名遣い・新字体化という改革が行われ、全国規模のメディアの発達によって、日本文学にさらに大きな変化がもたらされた。.

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意識の流れ

意識の流れ(いしきのながれ、Stream of consciousness)とは、米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである」とする考え方のことである「第三章 恋の墓標と〈美神〉の蘇生――自己確立へ 第一節 奇術師の嘆き『水晶幻想』」()。 アンリ・ベルクソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じような着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルクソンとジェイムズの間には交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。.

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