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市川文吉

索引 市川文吉

市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。.

6 関係: 古川常一郎山内作左衛門在南アフリカ日本人入江文郎近藤鎮三榎本武揚

古川常一郎

古川 常一郎(ふるかわ つねいちろう)は、明治期の東京外国語学校の露語科教授。佐賀県出身。 二葉亭四迷(長谷川辰之助)の恩師として知られる。長谷川、市川文吉とともに「露語の三川(さんせん)」と呼ばれた。 活字印刷としては、初めての本格的な辞書『露和字彙』(1887年(明治20年)1月発刊)の作成者のひとり。この辞書は上下 二巻、2,749ページ、収録語数11万語という当時としては驚異的なもの。明治政府(文部省)の命によって編集された辞書だが、極めて短期間で完成させたことで知られる。 Category:日本の文学研究者 Category:ロシア文学者 Category:東邦協会の人物 Category:佐賀県出身の人物.

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山内作左衛門

山内 作左衛門(やまのうち / やまうち さくざえもん、1836年9月1日(天保7年7月21日) - 1886年(明治19年)3月21日)は、江戸時代の幕臣、明治時代の実業家。名は信恭。.

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在南アフリカ日本人

在南アフリカ日本人(ざいみなみアフリカにほんじん)では、南アフリカ共和国で生活する日本人について記述する。.

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入江文郎

入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお、1834年5月16日(天保5年4月8日) - 1878年(明治11年)1月30日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本のフランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、字を原伯といい、観寮(かんりょう)と号した。本姓は劉。 幕末におけるフランス学先駆者の一人であり、幕府の蕃書調所(のち開成所)教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府の大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。.

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近藤鎮三

近藤 鎮三(こんどう やすぞう / ちんぞう、1849年5月28日(嘉永2年4月7日) - 1894年(明治27年)8月4日)は明治時代の日本の文部・司法官僚、検察官。字は昌綱上村(2001)、3頁。。.

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榎本武揚

榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。.

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