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尹致昊

索引 尹致昊

尹 致昊(日本語読み;いん ちこう、朝鮮語読み;ユン・チホ、1865年1月16日 - 1945年12月8日)は、李氏朝鮮末期から連合軍軍政期に活動した朝鮮の政治家である。終戦直前に貴族院朝鮮勅選議員。号は佐翁(좌옹)、日本名は伊東 致昊(いとう ちこう)。本貫は海平尹氏。 1880年代は独立協会、万民共同会の領袖として活動し、独立新聞社の第2代社長である。1909年に韓英書院と大成学校の校長を務め、同年新民会に参加した。1920年代以降は教育活動に重点を移し、延禧専門学校・セブランス連合医学専門学校・梨花女子専門学校の財団理事として活動した教育者でもあった。また朝鮮人初の英語通訳でもある。 大韓民国第4代大統領潽善は甥、第13代ソウル市長の尹致暎は従弟にあたる。.

38 関係: 姜宇奎孔聖学尹ボ善尹致暎尹致旺尹英烈尹雄烈尹永善徐載弼在日韓国・朝鮮人玉観彬第一次日韓協約羅ケイ錫甲申政変申采浩独立協会独立新聞親族関係にある政治家一覧魯会燦貴族院 (日本)興亜報国団臨戦対策協議会金奎植金九金性洙林蚩正李商在李種一李承晩梁槿煥朝鮮貴族朝鮮臨戦報国団朴重陽新民会 (1907年)愛国歌 (大韓民国)慶應義塾大学の人物一覧105人事件12月9日

姜宇奎

姜 宇奎(カン・ウギュ、きょう うけい、1855年4月20日 - 1920年11月29日)は朝鮮末期の教育者であり漢方医、独立運動家。号は日愚、字は燦九、本貫は晋州姜氏。 平安北道徳川生まれ。1884年咸鏡南道に移住し、漢方医学を学んで漢方医院を経営しながら子供に漢文を教えた。1911年、乙巳条約締結を見ると、満州北間島に亡命して他の独立運動勢力と連係し、4年後遼河に移って独立運動を謀議した。1915年遼東饒河県に移り、ウラジオストクと往来しながら独立運動を試み、遼河周辺の農地を開墾して朝鮮人村の新興村を建設した。1917年吉林省동화(同化)県に光東中学校を建てて朝鮮人教育に尽くし、独立精神を吹聴した。 その後光東中学校と新興村を他の朝鮮人に譲り、朝鮮に潜入する。1919年3・1運動が起きると、加入していたウラジオストク新韓村老人団の吉林省支部長となり、朝鮮総督暗殺を決意した。同年ロシア人から手榴弾を購入し、許蘅と共に元山府を経て京城府に潜入した。1919年9月2日長谷川好道の後任に斎藤実が朝鮮総督に任命されたことを知り、斎藤の来朝当日に南大門駅で斎藤総督を暗殺するために爆弾を投げた。しかし斎藤は殆ど被害をこうむらず、爆発によって護衛の日本人警察をはじめとする死傷者37人を出した。姜は現場から逃走し呉泰泳の紹介で張翊奎・林昇華などの家に隠れたが、高等係刑事の金泰錫によって逮捕され9月17日に収監された。裁判の後、1920年11月29日西大門刑務所で絞首刑が執行された。.

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孔聖学

1946年写真 孔 聖学(こう せいがく、공 성학、コン・ソンハク、1879年 - 1957年)は、李氏朝鮮の儒者・性理学者・教育者、大韓帝国の官僚、日本統治時代の企業人、商人、教育者で大韓民国の企業人、教育者。 本貫は曲阜孔氏で、号は春圃。.

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尹ボ善

尹 善(ユン・ボソン、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏。号は海葦(해위 ヘウィ)。尹致昊・尹致旺の従甥、尹致暎の甥。尹致昭(尹致暎の異母兄)の長男。 忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。4.19革命で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。 大統領辞任後は野党の指導者として2度朴正煕に挑戦するなどし、軍事政権への抵抗と民主化運動に取り組んだ。.

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尹致暎

尹 致暎(ユン・チヨン、윤 치영、1898年2月10日 - 1996年2月9日)は、大韓民国の政治家、外交官。韓国の初代内務部長官、フィリピン総領事、第2代駐フランス韓国公使、13代ソウル特別市長を務めた。 韓国初代大統領李承晩の最側近と朴正煕の側近であった。第4代大統領潽善の父・致昭は次兄で潽善の叔父であるが、年齢は1歳年下である。尹致昊は従兄にあたる。号は東山(동산)、字は自能(자능)。日本名は伊東致暎。.

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尹致旺

尹 致旺(ユン・チワン、윤치왕、1895年2月17日 - 1982年12月21日)は、韓国の産婦人科医師、軍医である。朝鮮戦争時、彼は軍医官として在職し軍医官を教育、育成した。尹雄烈の庶子であり独立運動化・政治家である尹致昊の異母弟。字は聖雲、号は南圃。日本名は伊東致旺。.

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尹英烈

尹 英烈(いん えいれつ、ユン・ヨンリョル、1854年4月15日 - 1939年11月8日)は、朝鮮・大韓帝国の軍人、政治家。字は白熊、号は蓮亀(蓮龜)、敬齎。 大韓民国4代大統領尹潽善の祖父。初代内務部長官、ソウル特別市長尹致暎の父親。朝鮮・大韓帝国の政治家・啓蒙家尹致昊の叔父。.

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尹雄烈

尹 雄烈(いん ゆうれつ、1840年5月18日 - 1911年9月22日)は、李氏朝鮮末期から大韓帝国期の軍人、政治家。尹致昊の父親。 開化派に属して甲申政変と春生門事件に加わった。.

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尹永善

尹 永善(ユン・ヨンソン、朝鮮語:윤영선、1896年12月25日 - 1988年2月6日)は、日本統治時代の朝鮮の牧畜業、実業家、大韓民国の実業家、政治家である。号は梧堂。尹致昊の長子長男であり、尹潽善の従兄である。 1946年に高麗製薬の副社長に就いた。李承晩政権の下、1950年1月に韓国政府の第3代農林部長官に就任したが、同年11月に同職を退き、1952年まで無任所長官を務めた。1953年から高麗製薬の代表理事、社長を務めた。また、1952年から1982年まで松都学園の理事長を務めた。.

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徐載弼

徐 載弼(ソ・ジェピル(朝鮮語:서재필)、じょ さいひつ、英語名:Philip Jaisohn(フィリップ・ジェイソン)、1864年1月7日 - 1951年1月5日)は、朝鮮の革命家。「韓国のヴォルテール」と呼ばれる。號は松齋、雙慶、筆名はOsia。.

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在日韓国・朝鮮人

1958年末における在日朝鮮人の来歴 在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍外国人のこと。特別永住者のみを指したり、韓国・朝鮮系日本人(帰化者や国籍取得者、先祖が韓国・朝鮮籍であるが日本国籍で生誕)も含めたりと、その定義が変わることもあるが、本項目では政府公式の統計情報として記録されている日本に在留する韓国・朝鮮籍の者と定義して記述する。また、この記事では日韓併合(1910年)から大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国建国(1948年)までの間の事象についても在日韓国・朝鮮人の語を用いるが、当時の正式名称は朝鮮人である。北朝鮮住民から「ジェッキ」又は蔑称として「チェポ」と呼ばれていた。北朝鮮では帰国しても配偶者として行った日本人の少し上程度の最下層として扱われ、豊かに帰国した一家は資産を取り上げられ、日本に残った家族からの送金による資金源や日本からの科学技術獲得に貢献しない帰国者・子孫は処刑や約10万人が政治犯として収容所送りにされた。北朝鮮政府から北朝鮮に帰国した人の家族を利用して、一部が日本国内でスパイ活動の強要を受けている。.

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玉観彬

玉 観彬(オク・クァンビン、、? - 1933年8月1日)は、朝鮮の指導者・教育家、韓国の独立運動家、政治家、商人であった。 新民会と105人事件で投獄された後解放された、1919年大韓民国臨時政府に参加したが脱退した。興士團員の他の朝鮮人独立運動者李某の婦人と長期の奸通した金學俊、《혁명가들의 항일 회상》 (民音社、2005)pp.

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第一次日韓協約

一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。協約締結に際しての日本側代表は日本政府特命全権公使の林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊であった。.

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羅ケイ錫

羅 蕙錫(ら けいしゃく、ナ・ヘソク、朝鮮語:나혜석、1896年4月18日 - 1948年12月10日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の洋画家、独立運動家、作家、詩人、ジャーナリスト。本貫は羅州羅氏。女子美術大学の留学生。韓国最初の女性画家で女性解放論者であり、女性解放のための運動はもちろん、独立運動にも参加していた。初名は児只、字は明順、号は晶月。.

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甲申政変

申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。.

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申采浩

申采浩(しんさいこう、シン・チェホ、신채호、1880年 - 1936年)は、朝鮮の独立運動家、ジャーナリスト、歴史家。朝鮮民族主義歴史学を提唱し、抗日暴力革命思想を啓蒙した。号は丹斎。忠清南道生まれ。.

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独立協会

立協会(どくりつきょうかい)は、1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。甲申政変に参加した徐載弼が李完用とともに創設し、朝鮮における立憲君主制導入を目指した。ロシア公使アレクセイ・シュペイエルは、アメリカの宣教師が独立協会の活動を支援していたと主張している George McAfee McCune 1989。 当時、李氏朝鮮は清の従属国から解放されたものの、李氏朝鮮に対するロシアの支配力が強くなった。このような背景の中、国の自主独立を願う徐載弼が、李氏朝鮮がロシアの保護国化・植民地化を危惧し、開化思想を民衆に啓蒙するために、1896年に独立協会を設立。同年4月より独立新聞を発行し、協会の主張を啓蒙している。独立協会が刺激となり、仁州の博文協会、賛襄会、保民協会、皇国中央総商会などが誕生した。 独立協会は、李氏朝鮮の国内勢力と対抗しロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言。後に、高宗は王宮に戻り、高宗は朝鮮初の皇帝に即位し(別名:光武皇帝)、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。 また独立協会は、日本と清との日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で清に朝鮮の独立を認めさせた後、それを祝い、開化思想を啓蒙する一環として、1897年、独立門を建設した。 1897年8月からは、公開討論会(万民共同会)を毎週開いている。この議会では政府のロシアに対する屈辱的な外交が非難され、国家の改革が必要であると議論された。こうした議論の中で、近代の民主主義思想が育まれ、活発な民主主義運動が展開された。当時の討論会には、李完用、李采淵、李承晩なども参加している。 大韓帝国成立の後に設立された議会では、独立協会から多くの議員を出し、朴定陽内閣を成立させるが、保守勢力と高宗(光武皇帝)は絶対王政を維持しようと朴定陽内閣を退陣させ、超秉式内閣を組閣させ復古主義的政策をとった。立憲君主制を願う独立協会は国内の保守勢力である皇国協会に「独立協会は王政を廃止し朴定陽を大統領とする共和制に移行させようとしている」との噂をでっち上げられて弾圧され、1898年11月25日に政府が解散を命令、1898年12月25日に皇帝勅令によって強制解散となる。以後、活動は一進会などに引き継がれた。 歴代の会長は安駉寿、李完用、尹致昊。.

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独立新聞

『独立新聞』(독립신문)は、1896年に朝鮮国(李朝)で創刊された新聞。漢文を用いずハングルのみ(ただし創刊時は英文記事も併せて掲載された)で書かれた初の新聞であった 。 ヨコ 22cm×タテ33cmのタブロイド判サイズの4面構成で、1~3面まではハングルで4面は英語で書かれていた Yahoo!Korea 百科事典。 内容は1面には主に論説、2面には官報・外国通信・雑報、3面には物価・郵逓時間割り・広告などを載せた。4面《The Independent》は社説やローカル記事・官報などを英語で掲載した。 徐載弼と開化派の尽力で創刊され、独立協会の機関誌としての役割を果たし、彼らが目指していた国政改革(立憲君主政への移行など)、教育の振興、工業育成、愛国心養成などの重要性を訴えた。徐がアメリカ合衆国に逃れたのちは、尹致昊が主筆を受け継いだ。1899年に廃刊。 日韓併合後に上海で大韓民国臨時政府が機関紙として発行していた同名の「独立新聞」もあり、注意が必要である。.

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親族関係にある政治家一覧

親族関係にある政治家一覧(しんぞくかんけいにあるせいじかいちらん)を以下に示す。前職・元職も含めて政治家とみなされる公職、地位にある人物で、互いに親族関係にある人物を挙げる。 この一覧では、曽祖父・曽祖母→祖父・祖母(大おじ・大おば)→父・母(おじ・おば)→本人(兄弟姉妹)→息子・娘(甥・姪)→孫息子・孫娘(大甥・大姪)→曽孫、の古い順に掲載する。.

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魯会燦

魯 会燦(ノ・フェチャン、1956年8月31日-)は、大韓民国の政治家である。第17代・19代国会議員。進歩新党代表(2009年3月~2010年10月)。統合進歩党共同スポークスマン(2011年12月~2012年5月)。進歩正義党準備委員会共同委員長(2012年10月7日~20日)。正義党共同代表(2012年10月21日~2013年7月20日)。現在、正義党院内代表(2016年5月30日~)を務めている。.

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貴族院 (日本)

貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下の日本における帝国議会の上院である。1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで存在した。貴院と略称された。衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた『事典 昭和戦前期の日本』 37頁。。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期であった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた。.

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興亜報国団

興亜報国団は 日本統治時代の朝鮮で組職された団体である。準備委員会段階で解体されたので興亜報国団準備委員会とも言う。 1941年8月に日中戦争時局に対する協助のために組職された。尹致昊が主導して準備委員会を結成した。目的は戦時体制の皇国精神高揚と時局認識宣伝だった。 準備委員会結成の席で高元勲(고원훈)が「出戦将兵の労苦に感謝する」と言う内容の講演をするなど活動する中で、1941年8月に同じような性格の団体である臨戦対策協議会と統合して朝鮮臨戦報国団を結成することで解体された。 興亜報国団の綱領は次の通り。.

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臨戦対策協議会

臨戦対策協議会は 日本統治時代の朝鮮で組職された団体である。 1941年8月に日中戦争時局に対する協助のために「三千里」社長である金東煥(김동환)が中心になって組織した.

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金奎植

金 奎植(キム・ギュシク、 1881年1月29日 - 1950年12月10日)は、大韓民国の政治家、教育者、独立運動家。1919年4月に大韓民国臨時政府の外務総長、8月に欧米委員部委員長、1921年に学務部大臣、1933年に学務大臣、1934年に国務委員を歴任。 1940年10月 - 1947年3月3日 大韓民国臨時政府の副大通領歷, 号は尤史(ウサ/우사)·竹笛(チュクチョク /죽적)が最もよく知られている。キリスト教徒で、教名はヨハン(요한/Johann)。.

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金九

金 九(日本語読み: きん きゅう、朝鮮語読み: キム・グ、김구、1876年8月29日 - 1949年6月26日)は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。 本名は金昌洙(김창수、キム・チャンス)、改名して金亀のちに金九(김구、キム・グ)、幼名は昌巖(창암、チャンアム)、字(あざな)は蓮上(연상、ヨンサン)、号は蓮下(연하、ヨンハまたはヨナ)のちに白凡(백범、ペクポム)、法名は円宗(원종、ウォンジョン)、還俗して斗来(두래、トゥレ)。本貫は、安東金氏。洗礼名ペトロを持つカトリック教徒でもある。 1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して1949年6月26日に暗殺された。 ハンファグループから離脱した金昊淵ピングレ会長は孫の夫であり、金丸財団を設立してハーバード大学に金九フォーラムを開設したり、ブラウン大学に金九図書館を設置するなど、各種奨学・学術支援事業などを行っている。.

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金性洙

金 性洙(キム・ソンス、김성수、 光緒17年9月9日(1891年10月11日) - 1955年2月18日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、独立運動家。大韓民国の政治家、教育者、言論人。『東亜日報』や高麗大学校、韓国民主党などの設立者としても知られる。朝鮮独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして『東亜日報』を、人材の育成を目的に中央高等学校と高麗大学校を設立した。実業家としても、京城紡織を中心に綿紡績・ナイロン生産に従事し、朝鮮内のみならず満州にまで事業範囲を伸ばしたが、このことにより、韓国では、2002年に発表された親日派708人名簿に登録され、2005年には民族問題研究所による親日派リストに含まれた。1951年5月 - 1952年8月 第2任大韓民国の副統領。字は判錫(パンソク、판석)、号は「仁村」(インチョン、인촌)。.

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林蚩正

林 蚩正(イム・チジョン、임치정、1880年9月26日 - 1932年1月9日)は韓国の独立運動家、号は春谷・平安南道竜岡出身の吏曹判書林国老の息子。.

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李商在

李商在(イ・サンジェ、1850年10月26日 - 1927年3月29日)は大韓帝国の政治家で開化派運動家、日本統治時代の朝鮮の教育者・青年運動家、独立運動家であり政治家、言論人。忠清南道舒川郡出身で、高麗の学者李穡の子孫。字は季皓、雅号は月南。本貫は韓山李氏。 落第した後朴定陽の秘書として1881年に日本を視察、開化思想に接した。帰国後、開化派の官僚として活動したが甲申政変に関わって官職を辞退し、政治的指導者だった朴定陽の没落後は故郷で隠遁した。その後、米国公使館2等書記官として赴任し、朝鮮を属国として外交に介入した清国使節を退けて直接外交の道を開いた。帰国以後独立協会、万民共同会で民衆啓蒙運動をした。 しかし1899年11月独立協会、万民共同会は強制解散させられ、1902年改革党事件に関わって投獄され、韓国併合以後には官職を辞退した。1905年以後には尹致昊とともにYMCAを指導し、1919年の三・一運動には参加を拒否したが関連人物に指定されて連行された。以後教育と青年の啓蒙、覚醒を力説するなど1920年代中盤の朝鮮日報社長や新幹会で活動した。個人的な財産欲はなく、貸し部屋を転々とした。後日大韓民国の大統領を歴任した李承晩の政治的指導者の一人だった。.

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李種一

李 種一(イ・ジョンイル、이종일、1858年旧暦11月6日(陽暦12月10日) - 1925年陽暦8月31日)は李氏朝鮮末期の文臣、改革活動家、韓国の言論人・独立運動家、国文学者。雅名は沃波、天道教道号は黙庵。天然子という筆名も使った。.

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李承晩

李 承晩(り・しょうばん、イ・スンマン 1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「リ・スンマン」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音ㄹの脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만(リ・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。.

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梁槿煥

梁槿煥(양근환、ヤン・クンフアン、1894年5月9日 - 1950年9月)は日本統治時代の朝鮮の独立運動家・大韓民国の政治家。梁泰煥・梁三成という名前も使った。 日本名は石井勝三郎。.

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朝鮮貴族

朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)は、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分。1910年(明治44年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。.

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朝鮮臨戦報国団

朝鮮臨戦報国団は日本統治時代の朝鮮で1941年9月に太平洋戦争支援のために多くの団体を統合して組職された連合団体である。10月21日に結成式をあげた。略して臨報団、報国団とも呼んだ。 崔麟、金東煥(김동환)が主導した臨戦対策協議会と尹致昊系列の興亜報国団が統合して結成された。設立目標は皇道精神の宣揚と戦時体制下での国民生活刷新を推進する事だった。 設立趣旨文によれば、半島民衆は特別志願兵の外に兵役に服務する名誉を持つことができないので、無限な皇恩に万分の一でも報いるために、国民運動の力強い一つの機関としての団体を設立する、と言いながら2千4百万朝鮮民衆に愛国の至情を訴えている。団体の綱領には次の五つを掲げた。.

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朴重陽

朴 重陽(ぼく じゅうよう、パク・ジュンヤン、朝鮮語:박중양、1874年/1872年-1955年/1959年)は、大韓帝国と日本統治時代の官僚であり、政治家、思想家である。 勅選貴族院議員の一人。 日本統治時代の信念型親日派の一人である。 1905年日露戦争に日本軍の通訳として参戦。日本留学中伊藤博文の門下生だった。日本名の山本信·朴忠重陽。 字源根、號海岳。.

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新民会 (1907年)

新民会(しんみんかい、신민회)は、1907年にアメリカから帰国した独立運動家の安昌浩(アン・チャンホ)を中心に組織された大韓帝国の政治結社である。国権回復を第一の目的とし、教育運動、啓発講演、出版運動、産業振興運動、青年運動、独立軍基地創建運動を展開したが、1911年に壊滅を狙った朝鮮総督府により、のちに105人事件と呼ばれる大規模な弾圧事件が起き、関係者数百名が検挙されて事実上解体した。日本によるプロパガンダや秘密結社という性質もあり、会員や事業など組織の実態は解明されていない。.

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愛国歌 (大韓民国)

愛国歌」(あいこくか、애국가/愛國歌、Aegukga, エーグッカ)は大韓民国(韓国)の国歌である。ただし法律上の定めはない。.

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慶應義塾大学の人物一覧

慶應義塾大学の人物一覧(けいおうぎじゅくだいがくのじんぶついちらん)は、慶應義塾大学に関係する人物の一覧記事。 ※数多くの卒業生・関係者が存在するためウィキペディア日本語版内に既に記事が存在する人物のみを記載する(創立者・役員・名誉教授・公職者等は除く)。.

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105人事件

105人事件(百五人事件)とは、寺内正毅朝鮮総督暗殺計画に関わったとして、1911年に朝鮮の独立運動家約700人が検挙、翌年105人が一審有罪となった事件である。判決材料の多くが拷問による虚偽の自白であったため、控訴審では99人が無罪となった。発生当初は抗日秘密結社新民会の壊滅を狙った内政問題であったが、容疑者にキリスト教徒が多く含まれていたため米国人宣教師などから批判が高まり、日米問題にまで発展した。「寺内朝鮮総督暗殺未遂事件(-謀殺未遂事件、-暗殺陰謀事件)」「宣川事件」「新民会事件」など様々な名称がある。.

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12月9日

12月9日(じゅうにがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から343日目(閏年では344日目)にあたり、年末まであと22日ある。.

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