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南コーカサス

索引 南コーカサス

南コーカサス(みなみコーカサス)あるいはザカフカジエ(ロシア語:,ラテン文字転写例: Zakavkazʹe)は、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア(グルジア)の3国の総称。ロシア語としては不正確だがザカフカス、ザカフカース、南カフカスとも。また英語ではトランスコーカシア ()またはトランスコーカサス()。 ザカフカジエ、トランスコーカシア(トランスコーカサス)との呼称は、それぞれロシア語・ラテン語で「コーカサス山脈の向こう側」という意味であり、北のロシア側から見た呼称であるため、「向こう側」とは「南側」を意味する。この呼称はモスクワ中心の考えであることから、近年、日本の文献では避けられる傾向がある。なお、厳密にはロシアのソチ周辺は南側、アゼルバイジャンのダヴァヒ県・クバ県・クサル県・シヤザン県・ハヒマズ県・ヒジ県は北側に位置する。 北はロシア、南はトルコとイラン、西は黒海、東はカスピ海に囲まれる。ヨーロッパではなくアジアに属するが、長くソビエト連邦領だったこともあり、西アジアや中東には含めないことが多い。 コーカサスはコーカサス山脈周辺の地域をさすが、その南部を占める。しばしば、ザカフカジエとの呼称で単にカフカース、コーカサスを指すこともあるが、文脈によって(特にロシアに関する話題で)は北コーカサスを意味することも多いので注意を要する。.

164 関係: 南オセチア山岳アルメニア共和国三国北コーカサス北西アジア北西コーカサス語族北東コーカサス語族ナブッコ・パイプラインナゴルノ・カラバフ自治州ナゴルノ・カラバフ戦争ミングレル人ミンスクマミヤ・オラヘラシュヴィリノヴィ・アフォン洞窟ノエ・ジョルダニアチェチェンの歴史ハチャプリバック・イン・ザ・U.S.S.R.バクーバクー地下鉄バクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインバクー=トビリシ=カルス鉄道ポチポーチメフメト・エミーン・ラスールザーデモンゴルのグルジア侵攻モンゴル帝国ヤマゲラユーリー・フィガトネルヨーロッパの主権国家及び属領の一覧ヨーロッパグランプリラリラヴレンチー・ベリヤラズ人リオニ川リス属ルサ1世ルサ2世レヴァン・ゴゴベリゼレオニード・ブレジネフロシア帝国の歴史ロシア帝国下のグルジアロシア・ペルシャ戦争 (1722年-1723年)ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年)ロシア関係記事の一覧ボリス・フェドチェンコトルクメニスタンの鉄道トルストイ運動トビリシ地下鉄ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー...ブドゥ・ムディヴァニブカレスト条約 (1812年)ヒガラピエロギツラニズムフィリップ・マハラゼフセヴォロド・メルクーロフドゥホボール派ドゥシャンベニコラーイ・ブリャークニコライ・チヘイゼニコライ・クルイロフホシムクドリダダシュ・ブニアザーデダゲスタン共和国アラム・ピルジャンアラス共和国アルメニアアルメニアの歴史アルメニア・ソビエト社会主義共和国アルメニア関係記事の一覧アルツァフ共和国アルギシュティ1世アルギシュティ2世アレクサンドル・ベグザジャンアレクサンドル・ゴルチャコフアンドラニク・オザニアンアンドレイ・ベケトフアブハジアの行政区画アブハズ人アフメト・イッゼト・パシャアニ (トルコ)アカゲラアジャリア自治共和国アジアの地理アゼルバイジャンアゼルバイジャン関係記事の一覧イランの国際関係イラクリー・ツェレテリイベリア王国イエスズメウラジーミル・ジリノフスキーウラジカフカスオリンピックのジョージア選手団オトロク (ポロヴェツ族)オオアカゲラオタテヤブコマドリカルトヴェリ人カルトヴェリ語族カルス (都市)ガリ (アブハジア)ガザンファル・ムサベコフギリシャとトルコの住民交換クリミア戦争グルジノ・イメレチア県グルジアのイスラム教グルジアの歴史グルジア人グルジアワイングルジア語グルジア軍グルジア民主共和国グルジア文字グルジア料理ゲヴォルク・アリハニャンコーカサスコーカサス山脈ゴリ (シダ・カルトリ州)ゴレスターン条約ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国ザカフカース民主連邦共和国ザクロシノープの海戦シアマントジョージア (国)ジョージアとロシアの関係ジョージアにおけるサッカージョージアの国名ジョージアの旗ジョージア州ジョージアサッカー連盟ジョージア国のスポーツジョージア国の経済ジョージア国の行政区画ジョージア国内オリンピック委員会ジョージア国関係記事の一覧ジョージア技術大学ジョージア時間ジワリ修道院ジプシースペツナズスレン・オセピャンスヴォボードナヤ・グルジアスブタイセルゲイ・キーロフソロモン・モギレフスキーサメド・アガ・アガマリ・オグルィサルドゥリ2世全ロシア・ムスリム大会第106親衛空挺師団 (ロシア空挺軍)統葉護可汗独立主張のある地域一覧聖ゲオルギウス十字西南アジア近東Mk.VIIテトラーク軽戦車NIS諸国Su-25 (航空機)東部国内軍管区欧州近隣政策欧州連合の拡大民族問題人民委員部我が心のジョージア26人のバクー・コミッサール インデックスを展開 (114 もっと) »

南オセチア

南オセチア/ツヒンバリ地域(みなみオセチア、)は、南コーカサスのジョージア(グルジア)北部に位置するオセット人の居住地域。南オセチア共和国(みなみオセチアきょうわこく)として事実上独立している。.

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山岳アルメニア共和国

山岳アルメニア共和国(さんがくアルメニアきょうわこく、Լեռնահայաստանի Հանրապետութիւն、またはシュニク共和国(Սյունիքի Հանրապետություն))は、1921年に南コーカサスに存在した短命の国家である。.

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三国

三国(さんごく・みくに)は、3つの国(国家、令制国)のこと。国家の場合「さんごく」、令制国の場合「みくに」と読むことが多い。 日本では、「三国一」などと言った場合の三国は、唐土(中国)・天竺(印度)・本朝(日本/倭国)のことから転じて全世界の意味である。 主に「3つの令制国」の意味から、日本の地名・人名にも使われる。この場合「みくに」と読むことが多い。人名は三國とも書かれる。.

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北コーカサス

北コーカサスの行政区分 北コーカサス(北カフカース、北カフカス、、、オセット語:, チェチェン語: 、カラチャイ・バルカル語: )は、コーカサス地方のうちコーカサス山脈(大コーカサス山脈)よりも北に広がる部分。黒海とカスピ海に挟まれた山がちな地方であり、地理的にはヨーロッパに属している。.

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北西アジア

北西アジア(ほくせいアジア)は、アジアの北西部。 明確な定義はないが、ヨーロッパに隣接する、西シベリアやカザフスタン西部を表すことが多い。ザカフカス(ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン)やアナトリア(トルコ)を表すこともある。 ただし、日本の通商産業省に存在した北西アジア課は、これらの地域とは異なり、インド、スリランカ、中華人民共和国、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、モルディブ、モンゴル、朝鮮、香港、マカオを管轄としていた。 ほくせいあしあ.

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北西コーカサス語族

北西コーカサス語族(またはアブハズ・アディゲ語族)は、北コーカサス西部で話されているアディゲ語、アバザ語、カバルド語、ジョージア国内のアブハジア自治共和国で話されているアブハズ語、すでに死滅したウビフ語の5つの言語から成る。チェチェン語やアヴァル語などを含む北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族)との系統関係が有力視されている。 3つの下位グループに分けられる。.

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北東コーカサス語族

北東コーカサス語族(または、ナフ・ダゲスタン語族)は、言語分類の一つである。ロシアのダゲスタン共和国、チェチェン共和国、イングーシ共和国、およびアゼルバイジャン北部、ジョージア北東部で話される言語からなる語族である。話者は、ロシア、トルコ、中東の各地にも離散している。フルリ・ウラルトゥ語族と近縁と考えられており、また北西コーカサス語族(アブハズ・アディゲ語族)との系統関係が有力視されている。.

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ナブッコ・パイプライン

ナブッコ・パイプライン(Nabucco pipeline、別名:トルコ・オーストリア・ガス・パイプライン)は、カスピ海地域の天然ガスをトルコを起点としてヨーロッパへ輸送するパイプライン計画。年間310億 m3の天然ガスを、トルコのエルズルムからオーストリアのバウムガルテン・アン・デア・マルヒまでのルートで輸送する計画であり、ガスの供給元及びルートからもロシアが外されているが、これは欧州のエネルギー安全保障の観点からロシアのエネルギーへの過度の依存を避けるためであり、ロシアが主導する露ガスプロム社と伊Eni社のサウス・ストリームパイプライン計画のライバルプロジェクトと目されている。一方で、2010年時点で可能性のある供給元として、イラク、アゼルバイジャン、トルクメニスタンの他エジプトなどが候補に挙げられているものの十分な供給量をまかなえず、ガス供給源の確保が大きな課題になっている。 ナブッコ・パイプラインの建設計画は2002年に始まり、2009年7月13日には、トルコ、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、オーストリアの5カ国間で合意書に署名がなされた。この5カ国にドイツを加えた6カ国のコンソーシアム(共同事業体)である「ナブッコ・ガス・パイプライン・インターナショナル GmbH」が開発事業者である。 2013年のパイプライン建設着工、2017年の完成が計画されているが、2011年9月にBPがルートが似通った「南東欧州パイプライン」を提案するなど、ナブッコ・パイプライン建設が予定通り実現するかは不透明な状況である。.

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ナゴルノ・カラバフ自治州

ナゴルノ・カラバフ自治州(ナゴルノ・カラバフじちしゅう、Нагорно-Карабахская автономная область, Լեռնային Ղարաբաղի ինքնավար մարզ, Дағлыг Гарабағ Мухтар Вилајәти)は、ソビエト連邦内アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国のナゴルノ・カラバフに、1923年から1991年まで設置されていた、アルメニア人のための民族自治州である。 古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人の間で係争地となっていたナゴルノ・カラバフは、1920年代初頭にその一帯が共産化してからも、ボリシェヴィキの間で帰属先についての見解は分かれていた。やがて曲折の末にナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンへ帰属することとなり、それと引き換えに住人の大多数であるアルメニア人には自治権が与えられることとなった。こうして1923年にナゴルノ・カラバフ自治州は成立したが、その実態をめぐっては両民族の間でなおも論争がある。 やがて1980年代末のペレストロイカ時代になると、棚上げされていた帰属問題が再燃し、アルメニア人は自治州とアルメニアとの統合を求めて活動を開始した。しかし、これに反発するアゼルバイジャン人との衝突は遂に多数の死者を出すまでに発展し、ナゴルノ・カラバフ戦争へとつながっていった。そして、ソ連崩壊に際して自治州のアルメニア人は「ナゴルノ・カラバフ共和国」を自称し、アゼルバイジャンから事実上独立するに至った。.

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ナゴルノ・カラバフ戦争

ナゴルノ・カラバフ戦争(ナゴルノ・カラバフせんそう)は、アルメニアとアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州を巡る争い。ナゴルノ・カラバフ紛争と呼ばれることもある。戦争は泥沼化し、現在は事実上アルメニア人の占領下にある。.

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ミングレル人

ミングレル人(19世紀) ミングレル人(ミングレルじん、英:Mingrelians)は、南コーカサスにあるジョージア国(グルジア)のサメグレロ(ミングレリア)地方に住む少数民族である。同国の多数民族であるカルトヴェリ人の支族に分類されることが多い。 サメグレロ地方以外では、アブハジアとトビリシに居住している。およそ18万人から20万人のミングレル人が1990年代初期に発生したアブハジア紛争とそれに続いたアブハジアからカルトヴェリ人とその支族を駆逐する民族浄化の結果、アブハジアから追い出された。ほとんどのミングレル人はミングレル語とグルジア語の両方を話すが、ミングレル語はアブハズ語で使用されるキリル文字ではなくグルジア文字で表記される。.

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ミンスク

ミンスク( ミーンスク、)は、ベラルーシ共和国の首都である。国の中央部に位置し、人口は約190万人で、人口減少が進むベラルーシで稀な人口増加都市でもある。独立国家共同体 (CIS) の本部が置かれている。ベレジナ川の支流シヴィスワチ川とニアミハ川の河畔に広がる。 市街は9つの地区に分かれている。特にトラクターなど自動車工業が盛ん。 ミンスクの名は、古東スラブ語で「川」を意味するMēnŭに由来するとする説や、商業都市としての歴史を反映し「交換取引」を意味するмена(miena)が語源とする説などがある。.

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マミヤ・オラヘラシュヴィリ

マミヤ・ドミトリエヴィチ(ディミトリス・ゼ)・オラヘラシュヴィリ(Мамия Дмитриевич Орахелашвили、მამია დიმიტრის ძე ორახელაშვილი、1881年6月10日 - 1937年12月11日)は、グルジア人のボリシェヴィキ革命家・政治家。名はイヴァン (Иван)、イヴァネ (ივანე) とも。.

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ノヴィ・アフォン洞窟

ノヴィ・アフォン洞窟(New Athos Cave; Афон Ҿыцтәи аҳаҧы; ახალი ათონის მღვიმე; Новоафонская Пещера) は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)国内にあるアブハジア共和国実効支配地域のイベリアン山麓の町、ノヴィ・アフォンの近くにある鍾乳洞である。約1,000,000 m3の空間を有し、世界最大級の洞窟の一つである。.

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ノエ・ジョルダニア

ノエ・ニコロジス・ジョルダニア(ნოე ნიკოლოზის ჟორდანია、1868年1月14日〈ユリウス暦1月2日〉または1869年3月21日〈ユリウス暦3月9日〉 - 1953年1月11日)は、メンシェヴィキ出身のグルジアの政治家である。帝政ロシア下でグルジア最初のマルクス主義団体を組織し、1918年にグルジア民主共和国が独立した際は第2代首相を務めた。1921年にソビエト・ロシアの赤軍がするとフランスへ逃れたが、その後もを率いた。.

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チェチェンの歴史

チェチェンの歴史では、チェチェン共和国の歴史を詳述する。 現在のチェチェン共和国の主要な住民はチェチェン人で、隣接するイングーシ共和国のイングーシ人と非常に近しい関係にある。チェチェン人、イングーシ人は古来北カフカスの山地に住み、両民族の言語(チェチェン語、イングーシ語)は、グルジア語などと同じコーカサス諸語のうちのに属する兄弟言語である。そもそもチェチェン、イングーシの民族名は、それぞれの居住地域にあった村の名前から起こった他称なので、もともと両民族は同一であったとみなす人も多い。.

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ハチャプリ

ハチャプリ(ხაჭაპური Khachapuri)は、南コーカサスにあるジョージア国(グルジア)に伝わるグルジア料理のチーズ入りパンである。パンは発酵後にさまざまな形に成形される。フィリングにはチーズや卵などの材料が使われる。チーズにはフレッシュチーズも発酵チーズもともに使われるが、最も一般的なのはと呼ばれるチーズである。 ハチャプリには、ジョージア国の地方によって次のような種類に区分される。.

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バック・イン・ザ・U.S.S.R.

バック・イン・ザ・U.S.S.R.」 (Back in the U.S.S.R.) は、1968年に発表されたビートルズのアルバム『ザ・ビートルズ』(通称、『ホワイト・アルバム』)の収録曲である。同アルバムのオープニング曲。.

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バクー

'''カスピ海''' バクーはカスピ海西岸のほぼ中央部に位置する バクー(Baku)は、アゼルバイジャン共和国の首都。カスピ海西岸に突き出したアブシェロン半島南岸に位置し、市街はバクー湾に面するように広がった港町である。行政的には11の行政区、48の町区に分割されており、2005年時点の総人口は2,045,815人。アゼルバイジャン最大の都市であると同時に、南カフカース地域でも有数の大都市である。大規模な油田(バクー油田)をもち、帝政ロシア時代から石油の生産地として発展してきた。 日本語名のバクーはキリル文字綴りによるロシア語綴り・アゼルバイジャン語(アゼリー語)旧綴り Баку (Baku) に基づくが、アゼルバイジャン語の発音では母音の前で子音 k が軟音化するためカタカナ表記するならば「バキュ」に近く、現在アゼルバイジャンで使われているアゼルバイジャン語のラテン文字正書法では Bakı と綴る。バクーという名前の由来には諸説あるが、最も一般的なものは、ペルシャ語で「風が吹きつけた」という意味の "bād-kūbe"(バード・クーベ)から来ているとする説が一般的である。 気候は晴天が多く、乾燥している。寒気と暖気がぶつかることで起きる強風が時折吹き付け、先述した語源の根拠となっている。海岸は美しく、市街近郊には温泉や鉱泉がある。 市街の中心はその南西部にあり、イチェリ・シェヘル (İçəri Şəhər) すなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれる。その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっている。近年は豊富なオイルマネーをもとに近未来的な巨大建築物が出現し、「第二のドバイ」「第二のシンガポール」とも呼ばれている。.

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バクー地下鉄

バクー地下鉄(バクーちかてつ、)は、アゼルバイジャンの首都バクーで運行されている地下鉄である。ソビエト連邦時代の1967年に開業し、中心部で非常に深い位置に駅が設置されていることや、アゼルバイジャンの国民的モチーフとソ連のイデオロギーの混ざった宮殿のように豪華な装飾がされていることなど、旧ソ連圏の地下鉄の多くに共通する特徴を持っている。2014年現在36.7 kmの複線の路線網を持ち、全部で25駅ある。.

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バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン

バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)は、カスピ海の(ACG油田、:en:Chirag oil field: Early Oil Projectを含む)から地中海までを結ぶ全長1,768キロメートルの原油パイプライン。アゼルバイジャンの首都バクーから発し、グルジアの首都トビリシを通り、トルコの地中海沿岸南東部に位置する港ジェイハンへ抜ける。これはドルジバパイプラインに次いで世界第2位の規模の石油パイプラインである。.

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バクー=トビリシ=カルス鉄道

バクー=トビリシ=カルス鉄道(Железная дорога Баку — Тбилиси — Карс、Bakı-Tbilisi-Qars dəmiryolu xətti、ბაქო-თბილისი-ყარსის რკინიგზა、Bakü-Tiflis-Kars demiryolu hattı、Baku–Tbilisi–Kars: BTK または Baku-Tbilisi-Akhalkalaki-Kars railway: BTAK)は、アゼルバイジャン、ジョージア、トルコの3カ国を通る鉄道路線(国際列車)。2017年10月30日に開業した。総延長距離は826kmであり、既存路線に加えて105kmの新線が建設された。.

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ポチ

ポチ.

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ポーチ

ポーチ.

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メフメト・エミーン・ラスールザーデ

メフメト(マンメト)・エミーン・ラスールザーデ(Məhəmməd (Məmməd) Əmin Rəsulzadə、1884年1月31日 - 1955年3月6日)は、アゼルバイジャン民主共和国の政治家。.

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モンゴルのグルジア侵攻

モンゴルのグルジア侵攻、すなわちモンゴルによるグルジア王国の征服(Mongol conquests of Kingdom of Georgia、მონღოლთა ბატონობა საქართველოში)は、当時グルジア人自身によって統治されていたグルジア王国、アルメニア(Zakarid Armenia)、そしてコーカサスの諸地域が13世紀を通じてモンゴル人の勢力によって数度にわたって侵略され、大規模な襲撃をうけた歴史事象を意味する。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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ヤマゲラ

ヤマゲラ(山啄木鳥、山緑啄木鳥、Picus canus)は、鳥綱キツツキ目キツツキ科に分類される中形のキツツキ(啄木鳥)である。ユーラシアの旧北区から東洋区にかけて、亜寒帯から温帯域に広く分布しているが、日本には北海道にのみ生息する。 本州以南には同じアオゲラ属の近似種として日本固有の種であるアオゲラが生息し、江戸時代後期には「あをげら」(アオゲラ)に対して、本種は「やまげら」漢字表記の山啄木(さんたくぼく)はアオゲラにも用いられた。のほかアオゲラによく似た北海道の鳥として「しまあをげら」と称された。中国における標記は「灰頭綠啄木鳥(綠啄木)」。またヨーロッパには同じくヨーロッパアオゲラがともに分布する。.

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ユーリー・フィガトネル

ユーリー・ペトロヴィチ・フィガトネル(Юрий Петрович Фигатнер、1889年 - 1937年9月20日)、本名ヤーコフ・イサーコヴィチ・フィガトネル (Яков Исаакович Фигатнер) は、ロシアの革命家・ソビエト連邦の政治家。.

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ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧

下記は、ヨーロッパの主権国家及び属領の一覧である。ここで言う「ヨーロッパ」とは、地政学上・地理学上・政治上など、何らかの分類において「ヨーロッパ」と見なされる物のことを指す。66の主権国家(そのうち6つは一部からのみ認証されている)のヨーロッパにおける領土とヨーロッパの国際組織の会員資格をリストしている。そのほか、属領が8つある。.

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ヨーロッパグランプリ

ヨーロッパグランプリ(ヨーロッパGP, European Grand Prix)は、自動車レースのグランプリの一つ。現代においてはヨーロッパにおいて同じ国が年2回F1レースを行うとき、1国1開催の原則ただし過去にサンマリノ、スイス、ルクセンブルクのように、ヨーロッパの小国の名前を冠に被せつつも、実際は当該国にF1開催基準のサーキットがない理由、スイスの場合は1955年のル・マン24時間レースでの大事故以後、国として自動車・オートバイを含むすべてのモータースポーツ大会の開催を制限している理由などから、その近隣国で開催した例外があったが、現在はこの例外は廃止されている(フォーミュラ1#1国1開催参照)を回避するために「ヨーロッパ」の名を冠して開催される。そのため開催国は年代によって異なる。 当初は他地域で開催するはずのレースがキャンセルされた時、緊急の代価開催としてヨーロッパ内のサーキットを利用して行われるグランプリであり、その開催は不定期であった。しかし、1995年以降はミハエル・シューマッハの活躍と人気を受けて、ドイツのニュルブルクリンクでの開催が定番となっていた。 2008年から2012年まではスペインのバレンシア市街地コースで開催された。これはスペイン人F1ドライバーのフェルナンド・アロンソの活躍によってスペインでのF1人気が高まった為である。 その後は1国1開催の原則を徹底する方針から開催されなかったが、2016年よりアゼルバイジャンのバクー市街地コースにて開催されることになった - F1公式サイト・2014年10月7日。アゼルバイジャンでは重複するF1のレースが無く、「アゼルバイジャングランプリ」の名称でも開催が可能であるが、この年のみ「ヨーロッパグランプリ」の名称を使用し、2017年からは「アゼルバイジャングランプリ」へ変更することになった。.

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ラリ

ラリ記号 thumb ラリ(ლარი, lari)は、南コーカサスの国家ジョージアの通貨単位である。国際通貨コード (ISO 4217) はGEL。ソ連時代のルーブルに代わり、エドゥアルド・シェワルナゼ政権の下で1995年9月に導入された。旧ソ連諸国の通貨の中で、導入以来インフレーションを経験せず、比較的安定している通貨でもある。補助通貨はテトリ (tetri) で、1ラリは100テトリである。1ラリ=58.05円(2015年2月11日現在)。 紙幣は、1、2、5、10、20、50、100、200ラリを発行し、硬貨は、1、2、5、10、20、50テトリと1、2ラリを発行している。.

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ラヴレンチー・ベリヤ

ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(、Лавре́нтий Па́влович Бе́рия ラヴリェーンチイ・パーヴラヴィチュ・ビェーリヤ、ラテン文字表記例: 、1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。 ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。スターリンの死後は第一副首相(:en:First Deputy Premier of the Soviet Union of:en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。 しばしば「ラヴレンティ」と表記されるが、ロシア語の発音としてより近いのは「ラヴレンチー」である。.

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ラズ人

ラズ人(ラズじん)とは、トルコ東部から南コーカサスの(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の国境近くに居住する民族である。.

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リオニ川

リオニ川またはリオン川(რიონი、Rioni River、Rion River)は、南コーカサスのジョージア西部を流れる主要河川。同国ラチャ地方のコーカサス山脈に源を発し、西へ流れ黒海に注ぐ。河口にはポティ(古代ファシス)の町がある。クタイシ(古代コルチス)もこの川沿いに位置する。 長さは327km、流域面積13,400km2であり、全体がジョージア国内にある川では最長である。川はコーカサス山脈南側の標高2960m地点からはじまっている。 古代ギリシャではファシス川(Φᾶσις)として知られ、ヘーシオドスの『神統記』、ロドスのアポローニオスの『アルゴナウティカ』、ウェルギリウスの『』、のAd romamなどの文献に「海の航行東限」として記されている。ソクラテスは『パイドン』で「ヘラクレスの柱とファシス川の間は世界の一部に過ぎない」とした。 コウライキジの学名のファシアヌス・コルチクス(Phasianus colchicus)は、この川からコウライキジが西へ渡ったことが由来とされる。.

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リス属

リス属 は、哺乳綱ネズミ目(齧歯目)リス科リス亜科に分類される属。 樹上性の毛の豊かな尾を持つリスで、30種が属し、北アメリカ、ヨーロッパ、温帯アジア、中央アメリカ、南アメリカに分布する。.

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ルサ1世

ルサ1世(Rusa I)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前735年頃 - 紀元前714年。アッシリア帝国による攻勢にさらされた王国の維持に努めたが、サルゴン2世に敗れて自殺した。.

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ルサ2世

ルサ2世(Rusa II)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前685年頃 - 639年頃。衰退した王国の勢威を一時的ながらも取り戻した。.

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レヴァン・ゴゴベリゼ

レヴァン・ダヴィドヴィチ(ダヴィティス・ゼ)・ゴゴベリゼ(Леван Давидович Гогоберидзе、ლევან დავითის ძე ღოღობერიძე、1896年1月21日 - 1937年3月21日)は、グルジア人のボリシェヴィキ。.

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レオニード・ブレジネフ

レオニード・イリイチ・ブレジネフ(Леонид Ильич Брежнев、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1907年1月1日 - 1982年11月10日は、ソビエト連邦の政治家。同国の第5代最高指導者。1964年のニキータ・フルシチョフの失脚により、ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1966年、書記長に改称)に就任して最高指導者となり、閣僚会議議長(首相)のアレクセイ・コスイギン、最高会議幹部会議長(国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと集団指導体制を敷いた。1977年から、死去する1982年までの間は最高会議幹部会議長を兼任し、ソ連邦元帥にもなっている。 称号はブルガリア人民共和国英雄称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄を3回、同国労働英雄を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄を3回授与されている。 また、国歌を編集したことでも知られる。.

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ロシア帝国の歴史

ア帝国の歴史では、1721年から1917年まで存在したロシア帝国およびその統治下に入った地域の歴史について詳述する。 ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。なお、1917年の帝政終焉後に成立したソビエト政権はロシア暦を廃止してグレゴリオ暦に移行し、1918年1月31日の翌日を2月14日としており、これ以降の日付は新暦のみとする。.

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ロシア帝国下のグルジア

ア領カフカースの地図、1882年 ロシア帝国内グルジア王国の紋章 グルジアは1801年から1918年まで、ロシア帝国の一部であった。イスラム教国のオスマン帝国とペルシア帝国は近世を通して、グルジアの分裂した諸王国と公国をめぐって争ったが、18世紀にはロシアもその争いに加わった。グルジアと同じく、ロシアも正教国だったため、グルジアはだんだんロシアの助けを求めるようになった。1783年、グルジア諸国のうち最大のカルトリ王国がに署名してロシアの保護国になり、ペルシアの宗主権を否定したが、予想外の一連の事件により、グルジアは1801年にロシアに併合され、ロシアの県に成り下がった()。 その後117年間、グルジアはロシア帝国の一部であり続けた。ロシアの統治はグルジアを外敵から守りはしたが、圧政に走ることも多く、現地人の訴えには鈍かった。19世紀末期には帝政に対する不満により民族運動が活発になった。しかし、ロシア帝政期はグルジアの社会と経済に空前の変化をもたらした。農奴解放令により多くの小作農が解放されたが、彼らを窮困から救い出すことはなかった。資本主義の発展でグルジアに都会の労働者階級が現れた。小作農と労働者はその不満を反乱やストライキで訴え、その結果が1905年のロシア第一革命であった。社会主義者であったメンシェヴィキは彼らの訴えを擁護、帝政末期にはグルジアにおける政治を支配した。グルジアは1918年に独立を勝ち取ったが、それは民族主義者や社会主義者の努力というより、第一次世界大戦におけるロシア帝国の崩壊がその主因であった。.

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ロシア・ペルシャ戦争 (1722年-1723年)

ア・ペルシャ戦争(ロシア・ペルシャせんそう、英:Russo-Persian War)は、1722年から1723年にかけてロシアとサファヴィー朝ペルシャとの間に起きた戦争である。ロシア歴史学ではピョートル大帝のペルシャ遠征として知られている。サファヴィー朝北部領域のカスピ海と南コーカサス地域でのロシアの影響力拡大を図り、該当地域を衰退するサファヴィー朝に代わりライバル国のオスマン帝国によって奪われてオスマン帝国領になることを防ごうとするロシア皇帝ピョートル1世の企てによって惹き起こされた。.

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ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年)

ロシア・ペルシャ戦争(1804年 - 1813年)は、ペルシア(ガージャール朝)と帝政ロシアの間に起きた一連の戦争の1つ。他の戦争と同じように領土紛争から始まった。 ペルシャ王のファトフ・アリー・シャーは、カスピ海南西岸地方(現在のアゼルバイジャン)とトランスコーカサス(現在のグルジアとアルメニア)を確保することで、彼のガージャール朝の北端地域を統合することを望んだ。また、新しくツァーリとなったアレクサンドル1世は同様にその地域を掌握することを決定した。戦争はゴレスターン条約によって領土紛争地域の大半を帝政ロシアに割譲することで決着した。 Category:イラン・ロシア関係 Category:ロシア帝国の戦争 Category:イランの歴史 Category:カフカスの歴史 Category:ガージャール朝 Category:19世紀の戦争.

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ロシア関係記事の一覧

ア関係記事の一覧(ロシアかんけいきじのいちらん)。ロシアの前身である国家に関係する記事も含む.

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ボリス・フェドチェンコ

ボリス・フェドチェンコ(Boris Alexejewitsch Fedtschenko、ロシア語表記:Борис Алексеевич Федченко、1872年12月27日 - 1947年9月29日)はソビエト連邦の植物学者である。.

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トルクメニスタンの鉄道

中国製ディーゼル機関車CKD9A トルクメニスタンの鉄道は、1880年に建設が始まった。もともと、それはカスピ海横断鉄道の一部であった、ソ連崩壊後、トルクメニスタン内の鉄道網は、トルクメニスタン鉄道運輸省が所有、運営している。 トルクメニスタンの鉄道の全長は、2012年現在、3550.9キロメートルであり、全線非電化である。テュルクメナバート(チャルジョウ)- アシガバート - トルクメンバシ(クラスノボツク)の路線の一部が複線化されている。 アシガバート、ベレケト、トルクメンバシ、マル、テュルクメナバート、、ダショグズに機関区がある。 トルクメニスタンの旅客は、タジキスタン、ウズベキスタンから来る列車が、自国を通過する場合を除いて、国境で制限されている。 所有するディーゼル機関車は、、2TE10U、M62形ディーゼル機関車で、ほかに中国製のCKD9Aとカザフ製のも運行されている。入換機関車としてが、TEM2U、が運行されている。.

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トルストイ運動

トルストイ運動(とるすというんどう、Толстовство)とは、帝政末期のロシアで起こった、宗教的かつ倫理的な社会運動である。作家、レフ・トルストイの宗教思想、哲学思想に影響を受け1880年代に出現した。その基本的な観念はトルストイの作品『』、『私は何を信じるか?』(ru)、『クロイツェル・ソナタ』などに顕著に表れている。.

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トビリシ地下鉄

トビリシ地下鉄(トビリシちかてつ、თბილისის მეტროპოლიტენი、ラテン文字転記 Tbilisis Metropoliteni)は、ジョージアの首都トビリシの地下鉄である。1966年に、旧ソビエト連邦で4番目の地下鉄として開業した。旧ソビエト連邦の地下鉄の多くと同様に、ほとんどの駅はとても深いところにあり、また鮮やかな装飾がされている。.

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ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー

ヘイダル・ハーン・アムー・ウーグリー(حیدرخان عمواوغلی,, 1880年12月20日 - 1921年10月15日)は、ガージャール朝期イランの革命家。民族はであり黒田 (1992) 20-21頁、ガイダル(ハイダル)=ハーン・タリヴェルディエフ (Гайдар (Хайдар)-хан Таривердиев) とのロシア語名も持つтом。 党創立時期からのボリシェヴィキとされ、イランでは要人の暗殺や立憲革命への参画などで、急進勢力として活動した。十月革命後はロシアへ渡ったが、そこでは同じくイラン人ボリシェヴィキのらと激しく対立した。イラン北部に革命政権「ギーラーン共和国」が樹立されると、この混乱を利用しての実権を掌握したが、やがてはボリシェヴィキ中央との方針の対立により一切の権力を失い、ギーラーン政権の右派による処刑という最期を遂げた。.

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ブドゥ・ムディヴァニ

ポリカルプ・“ブドゥ”・グルゲノヴィチ・ムディヴァニ(Поликарп (Буду) Гургенович Мдивани、1877年 - 1937年7月10日)、民族名ポリカルペ・“ブドゥ”・グルゲニス・ゼ・ムディヴァニ(პოლიკარპე (ბუდუ) გურგენის ძე მდივანი)は、グルジア人のボリシェヴィキ。グルジア語父称はグリゴリス・ゼ (გიორგის ძე) ともlabel|accessdate.

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ブカレスト条約 (1812年)

ブカレスト条約(Бухарестский мирный договор、Bükreş Antlaşması)は1812年5月28日に署名され、7月5日に批准されたオスマン帝国とロシア帝国の間の講和条約である。この条約により、1806年から1812年までの露土戦争が終結した。 ブカレスト条約により、オスマン帝国の属国であるモルダヴィア公国の東半分、プルト川とドニエストル川の間にある45,630平方キロメートルの土地(ベッサラビア)がロシアへ割譲された。また、ロシアはドナウ川での通商権を獲得した。 セルビアでは第一次セルビア蜂起が起こっていたが、この条約で平和が成立し、セルビアに自治権が与えられた。 この条約はロシアの司令官ミハイル・クトゥーゾフが署名し、アレクサンドル1世がナポレオン1世のロシア侵攻の直前に批准した。 南コーカサスではロシアとグルジアの連合軍が西グルジアの大半を占領したが、オスマン帝国はアハルカラキ、ポティ、アナパを維持した。.

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ヒガラ

ヒガラ(日雀、学名:, シノニム: )は、スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される鳥類の一種。.

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ピエロギ

ピエロギ(pierogi)は、様々な具を詰めたダンプリングまたは膨らまない生地を、茹でてまたは焼いて作る東ヨーロッパ周辺の料理である。このダンプリングは、スラブ諸国(ウクライナ、ロシア、ポーランド、スロバキア)やバルト諸国(ラトビア、リトアニア)で人気のある料理で、ピエロギとヴァレーヌィクはウクライナ、ポーランド、スロバキアの国民食とされている。.

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ツラニズム

ツラニズム(Turanism), 汎ツラニズム(Pan-Turanism)、汎ツラン主義とは、中央アジアを起源とするとされる様々な民族の民族的・文化的統一性を、イラン語で中央アジアを意味する単語「ツラン」を用いて、主張する動きである。汎ツラニズムは他の汎スラブ主義、汎ゲルマン主義、汎イラン主義、汎ケルト主義、汎スカンジナビア主義、汎トルコ主義等の他の汎ナショナリストの政治イデオロギーと類似する。 この政治イデオロギーはフィンランド人ナショナリストで言語学者のMatthias Alexander Castrénに起源を発する。彼は汎ツラニズムのイデオロギー、すなわちウラル・アルタイ系民族の人種的な統一性と将来にわたる重要性への信念を擁護した。彼は、フィン人は中央アジア(アルタイ山脈)に起源をもち、ハンガリー人、テュルク人、モンゴル人などを含む民族集団の一部であったと結論付けた。それは、汎トルコ主義におけるすべてのテュルク人のみならず、より類縁関係にあるより広いツラン人種、すなわちウラル・アルタイ人種(「ツラン語族」の話者)の団結を意味するものである。アーリアンという語のように、ツラニアンと言う語が、ウラル・アルタイ語族に相当するものとして、言語学用語として主に用いられた。 ツラニズムはウラル・アルタイ系民族全てを統合する政治的動きであるが、その包括範囲については様々な意見がある。有名なツラン学者:en:Ziya Gökalpはツラニズムをテュルク系民族のみに適用した。これは他のツラン系民族(フィン人、ハンガリー人、朝鮮人、日本人)は文化的に異なるためという理由である。従って、彼はツラニズムの範囲を汎トルコ主義の範囲まで狭めた。「ツラン人は兄弟であり、協力すること」が必要であるという考えは、「スラブ人は兄弟で、協力しなけらばならない」という汎スラブ主義の考えに従ったものである。http://www.britannica.com/bps/search?query.

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フィリップ・マハラゼ

フィリップ・イェセーヴィチ・マハラゼ(Филипп Иесеевич Махарадзе、1868年3月21日 - 1941年12月10日)、民族名ピリペ・エセス・ゼ・マハラゼ(ფილიპე ესეს ძე მახარაძე)は、グルジア人のボリシェヴィキ政治家・文筆家。.

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フセヴォロド・メルクーロフ

フセヴォロド・ニコラエヴィチ・メルクーロフ(、1895年10月25日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党の活動家、チェキスト。国家保安人民委員(国家保安相)。上級大将。.

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ドゥホボール派

ドゥホボール派(またはドゥホボル、ドゥホボールィ、ドゥホボールツィ、聖霊否定派とも、Духоборы, ラテン文字化: Doukhobor)とはロシア・ウクライナに起源を持つキリスト教の教派。神秘主義・絶対的平和主義・無政府主義の傾向が強く、共同農業生活を送ってきた。18世紀またはそれ以前に農民の間から現れたとされる。1785年もしくは1786年、ロシア正教会のエカテリノスラフ主教アンブロシウスが「聖霊と戦う者」という意味を込めて彼らにドゥホボールツィと名付けたため「聖霊否定派」と呼ばれることがある。だが、ドゥホボール派は聖霊を肯定しているため、これは不当な呼称である。後に彼らは「聖霊とともに戦う者」という意味を込めてこの呼称を取り入れ、さらに短縮してドゥホボールと名乗るようになった。 世俗的権威を否定し兵役忌避などを実行したのみならず、既成の宗教的権威であるロシア正教の組織や奉神礼、さらには聖書の神聖性やイエスの神性までも否定する。人間の内に神が宿るという性善説から原罪も否定する。 これらによりロシア帝国では弾圧を受け、多くの信徒が19世紀末にカナダへ亡命した。カナダでは同化の是非をめぐり幾つかの派閥に分裂したが、現在でも子孫数万人がおり、数千人が信仰を守っている。ドゥホボール派は、モロカン派と並んで、代表的な合理主義的セクトとされる黒川知文『ロシア・キリスト教史』教文館 。 また、鞭身派、スコプツィ、モロカン派等の諸教派とともに、霊的キリスト教に分類される。 ドゥホボール派は正教古儀式派と混同されることがあるが、彼らは正教を自称せず、正教の古い儀式を守ることもないため、古儀式派には含まれない。主流派ロシア正教会から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称されることがある点は古儀式派と同じである。.

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ドゥシャンベ

ドゥシャンベ()は、タジキスタン共和国の首都。2008年の人口は679,400人。都市名はタジク語で「月曜日」という意味である(元々はペルシア語に由来し「土曜日の二日後」の意味)。月曜に市場が開かれた村から急成長したためである。1961年までは、「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という市名であった。.

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ニコラーイ・ブリャーク

ニコラーイ・ヴァスィーリエヴィチュ・ブリャーク(ウクライナ語:Микола Васильович Бурякムィコーラ・ヴァスィーリョヴィチュ・ブリャーク;ロシア語:Николай Васильевич Бурякニカラーイ・ヴァスィーリイェヴィチュ・ブリャーク、1919年 - 2006年12月27日)は、第二次世界大戦で活躍したソ連の戦闘機パイロット。ウクライナ人。なお、姓の「ブリャーク」は、もともとウクライナ語でボルシチやサラダに使われる赤いビート(テンサイ)のことである。ウクライナ人にはこのような直接的な姓も多い。.

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ニコライ・チヘイゼ

ニコライ・セミョーノヴィチ・チヘイゼ(,, ラテン文字表記の例:, 1864年 – 1926年6月13日)は、ロシアおよびグルジアの革命家、政治家。ロシア社会民主労働党内ではメンシェヴィキ派に属した。1890年代にグルジアにおけるマルクス主義拡大に力を発揮し、1917年にロシア革命が勃発すると、グルジアにおける革命運動において大きな役割を果たした。また、全ロシア中央執行委員会議長を務めた。カルロ・チヘイゼの変名でも知られる。.

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ニコライ・クルイロフ

ニコライ・クルイロフ ニコライ・イヴァーノヴィチ・クルィローフ(;1903年4月16日 - 1972年2月9日)は、ソビエト連邦の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄。.

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ホシムクドリ

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ダダシュ・ブニアザーデ

ダダシュ・ホジャ・オグルィ・ブニアザーデ(ブニヤザーデ / ブニャザーデ / ビュニャザーデ)(accessdate / Бунятзаде / Буниядзадеaccessdate / Бунядзаде)、現代Dadaş Xoca oğlu Bünyadzadə (Bünyatzadə)、1888年4月8日 - 1938年4月21日)、アゼルバイジャン人の革命家・政治家。姓はブニアト=ザデ (Буниат-заде)、ビュニャト=ザデ (Bünyad-zadə) などとも(上記と同様の表記揺れあり)。.

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ダゲスタン共和国

ダゲスタン共和国(ダゲスタンきょうわこく、Dağıstan Respublikası、Дагъистанлъул ДжумхIурият, Daɣistanłul Džumħuriyat)は北カフカース地方とカスピ海の間にあるロシア連邦を構成する共和国の内の一つである。首都はマハチカラ。 隣接する連邦構成主体はカルムイク共和国、スタヴロポリ地方、チェチェン共和国、またジョージア、アゼルバイジャンとも隣接する。北部にはテレク川が流れる。首都マハチカラから北にはアグラハン半島が突き出し、その先にはチェチェン島がカスピ海に浮かぶ。.

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アラム・ピルジャン

アラム・セルゲーエヴィチ(セルゲイ)・ピルジャン(Арам Сергеевич Пирузян、Արամ Սերգեյի Փիրուզյան、1907年2月10日 - 1996年10月2日)は、アルメニア・ソビエト社会主義共和国の政治家。.

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アラス共和国

アラス共和国(アゼルバイジャン語: Araz Respublikası; アルメニア語: Արաքս Հանրապետություն)は、南コーカサスに建設された短命な未承認国家。 アラクス共和国、アラクシー共和国としても知られる。現在のアゼルバイジャン領ナヒチェヴァン自治共和国の位置におおよそ一致する。名前はアラス川に基づいており、1918年12月、アゼルバイジャン民主共和国の与党であったミュサヴァト党とオスマン帝国の青年トルコ人政府の支援でによって表明された。 アラス共和国の建国はこの地域をアルメニア第一共和国に割り当てた英国の南コーカサス司令官であるジョン・オリバー・ワードロップ卿の国境提議に反応していたDr.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アルメニアの歴史

本項では、アルメニアの歴史について述べる。 メソポタミアの一部であるアルメニア高原は、世界最古の文明発祥地の一つとして知られ、そこからは前期旧石器時代の遺物も出土している。紀元前9世紀頃には、この地にウラルトゥが建設されていたが、この文明が外来の印欧語族の勢力と混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられている。 紀元前550年頃になると、アルメニア一帯はアケメネス朝の支配を受けるようになったが、その地方総督であったは次第に独立君主として振舞うようになっていった。やがてアケメネス朝は倒れ、続くセレウコス朝の支配も弱まると、地方豪族の反乱によって紀元前188年に、最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」が誕生した。ティグラネス2世の時代には黒海からカスピ海までを統べる大国となったアルメニアであったが、紀元前66年に共和政ローマに敗れ、衰退した。その後のアルメニアは主にペルシア系のによって統治されることとなったが、紀元後301年にはによって世界最初のキリスト教の国教化も成し遂げられている。 4世紀末になるとアルメニアはサーサーン朝の支配下に入ったが、アルメニア文字やアルメニア教会など、アルメニア人独自の文化が生み出されたのも、またこの時代であった。続く2世紀の間、アルメニアは東ローマ帝国とムスリムの双方から支配を受けた。東ローマの側ではマケドニア王朝の創始者となったバシレイオス1世のように、皇帝にまで登り詰める者も現われた。ムスリムのアッバース朝の側でも地方君主による反乱が発生し、885年にはバグラトゥニ朝アルメニアとして、アルメニア人たちは独立を取り戻した。だが、バグラトゥニ朝は東ローマからの激しい干渉を受け、1045年にはその属領へと転落した。この東ローマ支配もほどなくセルジューク朝による支配へ替わり、アルメニア人のなかにはこれを嫌ってキリキアへと移住する者もいた。やがてキリキアに定着して力をつけたアルメニア人は、1198年にキリキア・アルメニア王国を建設し、この王国は交易国家として広く発展した。 このキリキア王国も1375年には滅び、アルメニア高地側のアルメニア人も、セルジューク朝やイルハン朝など様々な統治者の手を、数世紀の間渡り歩いた。近世になると、広く散らばって住むアルメニア人のうち東側の者はサファーヴィー朝、次いでロシア帝国の版図に入り、西側の者はオスマン帝国の住人となった。どちらの地域に住むアルメニア人も、盛んな商活動や芸術への貢献などで、その社会的地位をある程度高めていった。19世紀末になると彼らにも民族意識が生まれ、ロシアとオスマンのアルメニア人を統合しようとする試みも現われ始めた。 しかし、この新たな民族意識は、バルカン戦争や第一次世界大戦最中のオスマンでは警戒を招くこととなり、1890年代と1915年のアルメニア人虐殺の原因にもなった。大戦中の1918年には旧ロシア領を中心としたアルメニア共和国が誕生したが、これはアルメニア人が自ら望んだものではなく、度重なる領土紛争や財政破綻など、その実情も貧弱なものであった。2年後にはアルメニアは、西からのトルコ軍と東からの赤軍に追い詰められ、苦渋の選択として共産化の道を選んだ。ソビエト連邦に加盟したアルメニア・ソビエト社会主義共和国は大きく工業化したが、同時に政治的な弾圧は絶えず、また祖国の共産化は在外アルメニア人の間にも軋轢を生んだ。 1991年には、ソ連崩壊によってアルメニアは独立したが、同時にアゼルバイジャンとの間にナゴルノ・カラバフ戦争が本格化した。停戦後もアゼルバイジャンとトルコからの経済制裁は続いており、ロシアやグルジアとの関係も安定しているとは言えない状況にある。.

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アルメニア・ソビエト社会主義共和国

アルメニア・ソビエト社会主義共和国(アルメニア・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく、Հայկական Սովետական Սոցիալիստական Հանրապետություն、Армянская Советская Социалистическая Республика)は、1920年にアルメニア第一共和国を倒して成立した社会主義国家。 1922年にグルジア、アゼルバイジャンとともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を介してソビエト連邦構成共和国となり、1936年にその2国と分離してからも1991年のソ連崩壊まで存在した。アルメニア史においては、それまで農業国であったアルメニアが工業国への転換を果たした時代でもある。 ソ連から独立を宣言したのは1991年のことだが、1995年の改正まではソビエト国家の機構を保持したままであった。.

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アルメニア関係記事の一覧

アルメニア関係記事の一覧(アルメニアかんけいきじのいちらん) アルメニアに関係する記事を一覧する。.

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アルツァフ共和国

アルツァフ共和国(アルツァフきょうわこく)は、南カフカースのナゴルノ・カラバフに位置する事実上独立した国家。旧称であるナゴルノ・カラバフ共和国(ナゴルノ・カラバフきょうわこく)としても有名である。西でアルメニア、北と東でアゼルバイジャン、南でイランと国境を接する。公用語はアルメニア語、通貨はドラム、首都はステパナケルトである。 アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国領であったナゴルノ・カラバフ自治州一帯が、ナゴルノ・カラバフ戦争とソ連崩壊に際して独立宣言を行ったことにより成立した。しかし、その実態としてはアルメニアの保護国の様相が色濃く、他国からの国家承認もほとんど受けられていない状態にある。一例として、日本外務省では「アルメニアによる占領地域」として扱われている。.

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アルギシュティ1世

アルギシュティ1世時代のウラルトゥの版図(橙+黄色)。紫色はアッシリア帝国の版図 エレブニ出土のアルギシュティによる定礎碑文(レプリカ。エレバンのエレブニ博物館蔵) アルギシュティ1世(Argišti I, アルギシュティス Argishtis、アルギシュティシュArgištišとも。アルメニア語:Արգիշտի)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前785年頃 - 紀元前753年頃。ウラルトゥ王国最盛期の王の一人。.

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アルギシュティ2世

アルギシュティ2世(Argišti II)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前714年 - 685年。.

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アレクサンドル・ベグザジャン

アレクサンドル・アルテミエヴィチ(アルチュノヴィチ / アルテミ)・ベグザジャン(Александр Артемьевич (Арутюнович) Бекзадян, Ալեքսանդր Արտեմի Բեկզադյան、1879年9月15日〈または1881年〉 - 1937年8月1日〈または8月15日〉)は、アルメニア人のボリシェヴィキ。.

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アレクサンドル・ゴルチャコフ

アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャコフ(Алекса́ндр Миха́йлович Горчако́в、ラテン文字転写の例:Alexandr Mikhailovich Gorchakov、1798年6月4日 - 1883年2月27日)は、帝政ロシアの政治家、外交官、貴族。 皇帝アレクサンドル2世の下で外務大臣(在職1856年 - 1882年)を務めた。爵位は公爵(Князь)。.

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アンドラニク・オザニアン

アンドラニク・オザニアン(Անդրանիկ Օզանյան, 1865年2月25日 - 1927年8月31日)は、アルメニア人の軍人、革命家にして最も著名な(アルメニア人ゲリラ)であり、史上の重要人物であるref。単にアンドラニク将軍 (Զորավար Անդրանիկ) と呼ばれることが多い。 アンドラニクは1880年代後半からオスマン帝国政府およびクルド人のゲリラに対する闘争に積極的に参加するようになり、アルメニア革命連盟(ダシュナク党)の党員となって、他のフェダイとともにオスマン領東アナトリアのアルメニア人居住域(いわゆる)でアルメニア人農民の生活を防衛することに努めた。アンドラニクは1904年にオスマン帝国を去り、1907年にはダシュナク党が青年トルコ人と提携したことに反発して党を去った。 第一次バルカン戦争時には、1912年から翌年にかけてとともにブルガリア軍内でアルメニア人義勇兵を率いてオスマン軍と戦った。第一次世界大戦が始まると、ロシア帝国陸軍内でもアルメニア人義勇兵の大隊を指揮してオスマン軍と戦ったが、1917年のロシア革命によってロシア軍が撤退すると、義勇兵は数で勝るオスマン軍の前に取り残された。アンドラニクはエルズルムを防衛しようと努めるも果たせず、1918年の5月にはオスマン軍はエレヴァンの付近まで迫った。これに際し、ダシュナク党が主導するアルメニア民族ソビエト (en) はアルメニア第一共和国の独立を宣言したが、オスマン帝国との間のによって、第一共和国は多くのアルメニア人が独立させることを望んでいた西アルメニアに対する要求を放棄した。このため、その後のアンドラニクが第一共和国の存在を受け入れることは決してなかった。の防衛のためにトルコ軍やアゼルバイジャン軍と戦った際も、アンドラニクは第一共和国政府からは独立して行動した。 1919年にアンドラニクはアルメニアを去り、後半生をヨーロッパやアメリカで過ごした。1922年からカリフォルニア州フレズノに定住し、1927年に死去した。彼はやがてアルメニアの国民的英雄として称賛されるようになり、数々の像やその名を冠した通り、広場なども造られ、楽曲や小説の中でも伝説的存在として扱われるようになった。.

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アンドレイ・ベケトフ

アンドレイ・ニコライエヴィチ・ベケトフ(Andreï Nikolayevich Beketov、またはAndrey Nikolayevich Beketov、ロシア語表記:Андрей Николаевич Бекетов、1825年12月8日 - 1902年7月1日)はロシアの植物学者である。ロシアでの植物学や地質学の普及に功績があった 。ロシア・シンボリズムを代表する詩人、アレクサンドル・ブロークや化学者のニコライ・ベケトフ(Nikolaï Beketov)の祖父である。.

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アブハジアの行政区画

アブハジアの行政区画(アブハジアのぎょうせいくかく)では、南コーカサスにあり国際的にはジョージア国の自治共和国とされながらも事実上の独立状態にあるアブハジア共和国及び、ジョージア政府が主張するアブハジア自治共和国の行政区画について述べる。.

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アブハズ人

アブハズ人(またはアブハジア人、英語:Abkhaz、Abkhazians)は、主として南コーカサスのアブハジア地方に住む民族。アプスア人(アブハズ語:、Apswa)と自称する。 19世紀後半、ロシア帝国がカフカーズ戦争によって北カフカースを併合すると、ロシアの植民地的支配を嫌った多くのアブハズ人がオスマン帝国に移住し、現在でも数万~数十万人のアブハズ人がトルコに住んでいる。また、旧ソビエト連邦国家、特にロシア、ウクライナ、カザフスタンなどにも多くのアブハズ人が住む。.

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アフメト・イッゼト・パシャ

アフメト・イッゼト・パシャ(Ahmed İzzet Paşa;1864年 - 1937年)は、オスマン帝国の軍人、政治家。最終階級は、「ミュシル」 (Müşir、元帥)。 政治活動には積極的には参加せず、「統一と進歩」党には入らなかった。1912年のバルカン戦争時、参謀総長、1913年のマケドニア戦争時、オスマン軍総司令官を務めた。オスマン帝国の第一次世界大戦参戦には反対していた。 エルズルム作戦後、1916年3月、アフメト・イッゼト・パシャ指揮下の第2軍は、ダーダネルスからカフカス戦域に投入され、戦線右翼(ハルプトとワン湖の間)を受け持った。第2軍(第2、第4、第16軍団。総員7万8千人、火砲98門、クルド騎兵7千人)は、エルズルム-スィワス方面のロシア軍の動きを止める任務を受領した。第2軍の配置転換は、1916年4月に始まり、8月に終結した。8月2日、ムシュ-キー-エルズルム方面で攻勢を開始し、8月6日にビトリス、8月7日にムシュを奪取し、8月8日に国境線に進出した。8月19日、ロシア軍の逆襲により大損害を被り、攻撃発起点まで後退した。新規攻勢も失敗に終わり、9月11日、第2軍はキー-オーノト-ムシュの線に留まり、防勢に転移した。1916年10月までに、最盛期12万人いた第2軍には、6万4千人しか残らなかった。 1917年初めまでに、第2軍に未充足の7個師団が加わった。1917年2月から「カフカス」軍集団総司令官となり、第2軍(ムスタファ・ケマル・パシャ)と第3軍(ヴェヒブ・パシャ)を指揮した。1917年4月~5月、オスマン軍はビトリスとムシュ郡を占領した。1917年12月、軍集団解散。 1918年10月14日、タラート・パシャ内閣退陣後、新内閣の組閣を委任され、首相兼国防相を務めた。10月30日、ムドロス港(レムノス島)のイギリスの戦艦「アガメムノン」上で和平(ムドロス休戦協定)に署名し、連合軍によるボスポラスとダーダネルス、バトゥーミとバクーの占領、ヒジャーズ、イラク、シリア及びイエメンのオスマン軍の降伏、イラン、ザカフカーズ、キリキアからのオスマン軍の撤退を認めた。11月8日、アフメト・イッゼト・パシャ内閣は総辞職し、11月11日に組閣されたアフメト・テヴフィク・パシャ政権で外務相に任命された。 1924年、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの権力掌握後、カリフ制支持者だったアフメト・イッゼト・パシャは、政治生命を完全に絶たれた。 Category:オスマン帝国の陸軍軍人 Category:バルカン戦争期のオスマン帝国の軍人 Category:第一次世界大戦期のオスマン帝国の軍人 Category:大宰相 Category:1864年生 Category:1937年没 Category:ビトラ出身の人物.

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アニ (トルコ)

アニ (Անի; Ἄνιον, Ánion; Abnicum; ანისი, Anisi; Anı, Ani)は、アルメニア人によって中世に建設されたシルクロードの商業都市。現在のトルコ共和国・カルス県にあり、アルメニア共和国との国境に近い。 961年から1045年までのアニは、今日のアルメニア共和国からトルコ共和国東部までの広い範囲を領土としたバグラトゥニ朝アルメニアの首都だった。様々な交易ルートが交わる場所にあり、アニにある多くの宗教建築物・宮殿・要塞は、技術的・芸術的に見て世界でもっともすぐれた構造を有していた。アニは「千と一の教会がある都」と表現され、最盛期には約100,000の人口を有したとされている。長きにわたって華麗さや壮麗さで知られていたものの、1236年にはモンゴル人によって略奪され、1319年の地震によって荒れ果てたMutafian, Claude.

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アカゲラ

アカゲラ (赤啄木鳥、Dendrocopos major)は、キツツキ目キツツキ科アカゲラ属に分類される鳥類。.

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アジャリア自治共和国

アジャリア自治共和国(, Ac'aris Avt'onomiuri Resp'ublikh'a Sakartvelo)は、南コーカサス西南部にあり、黒海に面しトルコと接した地方に位置するジョージア(グルジア)国内の自治共和国。アジャール、アチャラなどともいい、首都は黒海岸の港湾都市バトゥミ。面積は2,900km2、人口は約40万人。ジョージア最大の港であるバトゥミを抱えるため、独立以来経済的に困窮しているジョージアにとって非常に重要な地域である。 人口統計上、住民の8割は民族籍をカルトヴェリ人やその支族(ミングレル人、ラズ人、スヴァン人など。国勢調査では区分されていない)とされているが、実際にはこの地方のジョージア人の多くがと呼ばれるイスラームを信仰するカルトヴェリ系のエスニック・グループであるため、ジョージア国内で自治共和国を形成している。.

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アジアの地理

アジア(Asia)はユーラシアの東部と中部であり、この地域にはおよそ50カ国が存在する。この地域の面積は大陸のほかに島嶼部も含めるとおよそ49,694,700km2である。アジアはスエズ地峡(エジプト)でアフリカと接し、ウラル山脈付近を境界にヨーロッパと接する。.

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アゼルバイジャン

アゼルバイジャン共和国(アゼルバイジャンきょうわこく、)、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。北はロシア、北西はジョージア(グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。首都はバクー。アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。.

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アゼルバイジャン関係記事の一覧

アゼルバイジャン関係記事の一覧(アゼルバイジャンかんけいきじのいちらん) アゼルバイジャンに関係する記事を一覧する。.

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イランの国際関係

ダルバーゼイェ・バーゲ・メッリー:イラン外務省正門(テヘラン).

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イラクリー・ツェレテリ

イラクリー・ツェレテリ(1917年) イラクリー・ツェレテリ(Irakli Tsereteli、ირაკლი გიორგის ძე წერეთელი、Ира́клий Гео́ргиевич Церете́ли、1881年-1959年)は、ロシアの革命家、政治家。グルジア人。メンシェヴィキ中央派として臨時政府支持の立場を取り、臨時政府で逓信大臣(郵政・通信大臣)を務めた。.

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イベリア王国

イベリア王国(Iberia)は、南コーカサス、現在のグルジア東部に存在した王国である。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、大コーカサス山脈の南部、小コーカサス山脈の北部に存在した。イベリア半島と区別するためコーカサス・イベリアとも呼ばれる。.

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イエスズメ

イエスズメ(家雀、学名 Passer domesticus)はスズメ目スズメ科の鳥類。和名は学名を含むヨーロッパ各言語からの直訳に由来する。.

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ウラジーミル・ジリノフスキー

ウラジーミル・ヴォリフォヴィチ・ジリノフスキー(, ラテン文字表記の例:, 1946年4月25日 - )は、ロシアの政治家、ロシア軍大佐、ロシア自由民主党の創設者および同党の党首、ロシア下院国家院副議長。の委員でもある。 その極右的な発言や活動からロシア民族主義者と思われがちだが、ジリノフスキーは自身は純粋なロシア人ではなく、父方を通じてユダヤ人の血を引き継いでおり、ロシア人名に改名する前にはユダヤ人の名前を持っていた.

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ウラジカフカス

ウラジカフカス(ヴラジカフカースなどとも;Владикавказヴラヂカフカース;ラテン文字転写の例:Vladikavkaz)は、ロシア連邦の北カフカス地方に位置する北オセチア共和国の首都。人口は約30万人。 グルジア軍用道路と呼ばれる観光ルートでトビリシと結ばれている。.

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オリンピックのジョージア選手団

リンピックのジョージア選手団(オリンピックのジョージアせんしゅだん)は、南コーカサスにあるジョージアのオリンピック選手団である。1952年ヘルシンキオリンピックから1988年ソウルオリンピックまではソビエト連邦選手団、1992年バルセロナオリンピックではEUN選手団として出場した。1991年の独立後、1994年リレハンメルオリンピックから単独の選手団として参加し、夏季オリンピックは1996年アトランタオリンピックから参加した。 夏季大会で単独選手団として初参加となった1996年のオリンピックでは、開催地となったアメリカ合衆国のアトランタが同名のジョージア州の州都(かつジョージア国首都のトビリシと姉妹都市)であることから、本選手団が開会式の入場行進において特に大きな歓声で迎えられたエピソードがよく知られている。.

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オトロク (ポロヴェツ族)

トロク(Отрок)、またはアトラク(Атрак)は、12世紀前半のポロヴェツ族のハンである。シャルカンの子、コンチャークの父にあたる。兄弟にはスィルチャンがいる。.

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オオアカゲラ

亜種エゾオオアカゲラ ''D. l. subcirris'' 雌 (北海道) 基亜種 ''D. l. leucotos'' 雌と巣(エストニア) 基亜種 ''D. l. leucotos'' 雌雄 オオアカゲラ(大赤啄木鳥、Dendrocopos leucotos) は、鳥綱キツツキ目キツツキ科アカゲラ属に分類されるキツツキの1種。.

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オタテヤブコマドリ

タテヤブコマドリ(オタテヤブコマ、学名: Cercotrichas galactotes)は、スズメ目ヒタキ科の中型の鳥類の1種である。 英名は Rufous-tailed Scrub-Robin のほか一般名として Rufous Scrub Robin、Rufous Bush Robin、Rufous Bush Chat、Rufous Warbler とも称される。 全長約15センチメートルで、ヨーロッパコマドリよりやや大きい。上面は褐色で、下面は白みを帯び、過眼線の上に明瞭な白みのある眉斑をもつ。長い赤褐色の尾を頻繁に振り、その尾羽の先端には黒と白の斑が見られる。雌雄同色で、幼鳥は成鳥に似るがより淡色である。西の基亜種は、南東ヨーロッパやアジアの亜種より淡色で、背は明るい褐色である。 オタテヤブコマドリはおよそ地中海から東はパキスタンにかけて繁殖する。また、サハラ南部のサヘルから東のソマリアにかけても繁殖し、アフリカに分布する亜種は、ときに別種アフリカヤブコマドリ (C. minor、African Scrub-robin)ともされる。一部はアフリカ(ケニア、南スーダン、エチオピア、ソマリア)からインドにかけて渡りをする。北ヨーロッパでは非常にまれである。 本種は茂みや低木のある乾燥した開けた土地に生息する。地上約2メートルに営巣し、通常一腹3-5個の卵を生む。主に地面で昆虫を捕らえて食べる。さえずり(song)はツグミに似て、明瞭で愁いのある音調をもつ。.

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カルトヴェリ人

ルトヴェリ人(カルトヴェリじん、, Georgians)は、南コーカサス地方を起源とし、ジョージア国(グルジア)と歴史的に結び付いた民族である。 カルトヴェリ語族の中心を為す存在であり、固有の言語はグルジア文字によって書き表されるグルジア語(カルトリ語)特に2015年以降は国名と同様にポリティカル・コレクトネスの観点から「ジョージア語」「ジョージア文字」と呼称される場合もあるが、日本の学界等で公式な呼称変更決議が行われた事実は確認されていない。、主な宗教はグルジア正教である。名称はジョージア国東部のカルトリ地方に由来し、自称のカルトヴェレビ(kartvelebi)も「カルトリ地方の民」が語源とされている。外名であるジョージア(英:Georgia)ないしグルジア()に対する自国語の呼称(内名)であるサカルトヴェロ(საქართველო, )も「カルトヴェリ人の国」と言う意味である歌川令三「」(日本財団図書館『財界』2002年11月19日発行) 2016-07-12閲覧。甲地利恵「」(『北海道民族学』第7号, 2011年) 2016-07-12閲覧。。.

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カルトヴェリ語族

ルトヴェリ語族 (ქართველური ენები) は、ジョージア国内で話されているグルジア語、メグレル語、スヴァン語、主にトルコ国内で話されているラズ語の4つの言語から成る。南コーカサス語族ともいう。チェチェン語などを含む北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族)、アブハズ語などを含む北西コーカサス語族(アブハズ・アディゲ語族)とともに、しばしばコーカサス諸語とまとめられるが、南コーカサス語族と他の2つの語族とのあいだの系統関係は実証されていない。 メグレル語とラズ語は比較的近い関係にあり、両者をまとめてザン語派、あるいはザン語(Zan)と呼ぶ。4つの言語のうち、グルジア語だけが1500年以上の文字言語としての伝統を持ち、話者の数ももっとも多い。グルジア語は、ほぼすべてのメグレル語とスヴァン語の話者、一部のラズ語の話者にとっての文章語でもある。スヴァン語は約3万人の話者を持つが、消滅が危惧されている。 歴史的な分岐の順番とその時期について、次のような推定がなされている。紀元前1000年ごろまでにまずスヴァン語が祖語から分かれ出た。その後、グルジア語が、紀元前後ごろにザン語派(メグレル語・ラズ語)と分かれた。メグレル語とラズ語が分かれたのは約1200年前と考えられる。 4つの言語に共通する特徴として、放出音の存在、能格を含む10弱の格の区別、動詞が主語のみならず直接目的語や間接目的語の人称・数も標示することなどが挙げられる。子音や母音の組織はほぼ同じであるが、スヴァン語のいくつかの方言は多くの母音を区別する。現代のラズ語にはトルコ語の影響が強く認められる。.

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カルス (都市)

ルス(Kars)は、トルコ北東部の都市であり、カルス県の県都。アルメニアとの国境から45km。アルメニア語ではԿարսまたはՂարս Ghars、グルジア語ではყარსი Karsi。2011年の人口は73,836人。トルコ=アルメニア国境地帯にあるトルコ最大の都市である。 928年から961年まで、今日のアルメニア共和国からトルコ共和国東部までの広い範囲を領土としたバグラトゥニ朝アルメニアの首都だった。19世紀には都市としての重要性を増し、1877年から1878年にかけての露土戦争の結果として、帰属がオスマン帝国からロシア帝国に移った。第一次世界大戦中の1918年にはオスマン帝国がカルスを占領したが、オスマン帝国はムドロス休戦協定によって、アルメニア第一共和国に対してカルスを放棄することを余儀なくされている。1920年末の中にもトルコがカルスを占領。1921年には、トルコ大国民議会、アルメニア・ソビエト社会主義共和国、アゼルバイジャン民主共和国、グルジア民主共和国の間でが締結され、カルスをトルコ領とする国境線が確定した。.

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ガリ (アブハジア)

リ(გალი、Gali)は、南コーカサスにあるジョージア国(グルジア)西部で事実上独立状態にあるアブハジアの都市。アブハズ語名はガル(Гал)。同名の地区の中心地でもある。 アブハジアの中心都市、スフミから南東へ77kmほど行ったジョージアの実効支配地域との境にある。中世にはサムルサカン侯国の中心都市だった。人口はおよそ7000人で、主にカルトヴェリ人とミングレル人で構成される。1992年から93年にかけてのアブハジア紛争で多数のミングレル人がこの地を去ったが、アブハジア人住民の割合は依然として低い。ジョージア実効支配地域の近くに位置するため、紛争終結後も何回か戦闘が起きた。2009年に国連の偵察ミッションでロシアが拒否権を発動するまでは、国連の防護圏内にあった。 ジョージアの首都トビリシとスフミとを結ぶアブハジアの大動脈が北西から南東にかけて通り、それに沿ってアブハジア鉄道本線も走る。.

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ガザンファル・ムサベコフ

ンファル・マフムード・オグルィ・ムサベコフ(ムサベヨフ)(Газанфар Махмуд оглы Мусабеков、Qəzənfər Mahmud oğlu Musabəyov、1888年7月26日 - 1938年2月9日)は、アゼルバイジャン人のボリシェヴィキ。ロシア語父称はマフムードヴィチ (Махмудович) とも。.

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ギリシャとトルコの住民交換

1923年のギリシャとトルコの住民交換 (Ἡ Ἀνταλλαγή, Mübâdele)は、住民の信仰に基づき、トルコのギリシャ正教徒とギリシャのイスラム教徒を交換したものである。トルコ領内に居住する正教徒はギリシャ人と看做されギリシャへ追放され、ギリシャ領内に居住するイスラム教徒はトルコ人と看做されトルコ領内に追放された。これによって現代のギリシャとトルコが「一国家一民族」の国民国家となった。しかし大規模な強制的な住民交換、あるいは「合意の上の相互追放」であり、民族浄化であり、その過程で多くの難民を出した。 「ギリシャとトルコの住民交換の合意書 (":w:Convention Concerning the Exchange of Greek and Turkish Populations")」は1923年1月30日にスイスのローザンヌでギリシャ王国とトルコ共和国との間で調印された。これはおよそ200万人もの人々(130万人のとアナトリアのギリシャ人と35万4000人のギリシャ系イスラム教徒)を巻き込み、彼らのほとんどは、強制的に追放され、事実上、故国から国籍を剥奪された。 1922年の終わりまでに、小アジアのギリシャ人の大半が1914年から1922年のギリシャ人のジェノサイドの際に亡命しており、残るギリシャ人も1919年から1922年の希土戦争で敗北した。複数の概算によれば、1922年の秋の間に、90万人のギリシャ人がギリシャに到着した 住民交換はトルコによって公式の方針として認識され、恒久的なギリシャ人追放とされた。当初はトルコの新たな人口の減少した地域を占領するためにトルコから追放されたギリシャ人より少ない数のトルコ人がギリシャから新たに呼び寄せられた。このときギリシャは、新たな家財を失った「ギリシャ人難民」がトルコによってギリシャにもたらされたことを、ギリシャ系イスラム教徒のトルコへの移住とともに目の当たりにした。.

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クリミア戦争

リミア戦争(クリミアせんそう、Crimean War、Guerre de Crimée、Крымская война、Kırım Savaşı)は、1853年から1856年の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。.

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グルジノ・イメレチア県

ルジノ・イメレチア県(グルジノ・イメレチアけん、Грузино-Имеретинская губернияは、1841年から1846年までロシア帝国領南カフカースに設置されていた県。 ニコライ1世による1840年4月10日公布、翌1841年1月1日発効の「ザカフカース地方の管理機関」令によって、以前からの、イメレチア州 (ka)Алиева И. Х|title.

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グルジアのイスラム教

本項目ではグルジアのイスラム教について記述する。.

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グルジアの歴史

ヴェティツホヴェリ大聖堂(ムツヘタ=ムティアネティ州・ムツヘタ) グルジアの歴史(History of Georgia)では、カフカス山脈(コーカサス山脈)南側のザカフカス(南コーカサス)地方に所在するグルジア/ジョージア(グルジア語:საქართველო(サカルトヴェロ))の歴史について解説する「グルジア」も「ジョージア」も英語表記は"Georgia"で全く同じである。2015年(平成27年)4月、日本政府は日本国内での国名表記を「グルジア」から「ジョージア」に変更した。。.

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グルジア人

ルジア人(グルジアじん、Georgians)は、南コーカサス地方の共和制国家であるジョージア(グルジア)の国民である。国外では、同国内で8割以上を占める多数民族であるカルトヴェリ人(ქართველები, k'art'velebi)と同一視されることも多い。また、同国内外に居住する民族の民族名であり、カルトヴェリ諸語に属するグルジア語(カルトゥリ)、メグレル語、スヴァン語を話す前田(2005)pp.178-179。その多数がグルジア正教会を信仰しているが、黒海に面したジョージア国内のアジャリアやアゼルバイジャン、トルコ、イランにはイスラームを奉ずるグルジア系住民が居住している。.

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グルジアワイン

ルジアワイン(ქართული ღვინო /kʰɑrtʰuli ɣvinɔ/ カルトゥリ・グヴィノ)は、南コーカサスにあり(2015年4月まで日本国政府が使用していた外名の)「グルジア」としても知られるジョージア国で生産されるワインの総称。 ジョージア国は日本において長らく「グルジア」と呼ばれていたことから、同国で生産されるワインも「グルジアワイン」と呼ばれることが多いが、ジョージア国の主要民族であるカルトヴェリ人の多くはロシア語由来(異説あり)とされる「グルジア」の呼称を忌避しているため(ジョージアの国名を参照)、日本のワイン輸入業者間では2015年に政府が外名を変更するよりも以前からポリティカル・コレクトネスに配慮して自主的に「ジョージアワイン」と呼称する事例が見られる。.

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グルジア語

ルジア語(グルジアご)あるいは、ジョージア語(ジョージアご)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の公用語である。カルトリ語(ქართული ენა, kartuli ena)とも呼ばれる佐川年秀『改訂版 旅のアジア語 45ヶ国55言語会話集』(KADOKAWA、2015年11月19日第1刷発行)511頁「ジョージア語(カルトリ語)」。 20世紀前半の日本では、ジョルジア語とも呼ばれていた前田弘毅「グルジア(人)」『中央ユーラシアを知る事典』(2005)pp.178-179下宮忠雄の1968年の論文に「ジョルジア語の構造」(弘前大学『文経論叢 文学篇』第4集、)がある。。2015年に日本政府が国家の外名を変更(ジョージアの国名も参照)して以降はジョージア語という呼称を積極的に使用することもなされている柘植洋一 、小学館。。 グルジア語(ジョージア語)の総話者数は約410万人で、その内、ジョージア国内の母語話者数は多数派民族のカルトヴェリ人を中心に国民の約83%にあたる約390万人である。残りの話者はトルコ、ロシア、イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、アメリカ合衆国、ヨーロッパに存在する。漢字による省略形は「具語」ないし「喬語」。.

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グルジア軍

ルジア軍(グルジアぐん、グルジア語:საქართველოს შეიარაღებული ძალები)は、南コーカサスにあり(2015年4月まで日本国政府が使用していた外名の)「グルジア」としても知られるジョージアが保有する軍隊。 グルジア陸軍、特殊作戦軍、グルジア国家親衛隊で構成されている。.

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グルジア民主共和国

ルジア民主共和国(グルジアみんしゅきょうわこく、საქართველოს დემოკრატიული რესპუბლიკა, Sakartvelos Demokratiuli Respublika)とは、1918年から1921年にかけてグルジア(ジョージア/サカルトヴェロ)に存在した国家。現地語ではサカルトヴェロ民主共和国となる。ザカフカース民主連邦共和国の崩壊にともない、メンシェヴィキを中心として独立を果たしたが、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の赤軍に首都チフリスをおとされて崩壊した。.

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グルジア文字

ルジア文字(グルジアもじ、ქართული დამწერლობა, kartuli damtserloba)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の公用語であるグルジア語(カルトリ語)を書き表すために用いられる文字である。アブハズ語、オセット語の表記のために用いられていたこともある。 現代のグルジア文字は33文字から構成され、アセンダーやディセンダー、あるいはその両方を持つ字がある。左から右へ書かれるアルファベットである。 2015年4月に日本政府が国家の外名を「グルジア」から「ジョージア」に変更したのに前後し(ジョージアの国名も参照)、ポリティカル・コレクトネスの観点より「ジョージア文字」への言い換えも見られるが、グルジア語と同様に学会等で呼称の変更決議が行われた事実は確認されていない。.

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グルジア料理

ルジア料理(グルジアりょうり)は、南コーカサスにあり(2015年4月まで日本国政府が使用していた外名の)「グルジア」としても知られるジョージア国で日常的に食される食物と食器によって形成される料理のことである。 後述の通り、特に2010年代以降の日本語文献では「ジョージア料理」と呼ばれることが多くなっているが、アメリカ合衆国のジョージア州における伝統料理の「ジョージア料理」(南部料理およびを参照)とは何の関係も無い。.

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ゲヴォルク・アリハニャン

ヴォルク・サルキソヴィチ(サルギソヴィチ)・アリハニャン(Геворк (Геворг) Саркисович (Саргисович) Алиханян、1897年 - 1938年2月13日)、民族名ゲヴォルグ・サルグシ・アリハニアン(Գևորգ Սարգսի Ալիխանյան)Армянская советская энциклопедия|ссылка.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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コーカサス山脈

ーカサス山脈(コーカサスさんみゃく)は、黒海からカスピ海まで東西に走る山脈である。ロシア語からカフカース山脈ともよばれる。ロシアでは大カフカース山脈()と呼び、南の小カフカース山脈()と区別している。 ギリシア神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つでゼウスがプロメーテウスを鎖で繋いだ場所でもある。.

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ゴリ (シダ・カルトリ州)

リ(グルジア語:გორი,, ロシア語:)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)西部の都市である。ゴーリ、ゴーリーとも。シダ・カルトリ州の首府がおかれている。 人口は4万7059人(2009年)。 旧ソ連の指導者・スターリンの生地である。1883年までスターリンが住んでいた生家は、ゴリのスターリン博物館に展示されている。 市の中心街にスターリン像が残存していたが、2010年6月25日未明に撤去された。撤去は人目につかないよう隠密に行われ、マスコミによる取材も警察に阻止された。その代わりに、2008年に発生した南オセチア紛争での犠牲者の追悼記念碑を設置するとしている。.

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ゴレスターン条約

レスターン条約(ゴレスターンじょうやく、Гюлистанский договор、عهدنامه گلستان)は、アゼルバイジャンのゴレスターンにて、ロシア帝国とカージャール朝によって1813年10月24日(ユリウス暦では12日)に締結された、ザカフカス地方の領有権を巡る条約。 当地を巡って1804年以降、断続的に発生していたロシア帝国とカージャール朝の第一次ロシア・ペルシア戦争は、でロシア帝国が勝利して大勢が決し、カージャール朝はアラス川以北の地域をロシアに割譲し、グルジアに対する主権を放棄した。イギリスの調停仲介をきっかけとして1813年に結ばれたゴレスターン条約によってカスピ海の航行権をロシアに認め、アゼルバイジャン地域のロシア化がすすむきっかけとなった。.

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ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国

フカース社会主義連邦ソビエト共和国(ザカフカースしゃかいしゅぎれんぽうソビエトきょうわこく)は、1922年から1936年まで存在したソビエト連邦構成共和国。スターリン憲法の施行にともない廃止された。.

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ザカフカース民主連邦共和国

フカース民主連邦共和国(ザカフカースみんしゅれんぽうきょうわこく、Закавказская демократическая Федеративная Республика)とは、1918年4月から5月にかけて南カフカース(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)に存在した連邦国家。ロシア革命にともない、アゼルバイジャンのミュサヴァト党、アルメニアのダシナク党(民族主義者)、ジョージア(グルジア)のメンシェヴィキを中心としてロシアからの分離、独立を果たしたが、2ヶ月も経たないうちに3カ国に分裂した。.

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ザクロ

(石榴、柘榴、若榴、学名: )は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木、また、その果実のこと。 庭木などの観賞用に栽培されるほか、食用になる。.

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シノープの海戦

ィノプの海戦(Синопское сражение)は1853年11月30日にロシア海軍がオスマン帝国の軍港スィノプを急襲、オスマン艦隊を撃沈し港湾を破壊した、クリミア戦争の海戦。イギリス・フランス両国がクリミア戦争介入を決意するきっかけとなった戦いでもある。.

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シアマント

アマント(Սիամանթո, 1878年1月1日 - 1915年8月)、本名アトム・ヤルジャニアン (Ատոմ Եարճանեան) は、アルメニア人の詩人。アルメニア人虐殺を扱った詩を多く著し、を広く訴えたが、最後には自らも虐殺の犠牲となった。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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ジョージアとロシアの関係

ョージアとロシアの関係(Российско-грузинские отношения、Georgia-Russia relations)では、コーカサスに所在するジョージア(グルジア)とロシア連邦の関係について説明する。ジョージアもロシアもともに1991年までは同年に解体したソヴィエト連邦を構成する15共和国のうちの2国(グルジア・ソビエト社会主義共和国およびロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)を前身としている。 黒海東岸に所在するジョージアは、コーカサス山脈をはさんで北側に大国ロシア連邦、南東にアゼルバイジャンとアルメニア、南はトルコと境を接する共和制国家である『世界の地理14:ロシア・北ユーラシア』(1998)pp.1900-1901「ジョージア」『データブック2016』(2016)pp.194-195。ジョージアは1991年のソ連崩壊以来、ロシア支配からの脱却を図り、欧米に接近する政策をとってきた山内(2010)pp.236-249。.

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ジョージアにおけるサッカー

ョージアにおけるサッカーでは、南コーカサスにあるジョージア国(グルジア)におけるサッカーの歴史と普及状況について解説する。 サッカーはジョージア国で最も人気があるスポーツである。ジョージアサッカー連盟がサッカー競技を統括している。連盟により男子代表、女子代表、フットサル代表が組織される。イギリスの商人が30世紀初頭にポティで行っていたものが広まったのをジョージアにおけるサッカーの起源とする。 ジョージアはUEFA EURO 2020の開催地に立候補したが、落選した。.

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ジョージアの国名

本項では、南コーカサスにあり日本語でジョージア(, )、またはグルジア(, )と呼ばれている国家の名称について解説する。 英語圏で使われている同国の外名(エクソニム)である"Georgia"の語源は明らかではないが、ギリシャ語起源説、キリスト教の聖人説、ペルシア語起源説などがあり、これらのいくつかが混ざった説もある。ジョージア国政府はラテン文字表記の"Georgia"を基準的な外名と定義しており、ロシア語由来(異説あり)とされる外名"Gruziya"(, グルジア)の使用を積極的に排除しようとしている。.

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ジョージアの旗

ョージアの旗(ジョージアのはた、Flag of Georgia).

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ジョージア州

ョージア州(State of Georgia )は、アメリカ合衆国の南東部にある州。州都はアトランタ市で、人口で州内最大の都市でもある。1776年にアメリカ独立宣言をした13州の1つである。コカ・コーラやCNN、アフラックの本社などがあることでも知られている。 ジョージア植民地として1732年に設立されており、13植民地の中では最後のものだった。アメリカ合衆国憲法を1788年1月2日に批准しており、合衆国への加盟順位としては4番目になった。1861年1月21日にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国建国7州の1つになった。1870年7月15日にアメリカ合衆国に復帰したが、これは最後の州となった。 アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第24位、人口では第8位である。2007年から2008年の人口増加率では州内14郡が国内100傑に入っており、テキサス州に次いで多い数だった。「モモの州」や「南部の帝国州」と呼ばれる。 ジョージア州の南はフロリダ州、東は大西洋とサウスカロライナ州、北はノースカロライナ州とテネシー州、西はアラバマ州に接している。北部にはアパラチア山脈に属するブルーリッジ山脈がある。中央部のピードモント台地は丘陵部から滝線まで広がっており、滝線から川が流れ落ちて南部の大陸性海岸平原に流れ込んでいる。ミシシッピ川より東では最も陸地面積が広い州だが、水域を含む総面積では第4位である(ミシガン州、フロリダ州、ウィスコンシン州に次ぐ)。.

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ジョージアサッカー連盟

ョージアサッカー連盟(საქართველოს ფეხბურთის ფედერაცია, Georgian Football Federation)は、南コーカサスのジョージアにおけるサッカーを統括する競技運営団体。国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟している。 日本ではかつて2015年4月まで政府が使用していた外名を基に「グルジアサッカー連盟」と呼ばれていたが、FIFAに国名の変更が届け出られた訳ではない。当連盟の国名はFIFAおよびUEFAに加盟した1992年当初から現在まで一貫して、両団体が公用語とするフランス語では""(ジェオルジ)、英語では"Georgia"(ジョージア)である。.

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ジョージア国のスポーツ

古代グルジア人のイコン芸術に描かれたレスリング ジョージア国のスポーツ(ジョージアこくのスポーツ)では、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)のスポーツ事情について説明する。 歴史的にみれば、ジョージアはその体育教育がことに有名であり、ローマ人たちは古代イベリア王国のトレーニング技術を見たのち、古代グルジア人たちの身体的資質に魅了されたことが知られている。また、たぐいまれな歴史的変動を経験しながら彼らは尚武の気風を有しつづけた前田(2005)pp.178-179。幾度も異民族支配を受けながらも、「チダオバ」と称される古式武術や民族舞踊など、独特の文化を保ちつづけてきたのである。 ジョージアで最も人気のあるスポーツといえばサッカー、バスケットボール、ラグビーユニオン、レスリング、柔道および重量挙げである。 19世紀のジョージア(当時、グルジア)で有名な他のスポーツは、馬を用いておこなうポロとジョージア伝統の球技(レロ)であったが、レロの競技者はしだいにラグビーをおこなうようになっていった。.

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ジョージア国の経済

旧ソヴィエト連邦諸国のひとりあたりGDPの推移(2014年以降は推計) ジョージアの経済(Economy of Georgia)は、南コーカサスに所在するジョージア(グルジア)とその国民によって形成される、ひとつの新興自由市場経済である。この国の国内総生産(GDP)はソ連崩壊(1991年)にともない急落したが、平和的なバラ革命(2003年)によってもたらされた経済的・民主的諸改革によって2桁台の経済成長を遂げ、2000年代中葉には復活を遂げた。ジョージアは、「2003年のほとんど機能不全に近い状態から2014年には比較的良好に機能する市場経済へと動いた」と形容されるほどの経済発展をつづけている 。2007年には世界銀行が、ジョージアを「世界随一の経済改革者」と命名しており、 でも常に上位に位置する国である。 ジョージア経済はまた、比較的自由で(トランスペアレンシー)の高い雰囲気のなかでサポートされている。トランスペアレンシー・インターナショナルの2015年報告書によれば、この国は黒海地域で最も腐敗の少ない国であり、隣接する諸国よりも透明性において上回り、ヨーロッパ連合諸国とほぼ並ぶ水準であるとしている。あわせてメディア環境においては、ジョージアは出版の自由に対してほとんど敬意の払われることのない周辺諸国のなかで唯一報道の自由をもつ国である。 2014年以来、ジョージアはヨーロッパ連合(EU)のの一部となっており、対EU貿易はジョージアにおける貿易総額の4分の1以上を占め、EUは同国にとって最大の貿易相手であり続けている欧州委員会,, Retrieved: 7 May 2016。EUとの貿易協定ののち、2015年には二国間の相互貿易はさらなる増加を記録したが、一方、ロシア連邦を中心とする独立国家共同体(CIS)との貿易は急激に減少した。.

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ジョージア国の行政区画

本項では、南コーカサスにあるジョージア国の行政区画(ジョージアこくのぎょうせいくかく)について解説する。ジョージア(グルジア)国内は2つの自治共和国、9つの州(Mkhare)にトビリシ首都圏を含め、12の行政区に分かれている。 アブハジア自治共和国と旧南オセチア自治州(シダ・カルトリ州などを領域とする)はそれぞれアブハジア共和国と南オセチア共和国という名称で独立宣言をしている。ジョージア政府はこれを認めていないが、現在も事実上独立状態にある。また、アブハジア及び南オセチア内ではジョージア政府が制定したものではなく、独自の行政区画を使用している。.

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ジョージア国内オリンピック委員会

ョージア国内オリンピック委員会(ジョージアこくないオリンピックいいんかい、、)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の国内オリンピック委員会。1989年に設立され、1993年に国際オリンピック委員会に加盟した。 本部は首都のトビリシに置かれている。国際オリンピック委員会、ヨーロッパオリンピック委員会、その他の国際的なスポーツ団体組織に加盟している。ジョージアのスポーツ界を発展させるための活動を行っている。.

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ジョージア国関係記事の一覧

ョージア国関係記事の一覧(ジョージアこくかんけいきじのいちらん)は、日本語版ウィキペディア内のジョージア(グルジア)に関係する記事の一覧である。.

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ジョージア技術大学

ョージア技術大学(ジョージアぎじゅつだいがく、საქართველოს ტექნიკური უნივერსიტეტი Georgian Technical University, GTU)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)で最大規模の公立工科大学。 1万2000人以上の学生と約1500人の教職員を擁する。1922年にトビリシ大学工学部として出発し、1928年にV.I.レーニン記念グルジア工学院 (Georgian Politechnical Institute)として独立した後、1990年にジョージア技術大学となった。.

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ジョージア時間

ョージア時間(GET)は、南コーカサスのジョージア(グルジア)で使用されている標準時であり、同国内の全域で一つに統一されている。2004年6月27日に、UTC+4からUTC+3に変更され、2005年5月27日に再びUTC+4に戻された。 夏時間は採用していない。.

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ジワリ修道院

ワリ修道院(グルジア語:ჯვრის მონასტერი)は、グルジア正教会の修道院。単に「ジワリ」とも言われる。6世紀の建築で、ジョージア(グルジア)の東部ムツヘタ(世界遺産)の近郊に位置する。修道院の名称を直訳すると、「十字架の修道院」となる。これと同名のグルジア人による修道院が、エルサレムにも存在する。.

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ジプシー

プシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。外名であり、当人らの自称ではない。.

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スペツナズ

ペツナズ (спецназ, Spetsnaz) とは、ロシア語の「特殊任務部隊」(подразделения специального назначения)の略語である。 第二次世界大戦中にも複数の指揮・命令系統に類似の名称・任務を有する部隊が存在したが、当項目では戦後のGRU所属下の特殊任務部隊について記述する。.

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スレン・オセピャン

レン・グリゴリエヴィチ・オセピャン(オフセピャン / オセピャンツ)(Сурен Григорьевич Осепян (Овсепян / Осепянц)、1890年12月10日 - 1918年9月20日)、民族名スレン・グリゴリ・ホヴセピアン(ホヴセピアンツ)(Սուրեն Գրիգորի Հովսեփյան (Հովսեփյանց))は、アルメニア人の革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。.

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スヴォボードナヤ・グルジア

『スヴォボードナヤ・グルジア』(«Свободная Грузия»、「自由なジョージア」)は、南コーカサスのジョージア国(グルジア)で発行されているロシア語新聞。ジョージア国内のマイノリティに向けた情報提供を使命とする。.

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スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

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セルゲイ・キーロフ

ルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ(Сергей Миронович Киров, 1886年3月27日(ユリウス暦3月15日) - 1934年12月1日)は、ソビエト連邦の革命家、政治家。本姓はコーストリコフ(Ко́стриков)。レニングラード・ソビエト議長。.

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ソロモン・モギレフスキー

モン・グリゴリエヴィチ・モギレフスキー(Соломон Григорьевич Могилевский、1885年 - 1925年3月22日)は、チェキスト。.

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サメド・アガ・アガマリ・オグルィ

メド・アガ・アガマリ・オグルィ(アガマルィ・オグルィ / アガマルィ・オグル)(Самед Ага Агамали оглы (Агамалы оглы / Агамалы оглу)、Səməd ağa Ağamalı oğlu、1867年12月27日 - 1930年10月6日)、本名サメド・アガ・ガサン(ハサン)・アガ・オグルィ・アリエフ (Самед Ага Гасан Ага оглы Алиев、Səməd ağa Həsən ağa oğlu Əliyev) は、アゼルバイジャン人の革命家・政治家・文筆家。姓名は分かち書きされずサメダガ (Самедага, Səmədağa)・アガマリオグルィ(アガマルィオグルィ / アガマルオグル / アガマリオグル) (accessdate / Агамалыоглы, isbn / AğamalioğluСоюз писателей Азербайджана|accessdate.

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サルドゥリ2世

ルドゥリ2世(Sarduri II, サルドゥルSardur、サルドゥリシュŠardurišとも)は、ウラルトゥの王。在位:紀元前753年頃 - 735年頃。ウラルトゥ王国史上最大の版図を獲得したが、アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世に敗れ、ウラルトゥの衰退が始まった。.

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全ロシア・ムスリム大会

全ロシア・ムスリム大会(ぜんロシア・ムスリムたいかい)は、第1次ロシア革命期からロシア革命期にかけてのロシアで開催された、ムスリム諸民族による大会である。特にロシア革命中の1917年5月、モスクワで開催された「第1回大会」が知られている。.

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第106親衛空挺師団 (ロシア空挺軍)

106親衛空挺師団(106-я гвардейская воздушно-десантная дивизия;略称106 гв.ВДД)は、ロシア空挺軍の師団の1つ。モスクワ軍管区内のトゥーラに駐屯。「赤旗勲章」、「クトゥーゾフ二等勲章」を有する。1988~1991年、アレクサンドル・レベジが師団長を務めていた。 最近、外国の代表団、駐在武官の見学を受け入れている。.

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統葉護可汗

統葉護可汗(漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhùkĕhàn、? - 628年)は、西突厥の可汗。射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。.

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独立主張のある地域一覧

立主張のある地域一覧(どくりつしゅちょうのあるちいきいちらん)とは、ある地域において公に独立を主張する勢力がある地域の一覧である。.

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聖ゲオルギウス十字

聖ゲオルギウス十字(せいゲオルギウスじゅうじ,St George's Cross)は白地に赤い十字。聖ゲオルギオスの伝説にちなむものである。英語読みでセント・ジョージ・クロスとも呼ばれ、イングランドの国旗などに用いられている。赤色はゲオルギオスの血を意味している。.

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西南アジア

西南アジア(せいなんあじあ)はアジアの一角を指す地域概念であるが、場合によって指し示す地理範囲が大きく異なるので、注意を要する。英語でSouthwest Asia、 Southwestern Asiaの場合、一般にアフガニスタンからトルコ、エジプトに至る地域を指す。.

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近東

近東(きんとう、Near East)とは、ヨーロッパから見て東にある国々の内、それほど離れていないものを指す。.

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Mk.VIIテトラーク軽戦車

Mk.VII 軽戦車 テトラークは、第二次世界大戦時にイギリスによって開発、使用された軽戦車。空挺戦車としても使用された。「テトラーク (Tetrarch)」とは、古代ローマにおける四帝分割(テトラルキア)時代の分割統治者の意味。.

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NIS諸国

NIS諸国(New Independent States)通称 NIS (ニーズ)は、1991年以前のソヴィエト連邦ならびにその構成共和国であった地域であり、同時にこの地域に存在する国家の総称である。.

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Su-25 (航空機)

Su-25(スホーイ25、スホイ25;(ロシア語:スー・ドヴァーッツァチ・ピャーチ)は、ソ連のスホーイ設計局が開発した攻撃機(シュトゥルモヴィーク)である。ソ連での愛称はグラーチュ(:ミヤマガラス。ロシアやウクライナに生息する小型のカラスの仲間)。北大西洋条約機構(NATO)の使用したNATOコードネームは「フロッグフット」()。.

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東部国内軍管区

東部国内軍管区(Восточный округ внутренних войск)は、ソ連、ロシア内務省(MVD)国内軍のロシア極東地域における軍事行政単位、統合部隊。軍管区本部は、ハバロフスクに位置する。.

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欧州近隣政策

欧州近隣政策(おうしゅうきんりんせいさく)とは欧州連合における、欧州連合の領域と境界を接する地域を対象とする外交政策の枠組み。 ENP(European Neighbourhood Policy)とも呼ばれる。 欧州連合と接する国はおもに発展途上国が多く、それらの中には欧州連合への加盟や経済関係の強化を模索する国がある。 欧州連合は近隣国に対して、政治改革や経済改革、そのほかの積極的な転換にかかわる問題への取り組みについての規定に適う限りにおいて、財政的な支援を提供する。このプロセスは通常、アクション・プランに基づいており、欧州連合側と対象国とのあいだで合意されたとおりに実行される。 欧州近隣政策では、欧州連合への加盟協議や安定化・連合プロセスが進められている国を対象に含めていない。また欧州自由貿易連合や欧州連合と関税同盟を結成している国も対象からはずされる。 一般的に欧州連合は連合協定を締結するにあたって、相手国の政治・経済・通商・人権についての政策転換を確約することを求めている。連合協定が成ると、相手国は欧州連合の域内市場の一部(工業製品や農作物など)または全部への参入にあたっての関税が免除され、また財政的・技術的支援を受けることができる。 欧州連合の公式ウェブサイトによると、欧州近隣政策の目的は2004年の欧州連合の拡大による利益を近隣諸国と共有することである。また拡大した欧州連合と近隣諸国とのあいだに新たなカーテンを出現させないということも企図されている。また欧州近隣政策の展望とは、近隣諸国が正式に欧州連合に加盟せずとも、ヨーロッパのさらなる統合に引き入れるということである。欧州近隣政策は2003年3月に欧州委員会で初めて机上に上げられたものである。このときアジアとアフリカのすべての地中海沿岸諸国、ヨーロッパに属する南カフカースの諸国、東ヨーロッパ諸国を対象とすることとされた。ロシアは欧州近隣政策への参加ではなく、両者の間で4つの共通空間(経済、自由・安全・.

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欧州連合の拡大

EUの拡大を記念するプレートカーディフのビュート・パークにある。上段が1973年のイギリスの加盟、下段が2004年の第5次拡大について記述されている。 欧州連合の拡大(おうしゅうれんごうのかくだい)では、欧州統合の過程において、欧州連合 (EU) の創設からその後の加盟国の増加、現在進行されている加盟協議、将来の拡大の展望とこれらにかかわる事象について概説する。 EUは欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) の原加盟国である6か国が、1957年にローマ条約を締結したことを起点として創設され、2013年にはその加盟国数が28にまで増えている。これまでの拡大の中では2004年5月1日の拡大は規模として最大であり、新たに10か国が加盟した。直近の拡大は2013年7月1日にクロアチアが加盟したものである。 また EU では現在も複数の国との加盟協議が行われており、拡大の過程はヨーロッパの統合として言及される。しかし、拡大は同時にEU加盟国間の協力の強化を意味し、各国政府はその権限をEUの機構に段階的に集中させていることにもなる。 EUへの加盟のためには、加盟を希望する国は経済や政治に関する条件を満たす必要があり、これは一般的にコペンハーゲン基準としてまとめられている。この基準によると、永続的で民主的な政府、法の支配、自由と政治体制が EU の理念に一致していることが求められている。またマーストリヒト条約では、拡大には既存の加盟各国と欧州議会の同意を得なければならないと定められている。 以前のEU基本条約であるニース条約では欧州連合理事会での議決方式について、加盟国数が27までしか対応できない制度となっている。このため欧州憲法条約では制度の改定を盛り込んでいたが、同条約は批准が断念されている。今後の拡大に備えるためにも新たな基本条約の策定が求められ、2007年12月13日にリスボンのジェロニモス修道院において加盟国の代表らによって署名され、2009年12月1日に発効した。.

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民族問題人民委員部

民族問題人民委員部(みんぞくもんだいじんみんいいんぶ、Народный комиссариат по делам национальностей)は、1917年の十月革命直後から1924年までのソビエト・ロシアに存在した人民委員部。略称はナルコムナーツ (Наркомнац)。本部は当初ペトログラードに置かれたが、後にモスクワのに、さらに後にはへ移転した。.

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我が心のジョージア

我が心のジョージア」 は、ジャズのスタンダード・ナンバーの一つである。アメリカ合衆国の南部にあるジョージア州の州歌ともなっている。.

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26人のバクー・コミッサール

C. Dobson & J. Miller ''The Day We Almost Bombed Moscow'' Hodder and Stoughton, 1986. p96。 26人のバクー・コミッサール(26にんのバクー・コミッサール、26 бакинских комиссаров)とは、バクー・コミューン (Бакинская коммуна) のメンバーであったボリシェヴィキとの党員たちである。 バクーに設立され、ステパン・シャウミャンに率いられたこのコミューンは、1918年6月26日にメンシェヴィキと社会革命党右派に倒されるまで存在した。コミューンの崩壊後、メンバーはバクーを逃れようとしたが、カスピ海艦隊中央委員会独裁政権によって捕らえられ、投獄された。ソ連側の史料によれば、オスマン帝国軍占領下のバクーで、同年9月14日に赤軍の兵士らがコミッサールたちのいる刑務所を襲撃し、彼らを解放した。その後、コミッサールたちはクラスノボツク行きの船に乗り込もうとしたが、ほどなく地元の当局に逮捕され、同月20日にカスピ海横断鉄道沿線で処刑されたという。.

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