ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

列聖

索引 列聖

列聖(れっせい、Canonizatio)とは、キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。死後に行われる。 カトリック教会においては徳と聖性が認められた福者 (羅:Beatus / 英:Blessed) が聖人 (羅:Sanctus / 英:Saint) の地位にあげられることをいう。 正教会にも列聖制度はあるが、福者と聖者を分けることはしない。このため正教会での列聖は、聖性が認められた信者が聖人の地位にあげられることをいう。.

292 関係: 加藤一二三十字架のヨハネ司祭大村のマリナ大津事件大浦天主堂学校法人仁川学院対立教皇尊者山口愛次郎崇敬中世ヨーロッパにおける教会と国家中国正教会地球平面説ペルミペトロ・ド・ベタンクールナザレのヨセフミハイル・ヤロスラヴィチミルティアデス (ローマ教皇)マリアの宣教者フランシスコ修道会マリア・マザレロマリア・デ・レオンマリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)マリア・ゴレッティマルギトマルグリット・ブールジョワマールブルクマーガレット・オブ・スコットランドマイカル・ジャッジマキシミリアノ・コルベマザー・テレサマザー・テレサに対する批判ネポムクのヨハネハワード家ハンガリーの聖マルガリタハビエル・エチェバリーア・ロドリゲスハインリヒ・ラスペバニョレージョポンティニー修道院ムーロムメリダのエウラリアメフメト・アリ・アジャモレームのロベールヤロスラフ・スヴャトスラヴィチヤヌシュ・ラジヴィウ (1579-1620)ヤドヴィガ (ポーランド女王)ユリアヌス (曖昧さ回避)ユスティン・ポポヴィッチヨハネ23世 (ローマ教皇)ヨハネ・ボスコ...ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)ヨハネス15世 (ローマ教皇)ヨークシャーラースロー1世ラースロー4世ラファエル・アルナイス・バロンラファエル・カリノフスキーリマのローザリンゲルハイムのマティルデリカルド・パンプーリリジューのテレーズルルドの聖母ルイ9世 (フランス王)ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールレフ・トルストイレオポルト3世 (オーストリア辺境伯)レオン君主一覧ロマノフ家の処刑ロンドン・チャーターハウスロベルト・ベラルミーノロシア正教会ロス・アンデスのテレサヴァルプルギスの夜ヴァンサン・ド・ポールボナヴェントゥラボリスとグレブボリス・ウラジミロヴィチ (ロストフ公)ボヘミアのリュドミラトマス主義トマス・モアトマス・アクィナストマス西トレンティーノ (マチェラータ県)トゥールのマルティヌスヘルメネギルドヘンリー2世 (イングランド王)ヘンリク3世 (グウォグフ公)ブルグントのアーデルハイトプラハのアダルベルトパウロ6世 (ローマ教皇)パウロ三木ピピン1世ピウス10世 (ローマ教皇)ピウス12世 (ローマ教皇)ピウス5世 (ローマ教皇)ピエール・ファーヴルピオ神父テレーザ・マルゲリータ・レディティーホン (モスクワ総主教)ディエゴ喜斎フランツィシェク・ガヨウィニチェクフランシスコ会フランシスコ・ボルハフランシスコ・ザビエルフランシスコ・サレジオフランスのカトリックフランスの歴史年表フランセス・ブランドンフルトン・J・シーンファウスティナ・コヴァルスカフアン・ボルジアフィリップ4世 (フランス王)フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)フィオーレのヨアキムフォリーニョのアンジェラフセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公)ドミンゴス中村長八ドラ・デル・オヨニコライ (日本大主教)ニコライ2世ニコラス・オーウェン (イエズス会士)ニザームッディーン廟ホルクムホセマリア・エスクリバーダミアン神父ダヴィド4世ダニール・アレクサンドロヴィチベネディクト16世 (ローマ教皇)ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)ベルナデッタ・スビルーベーラ4世列福アナスタシア・ニコラエヴナアマート・ロンコーニアネシュカ・チェスカーアルベリックアレクシイ2世アレクセイ・トルップアレクサンデル6世 (ローマ教皇)アレクサンデル7世 (ローマ教皇)アレクサンドル・ネフスキーアンナ・デミドヴァアンナ・シェーファーアンナ=テレサ・ティミエニエツカアントニオ・マリア・クラレアンテルス (ローマ教皇)アンジェラ・メリチアンセルムスアヴィス騎士団アーノルド・ヤンセンアッシジのフランチェスコアッシジのキアラアビラのテレサアフォンソ5世 (ポルトガル王)イリティツャ川イングランドとウェールズのカトリックイングランド教会史イヴァン・ハリトーノフイベリアのアンティムイグナチオ・デ・ロヨライシドールスイサベル・デ・アラゴン・イ・シシリアウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ノヴゴロド公)ウルバヌス8世 (ローマ教皇)ウプサラ大聖堂ウスチ・イジョラエリザベトエリザベス・アン・シートンエルネスト・コフィニョエルジェーベト (ハンガリー王女)エヴフロシニヤ・ポロツカヤエーディト・シュタインエブロインエフゲニー・ボトキンエドマンド・キャンピオンエドマンド殉教王エドワード殉教王エドワード懺悔王エドギタオリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)オーラヴ2世 (ノルウェー王)オーストラリアのカトリックオトラントの戦いオプス・デイオスカル・ロメロカミロ・デ・レリスカミーノ (映画)カルロ・ボッロメーオカール大帝カトリック教会カテリーナ・ボルピチェルリカジミェシュ (聖人)ガンディアキャサリン・ドレクセルキュリロス (スラヴの(亜)使徒)キリスト教用語一覧キンガ (ポーランド王妃)ギーゼラ・フォン・バイエルンクリステロ戦争クレメンス・マリア・ホフバウアークロード・ド・ラ・コロンビエールクール (スイス)クエルナバカ大聖堂グルジアの歴史グレゴリウス11世 (ローマ教皇)グレゴリウス15世 (ローマ教皇)グレゴリウス9世 (ローマ教皇)グアダルーペの聖母 (メキシコ)ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)ゲオルギー (キエフと全ルーシの府主教)コンラート・フォン・マールブルクコンラート・フォン・テューリンゲンシモノペトラ修道院シャラモン (ハンガリー王)シロンスクのヤドヴィガシンプリキウス (ローマ教皇)シエナのカタリナジャチント・ジョルダーノ・アンサローネジャン・ド・ジョアンヴィルジャンヌ・ド・コンスタンティノープルジャンヌ・ド・シャンタルジャンヌ・ダルクジャシンタ・マルトジュゼッピーナ・バキタジョン・フィッシャージェンマ・ガルガーニスヴャトスラフ・フセスラヴィチステファン・ハーディングステファヌス10世 (ローマ教皇)スコットランド王国セバスティアヌスセッツェのカルロゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会ゾフィー・フォン・ブラバントタチアナ・ニコラエヴナサラ (カリ)サレジアン・シスターズサント・アントニオ・デ・リシュボア教会サント・シャペルサント=カトリーヌ (ローヌ県)サンタ・サビーナ聖堂サンタクロースサン=ドニ大聖堂国王国教忌避火薬陰謀事件神のヨハネス福者第7回十字軍狼と香辛料盧基南韓国のキリスト教聖女聖人聖心会聖心侍女修道会聖マラキ聖トマス西と15殉教者聖テレジアの法悦聖アグネス聖イシュトヴァーンの王冠聖イシュトヴァーン大聖堂聖ウルスラ聖ウィリブロルド聖エリザベート教会 (マールブルク)聖クラレチアン宣教会聖王血の中傷裁かるるジャンヌ金大建長崎のマグダレナ陳日君李篤安殉教日本二十六聖人日本二十六聖人記念館日本ハリストス正教会日本聖殉教者教会悪魔の代弁者政教分離原則教皇教皇の辞任教皇勅書教派別のキリスト教用語一覧13世紀3月12日5月16日6月8日7月4日8月9日9月14日 インデックスを展開 (242 もっと) »

加藤一二三

加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )は将棋棋士。 実力制6人目の名人。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。2017年6月20日に現役を引退した。福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授(2017年6月23日 - )。 戦前生まれの名人経験者最後の存命者である。「の天才」「神武以来(じんむこのかた)」とは「(初代天皇神武天皇が即位して)我が国始まって以来の」または「他に例がないほど非常に優れた」という意味で、神武景気に沸く1955年の流行語。 ・「1分将棋の神様」「interview 信念を貫き通した棋士人生60年」『マイナビムック 将棋世界スペシャルno.4 加藤一二三』、マイナビ、2013年、p.36-49の異名を持つ。.

新しい!!: 列聖と加藤一二三 · 続きを見る »

十字架のヨハネ

十字架のヨハネ(Juan de la Cruz,1542年-1591年12月14日)は16世紀のスペインのカトリック司祭、神秘思想家。アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。カトリック教会・聖公会で聖人であり、教会博士の一人。記念日は12月14日。この記念日はアメリカ福音ルター派教会でも祝われている。.

新しい!!: 列聖と十字架のヨハネ · 続きを見る »

司祭

司祭(しさい)とは、キリスト教における位階の一つ。東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。 プロテスタントには、万人祭司の教理により司祭がおらず、指導者として牧師がいる。.

新しい!!: 列聖と司祭 · 続きを見る »

大村のマリナ

大村のマリナ(おおむら - 、生年不明 - 1634年10月15日)は、江戸時代前期のドミニコ会第3会修道女。カトリック教会の聖人。.

新しい!!: 列聖と大村のマリナ · 続きを見る »

大津事件

大津事件(おおつじけん)は、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件である。 当時の列強の一つであるロシア帝国の艦隊が神戸港にいる中で事件が発生し、まだ発展途上であった日本が武力報復されかねない緊迫した状況下で、行政の干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。裁判で津田は死刑を免れ無期徒刑となり、日本政府内では外務大臣・青木周蔵と内務大臣・西郷従道が責任を負って辞職し、6月には司法大臣・山田顕義が病気を理由に辞任した。.

新しい!!: 列聖と大津事件 · 続きを見る »

大浦天主堂

大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である「天主教」は、かつて使われたカトリック教会の漢字表記で、中華人民共和国では現在もそう表記される。。江戸時代幕末の開国後、1865年(元治2年)に建立された。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。正式名は日本二十六聖殉教者天守堂。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。 1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する文化財の1つである。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された。 信仰の場であるとともに観光地でもあり、拝観は有料である。大人600円、2018年4月1日からは「キリシタン博物館」開設に伴い1000円となる。 観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われているとは言え現在も特定日などに限って礼拝を行うこともあるため、拝観の際には脱帽・静粛・(建物内)撮影禁止・禁煙となっており、その旨信徒発見記念の聖母像の下の看板に記載されている。.

新しい!!: 列聖と大浦天主堂 · 続きを見る »

学校法人仁川学院

学校法人仁川学院(がっこうほうじんにがわがくいん)は兵庫県西宮市甲東園二丁目に事務局を置く学校法人である。.

新しい!!: 列聖と学校法人仁川学院 · 続きを見る »

対立教皇

対立教皇(たいりつきょうこう、Antipapa、Antipope)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。.

新しい!!: 列聖と対立教皇 · 続きを見る »

尊者

尊者(そんしゃ、Venerabile、 Ven.)とは、カトリック教会において、ある人物を聖人の列に加えること(列聖)を最終的な目的とする調査の開始を宣言された後、様々な調査によって、その人物の生涯が英雄的、福音的な生き方であったことを公認した時につける敬称。正教会の克肖者に相当する。 列聖のための調査業務は、ローマ教皇庁の組織である列聖省が取り扱う。まず、同省がある人物の列聖調査の開始を宣言すると、その人は「神の僕」(かみのしもべ)と呼ばれ、調査の結果、尊者としての要件を満たすと公認されると尊者と宣言される。 尊者についてさらに調査が行われ、「徳ある行為あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると証されたときには、所定の手続を経て、福者の列に加えられる(列福)。列福の後、さらに厳密な調査が行われ、所定の手続を経て「生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人」と公認されると、聖人の列に加えられる(列聖)。.

新しい!!: 列聖と尊者 · 続きを見る »

山口愛次郎

山口愛次郎(やまぐち あいじろう、1894年(明治27年)7月14日 - 1976年(昭和51年)9月24日)は、カトリック教会の司教。カトリック長崎大司教区の司教・大司教を務めた。洗礼名は「パウロ」。.

新しい!!: 列聖と山口愛次郎 · 続きを見る »

崇敬

崇敬(すうけい、veneration)とは、一般的に「崇め敬うこと」を意味する。キリスト教の中でもカトリック教会では、本来の信仰対象である三位一体の神、すなわち「父なる神」と「御子キリスト」と「聖霊」に対する信仰と区別して、人間である聖母マリアや聖人たちに対して使用する宗教概念・用語である。.

新しい!!: 列聖と崇敬 · 続きを見る »

中世ヨーロッパにおける教会と国家

The Cross of Mathildel 教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと教皇領は世俗国家に回収された。現在ローマ教皇庁は独立国家バチカン市国にある。 中世ヨーロッパ史においては、西欧諸国の学界においても日本の学界においても「教会と国家」と称せられる巨大な研究領域が存在する。前近代社会においては政教分離を基本的な原則とする現代の先進国とは異なり、宗教と政治は不可分の要素として存在しており、西ヨーロッパ中世世界の特有なあり方に多くの研究者の興味が寄せられて来た。 本記事では、中世ヨーロッパにおける教会(カトリック)と国家のありかたの推移を概説する。この期間は一般に封建時代と呼ばれる。ここでは西ローマ帝国滅亡後、キリスト教普遍世界の成立期から宗教改革の起こるまでの、およそ500年から1500年までの約1000年間を取り扱う。.

新しい!!: 列聖と中世ヨーロッパにおける教会と国家 · 続きを見る »

中国正教会

中国正教会(ちゅうごくせいきょうかい)は、正教会の中国における自治教会。 中国には他に、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあり、中国のみならず台湾でも活動する香港および東南アジア府主教区がある。.

新しい!!: 列聖と中国正教会 · 続きを見る »

地球平面説

地球平面説(ちきゅうへいめんせつ)とは、地球の形状が平面状・円盤状であるという過去に議論された宇宙論である。.

新しい!!: 列聖と地球平面説 · 続きを見る »

ペルミ

ペルミ(ペルム;ロシア語:Пермьピェールミ;ラテン文字転写の例:Perm’)はロシアの都市である。ウラル山脈西側のふもと、カマ川の両岸に広がる。沿ヴォルガ連邦管区に属するペルミ地方の州都。人口は981,200人(2004年)。 工業都市として、機械工業、石油・化学工業、木材加工、軍事産業などが盛ん。シベリア鉄道が通る鉄道の分岐点で、陸上・水上交通の要衝でもある。モスクワから1,385km。ペルミ第2駅(ペルミ・ドヴァー)が中心的な鉄道駅となっている。 1723年に建設される。1781年からペルミ市。1940年から1957年までは、モロトフ(Молотов)と呼ばれていた。1870年に創立されたペルミ国立オペラ・バレエ劇場が有名。ペルミ国立大学やペルミ国立工科大学などの高等教育機関がある。 地質学用語のペルム紀はこの街の名にちなむ。.

新しい!!: 列聖とペルミ · 続きを見る »

ペトロ・ド・ベタンクール

ペトロ・ド・ベタンクール(Pedro de San José Betancur, 1626年3月21日 - 1667年4月25日)は、フランシスコ会修道士。スペイン領グアテマラの宣教師であり、ベツレヘムの聖母の騎士団の創設者である。教皇ヨハネ・パウロ2世によって1980年に列福され、2002年に教皇によって列聖された。カナリア諸島生まれ初の聖人であり、グアテマラと中米初の聖人とみなされている。.

新しい!!: 列聖とペトロ・ド・ベタンクール · 続きを見る »

ナザレのヨセフ

ナザレのヨセフ『新約聖書』では「ヨセフ」として言及されるのみで「ナザレのヨセフ」という表現はない。日本聖書協会のを参照。(יוֹסֵף, Ἰωσήφ)は、新約聖書に登場するマリアの婚約者、夫にしてイエスの養父。職業は大工であったという木材加工業者(佐藤研「イエス」『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年、66頁)。カトリック教会、正教会、東方教会、聖公会およびルーテル教会で崇敬されている。カトリック教会では1870年に教皇ピウス9世により、全教会の普遍的な守護聖人であると宣言された。祝日は3月19日カトリック教会では祭日。日曜日と重なると翌日に記念する()。カトリック教会の祭日は祝祭日のうちのもっとも重要なものを言う(「祭日」『オックスフォード キリスト教辞典』 E. A. リヴィングストン 編、木寺廉太 訳、教文館、2017年、324頁)。。1955年には教皇ピウス12世により、5月1日が労働者聖ヨセフの日に制定された。カトリック教会では「義人で忠実な人である聖ヨセフ」と呼ばれており、日本ハリストス正教会では「イオシフ」と呼ぶ。.

新しい!!: 列聖とナザレのヨセフ · 続きを見る »

ミハイル・ヤロスラヴィチ

ミハイル・ヤロスラヴィチ(、1271年 - 1318年11月22日)は、最初トヴェリ公(1285年 - 1318年)、従兄弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチの死後ウラジーミル大公(在位:1304年-1318年)。別名トヴェリのミハイル。モスクワのユーリー3世のライヴァルであり、サライで処刑された。正教会の聖人。.

新しい!!: 列聖とミハイル・ヤロスラヴィチ · 続きを見る »

ミルティアデス (ローマ教皇)

ミルティアデス(Miltiades, ? - 314年1月10日)は、ローマ教皇(在位:311年7月10日 - 314年1月10日)。.

新しい!!: 列聖とミルティアデス (ローマ教皇) · 続きを見る »

マリアの宣教者フランシスコ修道会

マリアの宣教者フランシスコ修道会(Franciscan Missionaries of Mary、略称: F.M.M.)は、ローマに本部を置くカトリックの修道会で1877年にマリー・ド・ラ・パシオンによってマリアの宣教会が創立。教皇ピウス9世により承認。1885年には正式にマリアの宣教者フランシスコ修道会となる。 1900年には義和団事件で7人が殉教。中国百二十聖人として列聖されている。.

新しい!!: 列聖とマリアの宣教者フランシスコ修道会 · 続きを見る »

マリア・マザレロ

マリア・マザレロ(イタリア語:Maria Domenica Mazzarello, 1837年5月9日 - 1881年5月14日)は、19世紀に活躍した北イタリアの聖女・教育者。サレジアン・シスターズ(扶助者聖母会)の創立者。カトリック教会の聖人であり、記念日は5月13日。.

新しい!!: 列聖とマリア・マザレロ · 続きを見る »

マリア・デ・レオン

マリア・デ・レオン・ベージョ・イ・デルガード (スペイン語: María de León Bello y Delgado, 1643年3月23日 - 1731年2月15日) はスペインのドミニコ会の神秘家。「(神の)小さなしもべ」を意味する"La Siervita"(英語:the Little Servant)の通称で知られている。出身地であるカナリア諸島では、ペトロ・ド・ベタンクール、ジョゼ・デ・アンシエタと共に崇敬されている。奇跡の記録が多数残されている人物であり、1992年から2度目の列聖審査を受けている。.

新しい!!: 列聖とマリア・デ・レオン · 続きを見る »

マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(, 1899年6月26日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第三皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族や従者とともに19歳の若さで銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。.

新しい!!: 列聖とマリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女) · 続きを見る »

マリア・ゴレッティ

マリア・ゴレッティ(Maria Goretti, 1890年10月16日 - 1902年7月6日)は、殺人被害者となったイタリアの少女。カトリック教会の殉教者、聖人。.

新しい!!: 列聖とマリア・ゴレッティ · 続きを見る »

マルギト

マルギト(Margit)は、ハンガリー語圏の女性名。マーガレット、マルグリット、マルゲリータ、マルガリータ、マルガレーテ、マルグレーテ、マルケータに当たる。;ハンガリー王女.

新しい!!: 列聖とマルギト · 続きを見る »

マルグリット・ブールジョワ

マルグリット・ブールジョワ マルグリット・ブールジョワ(Marguerite Bourgeoys, 1620年4月17日 - 1700年1月12日)は、フランス出身のカナダの教育活動家。カトリック教会の聖人。 カトリック教会の聖人暦では、1月12日をマルグリット・ブールジョワの日と定めている。.

新しい!!: 列聖とマルグリット・ブールジョワ · 続きを見る »

マールブルク

マールブルク(Marburg、1977年まではMarburg (Lahn)が公式名称であった)は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州中部マールブルク=ビーデンコプフ郡の郡庁所在都市である。総合大学がある「ウニヴェルジテーツシュタット (Universitätsstadt)」(大学都市)である。ラーン川の河畔に位置する人口約 8 万人のこの都市は、ヘッセン州で7番目に大きな都市である。市域はラーン川の両岸に広がっており、西はグラーデンバッハ山地の中、東はラーンベルク(ラーン山地)を越えてアメーネブルク盆地の端にまで達している。 マールブルクは13世紀から都市権を有している。現在この街はギーセン行政管区の上級中心都市の機能を担っている。大きな中規模都市であるマールブルクは、ヘッセン州内の他の6つの中規模都市と共に、郡所属市としては特殊な地位にある。本市は郡の業務も処理しており、このため多くの点において郡独立市と同様の機能を有している。マールブルクには、プロテスタントが設立した総合大学で、現存する中で最も古いフィリップ大学マールブルクがあり、その建物や学生は現在も街の風景を創り出している。 マールブルク (Marburg) の名前は、この街がかつてのテューリンゲン方伯領とマインツ大司教領との境界 ("mar(c)") に位置していることに由来する。マールブルクの特筆すべき見所としては、聖エリーザベト教会、旧大学校舎、方伯の城とその麓に位置する地元では「オーバーシュタット」と呼ばれる旧市街が挙げられる。.

新しい!!: 列聖とマールブルク · 続きを見る »

マーガレット・オブ・スコットランド

マーガレット・オブ・スコットランド(Margaret of Scotland, 1045年頃 - 1093年11月16日)は、スコットランド王マルカム3世の2番目の王妃。イングランドのサクソン人王エドマンド2世の息子エドワード・アシリングの娘。エドガー・アシリングの姉。マーガレット・オブ・ウェセックス(Margaret of Wessex)とも。カトリック教会と聖公会で聖人とされる。.

新しい!!: 列聖とマーガレット・オブ・スコットランド · 続きを見る »

マイカル・ジャッジ

マイカル・ジャッジ(Mychal Judge, O.F.M., 1933年5月11日 - 2001年9月11日、Michael Fallon Judge, マイケル・ファーロン・ジャッジとも)は、フランシスコ会の修道士、カトリックの司祭。ニューヨーク市消防局のチャプレン(教会でなく社会組織に使える司祭)であった。2001年のアメリカ同時多発テロ事件のさなか、世界貿易センタービルでの職務中に殉職し、事件における最初の死者として認定されている。.

新しい!!: 列聖とマイカル・ジャッジ · 続きを見る »

マキシミリアノ・コルベ

マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maksymilian Maria Kolbe、1894年1月8日 - 1941年8月14日)は、ポーランドのカトリック司祭。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、「アウシュビッツの聖者」と呼ばれる。カトリック教会の聖人で記念日は8月14日。.

新しい!!: 列聖とマキシミリアノ・コルベ · 続きを見る »

マザー・テレサ

マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)、あるいはコルカタの聖テレサ (Saint Teresa of Calcutta) は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ (Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ (Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。 「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。 生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民は彼女を入れて、わずか7人しかいない)。.

新しい!!: 列聖とマザー・テレサ · 続きを見る »

マザー・テレサに対する批判

マザー・テレサ この記事はカトリック教会の修道女であり伝道師であったマザー・テレサに対する批判を扱う。 マザー・テレサは45年以上の長きにわたり、貧しい人、病める人、孤児、末期の人たちのために尽くしてきただけでなく、インドから世界中に広がった彼女の信徒たちを導いてきた。死後にはヨハネ・パウロ2世がテレサを列福し、2016年9月にフランシスコによって列聖されて聖人となり、彼女の命日である9月5日は祝日となった。 世界中の人々から讃えられ、各国の政府や組織から称賛を受けたマザー・テレサだが、彼女に対しては生前から批判や告発、抗議の声も少なくなかった。その矛先は例えば彼女の修道会の資金管理であり、末期の人への洗礼の奨励や医療ケアのクオリティ、そして植民地主義やレイシズムのアイコンとなっていることであった。.

新しい!!: 列聖とマザー・テレサに対する批判 · 続きを見る »

ネポムクのヨハネ

ネポムクの聖ヨハネ(プラハ、カレル橋) プラハ、聖ヴィート大聖堂にある聖ヨハネの墓 カレル橋の聖ヨハネ像下部にあるレリーフ ネポムクの聖ヨハネ(チェコ語:Svatý Jan Nepomucký, 1340年頃 - 1393年3月20日)は14世紀ボヘミアの司祭でローマ・カトリック教会の聖人。聖ヤン・ネポムツキーとも呼ばれ、しばしば十字架や棕櫚の枝を手にし、頭上に5つの星が輝く人物として描かれる。記念日は5月16日。.

新しい!!: 列聖とネポムクのヨハネ · 続きを見る »

ハワード家

ハワード家(Howard family)は、イギリスの貴族の家系。 1483年にノーフォーク公爵に叙せられたジョン・ハワードを祖とする。2014年現在、爵位を有するハワード家にノーフォーク公爵家、エフィンガム伯爵家、サフォーク伯爵家、カーライル伯爵家、ペンリスのハワード男爵家の5つが存在する。.

新しい!!: 列聖とハワード家 · 続きを見る »

ハンガリーの聖マルガリタ

ハンガリーの聖マルガリタ(Sancta Margarita Hungariae)、ハンガリー語名マルギト(Szent Margit, 1242年1月27日 - 1270年1月18日)は、カトリックの聖人。ハンガリー王国アールパード朝の王女。ハンガリー国王ベーラ4世とマリア・ラスカリナ王妃の第9子である。叔母にカトリック・聖公会・ルーテル教会の聖人であるエルジェーベト(エリザベト)がいる。.

新しい!!: 列聖とハンガリーの聖マルガリタ · 続きを見る »

ハビエル・エチェバリーア・ロドリゲス

ハビエル・エチェバリーア・ロドリゲス(Javier Echevarría Rodríguez / マドリード、1932年6月14日 - ローマ2016年12月12日)はスペイン出身のカトリック教会の司教で、オプス・デイ属人区長(第二代)であった。尊称「パドレ」。.

新しい!!: 列聖とハビエル・エチェバリーア・ロドリゲス · 続きを見る »

ハインリヒ・ラスペ

ハインリヒ・ラスペのシール ハインリヒ・ラスペ(Heinrich Raspe, 1204年 - 1247年2月16日、ヴァルトブルク)は、テューリンゲン方伯(在位:1241年 - 1247年、1227年から甥ヘルマン2世の後見人を務めていた)、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世およびその息子のコンラート4世の対立王(在位:1246年 - 1247年)。父はテューリンゲン方伯ヘルマン1世、母はバイエルン公オットー1世の娘ゾフィア。ルートヴィヒ4世の弟、コンラートの兄。 「ハインリヒ・ラスペ」という名前は、テューリンゲンの君主一族であったルードヴィング家にしばしば現れる名前ではあるが、ほとんどは君主の弟に付けられる名前であり、本稿の人物ほどの重要人物は他にいない。但し、学問上は区別のため、この人物をハインリヒ・ラスペ4世と呼ぶ場合もある。.

新しい!!: 列聖とハインリヒ・ラスペ · 続きを見る »

バニョレージョ

バニョレージョ(Bagnoregio)は、イタリア共和国ラツィオ州ヴィテルボ県にある人口約3700人の基礎自治体(コムーネ)。 崩壊により絶壁となった岩山の上に残る中世都市チヴィタ・ディ・バーニョレージョの特異な景観で知られる。.

新しい!!: 列聖とバニョレージョ · 続きを見る »

ポンティニー修道院

ポンティニー修道院のファサード。ポーチが付属している。 ポンティニー修道院(Abbaye de Pontigny)はフランス、ブルゴーニュ地域圏、ヨンヌ県のポンティニーに現存する旧シトー会修道院。シトー会最初の4子院の1つであり、その教会堂は現存するシトー会建築としては最大級の規模を持ち、また現存最古のシトー会修道院として知られるフォントネーのシトー会修道院とほぼ同時期に建設された箇所も残っている(改装が行われた後陣以外。詳細は後述『建築』節を参照)。19世紀に始まるシトー会建築の再発見では、ポンティニー修道院はかなり早い段階から研究が行われた。フランスの「歴史的記念建造物」にも指定されている。.

新しい!!: 列聖とポンティニー修道院 · 続きを見る »

ムーロム

ムーロム市の紋章 ムーロム(Му́ром, フィンランド語: Muromi, 古ノルド語: Moramar, 英語: Murom)はロシア・ヴラジーミル州の歴史ある都市。モスクワから東へ約300km、オカ川の左岸に沿って市街が広がり、モスクワとカザンを結ぶ鉄道が通る。人口は126,901人(2002年)。.

新しい!!: 列聖とムーロム · 続きを見る »

メリダのエウラリア

''聖エウラリア''、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス画。1885年。テート美術館蔵 メリダのエウラリア(スペイン語:Eulalia de Mérida, 290年 - 304年)は、初期キリスト教の殉教者。ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の共同統治時代、ルシタニアのエメリタ(現在のメリダ)で殉教した。ローマ・カトリックの聖人となっており、祝日は12月10日。逃亡者・拷問の犠牲者の守護聖人。メリダ及びオビエドの守護聖人。 12歳から14歳だったというエウラリアは、キリスト教徒として純潔を捧げるつもりであった。304年頃、彼女は母親によって田舎へ隔離されていた。なぜなら、市民全てがローマの神々を信仰するよう強制されていたからである。エウラリアは知事の法廷でキリスト教徒であることを告白し、多神教の神とマクシミアヌス帝を侮辱して逃亡した。貴族らは彼女を殉教させようとした。判事はおべっかを使ったり賄賂を使おうとしたが失敗に終わった。5世紀の詩人プルデンティウスによると、エウラリアはこう言ったという。 彼女は兵士たちによって服を引きはがされ、ねじで固定され松明で焼かれる拷問に遭わされ、火刑にされた。彼女は煙を吸って窒息した。彼女はその間拷問をあざけり続け、口の中から鳩をはき出した。これにおびえきった兵士たちは逃げ、奇跡が起き、彼女の体を周囲の視線から隠すために雪が覆った。目撃者たちはエウラリアの聖人としての資格を確信したのである。 彼女の墓を祀る教会がすぐさま建てられた。エウラリアの列聖は350年になされ、既にキリスト教徒たちに人気があった。プルデンティウスの詩は彼女の名声を高め、彼女の聖遺物はイベリア半島を伝ってばらまかれた。司教フィデリスは、560年頃にエウラリアの名を冠した聖堂を再建した。彼女の菩提寺は、西ゴート王国時代にもっとも人気のあるものとなった。780年頃、遺体がアストゥリアス王シロによってオビエドへ移送された。1075年には、アルフォンソ6世によって捧げられたアラビア風の銀製棺が用意された。1639年、彼女はオビエドの守護聖人となった。 Category:カトリック教会の聖人 Category:キリスト教の殉教者 Category:3世紀の古代ローマ人 Category:4世紀の古代ローマ人 Category:290年生 Category:304年没 Category:スペインの歴史.

新しい!!: 列聖とメリダのエウラリア · 続きを見る »

メフメト・アリ・アジャ

メフメト・アリ・アジャ(Mehmet Ali Ağca, 1958年1月9日 -)は、トルコ出身の元テロリスト。1981年5月13日にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世をバチカンのサン・ピエトロ広場で銃撃した人物として知られる。.

新しい!!: 列聖とメフメト・アリ・アジャ · 続きを見る »

モレームのロベール

モレームのロベール(Robert de Molesme、1029年ごろ-1111年4月17日)あるいは聖ロベルトはカトリック教会に属する修道会、シトー会の創設者の一人。列聖もされている。 本項では以降、適宜「ロベール」と記述する。.

新しい!!: 列聖とモレームのロベール · 続きを見る »

ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ

ヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ(Ярослав Святославич、1070年代 - 1129年)は、キエフ大公スヴャトスラフ2世とオダ(ru)との間の長男である。ムーロム公:1097年 - 1123年、1127年 - 1123年。チェルニゴフ公:1123年 - 1127年。聖名はパンクラティー、また教会暦ではコンスタンチンと呼ばれる。.

新しい!!: 列聖とヤロスラフ・スヴャトスラヴィチ · 続きを見る »

ヤヌシュ・ラジヴィウ (1579-1620)

ヤヌシュ・ラジヴィウ公 ヤヌシュ・ラジヴィウ(ポーランド語:Janusz Radziwiłł;リトアニア語:Jonušas Radvila,1579年7月2日 - 1620年12月3日)は、ポーランド・リトアニア共和国のマグナート、公(帝国諸侯)。1599年よりリトアニア副酒膳官、1619年よりヴィリニュス城代、ボリソフの代官を務めた。リトアニア大ヘトマンを務めたクシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン公とその妻でコンスタンティ・ヴァシーリ・オストログスキ公の娘のカタジナの息子としてヴィリニュスで生まれた。弟にヘトマン、セイム議長として活動したクシシュトフ・ラジヴィウがいる。 1600年、ゲディミナス王朝の分枝であるオレルコヴィチ=スウツキ家の女子相続人ゾフィアと結婚し、莫大なラジヴィウ家の財産をさらに大きくすることになった。1612年にゾフィアが死ぬと同時に、寡夫となったヤヌシュは7つの城および宮殿、32にのぼる村を含む豊かな妻の遺産を相続したからである。ゾフィアは後に、生前の慈善事業と埋葬時に起こしたとされる奇跡により、ベラルーシ正教会に「スウツクのゾフィア」として列聖されている。翌1613年3月27日、ヤヌシュはブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの娘エリーザベト・ゾフィーと再婚し、一人息子のボグスワフをもうけた。 ヤヌシュの時代には、それまで一致していたラジヴィウ家と国家との利害関係に齟齬が生じるようになっていた。共和国の福利を無視して一族の利益を追求しながら、富と権力を蓄え続けつつプロテスタント信仰とリトアニア民族文化を保護していくというラジヴィウ家の従来の政治姿勢は維持しにくくなっていた。 父クシシュトフと同じく、ヤヌシュはリヴォニアでスウェーデンとの戦いに従事した。1606年のゼブジドフスキの反乱では首謀者の1人として国王ジグムント3世に公然と反旗を翻したものの、何の物質的な見返りも得ることは出来なかった。この反乱時に結成された連盟は、法的な保障をうけた武装同盟であり、世襲君主制、追加課税、大規模な常備軍の導入によって王権の強化を図ろうとしたジグムント3世の政治的構想をつぶすために結成されたものだった。 Category:ポーランドのプロテスタントの信者 Category:スルツク公 やぬしゆ1579 Category:1579年生 Category:1620年没.

新しい!!: 列聖とヤヌシュ・ラジヴィウ (1579-1620) · 続きを見る »

ヤドヴィガ (ポーランド女王)

ヤドヴィガ・アンデガヴェンスカ(ポーランド語:Jadwiga Andegaweńska,1373年10月3日/1374年2月18日 - 1399年7月17日)は、ポーランド王(在位:1384年 - 1399年)。ハンガリー王・ポーランド王ラヨシュ1世(ルドヴィク1世)の末娘、母はその2番目の妻でボスニア太守スティエパン2世の娘であるエリザベタ・コトロマニッチ。女性の君主でありながら女王(regina, queen)ではなく王(rex, king)の称号を持つが、これはヨーロッパでは非常に稀な例である。ハンガリー名はヘドヴィグ(Hedvig)。カトリック教会の聖人で、女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人である。.

新しい!!: 列聖とヤドヴィガ (ポーランド女王) · 続きを見る »

ユリアヌス (曖昧さ回避)

ユリアヌスもしくはユリアーヌス (Julianus) は、ラテン語の男性名。ユリウスから派生。聖ユリアヌスにあやかり、ユリアン、ジュリアン、ジュリアーノなど各欧語人名に使われる。.

新しい!!: 列聖とユリアヌス (曖昧さ回避) · 続きを見る »

ユスティン・ポポヴィッチ

ユスティン・ポポヴィッチ(Jустин Поповић、1894年 - 1979年)は、正教会の神学者、著述家、哲学者、の掌院。正教会で聖人。2010年5月2日にセルビア正教会聖シノドによって正式に列聖された。「ユスティン」は修道名。日本正教会では「イウスチン」と表記される。 父は正教の司祭。ベオグラード大学の聖サワ神学部で学ぶ。当時のベオグラード大学(聖サワ神学部)はのちに致命者となった主教ザグレブのドシテイのほか、正教会聖歌の作曲でも知られたシュテファン・モクラーニャッツなどの講師達を擁し、世界の正教会の中でも有名な存在であった。中でもユスティン・ポポヴィッチが最も影響を受けた師は、これものちに列聖されたである。 1916年に、ユスティンの修道名で修道士となる。その後、ロシア、ギリシャ、英国を訪れる。ロシア訪問時には当地の神学校に学び、ここで修道士としての生活を送った。英国ではオックスフォード大学では博士論文として『F.M.ドストエフスキーの哲学と宗教』を提出するが、これは受け入れられなかった。 ユーゴスラヴィアとなっていたカルロヴツィに1921年に戻ると、1922年に司祭に叙聖され、在外ロシア正教会の主教であったイオアン・マクシモヴィッチ、アントニイ・フラポヴィツキイらと共に働いた"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p275, ISBN 9780631232032。 1926年にアテネ大学神学部から博士号を授与される。 第二次世界大戦時までベオグラード大学神学部で教鞭をとっていたが、戦後ユーゴスラヴィアが共産主義化すると、共産主義政権下での宗教弾圧の一環として大学での職を追放されたため、ユスティンは、著述活動・翻訳活動を続けた。1948年にチェリエ修道院に居を定めるまでの間に、幾つかの修道院を転々とした。 チェリエ修道院で掌院に昇叙され、修道院の指導にあたった。1979年4月7日(旧暦3月25日)、誕生日と同日に永眠。.

新しい!!: 列聖とユスティン・ポポヴィッチ · 続きを見る »

ヨハネ23世 (ローマ教皇)

ヨハネ23世(Ioannes PP.、John XXIII、1881年11月25日-1963年6月3日)はローマ教皇(在位:1958年10月28日-1963年6月3日)、カトリック教会の司祭。本名は、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(Angelo Giuseppe Roncalli)。第2バチカン公会議の実施を指示して世界を驚かせ、実際に開会までこぎつけたが、会期途中で世を去った。エキュメニズム(教会一致)の精神に従って、他教会や他宗教との対話に積極的であった。カトリック教会の聖人である。ヨハネス23世とも表記される。15世紀の対立教皇であるヨハネス23世は同名の別人である。.

新しい!!: 列聖とヨハネ23世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ヨハネ・ボスコ

ョヴァンニ・メルキオッレ・ボスコ(伊:Giovanni Melchiorre Bosco,1815年8月16日 - 1888年1月31日、ドン・ボスコ、ドンはイタリア語で司祭への敬称。ヨハネはジョヴァンニを日本のキリスト教式に読んだもの)は、19世紀に活躍した北イタリアのカトリック司祭、教育者。カトリック修道会であるサレジオ会、扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の創立者。カトリック教会・聖公会で聖人であり、カトリック教会では出版関係者の守護聖人。記念日は1月31日。.

新しい!!: 列聖とヨハネ・ボスコ · 続きを見る »

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus PP.、英:John Paul II、伊:Giovanni Paolo II、波:Jan Paweł II、1920年5月18日 - 2005年4月2日)は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。 カトリック教会の聖人で、ヨハネ23世とともに、ピウス10世以来60年ぶりに列聖された教皇である。ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位:1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。 冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たした。 また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。.

新しい!!: 列聖とヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ヨハネス15世 (ローマ教皇)

ヨハネス15世(Ioannes XV、? - 996年4月1日)は、ローマ教皇(在位:985年 - 996年)。ローマ生まれ。レオ司祭という人物の子。クリュニー修道院による教会改革運動の保護者でもあった。 ヨハネス15世が教皇に就任した頃のローマは、ローマ貴族クレッシェンティウス2世の勢力下にあった。しかし989年に神聖ローマ帝国皇帝オットー3世の母にして摂政のテオファヌがローマに入城すると、クレッシェンティウス2世らローマ貴族勢力は抑えられ、その状況は991年まで続いた。 993年1月31日にラテラノで開催した教会会議にて、ヨハネス15世はアウクスブルクのウルリヒ司教の列聖式を執り行った。この列聖式は2月3日付けの教皇公文書にて仏独の司教たちに広報したものであった。これが史上初の教皇による列聖となる。 またヨハネス15世の在任中には、フランス王によるランス大司教叙解任に端を発する論争が巻き起こっていた。この混乱は叙任権闘争の初期段階と位置づけられる。 フランス王ユーグ・カペーはカロリング家出身のアルヌルフ(ロテールの庶子)を989年3月にランス大司教に任命した。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切り、叔父のロレーヌ公シャルルとともに同年9月にランスとランを占領。ユーグ・カペーは反撃して2人を捕らえてオルレアンに幽閉。991年6月にランス近郊サン・バールでの教会会議でアルヌルフは叛逆罪により降位させられ、後任にジェルベール(後のシルウェステル2世)が選出された。 サン・バール教会会議は教皇使節不在で行われたため、ヨハネス15世はローマから特使を派遣してアーヘンで教会会議を開催しサン・バール会議の反対決議を採択させようとしたが、アーヘン会議にフランス司教たちは参加せず、集まったドイツやロレーヌ地方の司教たちのみにより採択され、ジェルベールを破門とした。インゲルハイムでの会議にもフランス司教たちは参加しなかった。しかもフランス司教たちは994年にシェル教会会議を開いてアーヘンとインゲルハイムでの決議を無効とした。 ヨハネス15世はシェル教会会議に抗するためローマでの教会会議開催を求めたが、ローマは遠くその道程は厳しいとしてフランス司教たちは参加を拒否。それならばとヨハネス15世は再び特使を遣わしてムーゾンでの教会会議開催を通達。995年5月2日にムーゾン教会会議は開催。だがフランス側司教はフランス王によって参加が禁止されており、弁明を求めるジェルベール一人のみの参加であった。ムーゾン教会会議ではアルヌルフ罷免の無効が再び宣言された。 しかし皇太后テオファヌが離れたローマでは、金銭欲が強く血縁者を優遇していたヨハネス15世に対するローマ市民の不満が募っており、995年から996年の間にヨハネス15世はローマから追放される。皇帝オットー3世はローマを回復しようと進軍し、ジェルベールは皇帝に随行した。だがヨハネス15世は皇帝がローマに到着するよりも前の996年4月初旬に熱病で死亡。ランス大司教座の問題を解決する前に没することとなった。 ヨハネス15世の後任には、オットー3世によりオットー1世の曾孫ブルーノがグレゴリウス5世として選出された。 ヨハネス15世は自らのことを「教皇ヨハネス」の第15代目だと自覚し、公文書にも記している。だが、14世と15世の間にもう一人「教皇ヨハネス」が存在したという伝説があり、一部の歴史家はヨハネス15世のことを「16世」ないし「15世(16世)」としていた(対立教皇ボニファティウス7世がこの時期に教皇として君臨していた)。現在この伝説は否定されているが、混乱に起因する21世以降の世数は修正されないままである。 Category:教皇 Category:996年没 Category:ローマ出身の人物.

新しい!!: 列聖とヨハネス15世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ヨークシャー

ヨークシャー(Yorkshire 英、米)は、イングランドの北部にある地方である。一地方としてはイングランドで最大の面積をもち、様々な固有の文化を持っている。.

新しい!!: 列聖とヨークシャー · 続きを見る »

ラースロー1世

ラースロー1世(I.

新しい!!: 列聖とラースロー1世 · 続きを見る »

ラースロー4世

ラースロー4世((、、、1262年8月 - 1290年7月10日)は、アールパード朝ハンガリー王国、およびの国王(在位:1272年 - 1290年)。.

新しい!!: 列聖とラースロー4世 · 続きを見る »

ラファエル・アルナイス・バロン

聖ラファエル・アルナイス・バロン (スペイン語:Rafael Arnaiz Barón、1911年4月9日 - 1938年4月26日) は、スペイン人のカトリック修道士後述するように、彼は厳密には修道士ではなく、その前段階である修練者・献身者のまま世を去っている。。カトリック教会の聖人で記念日は4月26日。 20世紀に生まれ、20世紀に死んだ聖人である。 聖ラファエル修道者は、修道名であるマリア・ラファエルで知られている。また、列聖前は、マリア・ラファエル・アルナイス・バロンとして列福されていた。.

新しい!!: 列聖とラファエル・アルナイス・バロン · 続きを見る »

ラファエル・カリノフスキー

ラファエル・カリノフスキー(Rafał Kalinowski 本名:ユーゼフ、1835年 - 1907年)は、ポーランドのカトリック教会カルメル会の修道司祭、聖人。.

新しい!!: 列聖とラファエル・カリノフスキー · 続きを見る »

リマのローザ

リマのローサ リマの聖ローザ (Santa Rosa de Lima,1586年4月20日- 1617年8月24日)は、カトリック教会の聖人。ペルー生まれの、アメリカ大陸初の聖人である。祝日は8月23日。刺繍と庭師の守護聖人。インド、ラテン・アメリカ、ペルー、フィリピンの守護聖人。 1995年よりペルーの200ヌエボ・ソル紙幣に肖像が使用されている。.

新しい!!: 列聖とリマのローザ · 続きを見る »

リンゲルハイムのマティルデ

マティルデ・フォン・リンゲルハイム(Mathilde von Ringelheim, 895年頃 - 968年3月14日)は東フランク王ハインリヒ1世の妻。2人の長子オットーは、のちの神聖ローマ皇帝オットー1世である。英語表記でマティルダ(Mathilda)とも。 カトリック教会の聖人。記念日は3月14日。.

新しい!!: 列聖とリンゲルハイムのマティルデ · 続きを見る »

リカルド・パンプーリ

リカルド・パンプーリ(Riccardo Pampuri、本名:エルミニオ・エミリオ・アントーニオ、1897年8月2日 - 1930年11月1日)は、イタリアの医師、カトリック教会聖ヨハネ病院修道会修道士、聖人。.

新しい!!: 列聖とリカルド・パンプーリ · 続きを見る »

リジューのテレーズ

リジューの聖テレーズ(フランス語:Thérèse de Lisieux, 1873年1月2日 - 1897年9月30日)あるいは幼きイエスの聖テレジア、小さき花のテレジアは、19世紀フランスのカルメル会修道女。本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン。修道名は「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」。カトリック教会の聖人にして教会博士の一人。若くして世を去ったが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人である。 また、マザー・テレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられている。.

新しい!!: 列聖とリジューのテレーズ · 続きを見る »

ルルドの聖母

ルルドの聖母は、フランス・ルルドで起きた、14歳の少女ベルナデッタ・スビルーを証人とする聖母の出現である。.

新しい!!: 列聖とルルドの聖母 · 続きを見る »

ルイ9世 (フランス王)

ルイ9世(Louis IX, 1214年4月25日 - 1270年8月25日)は、フランス王国カペー朝第9代の国王(在位:1226年 - 1270年)。ルイ8世とカスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュの子。死後、カトリック教会より列聖され、ここから、Saint-Louis(サン=ルイ)と呼ばれるようになった。これは日本語では聖ルイあるいは聖王ルイと訳される。米国の都市、セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来ともなった(セントルイスはSaint-Louisを英語読みしたもの)。ブルボン家の先祖でもあり、同家の王の多くがルイを名乗るのも彼に由来すると思われる。同じく聖王と称されたカスティーリャ王フェルナンド3世は従兄。 内政に力を入れ長期の平和を保ったため、彼の治世の間、フランス王国は繁栄した。国内外を問わず、争いを収めるよう努力したためヨーロッパの調停者と呼ばれ、高潔で敬虔な人格から理想のキリスト教王と評価されている。ただ、宗教的情熱から2回の十字軍を行ったが、莫大な費用を費やし、自身も捕虜となるなど散々な負け戦を喫し、失敗に終わっている。.

新しい!!: 列聖とルイ9世 (フランス王) · 続きを見る »

ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール

ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール(フランス語Louis-Marie Grignion de Montfort)またはグリニョンド・モンフォールとは、著作・修道院及び学校の創立・福音伝道師など様々な活動を行ったフランスのローマ・カトリック教会の司祭である。モンフォールは、聴罪司祭や宣教師としてフランス各地を徒歩で巡り、その時代に福音伝道ではことに知られている。 モンフォールは福音伝道をするだけでなく、時間を見つけては、たくさんの著作物を書いている。それはカトリックの古典書となり、幾人かのローマ教皇に影響を与えた。モンフォールは特に聖母マリアへの深い崇敬、及びロザリオの祈りの実践で知られている。 モンフォールは、聖母神学の分野でその初期に著作活動を行った一人とされている。彼の著作には「聖母の秘密」や「聖母マリアへの誠の信心」があり、モンフォールの聖母マリアへの祈祷でもっとも著名なものがその中に収録されている。 モンフォールは「マリア宣教会」「英知修道女会」など修道会の創立や、貧しい少年少女のための無料学校の設立も手掛けた。 モンフォールはローマ教皇ピウス12世によって1947年7月20日に列聖された。刻像はジャコモ・パリにより作成され、サン・ピエトロ大聖堂に設置されている。.

新しい!!: 列聖とルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォール · 続きを見る »

レフ・トルストイ

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(露:, ラテン文字表記:Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828年9月9日〔ユリウス暦8月28日〕 - 1910年11月20日〔ユリウス暦11月7日〕)は、帝政ロシアの小説家、思想家で、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。 代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。.

新しい!!: 列聖とレフ・トルストイ · 続きを見る »

レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

レオポルト3世 レオポルト3世(Leopold III., 1073年 - 1136年11月15日)は、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯(在位:1095年 - 1136年)。オーストリア辺境伯レオポルト2世の子としてメルクに生まれる。事績はあまり多く知られていない人物と評される一方で、貴賎、聖俗問わず声望は高かったという、p.129。。後に列聖され、レオポルト聖伯とも呼ばれる。 1095年より辺境伯となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘でハインリヒ5世の姉アグネス(シュヴァーベン大公フリードリヒ1世の未亡人)と結婚し、バーベンベルク家の地位を高めた。1122年のヴォルムス協約締結においては政教両者の仲介に当たった。ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶すると、次のドイツ王候補としてあげられたが、この推薦は辞退した。 教会へのパトロンとしていくつかの大修道院を設立したことでも知られる。クライン・マリアツェル修道院前掲 。、1114年設立の(前身は1113年)、そして自身の子オットーのためにオーストリア最初のシトー会修道院であるハイリゲンクロイツ修道院を創設した。 1136年に死去。狩猟の最中に何らかの理由により死去したとされる前掲 。。そして自身の設立したクロスターノイブルクのクロスターノイブルク修道院に埋葬された。1485年、インノケンティウス8世により列聖された。1663年より、ニーダーエスターライヒ州とウィーンの守護聖人となって崇敬を集めている。 accessdate.

新しい!!: 列聖とレオポルト3世 (オーストリア辺境伯) · 続きを見る »

レオン君主一覧

アストゥリアス国王オルドーニョ1世 (850年–866年)の統治下で王国はレオンとして知られ始められるようになった。 910年にアストゥリアス王国が3人の息子間で分割されたことでレオン王国の独立の土台が築かれた。 レオン君主一覧を以下に挙げる。本項はアストゥリアス王の一覧の続きの一部である。.

新しい!!: 列聖とレオン君主一覧 · 続きを見る »

ロマノフ家の処刑

マノフ家の処刑(Расстрел царской семьи)とは、ロシア帝国のロマノフ家(皇帝ニコライ2世や妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、二人の5人の子供オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイ)と幽閉先に同行することを選んだ人すべて(有名なところではエフゲニー・ボトキンやアンナ・デミドヴァ、アレクセイ・トルップ、イヴァン・ハリトーノフ)が、1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で射殺・銃剣突き・などによって殺害された事件である。.

新しい!!: 列聖とロマノフ家の処刑 · 続きを見る »

ロンドン・チャーターハウス

ンドン・チャーターハウス (London Charterhouse)は、イギリス、ロンドンにあるかつてのカルトジオ会の修道院。現在のチャーターハウス広場北にある。以前はチャーターハウスのサットン病院(Sutton's Hospital in Charterhouse)という慈善病院が登記されていた。16世紀の修道院解散令以後、建物は個人の邸宅、少年の学校、養老院として使われてきた。1965年以降イズリントン区に属す。最寄りの駅は、バービカン駅とファリンドン駅(どちらもロンドン地下鉄とナショナル・レールが乗り入れている)である。.

新しい!!: 列聖とロンドン・チャーターハウス · 続きを見る »

ロベルト・ベラルミーノ

ベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(Roberto Francesco Romolo Bellarmino、1542年10月4日、モンテプルチャーノ - 1621年9月17日、ローマ)は、イタリア出身のイエズス会司祭で、ローマ・カトリック教会の枢機卿。カトリック改革に最も功労のあった枢機卿の一人。1930年、聖人および教会博士に列せられた。.

新しい!!: 列聖とロベルト・ベラルミーノ · 続きを見る »

ロシア正教会

ア正教会(ロシアせいきょうかい、Русская Православная Церковь、Russian Orthodox Church)は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。 正教会は一カ国に一つの教会組織を具えることが原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳ではなく、同じ信仰を有している。 教派名は「正教」「正教会」であり、「ロシア正教」「ロシア正教会」は主にロシア連邦・近隣地域を管轄する一教会組織名である。 本項では日本正教会による訳語を断りなく用いる場合がある。 17世紀の奉神礼改革に反対し古い奉事方法を守ったために主流派ロシア正教会から追放された古儀式派は、自らこそが正統なロシア正教会だとしている。.

新しい!!: 列聖とロシア正教会 · 続きを見る »

ロス・アンデスのテレサ

・アンデスのテレサ(Teresa de Jesus Los Andes、1900年7月13日-1920年4月12日)は、チリのカルメル会修道女、カトリック教会の聖人。本名、フアナ・フェルナンデス・ソラール(Juana Fernandez Solar)。.

新しい!!: 列聖とロス・アンデスのテレサ · 続きを見る »

ヴァルプルギスの夜

ヴァルプルギスの夜に焚かれるかがり火。スウェーデンにて ハイデルベルクでヴァルプルギスの夜を祝う群衆 ヴァルプルギスの夜(ヴァルプルギスのよる、Walpurgisnacht)は、4月30日か5月1日に中欧や北欧で広く行われる行事である。.

新しい!!: 列聖とヴァルプルギスの夜 · 続きを見る »

ヴァンサン・ド・ポール

ヴァンサン・ド・ポール、またはビンセンシオ・ア・パウロ(フランス語:Vincent de Paul, ラテン語:Vincentius a Paulo, 1581年4月24日 – 1660年9月27日) は、貧者に尽くしたカトリック教会の司祭である。カトリック教会と聖公会の両方で崇敬されており、1737年に列聖された。.

新しい!!: 列聖とヴァンサン・ド・ポール · 続きを見る »

ボナヴェントゥラ

ボナヴェントゥラ(Bonaventura, 1221年? - 1274年7月15日)は、13世紀イタリアの神学者、枢機卿、フランシスコ会総長。本名ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ。トマス・アクィナスと同時代の人物で、当代の二大神学者と並び称された。フランシスコ会学派を代表する人物の一人で、当時の流行だったアリストテレス思想の受容には批判的であった。カトリック教会の聖人。.

新しい!!: 列聖とボナヴェントゥラ · 続きを見る »

ボリスとグレブ

ボリスとグレブ、洗礼名ではロマンとダヴィドは、11世紀初期に没したキエフ大公国の人物で、当国の最初期のキリスト教の聖人である。11世紀に書かれたふたつの『ボリスとグレブ伝』(それぞれ年代記作家ネストルと修道士ヤコブの作とされる)では、ふたりはキエフ大公ウラジーミル1世の息子であり、かつ大公の最愛の子供たちであるといわれる。二人は、大公の死後、1015年から1019年にかけて行われた公位継承戦争のなかで殺害され、1071年にルーシの正教会により列聖された。正教会だけでなく東方典礼カトリック教会でも崇敬される。.

新しい!!: 列聖とボリスとグレブ · 続きを見る »

ボリス・ウラジミロヴィチ (ロストフ公)

ボリス・ウラジミロヴィチ(Борис Владимирович、986年頃 - 1015年7月24日)は、キエフ大公ウラジーミルの子である。ロストフ公:1010年頃 - 1015年。聖名ロマン。死後、兄弟のグレプ(ru)と共に聖ボリスとグレブとして列聖された。.

新しい!!: 列聖とボリス・ウラジミロヴィチ (ロストフ公) · 続きを見る »

ボヘミアのリュドミラ

ボヘミアのリュドミラ(860年頃 - 921年9月15日)は、チェコの殉教者で正教会とカトリックの聖人。聖ルドミラとも。 http://www.moraviamagna.cz/legendy/l_ludmp1.htm。--> ボヘミア公ヴァーツラフ1世の祖母として広く知られる。.

新しい!!: 列聖とボヘミアのリュドミラ · 続きを見る »

トマス主義

トマス主義(とますしゅぎ、Thomism)は、トマス・アクィナスの思想ないし教説を奉じる学派をいう。トミズムとも。.

新しい!!: 列聖とトマス主義 · 続きを見る »

トマス・モア

トマス・モア(Thomas More、1478年2月7日 - 1535年7月6日)は、イングランドの法律家、思想家、人文主義者。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。大法官まで登りつめたがヘンリー8世により反逆罪で処刑された。没後400年の1935年にカトリック教会と聖公会で聖人となる。.

新しい!!: 列聖とトマス・モア · 続きを見る »

トマス・アクィナス

トマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年頃 - 1274年3月7日)は、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者、哲学者。シチリア王国出身。ドミニコ会士。『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会と聖公会では聖人、カトリック教会の33人の教会博士のうちの1人。イタリア語表記ではトンマーゾ・ダクイーノ (Tommaso d'Aquino)。.

新しい!!: 列聖とトマス・アクィナス · 続きを見る »

トマス西

トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 - 1634年(寛永11年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人としてカトリック教会の聖人に列せられた。.

新しい!!: 列聖とトマス西 · 続きを見る »

トレンティーノ (マチェラータ県)

トレンティーノ(Tolentino)は、イタリア共和国マルケ州マチェラータ県にある、人口約2万人の基礎自治体(コムーネ)。.

新しい!!: 列聖とトレンティーノ (マチェラータ県) · 続きを見る »

トゥールのマルティヌス

トゥールのマルティヌス(ラテン語:Sanctus Martinus Turonensis、またマルタン、マルチノとも)は、キリスト教の聖人である。殉教をせずに列聖された初めての人物で八木谷涼子『キリスト教歳時記 知っておきたい教会の文化』平凡社新書、2003年、238-241頁。ヨーロッパ初の聖人でもある植田重雄『ヨーロッパの神と祭り-光と闇の習俗』早稲田大学出版部、1995年、3‐25頁。。日本のカトリック教会では聖マルチノ(ツール)司教と表記される。.

新しい!!: 列聖とトゥールのマルティヌス · 続きを見る »

ヘルメネギルド

ヘルメネギルド (Hermenegild、550年~555年頃/557年頃?/564年 - 585年4月13日)は、西ゴートの王族。レオヴィギルド王とヒスパノ・ローマ人の妻テオドシアの子。レカレド1世の兄。彼は当時イベリア半島で支配的だったアリウス派の教育を受けた(反対にヒスパノ・ローマ人はカトリックだった)。彼のカトリックへの改宗は父親との対立を生む原因となり、父親に対して反乱を起こし、捕らえられてから死んだ。 妻はイングンデ。子にアタナギルドがいる(曾祖父は西ゴート王アタナギルド。曾祖父アタナギルドの妻はバルト王家の血を引く西ゴート王アマラリックの娘とされるゴイスウィンタで、アタナギルドとアマラリック相互の関係は玄孫と高祖父となる。アタナギルド・ゴイスウィンタ夫妻の次女ブルンヒルドはイングンデの母でアタナギルドの祖母)。 弟レカレド1世の時代から約100年後に西ゴート王に即位したエルウィグの曾祖父とされる。 彼はカトリックの殉教者として1585年に列聖された。彼は改宗者の守護聖人とされ、聖名祝日は4月14日である。.

新しい!!: 列聖とヘルメネギルド · 続きを見る »

ヘンリー2世 (イングランド王)

ヘンリー2世(Henry II, 1133年3月5日 - 1189年7月6日)は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国の国王(在位:1154年 - 1189年)である。 父はフランス王国の有力貴族のアンジュー伯ジョフロワ4世、母は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の皇后で、皇帝ハインリヒの死後イングランドにもどり、その後、フランスに渡ってジョフロワ4世と再婚したマティルダである。外祖父(母マティルダの父)はイングランド王のヘンリー1世であった。母マティルダはヘンリー1世死後、1141年内の数か月という短期間ながらイギリス初(スコットランドを含めて)の女性君主となった人物である。 ヘンリー2世は頑丈な体躯をもち、猪首であった。また、「大食ではなく造化の間違い」でできたといわれるほどの巨腹であったが、波乱の生涯を送り、精力的に活動した堀米(1974)pp.238-241。父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、ピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「アンジュー帝国」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ。.

新しい!!: 列聖とヘンリー2世 (イングランド王) · 続きを見る »

ヘンリク3世 (グウォグフ公)

ヘンリク3世(Henryk III głogowski, 1251年/1260年 - 1309年12月3日)は、グウォグフ公(在位:1274年 - 1309年)、ヴィエルコポルスカの一部地域の公(在位:1306年 - 1309年)。グウォグフ公コンラト1世の長男で、母はヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツの娘サロメア。.

新しい!!: 列聖とヘンリク3世 (グウォグフ公) · 続きを見る »

ブルグントのアーデルハイト

ブルグントのアーデルハイト(Adelheid von Burgund, 931/932年 - 999年12月16日)は、イタリア王妃、東フランク王妃、そして最初の神聖ローマ帝国皇后。カトリック教会の聖人。オットー1世大帝の2番目の妃で、皇帝オットー2世の母親、皇帝オットー3世の祖母である。.

新しい!!: 列聖とブルグントのアーデルハイト · 続きを見る »

プラハのアダルベルト

プラハの聖アダルベルト (ドイツ語:Adalbert von Prag、チェコ語:Svatý Vojtěch、ポーランド語:Święty Wojciech、956年 - 997年4月23日)は、プラハ司教。バルト海沿岸の古プルーセン人に布教している最中、殉教した。チェコ語での読みはヴォイティエフ、ポーランド語の読みはヴォイチェフ。後にカトリック教会で聖人とされ、ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、プロイセンの守護聖人とされた。.

新しい!!: 列聖とプラハのアダルベルト · 続きを見る »

パウロ6世 (ローマ教皇)

パウロ6世(Paulus PP.、Paul VI、1897年9月26日 - 1978年8月6日)は、第262代ローマ教皇(在位:1963年6月21日 - 1978年8月6日)。カトリック教会の福者。 本名はジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ(Giovanni Battista Montini)。第2バチカン公会議をヨハネ23世から引継いで全うし、その理念の実施を促進。パウルス6世とも表記される。.

新しい!!: 列聖とパウロ6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

パウロ三木

パウロ 三木(パウロ みき、1560年代 - 慶長元年12月19日(1597年2月5日))は、安土桃山時代のキリシタンでイエズス会宣教師。当時の呼称では三木ポオロ。殉教して265年後に日本二十六聖人の一人としてカトリック教会の聖人となった。.

新しい!!: 列聖とパウロ三木 · 続きを見る »

ピピン1世

ピピン1世(ドイツ語:Pippin der Ältere, 580年頃 - 640年)は、カロリング家の祖。父はユーグ(在職:617年 - 623年)。「大ピピン」とも呼ばれる。メロヴィング朝フランク王のクロタール2世、ダゴベルト1世、シギベルト3世の治世にアウストラシア王国の宮宰(在職:615あるいは623年 - 629年、638/9年 - 639/40年)を務めた。.

新しい!!: 列聖とピピン1世 · 続きを見る »

ピウス10世 (ローマ教皇)

ピウス10世(Pius PP.

新しい!!: 列聖とピウス10世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ピウス12世 (ローマ教皇)

フランツ・フォン・パーペン(左から二人目)と教皇ピウス12世(右から三人目) ピウス12世(Pius PP.

新しい!!: 列聖とピウス12世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ピウス5世 (ローマ教皇)

ピウス5世(Pius V、1504年1月17日 - 1572年5月1日)はローマ教皇(在位:1566年 - 1572年)。本名アントニオ・ギスリエーリ(Antonio Ghislieri)。異端審問の世界で活躍した後、教皇として異端とプロテスタントとへの対抗に力に入れ、カトリック改革を推進した。カトリック教会の聖人。.

新しい!!: 列聖とピウス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ピエール・ファーヴル

ピエール・ファーヴル(Pierre Favre、1506年4月13日 - 1546年8月1日)は、16世紀フランス出身のカトリック司祭でイエズス会創立者の一人。その学識を高く評価され、教皇パウルス3世からトリエント公会議出席を要請されたが、果たせず病死した。 2013年12月17日に教皇フランシスコはファーブルを列聖した。.

新しい!!: 列聖とピエール・ファーヴル · 続きを見る »

ピオ神父

ピエトレルチーナのピオ(San Pio da Pietrelcina、Padre Pio da Pietrelcina、1887年5月25日 - 1968年9月23日)は、イタリア生まれのカプチン会の司祭。聖痕や病者の治癒や予言、リジューのテレーズの崇敬者で有名。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって1999年に列福され、2002年に列聖された。出生名はフランチェスコ・フォルジョーネ(Francesco Forgione)。一般に聖ピオ神父または聖パードレ・ピオとして知られている。.

新しい!!: 列聖とピオ神父 · 続きを見る »

テレーザ・マルゲリータ・レディ

テレーザ・マルゲリータ・レディ(Teresa Margherita Redi 本名:アンナ・マリーア、1747年7月15日 - 1770年3月7日)は、カトリック教会カルメル会の修道女、聖人。.

新しい!!: 列聖とテレーザ・マルゲリータ・レディ · 続きを見る »

ティーホン (モスクワ総主教)

モスクワの聖ティーホン(Св., 1865年1月31日(旧暦1月19日) - 1925年4月7日)は、モスクワ総主教であり正教会で崇敬される聖人(表信者・新致命者)。俗名はヴァシーリイ・イヴァノヴィチ・ベラヴィン(Василий Иванович Беллавин)。 モスクワ総主教座がピョートル1世により1721年に廃止され、聖務会院制が敷かれていたロシア正教会に、ロシア地方公会によってモスクワ総主教座が1917年に復活した際、復興されたモスクワ総主教座に最初に着座した。ロシア革命以降、ボリシェヴィキ政権(ソビエト連邦)による宗教弾圧への対応と教会の守護に苦心し、苦難の中に致命した。 アメリカ合衆国での教区を管轄して教区の発展に尽力した経歴もあることから、現代アメリカの正教会でも重要な聖人として崇敬されている高橋保行『迫害下のロシア教会』(66頁から67頁)教文館、1996年 ISBN 4764263254 (アメリカ正教会)。.

新しい!!: 列聖とティーホン (モスクワ総主教) · 続きを見る »

ディエゴ喜斎

ディエゴ喜斎(ディエゴきさい、葡:Diogo Kisai 、英:James Kisai 、天文3年(1534年)- 慶長2年12月19日(1597年2月5日))は安土桃山時代の日本の商人、キリシタン。イエズス会員。日本二十六聖人の一人として磔刑に処せられて殉教に至り、死後に列聖をもってカトリックの聖人として認められた人物。俗名(日本名・本名)を市川喜佐衛門史料や地域の案内看板には「市川喜左衛門」とするものもあるが、芳賀地域の参墓碑に刻まれた名では「市川喜佐衛門」としている。(いちかわきざえもん)と称す。また参り墓の在する岡山県岡山市北区芳賀では、ヤコボ喜斎(ヤコボきさい)と称され親しまれる。.

新しい!!: 列聖とディエゴ喜斎 · 続きを見る »

フランツィシェク・ガヨウィニチェク

フランツィシェク・ガヨウィニチェク(波:Franciszek Gajowniczek、1901年11月15日 - 1995年3月13日)は、第二次世界大戦期のポーランドの軍人。第二次世界大戦中にナチス・ドイツの捕虜となりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ収容され餓死刑に処されることになったが、その際同じく収容されていたカトリック教会の司祭、マキシミリアノ・コルベ(コルベ神父、コルベ司祭)の身代わりによって刑死から救われた人物として知られる。第二次世界大戦後は「アウシュヴィッツの生存者」の自覚から、身代わりとなって刑死したコルベ神父に関する講演活動を行った。.

新しい!!: 列聖とフランツィシェク・ガヨウィニチェク · 続きを見る »

フランシスコ会

フランシスコ会の会章 フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。 フランシスコ会は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。.

新しい!!: 列聖とフランシスコ会 · 続きを見る »

フランシスコ・ボルハ

聖フランシスコ・ボルハ (San Francisco de Borja, 1510年10月28日 - 1572年9月30日) は、スペインのイエズス会士。第3代イエズス会総長。カトリック教会の聖人で祝日は10月10日。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する守護聖人。.

新しい!!: 列聖とフランシスコ・ボルハ · 続きを見る »

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・デ・ザビエル( または, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。 ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。.

新しい!!: 列聖とフランシスコ・ザビエル · 続きを見る »

フランシスコ・サレジオ

フランシスコ・サレジオ(イタリア語 Francesco di Sales (Salesio), フランス語 François de Sales, 1567年8月21日 現フランス・アヌシー近郊・トラン=グリエール Thorens-Glières サール城 château de Sales - 1622年12月28日)はカトリック教会・聖公会の聖人。ジュネーヴ(現スイス)の司教。 17世紀の宗教改革の困難な時代にあって、カトリック教会の司牧者として大きな働きをした。 著作をよくしたことから作家、ジャーナリストの守護聖人でもある。著作としては「信心生活入門」などが有名。 貧者の友としても知られている。フランシスコ・サレジオの記念日は1月24日。.

新しい!!: 列聖とフランシスコ・サレジオ · 続きを見る »

フランスのカトリック

フランスのカトリックではフランスにおけるローマ・カトリック教会について記述する。.

新しい!!: 列聖とフランスのカトリック · 続きを見る »

フランスの歴史年表

フランスの歴史年表(フランスのれきしねんひょう)は、フランスおよびその前身で起きた重要な事件を記す。これらの事件の背景についてはフランスの歴史を参照。またフランス君主一覧、フランスの大統領も参照。.

新しい!!: 列聖とフランスの歴史年表 · 続きを見る »

フランセス・ブランドン

フォーク公爵夫人フランセスの寝棺像、ウェストミンスター寺院聖エドマンド礼拝堂 レディ・フランセス・ブランドン(Lady Frances Brandon, 1517年7月16日 - 1559年11月20日)は、16世紀イングランドの貴族女性。結婚後の姓名はフランセス・グレイ(Frances Grey, Duchess of Suffolk, Marchioness of Dorset)。イングランド王ヘンリー8世の妹メアリー王女と、初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンの長女。初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイの妻。 王室に最も血縁の近い親族の一人として、王位継承権者に数えられた。1553年、娘のジェーン・グレイを王位に就ける陰謀が計画されたが、メアリー1世によって阻止された。しかしジェーンと夫が処刑された後も生き延び、他の娘たちの相続権を保持し、宮廷で重きをなし続けた。 後世、ジェーン・グレイを政争の犠牲者と見なして偶像化する動きが起こると、その反動でフランセスを悪者扱いする風潮が強まった。その結果、フランセスは残忍で粗暴な母親であったとする、事実とはかけ離れた人物像が18世紀以降しばしば描かれるようになった。.

新しい!!: 列聖とフランセス・ブランドン · 続きを見る »

フルトン・J・シーン

フルトン・ジョン・シーン(英語:Fulton John Sheen、1895年5月8日-1979年12月9日)は、アメリカ合衆国のカトリック教会聖職者。ニューヨーク州ニューヨーク大司教区補佐司教及びロチェスター教区司教を務め、そのテレビによる伝道活動により、最初のテレビ伝道者の一人であると見做されている。.

新しい!!: 列聖とフルトン・J・シーン · 続きを見る »

ファウスティナ・コヴァルスカ

ファウスティナ・コヴァルスカ(Faustyna Kowalska、1905年8月25日 - 1938年10月5日、本名:ヘレナ・コヴァルスカ)は、ポーランドのカトリック教会の修道女、幻視者、聖人。.

新しい!!: 列聖とファウスティナ・コヴァルスカ · 続きを見る »

フアン・ボルジア

フアン・ボルジア (Juan Borja,2nd Duke of Gandia,1474年? - 1497年6月14日)は、スペインの2代目ガンディア公爵。ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)と愛人ヴァノッツァ・カタネイの子。兄弟にチェーザレ・ボルジア、ホフレ・ボルジア、妹にルクレツィア・ボルジアがいる。スペイン語読みでは「フアン・ボルハ」となるはずだが、日本では「フアン・ボルジア」または「ホアン・ボルジア」が一般的である。イタリア語ではジョヴァンニ・ボルジャ(Giovanni Borgia)。チェーザレの弟にあたるのか、兄にあたるのか、生年が諸説ある。 1493年、スペイン貴族マリア・エンリケス・デ・ルナと結婚し、2代目ガンディア公爵となり、テッサ公、サン・ピエトロ知事など多くの称号をアレクサンデル6世から授かった。 1497年6月14日、ピアッツァ・デッラ・ジュディッカ(ローマ市内のゲットー)近くで何者かに暗殺された。テヴェレ川に浮かんだ彼の遺体から、30ダカットの金貨の入った財布が見つかった為、強盗の仕業ではないことがわかった。一説では、チェーザレの仕業ではないかと噂された。 妃マリアとの間に2子をもうけた。長男フアン・ボルハ・イ・エンリケス(フアン・ボルジア)は3代目ガンディア公を継いだ。その子は、後にイエズス会第3代総長になり、列聖されるフランシスコ・ボルジアである。長女フランシスカ・デ・ヘスス・ボルハはバリャドリードの修道院で尼僧となった。 Category:ガンディア公 ふあん category:スペイン史の人物 Category:暗殺された人物 Category:1474年生 Category:1497年没.

新しい!!: 列聖とフアン・ボルジア · 続きを見る »

フィリップ4世 (フランス王)

フィリップ4世(、1268年 - 1314年11月29日)は、フランス王(在位:1285年 - 1314年)、およびナバラ王としてはフェリペ1世(、在位:1284年 - 1305年)。整った顔立ちのため「端麗王」(le Bel、ル・ベル)と称される藤田(1995)pp.106-109。 官僚制度の強化に努め、やがて絶対王政へとつながる中央集権化の第一歩を踏み出した。対外的には、毛織物業で栄え経済的に豊かであったフランドル地方の支配を目指し、フランドル諸都市の市民と激しく争った。ローマ教皇とも対立し、フランス国内の支持を得てアナーニ事件を起こし、最終的には教皇権を王権に従えて教皇庁をアヴィニョンに移し(アヴィニョン捕囚、または「教皇のバビロン捕囚」)、また、テンプル騎士団を異端として弾圧し、解散に追い込み、後世「教皇を憤死させた王」として一部より悪評を得ることとなった。これらはそれぞれ、教会の徴税権に対する権益拡大と騎士団財産の没収を意味した。また、フィリップはパリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりした。フィリップは封建関係の頂点に立ち、国家の防衛や国益のために従来の慣習を超えて行動した。.

新しい!!: 列聖とフィリップ4世 (フランス王) · 続きを見る »

フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)

20代アランデル伯爵フィリップ・ハワード(Philip Howard, 20th Earl of Arundel, 1557年1月28日 - 1595年10月15日)は、イングランドの貴族でローマ・カトリック教会における聖人。 第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの長男。父が処刑・私権剥奪されたため、ノーフォーク公爵位は継承できなかったが、母方の祖父ヘンリー・フィッツアランからアランデル伯爵位を継承した。しかしカトリックの信仰を捨てなかったためにロンドン塔に投獄されて獄死した。カトリックの殉教者と見做され、1970年に教皇パウルス6世によって列聖された。.

新しい!!: 列聖とフィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵) · 続きを見る »

フィオーレのヨアキム

フィオーレのヨアキム(ラテン語:Ioachim Florensis、イタリア語:Gioacchino da Fiore、1135年 - 1202年3月30日)は、中世イタリアの神秘思想家、キリスト教神学者。.

新しい!!: 列聖とフィオーレのヨアキム · 続きを見る »

フォリーニョのアンジェラ

フォリーニョのアンジェラ(イタリア語:Angela da Foligno, 1248年 – 1309年1月4日)は、カトリック教会の聖人であり、キリスト教の神秘家である。彼女は広範囲にわたり、神秘的な事柄を著作にしてきた。フランシスコ会第三会員であり、Magistra Theologorum としても知られている。アンジェラは霊的な著作によって知られるのみならず、閉鎖的な修道院に入ることを拒んだ人たちの宗教的共同体を設立したことでも知られる。 教皇クレメンス9世 が1701年7月11日にアンジェラを列福させ、教皇フランシスコが2013年10月9日に列聖した。 聖アンジェラの祝日はフランシスコ会第3会によって祝われる。アメリカ合衆国では1月7日。.

新しい!!: 列聖とフォリーニョのアンジェラ · 続きを見る »

フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公)

フセヴォロド・ムスチスラヴィチ(Всеволод Мстиславич、1095年以降 - 1138年2月11日)はキエフ大公ムスチスラフとその妻クリスティーナとの間の子である。ノヴゴロド公:1117年 - 1132年、1132年 - 1136年、ペレヤスラヴリ公:1132年、ヴィシゴロド公:1136年、プスコフ公:1138年。聖名ガヴリイル。またロシア正教会では、ブラゴヴェルヌィー(ru)・クニャージたるフセヴォロド・プスコフスキー(プスコフのフセヴォロド)として尊敬されている。.

新しい!!: 列聖とフセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ノヴゴロド公) · 続きを見る »

フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公)

フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ(Всеволод Святославич、? - 年代記上は1212年、V.タティチシェフ(ru)によれば1215年)はチェルニゴフ公スヴャトスラフ(ru)の子である。スタロドゥーブ公:1198年 - 1202年、チェルニゴフ公:1202年 - 1210年、キエフ大公:1206年 - 1207年、1210年 - 1212年。通称チェルムヌィー(赤毛の意)、聖名はおそらくダニール。.

新しい!!: 列聖とフセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公) · 続きを見る »

ドミンゴス中村長八

ドミンゴス中村長八(ドミンゴス なかむら ちょうはち、Domingos Chohachi Nakamura、1856年8月2日 - 1940年3月14日)は、明治時代から昭和戦前期にかけて活動した日本人のカトリック司祭。五島列島(現長崎県)出身。奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間ブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた。 1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受賞する。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、着任せずに同月にブラジルにて死去。2002年より列福調査が始まった。現在、日本人または日本で活動した人物のうちで、列福調査が進められている数人の一人である。列聖されれば、初の殉教者でない日本人聖人となる。五島市福江島の堂崎教会には中村についての資料が展示されている。 他の呼び名は「中村神父」「モンセニョール中村」「ブラジル日本移民の使徒」「日本移民の心の父」「Padre Nakamura」「Monsenhor Nakamura」など。.

新しい!!: 列聖とドミンゴス中村長八 · 続きを見る »

ドラ・デル・オヨ

ドラ・デル・オヨ ドラ・デル・オヨ・アロンソ(Dora del Hoyo Alonso, 1914年1月11日 - 2004年1月10日)は、スペイン・レオン県出身の家政婦。洗濯や掃除のような家事を通して平凡な生活の中で聖性を求めたオプス・デイのメンバーであった(最初のアシスタント・ヌメラリである)。2012年に列聖調査がローマで始まった。.

新しい!!: 列聖とドラ・デル・オヨ · 続きを見る »

ニコライ (日本大主教)

ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、Николай (Касаткин), 1836年8月1日(ロシア暦) - 1912年2月16日(グレゴリオ暦))は日本に正教を伝道した大主教(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。 「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述)、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた牛丸康夫『日本正教史』22頁、日本ハリストス正教会教団府主教庁 (1978/05) ASIN B000J8IFP0。 ニコライは修道名で、本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Иван Дмитриевич Касаткин)。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。 神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。.

新しい!!: 列聖とニコライ (日本大主教) · 続きを見る »

ニコライ2世

ニコライ2世(、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、、1868年5月18日(ユリウス暦5月6日) - 1918年7月17日(ユリウス暦7月4日))は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。 皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。.

新しい!!: 列聖とニコライ2世 · 続きを見る »

ニコラス・オーウェン (イエズス会士)

ニコラス・オーウェン(Nicholas Owen、生年不詳 - 1606年3月2日)は、イエズス会のブラザーである。エリザベス1世およびジェームズ1世の時代に弾圧されていたカトリックの司祭たちのためにを作り、大勢のカトリック聖職者を救った人物として知られる。1606年に逮捕され、ロンドン塔で拷問を受け獄死した。死後、カトリック教会によって殉教者と称えられ、1929年、教皇ピウス11世によって列福され、1970年に教皇パウロ6世によっての一人として列聖された。オーウェン個人の祝日は3月22日である。.

新しい!!: 列聖とニコラス・オーウェン (イエズス会士) · 続きを見る »

ニザームッディーン廟

ニザームッディーン廟 (Nizamuddin Dargah.、نظام الدّین درگاہ 、निज़ामुद्दीन दरगाह)または ニザームッディーン・アウリヤーの墓廟 はインドのデリーに位置する著名な聖者廟(ダルガー)。13世紀から14世紀にかけてのイスラームの聖者ニザームッディーン・アウリヤーの墓を中心としたインドでも最大規模の聖者廟である小牧(2007)pp.1-7。.

新しい!!: 列聖とニザームッディーン廟 · 続きを見る »

ホルクム

1869年のホルクムの地図 ホルクム(蘭:Gorinchem)は、オランダの南ホラント州にある基礎自治体 (ヘメーンテ)。またはGorkumまたはGorcumと表記されることもある。ホルクムの中心街には、良く保存された16世紀からの城郭都市が残っている。.

新しい!!: 列聖とホルクム · 続きを見る »

ホセマリア・エスクリバー

聖ホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲル(Josemaría Escrivá de Balaguer、1902年1月9日 - 1975年6月26日)はローマ・カトリック教会の聖人。オプス・デイ属人区の創立者。2002年、教皇聖ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。聖人としての記念日は帰天日の6月26日である。遺体は平和の聖マリア教会に安置されている。.

新しい!!: 列聖とホセマリア・エスクリバー · 続きを見る »

ダミアン神父

ダミアン神父の生家 ダミアン神父(Father Damien、1840年1月3日 - 1889年4月15日)は、ベルギー出身の宣教師である。ダミアンは修道名であり、本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)。ハワイ王国のモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げ、自らもハンセン病で命を落とした。カトリック教会の聖人で、記念日は5月10日である。.

新しい!!: 列聖とダミアン神父 · 続きを見る »

ダヴィド4世

ダヴィド4世(დავით აღმაშენებელი, 1073年 - 1125年1月24日)は、グルジア王国の国王である。建設王と呼ばれる。.

新しい!!: 列聖とダヴィド4世 · 続きを見る »

ダニール・アレクサンドロヴィチ

ダニール・アレクサンドロヴィチ(『ツァールスキー・チトゥリャールニク』より、1672年) ダニール・アレクサンドロヴィチ(Даниил Александрович, Daniil Aleksandrovich, 1261年 - 1303年3月4日または5日)はモスクワ公。ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの末子。リューリク朝モスクワ大公家の祖。ユーリー3世、イヴァン1世の父。 父アレクサンドルの死後、その遺領のうちのモスクワを得たが、幼少であったため叔父のトヴェリ公ヤロスラフ3世の後見を受けた。1271年にヤロスラフが死去するとモスクワ公として自立した。 1301年にオカ川沿いの重要拠点都市コロムナを獲得し、次いで1302年にペレヤスラヴリを後嗣のなかったペレヤスラヴリ公イヴァン・ドミトリエヴィチの遺言により併合した。これにより、モスクワ公国は当時の経済的先進地域と重要河川への出口を得ることになった。モスクワ公国の領域は当初小さかったが、治世末期までに領土を倍増させた。彼自身はウラジーミル大公にはならなかった。 死の直前に修道士として剃髪し、その遺骸は自らが建立したダニーロフ修道院に葬られた。 1652年にロシア正教会から列聖された。.

新しい!!: 列聖とダニール・アレクサンドロヴィチ · 続きを見る »

ベネディクト16世 (ローマ教皇)

ベネディクト16世(Benedictus PP.、Benedict XVI、1927年4月16日 - )は、第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - 2013年2月28日)。719年ぶりに自由な意思によって生前退位し名誉教皇となった。ベネディクトゥス16世と表記されることもある。 ドイツ出身で本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)。.

新しい!!: 列聖とベネディクト16世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)

ベネディクトゥス15世(ラテン語:Benedictus PP.

新しい!!: 列聖とベネディクトゥス15世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ベルナデッタ・スビルー

ベルナデッタ・スビルー(Bernadette Soubirous, 1844年1月7日 - 1879年4月16日)は、フランスの聖女。南仏のルルドで聖母の出現を体験し、後にヌヴェールの愛徳女子修道会の修道女となる。写真に撮られたカトリック教会の最初の聖人である もっとも有名な最初の6枚の写真は、1861年末から1862年初頭にかけての間に、小神学校で化学を教えていポール・ベルナドゥ神父によって撮影された。René Laurentin(2008), pp.245-246.

新しい!!: 列聖とベルナデッタ・スビルー · 続きを見る »

ベーラ4世

ベーラ4世(ハンガリー語:IV Béla、1206年11月29日 - 1270年5月3日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1235年 - 1270年)。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入によって荒廃したハンガリーの復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人である。.

新しい!!: 列聖とベーラ4世 · 続きを見る »

列福

列福(れっぷく、Beatificatio, Beatification)は、キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Santo)に次ぐ福者(Beato)の地位に上げられることをいう。.

新しい!!: 列聖と列福 · 続きを見る »

アナスタシア・ニコラエヴナ

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(, 1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともに17歳で銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。.

新しい!!: 列聖とアナスタシア・ニコラエヴナ · 続きを見る »

アマート・ロンコーニ

聖 アマート・ロンコーニ(Amato Ronconi、1225年頃 - 1292年5月8日)は、13世紀イタリアの慈善家で、フランシスコ会在俗会員。リミニにほど近いサルデーチョで生まれ、リミニに死去した。 1776年に教皇ピウス6世によって列福され、2014年11月23日に教皇フランシスコによって列聖された。.

新しい!!: 列聖とアマート・ロンコーニ · 続きを見る »

アネシュカ・チェスカー

アネシュカ・チェスカー(Anežka Česká)、またはボヘミアのアグネス(1211年 - 1282年3月6日)は、中世ボヘミア王国の王女でカトリック教会の聖人。記念日は3月2日。父はボヘミア王オタカル1世、母はハンガリー王ベーラ3世の娘コンスタンツィエ。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻で後に列聖されたハンガリー王女エルジェーベトは、母方の従姉に当たる。.

新しい!!: 列聖とアネシュカ・チェスカー · 続きを見る »

アルベリック

アルベリック、アルベリクス(Albéric、Albericus 、生年不詳 - 1109年(または1108年)1月26日)はカトリック教会に属する修道会、シトー会の創設者の一人。列聖もされている。 生年と若年の足跡は明らかではないが、少なくともシトーの初代院長モレームのロベールがモレームから新天地シトーを目指した時、すでにモレーム修道院には在籍しており、ロベールが1098年に「新修道院(後の)」を設立した時には、ロベールに従いステファン・ハーディング(3代目シトー院長)らとともにディジョン近郊にあった森シトー(現在のサン=ニコラ=レ=シトー)へ移った。ロベールが1年ほどでシトーを離れモレームに戻ると、その後を継いで1099年に2代目のシトー修道院院長に就いた。 1100年、アルベリックは教皇パスカリス2世より特権状を取り付け、シトー会を教皇の直属とすることに成功した。1106年にはブルゴーニュ公の援助を受け、シトーの森にシトー会における最初の石造教会堂を建設した。また、アルベリックが定めたとされるシトー会の規約に『習慣規則』 (Consuetudines) というものがある。これには礼拝形式と修道士および助修士の生活のあり方が規定されている。そして一般に言われる「反クリュニー」としてのシトー会の象徴、白い修道服を採用したのもアルベリックが院長であった時代の出来事である。この白い修道服の採用にあたっては、アルベリックの夢の中に聖母マリアが現れて白い修道服を示唆したという伝説がある。 アルベリックの活動は、シトー会の「将来をたしかなものにすることに成功した」、「基礎を固めた」と評される。また、『シトー修道院設立小史』によれば、アルベリックは学問に精通しており、その名声ゆえに貴族出身の多くの知識人がシトー修道院へ入会を希望したという。 ちなみに、先述したシトー会最初の石造教会堂は聖母マリアに献堂されたものであるが、これ以降の歴史の中で数多く建設される全てのシトー会の聖堂もまた聖母マリアに捧げられるという伝統を作った。.

新しい!!: 列聖とアルベリック · 続きを見る »

アレクシイ2世

アレクシイ(アレクシー)2世(Алексий II, 1929年2月23日 - 2008年12月5日)は第15代のモスクワ及び全ロシアの総主教、ロシア正教会首座主教であった。俗名は、アレクセイ・ミハイロヴィッチ・リディゲル(Алексей Михайлович Ридигер Alexey Mikhailovich Ridiger)である。民族的にはバルト・ドイツ系。 アレクシイ2世はポスト・ソ連期の総主教で、かつてKGBの手先や国家保守主義の支持者であったと言われながらも、ソ連崩壊後の宗教再生を見守り、彼が総主教の座にあった18年間にロシア正教会は、ソヴィエト当局から厳しい迫害や統制を受ける対象から、国のエリート政治家に好意的に受け入れられて積極的に発言するロシアの象徴的存在へと変貌を遂げた。.

新しい!!: 列聖とアレクシイ2世 · 続きを見る »

アレクセイ・トルップ

アロイス(アレクセイ)・エゴロヴィチ・トルップ(、1856年4月8日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世一家のフットマンだった。 元皇帝一家とともにエカテリンブルクのイパチェフ館に監禁され、1918年7月17日に彼らとともに殺害された。1981年に在外ロシア正教会によってソビエト政権による圧政の犠牲者として列聖された(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とアレクセイ・トルップ · 続きを見る »

アレクサンデル6世 (ローマ教皇)

アレクサンデル6世(Alexander VI, 1431年1月1日 - 1503年8月18日)は、15世紀のローマ教皇(在位:1492年 - 1503年)。 本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)イタリア語名は正しくはボルジャのようになる。の名前で知られることになる。 ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。.

新しい!!: 列聖とアレクサンデル6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アレクサンデル7世 (ローマ教皇)

アレクサンデル7世(Alexander VII、1599年2月13日 - 1667年5月22日)はローマ教皇(在位:1655年 - 1667年)。本名、ファビオ・キージ(Fabio Chigi)。学問と芸術を愛し、ベルニーニのパトロンとなって多くの作品を残させた。他方、ジャンセニスムを弾劾し、イエズス会を擁護してフランスと対立した。.

新しい!!: 列聖とアレクサンデル7世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

アレクサンドル・ネフスキー

アレクサンドル・ネフスキーのイコン。 1967年にソビエト連邦が発行したアレクサンドル・ネフスキーの切手。 アレクサンドル・ネフスキー(, 1220年5月30日 - 1263年11月14日)は、ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。アレクサンドル・ネフスキイ、アレクサンドル1世とも。中世ロシアの英雄として讃えられている人物。正教会で列聖されている。妻はポロツク公ブリャチスラフの娘・アレクサンドラ、息子にはヴァシーリー、ドミトリー、アンドレイ、ダニールがいる。.

新しい!!: 列聖とアレクサンドル・ネフスキー · 続きを見る »

アンナ・デミドヴァ

アンナ・ステパノーヴナ・デミドヴァ(、1878年1月26日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世の夫人、アレクサンドラ皇后お抱えのメイドだった。 トボリスク、その後にエカテリンブルクのイパチェフ館に監禁された元皇帝一家と行動をともにし、1918年7月17日に彼らと一緒に殺害されたために死後に名声を獲得した。1981年に在外ロシア正教会によってソビエト政権による圧政の犠牲者として列聖された(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とアンナ・デミドヴァ · 続きを見る »

アンナ・シェーファー

アンナ・シェーファー(Anna Schäffer, 1882年2月18日– 1925年10月5日)は、ドイツ・バイエルン王国(のちバイエルン州)の女性でフランシスコ会の第3会員(世俗会員)である。 2012年に教皇ベネディクト16世により、カトリック教会の聖人として列聖された。.

新しい!!: 列聖とアンナ・シェーファー · 続きを見る »

アンナ=テレサ・ティミエニエツカ

アンナ=テレサ・ティミエニエツカ(Anna-Teresa Tymieniecka, 1923年2月28日 - 2014年6月7日)は、ポーランド出身でアメリカ合衆国で活動した哲学者、現象学者。世界現象学研究所(World Phenomenology Institute)の創立者にして会長、『アナレクタ・フッセリアーナ(Analecta Husserliana)』の編集委員(1960年代後半の創刊時から)。教皇のヨハネ・パウロ2世と30年に渡る友情を育んだ(学術的に協働することもあった)。.

新しい!!: 列聖とアンナ=テレサ・ティミエニエツカ · 続きを見る »

アントニオ・マリア・クラレ

アントニオ・マリア・クラレ(Antonio María Claret, 1807年12月23日 - 1870年10月24日)は、スペインのカトリック教会司祭、司教、聖人。聖クラレチアン宣教会創立者。記念日は10月24日。.

新しい!!: 列聖とアントニオ・マリア・クラレ · 続きを見る »

アンテルス (ローマ教皇)

アンテルス(Anterus, ? - 236年1月3日)は、ローマ教皇(在位:235年11月21日 - 236年1月3日)。前任者のポンティアヌス同様、ローマ皇帝マクシミヌス・トラクスのもとで殉教したといわれているが、証左はない。死後、サンカリストゥスのカタコンベの教皇墓地に葬られ、後になって列聖された。カトリック教会の聖人である。この教皇についてはほとんど何も知られていない。 Category:教皇 Category:3世紀の古代ローマ人 Category:カトリック教会の聖人 Category:236年没.

新しい!!: 列聖とアンテルス (ローマ教皇) · 続きを見る »

アンジェラ・メリチ

アンジェラ・メリチ(Angela Merici 1474年頃 - 1540年)は、カトリック教会の修道女、教育者、女子修道会・ウルスラ会の創立者。.

新しい!!: 列聖とアンジェラ・メリチ · 続きを見る »

アンセルムス

ンタベリーのアンセルムス(Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。.

新しい!!: 列聖とアンセルムス · 続きを見る »

アヴィス騎士団

アヴィス騎士団(アヴィスきしだん、Ordem Militar de Avis)は、ポルトガルの騎士修道会。エヴォラのサンタ・マリア修道会、聖ベントのアヴィス騎士団、アヴィス王立騎士団などの旧称がある。.

新しい!!: 列聖とアヴィス騎士団 · 続きを見る »

アーノルド・ヤンセン

アーノルド・ヤンセン(ドイツ語:Arnold Janssen、1837年11月5日 – 1909年1月15日)は、カトリック教会の司祭で神言会及び2つの女子修道会の創設者。カトリック教会の聖人で、記念日は1月15日。.

新しい!!: 列聖とアーノルド・ヤンセン · 続きを見る »

アッシジのフランチェスコ

アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus Assisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone、1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた佐藤&池上(1997)pp.289-290。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。 原音主義にしたがい、ここではイタリア語の「フランチェスコ」という表記を採っているが、日本のカトリック教会ではアシジの聖フランシスコと呼び慣らわし、典礼暦には「聖フランシスコ(アシジ)修道者」と記載されている。彼の名前を冠した、彼自身によって創設されたフランシスコ会もそれに倣い「聖フランシスコ」の呼称を採用している。.

新しい!!: 列聖とアッシジのフランチェスコ · 続きを見る »

アッシジのキアラ

アッシジのキアラ(イタリア語:Santa Chiara d'Assisi, 1194年7月16日 - 1253年8月11日)あるいはアッシジのクララは、イタリアの聖人。ローマ・カトリック、聖公会、ルーテル教会で崇敬される。英語名のクレア(Clare)、またはクララ(Clara)の名前でも知られているが、ここでは出生地主義に従いキアラとする。聖フランチェスコに最初に帰依した者の一人。フランチェスコ会の女子修道会クララ会(キアラ会とも)創始者。目や眼病の守護聖人。象徴とする聖体顕示台、聖体容器箱、ランプを持つ姿で描かれる。祝日は8月11日。.

新しい!!: 列聖とアッシジのキアラ · 続きを見る »

アビラのテレサ

アビラの聖テレサ(ラテン語表記:Teresia Abulensis、洗礼名 Teresa de Cepeda y Ahumada,1515年3月28日 - 1582年10月4日)は、スペインのローマ・カトリック教会の神秘家であり、修道院改革に尽力した人物である。カスティーリャのアビラ(マドリードの北西53マイルのところにある)で生まれた。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。カトリック教会での祝日は10月15日。 信仰上、イエスのテレジア(スペイン語表記:Teresa de Jesús)としても知られる。ラテン語名テレジアの名の聖女がいま一人存在するので、リジューのテレーズを小テレジアと呼び、彼女を大テレジアとも呼ぶ。アヴィラの聖テレサとの表記もある。.

新しい!!: 列聖とアビラのテレサ · 続きを見る »

アフォンソ5世 (ポルトガル王)

アフォンソ5世(Afonso V、1432年1月15日 - 1481年8月28日)は、ポルトガル王(在位:1438年 - 1481年)。ドゥアルテ1世とアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールの子。アフリカ王(Africano)と呼ばれる。.

新しい!!: 列聖とアフォンソ5世 (ポルトガル王) · 続きを見る »

イリティツャ川

イリティツャ川(Ільтиця)はウクライナを流れる、トルビジュ川左岸の支流である。全長37km、河口はペレヤースラウ=フメリヌィーツィクィイ。.

新しい!!: 列聖とイリティツャ川 · 続きを見る »

イングランドとウェールズのカトリック

イングランドとウェールズのカトリックでは、イングランドとウェールズにおけるローマ・カトリック教会について記述する。.

新しい!!: 列聖とイングランドとウェールズのカトリック · 続きを見る »

イングランド教会史

イングランド教会史では、イングランドにおける教会の歴史を概説する。またベーダ・ヴェネラビリスの同名書籍についても概説する。.

新しい!!: 列聖とイングランド教会史 · 続きを見る »

イヴァン・ハリトーノフ

イヴァン・ミハイロヴィチ・ハリトーノフ(、1870年6月14日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世一家の料理人だった。 元皇帝一家とともにエカテリンブルクのイパチェフ館に監禁され、1918年7月17日に彼らとともに殺害された。1981年に在外ロシア正教会によってソビエト政権による圧政の犠牲者として列聖された(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とイヴァン・ハリトーノフ · 続きを見る »

イベリアのアンティム

イベリアのアンティム(聖アンティモス、,, 17世紀半ば - 1716年9月14日)は、ルーマニアの神学者、また芸術家であり、ルーマニア教史における大立者である。この時代における最も教養ある人物の一人であり、ギリシャ語、ルーマニア語、古代スラブ語をはじめとして数多くの言語を操ることができ、また、神学、文学、自然科学に精通し、さらに芸術家でもあった。とりわけグルジアのカリグラフィーによって知られる。.

新しい!!: 列聖とイベリアのアンティム · 続きを見る »

イグナチオ・デ・ロヨラ

イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola、またはInigo Oinaz Loiola、バスク語:Ignazio Loiolakoa, 1491年10月23日もしくは12月24日 - 1556年7月31日)はカスティーリャ王国領バスク地方出身の修道士。カトリック教会の修道会であるイエズス会の創立者の1人にして初代総長。バスク人。同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。イグナチオは『霊操』の著者としても有名で、対抗改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。.

新しい!!: 列聖とイグナチオ・デ・ロヨラ · 続きを見る »

イシドールス

ビリャのイシドールス(San Isidoro de Sevilla、Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。 イシドールスが生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。イシドールスは長兄レアンデルと協力して、西ゴート王の、アリウス派信仰からのカトリック改宗に関与した。そして兄の死後も彼はカトリック布教の努力を継続した。レアンデルと同じように、トレドとセビリャで開かれた宗教会議で主導的な役割を演じた。レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国の法令は代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである。 農業の守護聖人でマドリードの守護聖人である聖イシドロ(en)とは別人である。.

新しい!!: 列聖とイシドールス · 続きを見る »

イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア

イサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア(西:Isabel de Aragón y Sicilia, 1271年 - 1336年7月4日)は、アラゴン王ペドロ3世と王妃コンスタンサ・デ・シシリアの娘で、ポルトガル王ディニス1世の妃。ポルトガル語名はイザベル (Isabel de Aragão)、カタルーニャ語名はエリサベ(Elisabet d'Aragó)。1235年に列聖された大伯母のハンガリー王女エルジェーベト同様、カトリック教会で聖人とされており、ポルトガルの聖イザベル王妃として、ポルトガルでは知られている。日本のカトリック教会では聖エリザベト(ポルトガル)皇后と表記される。.

新しい!!: 列聖とイサベル・デ・アラゴン・イ・シシリア · 続きを見る »

ウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ノヴゴロド公)

ウラジーミル・ヤロスラヴィチ(Владимир Ярославич、1020年 - 1052年10月4日)は、ヤロスラフ1世と、スウェーデン王オーロフの娘インゲゲルド(ru)との間の子である。ノヴゴロド公:1034年 - 1052年。15世紀にブラゴヴェルヌィー(ru)として列聖された。.

新しい!!: 列聖とウラジーミル・ヤロスラヴィチ (ノヴゴロド公) · 続きを見る »

ウルバヌス8世 (ローマ教皇)

ウルバヌス8世(ウルバヌス8せい、Urbanus VIII, Urban VIII, 1568年4月5日 - 1644年7月29日)はバロック時代のローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にあまるネポティズム(親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼は文化・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、教皇国家の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の負債はローマ教皇庁を弱体化させ、長期にわたってヨーロッパに対し政治的・軍事的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。.

新しい!!: 列聖とウルバヌス8世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ウプサラ大聖堂

ウプサラ大聖堂(ウプサラだいせいどう、Uppsala domkyrka)は、スウェーデン・ウプサラにある、スカンディナヴィア諸国で最大級の教会建築。高さ118.7メートル、幅118.7メートル。.

新しい!!: 列聖とウプサラ大聖堂 · 続きを見る »

ウスチ・イジョラ

ウスチ・イジョラ(Усть-Ижо́ра.)は、サンクトペテルブルク市の管轄下にある町。サンクトペテルブルク南東のイジョラ川とネヴァ川の合流地点にあり、人口は2010年調査で1354人。 町は1240年にネヴァ川の戦いがあった場所にあるとされ、この戦いにおいてノヴゴロド公アレクサンドル・ヤロスラヴィチ(アレクサンドル・ネフスキー)はわずかな軍を率いスウェーデン軍に大勝し、そのさらなる南進を防いだ。年代記によるとアレクサンドルの軍隊はスウェーデン軍の船を3隻襲い沈め、彼自身も剣をふるい敵将ビルゲルを負傷させた。 戦功を上たアレクサンドルはアレクサンドル・ネフスキーと呼ばれるようになり英雄として讃えられた。ロシア正教会は後に彼を列聖し、サンクトペテルブルクの守護聖人にもなっている。市内にはこの戦いとアレクサンドル・ネフスキーを記念した聖堂が1799年に建てられている。 Category:サンクトペテルブルクの地理 Category:レニングラード州の都市.

新しい!!: 列聖とウスチ・イジョラ · 続きを見る »

エリザベト

リザベト、エリーザベト、エリザベート、エリザベット(Élisabeth, Elisabeth)は、フランス語圏、ドイツ語圏の女性名。エリザベス、エリザベッタ、イサベル、イザベル、イザベラ、エリザヴェータ、エルジェーベト、エルジュビェタ、エリシュカなどに対応する。デンマーク語やスウェーデン語ではエリサベト(Elisabeth, Elisabet)となるが、以下ではそれらの場合も併せて挙げる。.

新しい!!: 列聖とエリザベト · 続きを見る »

エリザベス・アン・シートン

リザベス・アン・ベイリー・シートン(英:Elizabeth Ann Bayley Seton 1774年8月28日 - 1821年1月4日)は、アメリカ合衆国で最初のカトリック系女学校をメリーランド州・に設立し、また、同じく同国で最初の修道女の共同体となる「愛徳修道女会(the Sisters of Charity)」を設立した人物。1975年9月14日にアメリカ合衆国生まれの国民として初めて列聖され、聖人となる 。.

新しい!!: 列聖とエリザベス・アン・シートン · 続きを見る »

エルネスト・コフィニョ

フィニョ博士 エルネスト・コフィニョ(Ernesto Cofiño、1899年6月5日 - 1991年10月17日)は、中米・グアテマラ出身の医師、研究者、大学教授であった。 グアテマラにおける小児科学研究のパイオニアであり、病院設立の他に、母国のカリタス会長などを勤め、多くのNGOや社会福祉事業で活躍した。2000年より列聖調査が開始されたオプス・デイの信者である。フルネームは「Ernesto Cofiño Ubico」。.

新しい!!: 列聖とエルネスト・コフィニョ · 続きを見る »

エルジェーベト (ハンガリー王女)

ルジェーベト(Erzsébet, 1207年7月7日 - 1231年11月17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ公女ゲルトルードの娘。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。ドイツ名のエリーザベト(Elisabeth)でエリーザベト・フォン・ウンガルン(Elisabeth von Ungarn)、あるいはエリーザベト・フォン・テューリンゲン(Elisabeth von Thüringen)とも呼ばれる。また、ローマ教皇グレゴリウス9世により列聖され、聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリザベートなどとして知られ、11月17日(正式には11月19日)が祝日。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。日本のカトリック教会では聖エリザベト(ハンガリー)修道女としても知られる。.

新しい!!: 列聖とエルジェーベト (ハンガリー王女) · 続きを見る »

エヴフロシニヤ・ポロツカヤ

ヴフロシニヤ・ポロツカヤ(ポロツクのエヴフロシニヤ、聖女イェフロシニア)(Ефрасіння Полацкая、1101年~1105年 - 1173年)は、キエフ・ルーシ時代のポロツク公国の修道女・教育者である。ヴィテプスク公スヴャトスラフの子、ポロツク公フセスラフの孫にあたる公女であり、修道女となる前の名はプレドスラヴァといった。 1910年、帝政ロシアの聖務会院により列聖された。ベラルーシでは、エヴフロシニヤはキリラ・トゥーラウスキ(en)と並ぶ、最も尊敬される聖人の一人である。祭日はユリウス暦の5月23日である。.

新しい!!: 列聖とエヴフロシニヤ・ポロツカヤ · 続きを見る »

エーディト・シュタイン

ーディト・シュタイン(Edith Stein, 1891年10月12日 - 1942年8月9日)は、哲学者でフェミニスト、カルメル会の修道女。カトリック教会で聖人(殉教者)。修道名は十字架の聖テレサ・ベネディクタである。.

新しい!!: 列聖とエーディト・シュタイン · 続きを見る »

エブロイン

ブロイン (ドイツ語: Ebroin フランス語: Ébroïn 生年不詳 - 680年/681年) は、フランク王国の分国ネウストリアの宮宰(658年 - 673年、675年 - 680年)。ネウストリアで独裁的な権力を握り、ブルグンディアやアウストラシアの支配を目論んだ。.

新しい!!: 列聖とエブロイン · 続きを見る »

エフゲニー・ボトキン

フゲニー・セルゲイヴィチ・ボトキン(、1865年3月27日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世一家の主治医であった。アレクセイ皇太子が血友病に関連して発症した合併症の治療も行っていた。 元皇帝一家とともにエカテリンブルクのイパチェフ館に監禁され、1918年7月17日に彼らとともに殺害された。1981年に在外ロシア正教会によってソビエト政権による圧政の犠牲者として列聖された(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とエフゲニー・ボトキン · 続きを見る »

エドマンド・キャンピオン

ドマンド・キャンピオン(Edmund Campion、1540年1月24日 - 1581年12月1日)は、イングランドのイエズス会の司祭、殉教者。カトリック教会の聖人。.

新しい!!: 列聖とエドマンド・キャンピオン · 続きを見る »

エドマンド殉教王

ドマンド殉教王 (Edmund the Martyr。841年 - 869年11月20日) はイースト・アングリアの王であった殉教者。まだ若い855年にイースト・アングリアの王位を継いだ。最初期の、そしてもっとも信頼できる史料においてエドマンドは先のイースト・アングリア王であるWuffingの家系の子孫であるとしており、別の史料では彼の父親はイースト・アングリア王エセルワード (en:Æthelweard of East Anglia) であるとする。ウェルズのジェフリー (en) は、彼をサクソン人の王であるアルクムンド (Alcmund) の末子であると主張する。エドマンドは855年のクリスマスにエルムハム司教 (Bishop of Elmham) のハンベルタス (en) によって戴冠させられたといわれていた。 869年にエドマンドは大異教徒軍 (en:Great Heathen Army) との戦いで敗北し捕らえられ、拷問の末に殺され殉教者となった。彼は正教会、ローマ・カトリック、そして聖公会において列聖されている。王の身体は最終的にBeadoriceworth (現ベリーセントエドマンズ:en:Bury St Edmunds) に埋葬され、彼の墓への巡礼は12世紀に入って修道士たちによって教会が拡張されるとより活発になった。アングロ・ノルマン貴族らのエドマンドに対する人気は、ノルマン朝はそれ以前の伝統と連続性があるという主張を正当化するのを助けていた。エドマンドの紋章旗はアジャンクールの戦いにおいて掲げられた。.

新しい!!: 列聖とエドマンド殉教王 · 続きを見る »

エドワード殉教王

ドワード殉教王(エドワードじゅんきょうおう、Edward the Martyr, 962年頃 - 978年3月18日)は、イングランド王(在位:975年 - 978年)で、聖公会・カトリック教会・正教会における聖人。正教会では致命者として記憶される。.

新しい!!: 列聖とエドワード殉教王 · 続きを見る »

エドワード懺悔王

ドワード懺悔王(エドワードざんげおう、Edward the Confessor、1004年頃 - 1066年1月5日)は、イングランドのサクソン系の王(在位:1042年6月8日 - 1066年1月4日)。エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。聖公会・カトリック教会で聖人。白子(アルビノ)で柔弱な性格であったといわれる。 「エドワード懺悔王」は Edward the Confessor の定訳だが、この「Confessor」とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号のひとつで、日本のカトリック教会ではこれを「証聖者」と訳している。そこから、近年ではこの王のことをエドワード証聖王(エドワードしょうせいおう)と記した書籍も多い。.

新しい!!: 列聖とエドワード懺悔王 · 続きを見る »

エドギタ

ドギタ(Edgitha/Eadgyth/Ædgyth, 910年 - 946年1月26日)は、イングランドのエドワード長兄王の娘で、東フランク王(のち神聖ローマ皇帝)オットー1世大帝の最初の妃。名前はイーディス(Edith of England)と表記されることもある。.

新しい!!: 列聖とエドギタ · 続きを見る »

オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)

リガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(Ольга Николаевна Романова、Olga Nikolaevna Romanova, Grand Duchess Of Russia, 1895年11月15日 - 1918年7月17日)は、ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第1子で、第一皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー(秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクのイパチェフ館において家族・従者と共に銃殺された。正教会で聖人(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とオリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女) · 続きを見る »

オーラヴ2世 (ノルウェー王)

ーラヴ2世またはオーラヴ・ハラルズソン(オーラヴ・ハラルドソン、オーラヴ・ハーラルソンの日本語表記も)(Olaf II Haraldsson、995年 – 1030年7月29日)は、ノルウェー王(在位:1015年 - 1028年)で、キリスト教の聖人。子にマグヌス1世があった。.

新しい!!: 列聖とオーラヴ2世 (ノルウェー王) · 続きを見る »

オーストラリアのカトリック

ーストラリアのカトリックでは、オーストラリアにおけるローマ・カトリック教会について記述する。.

新しい!!: 列聖とオーストラリアのカトリック · 続きを見る »

オトラントの戦い

トラントの戦いは、1480年から1481年にかけて南イタリア、アプリア地方の都市オトラントをめぐって戦われた、オスマン帝国とナポリ王国を始めとするヨーロッパ諸国との間の戦闘である。.

新しい!!: 列聖とオトラントの戦い · 続きを見る »

オプス・デイ

プス・デイ (ラテン語:Opus Dei) は、キリスト教のローマ・カトリック教会の組織のひとつ、属人区である。本部庁舎は、ローマ市ブルノ・ブオッツィ通り73番に位置する。世俗社会での自らの職業生活を通して、自己完成と聖性を追求することを目的にしており、仕事や家庭生活など、日常生活のあらゆる場面において、キリストと出会うように援助する組織。創立者は、列聖されたホセマリア・エスクリバー(1902年-1975年)である。.

新しい!!: 列聖とオプス・デイ · 続きを見る »

オスカル・ロメロ

ル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメス (Óscar Arnulfo Romero y Galdámez, 1917年8月15日 - 1980年3月24日) はエルサルバドルのカトリック司祭、サンサルバドル教区大司教。カトリック教会の福者である。 ロメロ大司教は多数の人権侵害を証言し、貧困層の人々の側に立ち、エルサルバドル内戦の犠牲者を代表して世界に訴える務めを担うことを選んだ。しかし、彼の取組みは政治的行動主義であるとしてカトリック教会の上層部とエルサルバドル政府から非難を受けることになった。1980年ロメロ大司教はミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺された。彼の死はエルサルバドルにおける人権改革を求める国際的な抗議の声を呼び起こすことになった。 1997年にはロメロ大司教の列福・列聖調査が開始され、ヨハネ・パウロ2世は彼を神の僕(福者・聖人にいたる最初の段階)とした。公式なものではないがロメロはアメリカ州とエルサルバドルの守護聖人と人々からみなされるようになり、エルサルバドルなどでは「聖ロメロ」とさえ呼ばれている。彼は聖公会などのカトリック以外のキリスト教の共通信仰の教派からも敬愛されている。彼はロンドンのウェストミンスター寺院の大西扉の「20世紀の殉教者10人」の1人に選ばれ、その胸像が飾られている。.

新しい!!: 列聖とオスカル・ロメロ · 続きを見る »

カミロ・デ・レリス

ミロ・デ・レリス(イタリア語:Camillo de Lellis、英語:Camillus de Lellis、1550年5月25日-1614年7月14日)はカトリック教会の司祭。看護修道会の祖として知られる。 日本語表記としてイタリア語から聖カミロ・レリス、聖カミロ、英語から聖カミルスとも呼ばれる。本項では以下、カミロと記述する。.

新しい!!: 列聖とカミロ・デ・レリス · 続きを見る »

カミーノ (映画)

『カミーノ』(Camino)は、2008年のスペイン映画(ヒューマンドラマ)。監督は。 この映画は14歳で亡くなったアレシア・ゴンサーレス=バロスという少女に着想を得ているフィクション映画。アレシアは1985年に脊髄癌で亡くなり、死後には列聖の過程にある。日本では2009年の第6回ラテンビート映画祭で上映された。日本では一般劇場公開なし。第23回ゴヤ賞では7部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚本賞を含む6部門で受賞した。.

新しい!!: 列聖とカミーノ (映画) · 続きを見る »

カルロ・ボッロメーオ

カルロ・ボッローメオ カルロ・ボッローメオ (Carlo Borromeo、1538年10月2日アローナ - 1584年11月3日ミラノ) は、カトリックの聖人。聖カルロとも。聖名祝日は11月4日。 1538年イタリア北部のアローナで貴族のボッローメオ家に生まれる。1560年1月31日、母方の伯父にあたる教皇ピウス4世に任命され22歳で枢機卿となる。 1565年にはミラノ大司教となる。 ヨハン・ロットマイヤー絵、ウィーンカール教会) 1576年にミラノがペストの流行に見舞われたとき、ボッローメオは危険も出費も顧みず、患者の便宜を図り、死者の埋葬が行われるよう尽力した。ペストが猛威をふるう近隣の教区をすべて訪れ、患者に金を援助し必要な物資を配る一方、義務を果たそうとしない怠慢な者たち、特に聖職者を罰した。 1584年11月4日、ミラノで死去した。1610年11月1日に列聖された。 Category:イタリアの枢機卿 Category:カトリック教会の聖人 Category:ミラノの歴史 Category:1538年生 Category:1584年没.

新しい!!: 列聖とカルロ・ボッロメーオ · 続きを見る »

カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

新しい!!: 列聖とカール大帝 · 続きを見る »

カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

新しい!!: 列聖とカトリック教会 · 続きを見る »

カテリーナ・ボルピチェルリ

テリーナ・ボルピチェルリ(イタリア語Caterina Volpicelli、1839年1月21日 - 1894年12月28日)は、イタリアの修道女であり、「イエスの聖心侍女会」(Ancelle del Sacro Cuore di Gesù)の創立者である。2001年、教皇聖ヨハネパウロ2世により列福 され、ベネディクト16世により2009年4月26日に列聖された。.

新しい!!: 列聖とカテリーナ・ボルピチェルリ · 続きを見る »

カジミェシュ (聖人)

ヤン・マテイコによる肖像画 カジミェシュ・ヤギェロンチク(Kazimierz Jagiellończyk.; Kazimieras, 1458年10月3日 - 1484年3月4日)は、ポーランドおよびリトアニアの統治者であったヤギェヴォ家の人物でキリスト教の聖人。1552年にローマ・カトリック教会により列聖された。リトアニアおよびリトアニアの若者たちの守護聖人。リトアニア語名ではカジミエラス。.

新しい!!: 列聖とカジミェシュ (聖人) · 続きを見る »

ガンディア

ンディア(バレンシア語: Gandia、スペイン語: Gandía)は、スペイン・バレンシア州バレンシア県のムニシピ(基礎自治体)。アリカンテ県との県境に近い。スペイン国内からの観光客が多く、夏期には人口がおよそ25万人までふくれあがる。公式名はバレンシア語のGandia。.

新しい!!: 列聖とガンディア · 続きを見る »

キャサリン・ドレクセル

ャサリン・ドレクセル(Katharine Drexel、1858年11月26日 - 1955年3月3日)は、アメリカ合衆国のカトリック教会の修道女、聖人。.

新しい!!: 列聖とキャサリン・ドレクセル · 続きを見る »

キュリロス (スラヴの(亜)使徒)

ュリロス(ギリシア語: Κύριλλος, ブルガリア語: Константин-Кирил Философ, チェコ語: Cyril, ロシア語: Кирилл Философ, 827年 - 869年2月14日)は中世の東ローマ帝国の知識人、キリスト教の修道士、神学者である。教会スラヴ語・ブルガリア語・ロシア語等からキリル、キリール、チェコ語からはツィリルなどとも表記される。正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。元の名はコンスタンティノス。同時代文献にはしばしば「哲学者コンスタンティノス」として言及される。グラゴル文字の考案者として知られる。 現在のロシアなどで使用されるキリル文字の考案者と考えられていたが、彼が実際に考案したのはグラゴル文字であり、キリル文字は後世に作成されたとされる。.

新しい!!: 列聖とキュリロス (スラヴの(亜)使徒) · 続きを見る »

キリスト教用語一覧

リスト教用語一覧(キリスト教きょうようごいちらん)では、キリスト教に関係する用語の一覧を示す。 アギア・ソフィア大聖堂(イスタンブール) INDEX あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ 英数字 一覧記事.

新しい!!: 列聖とキリスト教用語一覧 · 続きを見る »

キンガ (ポーランド王妃)

アールパードハージ・キンガ(Árpádházi Szent Kinga, Święta Kinga, 1224年3月5日 - 1292年7月24日)は、ポーランド王ボレスワフ5世の王妃。クネグンダ(Cunegunda,Kunegunda)、クニグンダ(Kunigunda)、クネグンデス(Cunegundes)、キオガ(kioga)、ジンガ(Zinga)とも。カトリック教会の聖人で、ポーランド、リトアニアの守護聖人。記念日は7月24日。 ハンガリー王ベーラ4世とマリア・ラスカリナの長女として生まれた。聖エルジェーベトの姪であり、アンデクスの聖ヤドヴィガ(ヘートヴィヒ)は大叔母にあたる。 1239年、キンガは気の進まぬままボレスワフ5世と結婚した。ポーランド王妃になるが、結婚していたにもかかわらず、信仰心の篤い2人は肉体的な純潔を守っていた。王妃である間、キンガは貧者を訪問したり、ハンセン病患者を世話するといった慈善行為を行った。1279年にボレスワフが死ぬと、キンガは所有物を全て売り、金を貧者へ与えた。そしてすぐに王国の政治から一切身を引き、たった一人で貧者のクララ会修道院に入ることを決めた。キンガは観想的な祈りのなかで余生を送り、誰にもポーランド王妃であったかつての地位を彼女に問うことを許さなかった。.

新しい!!: 列聖とキンガ (ポーランド王妃) · 続きを見る »

ギーゼラ・フォン・バイエルン

ーゼラ・フォン・バイエルン(ドイツ語:Gisela von Bayern, ハンガリー語:Bajorországi Gizella, 985年頃 - 1060年/1065年)は、ハンガリー王イシュトヴァーン1世の妃。カトリック教会の福者。.

新しい!!: 列聖とギーゼラ・フォン・バイエルン · 続きを見る »

クリステロ戦争

リステロの旗 クリステロ戦争(Guerra Cristera)は、1926年に始まり1929年に終了したメキシコでの反動的革命運動、白色テロ、宗教的迫害である。クリステロ反乱とも言う。.

新しい!!: 列聖とクリステロ戦争 · 続きを見る »

クレメンス・マリア・ホフバウアー

レメンス・マリア・ホフバウアー(Clemens Maria Hofbauer、1751年12月26日 - 1820年5月15日)は、キリスト教カトリック教会聖職者、レデンプトール会の聖人。モラヴィア生まれ。隠者として過ごしたあと、29歳でウィーン大学入学。アラトリ大聖堂で、聖職者に任命された。皇帝ヨーゼフ2世が修道院を閉鎖するなか、1787年にポーランド・リトアニア共和国に、1808年オーストリア帝国のウィーンに移った。 1888年にローマ教皇レオ13世によって列福され、福者となった。1909年5月20日にカトリック教会の聖人として列聖された。.

新しい!!: 列聖とクレメンス・マリア・ホフバウアー · 続きを見る »

クロード・ド・ラ・コロンビエール

ード・ド・ラ・コロンビエール(Claude de la Colombière 1641年2月2日-1682年2月15日)はカトリック教会の司祭、聖人、フランスのイエズス会士。.

新しい!!: 列聖とクロード・ド・ラ・コロンビエール · 続きを見る »

クール (スイス)

ール(Chur)は、スイス、グラウビュンデン州の北部に位置する基礎自治体 (ポリティッシェ・ゲマインデ) で、同州の州都である。都市としての称号 (Stadt) を有している。Churというつづりは、標準のドイツ語ではフールと発音するが、グラウビュンデン地方ではクールと発音される。また、ロマンシュ語ではCuira(クウェラまたはクウォイラ)、イタリア語ではCoira(コイラ)、フランス語ではCoire、ラテン語ではCuria、Curia Rhaetorum、Curia Raetorumとなる。.

新しい!!: 列聖とクール (スイス) · 続きを見る »

クエルナバカ大聖堂

ルナバカ大聖堂 (Catedral de Cuernavaca) と呼ばれる聖母被昇天大聖堂 (Catedral de la Asunción de María) はカトリック教会のクエルナバカ教区の教会(司教座聖堂)で、メキシコのモレロス州クエルナバカに位置する。この教会とそれを取り巻く修道院は、16世紀前半にポポカテペトル山周辺に建築された修道院群の一つであり、その初期には後の先住民に対する宣教活動のために建築された。18世紀より修道院の教会群は都市の教区教会の機能をもちはじめ、19世紀後半には司教座聖堂に昇格された。他のメキシコの大聖堂と異なりこの大聖堂は都市の中央広場に面していないが、ちょうど南に位置し敷地内の他の修道院建築群と共に自らの壁で囲まれている。これらの建築群の中でも重要な教会である大聖堂ではいくつかの改修計画が持ち上がっており、最後に起こった改修計画は1957年であった。この改修計画では内装に残されていた古い装飾は取り除かれ、シンプルで現代的なものに置き換えられた。また、この改修作業には、覆われていた17世紀の壁画で、日本で殉教したを含む日本二十六聖人の物語が描かれたの内壁を露にする作業が含まれていた。.

新しい!!: 列聖とクエルナバカ大聖堂 · 続きを見る »

グルジアの歴史

ヴェティツホヴェリ大聖堂(ムツヘタ=ムティアネティ州・ムツヘタ) グルジアの歴史(History of Georgia)では、カフカス山脈(コーカサス山脈)南側のザカフカス(南コーカサス)地方に所在するグルジア/ジョージア(グルジア語:საქართველო(サカルトヴェロ))の歴史について解説する「グルジア」も「ジョージア」も英語表記は"Georgia"で全く同じである。2015年(平成27年)4月、日本政府は日本国内での国名表記を「グルジア」から「ジョージア」に変更した。。.

新しい!!: 列聖とグルジアの歴史 · 続きを見る »

グレゴリウス11世 (ローマ教皇)

グレゴリウス11世(Papa Gregorius XI, 1336年? - 1378年3月27日)は、14世紀後半の教皇(在位:1370年 - 1378年)。フランス人で本名はピエール・ロジェ・ド・ボーフォール(Pierre Roger de Beaufort)。クレメンス6世の甥に当たる。アヴィニョンで即位するが、1377年にローマに帰還し、アヴィニョン捕囚は終わる。 インノケンティウス6世の代に教皇領が回復されたが、再び各地で反乱が起こり、教皇庁の指令が行き届かなくなった。教皇は反乱の中心であったフィレンツェを破門にした。また、チェゼーナにロベール枢機卿(後のアヴィニョン対立教皇クレメンス7世)を派遣したが、傭兵隊長ジョン・ホークウッドが虐殺事件を起こしている。 教皇にローマ帰還を訴えたのはドミニコ会のカテリーナ・ベニンカーサ(シエナのカタリナ)である。キリストと同じ聖痕が現れたとされ、後に列聖されるほど信望を集めていた女性であり、1376年、アヴィニョンを訪れ、当時破門されていたフィレンツェの許しと教皇のローマ帰還を訴えた。フランスは百年戦争中でアヴィニョン周辺も次第に不穏となり、ローマも反乱側に回るおそれがあったことから、教皇もついに帰還を決意し、1377年1月にローマへ戻る。 しかし、帰還に反対するフランス人の勢力も強く、グレゴリウス11世の死後、就任したウルバヌス6世に反発したフランス人枢機卿がロベール枢機卿をクレメンス7世に選出、教皇が並び立つという教会大分裂(シスマ)の時代を迎えることになる。 Category:教皇 Category:1336年生 Category:1378年没.

新しい!!: 列聖とグレゴリウス11世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グレゴリウス15世 (ローマ教皇)

レゴリウス15世(Gregorius XV, 1554年1月9日 - 1623年7月8日)はローマ教皇(在位:1621年 - 1623年)。本名はアレッサンドロ・ルドヴィシオ(Alessandro Ludovisio)。 ボローニャ出身のグレゴリウス15世は前任者達と異なり、プロテスタントに対する神聖ローマ帝国皇帝の支援や、オスマン帝国に対するポーランド王の支援などのわずかな例外を除いてヨーロッパの政治に対してはほとんど干渉しようとしなかった。彼は学問を好み、教会改革の意欲にあふれた有徳の聖職者であった。在位中の事跡で特に有名なものは、フランシスコ・ザビエル、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラのテレサ、フィリッポ・ネリといった聖徳の誉れ高い人々を列聖したことであった。1623年7月に亡くなると、ウルバヌス8世がその後を継いだ。.

新しい!!: 列聖とグレゴリウス15世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グレゴリウス9世 (ローマ教皇)

レゴリウス9世(Papa Gregorius IX, 1143年? - 1241年8月22日)は中世のローマ教皇(在位:1227年 - 1241年)。アナーニ(イタリア中部)出身。本名はウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti)。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世との確執で有名だが、法学者としても有能で、各司教が自らの裁量で行っていた異端審問の制度を整備した事でも知られる。.

新しい!!: 列聖とグレゴリウス9世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

グアダルーペの聖母 (メキシコ)

アダルーペの聖母(グアダルーペのせいぼ。Nuestra Señora de Guadalupe、Our Lady of Guadalupe)は、カトリック教会が公認している聖母の出現譚の一つであり、メキシコで最も敬愛されている宗教的シンボルである。.

新しい!!: 列聖とグアダルーペの聖母 (メキシコ) · 続きを見る »

ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)

レスティヌス5世(Caelestinus V, 1210年頃 - 1296年5月19日)は、中世のローマ教皇(在位:1294年7月5日 - 12月13日)。修道士として有徳の人であったが、教皇空位の混乱を収拾するために政治的に一時的に「つなぎ役」の教皇として選出。しかし教皇の座を厭い、在位約半年で自ら退位したマックスウェル・スチュアート(1999)pp.159-162鶴岡(2012)pp.54-64。イタリアのイゼルニア出身、本名はピエトロ・ダ・モローネ(Pietro da Morone, モローネのピエトロ)である。.

新しい!!: 列聖とケレスティヌス5世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

ゲオルギー (キエフと全ルーシの府主教)

ルギー()はキエフと全ルーシの府主教(在位:1068年頃 - 1076年頃)。ビザンツ出身。 府主教であると同時に、σύγκελλοςの称号を持つビザンツの元老院議員でもあった。このことは、現存する彼の3つの公印からわかる。.

新しい!!: 列聖とゲオルギー (キエフと全ルーシの府主教) · 続きを見る »

コンラート・フォン・マールブルク

ンラート・フォン・マールブルク(聖エリザベート教会のステンドグラス) コンラート・フォン・マールブルク(Konrad von Marburg, 1180年/1190年頃 - 1233年7月30日)は、中世ドイツの修道士、異端審問官、十字軍運動指導者。マールブルク・アン・デア・ラーンを中心に活動し、聖女エリザベートの告解師父として知られる。.

新しい!!: 列聖とコンラート・フォン・マールブルク · 続きを見る »

コンラート・フォン・テューリンゲン

ンラート・フォン・テューリンゲン(Konrad von Thüringen, 1206年頃 - 1240年7月24日)は、ドイツ騎士団第5代総長。テューリンゲン方伯ヘルマン1世とバイエルン公オットー1世の娘ゾフィアの末子。ルートヴィヒ4世、ハインリヒ・ラスペの弟。グーデンスベルク伯としてヘッセンを支配した。コンラート・ラスペ(Konrad Raspe)とも呼ばれる。 マールブルク・エリザベート教会内にあるコンラートの墓.

新しい!!: 列聖とコンラート・フォン・テューリンゲン · 続きを見る »

シモノペトラ修道院

モノペトラ修道院(シモノペトラしゅうどういん、ギリシャ語:Σιμωνόπετρα)は、ギリシャ、アトス山の修道院共同体に位置する、正教会の修道院。シモノスペトラ修道院(ギリシャ語:Μονή Σίμωνος Πέτρας)としても知られる。シモノペトラ修道院はアトス山修道院の階級において第13位を等級付けられている。 修道院はアトス半島の南岸、ダフニのアトス山港とオシウ・グリゴリウ修道院の間に位置している。アトス山の南岸は概してごつごつとした、かなり岩だらけの土地であり、シモノペトラ修道院が位置している場所自体も非常に険しい。修道院は単独の巨大な岩の上に建てられており、その下を海まで実に330メートルの崖が掛かっている。.

新しい!!: 列聖とシモノペトラ修道院 · 続きを見る »

シャラモン (ハンガリー王)

ャラモン(Salamon, 1053年 - 1087年)は、ハンガリー王(在位:1063年 - 1074年)。.

新しい!!: 列聖とシャラモン (ハンガリー王) · 続きを見る »

シロンスクのヤドヴィガ

ンスクのヤドヴィガまたはアンデクスのヘートヴィヒ(ポーランド語:Jadwiga Śląska / ドイツ語:Hedwig von Andechs / ラテン語:Hedvigis, 1174年 - 1243年10月15日)は、カトリック教会の聖女。シレジア(シロンスク)の守護聖人として知られる。.

新しい!!: 列聖とシロンスクのヤドヴィガ · 続きを見る »

シンプリキウス (ローマ教皇)

シンプリキウス(Simplicius, ? - 483年3月10日)は、第47代ローマ教皇(在位:468年3月3日 - 483年3月10日)。 イタリアのティヴォリでカスティヌスの息子として生まれ、その生涯についての多くはLiber Pontificalisの記述により知られる。 シンプリキウスはカルケドン公会議で単性説に対して保守的な立場をとり、野蛮人の襲撃からイタリア人を守るために尽くした。ゲルマン人傭兵の反乱と476年のオドアケルによるロムルス・アウグストゥルスの追放及びイタリア王即位の宣言を目撃した。オドアケルはローマの統治機構はそれほど変えなかったが、司祭の地位は固く手中に収めた。 シンプリキウスはローマに聖ビビアナ教会を建立したことが記録されている。 カトリック教会によって列聖され、聖人暦は3月10日となっている。 Category:教皇 Category:カトリック教会の聖人 Category:生年不明 Category:483年没.

新しい!!: 列聖とシンプリキウス (ローマ教皇) · 続きを見る »

シエナのカタリナ

ナのカタリナまたはシエナのカテリーナ (Santa Caterina da Siena, 1347年3月25日 - 1380年4月29日)は、ドミニコ会第三会員(en)の在俗修道女(尼僧)。本名はカテリーナ・ベニンカーサ (Caterina Benincasa) といい、裕福な家庭の出身だった。ローマ・カトリック、アメリカ・福音主義ルーテル教会、聖公会で聖人。祝日は4月29日(かつては4月30日)。その象徴として、ユリの花、本、十字架像、心臓、茨の冠、聖痕、指輪、バラの花、骸骨、教会の小模型、教皇庁の紋章を掲げた船の小模型が用いられる。身体に現れる有形の病、火事に対する守護聖人。イタリアでは、流産、看護師、病人の守護聖人。 ここではイタリア語表記に倣いカテリーナと表記する。.

新しい!!: 列聖とシエナのカタリナ · 続きを見る »

ジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ

ャチント・ジョルダーノ・アンサローネ(、シチリア語: Sant'Jacintu Giurdanu Ansaluni、1598年11月1日 - 1634年11月17日)は、シチリア出身のドミニコ会宣教師。1634年に長崎で殉教し、1987年にカトリック教会の聖人に列せられた。.

新しい!!: 列聖とジャチント・ジョルダーノ・アンサローネ · 続きを見る »

ジャン・ド・ジョアンヴィル

ャン・ド・ジョアンヴィル ジャン・ド・ジョアンヴィル(Jean de Joinville, 1224年 - 1317年12月24日)は、シャンパーニュ伯家の重臣(セネシャル)で、第7回十字軍に従軍した。後にルイ9世の伝記『聖王ルイの生涯』を著し、伝記作家として後世に記憶される。 シャンパーニュ伯ティボー4世の宮廷で教育を受け、父の跡を継ぎセネシャルとなった。彼は適度に信心深く、1244年にルイ9世が第7回十字軍を募るとこれに参加したが、十字軍の苦戦の中でルイ9世の知遇を受け、次第に重用されるようになった。 特に解放されてアッコンに到着した後、ルイ9世がフランスに帰るか留まるか諸侯に相談した際、フランス諸侯の多くが帰国することを望んだのに対し、唯一人現地に留まることを主張した。結果的にルイ9世がこれを受け入れたため、以降、王の相談役、代官として活躍した。1254年に帰国した後は、シャンパーニュ伯のセネシャルとして勤め、1270年にルイ9世が第8回十字軍を起こした際も誘われたが参加しなかった。 ルイ9世の死後、列聖のための調査が始まった際、ルイ9世を親しく知るものとしてジョアンヴィルも1282年に証言を行っている。フランス王妃でありシャンパーニュ伯として主君でもあるジャンヌの命により「聖王ルイの生涯」の記述を始め、1309年に完成させてルイ10世に捧げている。.

新しい!!: 列聖とジャン・ド・ジョアンヴィル · 続きを見る »

ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル

ャンヌ・ド・コンスタンティノープル (Jeanne de Constantinople、1194年から1200年の間に出生 - 1244年12月5日)は、フランドル女伯およびエノー女伯として13世紀初頭のフランドルとエノーを治めた女性。ジャンヌ・ド・フランドル(Jeanne de Flandre)またはジャンヌ・ド・エノー(Jeanne de Hainaut)とも呼ばれたはブルターニュ公位請求者ジャン・ド・モンフォールの妻、はエノー伯ギヨーム1世の娘の呼び名として後に用いられた(共に妹マルグリットの子孫)。。フランドル伯およびエノー伯、ラテン皇帝ボードゥアンとマリー・ド・シャンパーニュ(シャンパーニュ伯アンリの娘)の長女。 フランドル伯としてジャンヌはフランドル諸都市に租税免除特権を備えた多くの憲章を与え、伯領の経済的発展に有利な政策を行った。彼女は伝統的な修道会を無視することなく、伯領における托鉢修道会、ベギヌ会(fr)、ヴィクトリーヌ会、病院共同体の発展に重要な役割を果たした。彼女の治世下で、以前にはまれであった女性の団体が増加し、社会と教会内で女性の役割を変換させた。 中世の騎士道物語ペルスヴァルまたは聖杯の物語の第三章はジャンヌ・ド・コンスタンティノープルのために書かれており、13世紀の詩人ウォーシエ・ド・ドゥナン(fr)が創作した『聖マルトの生涯』(Vie de sainte Marthe)も同様である。初めてオランダ語で書かれた騎士道物語、Van den vos Reynaerdeは、ジャンヌの側近の聖職者が書いたものである。 歴史家によってイメージが修復されるまで、ジャンヌ・ド・コンスタンティノープルの19世紀までの人物像は非常に否定的なものだった。フランスやベルギーにおいてジャンヌ女伯は絵画や彫刻のモデルとなっており、祭りの際には巨人像(fr)として登場する。.

新しい!!: 列聖とジャンヌ・ド・コンスタンティノープル · 続きを見る »

ジャンヌ・ド・シャンタル

ジャンヌ・フランソワーズ・ド・シャンタル(Jeanne Françoise de Chantal, 1572年1月23日 - 1641年12月13日)は、カトリック教会の修道女・聖人。聖母訪問会創立者。フランスの貴族で作家のセヴィニエ侯爵夫人は孫に当たる。 フランスのブルゴーニュ、ディジョンの貴族の家に生まれる。敬虔なカトリック信者として育ち、幼少のころから修道女への召命を感じていたが、両親の縁談に応じ、1592年にクリストフ・ド・ラビュタンという貴族の男性と結婚。子宝に恵まれ、夫婦生活は良好であったが、夫は不慮の事故で死去。未亡人となったがその悲しみを乗り越え、ジュネーヴの司教であるフランシスコ・サレジオと摂理的な出会いをし、1610年、彼とともに『聖母訪問会』という女子修道会をサヴォワ地方(現、フランス・サヴォワ県)のアヌシーで創立した。以後、修道女としての道を歩んだ。 1641年、自分が設立したムーランの修道院で死去した。1757年に列福され、1768年、教皇クレメンス13世によって列聖された。 Category:ブルボン朝の人物 Category:フランスのカトリック教会の信者 Category:カトリック教会の聖人 Category:ディジョン出身の人物 Category:1572年生 Category:1641年没.

新しい!!: 列聖とジャンヌ・ド・シャンタル · 続きを見る »

ジャンヌ・ダルク

ャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne DarcD'Arc という綴りは近世になって変化してできたもので、15世紀当時には姓にアポストロフをつける習慣は無かった。公式の記録などでは Darc, Dars, Day, Darx, Dare, Tarc, Tart, Dart などと書かれる。ジャンヌ自身は Jehanne と綴ったといわれている and; it is also noted in Pernoud and Clin).

新しい!!: 列聖とジャンヌ・ダルク · 続きを見る »

ジャシンタ・マルト

ャシンタ・マルト(本名:ジャシンタ・デ・ジェズス・マルト Jacinta de Jesus Marto あるいはヤシンタ・マルト 1910年3月11日-1920年2月20日)は、ポルトガルのファティマにおける聖母出現の目撃者の一人で、カトリック教会の聖人である。同じく目撃者の一人でカルメル会修道者として長命したルシア・ドス・サントスの従妹にあたり、2000年5月13日にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、兄のフランシスコ・マルトとともに列福された。2017年5月13日にフランシスコによって列聖。.

新しい!!: 列聖とジャシンタ・マルト · 続きを見る »

ジュゼッピーナ・バキタ

ュゼッピーナ・バキタ (Giuseppina Bakhita,1869年 - 1947年2月8日)は、スーダン出身の修道女。カトリック教会の聖人。スーダンの守護聖人。 バキタは西スーダン・ダルフール地方の村オルゴッサで、村の有力者の家に生まれた。彼女の父親は村長と兄弟であった。彼女が9歳の時、アラブ人の奴隷狩りにあって誘拐され、その後8年もの間、エル・オベイドやハルトゥームの奴隷市場で5度も売られた。この過酷な経験が精神的外傷となって、彼女は自分の名前を忘れてしまい、奴隷たちからアラビア語の名前バキタ(幸運、という意味)を与えられた。クリスチャン・ネームは成人してからのものである。 バキタは奴隷の間、ひどい暴力を受けていた。かつて、彼女の所有者の息子に幾度も殴られる暴行を受け、一ヶ月余り藁のベッドから起きあがることができなかった。のちに彼女は四度目の所有者となるオスマン帝国の軍人に、最もひどい虐待を受けた。当時、自分の所有する奴隷にすることは珍しくもなかったが、彼は自分の所有する奴隷に『彼のものである印』として、刃物で傷を付け入れ墨をしたのである。何年も後にバキタがイタリア語で書いた自伝には、小麦粉の入った皿、塩の皿、刀、それらを女性たちが持ってきて、彼女たちがバキタの肌の上に刃物をつきたてて奴隷を示す模様を刻み、傷口を小麦粉と塩で埋めて傷口が盛り上がるようにしたのだった。バキタの胸元、腹、腕には60種類以上の模様があった。 彼女の最後の購入者となったのは、イタリアの領事カッリスト・レニャーニだった。彼はバキタに優しく接し、彼女を自由にすべく計画をした。1885年、彼は16歳のバキタを友人アウグスト・ミキエーリに託した。ミキエーリは、自分の娘ミンミーナの乳母としてバキタをイタリアへ連れ帰った。1888年か1889年、バキタとミンミーナは、ミキエーリが仕事で紅海へ向かった間、ヴェネツィアのカノッサ女子修道会の保護のもとに置かれた。1890年、バキタは自分の意志で洗礼を受け、洗礼名ジュゼッピーナ・マルガリータ(Giuseppina Margarita)をもらった。 ミキエーリ夫妻が帰国してバキタとミンミーナを呼び寄せると、バキタは修道会を離れるのをいやがった。ミキエーリ夫人は出させようとしたが、バキタとミンミーナがヴェネツィアで入学した最上の学校は、権威者に訴え出た。イタリアの法廷は、バキタの出生以前からスーダンでは奴隷制度が非合法化されており、どんな場合でもイタリアの法律は奴隷制度を承認しない、バキタが奴隷であったことは一度もない、と宣告した。バキタはもはや成人になって、自分で自分の運命をコントロールすることができると知った最初の出来事となった。彼女は女子修道会に残ることを選択した。 1896年、彼女は正式に修道女となった。1902年、彼女は北イタリアのスキーオに家をあてがわれ、そこで余生を暮らした。彼女が長期間スキーオを留守にしたのは1935年から1938年までのことで、この時期ミラノで、アフリカで働くべく準備する若い修道女たちを手助けに行ったのだった。 スキーオで暮らした45年間、ジュゼッピーナは常に自宅に女性門番を雇っていた。そして彼女がしばしば地元のコミュニティーとの連絡役を果たしていた。彼女の優しさ、穏やかな声、絶えない笑顔はよく知られるようになり、ヴィチェンツァ住民らは今も彼女を『ラ・ノストラ・マードレ・モレッタ』(La nostra madre moretta、私たちの小さな褐色の母)と呼ぶ。彼女の特別な献身と高潔さの評判は教書に記され、彼女は回顧録を公にし自身の経験を他人に話した。これらが彼女の高名をイタリア中に広めた。最晩年、バキタは苦痛と病が著しかったが、彼女は朗らかさを保ち、何かを尋ねられるといつも笑みを浮かべて『主のお望みのままに』と答えた。 死が迫ったとき、彼女の記憶は奴隷だった頃に逆戻りし、錯乱の中で『どうか鎖を外してください・・・重すぎるのです。』と叫んだ。 ジュゼッピーナは1947年2月8日に帰天した。三日間、彼女の遺体が安置され、何千もの人々が彼女に敬意を払いにやってきた。彼女を列聖してほしいという声がすぐに起こり、彼女の死からわずか12年後の1959年に審査が開始された。1978年12月1日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ジュゼッピーナを、列聖の最初の段階である尊者とした。1992年5月17日、彼女は列福され2月8日が彼女の記念日とされた。2000年10月1日、彼女は列聖され聖人となった。彼女は現代アフリカの聖人であり、虐待と奴隷に関連した聖人として列福された。.

新しい!!: 列聖とジュゼッピーナ・バキタ · 続きを見る »

ジョン・フィッシャー

ジョン・フィッシャー、ハンス・ホルバイン画 ジョン・フィッシャー(John Fisher, 1469年 - 1535年6月22日)は、イングランドの聖職者。カトリック教会・聖公会で聖人。 イングランドのビヴァリーで生まれる。ケンブリッジ大学で学び、人文主義的教養を身につけた。1501年にケンブリッジ大学副総長、1503年に神学教授、翌1504年には総長に就任した。また同年、イングランド王ヘンリー7世によりロチェスターの司教に命じられた。 フィッシャーが大学を指導した時代は学問研究が盛んであり、1505年にヘンリー7世の母マーガレット・ボーフォートの支援でクライスツ・カレッジ、1511年にはセント・ジョンズ・カレッジがそれぞれ設立された。また、人文学者エラスムスを同大学へ招いたのも彼であった。 ヘンリー8世の離婚問題が生じた時、トマス・モアと共に離婚に反対した。また、王がローマ教皇を頂点とする教会から分離して自らを首長とするイングランド国教会の設立をしようとした時も反対の立場を貫いた。そのため、ロンドン塔に反逆者として監禁された。 獄中、ヘンリー8世が再度、国教会の首長として自分を認めるよう強要したにもかかわらず、フィッシャーは強固に応じなかったため王の怒りを買い、斬首刑に処された。首はロンドン橋上で晒され、遺体はロンドン塔内に葬られた。ローマ教皇パウルス3世により、枢機卿に叙任する通知がイングランドに届いた直後の処刑だった。 1886年、モアと同時に教皇首位権援護の殉教者として列福され、死後400年の1935年には、モアと共に列聖され聖人となった。 Category:イングランドの枢機卿 Category:テューダー朝の人物 Category:カトリック教会の聖人 Category:聖公会の聖人 Category:キリスト教の殉教者 Category:ルネサンス・ユマニスト Category:刑死した人物 Category:1469年生 Category:1535年没.

新しい!!: 列聖とジョン・フィッシャー · 続きを見る »

ジェンマ・ガルガーニ

ェンマ・ウンベルタ・マリア・ガルガーニ(Gemma Umberta Maria Galgani, 1878年3月12日 - 1903年4月11日)は、当時のイタリア王国の女性で神秘家であり、カトリック教会の聖人。イエス・キリストの受難を体験したとされ、このことから「受難の娘」と呼ばれる。祝日(記念日)は4月11日。 敬虔なキリスト教徒として育ったジェンマは御受難会の修道女になることを願ったが健康上の理由などで実現しなかった。1862年に脊髄膜炎にかかり、聖人として評判が高まった御受難会の修道士、悲しみの聖母の聖ガブリエル・ポッセンティなどの取次ぎを願い、奇跡的に回復した。以後、ジェンマは両手と両足に聖痕が現れるといった神秘体験を経験し、その行動は彼女の聴罪司祭らによって慎重に調査された。しかし彼女は興奮することなくそれに耐えた。1903年4月11日に死去。カトリック教会はその聖徳性を認め、1933年にローマ教皇ピウス11世によって列福され、1940年に同じくローマ教皇のピウス12世により列聖された。.

新しい!!: 列聖とジェンマ・ガルガーニ · 続きを見る »

スヴャトスラフ・フセスラヴィチ

ヴャトスラフ・フセスラヴィチ(Святаслаў Усяславіч、? - 1129年以降)はポロツク公フセスラフの年少の子のうちの一人である。ヴィテプスク公:1101年 - 1129年。聖名ゲオルギー。 1001年に父のフセスラフが死去した後に、ポロツク公国はその息子たちの間で分割相続された。A.プレスニャコフ(ru)やT.ヴァシレフスキーの説では、スヴャトスラフはポロツク公国の分領公国としてヴィテプスク公国を相続し、ヴィテプスクはフセスラフの子孫が支配を続けたとしている。一方、L.アレクセーフ(ru)の説では、この時期のヴィテプスクはスモレンスク公国の支配下にあり、ヴィテプスク公国はスモレンスク公ロスチスラフによって、その封臣・息子に下賜されたとしている。ただし、年代記上からはこの意見を裏付けることはできない。 1129年、キエフ大公ムスチスラフ1世はポロツク公国への遠征を行い、スヴャトスラフは捕縛された。同じく捕らえられたスヴャトスラフの兄弟のロスチスラフやダヴィドはコンスタンティノープルへ流罪となった。スヴャトスラフのその後は不明である。.

新しい!!: 列聖とスヴャトスラフ・フセスラヴィチ · 続きを見る »

ステファン・ハーディング

テファン・ハーディング(Stephen Harding、Étienne Harding、、1060年 - 1134年3月28日)は、カトリック教会に属する修道会、シトー会の創設者の一人で、その3人のうちで「最も重要」と評される人物である。1623年に列聖されている。なお、片仮名表記ではスティーヴン・ハーディング、エティエンヌ・アルダン(アルディング)、ステファヌス・ハルディングなどと表記される場合があるものの、本項では『聖人事典』にならい、ステファン・ハーディングという表記に統一する。.

新しい!!: 列聖とステファン・ハーディング · 続きを見る »

ステファヌス10世 (ローマ教皇)

テファヌス10世(Stephanus X、? - 1058年3月29日)は、第154代ローマ教皇(在位:1057年8月2日 - 1058年3月29日)。.

新しい!!: 列聖とステファヌス10世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

スコットランド王国

ットランド王国(スコットランドおうこく、ゲール語:Rìoghachd na h-Alba, スコットランド語:Kinrick o Scotland, 英語:Kingdom of Scotland)は、グレートブリテン島の北部、現在のイギリスのスコットランドに存在した王国。843年にケネス1世により成立したとされ、1707年のイングランド王国との合同で消滅した。 ステュアート朝のジェームズ1世が1603年にイングランド王位を兼ねて以来、南部のイングランドとは同君連合の関係にあったが、アン女王時代の1707年の合同法によりイングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となった。.

新しい!!: 列聖とスコットランド王国 · 続きを見る »

セバスティアヌス

聖セバスティアヌス (Sebastianus, 伝承による没月日287年1月20日)、あるいは聖セバスティアノは、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会)の聖人・殉教者(致命者)。聖セバスチャンとも表記される。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたといわれてきた。彼は美術や文学で、柱に身を縛り付けられ、矢を射られた姿で描かれることが多い。正教会では聖致命者セバスティアンと呼称され、記憶日は12月18日(ユリウス暦を使用する正教会では12月31日に相当)。カトリック教会での祝日は1月20日。.

新しい!!: 列聖とセバスティアヌス · 続きを見る »

セッツェのカルロ

ッツェのカルロ(1613年10月19日 - 1670年1月6日)は、カトリック教会フランシスコ会の修道士、神秘家、聖人。.

新しい!!: 列聖とセッツェのカルロ · 続きを見る »

ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会

レナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会は、チェコのボヘミア地方とモラヴィア地方の境界に近いジュヂャール・ナト・サーザヴォウにある教会堂。イタリア系でプラハを中心に活躍した建築家ヤン・サンティーニ=アイヘルの傑作とされている。サンティーニは建物と装飾の両面で、ボッロミーニ的なバロック様式にゴシック的要素を統合した。1994年にユネスコの世界遺産に登録された。.

新しい!!: 列聖とゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会 · 続きを見る »

ゾフィー・フォン・ブラバント

ゾフィー・フォン・ブラバント(Sofie von Brabant, 1224年3月30日、クロイツブルク - 1275年5月29日)は、ルードヴィング家出身の女性で、テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世と妃エリーザベトの娘でブラバント公アンリ2世の妻。ヘッセン方伯ハインリヒ1世の母。叔父ハインリヒ・ラスペの死後、テューリンゲンの統治権を巡ってマイセン辺境伯でテューリンゲン方伯を兼ねた従兄のハインリヒ3世と争った。.

新しい!!: 列聖とゾフィー・フォン・ブラバント · 続きを見る »

タチアナ・ニコラエヴナ

タチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(, 1897年5月29日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第二皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー(秘密警察)によって翌1918年7月17日に超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクのイパチェフ館において家族・従者と共に21歳の若さで銃殺された。正教会で聖人(新致命者)。.

新しい!!: 列聖とタチアナ・ニコラエヴナ · 続きを見る »

サラ (カリ)

ント=マリー=ド=ラ=メールの拝所 サラ、サラ・カリ、サラ・ラ・カリまたは黒サラ(仏:Sainte Sara la Kali)は、南フランスの都市サント=マリー=ド=ラ=メールに伝わる聖女。ロマの守護聖人でもある。 ただしカトリック教会で列聖されているわけではない。この地に漂着したマグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベの従者であったとされる。 伝承はマリアたちにと一緒に来たとも、すでにこの地に住んでいたとも言われる。出身はエジプトあるいはインドとされ、褐色あるいは黒い肌の像がある。カリはインドの女神の名前から由来すると思われる。 毎年5月24日前後、10月22日前後に催される、この町の教会から聖女サラの像を海まで運ぶ祭りがあり、多くのロマが集まる。 マーガレット・スターバードはこの伝説のサラをマグダラのマリアの娘と考えた 。 ダン・ブラウンは推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』の中で、これを借用している。.

新しい!!: 列聖とサラ (カリ) · 続きを見る »

サレジアン・シスターズ

レジアン・シスターズ (Figlie di Maria Ausiliatrice、Daughters of Mary Help of Christians、Salesian Sisters of Don Bosco、旧称: 扶助者聖母会、略称: F.M.A.) は、北イタリアの聖女マリア・マザレロによって1872年に結成されたカトリック教会の女子修道会。.

新しい!!: 列聖とサレジアン・シスターズ · 続きを見る »

サント・アントニオ・デ・リシュボア教会

ント・アントニオ・デ・リシュボア教会 (Igreja de Santo António de Lisboa)は、ポルトガル・リスボンにある教会。パドヴァの聖アントニオに捧げられた教会として知られる。言い伝えによると、教会はかつて聖アントニオが生まれた場所に建てられたという。.

新しい!!: 列聖とサント・アントニオ・デ・リシュボア教会 · 続きを見る »

サント・シャペル

ント・シャペル (Sainte chapelle)とは「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂。 おそらくゴシック建築が最も輝かしかった時期の頂点ともいえる傑作である。 サント·シャペル·デュ·パレとも呼ばれ、ルイ9世(聖ルイあるいは聖王ルイ)が1239年から収集し始めた聖遺物を納めるために建設を命じたものである。コンシェルジュリーとともにカペー朝時代の王宮であるシテ宮の跡であり、現在はパリのパレ・ド・ジュスティスの一部である。2011年には、90万人以上の観光客が訪れた。.

新しい!!: 列聖とサント・シャペル · 続きを見る »

サント=カトリーヌ (ローヌ県)

ント=カトリーヌ (Sainte-Catherine)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、ローヌ県のコミューン。.

新しい!!: 列聖とサント=カトリーヌ (ローヌ県) · 続きを見る »

サンタ・サビーナ聖堂

ンタ・サビーナ聖堂(Basilica Sanctae Sabinae、Basilica di Santa Sabina all'Aventino)はイタリアのローマにある名義小バシリカで、カトリック教会ドミニコ会の母教会である。アヴェンティーノの丘の上、テヴェレ川のほとりにあり、近くに聖ヨハネ騎士団の本部がある。 5世紀に創建された古いバシリカであり、上から見ると古典的な長方形の形状で、円柱を使っている。装飾はたいていが白く、創建時の謙虚な状態に復元されている。そのため、窓から差し込む光に照らされた内部は広々としていて風通しがよい。サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂などの他のバシリカは、派手に装飾が凝らされていることが多い。その簡素さから、サンタ・サビーナ聖堂は古代ローマの屋根付きのフォルムからキリスト教の教会堂へと発展する途中段階を表していると言われている。灰の水曜日の指定巡礼聖堂である。.

新しい!!: 列聖とサンタ・サビーナ聖堂 · 続きを見る »

サンタクロース

ンタクロース()は、クリスマス・イブに良い子のもとへプレゼントを持って訪れる人物。 サンタクロー.

新しい!!: 列聖とサンタクロース · 続きを見る »

サン=ドニ大聖堂

大聖堂 サン=ドニ大聖堂(仏語:Basilique de Saint-Denis もしくは単に Basilique Saint-Denis)は、歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂。1966年よりカトリック教会のサン=ドニ司教座が置かれている。パリ北側の郊外に位置するサン=ドニにある。.

新しい!!: 列聖とサン=ドニ大聖堂 · 続きを見る »

国王

国王(こくおう、英語:king, フランス語:roi, ドイツ語:König, ノルド語:kong, ラテン語:rex)は、国の君主(王)を指し、その称号(君主号)でもある。特に男性である場合(男王)を指す。.

新しい!!: 列聖と国王 · 続きを見る »

国教忌避

国教忌避(こっきょうきひ、recusancy)とは、イングランド国教会の礼拝に対し出席を拒否すること。イングランドおよびウェールズの歴史において用いられる用語であり、拒否を行う人物を国教忌避者(recusant)と呼ぶ。recusancyという単語はラテン語のrecusare(拒否または異議を唱えること)に由来し、この言葉が初めて用いられたのは1593年に可決された法令であり、カトリックを信奉し、イングランド国教会の礼拝へ出席しない者を「カトリックの国教忌避者(Popish recusants)」と表した。 国教忌避者に関する法はエリザベス1世の治世下で制定され、礼拝義務などを怠ったものには、罰金、財産の没収、投獄など様々な罰が課された。礼拝への出席義務条項は1650年に撤廃されたが、カトリック教徒の社会的・政治的な自由は1829年のまで待たねばならなかった。場合によっては、カトリックを信奉することは死刑を意味し、16世紀から17世紀にかけてイングランドとウェールズではカトリックが多数刑死しており、カトリック教会において殉教者として列聖されている。.

新しい!!: 列聖と国教忌避 · 続きを見る »

火薬陰謀事件

火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、Gunpowder Plot)は、1605年にイングランドで発覚した政府転覆未遂事件である。イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきた。首謀者はロバート・ケイツビー、実行責任者はガイ・フォークス。上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬 (gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀 (plot) を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。これにちなんだ祭事が毎年イギリス各地で開催されている。 なお、ここでいう「1605年11月5日」とは、ユリウス暦に基づく日付である。事件当時のイングランドでは、いまだグレゴリオ暦は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、1605年11月15日である。以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。.

新しい!!: 列聖と火薬陰謀事件 · 続きを見る »

神のヨハネス

聖ヨハネ・ア・デオまたは神のヨハネス(1495年3月8日 – 1550年3月8日)は、ポルトガル生まれの修道士で聖人であり、スペインの主要な宗教家の一人である。神の聖ヨハネ、天主の聖ヨハネ、聖ヨハネ・ア・デオと呼ばれるのが一般的である。.

新しい!!: 列聖と神のヨハネス · 続きを見る »

福者

福者(ふくしゃ (男性形), beāta 、Beato)は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。.

新しい!!: 列聖と福者 · 続きを見る »

第7回十字軍

7回十字軍(だい7かいじゅうじぐん、1248年 - 1254年)は、フランス王ルイ9世が主導した十字軍。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して捕虜となり、占領地を全て放棄した上に莫大な身代金を支払って撤退した。.

新しい!!: 列聖と第7回十字軍 · 続きを見る »

狼と香辛料

|- | colspan.

新しい!!: 列聖と狼と香辛料 · 続きを見る »

盧基南

盧 基南(ノ・ギナム、韓国語:노기남、1902年1月22日 - 1984年6月25日)は、大韓民国のカトリック聖職者。洗礼名はパウロ。初の韓国人司教であり、ソウル教区の初代大司教。長年にわたり韓国のカトリック教会を指導した。.

新しい!!: 列聖と盧基南 · 続きを見る »

韓国のキリスト教

韓国のキリスト教(かんこくのキリストきょう)は大韓民国におけるキリスト教の歴史と現状について述べる。2005年統計庁の発表によると人口の約3割がキリスト教徒で、キリスト教が最大勢力の宗教である。内訳は、プロテスタントの信者が2に対して、カトリック信者が1になっている。.

新しい!!: 列聖と韓国のキリスト教 · 続きを見る »

聖女

聖女(せいじょ)は、神聖な事績を成し遂げた女性を指す言葉、形容として使われる。.

新しい!!: 列聖と聖女 · 続きを見る »

聖人

聖人(せいじん[漢音]、しょうにん[呉音])とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。一般的な読み方は「聖人」(せいじん)であるが、仏教の場合は「聖人」(しょうにん)と読むことがある。.

新しい!!: 列聖と聖人 · 続きを見る »

聖心会

聖心会(フランス語:Sœurs du Sacré-Cœur de Jésus)は、1800年にフランスで創立されたカトリックの女子修道会。.

新しい!!: 列聖と聖心会 · 続きを見る »

聖心侍女修道会

聖心侍女修道会は、世界21か国に広がる国際的な女子修道会である。A.C.I.Sisters(ラテン語の“Ancillae Sacratissimi Cordis Iesu”の略称)と呼ばれる。1877年にマドリードに誕生した。本部はイタリア・ローマ。世界21か国に143の修道院と55の教育施設を置き、国際的かつ地域に根ざした教育・社会活動に貢献している。 創立者姉妹ラファエラ・マリアとドロレスの精神を受け継いで、イエス・キリストの教えと生き方に基づく教育・社会活動に献身している。現在、約1,400名のシスターが人間性の回復を求めて、人と人を結ぶ懸け橋として働いている。.

新しい!!: 列聖と聖心侍女修道会 · 続きを見る »

聖マラキ

聖マラキの立像 聖マラキ(St.Malachy, 1094年頃 - 1148年11月2日) は、アーマー(現北アイルランド領)に生まれたカトリック聖職者であり、死後列聖された。本名はメル・メドック・ウア・モルガイルアットウォーター&ジョン (1998) pp.384-385(Máel Máedóc Ua Morgair)で、英語式にはマラキ・オモーゲーア (Malachy O’Morgair)上智大学 (1954) pp.882-883である。聖人としての名は聖マラキアス (St. Malachias) とも表記される。いわゆる聖マラキの予言で知られるが、本人との関連を裏付ける史料は見つかっていない。.

新しい!!: 列聖と聖マラキ · 続きを見る »

聖トマス西と15殉教者

聖トマス西と15殉教者(せいトマスにしと15じゅんきょうしゃ)は、1633年から1637年にかけて長崎で殉教した16名のカトリックの司祭、修道者、信徒で、1987年に列聖された聖人たちのことである。長崎十六聖人(ながさきじゅうろくせいじん)とも呼ばれる。.

新しい!!: 列聖と聖トマス西と15殉教者 · 続きを見る »

聖テレジアの法悦

『聖テレジアの法悦』(せいてれじあのほうえつ(Estasi di santa Teresa d'Avila))は、バロック期のイタリア人芸術家ジャン・ロレンツォ・ベルニーニが1647年から1652年にかけて制作した大理石彫刻。ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会コルナロ礼拝堂の壁面に設置された祭壇(エディクラ)の装飾彫刻群の中央を占める彫刻である。コルナロ礼拝堂は、当時の芸術家の第一人者だったベルニーニが内装のデザインから完成までを手がけた建物で、大理石彫刻、フラスコ壁画、絵画はすべてがベルニーニの作品となっており、これらコルナロ礼拝堂の美術作品はローマにおける盛期バロック美術の最高傑作の一つであると見なされている。.

新しい!!: 列聖と聖テレジアの法悦 · 続きを見る »

聖アグネス

聖アグネス(ラテン語:Sancta Agnes, 291年 - 304年1月21日)は、カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派の聖人で殉教者。13歳で殉教したと伝えられる。ローマの聖アグネスや聖イネス、聖女アグネス、聖女アニエスとしても知られている。日本正教会では聖致命女アグニヤと呼ばれる。イタリア語名に基づけば聖アニェーゼ。ローマの教会名の「サンタニェーゼ」(Sant'Agnese)は、「サンタ・アニェーゼ」の発音が融合(エリジオン)したものである。.

新しい!!: 列聖と聖アグネス · 続きを見る »

聖イシュトヴァーンの王冠

ハンガリーの王冠、剣、宝珠 聖イシュトヴァーンの王冠(せいイシュトヴァーンのおうかん)またはハンガリーの聖冠(ハンガリーのせいかん、ハンガリー語:Magyar Szent Korona〔マジャル・セント・コロナ〕、ドイツ語:Stephanskrone〔シュテファンスクローネ〕、クロアチア語:Kruna svetoga Stjepana、ラテン語:Sacra Corona、英語:Holy Crown of Hungary)は、現存する王冠の中で唯一の聖なる象徴(holy attribute)として知られる王冠である。.

新しい!!: 列聖と聖イシュトヴァーンの王冠 · 続きを見る »

聖イシュトヴァーン大聖堂

聖イシュトヴァーン大聖堂 聖イシュトヴァーン大聖堂(せい-だいせいどう、Szent István-bazilika)は、ハンガリーの首都ブダペストにあるカトリック教会のバシリカである。 聖遺物箱に収められている右手のミイラの主、ハンガリー王国の初代国王イシュトヴァーン1世にちなんで名づけられた。.

新しい!!: 列聖と聖イシュトヴァーン大聖堂 · 続きを見る »

聖ウルスラ

聖ウルスラ(せいウルスラ、ラテン語:Sancta Ursula(小さな雌熊の意),英語:Saint Ursula、?-383年? )は、伝説の人物で、ブリタニア出身のキリスト教徒の聖女である。しかし聖女の伝説は、ドイツのケルンが発祥の地である。 聖ウルスラ教会、ケルン、ドイツ--> ウルスラは、1万1千人の処女をめぐるキリスト教的伝説の中心人物で、この伝説は、9世紀に起源があり、ついで、ケルンの小礼拝堂内で墓石が発見されて後、13世紀になって伝承が変容し大きく増幅された。ケルンの墓石は後になって、ウルスラの名前を持つ、さる八歳の少女のものであるとされた。 中世以来、実在の聖女と信じられ、ウルスラ崇敬が盛んであったが、今日その実在は疑問とされている。カトリック教会の典礼暦ではかつてウルスラの祝日は10月21日とされていたが、実在の可能性が低いという理由から1969年以降典礼暦から除外された。.

新しい!!: 列聖と聖ウルスラ · 続きを見る »

聖ウィリブロルド

聖ウィリブロルド(Saint Willibrord, Villibrordus, 658年 - 739年11月8日)は、キリスト教の聖人であり、伝道者である。 フリーセン地方の伝道者で、ユトレヒト初の司教を務めた。ノーサンブリアに生まれ、現ルクセンブルクのエヒタナハで没した。.

新しい!!: 列聖と聖ウィリブロルド · 続きを見る »

聖エリザベート教会 (マールブルク)

聖エリザベート教会( - せいえりざべーときょうかい、ドイツ語:Elisabethkirche)はドイツ、ヘッセン州マールブルクに位置し、ドイツ騎士団により聖女チューリンゲンのエリザベートを称えて建設された教会。聖女エリザベートの墓が設けられたことで、教会は中世後期における聖地行脚の重要な目的地の一つとなった。.

新しい!!: 列聖と聖エリザベート教会 (マールブルク) · 続きを見る »

聖クラレチアン宣教会

聖クラレチアン宣教会(せいクラレチアンせんきょうかい: Congregatio Missionariorum Filiorum Immaculati Cordis Beatae Mariae Virginis C.M.F)はスペイン、バルセロナの聖アントニオ・マリア・クラレ(w:Antonio María Claret)によって1849年に結成された。.

新しい!!: 列聖と聖クラレチアン宣教会 · 続きを見る »

聖王

聖王(せいおう)は、一般名詞としては、徳があり立派な政治を行う王・君主を意味する。また、以下の人物の呼び名である。.

新しい!!: 列聖と聖王 · 続きを見る »

血の中傷

血の中傷(ちのちゅうしょう、Blood libel, Blood accusation、ヘブライ語:עלילת דם)とは、ユダヤ教徒がキリスト教徒の子どもを拉致誘拐し、その生き血を祝祭の儀式のために用いているとする告発、非難であり、儀式殺人ともいうTurvey, Brent E. Criminal Profiling: An Introduction to Behavioral Evidence Analysis, Academic Press, 2008, p. 3.Chanes, Jerome A. Antisemitism: A Reference Handbook, ABC-CLIO, 2004, pp. 34–45.Goldish, Matt. Jewish Questions: Responsa on Sephardic Life in the Early Modern Period, Princeton University Press, 2008, p. 8.Zeitlin, S Vigiliae Christianae, Vol. 50, No. 2 (1996), pp. 117–124。井戸に毒を流すこと(Well poisoning)や聖体冒涜(host desecration)などと並んで反ユダヤ主義の歴史において主要な題目となり、ユダヤ人に対する迫害、追放、虐殺の口実となった。典型的な血の中傷においては、キリスト教徒の血は、過越祭で食べられる酵母の入っていないパン「マッツァー」に使われるとされる。中世ヨーロッパにおいては何千の噂を除く150例の儀式殺人事件でユダヤ人が逮捕され処刑された。 なお、「血の中傷」が有害で誤った告発を意味することもあるが、この使用法についてユダヤ人グループから抗議がなされている.

新しい!!: 列聖と血の中傷 · 続きを見る »

裁かるるジャンヌ

『裁かるるジャンヌ』または『裁かるゝジャンヌ』(La Passion de Jeanne d'Arc、ジャンヌダルクの受難)は、フランスで制作された白黒サイレント映画(無声映画)で、1927年に制作され、翌1928年に公開された。ジャンヌ・ダルクの異端審問裁判の様子とその後の火刑までを描いた映画である。 実際の裁判記録をもとに脚本が書かれ、ジャンヌを英雄視せず、あくまで尋問調書から読み取ることができる一人の人間として描いている。また、物語の中心となる法廷での審問官とジャンヌの問答の場面は、極端な顔のクローズアップと会話字幕の多用でつないでいる。監督はデンマークのカール・Th・ドライヤーで彼の代表作の一つである。主演はルネ・ファルコネッティで、ノーメイクでジャンヌを演じている。.

新しい!!: 列聖と裁かるるジャンヌ · 続きを見る »

金大建

金大建(キム デゴン、1821年8月21日 - 1846年9月16日)は朝鮮最初のカトリック司祭である。洗礼名に使われる場合はアンドレア・キム・デゴンとする。カトリック教会の聖人で祝日は9月20日である。.

新しい!!: 列聖と金大建 · 続きを見る »

長崎のマグダレナ

長崎のマグダレナ(ながさきのマグダレナ、1610年 - 1634年10月15日)は、江戸時代初期のキリシタン。ドミニコ会第三会の修道女であり、1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人として、日本人女性として初めてカトリック教会の聖人に列せられた。.

新しい!!: 列聖と長崎のマグダレナ · 続きを見る »

陳日君

陳日君(ちん じつくん、中国語:チェン・リージュン、上海語:ゼン・ゼッキウン、広東語:チャン・ヤックワン、英語:Joseph Zen Ze-Kiun、1932年1月13日-)は、香港のカトリック教会の名誉司教、枢機卿及びサレジオ会士。2002年から2009年までカトリック香港教区司教を務めた。.

新しい!!: 列聖と陳日君 · 続きを見る »

李篤安

李篤安(り とうあん、1927年6月13日 - 2006年5月25日)は、洗礼名をアントニオといい、中華人民共和国のカトリック聖職者。カトリック西安大司教区の大司教であった。ただし、中華人民共和国政府は西安教区を司教区としか認めていない。.

新しい!!: 列聖と李篤安 · 続きを見る »

殉教

殉教(じゅんきょう)とは自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。キリスト教の歴史でよく用いられる言葉であるが、キリスト教以外の宗教でも見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。なおキリスト教の一教派である正教会(日本ハリストス正教会)では殉教との語を使わず、致命(ちめい)・致命者の語を用いる。.

新しい!!: 列聖と殉教 · 続きを見る »

日本二十六聖人

日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。.

新しい!!: 列聖と日本二十六聖人 · 続きを見る »

日本二十六聖人記念館

日本二十六聖人記念館(にほんにじゅうろくせいじんきねんかん)は、長崎県長崎市にある、日本二十六聖人の顕彰を目的としてカトリック教会によって設立された博物館。長崎県史跡「西坂の丘」のある西坂公園に隣接する。 設計は今井兼次で鉄筋コンクリート製の3階建て。日本二十六聖人の列聖100周年にあたる1962年に開館した。 本項目では、日本二十六聖人記念館と一体の施設である日本二十六聖人記念聖堂、日本二十六聖人記念碑(それぞれ「記念館」「記念聖堂」「記念碑」と略称)についても述べる。.

新しい!!: 列聖と日本二十六聖人記念館 · 続きを見る »

日本ハリストス正教会

函館ハリストス正教会復活聖堂 聖マトフェイ聖堂 日本ハリストス正教会(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)。 通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。 正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。 19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財。 本項では日本ハリストス正教会で用いられている用語を断りなく用いることがある。.

新しい!!: 列聖と日本ハリストス正教会 · 続きを見る »

日本聖殉教者教会

日本聖殉教者教会(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)とは、イタリアの首都ローマの西北西にある港町チヴィタヴェッキアに立つカトリック教会のフランシスコ会に属する聖堂・教会である。.

新しい!!: 列聖と日本聖殉教者教会 · 続きを見る »

悪魔の代弁者

悪魔の代弁者(あくまのだいべんしゃ、devil's advocate、advocatus diaboli)とは、ディベートなどで多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割。 ディベートのテクニックのひとつである。同調を求める圧力などで批判・反論しにくい空気があると、議論はうまく機能しなくなり、健全な思考ができなくなることが往々にしてある。それを防ぐ方法として、自由に批判・反論できる人物を設定することがある。三省堂「新グローバル英和辞典」電子版ではdevil's advocateの意味が「列聖調査審問検事」「(議論のために)わざと本心と反対の意見を述べる人」となっている。 語源は、かつてカトリック教会において設けられていた、列聖や列福の審議の際にあえて候補者の至らぬ点や聖人・福者たる証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する職の名称。人間の悪徳を神に告げる天使としてのサタンの側面にちなむ。1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止された。.

新しい!!: 列聖と悪魔の代弁者 · 続きを見る »

政教分離原則

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す『宗教の事典』、山折哲雄、2012年、朝倉書店、p862。。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。 国家により、日本などに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年小原克博「日本人の知らないの多様性」『論座』2001年10月号 などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は不可分である。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。.

新しい!!: 列聖と政教分離原則 · 続きを見る »

教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

新しい!!: 列聖と教皇 · 続きを見る »

教皇の辞任

教皇の辞任 (renuntiatio)は、カトリック教会の在位中の教皇が自発的にその地位から降りる際に起こる。一般的には教皇の在位期間は選出から死亡までであり、教皇の辞任は特殊な出来事である。21世紀より前にはたった5人の教皇だけが野心ではなく歴史の必然性に従って辞任したが、彼らは皆10世紀から15世紀の人物である。また、3世から11世紀に辞任した教皇に関しては論争になっている主張がある; そのうち5番目の例は対立教皇に関係している。 さらに、の数人の教皇は罷免されている。このことに関する歴史的・カノン法的問題は錯綜している; 一般に、ヴァチカンによる公式の教皇一覧表はこういった罷免に関して、当の教皇が認めるならこれを合法な辞任とみなすのに対して、本人が認めないなら合法な辞任とみなさない。後に発展したカノン法は教皇首位説に親和的であり、教皇の非自発的な辞任を認めない。 最も近年に辞任した教皇はベネディクト16世である。彼は2013年2月28日(UTC)から使徒座を空位にした(ベネディクト16世の辞任)。彼はグレゴリウス12世以降では初めてこれを行った教皇である。 教皇の辞任を論じる際に「退位」という表現が使われることが多いが、教会の公式な文書においては専ら「辞任」が用いられる。.

新しい!!: 列聖と教皇の辞任 · 続きを見る »

教皇勅書

教皇勅書(きょうこうちょくしょ Bulla apostolica)とは、ローマ教皇によって出された一種の勅令をいう。教皇勅書の末尾には教皇の印章(ラテン語: bulla)が添えられる。それによりbullaという単語そのものが教皇勅書をも意味する。 元来、教皇勅書は教皇からのさまざまなメッセージを民衆に広く伝えるために発行されたが、15世紀以降は最も重要な正式通知を行う場合にのみ利用されるようになった。ローマ教皇によって出された文書であれば、それが正式なものか簡易なものかにかかわらず、過去にさかのぼってあらゆる勅令、勅許の類を教皇勅書と近年の研究者は呼んでいる。 教皇の印章は遅くとも6世紀には使用されていたが、教皇印章という名称が使われ始めたのは13世紀の中頃である。その後、教皇の文書記録を管理するために教皇庁内部で非公式に利用されるようになり、15世紀までに教皇庁尚書院の一つが「教皇文書集記録」(ラテン語: registrum bullarum)と呼ばれるようになると公式なものとなった。 今日、教皇が自分自身を「司教にして神のしもべのしもべ」(ラテン語: episcopus servus servorum Dei)と称する文書は教皇勅書のみである。たとえば、ベネディクト16世が教皇勅書の形式をとる教令を発するときの書き出しは、"Benedictus, Episcopus, Servus Servorum Dei"となる。かつては金属の印章が使用されたが、現在では最重要文書の場合に限られる。バチカン教皇庁尚書院が教皇の名において発行する勅令の中で、最も正式な形態が教皇勅書である。.

新しい!!: 列聖と教皇勅書 · 続きを見る »

教派別のキリスト教用語一覧

教派別のキリスト教用語一覧(きょうはべつのキリストきょうようごいちらん)ではキリスト教の日本語における用語を、教派別・分野別に一覧表にして扱う。相当する外国語として英語による語彙も一覧に掲載する。 日本におけるキリスト教は、東西教会の分裂(8世紀頃から13世紀頃にかけて)と、西方教会内の分裂である宗教改革(16世紀頃)が起きた後に宣教されている。すなわち教派の分裂が画定された後に宣教された事を意味する。 カトリック教会・正教会・聖公会・プロテスタント諸派といった教派ごとに翻訳が展開されるという歴史的経緯がある事から、日本語以外の言語では教派ごとに違う言葉を用いていなくとも、日本語では全く違う訳語を教派ごとに使用するケースが今日に至るまで少なくない。また、教派ごとの概念の違いが訳語に反映されているケースも多く、単なる言い換えでは対応出来ない場合もある。詳細はそれぞれのリンク先記事を参照。 本項ではこれら教派ごとに用いられている日本語の用語・語彙の対照整理を行い、一覧対照表を作成、4つの教派(正教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタント諸派)の間で相当する語彙を示す。.

新しい!!: 列聖と教派別のキリスト教用語一覧 · 続きを見る »

13世紀

チンギス・ハーン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 列聖と13世紀 · 続きを見る »

3月12日

3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。.

新しい!!: 列聖と3月12日 · 続きを見る »

5月16日

5月16日(ごがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から136日目(閏年では137日目)にあたり、年末まではあと229日ある。誕生花はイキシア。.

新しい!!: 列聖と5月16日 · 続きを見る »

6月8日

6月8日(ろくがつようか)はグレゴリオ暦で年始から159日目(閏年では160日目)にあたり、年末まではあと206日ある。誕生花はクチナシ、ジャスミン、タイサンボクなどとされる。.

新しい!!: 列聖と6月8日 · 続きを見る »

7月4日

7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。誕生花はネジバナ、ハナギボシ。.

新しい!!: 列聖と7月4日 · 続きを見る »

8月9日

8月9日(はちがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から221日目(閏年では222日目)にあたり、年末まであと144日ある。.

新しい!!: 列聖と8月9日 · 続きを見る »

9月14日

9月14日(くがつじゅうよっか、くがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から257日目(閏年では258日目)にあたり、年末まであと108日ある。.

新しい!!: 列聖と9月14日 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »