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佐藤朔

索引 佐藤朔

佐藤 朔(さとう さく、1905年(明治38年)11月1日 - 1996年(平成8年)3月25日)は、日本のフランス文学者、第13代慶應義塾塾長、日本芸術院会員。位階勲等は従三位勲一等。.

68 関係: おてんとさん社坂口安吾堀口大學奥野信太郎上田敏雄平岡昇久保田万太郎二宮敬團伊玖磨の楽曲一覧ナディン・ゴーディマーペスト (小説)マルグリット・オードゥーモスコスラサリーリョ・デ・トルメスの生涯レ・ミゼラブルヴェルネル・フォン・ヘイデンスタムボジェナ・ニェムツォヴァーピエロ・ヤイエルピエール・ガスカールピエール・ジャン・ジューブフランシス・ド・ミオマンドルフランシス・アンブリエールアルベール・カミュアンリ・ベルンスタンアンワリーイジー・ヴォルケルエミール・アンリオエミール=オーギュスト・シャルティエエリック・サティカミュ=サルトル論争カリギュラ (戯曲)カロン・ド・ボーマルシェクリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトゴンクール賞シチュアシオンシモーヌ・ド・ボーヴォワールシャルル・ボードレールシーシュポスの神話ジャン・ラシーヌジャン・コクトージャン=ポール・サルトルジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサステファヌ・マラルメ石丸重治私の履歴書窪田啓作立仙順朗第一書房 (第1期)異邦人 (小説)白井浩司...遠藤周作西脇順三郎高畠正明鈴木力衛開成中学校・高等学校の人物一覧若林真恩賜賞 (日本芸術院)池田彌三郎河盛好蔵渡辺一夫朔 (曖昧さ回避)日本芸術院日本芸術院賞慶應義塾慶應義塾大学の人物一覧慶應義塾外国語学校曽根元吉3月25日 インデックスを展開 (18 もっと) »

おてんとさん社

おてんとさん社は1921年2月に宮城県仙台市で結成された、童謡雑誌『おてんとさん』の発行と児童文化運動のための結社である。.

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坂口安吾

坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)は、日本の小説家、評論家、随筆家。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。新潟県新潟市出身。東洋大学印度哲学倫理学科卒業。アテネ・フランセでフランス語習得。純文学のみならず、歴史小説や推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。 戦前はファルス的ナンセンス作品『風博士』で文壇に注目され、一時低迷した後、終戦直後に発表した『堕落論』『白痴』により時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれ地歩を築いた奥野健男「坂口安吾――人と作品」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)『新潮日本文学アルバム35 坂口安吾』(新潮社、1986年)。歴史小説では黒田如水を主人公とした『二流の人』、推理小説では『不連続殺人事件』が注目された都筑道夫「安吾流探偵術」(『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』)(東京創元社、1985年)。 坂口安吾の文学作品には、途中で放棄された未完の長編や失敗作も多く、小説家としての技量や芸術性・完璧性の観点からは器用な作家とはいえないが、その作風には独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家だといわれている三枝康高「作品解説」(文庫版『白痴・二流の人』)(角川文庫、1970年。改版1989年、2008年、2012年)三島由紀夫「内容見本」(『坂口安吾全集』推薦文)(冬樹社、1967年)。 晩年に生まれた一人息子の坂口綱男は写真家である。またアンコウを共食いと言い好んで食べた。坂口安吾『明日天気になれ』.

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堀口大學

堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年(明治25年)1月8日 - 1981年(昭和56年)3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。.

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奥野信太郎

奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉11月11日 - 1968年〈昭和43年〉1月15日)は、日本の中国文学者、随筆家。.

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上田敏雄

上田 敏雄(うえだ としお、1900年7月21日 - 1982年3月30日)は日本の詩人、文学者。上田敏雄は本名である。Toshio Ueda としても作品を発表した。アバンギャルディストとして青年期から晩年期にいたるまでユニークな詩と詩論を展開した。とくに昭和前期の超現実主義運動の輝ける旗手として注目された。日本における最初のシュルレアリスム宣言を発表したことでも知られる。芸術の自律的なメカニズムを認める立場から、カトリシズム・仏教思想等の外部からの概念導入なしに芸術世界の成立はないという立場に変化し、独自のネオ・シュルレアリスム詩観を提唱した。.

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平岡昇

平岡 昇(ひらおか のぼる、1904年9月19日 - 1985年12月3日)は、日本のフランス文学者。東京大学名誉教授。.

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久保田万太郎

久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年(明治22年)11月7日 - 1963年(昭和38年)5月6日)は、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描いた。俳人としては岡本松浜、松根東洋城に師事、戦後に俳誌「春燈」を主宰し文人俳句の代表作家として知られる。俳句の別号に暮雨、傘雨。別の筆名に千野菊次郎。文化勲章受章者。贈従三位勲一等瑞宝章(没時叙位叙勲)。.

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二宮敬

二宮 敬(にのみや たかし、1928年9月27日 - 2002年)は、日本のフランス文学者、東京大学文学部名誉教授。.

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團伊玖磨の楽曲一覧

團伊玖磨の楽曲一覧では、團伊玖磨の作品リストを示す。.

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ナディン・ゴーディマー

ナディン・ゴーディマー(Nadine Gordimer、1923年11月20日 - 2014年7月13日)は南アフリカの作家。1991年にウォーレ・ショインカに次いでアフリカ人で二人目となるノーベル文学賞を受賞した。.

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ペスト (小説)

『ペスト』(仏: La Peste)は、アルベール・カミュが書いたフランスの小説。出版は1947年。ペストに襲われたアルジェリアのオラン市を舞台に、苦境の中、団結する民衆たちを描き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物たちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。 語り口は、個々のセンテンスが複数の意味を内包し、その一つが現象的な意識および人間の条件の寓意である点で、カフカの小説、とくに『審判』に通じるものがあると言われている。 カミュのアプローチは非情で、語り手である主人公は、自分たちは結局何もコントロールできない、人生の不条理は避けられないという考えを力説する。カミュは不条理に対する人々のさまざまな反応を例示し、いかに世界が不条理に満ちているかを表している。.

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マルグリット・オードゥー

マルグリット・オードゥー(フランス語:Marguerite Audoux、1863年7月7日 - 1937年1月31日)は、フランス・出身の小説家。 日本ではフランス文学者の堀口大學や河合亨が翻訳した『少女マリー(仏:Marie-Claire)』の著作で知られ、1910年にこの作品でフェミナ賞を受賞した。 最期は不遇のうちに亡くなったが、その素朴な作品は写実的で、「何故あんなに美しい物語を書けるのか?」と言う質問に対し「あたし、なんにも知りませんの。あたし、なんにも学んだことがないんですの。ただ、あたしは、夢想することが好きでした!」と答えるだけだったと言うエピソードで知られる。.

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モスコス

モスコス(ギリシャ語:Μόσχος、ラテン文字表記例:Moschus、Moschos、生没年不詳)は、紀元前2世紀頃に活躍した古代ギリシアの詩人。現在のシチリア島シラクサ出身で、同国の詩人テオクリトスやと共にヘレニズム期を代表する牧歌詩人と称される。 ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』を編纂したサモトラケのアリスタルコスを師に持ち、弟子にスミュルナのビオンを持ったとされるが定かではない。 2014年現在、モスコスの現存する詩はエピグラム数篇と、ギリシア神話に登場する最高神ゼウスが牛に変身し、美女エウローペーと逢引する神話に基づく小叙事詩『エウローペー』である - kとバンク、2014年8月12日閲覧。が、古代ギリシア文学研究者の高津春繁は「モスコスの作品ではない可能性が高い」と指摘しているため、確実にモスコスの作品であるとは断定できない。また『遁走するエロース』や『メガラー』を著した作者とも伝わる。 モスコスのエピグラムなどに書かれる技巧は後世の詩人に大きな影響を与え、彼の技巧を真似した詩人が多く現れた。.

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ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯

『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯、およびその幸運と不運邦題についてはスペイン文学者の会田由の訳に従ったが、岩波文庫から刊行されている作品では単に『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が題名で、副題の『およびその幸運と不運』が省かれている。また『トルメス川のラサリーリョ物語』と言った訳も存在する。』(スペイン語:La vida de Lazarillo de Tormes y de sus fortunas y adversidades)は、16世紀のスペインで出版された作者不明の中編小説。 下層階級出身で社会寄生的存在を主人公とし、一人称の自伝体で語られる写実主義的傾向を持った「ピカレスク小説」ピカレスク小説を日本語では悪者小説などと表記し、本項目では、下層階級出身で社会寄生敵存在を主人公とし、一人称の自伝体で語られる文学傾向をピカレスク小説と書いたが、社会批判が見られる作品もピカレスク小説と呼び、この限りではない。詳細はピカレスク小説を参照されたい。と呼ばれる小説の形式で書かれており、同時に最初のピカレスク小説とみなされている。また、スペイン文学者の長南実は『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』について、ピカレスク小説の最初の、最高の傑作と評している。 あまり自慢にならない両親の間に生まれた主人公ラサロ(Lázaro)と言う少年が親元を離れ、盲目の男を始めとした様々な主人に仕えるといった話が第七章まで一人称の自伝体で構成されている。スペインの繁栄の陰で、飢餓や貧困に苛まれる底辺社会の実相をペシミスティックに表現している。 2014年現在、現存する最古の『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』の版は1554年にスペインのアルカラ・デ・エナーレス、ブルゴス及びベルギーのアントウェルペンの3つの都市で出版された三種類であるが、これらのうちアルカラ・デ・エナーレスで出版された版には「新たに増補せる第2版」と記してあることから、1554年よりも古い版があったことが推定されているものの発見には至っていない。 『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』はピカレスク小説の嚆矢となり - コトバンク、2014年6月2日閲覧。、それまでスペインで流行していた理想主義的傾向が強かった「騎士道物語」に対するパロディや反動として主に16世紀から17世紀にかけて階級を問わずスペインで大流行した。また、スペインに留まらず1560年にはフランス語訳で出版され、1576年には英語訳で出版されるなどヨーロッパ全土に流行をもたらした。.

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レ・ミゼラブル

『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)は、ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説。.

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ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム

20歳のヘイデンスタム Johan Krouthénによって描かれたヘイデンスタム(1931年) ヘイデンスタムの墓 カール・グスタフ・ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタムより正確な発音だと「ヴァーネル」になる。(スウェーデン語:Carl Gustaf Verner von Heidenstam、1859年7月6日 - 1940年5月20日)は、スウェーデン・エレブルー県出身の作家、詩人、小説家。 1912年からはスウェーデン・アカデミーの会員に選出され、1916年にセルマ・ラーゲルレーヴに次いでスウェーデン人二人目となるノーベル文学賞を受賞したとして知られる1916年のノーベル賞は文学賞のみ受賞が行われ、ノーベル物理学賞、ノーベル化学賞、ノーベル生理学・医学賞、ノーベル平和賞はいずれも受賞者が居なかった。スウェーデン人初のーノーベル賞受賞者は1903年にノーベル化学賞を受賞した化学者スヴァンテ・アレニウスである。。また、ヘイデンスタムが母国スウェーデンを謳った詩『』は同国の作曲家ヴィルヘルム・ステーンハンマルが曲をつけてスウェーデンの第二国歌の歌詞として使用されている。 ヘイデンスタムの作品の多くはスウェーデンの人物、生活、伝統などを、時に愛国的な視点から情熱的に描いたものが多く、1888年に著した処女作『』訳によっては『巡礼と遍歴の歳月』などと表記する文献もあるが、本項目では下記に挙げた参考文献に倣って『巡礼と放浪の歳月』の訳を採用する。は南ヨーロッパや近東を旅行をもとに書かれたもので、自然主義文学に対抗して新ロマン主義の旋風を巻き起こした著作として名高い。.

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ボジェナ・ニェムツォヴァー

ボジェナ・ニェムツォヴァー(チェコ語:Božena Němcová、1820年2月4日 - 1862年1月21日)は、オーストリア帝国(現:チェコ)ウィーン出身の小説家。近代のチェコに於ける散文の創始者とされる。 チェコの通貨単位500チェコ・コルナに肖像画が描かれており、に住んでいた母方の祖母マグダレーナ・ノヴォトナ(Magdalena Novotná)と暮らし、後に大きな影響を受けて1855年に著した彼女の代表作『』は平凡な祖母の持つオプティミズムと生涯をロマンティックに描いたもので、チェコの国民であれば誰一人読まない人は居ないと称されるほどチェコでは著名な作品である。 者の栗栖継は『おばあさん』をチェコ最大の国民文学と評し、日本では1971年に栗栖継の翻訳によって岩波文庫から刊行されていた。また作家の傍ら、婦人解放運動の先駆者として名高く、税関吏を務めていた夫ヨセフ・ニェミツ(Josef Němec)と共に反オーストリア的思想を持ったため迫害され、ニェムツォヴァーの生活は生涯貧乏であった。.

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ピエロ・ヤイエル

ピエロ・ヤイエル(イタリア語:Piero Jahier、1884年4月11日 - 1966年9月10日)は、イタリアジェノヴァ出身の詩人、翻訳家、ジャーナリスト。 代表作は1919年に著された、著者自身が体験した青春期の内面の葛藤を描いた小説『』だが、イタリアにファシズム体制が確立すると文筆活動を禁止され、その後はボローニャのトレニタリア(イタリアの国鉄)に勤務し、監視を余儀なくされた。.

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ピエール・ガスカール

ピエール・ガスカール(Pierre Gascar、1916年3月13日 - 1997年2月20日) は、フランスの小説家、ジャーナリスト。本名ピエール・フルニエ(Pierre Fournier)で、旅行記などは本名で書いている。.

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ピエール・ジャン・ジューブ

ューブの墓(モンパルナス墓地) ピエール・シャルル・ジャン・ジューブ(フランス語:Pierre Charles Jean Jouve、1887年10月11日 - 1976年1月8日)は、フランスアラス出身の詩人、小説家。 性を巡った苦悩と認識が人間を崇高な存在へ高めると言う主題を独自の文体で書く詩風で知られ、1933年から1935年にかけて著された詩集『』はオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトの精神分析学の影響を受けた作品で、ジューブの代表作である。フランス文学者の松田穣はジューブを、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンと共に「進歩的現代三大詩人」の一人とした。.

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フランシス・ド・ミオマンドル

フランシス・ド・ミオマンドル(フランス語:Francis de Miomandre、本名:フランソワ・フェリシアン・デュラン(François Félicien Durand)、1880年5月22日 - 1959年8月1日)は、フランス第三共和政トゥール出身の小説家。 1908年に著されたマルセイユの風俗や青春への決別を描いた代表作『』は同年のゴンクール賞受賞作としても知られる。.

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フランシス・アンブリエール

フランシス・アンブリエール(フランス語:Francis Ambriere、1907年9月27日 - 1998年7月1日)は、フランスパリ出身の小説家、批評家。 1940年にゴンクール賞を受賞した代表作『』は、ナチス・ドイツのフランス侵攻によりドイツ軍の捕虜となったアンブリエールが捕虜生活を的確に描いた作品である。 第二次世界大戦以前は同国の詩人ジョアシャン・デュ・ベレーに関する評論を著し、旅行叢書『の編集長として知られた。.

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アルベール・カミュ

アルベール・カミュ(Albert Camus、、1913年11月7日 - 1960年1月4日)は、フランスの小説家、劇作家、哲学者。フランス領アルジェリア出身。第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目され、戦後はレジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍した。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し、劇作家としても活動した。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『』において左翼全体主義を批判し、反響を呼んだ。小説『転落』発表の翌年、1957年、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した。 1960年、交通事故により急死し、未完に残された小説『最初の人間』が1994年に刊行された。 カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。 カミュの文学的営為は、病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力との闘いだった。それに対して、彼は一貫してキリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否し、超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探しもとめた。彼は「父」としての「神」も、その代理人としての「歴史」も拒否した。 カミュは何よりも時代の妥協しない証言者であった。彼は絶えずあらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立した。ソビエト全体主義に対する批判は、彼をコミュニストたちと対立させ、サルトルと絶交するに至った。彼の著作のヒューマニズムは、歴史の最悪の時期における経験のなかで鍛えられたものであり、この意味で、彼は20世紀のもっとも高いモラルを体現した人物のひとりである。 タレントのセイン・カミュは従孫(兄の孫)にあたる。.

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アンリ・ベルンスタン

アンリ・レオン・ギュスターヴ・シャルル・ベルンスタン(フランス語:Henry Léon Gustave Charles Bernstein、1876年6月20日 - 1953年11月27日)は、フランスパリ出身の劇作家。 ユダヤ人銀行家の父の元に生まれ、処女作『市場(Le Marché)』訳によっては『取引』などがある。を同国出身の演出家アンドレ・アントワーヌに送り、腕が認められ1900年に自由劇場で初演された。その後はの中心的存在となり『渇望(La Soif)』などの原作を手がけ、同国出身の劇作家アンリ・バタイユの好敵手としてバタイユと人気を二分した、2014年12月28日閲覧。。.

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アンワリー

アンワリー(ペルシャ語:انوری、ラテン文字表記例:Anvari、Anwari、1126年頃 - 1189年頃)は、ペルシャの詩人。現在のイランホラーサーンのに生まれた。フルネームは「アウハド・アッディーン・アリー・イブン・マフムード(اوحد الدین علی ابن محد انوری)」 - コトバンク、2015年10月12日閲覧。と言い、1153年にグズ・トルコ族がホラーサーンの侵入を受けて詠んだ愛国的な詩『ホラーサーンの涙』で特に有名である。その生涯の多くは分かっていないが、セルジューク朝第8代スルターンであるアフマド・サンジャルに宮廷詩人として仕えたことは分かっている。 その詩は難解な文体ではあるが天文学や占星術、数学、哲学にも精通し、多くの頌詩()を残したことから同じくペルシャの詩人であるフェルドウスィーやサアディーと並び称され、カスィーダ詩人としては最高峰に位置する。また頌詩のみならず叙情詩や四行詩、風刺詩も残した。.

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イジー・ヴォルケル

イジー・カレル・ヴォルケル(チェコ語:Jiří Karel Wolker、1900年3月29日 - 1924年1月3日)は、チェコスロバキア(国籍はチェコ)プロスチェヨフ出身の詩人・ジャーナリスト。 チェコスロバキア共産党の創立メンバーでありながら1920年代のプロレタリア詩の先駆者として詩集『『家への客』などとも訳されている。』や『きびしい時間(Těžká hodina)『苦しい時間』などとも訳されている。』を発表するものの、結核のため僅か23歳で夭折した。ヴォルケルの生前に発表された詩集は『家へ来た客』と『きびしい時間』の2詩集だけであった。 裕福な銀行員の家庭に生まれ、高校を卒業後、プラハの大学で法律を専攻する一方でチェコスロバキア共産党に入党した。生前に2つの詩集を発表するものの、結核により夭折。ヴォルケルの死後、詩集『3つの劇(Tři hry)』や童話『太陽を盗んだ百万長者の話(O milionáři, který ukradl slunce)』や『煙突掃除夫の話』などの優れた児童文学作品が出版された。.

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エミール・アンリオ

ミール・アンリオ(フランス語:Emile Henriot、1889年3月3日 - 1961年4月14日)は、フランス・パリ出身の詩人、小説家、批評家。1957年5月22日付けの『ル・モンド』誌上の評論において、第二次世界大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群を形容した「ヌーヴォー・ロマン」と言う言葉を造語したことで知られる。 1924年に『アリシーまたは市民的美徳(Aricie Brun ou les Vertus bourgeoises)訳者によっては『アリシー・ブラン』とも。』でアカデミー・フランセーズ賞を受賞している。.

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エミール=オーギュスト・シャルティエ

アランが影響を受けたジュール・ラニョー アランの影響を受けたアンドレ・モーロワ アラン(Alain)ことエミール=オーギュスト・シャルティエ(フランス語:Emile-Auguste Chartier、1868年3月3日 - 1951年6月2日)は、フランス帝国(フランス第二帝政)ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の哲学者、評論家、モラリスト広辞苑(第六版)では、アランの項目は人生哲学者・モラリストと記述されている(p97)。。 ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるに由来する。 1925年に著された『』で名高いが、哲学者や評論家としても活動し、アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで - コトバンク、2014年4月16日閲覧。合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えた。 体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法で、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じた。フランス文学者の桑原武夫は「アランの一生は優れた「教師」の一生であったと言えよう」と評している。また、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは1949年にアランの伝記や教えをまとめた『アラン(Alain)』の中で、アランを「現代のソクラテス」と評している。.

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エリック・サティ

リック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。音楽界の異端児、音楽界の変わり者などと称される。西洋音楽に大きな影響を与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルも影響を公言している。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与えたとされる。.

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カミュ=サルトル論争

ミュ.

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カリギュラ (戯曲)

『カリギュラ』()は、アルベール・カミュの戯曲。1945年初演、4幕。暴君として知られるローマ帝国第3代皇帝カリギュラを題材にした作品で、作者より「異邦人」「シーシュポスの神話」とともに「不条理」をテーマとする連作の一つとして位置づけられている。成立は1938年ころ、故郷であるアルジェリアに滞在していた時期と推測され、カミュの戯曲第1作にあたる作品である。ただし初演は「誤解」のほうが早い。 舞台はカリギュラの宮殿。最愛の妹であり情婦であったドリュジラを失ったカリギュラは、3日間失踪したのち人々の前に姿を現す。それまで理想的な君主であった彼はその日を境に豹変し、月を手に入れるといった不可能事を求めはじめ、神に代わる者として気まぐれな圧制を敷くようになる。それから3年の間、カリギュラは民から財産を奪い、臣下を殺し、妻を奪い、また自らグロテスクな仮装をして乱痴気騒ぎをするといったことを続ける。臣下は恐れをなしているが、彼に父を殺された少年シピオンや年増の情婦セゾニア、奴隷出身のエリコンらは彼を憎むことができない。しかし、冷静な臣下ケレアは着々と暗殺計画を進める。その計画は回状のかたちで事前にカリギュラに露見するが、カリギュラは自分に逆らうのも休息になると称して、ケレアの前でその証拠の回状を破棄する。そして「死」を題材にした詩のコンクールを開き、反逆のざわめきが響き始めるなかでセゾニアを絞め殺したのち、押し入ってきたケレアたちの手にかかって自らも息絶える。 1945年9月26日、パリのエベルトー座にて初演。演出はポール・エルトリー、主演はジェラール・フィリップ。当時まだ若手の無名役者だったフィリップの好演もあって記念碑的な成功を収め、50年代にも様々な役者で繰り返し再演された。日本初演は1968年、劇団こだま公演。.

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カロン・ド・ボーマルシェ

ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランスの実業家、劇作家。 現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。.

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クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト

リスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(ドイツ語:Christian Friedrich Daniel Schubart、1739年3月24日 - 1791年10月10日)は、ドイツ・オーバーゾントハイム(旧ヴュルテンベルク)出身の詩人、音楽家。 18世紀後半に流行したシュトゥルム・ウント・ドラングを代表する詩人で、ドイツ最初の政治詩とされる『領主の墓』や『乞食兵士』を著し、詩『人間的な心の歴史によせて(Zur Geschichte des menschlichen Herzens)訳によっては『人間の心情の物語』など。』は同国出身の詩人フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『群盗』にも見られるように、シラーに大きな影響を与えた。またオーストリアの音楽家フランツ・シューベルトが1817年に作曲した『鱒』の作詞者として知られる。 アーレン市が1956年から主催する文学賞「」に名を残す。.

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ゴンクール賞

ンクール賞(Prix Goncourt)は、フランスで最も権威のある文学賞のひとつ。1903年発足。その年でエスプリに満ちた独創的な散文による作品(主として小説)を書いた著者に贈られる。フランスの作家エドモン・ド・ゴンクールの遺言により、弟のジュール・ド・ゴンクールと共に築いた財産を元に設立されたアカデミー・ゴンクールによって選定・贈呈されている。1903年より毎年アカデミー・ゴンクールの10人の会員によってパリ2区にあるミシュラン一つ星レストラン「ドルアン」 (Drouant) で11月に選考・発表が行われる。 原則として1人につき1回のみの受賞で、再度受賞したケースは1例のみ(1956年に受賞したロマン・ガリーが1975年にエミール・アジャールの変名で出した小説により再受賞した)。受賞者や作品はフランス国外でも親しまれているものも多い。受賞作品はその年のフランス文学を代表する作品として捉えられ、その著者の地位や作品の売れ行きにも大きく影響する権威ある賞で、趣旨としては若手の新鋭の作家に贈られることになっているが、この限りでないケースも見られる。フランス文学の登龍門的存在として知られる。なお、この賞の賞金自体は10ユーロ(日本円で千数百円程度)とあえて少額にされてあるが、これはこの賞を受賞したことによって得る利益の莫大さを象徴するものとして捉えられているものである。 1988年に「高校生のゴンクール賞」が新設された。これはゴンクール・アカデミーによる推薦リストをもとに、フランス全国の1500人の高校生の投票によって受賞作が決定されるもので、ゴンクール賞の発表と同時に発表される。.

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シチュアシオン

『シチュアシオン』(Situations)は、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)の評論集であり、10巻からなる。 第1巻は作家論集である。フランソワ・モーリヤックの小説技法について小説は一個の人間によって多くの人間のために書かれるものであるのに「作者は神の全知全能を選んだ」としてモーリヤックを厳しく批判した『フランソワ・モーリヤック氏と自由』や、モーリス・ブランショを紹介した『アミナダブ』、ジョルジュ・バタイユに対して「非-知」とは自己欺瞞であるとし、それを神秘主義だと断じた『新しい神秘家』などは有名である。他にアルベール・カミュ、ウィリアム・フォークナー、ジャン・ジロドゥーなどへの評論がある。またエドムント・フッサールの現象学をフランスに紹介した『フッサールの現象学の理念』なども収録されている。極めて独自の手法を用いたこれらの作家論は、あらたな評論形式を切り開いた物とも言える。 第2巻は実践的文学論である。プルーストをブルジョワ的作家として断罪し、分析的精神から総合的精神への変換を求め、文学の社会参加を呼びかけた『「レ・タン・モンデルヌ」創刊の辞』や、文学が権力者に利用されようとしている危機を訴える『文学の国営化』などが収録されているが、最も有名で重要なのは『文学とは何か』(Qu'est-ce que la Littérature?)であろう。ここでは散文家は「語る者」であると定義し、「語る」以上は現代の諸問題について無視するのは「無視するという態度をとる」ということになり、現代の共犯者になる。それゆえ作家は社会の反省的意識の存在になり、反共犯者になるべきであると説いた。この評論は非常に反響をもたらし、日本でも江藤淳が『作家は行動する』においてサルトルの呼びかけに応じたのは有名である。また、『文学とは何か』はサルトルの倫理観を研究する上でも非常に重要な文献で、この中に登場する「呼びかけ」や「贈与」などの概念は注目を浴びている。  第3巻は文明論集である。ドイツ占領中のフランスほど自由なことはなかった。何故ならば、何をしてもそれはアンガージュマンになったからだ、という有名な論文「占領下のパリ」、サルトルがアメリカ旅行した際のアメリカ論などが収められている。また、先駆的なスターリン的マルクス主義批判の論文「唯物論と革命」も忘れてはならないだろう。また、ネグリチュードの詩人たちへ寄せた『黒いオルフェ』の存在も重要である。この巻はアンガージュマンの実践が強く窺えるが、後年のようなマルクス主義的方法論をほとんど使わず、『存在と無』を基調とした一種の変奏曲と言えよう。  第4巻は肖像集である。同時代の芸術家や、作家、哲学者への愛に溢れた文章が多く並ぶ。『生きているジード』(Gide vivant)は、アンドレ・ジッドへの追悼文であり、「彼はわれわれのために生きた」と賞賛している。しかし、質的にも量的にも圧倒的なのは、メルロ・ポンティへの追悼文「メルロー・ポンチ」(Meleau-Ponty)である。レ・タン・モデルヌ誌の編集を巡りサルトルとメルロ=ポンティは1953年に決裂しているにも関わらず、メルロ=ポンティの思想への豊かな理解は驚嘆に値する。今でもなお優れたメルロ=ポンティ論である。 同巻に収録されているカミュへの追悼文でも明らかなように、サルトルは喧嘩別れした相手にもこのような理解と愛の溢れる文章を書いている。 他にも大学時代からの友人ポール・ニザンへの追悼文、ジャコメッティ論、ナタリー・サロート論、サルトルには数少ない音楽論も収録されている。  第5巻は植民地問題論集である。この巻から、シチュアシオンの性格は大きく変わり、以後政治論文が多くを占める。なお、原副題は「植民地主義と新植民地主義」COLONIALISM ET NEO-COLONIALISMである。  第6巻はマルクス主義の問題Ⅰである。  第7巻はマルクス主義の問題Ⅱである。.

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シモーヌ・ド・ボーヴォワール

モーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir、1908年1月9日 - 1986年4月14日)は、フランスの作家、哲学者。 サルトルの事実上の妻。サルトルの実存主義に加担するとともに、フェミニズムの立場から女性の解放を求めて闘った。.

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シャルル・ボードレール

ャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire()、1821年4月9日 - 1867年8月31日)は、フランスの詩人、評論家である。.

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シーシュポスの神話

『シーシュポスの神話』(Le Mythe de Sisyphe)は、アルベール・カミュの随筆。出版社によっては『シシュポスの神話』とも表記される。 神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。カミュはここで、人は皆いずれは死んで全ては水泡に帰す事を承知しているにも拘わらず、それでも生き続ける人間の姿を、そして人類全体の運命を描き出した。.

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ジャン・ラシーヌ

ャン・ラシーヌ ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine,1639年12月21日誕生、12月22日受洗 - 1699年4月21日没)は、17世紀フランスの劇作家で、フランス古典主義を代表する悲劇作家である。 シャンパーニュ地方出身。幼少時に両親を亡くし、ジャンセニスムの影響下にある修道院の付属学校で、厳格なカトリック教育を受ける。ラシーヌはこの学校で古典文学に対する教養と、ジャンセニスムの世界観を身につけた。このことは後のラシーヌの作品に深い影響を及ぼした。 その悲劇作品のほとんどは、三一致の法則を厳格に守り、主にギリシア神話、古代ローマの史実に題材をとる。『旧約聖書』に題材をとるものを、ラシーヌは悲劇とせず史劇と呼んだ。 ラシーヌは均整の取れた人物描写と劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の丹精で華麗な韻文に綴った。後期の『聖書』を題材とする作品を除けば、ラシーヌの劇は、二人の若い恋人を中心とするものが多い。二人は愛し合っているが、女性が王など高位の男性に望まれる、あるいは二人が敵対しあう家系にいるなどして、恋愛は成就しない。この葛藤がラシーヌの悲劇の中心となる。これに第三者の嫉妬、政治闘争などが加わり筋が複雑になり、最終的に二人の恋は成就せず、主人公の死をもって幕が下りる。 またラシーヌは自身の作品を印刷に付し刊行する際、必ず書き下ろしの序文をつける習慣があった。このためラシーヌの作品は、たんに悲劇としての価値のみならず、演劇論としての価値をももつ。ラシーヌの詩論のなかではオスマン帝国の皇位継承争いを題材にする『バジャゼ』につけた序文での「悲劇の題材は観客から適切な隔たりをもつものでなければならない。この隔たりは神話や古い歴史のような時間的な隔たりだけでなく、時間的にはあまり遠くないがわれわれの風俗になじみのない距離的な隔たりであってもよい」とするものなどが知られる。 ラシーヌの代表作として今日もなお上演されるものには『アンドロマック』、『ベレニス』、『フェードル』などがある。 なお、彼の肖像はかつて、フランスの50フラン紙幣に描かれていた。.

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ジャン・コクトー

ャン・コクトー、右端 ジャン・コクトー (Jean Cocteau, 1889年7月5日 - 1963年10月11日) は、フランスの芸術家。詩人、小説家、劇作家、評論家として著名であるだけでなく、画家、映画監督、脚本家としての活動も行った。自身は中でも詩人と呼ばれることを望んだという。ダダやシュルレアリスムと相互影響はあったと考えられるが、自身は直接は運動に参加せず、むしろ対立も多かった。.

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ジャン=ポール・サルトル

ャン.

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ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ

ュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(Giuseppe Tomasi di Lampedusa、1896年12月23日 - 1957年7月23日)はイタリアの貴族・著述家である。 イタリア統一戦争を背景に、自身の先祖であるジューリオ・ファブリーツィオ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ公爵をモデルにした歴史小説『』で知られる。1963年に、ルキノ・ヴィスコンティ監督により映画化(⇒「山猫 (映画)」参照)。他に3作の短編と、いくつかの文芸評論を遺している(いずれも没後公刊された)。.

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ステファヌ・マラルメ

テファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842年3月18日 - 1898年9月9日)は、アルチュール・ランボーと並ぶ19世紀フランス象徴派の代表的詩人。代表作に『半獣神の午後』『パージュ』『詩集』『骰子一擲』(とうしいってき、『サイコロの一振り』とも)、評論集『ディヴァガシオン』など。.

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石丸重治

石丸 重治(いしまる じゅうじ、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。.

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私の履歴書

私の履歴書(わたしのりれきしょ)は、日本経済新聞朝刊最終面(文化面)に掲載されている連載読み物である。1956年(昭和31年)3月1日にスタート。第1回は鈴木茂三郎で、3月1日から7日にかけて連載された。当初は連載期間が1週間と短かったが、その後次第に長くなり、1987年(昭和62年)からは、毎月1か月間(1日から末日)に渡って1人を取り上げるスタイルが定着。2017年(平成29年)現在も継続中である。これを原作として、テレビ東京・BSジャパンとラジオ日経で放送化されている。.

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窪田啓作

啓作(くぼた けいさく、1920年7月25日 - 2011年)は、日本のフランス文学者、詩人、銀行員。本名・開造。窪田般彌の兄。カミュ『異邦人』の翻訳で知られる。 神奈川県生まれ。1943年、東京帝国大学法学部卒業。在学中にマチネ・ポエティクに参加し詩や小説を書いた。 大学卒業後、東京銀行に入行。パリ、新橋各支店次長、国際投資部副参事役を経て、1948年欧州東京銀行頭取となる。.

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立仙順朗

立仙 順朗(りっせん じゅんろう、1940年(昭和15年)5月29日-)は、フランス文学者、慶應義塾大学名誉教授。専攻は近代フランス文学。サルトル、ブランショの研究を経て、マラルメにおけるポエジーを研究。千葉県船橋市在住。.

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第一書房 (第1期)

一書房(だいいちしょぼう、1923年 創業 - 1944年3月31日 廃業)は、かつて存在した日本の出版社である。大正末年から戦前の昭和期に長谷川巳之吉が創業し、書物の美にフェティッシュにこだわり、絢爛とした造本の豪華本を刊行、「第一書房文化」と讃えられたことで知られる。 なお現在文京区本郷にある出版社・古書店の「株式会社第一書房」とは無関係である。.

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異邦人 (小説)

『異邦人』(いほうじん、仏: L'Étranger)は、アルベール・カミュの小説。1942年刊。人間社会に存在する不条理について書かれている。カミュの代表作の一つとして数えられる。1957年、カミュが43歳の若さでノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われる。 日本語訳としては、新潮文庫版の窪田啓作訳が広く知られ、冒頭1行目の「きょう、ママンが死んだ。」という訳も有名である。.

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白井浩司

白井 浩司(しらい こうじ、1917年10月19日 - 2004年11月1日)は、フランス文学者。 東京生まれ。暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部仏文科卒。1942年NHK国際局海外放送フランス語班に勤務、45年9月NHK退職、47年慶應義塾大学予科講師、サルトルの『嘔吐』を翻訳し、実存主義ブームのきっかけを作り、その後もカミュ、ロブ=グリエなどを翻訳紹介、58年慶應義塾大学文学部教授、66年第2回辰野隆賞受賞、76年フランス政府よりパルム・アカデミック勲章授与。1978年『アルベール・カミュ その光と影』で読売文学賞受賞。82年定年退任し名誉教授。.

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遠藤周作

遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年(大正12年)3月27日 - 1996年(平成8年)9月29日)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた。.

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西脇順三郎

西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年(明治27年)1月20日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は日本の詩人、英文学者(文学博士)。戦前のモダニズム・ダダイスム・シュルレアリスム運動の中心人物。水墨画をよくし、東山と号した。小千谷市名誉市民。生前、ノーベル文学賞の候補に挙がっていたものの、翻訳の壁が大きな障害となり、受賞を逸している。.

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高畠正明

正明(たかばたけ まさあき、1932年1月5日 - 1980年5月30日)は、フランス文学者。 東京生まれ。父は洋画家の高畠達四郎。1954年慶應義塾大学経済学部卒、文学部仏文科に学士入学し、61年慶大仏文科大学院博士課程満期中退、文学部助手、65年専任講師、70年助教授、76-78年フランスに留学、79年教授。アルベール・カミュのほか、ボードレールなど19世紀の詩人を研究した。妻は津村秀夫の娘。.

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鈴木力衛

鈴木 力衛(すずき りきえ、1911年5月1日 - 1973年6月14日)は、日本のフランス文学者、演劇評論家。 愛知県出身。第一高等学校、東京帝国大学仏文科を卒業後、フランス政府招聘給費留学生としてパリ大学に学び、帰国後は旧制学習院教授等を経て学習院大学文学部教授となった。 モリエール研究の第一人者。晩年に完成した単独訳の「モリエール全集 全4巻」(全作品を網羅してはいないが、全集の刊行冊子に「日本語の芝居として楽しめるモリエールのすべてと称しうる仕事」紹介されている)で、読売文学賞受賞。そうしたフランス演劇研究の成果を元に、新しい流れのフランス演劇も積極的に紹介し、俳優座養成所講師や文学座顧問もつとめ、戦後日本の興隆期の新劇運動に大きな影響を与えた。なお岩波文庫版のモリエール作品集は近年改版されている。 演劇関係以外でも、アレクサンドル・デュマ・ペールの『ダルタニャン物語』、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』、マルセル・パニョル『笑いについて』、アンリ・ベルクソン『笑い』をはじめ多数の訳書がある。 学習院仏文科の骨格をほぼ一人で築き上げてゆき、優秀な教授陣を育成するために腕を振るい、そうした中から篠沢秀夫、豊崎光一、佐伯隆幸、末木利文(演出家)といった人達を育て上げていった。.

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開成中学校・高等学校の人物一覧

開成中学校・高等学校人物一覧(かいせいちゅうがっこう・こうとうがっこうじんぶついちらん)は、私立開成中学校・高等学校の主な出身者・教員・関係者などについての一覧である。.

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若林真

若林 真(わかばやし しん、1929年4月3日 - 2000年3月14日)は、フランス文学者、慶應義塾大学名誉教授、作家、翻訳家、批評家。 新潟県佐渡島生まれ。慶大仏文科卒。同窓に山川方夫、田久保英夫がおり『三田文学』で批評をおこなう。のち慶大教授。1972年「海を畏れる」を『新潮』に掲載し小説も書いた。1995年定年退任、名誉教授。カトリック信者。.

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恩賜賞 (日本芸術院)

恩賜賞(おんし しょう)は、日本芸術院がその会員以外の者に授与する賞のひとつ。 日本芸術院は、卓越した芸術作品を制作した者や芸術の進歩に貢献する業績があった者に対して毎年日本芸術院賞を授与しているが、昭和24年度にあたる1950年(昭和25年)からはその受賞者が増えたことから、以後は毎年の受賞者の中でも特に選ばれた者に対してこの恩賜賞を授与するようになった。 日本芸術院賞と共に皇室の下賜金で賄われており、受賞者には賜品が贈呈される。 授賞式は天皇・皇后の臨席のもと、毎年6月に挙行される。.

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池田彌三郎

池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日)は、日本の国文学者、民俗学者、随筆家。.

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河盛好蔵

河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者・評論家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。.

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渡辺一夫

渡辺 一夫(渡邊 一夫、わたなべ かずお、1901年9月25日 - 1975年5月10日)は日本のフランス文学者。日本学士院会員。ルネサンス期フランスのフランソワ・ラブレーやエラスムスなどの研究、及び『ガルガンチュワとパンタグリュエル』の日本語訳で知られる。.

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朔 (曖昧さ回避)

朔(さく、はじめ).

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日本芸術院

日本芸術院(にほんげいじゅついん、旧字体:日本藝術院、英語:The Japan Art Academy)は、美術・文芸・音楽・演劇など芸術のさまざまな分野において優れた功績のある芸術家を優遇し顕彰するために置かれた国の栄誉機関で、文化庁の特別の機関である。.

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日本芸術院賞

日本芸術院賞(にほん げいじゅついん しょう、旧字体:藝術院)は、日本芸術院がその会員以外の者に授与する賞のひとつ。卓越した芸術作品を作成した者または芸術の進歩に貢献した者に対して授与される。戦前は帝國藝術院賞(ていこく げいじゅついん しょう)といった。 昭和16年度にあたる1942年(昭和17年)の第1回から、第二次世界大戦の末期と直後(1945年 - 1947年)を除いて毎年授与されている。昭和24年度にあたる1950年(昭和25年)からは受賞者が増えたことから、以後は毎年の受賞者の中でも特に選ばれた者に対して「恩賜賞」を授与するようになった。 恩賜賞と共に皇室の下賜金で賄われており、受賞者には賞状・賞牌・賞金が贈呈される。 授賞式は、天皇・皇后の行幸啓を仰ぎ、毎年6月に挙行される。 日本芸術院賞を受けると、その多くの者は後日、日本芸術院会員に推される。ただし日本芸術院会員は終身制で定員120と定められているため、日本芸術院賞受賞者全員が会員になれるとは限らない。.

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慶應義塾

慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福沢諭吉が1858年(安政5年)に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークはペンマーク。.

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慶應義塾大学の人物一覧

慶應義塾大学の人物一覧(けいおうぎじゅくだいがくのじんぶついちらん)は、慶應義塾大学に関係する人物の一覧記事。 ※数多くの卒業生・関係者が存在するためウィキペディア日本語版内に既に記事が存在する人物のみを記載する(創立者・役員・名誉教授・公職者等は除く)。.

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慶應義塾外国語学校

慶應義塾外国語学校(けいおうぎじゅくがいこくごがっこう。略称「慶應外語」)は、かつて存在した私立の外国語学校(東京都認可の各種学校)。設置者は学校法人慶應義塾。所在地は東京都港区三田の慶應義塾大学三田キャンパス。.

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曽根元吉

曽根 元吉(そね もときち、1912年10月12日 - 2000年9月28日)は、フランス文学の翻訳家、編集者。本名・谷口 正元。 京都帝大文学部仏文科卒業。1955年に、休刊していた文芸誌『同時代』の再刊に参加。同志社大学、大谷大学各講師を経て、関西日仏学館教授、明治大学教養部教授などを歴任。 東京創元社編集長もつとめ、『ジャン・コクトー全集』を編纂した。息子は谷口正和。.

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3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

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