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二里頭文化

索引 二里頭文化

二里頭遺跡1号宮殿の平面図 1号宮殿の復元図 黒陶酒觚 青銅酒爵 二里頭遺跡三期から出土した陶器に刻まれた文字 二里頭文化の範囲を示した図 二里頭文化(にりとうぶんか、二里头文化、, Erlitou culture, 紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)は、中国の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化であり、都市や宮殿を築いた。殷初期と考えられる二里岡文化に先行する。.

42 関係: 夏 (三代)夏のない年大モン口文化中国の青銅器中国の歴史中国の新石器文化の一覧世界最古の一覧二里岡文化二里頭遺跡仰韶文化後李文化北辛文化刀子呉城文化スウ沢文化ソウ (玉器)兵庫県立フラワーセンター磁山文化社山頭遺跡紅山文化紀元前16世紀紀元前17世紀紀元前21世紀紀元前3千年紀翼城県盤龍城遺跡青銅器青銅器時代馬家窯文化馬家浜文化黄河文明龍山文化金文長江文明老官台文化標式遺跡歴史上の推定都市人口河姆渡文化洛達廟遺跡斉家文化

夏 (三代)

夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 )は、中国の史書に記された最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。.

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夏のない年

夏のない年(なつのないとし、Year Without a Summer)とは、1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象(冷夏)により農作物が壊滅的な被害を受けた現象のことである。この年の気候異常は太陽活動の低下と前年までの数年間、大火山の噴火が続いたことによる火山の冬の組み合わせにより引き起こされたと見る向きが大多数である。1815年のインドネシア中南部、スンバワ島に位置するタンボラ山の噴火は過去1600年間で最大規模である。歴史家のジョン・デクスター・ポストは「夏のない年」を「西洋において最後で最大の危機」と呼んだ。.

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大モン口文化

大汶口文化(だいぶんこう/だいもんこう-ぶんか)は中華人民共和国山東省を中心に紀元前4100年頃から紀元前2600年頃にかけて存在した新石器時代後期の文化。遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近に集中しているが、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっており、隣接する安徽省、河南省、江蘇省からも少数の発見報告がある。 大汶口文化の名称は、1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口鎮から発見された遺跡に由来する。1962年より発掘調査を開始、1964年に大汶口文化と命名された。後に出土物からこの文化が仰韶文化と同時期かそれよりも古いことが確認された。発掘は1974年と1978年にも行われているが、大汶口文化に関係するのは遺跡の層の中でも中間部分だけで、深い層は北辛文化(紀元前5300年 - 紀元前4100年)に、新しい層は龍山文化(紀元前3000年 - 紀元前2000年)に関係する特徴が見られる。大汶口文化の遺跡からはトルコ石・ヒスイ・象牙などでできた加工品、および陶器が多く発見されている。 大汶口文化は早期(紀元前4100年 - 紀元前3500年)、中期(紀元前3500年 - 紀元前3000年)、後期(紀元前3000年 - 紀元前2600年)と、大きく3つの時期に分かれる。初期においては、発掘物から見て階級差は大きくなかったと考えられ、出土する人骨の性別などから当時の社会は母系氏族共同体だったと推測されている。この時期は鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)や紅陶でできた鼎(てい、かなえ、三本足の器)など多様な形をした陶器が特徴的である。また早期も終わりのほうになると土を盛った墳墓も多くなる。 中期に入ると出土する陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大きさや文様・形の多様さが明確になる。また社会が父系氏族共同体へ移行し父系社会が確立したさまがみられる。 後期に入ると墳墓の中に木製の棺が現れる。大汶口文化も父系氏族共同体の末期に入り階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で大量の副葬品が発見される墳墓もある。土器は灰陶・黒陶が主流となり、器の厚さは薄く精巧になってゆき、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化につながってゆく。.

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中国の青銅器

本項中国の青銅器(ちゅうごくのせいどうき)では、中国の古代文明を象徴する遺物である青銅器(銅と錫の合金で作られた器物)について概観する。複雑な器形と文様、高度な鋳造技術を特色とする中国の古代青銅器は世界各地で愛好され、中国国内のみならず、欧米や日本など国外の美術館にも多数収蔵されている。.

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中国の歴史

中国の歴史(ちゅうごくのれきし)、あるいは中国史(ちゅうごくし)とは、中国または中国大陸における歴史のこと。 中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。 なお、その対象は、中国大陸の歴史であり、漢民族の歴史ではない。.

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中国の新石器文化の一覧

これまで考古学者らにより発見された中国の新石器文化には以下のようなものがある。規模が大きなものには、東北(満州)の遼河流域の文化(遼河文明)、華北の黄河流域の文化(黄河文明)、華中の長江流域の文化(長江文明)があるほか、周囲の華南地方、台湾、チベットなどでも様々な新石器文化が発見されている。これらの文化が「中華文明」へと合流していったと理解されている。 最初の一覧表は時代が古いものから新しいものへの順で、次に時代と地域との関係を示した表を挙げている。.

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世界最古の一覧

世界最古の一覧(せかいさいこのいちらん)は、「現存している、世界で最も古いもの」の一覧である。 「そのもの」ではなく「痕跡」が現存する場合は、「#遺物・遺跡」の節に記載する。 以下の記事も参照のこと。.

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二里岡文化

二里岡文化の栄えた範囲 二里岡文化(二里崗文化、にりこうぶんか、Erligang culture, 紀元前1600年頃-紀元前1400年頃)は、中国の黄河中流から下流を中心に栄えた青銅器時代の文化。河南省鄭州市で発見された二里岡遺跡からその名をとっており、殷の建国初期の都城と考えられている。.

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二里頭遺跡

二里頭遺跡1号宮殿の基壇図 1号宮殿の復元図 二里頭遺跡(にりとういせき、二里头遗址、)は、中華人民共和国河南省偃師市の二里頭村で発見された新石器時代末期から青銅器時代にかけての都市・宮殿遺跡である。1988年に全国重点文物保護単位に指定された。 1959年に発見されて以来発掘や研究が進められている。1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見されており、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。二里頭遺跡は紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。しかし都城・城壁の跡は発見されていない。また文字資料は出土していない。 これまで発掘された二里頭遺跡は4期に分けられている。1期および2期からは石器や陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化である。3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見された。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ周囲には塀などが発見された。そのすぐ近くにある二号宮殿址は東西58m、南北73mの基壇が発見され、その北に大きな墳墓があるため、祭祀のための施設とも考えられる。近年はさらに大きな都市や道路の遺跡も発見されている。 中国の考古学界には二里頭遺跡がどの王朝の遺跡であったかに関して様々な推論がある。ひとつは1期から4期までの時期から夏朝の文物が出土していると見てこれを夏王朝の都とみる説であり、また1期と2期からは夏朝の文物が、3期と4期からは殷の文物が出土しているとして、大きな宮殿は殷の初期のものであると見る説である。 二里頭遺跡から約6km東には殷初期の大規模な都城遺跡が見つかっている(偃師商城)。.

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仰韶文化

人面魚の描かれた陶器(半坡遺跡) フクロウの面をかたどった像、仰韶文化の廟底溝期の陶器 仰韶文化の範囲を示した図 仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか、Yangshao culture、漢語ピンイン: Yǎngsháo wénhuà)は、中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前3000年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた。仰韶村遺跡は1921年に河南省澠池県仰韶村で発見された。この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省である。 仰韶の人々の自給自足生活はさまざまである。彼らは広く粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業の正確な性質 -- 小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か、は現在議論の余地がある。しかしながら、Jiangzhiのような中期の仰韶集落には、余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や牛、そのほか羊、山羊、および牛のような動物を飼っていたが、それらの肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。彼らの石器は研磨されており、非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。 仰韶文化は彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。発掘調査により、子供達が彩文土器のかめに埋葬されていたことが判明した。 西安に近い半坡村の考古学遺跡・半坡遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落の1つである。西安・臨潼区の姜寨と呼ばれるもう1つの主要な集落遺跡がその限界に発掘され、考古学者たちはこれらの集落が完全に環濠で取り囲まれていたことを確認した。これらの遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。.

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後李文化

後李文化の範囲 後李文化(こうり-ぶんか)は中華人民共和国山東省黄河下流域を中心に紀元前6500年頃 - 紀元前5500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。 後李文化の人々は方形の竪穴式住居に住んでおり、イヌやブタを飼っていた。紅褐陶の陶器や各種石器、地下の貯蔵穴、墓穴なども多数発見されている。 標式遺跡は、山東省臨淄区の斉陵街道・後李官村から発見されていた後李遺跡であり、高速道路建設に先立ち1989年から1990年にかけて発掘された。後李文化に属する遺跡は山東省の平野部からいくつか発見され、同じく山東省で見つかる北辛文化へと引き継がれていった。 後李文化ではアワなど雑穀の栽培を行っていたが、済南市長清区の帰徳鎮月荘村で発見された月荘遺跡(Yuezhuang site)では雑穀のほかに炭化したコメが発見され、黄河流域で最古となる稲の栽培の証拠となった。AMS法による放射性炭素年代測定では7050年前(誤差±80年)のものとされている。.

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北辛文化

北辛文化の範囲 北辛文化(ほくしんぶんか、北辛文化、, 紀元前5300年頃 - 紀元前4100年頃)は、中国北部(華北)山東省の黄河下流域で発見された新石器時代の文化である。 標式遺跡は1964年に山東省南部・滕州市(当時は滕県)の北辛街道で中国社会科学院考古研究所により発見された北辛遺跡である。この遺跡は大汶口文化(紀元前4100年頃 - 紀元前2600年頃)の遺跡の下から発見された。その一部が1978年から1979年にかけて発掘された。 この文化の遺跡からは黄褐陶(砂混じりの土を低い温度で焼いた陶器)や紅陶(きめ細かい泥を高い温度で焼いた陶器)でできた鼎などの調理器が発見され、一部ではさらに高い温度で焼いた灰陶や黒陶も出土している。石斧や石鎌などに用いた磨製石器や打製石器、骨角器なども発見された。 この文化の研究から、当時は採集や狩猟のほかに、雑穀を栽培する原始的な農業や、ブタやスイギュウなどの飼育がおこなわれていたことがわかる。.

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刀子

刀子(とうす)は、ものを切る、削るなど加工の用途に用いられる工具の一種。現代の小刀(小型万能ナイフ)に通じる。長さ15 - 30cm程度。.

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呉城文化

呉城文化(ごじょうぶんか、吳城文化、, Wucheng culture)は、中華人民共和国江西省から発見された青銅器時代の贛江(長江支流)中流・下流の文化。商王朝と同時代の文化であった。江西省樟樹市呉城鎮の贛江沿岸にある、呉城遺跡に由来する。商代の都市遺跡としても最大級の呉城遺跡は、広さ4平方km以上で、1973年から発掘された。呉城文化の遺跡は江西省を中心に100以上発見されているが、特に樟樹市の呉城遺跡、瑞昌市の銅嶺遺跡、新干県の大洋洲遺跡の3つが大きい。 呉城文化は、黄河流域の河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化(商代初期の中心地だったとも考えられる)が長江付近まで勢力を伸ばしたことにより誕生したと考えられる。長江文明の長い伝統と、強力な青銅器文化である二里岡文化の影響が交じり合っているさまが呉城文化にはみられる。呉城文化は四川盆地の三星堆遺跡、および黄河中流域の殷墟と同時代の文化である。 呉城遺跡は陶器や原始的な磁器(原始瓷器)製造の中心であり、幾何学的な文様が特徴である。この文様の中には、未解読文字と考えられるものもある。呉城文化はまた、青銅製の鐘(鐘の舌がない特殊な様式のもの)の出土でも知られる。吉安市新干県から出土した呉城文化の遺跡からはこの文化特有の様式の青銅器が多数出土する。 呉城遺跡は、二里岡文化の長江流域における前哨であったとされる都市遺跡・盤龍城遺跡の衰退に大きな影響を与えたと見られる。どちらの遺跡も長江における陶器製造の中心で、中国南方の資源を北中国の平野へ運送する拠点でもあり、激しく競争をしていた。二里岡文化の後期、呉城遺跡は大きく発展し始めたが、一方で盤龍城遺跡は急速な衰退を始めた。.

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スウ沢文化

崧沢文化(すうたく-ぶんか)は中華人民共和国浙江省及び上海市の長江下流、太湖周辺に紀元前3900年頃から紀元前3200年頃にかけて存在した新石器時代の文化。、1960年から1970年代にかけて上海市青浦区崧沢村で発掘された青浦崧沢遺跡を標式遺跡とする。1982年、中国考古年会は太湖周辺で先行した馬家浜文化と、後代の良渚文化の中間期に存在した栄えた独自の文化であったと認定し、崧沢文化と命名した。 崧沢文化の遺跡からは石器や骨器のほか、墓穴からは副葬品として多数の玉器が発見されている。また陶器では鼎などの調理器や食器が出土し、夾砂紅褐陶や泥質紅陶をはじめとして、さらに高温で焼いた黒陶、灰陶なども出土した。土器片の中には、刻画紋や刻画符号などが刻まれているものもあった。 遺跡からは籾殻など稲作の痕跡を示すものや、食べた獣や魚などの骨も見つかっている。社会は母系社会から父系社会に移る過渡期だったと考えられる。.

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ソウ (玉器)

(そう、'''王'''偏に宗)は古代中国で祭祀用に使われた玉器。多くは軟玉から作られた飯島 (2003) p.43松丸ら (2003) p.210。外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる松丸ら (2003) p.54。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、琮は天地の結合のシンボルであると一般に考えられている安田 (2000) p.123趙ら (2006) p.169。 琮の起源は良渚文化まで遡り、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる岡村 (2008) p.60。良渚文化では璧と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが窺える岡村 (2008) p.61。 良渚文化が衰えたのちも、琮は主に中原龍山文化へ伝播し、さらに西の斉家文化へと伝わっていった。西へと時代が下るにつれ、模倣を繰り返し方柱部の文様が簡略化・無地化されてゆく傾向が見られる岡村 (2008) p.74。中原では二里頭文化松丸ら (2003) p.56もしくは二里岡文化飯島 (2003) p.136の時期に琮はいったん姿を消すが、殷代に再び現れる松丸ら (2003) p.54-56。周代に至り、琮は礼法で地をまつる玉器として規定された尹 (2007) p.222。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子の后へ献上するものとして琮を記している。.

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兵庫県立フラワーセンター

兵庫県立フラワーセンター(ひょうごけんりつフラワーセンター)は、兵庫県加西市に位置ある植物園。加西フラワーセンター、あるいは単にフラワーセンターとも呼ばれる。.

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磁山文化

磁山文化(じさん-ぶんか)は中華人民共和国河北省南部の黄河下流域に紀元前6000年頃から紀元前5500年頃にかけて存在した新石器時代。雑穀の栽培を中心とした農業による経済活動が中心であり、磨石や石斧などの石器、鼎形陶器が出土している。 磁山文化は南接する河南省で発見されている裴李崗文化と多くの共通点が認められ、磁山=裴李崗文化、または裴李崗=磁山文化とも称される。また東接する山東省で発見された北辛文化とも共通点も指摘されている。 標式遺跡は、河北省武安市磁山で発見された磁山遺跡である。磁山遺跡は8万平方mの広範囲に分布し、住居跡として円形の竪穴式住居が発見されている。遺跡からはブタ、イヌ、ニワトリの飼育痕跡が発見され、食用肉としてブタを飼育していたと考えられている。その他にも漁労活動の痕跡も発見されている。 磁山遺跡からは貯蔵用の穴(窖穴)が500以上発見され、雑穀を貯蔵していたと考えられている。発見された最大規模の窖穴は深さ5mで1,000kgほどの雑穀を貯蔵できたと推測されている。.

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社山頭遺跡

山頭遺跡(しゃざんとういせき)は、蛇山頭遺跡(じゃさんとういせき)ともいい、中国の江西省上饒市広豊区五都鎮前山村にある新石器時代後期から殷周にかけての遺跡である。台地上の遺跡で、台地の東西は約110m、南北は約100m、面積は約1.1万平方m。黄泥粘土の地質で、文化堆積層は3.3m。7層に分かれ、第1層は耕土層、第2層は約2800年前の殷周の時期、第3層は約3500年前、第4第5層は約4000年前、第6第7層は約4500年から5000年前である。社山頭遺跡は目下のところ江西省で最も埋蔵状態が良好で、出土文物の数量の多い遺跡のひとつであり、2006年に江西省文物保護単位に列せられた。 1983年に初めて発掘され、1991年と1995年にも廈門大学人類学系が前後2回にわたって発掘を進めた。3回の発掘で出土文物は2000件あまりにおよんだ。2006年に廈門大学が4回目の発掘をおこなった。 考証によると、社山頭遺跡で出土した巻沿深腹盆は、口が開いて腹部が深く外飾がありふちが突き出ている平底盆で、河南省偃師市の二里頭遺跡の同類の器と近く、袋足束頸衝天流盉は洛陽の矬李遺跡の同類の器と特徴が一致しており、当時の二里頭文化の影響がこの地に到達していた証拠とみなされている。.

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紅山文化

紅山文化(こうさんぶんか、)は中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)に存在した新石器時代の文化。 万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。 紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵が発見し、1935年に濱田耕作(浜田青陵)や水野清一らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。.

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紀元前16世紀

アガメムノンのマスク。アテネ国立考古学博物館蔵。 ファイストスの円盤。クレタ島のイラクリオン考古学博物館蔵。 紀元前16世紀(きげんぜんじゅうろくせいき)は、西暦による紀元前1600年から紀元前1501年までの100年間を指す世紀。.

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紀元前17世紀

紀元前17世紀(きげんぜんじゅうななせいき)は、西暦による紀元前1700年から紀元前1601年までの100年間を指す世紀。 クノッソス宮殿。この時代にクレタ文明を代表するこの宮殿は「新宮殿時代」を迎え領域は拡張された。画像は二人の女性を伴った「牛跳び」の壁画でこの宮殿を飾っていたもの。なお紀元前17世紀にはクレタ文明に何らかの影響を及ぼしたサントリーニ島の火山が大爆発を起こしている。 「ファラオの穀物倉庫監督のヨセフ(ローレンス・アルマ・タデマの歴史画)」。ヘブライ人ヤコブの息子ヨセフは「創世記」ではエジプトで高官となったと記されている。異邦人ヒクソスがエジプトに侵入し、第15王朝・第16王朝を立てたこの時代こそ、ヨセフの時代に相当すると考えられている。 「青銅縦目仮面」。中国の四川省三星堆遺跡を代表する遺物で、大きな耳と突出した眼を具えた異形の神の頭部とされる。.

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紀元前21世紀

ウル・ナンム。ウル第三王朝の初代王で現存する世界最古の「ウル・ナンム法典」を定めたことで知られている。画像は円筒印章に刻まれたウル・ナンムと神々。 夏王朝の建国者の禹。画像は耜(すき)を持って工事に勤しむ禹の像で後漢時代に造られた山東省武氏祠の拓本。 紀元前21世紀(きげんぜんにじゅういちせいき)は、西暦による紀元前2100年から紀元前2001年までの100年間を指す世紀。.

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紀元前3千年紀

紀元前3千年紀(きげんぜんさんぜんねんき)は、西暦による紀元前3000年から紀元前2001年までを指す千年紀(ミレニアム)である。現在からおよそ4000年〜5000年前に当たる。.

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翼城県

翼城県(よくじょう-けん)は中華人民共和国山西省南部の臨汾市に位置する県。.

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璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。多くは軟玉から作られた飯島 (2003) p.43松丸ら (2003) p.210。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。 璧の起源は良渚文化まで遡り松丸ら (2003) p.54、当時は琮と共に神権の象徴として扱われていた趙ら (2006) p.169。良渚文化が衰えたのちも、璧は主に中原龍山文化へ伝播し、中原では二里頭文化の時期にいったん姿を消すが、殷代に再び現れる松丸ら (2003) p.54-56。周代に至り、璧は礼法で天を祀る玉器として規定された尹 (2007) p.222。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子へ献上するものとして璧を記している飯島 (2003) p.136。璧は日月を象徴する祭器として、祭礼用の玉器のうち最も重要なものとされ、春秋戦国時代や漢代においても装飾性を加えて盛んに用いられた。 北京オリンピックのメダルの裏面には、翡翠を使った璧があしらわれた。.

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盤龍城遺跡

龍城遺跡(ばんりゅうじょういせき、盘龙城、, Panlongcheng)は、中華人民共和国湖北省の長江北岸の武漢市黄陂区にある都市遺跡。武漢市中心部から東北にある盤龍湖付近の丘の上から発見された。 長江流域で発見されている唯一の商代の都市遺跡であり、河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化(商の初期の中心地だったとも考えられる)との結びつきが強く、黄河流域の二里岡文化がその絶頂期に遠く離れた長江沿岸にまで達していたことを示している。二里岡文化の遺跡でも最大の発掘地(最盛期で1平方km)。 盤龍城付近は二里岡文化に先行する二里頭文化の時期からまばらに人が住んでおり、20万平方mの範囲にいくつかの集落が点在していた。二里岡文化初期に入って以後、盤龍城の集落は突然巨大化し、中心部の城壁内部が75,000平方m、全体で1平方kmという大きな都市にまで成長する。多くの青銅器が出土しており、中心地付近で銅の出土が少なかった二里岡文化が、長江中流の銅山や銅資源を確保するため、盤龍城に前哨あるいは植民地を築いたとみられている。 盤龍城における建築様式や銅器の製造方法は、二里岡文化で用いられた技術と同じものである。しかし盤龍城で作られる陶器の様式は、黄河流域の二里岡や鄭州のものとは異なっている。豪族の埋葬方法も盤龍城と二里岡ではほぼ同一である。盤龍城後期の地層の発掘結果からは、二里岡文化の後期以降の様式は見られず、この時期に二里岡文化が長江付近から退場したと見られる。盤龍城は以後緩やかに衰退し二里岡文化の終焉とともに放棄された。盤龍城の衰退は、呉城文化の中心であった呉城が長江流域の中心として黄河流域との交易などを行い拡大した時期と重なっており、呉城が盤龍城の衰退に何らかの影響を与えた可能性がある。.

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青銅器

銅鐸(日本の青銅器) 青銅器(せいどうき)は、青銅で作成した工芸品である。ただし銅銭などの貨幣は青銅製であっても含まない。主に古代に作られ、青銅器が出現してから鉄器が出現する直前までを青銅器時代と呼ぶ。 古代中国では、夏・殷・周・漢で作成された。.

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青銅器時代

青銅器時代(せいどうきじだい)は、考古学ないし歴史学において、石を利用した石器の代わりに青銅を利用した青銅器が主要な道具として使われた時代を指す術語である。.

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馬家窯文化

家窯文化(ばかようぶんか、马家窑文化、, 紀元前3100年頃-紀元前2700年頃)は、中国西北の内陸部である黄河最上流部の甘肅省や青海省に存在した新石器時代後期の文化である。甘粛彩陶文化ともいう。陶器表面にさまざまな文様が描かれた彩陶が代表的であるほか、青銅でできた物品もすでに登場し青銅器時代の幕開けとなった。 1923年に甘粛省臨洮県の馬家窯村で遺跡が発見されたことからこの名がある。馬家窯文化では、焼く前の壺や調理器に筆で酸化鉄などで黒や赤の文様を描き、1000度前後の温度で焼いた彩陶(日本でいう彩文土器)が多数出土している。 馬家窯文化は仰韶文化の遺跡の上の地層から発見される。そのため、黄河中流の中原に発した仰韶文化が西へ向けて広がったものと考えられ、今から5700年前以上前の新石器時代後期に出現している。 馬家窯文化は出土物の類型から、石嶺下、馬家窯、半山、馬廠の4つの類型期に分かれている。これらの出土した地層の関係(層序学)や炭素14による放射性炭素年代測定から、石嶺下類型期は紀元前3800年から紀元前3100年の間に、馬家窯類型期は紀元前3100年から紀元前2700年の間に、半山類型期は紀元前2600年から紀元前2300年までの間に、馬廠類型期は紀元前2200年から紀元前2000年の間にそれぞれ栄えたと考えられる。.

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馬家浜文化

家浜文化(ばかほうぶんか、马家浜文化、, Majiabang culture, 紀元前5000年頃-紀元前4000年頃)は、中国に存在した新石器時代の文化で、長江河口付近の太湖から杭州湾北岸にかけての地域(現在の江蘇省南部から浙江省北部)に広がっていた。 1959年、浙江省嘉興市の馬家浜(ばかほう)で新石器時代の遺跡(馬家浜遺跡)が発見された。当初は、1951年に江蘇省北部淮安市の青蓮崗から発見され1958年に命名された青蓮崗文化(せいれんこうぶんか、Qingliangang culture, 黄河下流の仰韶文化や大汶口文化に似る)の一部と考えられていたが、後に江蘇省北部の青蓮崗文化の遺跡とは異なる文化であることがわかり、1977年に馬家浜遺跡の名をとり正式に馬家浜文化と名づけられた。 馬家浜文化は、同じく長江河口にあり杭州湾の南岸から舟山群島にかけて存在した河姆渡文化(かぼとぶんか)とほぼ同時期に存在していたが、1000年以上にわたり別々の文化として共存し交流していたと考えられる。馬家浜文化の後に現れる崧澤文化やその後の良渚文化と同じく、馬家浜文化も太湖一帯に分布していた。馬家浜文化の発見は、長江流域が黃河流域同様に文明の揺籃の地であったことを示している。 馬家浜文化の人々はコメを栽培していた。草鞋山遺跡(Caoxieshan)では田の跡が発見されている。しかし遺跡からはブタの飼育を行っていた痕跡や、ノロジカなども見つかっており、人々は動物の狩猟や飼育も行い、農業には全面的に依存していなかったことがわかる。またヒスイなどによる装飾品や比較的高い温度で焼いた紅陶、衣服の繊維なども発見されている。.

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黄河文明

河文明(こうがぶんめい)は黄河の中・下流域で栄えた古代の中国文明のひとつである。黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。東アジアの歴史の教科書には「世界四大文明」のうちのひとつとして挙げられていることが多いが、現在は長江文明や遼河文明などさまざまな文明が中国各地で発見されているため、四大文明に黄河文明のみを取り上げる手法はもはや古くなっている(最近の教科書では、「黄河・長江流域の文明」のようにややぼかした表現になっている)。 新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展していった。.

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龍山文化

龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、: ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。 龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している。龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。.

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邑(ゆう)は、古代中国の都市国家的な集住地。後の中国の文化や文明のもととなった黄河の流域の古代文明において、新石器時代から青銅器時代である春秋時代中期にかけて広く展開した。漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。.

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金文

金文(きんぶん)とは、青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字のこと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的には甲骨文字の後にあたる。考古学的には、「青銅器銘文」と称されることが多い。また鐘鼎文とも呼ばれる  殷は青銅器文化が発達した時代であり、この文字を器の表面に鋳込む技術は現在でも解明されていない。 金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代資料であるためこの時代を研究する上で貴重な資料となっている。金文は拓本や模写によって研究されてきた。 なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。またこれらを研究することを金石学という。.

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長江文明

長江文明(ちょうこうぶんめい)とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。後の楚・呉・越などの祖になっていると考えられる。.

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老官台文化

老官台文化(ろうかんだいぶんか、老官台文化、, Laoguantai culture, 紀元前6000年頃 - 紀元前3000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流域で発見された新石器時代の文化である。陝西省で発見された中では現在のところ最古の新石器文化である。 標式遺跡は1950年代後半に調査された、陝西省渭南市華州区の中心市街の西(渭河の支流・西沙河の沿岸)にある老官台遺跡である。.

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標式遺跡

標式遺跡(ひょうしきいせき、type site)あるいは標準遺跡(ひょうじゅんいせき、standard site)は、考古学上の、遺構、遺物又はその一連となる関連性の集合として定義される特定の型式、形式、様式、あるいは、年代、文化期、文化層の命名、簡単に言えば時期区分名命名の契機を与えた遺跡、あるいはその基準となる遺構、遺物が検出された遺跡自身のことをいう。.

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歴史上の推定都市人口

歴史上の推定都市人口は、世界史上の主要都市・都市域・都市圏の人口の変遷を推定したものである。.

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河姆渡文化

河姆渡文化の範囲 河姆渡文化時期の黒陶 河姆渡遺跡の発掘現場 河姆渡文化(かぼと-ぶんか、)は中華人民共和国浙江省に紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市のの河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。 河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。 遺跡からは干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されている。遺物のなかでは石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品として使われたものが発見されている。木器や骨器は多く発見された。その中の「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である。また木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓も発見された。河姆渡では中国国内では最古の漆器も発見された。陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られ、一定の技術的水準にあったことを示している。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もある。 河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化(ばかほうぶんか)とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存していたと見られる。河姆渡遺跡には近くを流れる姚江が2回大きな洪水を起こし流路を変えた跡や、洪水で塩水が田を浸した跡などがあり、こうした災害から遺跡が放棄されたと考えられる。 微生物や花粉などの分析から、河姆渡文化は完新世の気候最温暖期の最中に栄えたと見られる。杭州湾付近の海面水位の研究結果では、今から7000年から5000年前までは海面は低い位置で安定していたが、今から5000年から3900年前には頻繁に氾濫していた。高床式の住居も、頻繁な雨など高温多湿の気候に対するものであった。 世界史は難しいけど楽しいよ.

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洛達廟遺跡

洛達廟遺跡(らくたつびょういせき)は、中国の河南省鄭州市洛達廟で発掘された新石器時代の遺跡。遺跡の面積はおよそ3万平方m。1956年から1958年にかけて河南省文化局文物工作隊により3度にわたって発掘された。出土文物の数が多く、独立した文化の特徴をそなえている。陶器・石器・骨器・玉器などが出土したが、とくに陶器の数が多い。二里崗文化と共通する要素が強いが、相対年代は河南龍山文化の末期から二里頭文化初期にかけてに属する。同系統の文化は洛達廟類型と命名されている。 Category:中国の考古遺跡 Category:中国の新石器時代 Category:鄭州の歴史.

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斉家文化

斉家文化(せいか/さいか-ぶんか)は中華人民共和国甘粛省の黄河上流域を中心に紀元前2400年頃から紀元前1900年頃にかけて存在した新石器時代末期から青銅器時代初期の文化。名称は、1923年に考古学者ユハン・グンナール・アンデショーン(Johan Gunnar Andersson、ヨハン・アンダーソン、北京原人の発見者)によって発見されたこの文化の主要遺跡・斉家坪遺跡(甘粛省広河県斉家坪の隝河河畔)に由来する。.

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