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中国共産党中央委員会副主席

索引 中国共産党中央委員会副主席

中国共産党中央委員会副主席(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおういいんかいふくしゅせき)は、かつて存在した中国共産党の役職である。中華人民共和国では、しばし中共中央副主席と省略して呼称した。 1945年の第7回中国共産党全国代表大会で中国共産党中央委員会主席制の導入が決定され、1956年の第8回全国代表大会で中央委員会主席の副職として設置が決定された。同大会では中国共産党規約を改正し、中央委員会において政治局常務委員の中から中央委員会主席1名と同副主席数名を任命することが定められた。1982年の第12回全国代表大会で、中央委員会副主席の役職は中央委員会主席と共に廃止された。.

12 関係: 大躍進政策廬山会議トウ小平周恩来国家主席の廃止華国鋒趙紫陽林彪毛主席語録毛沢東朱徳文化大革命

大躍進政策

大躍進政策(だいやくしんせいさく、、、、)とは、1958年から1961年までの間、中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策である。毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国やイギリスを追い越すことを夢見て実施した。しかし結果は、過大なノルマによる経済の大混乱と、推計1,000万人から4,000万人の餓死者を出す大失敗に終わり、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行って、国家主席を辞任した。その後は中国共産党中央委員会主席毛沢東に代わって劉少奇国家主席・鄧小平総書記などが修正主義的路線による経済再建を目指す。.

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廬山会議

廬山の「廬山会議旧跡」 廬山会議(ろざんかいぎ)は、毛沢東共産党主席が発動した大躍進政策の失敗が明らかとなったあと、1959年7月から8月に開催され、問題点を批判した彭徳懐らが失脚した、中国共産党中央政治局拡大会議(7月2日 - 8月1日)と第8期8中全会(8月2日 - 8月16日)を指す。廬山は江西省にある中国共産党幹部の避暑地。 1958年11月の第8期6中全会で毛沢東は大躍進が失敗した責任をとる形で国家主席の辞任を表明し、翌59年の第2期全人代で劉少奇党副主席が新国家主席に選出、毛沢東の権威は失墜していった。 6月29日、廬山に向かう船中で毛は会議の課題を提議した。それは19の項目からなり、特に第2項目の「形勢」と昨年度の大躍進関係の反省からなる数項目が眼目であった。そして三面紅旗(総路線、大躍進、人民公社)政策の失敗を討論する場となるのは明白であった。 その雰囲気を察していた毛は、とくに彭徳懐が批判の先頭に立っていることについて気分を害し「人我を侵さざれば、我人を侵さず。人もし我を侵せば、我人を殺す」との警句を吐き、来るべき会議に備えていた。毛は「神仙会議」と称して自由な意見交換の場を表向きは作っていたが、実は「蛇を穴からおびき寄せる」やりかたで、彭ら反対者をあぶりだすことを策していたのである。 7月14日、国防部長だった彭徳懐が毛沢東に私信を送り、その中で総路線は正しかったとしつつ、「1958年の基本建設は一部でいささか急ぎすぎ、目標達成が遅れた」と進言した。この批判はまっとうなものであったが、失墜しつつある自身の権威をさらに落としかねないと考えた毛沢東は、16日に私信のコピーを配布し『彭徳懐同志の意見書』として会議で討論することに決定した。彭は手紙が無断で公開されたことに憤り、毛を批判する一方、急きょ書かれたものであり十分に意見を述べていないなどの理由で回収を求めたが既に遅く、康生は「あえて建議します。甘やかしてはならない。」との私信を毛に送りつけていた。 File:1950 Pang Dehuai going to Korea.jpg|彭徳懐 File:Huang Kecheng.jpg|黄克誠 File:Zhang Wentian3.jpg|張聞天 File:Zhou Siaozhou.jpg|周小舟 会議で彭徳懐の意見に黄克誠(国防部副部長)、周小舟(湖南省党委書記)、張聞天(外交部副部長)やほかの出席者が支持を表明し、劉少奇、朱徳らも緩やかな表現で批判を加え、一部が部分的な言葉遣いに意見した。これを自身の権力に対する脅威と捉えた毛沢東は、23日の大会演説で手紙を「ブルジョワジーの動揺性」であり、党に対する攻撃、右傾機会主義の綱領であると激しく批判した。 党に対する攻撃と毛沢東に言われてしまった出席者は、彭徳懐支持から一転して「主席に辞任を迫った」「資産階級民主主義者」「党内の投機分子」などと批判を加えた。毛沢東は大躍進に誤りなど全くないと発言し、三面紅旗が倒れれば党と人民に対する重大な損失であると誇張した。 8月2日から始まった8中全会では、彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」と定性(政治的なレッテル張り)し、『彭徳懐同志を中心とする反党集団の誤りに関する決議』、『党の総路線を守り、右傾機会主義に反対し闘争する』議案を採択し、4人は大躍進を批判し、経済発展に反対したと定性し、4人はそれぞれ職務を解かれ、彭徳懐の国防部長と中央軍事委員会副主席のポストには林彪が就任した。 16日、閉会の際に毛沢東は「過去10年続いてきたブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争が廬山に現れているが、中国と我が党はこの闘争を少なくとも20年、50年でも闘争し続けなければならない」と結論付けた。会議後、60年ごろまで党内で反右派闘争が展開され、365万人が右傾機会主義と位置づけられ、一部は職務を解任された。 廬山会議で経済政策上の誤りを正す方法が絶たれてしまったため、中国の経済は悪化していった。会議中三面紅旗に肯定的だった劉少奇は郷里である湖南省を視察して政策に誤りがあったと悟り、「天災三分、人災七分」と結論付けるに至ったが、三面紅旗に問題は無く失敗の原因は天災にあるとする毛沢東とは徐々に考えが離れていった。生産請負制や報奨金を取り入れた経済政策や右派認定された幹部の再審査請求は、毛沢東に「絶対に階級闘争を忘れてはいけない」と批判され、文化大革命前夜までに決定的な破局を迎えることになる。 Category:中国社会主義 Category:1959年の中華人民共和国 Category:江西省の歴史 Category:1959年7月 Category:1959年8月.

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トウ小平

鄧 小平(とう しょうへい、中国語読み:ドン シャオピン 、IPA:、1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。.

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周恩来

周 恩来(しゅう おんらい、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。 妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに国務院総理)。.

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国家主席の廃止

国家主席の廃止(こっかしゅせきのはいし)は、中国の文化大革命中の1969年から1971年にかけて発生した重要な歴史的事件で、中国共産党中央委員会主席の毛沢東が国家主席の制度を廃止すると主張したのに対して、党副主席で党内序列2位だった林彪が国家主席を維持・任命すると主張した政治闘争である。 この事件は毛沢東と林彪の対立を激化させ、当時の中国共産党において序列筆頭であった人物と序列2番手であった人物の間における意見の相違は、両者の対立と林彪事件(913事件)へと繋がり、文革の重要な転換点となった。.

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華国鋒

華 国鋒(か こくほう、ホワ・クオフォン、1921年2月16日 - 2008年8月20日)は、中華人民共和国の政治家、毛沢東死後の中国の最高指導者で、中国共産党中央委員会主席、中央軍事委員会主席、国務院総理(首相)などを務めた。原名は蘇鋳。.

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趙紫陽

アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン夫妻と(1984年、ホワイトハウスでの晩餐会にて) 趙 紫陽(ちょう しよう、ヂャオ・ズーヤン、1919年10月17日 - 2005年1月17日)は中華人民共和国の政治家。「第2世代」の政治指導者として中国共産党中央委員会副主席、国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会総書記などを歴任。1989年の天安門事件で失脚し、2005年に死去するまで軟禁生活を余儀なくされた。.

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林彪

林 彪(りん ぴょう、リン・ビャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中華人民共和国元帥。国務院常務副総理(第一副首相)、国防部長(国防大臣)、中国共産党中央委員会副主席、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。文化大革命で失脚した劉少奇国家主席に代わって毛沢東党主席の後継者に指名されるが、政争に敗れてソビエト連邦に亡命する途上、モンゴル人民共和国において搭乗機が墜落し、死亡した。.

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毛主席語録

文革当時に壁に赤いペンキにて書かれた毛沢東語録の一節。「毛沢東語録:中国共产党是全中国人民的领导核心,没有这样一个核心,社会主义事业就不能胜利。」と、現在でもうっすらと残っている。 『毛主席語録』(もうしゅせきごろく)は、中華人民共和国を建国し、中国共産党中央委員会主席となった毛沢東の著作などから引用、編集された語録である。日本では一般に「毛沢東語録」としても知られる。表紙の赤色から、西側諸国では Little Red Book とも呼ばれる。 「毛沢東が全く新しい段階に高めたマルクス・レーニン主義」(毛沢東思想)を柱としている。.

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毛沢東

毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。 中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。 日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追放し、中国大陸に中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。.

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朱徳

朱 徳(しゅ とく、ヂュー・ドゥー、1886年12月1日 - 1976年7月6日)は、中華民国・中華人民共和国の軍人、政治家。原名は朱 代珍、朱 建徳、字は玉階。中国共産党入党以来、軍事部門を指導し、中国人民解放軍の「建軍の父」と評される。 朱徳は中華人民共和国建国後、元帥の首席に列せられ国家副主席や全国人民代表大会常務委員会委員長(国会議長に相当)などの要職を歴任した。また、1975年1月の憲法改正によって国家主席が廃止され、全人代常務委員会が国家元首の権能を果たすようになったので、1976年に死去するまでの間、朱徳が中華人民共和国の国家元首格(在任:1975年1月17日 - 1976年7月6日)であった。中国共産党中央委員会副主席を歴任。.

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文化大革命

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。 名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。.

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