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リヴァディア宮殿

索引 リヴァディア宮殿

リヴァディア宮殿の正面 リヴァディア宮殿における「三巨頭」 リヴァディア宮殿(ウクライナ語:、ロシア語:、英語:)は、クリミア半島の街ヤルタ南西約3キロのに位置する宮殿である。ロシア皇帝ニコライ2世の別荘(離宮)として建造され、1945年2月に行われたヤルタ会談の舞台としても知られている。現在、博物館として利用される。.

14 関係: 崇厚ヤルタヤルタ会談ヤクブ・ベクユスポフ宮殿リヴァディア (曖昧さ回避)ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入フョードル・アルトゥーロヴィチ・ケールレルアレクサンドル3世アレクサンドル・ケレンスキーイリ条約ウイグルウクライナグリゴリー・ラスプーチン

崇厚

崇厚(すうこう、チュンホウ、ᠴᡠᠩ ᡥᡝᠣ 転写:cung-heo、Chonghou, 1826年10月7日 - 1893年3月26日)は、清朝の官僚。字は地山。満州鑲黄旗人で、金の皇室ワンギャ氏(wanggiya hala、完顔氏)の末裔。河道総督麟慶の子で盛京将軍崇実(チュンシ)は兄。 道光29年(1849年)に挙人となり、咸豊8年(1858年)に正四品永定河道に任命、同年から起こったアロー戦争の戦後処理を務め、咸豊10年(1860年)に正二品長蘆塩運使、翌11年(1861年)1月20日に三口通商大臣に任命され、天津条約で開港した牛荘(現在の営口市)・天津・登州(現在の威海市と煙台市北部)の三口を管轄、外国交渉を担当した。これは恭親王奕訢の抜擢があり、彼が推進した洋務運動にも加わり天津に天津機器製造局を設立した。 しかし、民衆の外国人に対する敵対感情から同治9年(1870年)にフランス領事アンリ・フォンタニールが暴徒に射撃、激怒した暴徒に殺害され外国人も多数殺される事件(天津教案)が発生すると、手に負えないとみた崇厚は直隷総督曽国藩に応援を要請して交渉を任せ、自身は謝罪使として10月25日にフランスの首都パリへ赴いた。交渉は曽国藩の尽力で纏まり、人事異動で曽国藩が両江総督となり、李鴻章が後任の直隷総督となった。合わせて11月12日に北洋通商大臣と改称された三口通商大臣が李鴻章の兼任となり、崇厚は帰国後は兵部左侍郎と総理各国事務衙門大臣に転任、光緒2年(1876年)に急死した兄崇実の盛京将軍も継承した。 光緒4年(1878年)11月、北方のイリ地方がロシアに占領されていたため、打開のため全権大使としてロシアの首都サンクトペテルブルクへ派遣され、翌5年(1879年)10月2日にクリミア半島のリヴァディア宮殿でリヴァディア条約を締結した。しかし、内容はイリ地方のロシアへの大幅な割譲とロシアの経済特権などを認めた不平等条約で、清からは左宗棠・張之洞らが非難の声を挙げ、激怒した西太后は光緒6年(1880年)に帰国した崇厚を死刑にしようとした。イギリス公使トーマス・ウェードの助命嘆願で赦免され、代わりにロシアへ派遣された曽紀沢が光緒7年(1881年)にリヴァディア条約を修正したイリ条約を締結したことで清は面目を保ったが、以後活動の場を与えられず光緒19年(1893年)に66歳で没した。.

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ヤルタ

ヤルタ(Ялта、ラテン文字転写の例: Yalta)はクリミアの都市。クリミア半島南端に位置し黒海に臨む。「ヤルタ」の語源は、「岸辺」を意味する語。古代ギリシア人たちによって開かれた町であり、上陸に際して安全な岸(γιαλος / yalos )を求めたギリシャの船乗りによって築かれたといわれている。南に黒海と接し、森林に取り囲まれている。温暖な地中海性気候であり、現在は、黒海沿岸では屈指の保養地として知られている。1945年にヤルタ会談が行われた場所としても有名である。 「大ヤルタ」の語は、ヤルタを含むクリミア半島南部のからにいたる海岸を指し示している。.

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ヤルタ会談

ターリン ヤルタ会談(ヤルタかいだん、Yalta Conference)は、1945年2月4日から11日にかけて、当時のソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で行われた、アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦による首脳会談である。 第二次世界大戦が終盤に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで、大戦後の国際レジームを規定し、東西冷戦の端緒ともなった(ヤルタ体制)。.

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ヤクブ・ベク

ヤクブ・ベク ヤクブ・ベク(Yakub Beg、阿古柏、1820年 - 1877年5月30日) は、コーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。イラン系のタジク人とする説もある。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、タリム盆地一帯を制圧した(ヤクブ・ベクの乱)が、左宗棠に討伐された。ヤークーブ・ベクとも表記される。.

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ユスポフ宮殿

Miskhorのユスポフ宮殿 ユスポフ宮殿(Yusupov Palace、Юсуповський палац)は、クリミアのヤルタ近郊コーレイズにある宮殿である。ヤルタ近郊にロシア皇帝のリヴァディア宮殿を建築した建築家によって、1909年にフェリックス・ユスポフのために建てられた。この宮殿のスタイルは、ムーリッシュ・リバイバルで、外来の植物が茂るロマンティックな庭園、19世紀にLev Galitzineが作ったワインセラーが自慢であった。1917年のロシア革命後、この宮殿は国有化され、ヤルタ会談等の間のヨシフ・スターリンのお気に入りのダーチャとなった。 Category:クリミアの歴史 Category:ウクライナの建築物 Category:ロシアの宮殿.

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リヴァディア (曖昧さ回避)

リヴァディア.

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ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入

リミア(濃緑)とウクライナ(薄緑)、ロシア(薄赤) ロシアによるクリミア・セヴァストポリの編入(ロシアによるクリミア・セヴァストポリのへんにゅう)は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア自治共和国、セヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、編入要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで編入宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法違反などを理由としてこれを認めず、現在、編入は国際的な承認を得られていない。.

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フョードル・アルトゥーロヴィチ・ケールレル

フョードル・アルトゥーロヴィチ・ケールレル(ロシア語:Ѳёдоръ Арту́ровичъ Ке́ллеръフョーダル・アルトゥーラヴィチュ・キェールリェル、1857年10月12日 - 1918年12月8日)は、ロシア帝国の伯爵、軍司令官、騎兵大将、ウクライナ国軍の総司令官である。「ロシア一のシャーシュカ」(«Первая шашка России»)の異名を取った。日露戦争の英雄、F・E・ケールレル伯爵の甥に当たる。.

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アレクサンドル3世

アレクサンドル3世(、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ、、1845年3月10日 - 1894年11月1日)は、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝(在位:1881年3月14日 - 1894年11月1日)。アレクサンドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナの第2皇子。兄ニコライが22歳で早世したため、皇太子となった。妻は兄の婚約者であったデンマーク王クリスチャン9世の第2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(ロシア名マリア・フョードロヴナ)で、ニコライ2世をはじめ4男2女に恵まれた。 帝政時代にロシア帝国銀行が発行していた25ルーブル紙幣に肖像が描かれていた。.

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アレクサンドル・ケレンスキー

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー(アレクサーンドル・フョードロヴィチ・ケーレンスキイ;ロシア語: Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский、Aleksandr Fyodorovich Kerenskii、アリクサーンドル・フョーダラヴィチ・キェーリェンスキイ、1881年4月22日(ロシア旧暦、グレゴリオ暦では5月4日) - 1970年6月11日)は、ロシアの政治家。ロシア革命の指導者の一人で、ロシア臨時政府大臣会議議長(首相)を務めた。社会革命党党員、弁護士。.

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イリ条約

イリ条約(イリじょうやく、伊犁條約, Договор об Илийском крае)は、1881年2月24日にロシア帝国と清朝の間で結ばれた条約。サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg)とも。.

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ウイグル

ウイグル(、、)は、4世紀から13世紀にかけて中央ユーラシアで活動したテュルク系遊牧民族並びにその国家『突厥与回鶻史』では、モンゴル高原東部に興り、後に西トルキスタンや甘粛省・新疆ウイグル自治区に移住したトルコ系民族」としている。及びその後裔とも『大辞林』(三省堂、1988年)の「ウイグル」項20世紀の政治的必要性からの名乗りともされる「ウイグル」を自らの民族呼称とする民族を指し、後者は現在中華人民共和国の統治する新疆ウイグル自治区やカザフスタン・キルギス・ウズベキスタンなど中央アジアに居住している。人口は約1千万人。テュルク諸語のウイグル語を話すムスリム(イスラム教徒)である 。 本項では、古代から現在にいたるウイグルが興した国家や政権、および居住地域など、関連情報について概説する。.

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ウクライナ

ウクライナ(Україна、)は、東ヨーロッパの国。東にロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコが位置している。 16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展している。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達している。 キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸侯はリトアニア大公国やポーランド王国に属していた。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことで、ソビエト連邦内の構成国となった。1991年ソ連崩壊に伴い独立した。 歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係が深い。 また本来の「ルーシ」「ロシア」とは、現在のロシア連邦よりもウクライナを指した。.

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グリゴリー・ラスプーチン

リゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(露:Григорий Ефимович Распутин グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチン、ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin、1869年1月9日 - 1916年12月30日(ユリウス暦12月17日))は、帝政ロシア末期の祈祷僧。シベリア、トボリスク県ポクロフスコエ村出身。 奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評は極めて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。.

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