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ヤクブ・ゴウォン

索引 ヤクブ・ゴウォン

ヤクブ・ゴウォン(Yakubu Gowon、1934年10月19日 - )は、ナイジェリアの軍人、政治家。キリスト教徒。1966年にジョンソン・アグイイ=イロンシ政権をクーデターで倒し、東部州を激発させてビアフラ戦争を起こし、勝利したもののやがてクーデターで政権を追われた。 ゴウォンは1934年10月19日、当時北部州に属していたプラトー州で、アンガス人として生まれた。ザリアで育ったのち、1954年に21歳で軍に入隊した。1955年10月19日には少尉に昇進した。彼は1955年から1956年にはサンドハースト王立陸軍士官学校に、ついでキャンベリーのStaff Collegeに1962年に、1965年にはラティマーの統合幕僚学校に留学した。また、1960年から1961年と1963年に、コンゴ民主共和国に国連平和維持軍の一員として派遣されていた。1966年には、ゴウォンは中佐に昇進していた。 1966年1月に第1回クーデターが起こるまでのゴウォンは、政治に一切関係のない軍人に過ぎなかった。北部出身ではあったがキリスト教徒であり、北部の実権を握るフラニ人やハウサ人ではないため、東部や西部の派閥からも好意をもたれやすい安全な位置にいた。 しかしこのクーデターによって、アブバカル・タファワ・バレワ連邦首相などの指導層が一掃され、さらにクーデター派もイボ人のジョンソン・アグイイ・イロンシによって一掃された。上位の軍人が一掃されたことにより、ゴウォンはナイジェリア軍の参謀長となった。イロンシは暫定政府首班となると国内を安定させようとしたが、北部派の残党はゴウォンの下に集まり、政権の奪回を企てた。 1966年7月28日、北部勢力を中心とするクーデターが勃発し、イロンシは視察旅行中だった西部州イバダンにて殺害され、ゴウォンが変わって政権を握った。このクーデターにより軍内部の東部州・イボ人勢力は迫害されるようになり、北部のカノなどでは商業勢力として勢いを増していたイボ人に対する虐殺が起こった。一方、イボ人の本拠である東部州では軍政官チュクエメカ・オジュク中佐が軍を完全に掌握してクーデター派を寄せ付けず、ここにおいて北部と東部の対立はますます先鋭化した。北部は当初ナイジェリアからの分離独立をめざしたもののアメリカやイギリスの干渉によって断念し、かわってナイジェリアの支配権を握ることにした。これに対し、ナイジェリアの富の源泉である石油産出のほとんどを握る東部はいっそう反発を強めていった。 この緊張を和らげるため1967年1月4日から5日にかけてゴウォンとオジュク、その他最高軍事評議会のメンバーが集まってガーナのアブリにおいて会議がおこなわれたものの実効性は無く、東部には迫害を逃れて100万人を越えるイボ人の難民が流入してきた。この状況を打開するため、オジュクは州内の連邦政府の資産を接収し、石油を含む税収を州で管理することとした。これをゴウォンは認めず、1967年5月5日にはゴウォンは北部を6州、東部を3州、西部、中西部、ラゴスの12州にナイジェリアを分割することを決定し、東部の勢力を弱めようとした。これに反発したオジュクと東部は5月30日に独立宣言を発し、ビアフラ共和国を宣言。ここにビアフラ戦争が勃発した。 当初を除いてナイジェリア連邦側は優位に戦争を進めたが、ビアフラ側は頑強に抵抗した。戦争を早期に終結させるためにナイジェリアはビアフラへの輸送を遮断し、結果ビアフラでは戦死と餓死、それに病死で150万人の命が失われた。ビアフラ戦争は、オジュクが脱出しビアフラ政府が降伏した1970年1月19日に終結した。 戦争終結後、ゴウォンはイボ人へのそれ以上の迫害をおこなわず、国内融和策をとった。石油価格は上昇し、ナイジェリアに富をもたらした。これを使ってゴウォンは国内整備を進めたものの、政府内に腐敗が横行し、政府も急速に肥大化が進んだ。 1974年10月1日、ゴウォンは予定されていた1976年の民政移管は難しいと表明した。これは軍内部の穏健派に強い不満を与え、クーデターが計画された。1975年7月25日、ウガンダの首都カンパラで開かれていたアフリカ統一機構総会に出席中だったゴウォンは、ムルタラ・ムハンマドの率いるクーデター軍によって追放された。 その後ゴウォンはイギリスへと亡命し、1980年代にナイジェリアに戻った。2000年代に入ると、ゴウォンはガーナの大統領選挙のオブザーバーをつとめるなど、アフリカ政界の元勲のひとりとなっている。.

16 関係: ナイジェリアナイジェリアの大統領ハサン2世 (モロッコ王)ムルタラ・ムハンマドモハメド・シアド・バーレヤクブ・ゴウォン空港プラトー州ビアフラ共和国ビアフラ戦争アフリカ統一機構イボ人オバフェミ・アウォロウォクワラ州シェフ・シャガリジョンソン・アグイイ=イロンシ1960年代

ナイジェリア

ナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、)、通称ナイジェリアは、西アフリカに位置する連邦制共和国。イギリス連邦加盟国。およそ1億9000万人の人口はアフリカ最大であり、世界でも第7位に位置する。また、面積も広い国である。.

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ナイジェリアの大統領

ナイジェリアの大統領(―だいとうりょう)は、ナイジェリアで選出された政府の首班であり国家元首。公式には、ナイジェリア連邦共和国大統領およびナイジェリア軍最高司令官(President of the Federal Republic of Nigeria and Commander in Chief of the Nigerian Armed Forces)と称される。.

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ハサン2世 (モロッコ王)

ハサン2世(、1929年7月9日 − 1999年7月23日)は、モロッコの国王(在位:1961年 − 1999年)。ハッサン2世とも表記される。 かつて発行されていた複数のモロッコ・ディルハム紙幣に肖像が使用されていた。.

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ムルタラ・ムハンマド

ムルタラ・ラマト・ムハンマド(Murtala Ramat Mohammed, 1938年11月8日 - 1976年2月13日)はナイジェリアの軍人・政治家。1975年7月29日、准将の地位にあった時、ヤクブ・ゴウォン軍事政権をクーデターで打倒した。「最高軍事評議会」議長として全権を掌握し、前政権下で横行した腐敗を一掃するべく性急な改革を実施し、ソ連寄り外交を展開した。 1976年2月13日、ディムカ中佐のクーデターで殺害されたが、オルシェグン・オバサンジョ参謀総長が鎮圧し、ムハンマドの路線を踏襲した。 ムハンマドはゴウォン政権の前のジョンソン・アグイイ=イロンシ政権にも反対していた。イロンシはイボ系の軍人によるクーデタを収拾したが、北部出身者はイロンシを疑っていた。北部にはクーデタ気運が醸成されていた。アベオクタ兵営の北部出身兵士が1966年7月29日謀議した。当初は北部の独立案もあったが、経済的困難を官僚やイギリス外交官に指摘され採用しなかった。クーデタはゴウォン中佐をナイジェリア国軍最高司令官として実行された。ムハンマドは自らが指導者になることを望んだが、ゴウォンの方が上官であり、またムハンマドは米英の支持を得られなかった。彼は中佐へ昇級し、司令審査官 (Inspector of Signals) に任命された。 ビアフラ戦争中ムハンマドはナイジェリア国軍の第2師団の総司令官を務めた。第2師団はビアフラ軍に反攻し中西部州を奪還しニジェール川を渡って、ンスッカからエヌグを行軍する第1師団と連携した。イボ人の住む中西部州の国境の町アサバでムハンマドは妊婦がレイプされ殺害された事件のために非難された。ムハンマドはこれを否認し謝罪することはなかった。またニジェール川渡河の際にビアフラ軍が破壊した橋の再建を待ったが、ラゴスの司令部が彼の軍功を妨げようとしていると考え、渡渉を始めた。結果として渡河の備えのない部隊は流れにのまれて対岸のビアフラ軍から標的とされた。ムハンマドは多くの犠牲を伴って2度撤退し、アバガナでも同様の経験をした。燃料タンクがビアフラ軍の爆撃で損傷し、ほぼ全ての輸送用燃料が流出した。ムハンマドは司令部から懲戒を受け、司令官から外されイギリスへの長期休暇を与えられた。 ムハンマドはビアフラ戦争終結後帰国すると司令審査官の地位に戻され、これが軍での最後の任務に思われた。しかし、ゴウォン政権が汚職まみれであるとの評判を聞き、准将としてオバサンジョ准将やテオフィルス・ダンジュマ准将ら他の将校からクーデター計画を聞くと、ナイジェリア軍の勝利に貢献した将校も功績が認められていないとの不満が高まっていると認識し、自分たちがやればゴウォン政権よりましであると考えた。 ムハンマドは1975年7月29日ゴウォンがカンパラで開かれたアフリカ統一機構 (OAU) 首脳会議で外遊中にクーデタを実行し、自ら国家元首に就任し、オバサンジョを参謀総長、ダンジュマを陸軍参謀長とした。ムルタラ・ムハマドの政策は民衆の支持を受け、彼の決断は伝説上の英雄に祭り上げられたが、彼が偽善的で汚職は続けられたとの批判もある。 彼の最初の行動の一つは、北部の希望を偏重した1973年の国勢調査を破棄し1963年の数値を使うことであった。ムハンマドは連邦幹部と州政府を取り換え、ゴウォン政権との繋がりを断ち、信頼回復に努めた。1万人以上の公務員が解雇され、年金なども失った。行政、司法、軍、警察、外交、公企業、大学などにも影響を与え、裁判にかけられる者もあった。10万人規模に肥大化した軍の将校も武装解除された。 連邦執行評議会の25の大臣ポストのうちの12が民間人に当てられたが、内閣の権限は最高軍事評議会に次ぐものであった。ムハンマドはかつて州に割り当てられていた連邦政府の権限を停止し、州政府の権限を戻した。新たな軍政知事らは軍事評議会の議席はなかったが、ムハンマドの政策を実施した。連邦政府は2大紙を接収し、御用新聞化して大学も連邦の支配下に置いた。 ムハンマドは第三次国土開発計画を策定した。インフレーションを恐れて通貨供給量を減らし、公企業を抑えて私企業の活性化を訴えた。外交ではナイジェリア優先を掲げ、OPECの協調に脅威を与えた。非同盟外交も放棄し、特にアンゴラに関して顕著となった。OAUは勢力間の和平交渉を仲介していたが、南アフリカのアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) 支援を引き合いにして1975年末ムハンマドはソ連側のアンゴラ解放人民運動(アンゴラ人民解放戦線の政治部門)への支持を表明した。これにはキューバとソ連の支援を非難する米国との関係が変わった。10月にはゴウォンの注文したソ連製航空機がナイジェリア空軍に納入された。 ムハンマドは1976年2月13日、ブカ・スカ・ディムカ中佐のクーデタ未遂により殺害された。執務室であったラゴスのドーダン兵営からの彼の車は待伏せを受けた。ウォーリック大学に留学中のゴウォンらも首謀者として非難された。政権はオバサンジョが引継いだ。.

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モハメド・シアド・バーレ

モハメド・シアド・バーレ(Mohammed Siad Barre、ソマリ語:Maxamed Siyaad Barre、1919年10月6日 - 1995年1月2日)は、ソマリアの政治家、軍人。第3代大統領、第13代アフリカ統一機構議長。 1969年にクーデターでシェルマルケを打倒し大統領に就任したが、1991年に反政府勢力「統一ソマリ会議」に政権を打倒され、ナイジェリアのラゴスに亡命。1995年に死去。 ライバルのエチオピアのメンギスツ・ハイレ・マリアムと同様の社会主義を掲げる軍事政権だったが、エチオピアとのオガデン戦争を契機に独裁色を強めた遠藤貢「」『アフリカの「個人支配」再考』アジア経済研究所、2006年。。.

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ヤクブ・ゴウォン空港

ヤクブ・ゴウォン空港(Yakubu Gowon Airport)、別名ジョス空港(Jos Airport)とはナイジェリアプラトー州ジョスにある空港である。ヤクブ・ゴウォンにちなんで名付けられた。.

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プラトー州

プラトー州 (Plateau State) はナイジェリア中東部の州。州都はジョス。人口約350万人。.

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ビアフラ共和国

ビアフラ共和国(ビアフラきょうわこく、Biafra、 ビアーフラ)は、1967年にナイジェリアの南東部に置かれていた東部州が独立宣言したことに伴い樹立された、イボ族を主体とした政権・国家。1967年5月30日から1970年1月15日まで存続した。人口1,350万人、面積は77,306km²(1967年)だった。.

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ビアフラ戦争

ビアフラ戦争(ビアフラせんそう、1967年7月6日 - 1970年1月12日)は、ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争である。ナイジェリア内戦とも呼ぶ。ビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となった。.

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アフリカ統一機構

アフリカ統一機構(アフリカとういつきこう、Organization of African Unity, OAU, Organisation de l'Unité Africaine, OUA)は、かつてアフリカに存在した国際組織。 国連憲章と世界人権宣言を尊重し、アフリカ諸国の統一と連帯を促進し、人民の生活向上のための相互協力・調整、国家の主権と領土を守り、独立の擁護、新植民地主義と闘うことが目的。1963年5月25日発足。2002年7月9日にアフリカ連合へ発展した。.

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イボ人

イボ (より正確にはイグボ、Ìgbo, Ibo)はアフリカの民族。黒人系の単一民族としては最大規模のグループの1つである。その人口の大半はナイジェリア東南部に住み、ナイジェリアの総人口の約20%を占める。カメルーンと赤道ギニアにも相当数が居住する。彼らの言語はイボ語(イグボ語)である。イボはアナンブラ州、アビア州、イモ州、エボニ州、エヌグ州で多数を占める。デルタ州やリバーズ州でもそれぞれの55%以上の人口を有する。イボの言語や文化の影響はクロスリバー州、アクワ・イボン州、バイエルサ州などでもみられる。イボ語はヨルバ語・ハウサ語と共にナイジェリアの公用語の1つに定められており、オニチャ、アバ、オウェリ、エヌグ、ンネウィ、ンスッカ、アウカ、ウムアヒアなどではイボ語が他の言語より支配的である。.

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オバフェミ・アウォロウォ

バフェミ・アウォロウォ(Obáfẹ́mi Awólọ́wọ̀、1909年3月9日 - 1987年5月9日)は、ナイジェリアの政治指導者。現オグン州のイケンネ出身のヨルバ族でナイジェリア独立以前から政治活動を始め、エグベ・オモ・オドゥドゥワ、ナイジェリア労働組合会議、行動党 (AG) など沢山の組織を設立した。"The Nigerian Worker" 紙の記者であり、ナイジェリア産物貿易家協会を組織し、ナイジェリア動力輸送組合の書記を務めた。ナイジェリアで商学士号をえた後、ロンドンで法律を学んだ。独立前の1952年から1960年までナイジェリア西部州における最初の現地人の首相となり、1960年からは連邦議会でアブバカル・タファワ・バレワ首相に対する野党行動党の代表として活動した。.

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クワラ州

ワラ州 (Kwara State) はナイジェリア西部の州でミドル・ベルトと呼ばれる地域の南西部である。 州都はイロリン。 知事はブコラ・サラキ。 1967年にヤクブ・ゴウォン将軍により旧北部州が分割された際にイロリン県及びカッバ県から創設された。 当初の名前は西部中央州であったが、ニジェール川の地域名に因みクワラ州とされた。 イロリンはラゴスの北北東306km、アブジャの西南西500kmである。 2005年の人口は約259.2万人。.

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シェフ・シャガリ

ェフ・シャガリ(Shehu Usman Aliyu Shagari、1925年2月25日-)は、ナイジェリアの政治家。フラニ人のイスラム教徒。1979年から1983年まで、ナイジェリアの大統領を務めた。シャガリはソコト帝国の貴族の位を持ち、議員に選出されるまで短い間教師をしていた。 シャガリは1925年、イギリス領北部ナイジェリア内ソコト帝国のソコト州シャガリ村にて生まれ、カドゥナ大学へと進学した。カドゥナ大学は教員養成校であったが、当時の北部ナイジェリアには高等教育を受ける機関はほとんどなく、カドゥナ大学の初期卒業生は地域のエリートとなっていった。シャガリもその例外ではなかった。卒業後、彼はソコト中学校の科学教師となり、ついでザリア中学校の科学教師となった。1945年に第二次世界大戦が終わると、シャガリはソコト中学校の科学・歴史・地理の教師となった。6年後、アルグングに新しく小学校が建設されると、彼はそこの校長となった。 1930年代にはすでに北部ナイジェリアでも政治活動がはじまっていた。カドゥナ大学在学中から、シャガリは南ナイジェリアの新聞の熱心な読者として南部の政治運動にも精通し、また彼の生地であるソコトのヤボ地区の開発にも強い関心を持っていた。1946年にはシャガリはソコトにて政治団体を設立し、ソコト帝国世継王子のアフマド・ベロなど地域の実力者の支持を得た。1948年にはシャガリの団体ほか北部の政治団体が大同団結し、北部人民会議(NPC)が設立されて政党となった。1958年にはアブバカル・タファワ・バレワ首相の秘書となり、1959年の前にシャガリはソコト南西部から議員に選出された。1959年の選挙で北部人民会議が勝利し与党となると、1960年には経済開発大臣、1962年には総務大臣、1965年には労働大臣を歴任した。しかしバレワ政権が1966年のクーデターによって崩壊するとシャガリはソコトに帰り、彼の農場を経営しつつSokoto Native Authorityの評議員となった。1970年にヤクブ・ゴウォン軍事評議会議長はシャガリを呼び戻し、経済大臣に、次いで財務大臣に任命した。ゴウォン政権はクーデターで打倒され、それを継いだムルタラ・ムハンマド、オルセグン・オバサンジョ両議長は民政移管を表明した。これにより政党が復活し、シャガリは北部を基盤とするナイジェリア国民党の候補として1979年の大統領選挙に出馬し、勝利した。 大統領に就任すると、シャガリはおりからのオイルブームの中、拡大した資金を工業や農業、住宅建設や運輸の野心的なプログラムにつぎ込んだ。農業では緑の革命を支持し、大規模農業や機械化を推進したが、これは政界から引退するときに巨大な農地を手に入れていた退役軍人らを利する結果となった。工業ではデルタ製鉄所やアジャオクタ製鉄所計画に数百万ドルをつぎ込んだが、失敗に終わった。こうしたプロジェクトでは政府高官に多額のリベートが流れたとされ、政界の腐敗の一因となった。 1981年から始まった原油価格の下落は、ナイジェリア政府の財政に悪影響を与えた。シャガリは、1970年代の好況に対応した経済からのハードランディングから国を保護するために経済安定化計画を開始した。計画の主要な目標は、関税を引き上げ、輸入ライセンスを制限することで増大していた政府支出を削減することだった。しかし、安定化計画の実行結果は最小限のものであり、国はさらに経済的窮地に陥った。 シャガリ政権の元で腐敗は広がり、1979年の選挙の資金の出所をめぐって批判が高まった。1983年の選挙では選挙違反や宗教的対立や政治的暴力が横行する中シャガリは再選を果たしたが、世界の石油価格の下落と相まって、国家財政はさらに著しく悪化した。状況が悪化する中、1983年12月31日にムハンマド・ブハリがクーデターを起こし、シャガリは政権を追われた。.

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ジョンソン・アグイイ=イロンシ

ョンソン・トマス・ウムナクウェ・アグクイ=イロンシ(Johnson Thomas Umunnakwe Aguiyi-Ironsi、1924年3月3日 - 1966年7月29日)は、ナイジェリアの軍人、政治家。 イボ族出身の将校で、ナイジェリア独立後は国軍最高司令官に就任した。コンゴ動乱の際には、国連軍に参加するなど有能な人物であった。.

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1960年代

1960年代(せんきゅうひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1960年から1969年までの10年間を指す十年紀。この項目では、国際的な視点に基づいた1960年代について記載する。.

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