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フランソワ・カロン

索引 フランソワ・カロン

平戸のオランダ商館(17世紀の版画) 『日本大王国志』に掲載された、カロンの発言に基づいた日本地図。カロンは『日本大王国志』の中で、「蝦夷地は探検が十分でなく、島か半島か不明であり、津軽海峡は大きな入り江である」と書いている。地図は1661年に作製されたものだが、その根拠は1636年のカロンの知識である フランソワ・カロン(François Caron、1600年 - 1673年4月5日)は、オランダに亡命したフランスのユグノー教徒。オランダ東インド会社に30年以上勤務し、最終的にはバタヴィア商務総監(植民地総督の次席)にまで昇進した 。後にはフランス東インド会社の長官(1667–1673)を務めたFrazer, Robert Watson.

38 関係: 南蛮貿易寛永通宝島原の乱幸田成友徳川家光マクシミリアン・ル・メールハンス・ヴォルフガング・ブラウンヤン・ファン・エルセラックユリアン・スヘーデルレイニール・ファン・ツムブレスケンス号事件ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテルフランス東インド会社フレデリック・コイエットフロイス日本史ニコラス・クーケバッケルアントニオ・ファン・ブロウクホルストオランダ商館オランダ統治時代 (台湾)カロン・ド・ボーマルシェカピタンタイオワン事件出島王立警察 ニコラ・ル・フロック異国叢書鎖国柘植正時歴史書一覧末次茂貞明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧日台関係史日仏関係日蘭関係日本とポルトガルの関係日本における同性愛日本のキリスト教史日本大王国志17世紀

南蛮貿易

南蛮貿易(なんばんぼうえき)とは、日本の商人、南蛮人、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。.

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寛永通宝

寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。.

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島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。.

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幸田成友

幸田 成友(こうだ しげとも、1873年3月9日 - 1954年5月15日)は、日本の歴史学者。.

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徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。.

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マクシミリアン・ル・メール

マクシミリアン・ル・メール(Maximiliaan le Maire、1606年2月28日 アムステルダム - 1654年頃 バタヴィア)は、オランダ東インド会社の出島商館の商館長; Boxer, Charles Ralph, ed.

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ハンス・ヴォルフガング・ブラウン

ハンス・ヴォルフガング・ブラウン(Hans Wolfgang Braun, 1609年 - ?)は、ドイツのウルム出身の鋳物師で、日本で初めて臼砲を作製した人物。おそらくは日本に来た最初のドイツ人である。.

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ヤン・ファン・エルセラック

ヤン・ファン・エルセラック(Jan van ElseracqまたはElzerach)は、マクシミリアン・ル・メールの後任の出島オランダ商館商館長で、1641年から1642年までと、1643年から1644年にその職にあった。部下の一人に、後にケープ植民地を建設するヤン・ファン・リーベックがいた。 エルセラックはデルフトに生まれ、東インド会社に勤務した。既に1633年には下級商務員として平戸商館に勤務しており、1639年後半に上級商務員に累進した。フランソワ・カロンおよびル・メールの下で次席商館員として両人を補佐した。商館長参府の折には平戸商館に在って留守居を勤めた。 1641年11月1日、ル・メールの離任に際して長崎出島の商館長に就任した。前年にル・メールに与えられた命令に従い、商館長は毎年江戸に参府し、ポルトガルおよびスペインの動きを伝えることになっていた。エルセラックもその命令に従い、1642年1月21日に将軍徳川家光に拝謁している。 翌年10月28日に後任の上級商務員ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテルに職を委ねてバタヴィアに赴いた。1643年1月5日にバタヴィア司法委員会の参事に任命された。 その後、トンキンに渡航してトンキン貿易を査察したのち長崎に向かい、オーフルトワーテルの後任として1643年9月8日より再度、商館長を務めた。12月11日、オーフルトワーテルと共に将軍徳川家光に拝謁した。この年の7月28日に盛岡藩領である陸奥国山田浦(現在の岩手県山田町)に漂着して船長らが上陸したところ、盛岡藩に捕えられて乗員は江戸に護送されていた。このブレスケンス号の10人のオランダ人達を解放することも参府の目的のひとつであった。ブレスケンス号は宣教師の潜入や日本への領土的野心を目的とするものではないと釈明したのを幕府が了解し、12月24日に船員たちは解放された(ブレスケンス号事件)。 エルセラックは1644年11月14日までその職にあり、1645年1月、帰国船団の司令官として故国に戻った。.

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ユリアン・スヘーデル

ユリアン・スヘーデル(Juriaan Schaedel)は、スウェーデン生まれの砲術士官。傭兵としてオランダ東インド会社に勤務し、幕府に臼砲の射撃方法を伝授した。.

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レイニール・ファン・ツム

レイニール・ファン・ツム(Reinier van Tzum、Tzom、またはレイニール・ファン・ヘッド・ズム Reijnjer van't Zum、1600年ごろ - 1670年9月21日)は、オランダ東インド会社の社員としてシャムで勤務した後、出島のオランダ商館の商館長を務めた人物。.

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ブレスケンス号事件

ブレスケンス号事件とは、1643年(寛永20年)にオランダ船ブレスケンス号(Breskens、全長33m、幅7mの武装ヤハト船)の乗組員が盛岡藩領に上陸し、捕縛された事件。乗組員らはしばらく後に釈放されたが、その後のオランダの対応に対して幕府が満足せず、完全に解決を見たのは1650年(慶安3年)になってからであった。.

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ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル

ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(Pieter Anthonisz Overtwaterまたはover 't Water、1610年頃 - 1682年4月28日または29日)は、オランダ東インド会社の人物。.

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フランス東インド会社

フランス東インド会社(フランスひがしインドがいしゃ、Compagnie française des Indes Orientales)は、フランスで1604年にアンリ4世が対インド貿易でのオランダとイギリスの独占に対抗して組織した特権会社である。.

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フレデリック・コイエット

フレデリック・コイエット(Fredrik Coyet、Frederick Coyett、1615年頃 - 1687年10月17日)は、スウェーデンの貴族。出島のオランダ商館長を2度(1度目:1647年11月3日- 翌年11月9日。2度目は1652年11月4日 - 翌年11月10日)、最後のオランダ領台湾行政長官を務めた。日本を訪れた最も初期のスウェーデン人の一人である。.

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フロイス日本史

『フロイス日本史』(フロイスにほんし)、正式には『日本史』(にほんし、)は、戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。.

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ニコラス・クーケバッケル

ニコラス・クーケバッケル(Nicolaes CoeckebackerまたはCouckebacker)は、オランダ東インド会社平戸商館の第7代商館長。1633年から1638年までその職にあった。 クーケバッケルが来日する前、前商館長のコルネリス・ファン・ナイエンローデとバタヴィアの使節ウィレム・ヤンセンにより、タイオワン事件の余波による日蘭の貿易中止は4年ぶりに解決されていた。しかしながら、事件のオランダ側当事者であるピーテル・ノイツは人質として日本に抑留されており、この解放はクーケバッケルに課された課題であった。結局ノイツは、1636年にクーケバッケルの代わりにフランソワ・カロンが参府し、将軍徳川家光に拝礼した際に解放されている。これは、平戸藩藩主にノイツの解放を頼まれていた老中の酒井忠勝の口添えによるものであった。 1637年(寛永14年)に天草四郎に率いられたキリシタン一揆である島原の乱が発生した時、クーケバッケルはまず長崎代官の末次茂貞(タイオワン事件の末次平蔵政直の息子)に手紙を送り、彼を通して長崎奉行に乱の鎮圧の協力を申し出た。しかし、茂貞はその申し出が遅かったとして、使者として訪れた当時の商館次席フランソワ・カロンを非難した。しかしながら、松平信綱はクーケバッケルに海上からの砲撃を依頼する。クーケバッケルは、砲5門を船から陸揚げして幕府に提供した。さらに、1638年2月24日から2週間にわたり、原城に立てこもった一揆軍を、デ・ライプ号とベッテン号から砲撃した。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が高まったため、3月12日信綱は砲撃を中止させた。この島原の乱への参加は、クーケバッケルの日記によると、気が進まずまた効果も少なかった 。実際、幕府はカノン砲による直射の効果に満足せず、後にカロンに対し、曲射が可能な臼砲の作成を依頼している。ただ、クーケバッケルが幕府側へ戦力を提供したことは、反乱軍へ与したと見られて追放されたポルトガル商館に対し、少なくともオランダは幕府に逆らう意思はないものとみなされ、オランダ商館は幕府の海外事情の情報源としての価値から安政5年7月10日(1858年8月18日)の日蘭修好通商条約締結まで存在することとなった。 1640年、クーケバッケルはベトナムの鄭氏政権との交渉を試みたが失敗に終わっている。 クーケバッケルは「トンキン旅行と台湾のタイオワンの会社組織の査察に関する報告書」を書いている。オランダ帰国後、故郷のデルフトで市の評議員を勤めた。 クーケバッケルは部下で次席商館員であり、滞在年数が長く日本の事情に通じたカロンと良好な関係にあり、カロンに次の商館長を委ねている。.

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アントニオ・ファン・ブロウクホルスト

アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(Anthonio van Brouckhorst)は、出島オランダ商館長で、1649年11月5日から1650年10月25日までその職にあった。 1643年7月28日、オランダ船ブレスケンス号の乗員10人が盛岡藩領に上陸した。1641年以降、オランダ人は長崎以外への来航を禁止されていたため、船員らは捕らえられ江戸へ送られた。翌年、参府した新旧2人の商館長ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテルとヤン・ファン・エルセラックが釈明し、これを幕府が了解して解放された(ブレスケンス号事件)。 この処置に対して、幕府はオランダからしかるべき感謝があるものと期待していたが、特に目立った動きはなかった。これに幕府は不満を抱き、1648年に参府した商館長フレデリック・コイエットは将軍徳川家光への拝謁を許されず、翌年のディルク・スヌークにいたっては、参府すら許されなかった。 事態を重く見たオランダ東インド会社は、バタヴィアの長官(総督の次席)で日本通のフランソワ・カロンが中心となって対策をたて、謝礼使節を江戸に派遣することとなった。特使には「非商人」で法学博士の肩書きを持つペーテル・ブロークホビウスが、副使にはアンドレアス・フリシウスが選ばれた。さらに次期商館長であるブロウクホルストが補佐することとなった。加えて、一行には砲術士官のユリアン・スヘーデル(スウェーデン人)と外科医カスパル・シャムベルゲル(ドイツ人)が選ばれた。 ブロウクホルストは、正副両使節より先発し、1649年8月7日に出島に到着した。フリシウスは9月19日に到着したが、ブロークホビウスは船中で死亡していた。実は会社はそれを予期しており、その場合はフリシウスに全権を委ねると共に、ブロークホビウスの死体に防腐処置を施し、特使の正装を着せた上で日本側に見せ、オランダ人の誠意を見せることとなっていた。ブロークホビウスは稲佐悟真寺に埋葬された。 フリシウス、ブロウクホルスト、スヘーデル、シャムベルゲルら一行は11月25日に長崎を出発し、12月31日に江戸に到着した。その後3ヶ月間登城できなかったが、これは家光が病気のためであった。4月7日、ようやく登城が許され、幕閣と会うことができた。会見は友好的なものであり、特にスヘーデルが40ポンド臼砲の砲撃を披露すると大いに喜ばれた。一行はスヘーデルとシャムベルゲルを江戸に残し、5月3日に長崎に戻った。スヘーデルは「戦士」として日本人に気に入られ、江戸に5ヶ月間引き止められる。長崎に戻ったのは11月14日であった。スヘーデルの教えは北条氏長により「攻城阿蘭陀由里安牟相伝」としてまとめられた。 ともあれ、この特使の派遣は成功であり、翌年から日蘭関係は極めて良好なものとなった。 なお、シャムベルゲルは江戸で要人の治療にあたったほか、2年間の日本滞在中に日本人医師を教育し、後に「カスパル流」といわれる蘭方医学の祖とみなされるようになった。.

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オランダ商館

ランダ商館(オランダしょうかん)は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。.

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オランダ統治時代 (台湾)

台湾のオランダ統治時代は、オランダの東インド会社が台湾島南部を制圧した1624年から、鄭成功の攻撃によってオランダ東インド会社が台湾から完全撤退した1662年までの37年間を指す。.

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カロン・ド・ボーマルシェ

ボーマルシェ(Beaumarchais)こと本名ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron, 1732年1月24日 - 1799年5月18日)は、18世紀フランスの実業家、劇作家。 現在は『セビリアの理髪師』、『フィガロの結婚』、『』からなる「フィガロ3部作」で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、始めは時計師、次いで音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家など様々な経歴を持つため、フランス文学者の進藤誠一はボーマルシェを「彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しい」と評している。.

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カピタン

復元された出島商館内部 カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことを Opperhoofd(オッペルホーフト)と呼ぶが、日本では使われなかった。.

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タイオワン事件

タイオワン事件(タイオワンじけん)、別名ノイツ事件は、1628年(寛永5年)に長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ()との間で起きた紛争。 「タイオワン」とは台南安平の当時のオランダ名。台湾では浜田弥兵衛事件(濱田彌兵衛事件)と呼ばれる。.

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出島

出島(でじま)は、1634年江戸幕府の政策の一環として長崎に築造された人工島である。扇型になっており面積は3969坪(約1.5ヘクタール)。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東インド株式会社(AVOCアムステルダムに本部のあるVereenigde Oostindische Compagnie)を通して対オランダ貿易が行われた。出島全体は大正11年(1922年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。 現在は、高度経済成長期以降の埋め立て工事とビル建設により、出島の周囲は全て陸地になっている。.

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王立警察 ニコラ・ル・フロック

『王立警察 ニコラ・ル・フロック』(おうりつけいさつ ニコラ・ル・フロック、原題:Nicolas le Floch)は、2008年フランス(France 2)で放送されたテレビドラマ。 日本ではAXNミステリーで2009年11月から放送された。原作はジャン=フランソワ・パロ。ランダムハウス講談社より翻訳本が出版されている。.

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異国叢書

『異国叢書』(いこくそうしょ)は、16世紀から19世紀にかけて来日した西洋人の、日本に関する見聞録・研究書などを日本語訳して刊行した叢書である。1927年(昭和2年) - 1931年(昭和6年)刊、全13巻。続編として『新異国叢書』(1968年(昭和43年) - 2005年(平成17年)刊、全35巻・索引1巻)がある。.

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鎖国

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した井伊直弼は、「鎖国」のことを閉洋之御法とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた『』 P.183 小林庄次郎 1915年。 対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、福建省をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。1684年に康煕帝により海禁が解除された後は寧波商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。及びオランダネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立をヨーロッパ諸国に承認されたのは、1648年のヴェストファーレン条約においてであった。さらにフランス革命戦争で本国がフランスに占拠され、1795年その衛星国バタヴィア共和国となり、併合を経て再独立したのは1815年であった。(オランダ東インド会社本国がバタヴィア共和国となっても、アメリカ合衆国の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は1799年に解散させられている)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。 なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた清は1684年に海禁を解いているが、その後も長崎貿易に類似した管理貿易制度を維持した(広東システム)。。.

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柘植正時

柘植 正時(つげ まさとき、天正12年(1584年) - 寛永19年12月9日(1643年1月28日))は、江戸時代初期の江戸幕府旗本、第14代長崎奉行。柘植正俊の子。母は丹羽氏勝の娘。弟に柘植正勝。先妻は森可政の娘、後妻は比留正吉の娘。子に柘植正直、柘植正弘。通称は三四郎、平右衛門。 摂津国に生まれる。慶長5年(1600年)に徳川家康に仕える。慶長14年(1609年)父より家督を継ぎ、翌年駿府に出仕し、大坂の役に供奉した後に小姓組となる。元和2年(1616年)徳川秀忠に仕え、寛永8年(1631年)使番となり、同年11月に布衣を許される。寛永9年(1632年)より徳川家光に仕える。寛永10年(1633年)1000石加増され計2400石となる。江戸城本丸修理奉行などを経て、寛永17年(1640年)6月12日に長崎奉行に就任、同年大目付井上政重とともに平戸に行き、西暦が記されていたオランダ商館の破壊を命じ、オランダ商館長フランソワ・カロンは、オランダ人200人を指揮し倉庫の物資を他所に移して商館を破壊した。以後、商館は出島に移ることになった。寛永19年(1642年)病にて長崎奉行を致仕し、同年12月9日に没。享年59。墓所は大阪府吹田市の大雄院。.

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歴史書一覧

歴史書一覧(れきししょいちらん)は歴史書の一覧。地域・年代順。一部厳密に分類すると「歴史物語」に属し、史料としては価値が劣るものも含むので取扱いについては注意する。なお、用語としての「歴史書」については歴史書の項目を参照。.

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末次茂貞

末次 茂貞(すえつぐ しげさだ、生年不詳 - 1651年(慶安4年))は、江戸時代の長崎代官。父は末次政直。通称は平左衛門、平蔵。.

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明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧(めいじいしんいぜんににほんににゅうこくしたおうべいじんのいちらん)は、明治維新以前に、日本の領土に上陸、滞在した、ウィキペディア内に既に記事が執筆されている(または近日中に執筆される予定の)欧州人および米国人の一覧である。自分の意思に反しての漂流もしくは拿捕による上陸を含む。外交、政治、文化、科学、宗教などの分野においてある程度著名な者に限定する。例えば出島に滞在した一般のオランダ商館員などは除外する。日本の周辺の海域を通過しただけの者は含まない。来日年と国籍、簡潔な紹介も記載する。.

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日台関係史

日台関係史(にったいかんけいし)は、日本と台湾の関係の歴史。これには、前判決、日本の判決、中華民国の判決の歴史が含まれる。.

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日仏関係

日仏関係(にちふつかんけい、仏:Relations franco-japonaises)では、日本とフランスの関係について概説する。 日仏関係の歴史は17世紀初頭にまで遡ることができ、スペインから海路ローマに向かっていた日本の慶長遣欧使節が1615年に南フランスに上陸したことに始まる。 およそ2世紀にわたる鎖国政策が解かれ、両国は19世紀後半以降、軍事、経済、法律、芸術分野において重要な関係を築いていった。江戸幕府はジュール・ブリュネら軍事顧問団を通じて軍備の近代化を進め、明治政府も陸軍兵制にフランス式を導入した。またその後も日本はさまざまな分野、とくにルイ=エミール・ベルタンは大日本帝国海軍の創設期において造船産業の発展に寄与し、また法令の整備などについてもギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどフランスの支援を受けていた。その後の日仏関係は他国との関係に左右され、第二次世界大戦では両国軍の交戦、戦後はフランス政府による日本占領への間接的関与も起こったが、外交関係の回復後はおおむね良好な関係を維持している。ただし、時として経済・文化面での不満が特にフランス側から提起される事象もある。 フランスは近代芸術において日本の美術、すなわちジャポニスムに感化されている点があり、また印象派などに影響を与えた。またフランスで繁栄した絹織物産業は日本の支援を受けていた。一方、日本でもフランス文化は幅広く受容され、フランス語は大学での第二外国語などで幅広く学ばれている。.

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日蘭関係

日蘭関係(にちらんかんけい、Japans-Nederlandse betrekkingen、Japan–Netherlands relations)では、日本とオランダの関係について解説する。.

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日本とポルトガルの関係

日本とポルトガルの関係(Relações entre Japão e Portugal、Japan–Portugal relations)では、日本とポルトガルの関係について概説する。なお、1581年から1640年まで、スペイン王がポルトガル王を兼ねている(ポルトガルの歴史参照)が、ポルトガルの統治機構などは維持されているため、本稿ではその時期も含めて記述する。.

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日本における同性愛

日本における同性愛(にほんにおけるどうせいあい)の記録は古代に遡る。かつて男性同性愛は「男色」(なんしょく、だんしょく)、江戸期以降の武家社会におけるものは「衆道」・「若衆道」、歌舞伎の世界では「陰間」などの言葉で表現されていた。女性の同性愛については未解明な部分も多い。日本は宗教的に同性愛を異端とする欧米やイスラム社会などと異なり、同性愛に追放など罰則はあっても死罪はなかったことで不干渉的寄りで比較的寛容だといわれている「『土芥寇讎記』における男色・女色・少年愛」P6。.

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日本のキリスト教史

日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。日本の宗教全般については日本の宗教を、世界のキリスト教の歴史については、キリスト教の歴史を参照のこと。.

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日本大王国志

日本大王国志に掲載された、カロンの発言に基づいた日本地図。カロンは日本大王国志の中で、蝦夷地は探検が十分でなく、島か半島か不明であり、津軽海峡は大きな入り江であると書いている。地図は1661年の単行本出版の際に作製されたものだが、その根拠は1636年のカロンの知識である。 『日本大王国志』(にほんだいおうこくし、蘭:Beschryvinghe van het machtigh koningryk Japan、英:A True Description of the Mighty Kingdoms of Japan)とは、フランソワ・カロンが執筆した書物。1620年~1640年に平戸のオランダ商館に勤務したカロンが、1636年にバタヴィア商務総監のフィリプス・ルカスの質問に対した回答が元になっている。.

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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