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ピュドナの戦い (紀元前168年)

索引 ピュドナの戦い (紀元前168年)

ピュドナの戦い(ピュドナのたたかい、Battle of Pydna)は第三次マケドニア戦争において紀元前168年6月22日にルキウス・アエミリウス・パウルス率いるローマ軍とペルセウス王率いるアンティゴノス朝マケドニア軍との間で戦われた会戦である。この戦いはしばしば柔軟さを欠くマケドニアのファランクスに対して柔軟性に富むローマのレギオンが勝利したものと見なされている。.

21 関係: ペルセウス (マケドニア王)ポリュビオスルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前173年の執政官)ピュドナの戦いアンフィポリスガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)キュノスケファライの戦い (紀元前197年)ギリシャの歴史クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌスグナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官)スキピオ・アエミリアヌスサモトラキ島凱旋式のファスティ第三次マケドニア戦争紀元前160年代紀元前168年紀元前2世紀白楯隊戦闘の死傷者数一覧戦闘一覧6月22日

ペルセウス (マケドニア王)

ペルセウス(Περσεύς, ラテン文字表記:Perseus, 在位:紀元前179年 - 紀元前168年)は、アンティゴノス朝マケドニア最後の王である。印欧語ではマケドニアのペルセウスの呼び名が用いられることもある。新興目覚しかった共和政ローマと対立し、第三次マケドニア戦争を勃発させするも敗北。廃位され、ここにアンティゴノス朝は滅亡した。 紀元前179年、父ピリッポス5世が没するとペルセウスは王位に就いた。前年にはペルセウスの讒言で王族内でのローマの擁護者であった弟デメトリオスが処刑されている。ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍にペルセウスは嫉妬し、父ピリッポスをけしかけてデメトリオスを王位簒奪者として断罪、処刑させたと言う。これによりマケドニアとローマの関係は冷却した。 ペルセウスが王位に就くとローマとの関係が見直され、マケドニアは反ローマの姿勢を示した。ペルセウスはデルフォイを訪問する際に軍隊を率いて赴き、またローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにした。これらはローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。 紀元前171年に第三次マケドニア戦争が勃発。ペルセウスは戦争初期にはある程度の成功を収めるものの、次第に状況はマケドニアに不利となった。紀元前168年にピュドナの戦いで致命的な敗北を喫すると、ローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏した。 降伏後、ペルセウスは捕虜として獄につながれて廃位され、マケドニアは4つの共和国に分割され、これを以ってアンティゴノス朝マケドニア王国は同年に滅亡した。第四次マケドニア戦争でローマに反乱を起こしたものの、マケドニアはローマに吸収され、紀元前146年にマケドニア属州が置かれた。 2005年にイタリアのラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け、注目を浴びた。.

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ポリュビオス

ポリュビオス(Πολύβιος, Polybius, 紀元前204年? - 紀元前125年?)は、古代ギリシアのメガロポリス生まれの歴史家である。第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いの後、人質としてローマに送られ、スキピオ・アエミリアヌスの庇護を受けた。 著書『歴史』はローマの歴史を中心に第一次ポエニ戦争から紀元前146年までを取り扱い、ポエニ戦争など当時の状況についての第一級の史料である。またその中で述べられた政体循環論もよく知られる。.

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ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前173年の執政官)

ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌス(Lucius Postumius Albinu)は共和政ローマのパトリキ(貴族)出身の政治家・軍人。紀元前173年に執政官(コンスル)を務めた。ヒスパニアとマケドニアで戦った。.

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ピュドナの戦い

ピュドナの戦い(ぴゅどなのたたかい、Battle of Pydna)は、古代ギリシアのピュドナで行われた会戦である。.

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アンフィポリス

アンフィポリス(古代ギリシア語:Ἀμφίπολις)は、古代ギリシアの都市である。エーゲ海に流れるストリモナス川の、東岸の台地上に紀元前437年に建設され、8世紀頃に廃墟となった。現在のアンフィポリ(ギリシャ語:Αμφίπολη)は、中央マケドニア地方のセレス県の町(デモス)であり、この地域がギリシャ王国領となった時に、古代都市アンフィポリスに因んで町の名称が付けられた。2001年の人口調査によると、人口は3,623人。.

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ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)

イウス・スルピキウス・ガッルス(Gaius Sulpicius Gallus)はパトリキ(貴族)出身の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前166年に執政官(コンスル)を務めた。.

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キュノスケファライの戦い (紀元前197年)

ュノスケファライの戦い(英:Battle of Cynoscephalae)は第二次マケドニア戦争において紀元前197年にテッサリアのキュノスケファライにてティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス率いるローマ軍と、ピリッポス5世率いるマケドニア軍との間で起こった会戦である。.

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ギリシャの歴史

本項では先史時代から近現代に至るギリシャの歴史(ギリシャのれきし)について述べる。 現代のギリシャの版図は第二次世界大戦後形成されたものであるが、この範囲は古代ギリシャの版図とほぼ一致している。ただし、中核部分が過去と一致するといえども、ギリシャの歴史を記述するに当たり、ギリシャ文明による影響は、ギリシャから東はアフガニスタンのヒンドゥークシュ山脈、南はエジプトのクシュに及び、その範囲は大きい。.

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クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス

ィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス(Quintus Fabius Maximus Aemilianus, 生没年不詳、紀元前2世紀)は、共和政ローマの元老院議員。実父はルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスであったが、クィントゥス・ファビウス・マクシムスの養子となった。 実父マケドニクスとともに第三次マケドニア戦争に従軍、ピュドナの戦いで勝利を収めるが、その際にローマへ勝利の報を届ける役目を担った。そして紀元前149年から紀元前158年の間プラエトル待遇でシチリア島に赴任、そして紀元前145年にはコンスルに就任した。そしてプロコンスルとしてヒスパニアでルシタニア人討伐(ルシタニア戦争)を行うが、首領ウィリアトゥスを捕らえる事はできなかった。戦いはそれから10年間続き、彼の兄弟であるスキピオ・アエミリアヌスがヌマンティアを鎮圧するまで続いた。 彼と小スキピオは後のギリシア人歴史家ポリュビオスの庇護者であった。.

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グナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官)

ナエウス・オクタウィウス(Gnaeus Octavius、 - 紀元前162年)は共和政ローマのプレブス(平民)出身の政治家・軍人。紀元前165年に執政官(コンスル)に就任し、第三次マケドニア戦争でローマ海軍を指揮した。.

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スキピオ・アエミリアヌス

プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス・ヌマンティヌス(Publius Cornelius Scipio Aemilianus Africanus Numantinus、紀元前185年 - 紀元前129年)は、共和政ローマ期の軍人、政治家。カルタゴの破壊者である。スキピオ・アエミリアヌスと称され、第二次ポエニ戦争で活躍したスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)と区別して小スキピオとも称される。なお、以下文中では「アエミリアヌス」と記載する。.

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サモトラキ島

モトラキの紋章 サモトラキの港 サモトラキ島(Σαμοθράκη / Samothráki; Samothrace)は、エーゲ海北東部に位置するギリシャ領の島。行政上は東マケドニア=トラキア地方エヴロス県に含まれ、ギリシャ領トラキアの南端にあたる。サモトラケ島とも呼ばれ、「サモトラケのニケ」像の発掘地として知られる。.

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凱旋式のファスティ

凱旋式のファスティ(がいせんしきのファスティ、ファスティ・トリウムファレス、またはアクタ・トリウムファリア:Fasti Triumphales、Acta Triumphalia)は、アウグストゥス帝統治下の紀元前12年頃にフォルム・ロマヌムに建てられた石版である。石版には凱旋式を実施した将軍の名前、父と祖父の名前、勝利した相手または場所、凱旋式実施日、が記録されている。一部の欠損はあるが、紀元前753年の半ば神話的なロームルスの凱旋式から、紀元前19年のプロコンスル(執政官代理)であるルキウス・コルネリウス・バルブスの凱旋式までが記載されている。 ローマ帝国崩壊後は地中に埋もれていたが、16世紀の中頃におそらくは偶然に発見され、修復が進められた。現在はカピトリーノ美術館に展示されている。4つの石版から構成されており、それぞれローマ建国紀元元年-452年、453年-532年、533年-625年、628年-735年に実施された凱旋式が記録されている。 なお、一部に欠損部分があるが、他の資料で凱旋式実施が確認できるものは罫線で囲んで示した。.

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第三次マケドニア戦争

三次マケドニア戦争(だいさんじマケドニアせんそう、イタリア語:Terza guerra macedonica)は、共和政ローマとマケドニア王国(アンティゴノス朝)の間で争われたマケドニア戦争の3度目にあたる戦争であり、紀元前171年から紀元前168年まで行われた。最終決戦となったピュドナの戦い (紀元前168年)でローマ軍はマケドニア軍に大勝して、アンティゴノス朝は断絶した。また、共和政ローマによるヘレニズム諸国征服の端緒となった。.

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紀元前160年代

紀元前160年代(きげんぜんひゃくろくじゅうねんだい)は、西暦による紀元前169年から紀元前160年までの10年間を指す十年紀。.

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紀元前168年

紀元前168年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前2世紀

紀元前2世紀(きげんぜんにせいき)は、西暦による紀元前200年から紀元前101年までの100年間を指す世紀。.

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白楯隊

白楯隊(はくじゅんたい、レウカスピデス、希:Λευκάσπιδες, ラテン文字転記:Leukaspides)は、ヘレニズム時代にアンティゴノス朝によって編成されたファランクス部隊の一つである。 白楯隊はスパルタ王クレオメネス3世との戦い(クレオメネス戦争)にてアンティゴノス3世によって用いられた。また、アンティゴノス朝の滅亡を決定付けた紀元前168年のピュドナの戦いの時、彼らの楯は勝利したローマの戦利品となった。.

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戦闘の死傷者数一覧

以下は世界史での戦闘の死傷者数一覧である。この一覧には包囲戦 (厳密には戦闘ではないが、大抵は同様に戦闘関連死が発生する)と戦闘中の民間人の死傷者も含んでいる。大規模戦闘での死傷者数を正確に計測することは不可能に近いためこれらの数値の大半は推定であり、可能な場合推定の範囲を提示している。死傷者数は全ての種類(死亡、負傷、失踪及び罹患)の数値の合計数であるが、一部は死亡者数のみの数値を掲載している。また、可能な限り数値に捕虜の数を含めているかどうかを明示している。本リストには空爆(真珠湾攻撃や東京大空襲など)または大量の犠牲者が出ている可能性がある南京大虐殺などの虐殺は通常は「戦闘」としては分類されない(大抵は一方的な交戦または正式に交戦状態になっていない存在を国家が攻撃している) ため含まれていない。.

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戦闘一覧

戦闘一覧(せんとういちらん)は、世界史上の主な戦闘の一覧である。.

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6月22日

6月22日(ろくがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から173日目(閏年では174日目)にあたり、年末まであと192日ある。誕生花はスイカズラ、アマリリス。.

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