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ナマの事実

索引 ナマの事実

ナマの事実(ナマのじじつ、)とは、哲学の分野で使われる言葉で、それ以上基礎的な何かによっては説明されないような事実のこと。この概念は哲学の様々な領域で使用されるが、大きく分けて形而上学・認識論などの文脈で使われる場合と、倫理学・価値論・行為論などの文脈で使われる場合とがある。この両者で若干背景とする問題意識が異なる。.

9 関係: なぜ何もないのではなく、何かがあるのかなぜ私は私なのかミュンヒハウゼンのトリレンマブルート充足理由律第一原理真理近世哲学我々は知らない、知ることはないだろう

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、Why is there something rather than nothing?)この問いの英語表現 "Why is there something rather than nothing?" はある程度 定まったものとして繰り返し使用されているが、日本語表現にはかなりばらつきがある。以下にこの問いの日本語表現を、いくつか列挙する。.

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なぜ私は私なのか

なぜ私は私なのか」(なぜわたしはわたしなのか、英:Why am I me ?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?) この問いには色々な名称がある。たとえば「私の問題(わたくしの-)」、これは日本の哲学者永井均が使用する山括弧付きの〈私〉という表記法を使って「〈私〉の問題(やまかっこわたくしやまかっことじの-)」と表記されることもある。またオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提出した「意識の難問(The Hard Problem of Consciousness)」という概念と対比させて「意識の超難問(The Harder Problem of Consciousness)」と言われることもある。また、問いの内容が「なぜ今、ここなのか?」というものであることから、「今・ここの問い(いま・ここの-)」と言われることもある。 日本のいくらかの心理学者たちは、この問いを心理学的な観点から研究している。といっても哲学者たちがしているように思索を通して問いを論じている、というわけではなく、この問いを発する人間の心理状態について、アンケートや聞き取り調査などを通じて統計的・科学的に調査・分析する、という形で研究を行っている。こうした心理学的な研究の文脈の中においては、「なぜ私は私か?」といった問いを発する心理状態・経験のことは「自我体験(Ego experience)」と呼ばれている。.

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ミュンヒハウゼンのトリレンマ

ミュンヒハウゼンのトリレンマは知識・論理などの確実な根拠が得られることはないという懸念を提起する問題である。ミュンヒハウゼン男爵のエピソードにちなんでこう呼ばれる。ドイツの哲学者ハンス・アルバートが『批判的理性論考』(1967年)において近代的認識論・基礎付け主義は充足理由律による正当化を前提にしているが、それは独断論の一種にすぎないとして批判的合理主義を展開する際に提起された問題である。.

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ブルート

ブルート.

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充足理由律

充足理由律(じゅうそくりゆうりつ、英:Principle of sufficient reason独:Satz von zureichen Grunde、仏:principe de raison suffisante)とは、「どんな出来事にも原因がある」、「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理。すなわちどんな事実であっても、それに対して「なぜ」と問うたなら、必ず「なぜならば」という形の説明があるはずだ、という原理のこと。なお、充足理由律とは「すべての真なる思考は根拠づけられているべきであるという法則である」とする見解もある。 哲学の一分野である認識論や形而上学の領域で主に用いられる概念。理由律、根拠律、充足律、理由の原理などとも言われる。 「充足理由律」という名称を与えたのは17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツである。ライプニッツは充足理由律という名称を作り、それを事実の真理を保障する為には充分な理由がなければならないとする原理とし、推理の真理を保障する矛盾律に対する、論理学の二大原理の内の一つとして扱った。.

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第一原理

一原理(だいいちげんり、英語:first principles)とは、他のものから推論することができない命題である。.

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真理

真理(しんり、ἀλήθεια、veritas、truth、vérité、Wahrheit)とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。 真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義や同一性とも関わりが深い。西欧哲学において真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。 真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、「事物」(羅:res、レス)等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という加藤信朗。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。 論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。東洋には不言真如という概念もある。 人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「法」が説かれる。.

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近世哲学

近世哲学(きんせいてつがく)は、中世の後に区分される、おおよそ16世紀から20世紀までの哲学のこと。近代哲学とも。現代(Gegenwart)という区分を認めるか、近代(Die modern Zeit)がいつ終わるかについては哲学史上学説の争いがあるので、近世(Die neuere Zeit)は、その点について一定の立場を留保して使用する便宜な語として用いられている。思惟と存在の関係をめぐって様々な形で哲学上の立場の対立があった時代であるが、ここでは、大陸合理論とイギリス経験論の対立を中心に述べる。ルネサンス期の哲学(16世紀から17世紀)、理性の時代の哲学(17世紀前半)、啓蒙時代の哲学(17世紀後半~18世紀)、19世紀の哲学、20世紀の哲学については、それぞれの項目を参照のこと。.

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我々は知らない、知ることはないだろう

生理学者エミール・デュ・ボア=レーモン。「我々は知らない、そして(永遠に)知ることはないだろう」と主張した。 「我々は知らない、知ることはないだろう」(われわれはしらない、しることはないだろう、Ignoramus et ignorabimusイグノラムス・エト・イグノラビムス。(現時点において)「無知である」という意味を持つ言葉「イグノラムス (Ignoramus)」と、(将来において)「無知だろう」という意味を持つ言葉「イグノラビムス (ignorabimus)」、この2語を日本語の「と」にあたるラテン語の接続詞「エト (et)」で結んで作られた言葉。英語だと "we do not know and we will not know" などと訳される。このラテン語の定まった日本語訳は特になく、カタカナでそのまま書かれることもある。2語セットではなく後者の Ignorabimus だけで引用されることも多い。以下、いくつか例を挙げる。.

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