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カリンポン

索引 カリンポン

リンポン(কালিম্পং, Kalimpong)は、インドの西ベンガル州の町である。 ダージリンの東50kmにあり、標高は1,247m。.

11 関係: 世界の村で発見!こんなところに日本人チャムドの戦いチャドル・ナムゲルブータン難民ダライ・ラマ13世ウゲン・ワンチュクガントクグルカランドシッキム州シッキム王国矢島保治郎

世界の村で発見!こんなところに日本人

『世界の村で発見!こんなところに日本人』(せかいのむらではっけん!こんなところににほんじん)は、朝日放送テレビ2018年3月13日(2017年度最終放送日)までは、同年4月1日の認定放送持株会社移行に伴う商号変更並びに分社化前のため、朝日放送。の制作により、テレビ朝日系列にて2013年4月5日から放送されているバラエティ番組である。なお、レギュラー化前に2008年より不定期特番として7回放送している。.

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チャムドの戦い

チャムドの戦い(昌都之战)は、中華人民共和国が、チベットとの交渉の失敗後、事実上チベット地域で独立していたチベットに対して行った戦役Shakya 1999 pp.28–32。目的はチャムドにいたチベット軍を攻略し、ガンデンポタンの士気を下げ、チベットに対する中国の主権を認めさせるために北京に交渉人を送るように強力な圧力をかけることであった。戦闘の結果中国はチャムドを攻略し、その後の両者の代表者による交渉で最終的に中華人民共和国によるチベットの編入が行われた。.

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チャドル・ナムゲル

チャドル・ナムゲル(Chakdor Namgyal, 1686年 - 1717年)は、インド、シッキム王国(ナムゲル朝)の第3代君主(在位:1700年 - 1717年)。.

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ブータン難民

ベルダンギ難民キャンプにおいてブータンの旅券を見せるブータン難民。多くのブータン難民はブータンから追放される際に旅券を隠し持っており、これらの旅券は法的に有効である。しかしながら、 ブータン軍により「自主的な出国」を証明する書類への署名を強制され、旅券や法的書類を政府によって取り上げられた難民もいる。 ブータン難民とは、、タマン族、マガール、バフン、チェトリ、グルン族などを含む、ネパール語話者のブータン人、ローツァンパ(南部の住民)のこと。 これらの難民は、 ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王によるの結果、ブータンから迫害され、1990年代にネパール東部の難民キャンプへ収容された。ネパール政府とブータン政府は難民の帰還について合意に至らず、国連難民高等弁務官事務所 (以下、「UNHCR」という。) の援助のもとで、ブータン難民の多くは北アメリカ、オセアニア、ヨーロッパへ第三国定住した。UNHCRの援助とは別に、 ローツァンパの多くはインド国内の西ベンガル州やアッサム州へも移住している。.

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ダライ・ラマ13世

ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。1878年に、ダライラマの生まれ変わりと認定された。 当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。 1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキム、ネパールと転々としインドに向かった。清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、1913年1月にラサへ帰還。1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した。欧米の議院内閣制に倣ってカシャグ(民会)を基盤として大臣を選出するシステムを確立し、郵便切手や紙幣の発行・西洋式病院の設置などを行った。また今日広く使われているチベット旗を正式に定めている。.

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ウゲン・ワンチュク

ウゲン・ワンチュク(, ワイリー方式: O rgyan dBang phyug)は、初代ブータン国王。 500ニュルタム紙幣に肖像が使用されている。.

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ガントク

ントク()は、インドのシッキム州の州都である。 人口2万9千人(2001年)。.

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グルカランド

ルカランド(Gurkhaland)とは、インドの西ベンガル州にあるグルカ族(ネパール山岳民族の総称)が住む土地である。ゴルカランド(Gorkhaland)とも呼ばれる。 グルカ族とはネパールにいる少数民族であり、イギリスの傭兵のグルカ兵としても有名である。 西ベンガル州の北にあるダージリンやカリンポンの一帯は、もともとシッキム王国の一部だったが、18世紀初頭、カリンボンはブータンに占領され、1780年にダージリンの周辺はネパールから来たグルカ族の土地になった。インドの独立後、グルカ族はネパール語の公用語化を求めるなどして、西ベンガル州政府と対立し、1980年代には西ベンガル州からのグルカランド自治州としての分離を要求した。1986年にグルカ国民解放戦線(GNLF)による暴動が起きたが、暴動の後1988年に大幅な自治が認められて、ダージリン・グルカ・ヒル議会が確立された。現在は落ち着いているが、グルカランドの自治権の拡大を求めるグルカの武装勢力も存在する。.

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シッキム州

ッキム州(Sikkim)は、インド北東部の州のひとつである。中国語(漢字)では錫金と表記し、ヒマラヤ南麓のネパールとブータンの間に位置する。かつてシッキム王国だった歴史的な経緯により、インド28州のうち人口最少、面積はゴア州に次いで2番目に狭い小さな州となっている。.

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シッキム王国

ッキム王国(シッキムおうこく、チベット語:སུ་ཁྱིམ་、英語:Kingdom of Sikkim、中国語:錫金王国)は、インド、シッキム地方(現シッキム州)に存在した王朝(1642年 - 1975年)。ナムゲル朝(Namgyal dynasty)とも呼ばれる。チベット仏教(ニンマ派)を信奉していた。.

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矢島保治郎

チベット時代の矢島保治郎 矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。 文献によっては名前が「保次郎」となっているものもあるが、矢島が使っていた名刺や親族からの手紙などには「保治郎」が使われている。.

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