ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

891年

索引 891年

記載なし。

123 関係: 十世王右大臣大塩八幡宮大師 (僧)大索大順 (唐)天台寺門宗天台徳韶太政大臣孟子安倍興行寛平寛平の治小野道風小野滋蔭小野春風島田忠臣三宮神社 (吉岡町)三一権実諍論三善清行三統理平一之宮貫前神社平季長平貞文年の一覧伊伎月雄伴保平弓裔住吉神社 (下関市)徳妃張氏後三国時代在原棟梁ランベルト・ダ・スポレートラインハルツハーゲンルーヴェンツヴェンティボルトデンマーク君主一覧フランク・ローマ皇帝フランク王国フォルモスス (ローマ教皇)ベレンガーリオ1世嵯耶アルヌルフ (東フランク王)アングロサクソン年代記アンスカーリオ1世アブド・アッラフマーン3世イタリア王イタリア王国 (中世)グイード・ダ・スポレート...ステファヌス6世 (ローマ教皇)サーマーン・フダー円珍八省卿の一覧元号一覧 (中国)元子女王兵衛府前蜀図書分類法王建 (前蜀)神聖ローマ帝国紀長谷雄真然為子内親王益信直子女王荊南菅原道真高従誨貞保親王辛亥藤原基経藤原佐世藤原保則藤原忠行藤原菅根藤原諸葛藤原興世藤原良世藤原清経藤原有穂藤原時平肥後国良岑秀崇李茂貞東フランク王国杜荀鶴波子町清原正高源実源希源仕源光 (公卿)源直源融源能有源興基源昇昭宗 (唐)是忠親王是貞親王浄蔵斉中親王日本の政権一覧摂関政治敢國神社敦慶親王10月20日10月6日11011112月4日1月13日 (旧暦)2月25日804年814年836年915年948年964年9世紀 インデックスを展開 (73 もっと) »

十世王

十世王(とおよおう、天長10年(833年)‐延喜16年7月3日(916年8月4日))は、平安時代前期の皇族。桓武天皇の孫。二品・仲野親王の子。宇多天皇の外叔父。官位は従三位・参議。.

新しい!!: 891年と十世王 · 続きを見る »

右大臣

右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

新しい!!: 891年と右大臣 · 続きを見る »

大塩八幡宮

大塩八幡宮(おおしおはちまんぐう)は福井県越前市にある神社(八幡宮)である。旧社格は県社。 境内社に式内社の高岡神社、天八百萬比咩神社、天国津彦神社、天国津比咩神社の各論社がある。.

新しい!!: 891年と大塩八幡宮 · 続きを見る »

大師 (僧)

大師(だいし)は、中国・日本において、高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは諡号である。.

新しい!!: 891年と大師 (僧) · 続きを見る »

大索

大索(おおあなぐり)とは、平安時代前期に平安京内において群盗や謀反に備えて行った在京武士を動員した大規模な治安維持活動のこと。.

新しい!!: 891年と大索 · 続きを見る »

大順 (唐)

大順(だいじゅん)は、中国・唐代昭宗の治世で用いられた。890年正月 - 891年12月。.

新しい!!: 891年と大順 (唐) · 続きを見る »

天台寺門宗

天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。妙法蓮華経を根本経典とする。高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智顗(538年~597年)、宗祖は日本平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814年~891年)(弘法大師空海の姪の子)。総本山は長等山園城寺(三井寺、みいでら)(滋賀県大津市)。天台宗寺門派(じもんは)とも呼ばれる。.

新しい!!: 891年と天台寺門宗 · 続きを見る »

天台徳韶

天台 徳韶(てんだい とくしょう、891年(大順2年) - 972年8月9日(開宝5年6月28日))は、中国五代十国時代の法眼宗の僧侶。呉越忠懿王の国師。.

新しい!!: 891年と天台徳韶 · 続きを見る »

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.

新しい!!: 891年と太政大臣 · 続きを見る »

孟子

孟子(もうし、紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国の儒学者。姓は不詳、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。.

新しい!!: 891年と孟子 · 続きを見る »

安倍興行

安倍 興行(あべ の おきゆき、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。大納言・安倍安仁の子。官位は正五位下・大宰大弐。.

新しい!!: 891年と安倍興行 · 続きを見る »

寛平

寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.

新しい!!: 891年と寛平 · 続きを見る »

寛平の治

寛平の治(かんぴょうのち)は、平安時代中期(9世紀後期)の宇多天皇の治世を理想視した呼称。寛平は宇多天皇の治世の元号である。.

新しい!!: 891年と寛平の治 · 続きを見る »

小野道風

小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代中期の貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。.

新しい!!: 891年と小野道風 · 続きを見る »

小野滋蔭

小野 滋蔭(おの の しげかげ、生年不詳 - 寛平8年(896年))は、平安時代前期の貴族・歌人。官位は従五位下・掃部頭。.

新しい!!: 891年と小野滋蔭 · 続きを見る »

小野春風

小野春風 /『前賢故実』より 小野 春風(おの の はるかぜ、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族・歌人。従五位上・小野石雄の子。子に小野清如がいる。官位は正五位下・右近衛少将。.

新しい!!: 891年と小野春風 · 続きを見る »

岐(き、901年 - 924年または946年)は、中国・五代十国時代に鳳翔を中心に現在の陝西・甘粛・四川の一部地域を支配した国。創建者は李茂貞(856年 - 924年、初名・宋文通)。ただし、いわゆる「十国」からは除外されている。.

新しい!!: 891年と岐 · 続きを見る »

島田忠臣

島田 忠臣(しまだ の ただおみ、天長5年(828年)- 寛平4年(892年))は、平安時代前期の貴族・詩人。伊賀守・島田清田の孫。弟に島田良臣がいる。官位は正五位下・伊勢介。号は田達音(でんたつおん)。 菅原道真の師として知られ、娘宣来子はその正室となった。また、この時代を代表する漢詩詩人でもある。.

新しい!!: 891年と島田忠臣 · 続きを見る »

三宮神社 (吉岡町)

三宮神社(さんのみやじんじゃ)は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある神社。式内社(名神大社)で、上野国三宮。.

新しい!!: 891年と三宮神社 (吉岡町) · 続きを見る »

三一権実諍論

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。.

新しい!!: 891年と三一権実諍論 · 続きを見る »

三善清行

三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)は平安時代中期の公卿、漢学者。淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている。.

新しい!!: 891年と三善清行 · 続きを見る »

三統理平

三統 理平(みむね の まさひら、仁寿3年(853年) - 延長4年4月4日(926年5月18日))は、平安時代前期の貴族、文人。姓は宿禰。中宮亮・三統真浄の曾孫で、三統弥継の子とする系図がある。官位は従四位下・式部大輔。.

新しい!!: 891年と三統理平 · 続きを見る »

一之宮貫前神社

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)は、群馬県富岡市一ノ宮にある神社。式内社(名神大社)、上野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 891年と一之宮貫前神社 · 続きを見る »

平季長

平 季長(たいら の すえなが、生年未詳 - 寛平9年7月22日(897年8月23日)は、平安時代前期の貴族。桓武平氏高棟流、大納言・平高棟の四男。官位は従四位下・右大弁。.

新しい!!: 891年と平季長 · 続きを見る »

平貞文

平 貞文(たいら の さだふみ/さだふん、貞観14年(872年)? - 延長元年9月27日(923年11月8日))は、平安時代中期の貴族・歌人。名は定文とも記される。桓武天皇の玄孫。右近衛中将・平好風の次男。官位は従五位上・左兵衛佐。中古三十六歌仙の一人。一般に平中(へいちゅう/へいぢゅう)と呼ばれた。.

新しい!!: 891年と平貞文 · 続きを見る »

年の一覧

年の一覧(一覧) !! ! style.

新しい!!: 891年と年の一覧 · 続きを見る »

伊伎月雄

伊伎 月雄(いき の つきお、承和5年(838年)? - 寛平8年6月14日(896年7月27日)?)は、平安時代前期の貴族・儒学者。氏姓は占部連(無姓)のち中原朝臣。宮主・伊伎是雄の子か。.

新しい!!: 891年と伊伎月雄 · 続きを見る »

伴保平

伴 保平(とも の やすひら)は、平安時代前期から中期にかけての貴族。播磨守・伴春雄の子。.

新しい!!: 891年と伴保平 · 続きを見る »

弓裔

弓裔(きゅうえい)は、後三国時代の群雄のひとりで、後高句麗の建国者。姓は金、僧号は善宗。隻眼であったことから一目大王との別称もある。 専制的な暴政、もしくは豪族たちとの対立が先鋭化し、918年の「易姓革命」で侍中であり有力な部下であった王建に追放されることとなったため、諡号はない。.

新しい!!: 891年と弓裔 · 続きを見る »

住吉神社 (下関市)

一の鳥居 千鳥破風があるため一見すると春日造に見えるが檜皮葺流造である。 住吉神社(すみよしじんじゃ)は、山口県下関市一の宮住吉にある神社。式内社(名神大社)、長門国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 大阪の住吉大社・博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられる。本殿は国宝に指定されている。.

新しい!!: 891年と住吉神社 (下関市) · 続きを見る »

徳妃張氏

徳妃張氏 (とくひ ちょうし、891年 - 915年)は、五代十国時代の後梁の末帝朱友貞の妃嬪(元は正室)。 父の張帰覇が後梁の功臣であったことにより、均王朱友貞に正室として嫁いだ。後梁の太祖朱晃の好色は見境がなく、各地に封じていた諸子の王の正妻を都に残させて自らの近くに侍らせ、通じるようになった。 913年に朱友貞が即位すると、張氏を皇后に立てようとしたが、張氏は郊天の祭(皇帝祭祀)を行うのを待つよう願った。しかし郊天は行えず、立后もなかった。乾化5年(915年)9月24日、病状が重篤となった際に徳妃に封ぜられた(側室の扱い)が、同日に病死した。 朱友貞は暗愚であり、義兄弟の趙巖(安陽公主の夫)、張漢鼎と張漢傑(徳妃の兄弟)らが跋扈し、宿将や友貞の弟たちの数多くが讒言された。.

新しい!!: 891年と徳妃張氏 · 続きを見る »

後三国時代

後三国時代(ごさんごくじだい、892年 - 936年)は、朝鮮史の時代区分の一つ。892年に農民の甄萱が挙兵し、新羅王族の弓裔が泰封を建国することによって弱体化していた新羅が分裂してから、936年に高麗が朝鮮半島を再統一するまでの期間を言う。.

新しい!!: 891年と後三国時代 · 続きを見る »

在原棟梁

在原 棟梁(ありわら の むねはり、嘉祥3年(850年)頃 - 昌泰元年(898年))は、平安時代前期の貴族・歌人。平城天皇の後裔で、右近衛中将・在原業平の長男。官位は従五位上・左衛門佐。中古三十六歌仙の一人。.

新しい!!: 891年と在原棟梁 · 続きを見る »

ランベルト・ダ・スポレート

ランベルト・ダ・スポレート(Lamberto da Spoleto, 880年頃 - 898年10月15日)は、中世西欧の皇帝、イタリア王、スポレート公(ランベルト2世、在位:894年 - 898年)。.

新しい!!: 891年とランベルト・ダ・スポレート · 続きを見る »

ラインハルツハーゲン

ラインハルツハーゲン (Reinhardshagen) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州北部のカッセル郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。この町は、ヴェーザーベルクラント南部のヴェーザー川沿いに位置しており、木組み建築の街ハン・ミュンデンから北に約 10 km にあたる。 この町は1971年に地域再編に伴って、9世紀から12世紀にまで歴史を遡るヴァーケとフェッカーハーゲンの2つの村が合併して成立した。町の名前は、その西側に広がるラインハルトの森に由来する。ヴェーザー川の堤防沿いにヘッセン=カッセル方伯カールのバロック様式の狩りの城がある。この町のかつての製鉄所ではドニ・パパンやロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼンが働いていた。.

新しい!!: 891年とラインハルツハーゲン · 続きを見る »

ルーヴェン

ルーヴェン(オランダ語:Leuven (ルーフェ(ン)、レーヴェ(ン)など)、フランス語:Louvain (ルーヴァンまたはルヴァン))は、ベルギーのフラームス=ブラバント州の州都である。現在の市街地は歴史上のルーヴェン市域と隣接したヘヴェルレー(Heverlee)、ケッセル=ロー(Kessel-Lo)、コルベーク=ロー(Korbeek-Lo)の一部、Wilsele、Wijgmaal を含んでいる。人口は89,910人(男性44,331人、女性45,579人、2005年1月1日)。広さは56.63km2あり、1km2あたり1587.67人の人口密度である。2.-->.

新しい!!: 891年とルーヴェン · 続きを見る »

ツヴェンティボルト

ツヴェンティポルト(Zwentibold、870年または871年 - 900年8月13日)は、カロリング朝のロタリンギア王(在位:895年 - 900年)。ツヴェンティポルト(Zwentipold)とも呼ばれる。 東フランク王国の王アルヌルフの庶長子で、生母の名は不詳。ルートヴィヒ4世の異母兄にあたる。.

新しい!!: 891年とツヴェンティボルト · 続きを見る »

デンマーク君主一覧

デンマークの歴代君主。括弧内は、デンマーク王としての在位年を示す。 デンマークの君主制の歴史は深く、日本に次いで世界で2番目に古い君主国ともいわれている。.

新しい!!: 891年とデンマーク君主一覧 · 続きを見る »

フランク・ローマ皇帝

フランク・ローマ皇帝ないし西方帝位 (Empereur d’Occident)は、フランク国王カール1世が800年12月25日にローマにてローマ教皇レオ3世によりローマ皇帝として戴冠されて以降のカロリング朝()における君主号の仮定上の表記である。最後のフランク・ローマ皇帝は924年に死去したベレンガーリオ1世である。 フランク・ローマ皇帝は大概は«ローマ人の皇帝» (imperator Romanorum) ないし«ローマ帝国の皇帝» (imperator Romanum gubernans imperium)の称号を帯びている。962年のオットー1世大帝の戴冠によって始まる神聖ローマ皇帝はフランク・ローマ皇帝の後継者であることを自認している。.

新しい!!: 891年とフランク・ローマ皇帝 · 続きを見る »

フランク王国

フランク王国の時代別の領土 フランク王国(フランクおうこく、Royaumes francs、Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。.

新しい!!: 891年とフランク王国 · 続きを見る »

フォルモスス (ローマ教皇)

フォルモスス(Formosus, 816年頃? - 896年4月4日)は、第111代ローマ教皇(在位:891年 - 896年)。 864年にローマのポルトの司教枢機卿となり、866年にはビザンティンの正教会からの独立を望んでいたブルガリアへと派遣された。熱心に布教活動を行い、ブルガール人をキリスト教に改宗させた。また、ブルガリア王ボリス1世からブルガリア教会の長となることを提案されたが、教皇ニコラウス1世やハドリアヌス2世により反対され、フォルモススはローマに召喚された。これにより、ブルガリアはギリシャ正教を採用し、やがてブルガリア正教会が設立されることとなった。 875年のクリスマスの日には、ローマで西フランク王シャルル2世をローマ皇帝として戴冠している。 また、枢機卿であった時に、東フランク王アルヌルフをイタリア王として戴冠する。しかし、時の教皇ヨハネス8世の反発を買い、破門に処せられている。教皇に就任すると、896年にイタリアに侵攻したアルヌルフに対して西ローマ皇帝として戴冠した。しかし、このような行為は大きな反発を招き、反対派に擁立されたボニファティウス6世に位を追われた。 死後も教皇ステファヌス7世によって墓が暴かれ、遺体がテヴェレ川に流されている(『死体裁判』)。フォルモススの名誉が回復されたのは、教皇ロマヌスの時代であり、教皇テオドルス2世の時代にテヴェレ川から遺体が引き揚げられ、バチカンに葬られた。.

新しい!!: 891年とフォルモスス (ローマ教皇) · 続きを見る »

ベレンガーリオ1世

ベレンガーリオ1世 (Berengario I, 850年頃 – 924年4月7日)は中世西欧の皇帝(915年 - 924年)。オットー1世以前では最後の皇帝である。フリウーリ辺境伯(874年 - 924年)、イタリア王(888年 - 924年)。カロリング朝イタリア王国の領土支配をかけた戦いでもっとも重要なイタリア出身の領主で、中世の無秩序時代の主人公の一人。後のイタリア王ベレンガーリオ2世は外孫。 ベレンガーリオはフリウーリ辺境伯エーバーハルトと、フランク王ルートヴィヒ1世の娘ギーゼラとの子であり、874年の兄ウンルオッホ3世の死により辺境伯位を継承した。それとともに、スラブ人の襲撃からの帝国の東方防衛のために与えられた軍事力をも得ることとなった。.

新しい!!: 891年とベレンガーリオ1世 · 続きを見る »

嵯耶

嵯耶(さや)は、南詔の隆舜の時代に使用された元号。889年 - 897年。.

新しい!!: 891年と嵯耶 · 続きを見る »

アルヌルフ (東フランク王)

アルヌルフ(ドイツ語:Arnulf von Kärnten, スロベニア語:Arnulf Koroški, 850年頃 - 899年12月8日)は、東フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:887年 - 899年)、のち西ローマ皇帝を兼ねた(在位:896年 - 899年)。.

新しい!!: 891年とアルヌルフ (東フランク王) · 続きを見る »

アングロサクソン年代記

『アングロサクソン年代記』(アングロサクソンねんだいき、英:Anglo-Saxon Chronicle)は、イングランドの七王国時代を含む古代の出来事を主に記した年代記である。同一の題材をもとにした写本が複数現存している。 紀元1世紀から1154年までを扱っており、写本によっては紀元前60年にガイウス・ユリウス・カエサルがブリテン島に遠征したという(史実とは年時が異なる)記述がある。噂の類もかなり含まれていて史料として比較的信憑性は低いが他書には載っていない情報も記されている。 「アングロサクソン」(Anglo-Saxon)の名前は後代につけられたもので、1692年の初版では "Chronicum saxonicum" という題である。現在はインターネット・書籍で原文・訳文・注釈等が公開されている。.

新しい!!: 891年とアングロサクソン年代記 · 続きを見る »

アンスカーリオ1世

アンスカーリオ1世(Anscario I, ? – 901年)は、 891年(推定)から900年までのイヴレーア辺境伯の摂政である。彼は最初のサリカ法典によるイヴレーア侯と考えられている。彼を息子のアダルベルトが継いだ。.

新しい!!: 891年とアンスカーリオ1世 · 続きを見る »

アブド・アッラフマーン3世

アブド・アッラフマーン3世(Abd ar-Rahman III、889年 - 961年10月15日)は、後ウマイヤ朝の第8代アミールでもあり、初代カリフでもある。第7代アミール・アブド・アッラーフの孫(アミール在位:912年 - 929年、カリフ在位:929年 - 961年)。.

新しい!!: 891年とアブド・アッラフマーン3世 · 続きを見る »

イタリア王

イタリア王(rex Italiae, re d'Italia)は、君主号の一つで、西方正帝の廃止後にローマ帝国の本土であったイタリア(半島部及び大陸部)を支配した人々が多くの場合に使用した歴史的背景を持つ王位。ただし実態を伴うかについては議論が残り、例えば1870年にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によるローマ占領が行われるまで、長らくイタリアの中心地であったローマ市は歴代国王の支配下になかった。.

新しい!!: 891年とイタリア王 · 続きを見る »

イタリア王国 (中世)

イタリア王国(ラテン語:Regnum Italiae または Regnum Italicum)は、ドイツ、ブルグントと共に中近世の西欧におけるローマ帝国、すなわち神聖ローマ帝国を構成した王国である。名目上はローマ帝国の中核となる国であるが、実際にはフランク王国や東フランク王国(ドイツ)の従属国だった。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つが、政治的に独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずだった。歴史的経緯から領域は北部および中部イタリアに留まり、ヴェネツィア共和国と南イタリア(シチリア王国)を含まない。11世紀まで首都はパヴィアとされた。13世紀には政体としての実態が失われ、16世紀後期にはイタリア王の称号もローマ皇帝位に統合されて消えた。一方でローマ皇帝を頂点とする封建的ネットワークは18世紀末まで維持され、「帝国イタリア」と呼ばれた中北部イタリアはヴェネツィア共和国、教皇領、シチリア王国とは明確に異なる領域であった。.

新しい!!: 891年とイタリア王国 (中世) · 続きを見る »

グイード・ダ・スポレート

イード・ダ・スポレート (Guido da Spoleto, ? – 894年12月12日) は中世西欧の皇帝(891年 - 894年)、ヴィドー家出身のイタリア王(889年 - 894年)。グイード・ディ・スポレート (Guido di Spoleto)、またスポレート公(在位:883年 - 894年)としてグイード3世ともいわれる。.

新しい!!: 891年とグイード・ダ・スポレート · 続きを見る »

ステファヌス6世 (ローマ教皇)

テファヌス6世(Stephanus VI、? - 891年9月14日)は、第110代ローマ教皇(在位:885年9月 - 891年9月14日)。.

新しい!!: 891年とステファヌス6世 (ローマ教皇) · 続きを見る »

サーマーン・フダー

ーマーン・フダー(ペルシア語:سامان خداه Sāmān Khudā)は、8世紀前半の人物。彼の子孫が中央アジアで栄えたサーマーン朝(875年 - 999年)を創始したとされる。.

新しい!!: 891年とサーマーン・フダー · 続きを見る »

唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、結果としてそれ以降遣唐使は送られず、それまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。 日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。.

新しい!!: 891年と唐 · 続きを見る »

円珍

円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。.

新しい!!: 891年と円珍 · 続きを見る »

八省卿の一覧

八省卿の一覧 日本の律令官制における八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)の長官(卿)を務めた人物の一覧。.

新しい!!: 891年と八省卿の一覧 · 続きを見る »

元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

新しい!!: 891年と元号一覧 (中国) · 続きを見る »

元子女王

元子女王(げんし(もとこ)じょおう、生没年不詳)は、平安時代前期の皇族。伊勢斎宮。本康親王の王女(仁明天皇の皇孫)。兄弟に雅望王、廉子女王らがいた。 従兄弟宇多天皇の即位により、寛平元年(889年)2月16日斎宮に卜定された。同年9月御禊、初斎院入り。寛平2年(890年)9月5日、野宮に入る。同3年(891年)9月4日、伊勢に群行。同9年(897年)3月、宇多天皇の譲位により在任9年で退下した。その後の消息は不明である。.

新しい!!: 891年と元子女王 · 続きを見る »

兵衛府

兵衛府(ひょうえふ)とは、律令制における官司。左兵衛府と右兵衛府の二つが存在する。長は兵衛督 (左兵衛督・右兵衛督)である。左右近衛府、左右衛門府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。和訓では「つはもののとねりのつかさ」という。唐名は武衛(ぶえい)。.

新しい!!: 891年と兵衛府 · 続きを見る »

前蜀

前蜀(923年頃) 前蜀(ぜんしょく)は、中国の五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。創始者は王建。.

新しい!!: 891年と前蜀 · 続きを見る »

図書分類法

図書分類法(としょぶんるいほう)は、図書を主題・内容に基づいて分類する方法。目録の作成などを目的として図書館などで用いられる場合が多い。.

新しい!!: 891年と図書分類法 · 続きを見る »

王建 (前蜀)

王建(おう けん)は、十国前蜀の初代皇帝。廟号は高祖。 永陵正門(成都市三洞橋西北) 永陵の墓道、正面が陵墓.

新しい!!: 891年と王建 (前蜀) · 続きを見る »

神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

新しい!!: 891年と神聖ローマ帝国 · 続きを見る »

紀長谷雄

紀 長谷雄(き の はせお)は、平安時代前期の公卿・文人。弾正大忠・紀貞範の子。 『竹取物語』の作者の候補者の一人であり、『長谷雄草紙』の主人公。.

新しい!!: 891年と紀長谷雄 · 続きを見る »

真然

真然(しんぜん、しんねん、生年不詳信頼性の高い史料に真然の生年を伝えるものはない。諸説のなかでは延暦23年(804年)が比較的有力とされるが、生年は不明とするのが妥当である。- 寛平3年9月11日(891年10月21日))は、平安時代前期の真言宗の僧。中院僧正・後僧正とも称される。俗姓は佐伯氏。讃岐国多度郡の出身。空海の甥と伝えられている。空海の弟子となり、後に真雅から灌頂を受けた。空海の死後、荒廃しつつあった高野山(金剛峯寺)の復興・発展に尽力。伝承では亡くなる直前の空海から高野山の経営を託されたといわれる。.

新しい!!: 891年と真然 · 続きを見る »

為子内親王

子内親王(ためこないしんのう、? - 昌泰2年3月14日(899年4月27日))は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の皇女で醍醐天皇妃。母は班子女王、宇多天皇は同母兄にあたる。 元慶8年4月13日(884年5月11日)に同母兄定省王(後の宇多天皇)らとともに臣籍降下して源朝臣を賜る。寛平3年(891年)に宇多天皇の同母妹であることから内親王宣下を受けて皇族に復帰した。寛平9年(897年)に醍醐天皇の即位と同時に入内して皇后に次ぐ妃となった(この時、皇后は不設置であった)。宇多上皇は阿衡事件の教訓から藤原北家嫡流を外祖父とする皇子の出生を望まず、為子所生の男子を立太子する方針であったが、2年後に勧子内親王を生むと同時に死去した。このため、為子の次の后として藤原時平の妹穏子を入内させようとした醍醐天皇・藤原時平とこれに反対する宇多上皇との対立が発生(『九暦』)し、後の宇多上皇による斉世親王の皇位継承者指名問題及び菅原道真の大宰権帥左遷事件(いわゆる昌泰の変)に発生したとも言われている。.

新しい!!: 891年と為子内親王 · 続きを見る »

益信

信(やくしん、天長4年(827年)- 延喜6年3月7日(906年4月8日))は、平安時代前期の真言宗の僧。俗姓は紀氏で武内宿禰の後胤であり、備後国品治郡(現・広島県福山市新市町)の生まれ。父は山城守・紀魚弼、京都の男山石清水八幡宮の開基で大安寺の僧行教は実兄。 真言宗の開祖弘法大師空海からは第4世の直系で、東密広沢流の祖とされる。俗称は円成寺僧正。諡号は「本覚(ほんがく)大師」。.

新しい!!: 891年と益信 · 続きを見る »

直子女王

子女王(なおこじょおう、生年不詳 - 寛平4年12月1日(892年12月23日))は、平安時代前期の皇族。惟彦親王王女(文徳天皇の皇孫)。宇多天皇朝賀茂斎院。 仁和5年(889年)2月27日、斎院に卜定。同年(寛平元年)9月23日、御禊。寛平3年(891年)4月15日、紫野院へ入る。同4年(892年)12月1日、在任中に薨去。 『河海抄』は『源氏物語』以前で孫王が賀茂斎院となった例を直子女王のみとするが、2代斎院時子内親王は父仁明天皇の皇太子時代に在任しており、また8代斎院穆子内親王の卜定も父光孝天皇の即位前で、ともに内親王宣下以前なので、女王として斎院に卜定されたのは直子女王で3人目である。.

新しい!!: 891年と直子女王 · 続きを見る »

荊南

荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国の五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の1人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。.

新しい!!: 891年と荊南 · 続きを見る »

菅原道真

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.

新しい!!: 891年と菅原道真 · 続きを見る »

高従誨

従誨(こう じゅうかい)は、十国荊南の第2代王。武信王高季興の長男。.

新しい!!: 891年と高従誨 · 続きを見る »

貞保親王

貞保親王(さだやすしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第四皇子で、母は藤原高子。陽成天皇の同母弟にあたる。南院式部卿宮、桂親王と号す。.

新しい!!: 891年と貞保親王 · 続きを見る »

辛亥

辛亥(かのと い、しんがい)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの48番目で、前は庚戌、次は壬子である。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の亥は陰の水で、相生(金生水)である。.

新しい!!: 891年と辛亥 · 続きを見る »

藤原基経

藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.

新しい!!: 891年と藤原基経 · 続きを見る »

藤原佐世

藤原 佐世(ふじわら の すけよ)は、平安時代前期の貴族・学者。藤原式家、中納言・藤原種継の曾孫。民部大輔・藤原菅雄の子。官位は従四位下・右大弁。.

新しい!!: 891年と藤原佐世 · 続きを見る »

藤原保則

藤原保則 藤原 保則(ふじわら の やすのり、天長2年(825年) - 寛平7年4月21日(895年5月23日))は、平安時代初期の公卿。藤原南家、中納言・藤原乙叡の孫。左兵衛佐・藤原貞雄の子。官位は従四位上・参議。 地方官として善政により治績をあげ良吏として知られ、良二千石と謳われた。.

新しい!!: 891年と藤原保則 · 続きを見る »

藤原忠行

藤原 忠行(ふじわら の ただゆき、生年不詳 - 延喜6年11月1日(906年11月19日))は、平安時代前期の貴族・歌人。藤原南家、近江権守・藤原有貞の子。官位は従五位下・若狭守。.

新しい!!: 891年と藤原忠行 · 続きを見る »

藤原菅根

藤原 菅根(ふじわら の すがね、斉衡3年(856年) - 延喜8年10月7日(908年11月3日)は、平安時代前期の貴族・学者。藤原南家、右兵衛督・藤原良尚の四男。官位は従四位上・参議、贈従三位。.

新しい!!: 891年と藤原菅根 · 続きを見る »

藤原諸葛

藤原 諸葛(ふじわら の もろくず/もろかず、天長3年(826年) - 寛平7年6月20日(895年7月16日))は、平安時代前期の公卿。藤原南家、右大臣・藤原三守の孫。侍従・藤原有統の長男。官位は従三位・中納言。.

新しい!!: 891年と藤原諸葛 · 続きを見る »

藤原興世

藤原 興世(ふじわら の おきよ、生年不詳 - 寛平3年7月14日(891年8月21日))は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家、讃岐守・藤原村田の子。官位は従四位上・伊勢守。.

新しい!!: 891年と藤原興世 · 続きを見る »

藤原良世

藤原 良世(ふじわら の よしよ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の八男。官位は従二位・左大臣、贈従一位。致仕大臣と号した。.

新しい!!: 891年と藤原良世 · 続きを見る »

藤原清経

藤原 清経(ふじわら の きよつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、権中納言・藤原長良の六男。官位は従三位・参議。.

新しい!!: 891年と藤原清経 · 続きを見る »

藤原有穂

藤原 有穂(ふじわら の ありほ)は、平安時代前期の公卿。藤原北家末茂流、備前守・藤原直道の長男。官位は従三位・中納言。.

新しい!!: 891年と藤原有穂 · 続きを見る »

藤原時平

藤原 時平(ふじわら の ときひら)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原基経の長男。官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣。本院大臣と号した。 藤原北家の嫡子として若くして栄達するが、父・基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真と共に左右大臣に並ぶが次第に対立し、遂に道真を讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳で死去した。その死は怨霊となった道真の祟りと噂された。.

新しい!!: 891年と藤原時平 · 続きを見る »

肥後国

肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

新しい!!: 891年と肥後国 · 続きを見る »

良岑秀崇

良岑 秀崇(よしみね の ひでおか)は、平安時代前期の貴族・歌人。越前守・良岑木蓮の子とする系図がある。官位は従五位下・伯耆守。.

新しい!!: 891年と良岑秀崇 · 続きを見る »

李茂貞

李 茂貞(り もてい)は、唐末から五代十国時代の岐の王。深州博野(現在の河北省保定市蠡県)の出身で初名は宋文通。.

新しい!!: 891年と李茂貞 · 続きを見る »

東フランク王国

東フランク王国(ラテン語:regnum Francorum orientalium、独:Ostfrankenreich)は9~10世紀に渡って西ヨーロッパに存在した王国。ドイツの原型にあたる。 西ヨーロッパは9世紀初頭にローマ教皇から西ローマ皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝によって統一されていた。しかし大帝の死後早くから内部紛争により国家分裂の危機が生じていた。840年に第2代皇帝ルートヴィヒ1世が崩御すると翌年にフォントノワの戦いが勃発。843年のヴェルダン条約によって帝国は正式に三分割された。その東部分がルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世の統治領域となった東フランク王国である。 ルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は西ローマ帝国の権威を引き継ぐことができなかった。西ローマ帝国として正統だったのは中フランク王国である。しかし中フランク王国はまもなく北イタリアのみを統治するイタリア王国へと縮小した。西フランク王国もまた内憂外患で政情が安定しなかった。そのような状況で東フランク王国は着々と力を蓄えて西ヨーロッパの中心となっていった。9世紀末には西ローマ帝国の盟主としてふるまい、10世紀中ごろにはオットー1世の皇帝即位とイタリア併合によって西ローマ帝国そのものとなった。その後約200年は西ヨーロッパ最強だった帝国だが、やがて衰えてイタリアを失い神聖ローマ帝国、そして現在のドイツとなった。 カール大帝の直系であるカロリング朝の統治は911年までだった。西ローマ帝国の理念は女系のザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝に引き継がれていった。 帝国はごく一時期を除いて西フランク王国(フランス)を併合できなかった。これは西ローマ帝国がゲルマン系のドイツとラテン系のフランスに分かれる原因となった。.

新しい!!: 891年と東フランク王国 · 続きを見る »

杜荀鶴

杜 荀鶴(と じゅんかく、846年 - 904年(907年?))は、中国、晩唐の詩人。池州石台の人。字は彦之、九華山人と号す。京兆万年の杜氏、杜牧の末子ともされる。大順2年(891年)の進士。 朱全忠に気に入られ、翰林学士、主客員外郎、知制誥となる。琴詩に巧みな風流人であったが、権勢に驕り、他人には憎まれていた。人を殺そうとしていたところ、あるいは、殺されそうになっていたところ、その直前に病死したという。.

新しい!!: 891年と杜荀鶴 · 続きを見る »

波子町

波子町(はしちょう)は島根県江津市の地名。2010年(平成22年)10月1日現在の人口は816人。郵便番号は699-3161(浜田郵便局管区)。.

新しい!!: 891年と波子町 · 続きを見る »

清原正高

清原 正高(きよはら の まさたか、生年不詳 - 万寿4年(1027年)2月15日)は、平安時代中期の人物。 豊後清原氏の祖とされ、『船岡新宮ハ幡縁起』などに言及があるものの、来歴等については諸説があり、実在の人物ではなく伝説上の存在と見なされることもある - 「玖珠川歴史散歩より」とされている記述。。.

新しい!!: 891年と清原正高 · 続きを見る »

源実

源 実(みなもと の さね、生年不詳 - 昌泰3年(900年))は、平安時代前期の貴族・歌人。嵯峨源氏、参議・源舒の次男。 官位は従五位上・信濃守。.

新しい!!: 891年と源実 · 続きを見る »

源希

源 希(みなもと の まれ/のぞむ)は平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、大納言・源弘の六男。.

新しい!!: 891年と源希 · 続きを見る »

源仕

源 仕(みなもと の つこう)は、平安時代中期の軍事貴族。大納言・源昇の次男。官位は従五位上、武蔵守、修理大夫。.

新しい!!: 891年と源仕 · 続きを見る »

源光 (公卿)

源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.

新しい!!: 891年と源光 (公卿) · 続きを見る »

源直

源直(みなもと の すなお)は、日本の平安時代初期から前期にかけての貴族。左大臣・源常の三男。.

新しい!!: 891年と源直 · 続きを見る »

源融

源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。.

新しい!!: 891年と源融 · 続きを見る »

源能有

源 能有(みなもと の よしあり)は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。.

新しい!!: 891年と源能有 · 続きを見る »

源興基

源 興基(みなもと の おきもと、承和12年(845年) - 寛平3年9月10日『日本紀略』。『公卿補任』では11日。(891年10月16日))は、平安時代初期の皇族・公卿。もと興基王と名乗るが、臣籍降下して仁明源氏となる。四品・人康親王の長男。官位は正四位下・参議。.

新しい!!: 891年と源興基 · 続きを見る »

源昇

源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。.

新しい!!: 891年と源昇 · 続きを見る »

代的な本 本(部分) 本(ほん)は、書籍(しょせき)または書物(しょもつ)とも呼ばれ、木、竹、絹布、紙等の軟質な素材に、文字、記号、図画等を筆写、印刷し、糸、糊等で装丁・製本したもの(銭存訓(1990)p.208)。狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している。 内容(コンテンツ)的にはほぼ従来の書籍のようなものでも、紙などに文字を書いたり印刷するのではなく、電磁的または光学的に記録・再生されるものやネットワークで流通させるものは、電子書籍という。.

新しい!!: 891年と本 · 続きを見る »

昭宗 (唐)

昭宗(しょうそう)は、唐朝の第22代皇帝。懿宗の七男で、僖宗の弟に当たる。.

新しい!!: 891年と昭宗 (唐) · 続きを見る »

是忠親王

是忠親王(これただしんのう)は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の第一皇子。光孝源氏及び光孝平氏の祖。.

新しい!!: 891年と是忠親王 · 続きを見る »

是貞親王

是貞親王(これさだしんのう、生年不詳 - 延喜3年7月25日(903年8月20日))は、平安時代前期の皇族。光孝天皇の第二皇子。母は班子女王。子に源直幹がいる。官位は三品・大宰帥。.

新しい!!: 891年と是貞親王 · 続きを見る »

浄蔵

浄蔵(じょうぞう、寛平3年(891年)- 康保元年11月21日(964年12月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は三善清行。兄弟に日蔵がいる。 宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ。扶桑略記によれば、909年(延喜9年)怨霊となり藤原時平を祟っているという菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化現した道真が現れ祈祷を制止したので調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという。 935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた。 Category:平安時代の僧 Category:天台宗の僧 Category:三善氏 Category:891年生 Category:964年没.

新しい!!: 891年と浄蔵 · 続きを見る »

斉中親王

斉中/齊中親王(ときなかしんのう、仁和元年(885年) - 寛平3年10月13日(891年11月18日))は平安時代初期から中期にかけての皇族。宇多天皇の第二皇子であり、母は参議・橘広相の娘・義子。 仁和5年(889年)の元日に5歳で元服。同年12月(890年1月)に維城王(後の敦仁親王こと醍醐天皇)らとともに親王宣下を受ける。しかし、2年後の寛平3年(891年)10月13日に7歳で夭折。薨奏は行われなかった。.

新しい!!: 891年と斉中親王 · 続きを見る »

日本の政権一覧

日本の政権一覧(にほんのせいけんいちらん)は、日本の歴代政権の一覧である。日本の内閣については、日本国歴代内閣を参照。 せいけんいちらん せいけんいちらん.

新しい!!: 891年と日本の政権一覧 · 続きを見る »

摂関政治

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。.

新しい!!: 891年と摂関政治 · 続きを見る »

敢國神社

敢國神社(あえくにじんじゃ)は、三重県伊賀市一之宮にある神社。式内社(大社)、伊賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。.

新しい!!: 891年と敢國神社 · 続きを見る »

敦慶親王

敦慶親王(あつよししんのう)は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第四皇子。光玉宮と号した。.

新しい!!: 891年と敦慶親王 · 続きを見る »

10月20日

10月20日(じゅうがつはつか、じゅうがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から293日目(閏年では294日目)にあたり、年末まであと72日ある。.

新しい!!: 891年と10月20日 · 続きを見る »

10月6日

10月6日(じゅうがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から279日目(閏年では280日目)にあたり、年末まであと86日ある。.

新しい!!: 891年と10月6日 · 続きを見る »

110

110(百十、ひゃくじゅう)は自然数、また整数において、109の次で111の前の数である。.

新しい!!: 891年と110 · 続きを見る »

111

111(百十一、ひゃくじゅういち)は自然数、また整数において、110の次で112の前の数である。.

新しい!!: 891年と111 · 続きを見る »

12月4日

12月4日(じゅうにがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。.

新しい!!: 891年と12月4日 · 続きを見る »

1月13日 (旧暦)

旧暦1月13日は旧暦1月の13日目である。六曜は先勝である。.

新しい!!: 891年と1月13日 (旧暦) · 続きを見る »

2月25日

2月25日(にがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から56日目にあたり、年末まであと309日(閏年では310日)ある。.

新しい!!: 891年と2月25日 · 続きを見る »

804年

記載なし。

新しい!!: 891年と804年 · 続きを見る »

814年

記載なし。

新しい!!: 891年と814年 · 続きを見る »

836年

記載なし。

新しい!!: 891年と836年 · 続きを見る »

915年

記載なし。

新しい!!: 891年と915年 · 続きを見る »

948年

記載なし。

新しい!!: 891年と948年 · 続きを見る »

964年

記載なし。

新しい!!: 891年と964年 · 続きを見る »

9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

新しい!!: 891年と9世紀 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »