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1045年

索引 1045年

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121 関係: 南海諸島大江町天皇の一覧天授礼法延祚天感聖武娟子内親王宋 (王朝)寒河江荘寛徳尾張国平安時代平常兼年の一覧乙酉徳聖徳聖 (蒙カン)後冷泉天皇後朱雀天皇保安 (大理)ナースィル・ホスローペトルス・ダミアニノルマン人による南イタリア征服マーガレット・オブ・スコットランドマクベス (スコットランド王)マグヌス (ザクセン公)ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)ライン宮中伯ブレーメンのアダムベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)アルメニアの歴史アルメニア人のディアスポラエドワード懺悔王エイナル・サンバルスケルヴィルキリキア・アルメニア王国クレーグリンゲングルジアの歴史グレゴリウス6世 (ローマ教皇)ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)シュヴァーベン大公シュヴァーベン公国シルウェステル3世 (ローマ教皇)ジョージア (国)スコットランド王国セルジューク・東ローマ戦争備中国備前国准后八十島祭八省卿の一覧...元号一覧 (中国)竹駒神社聖ソフィア聖堂菅原孝標女越谷市趙幼悟黄庭堅薬照寺藤原定頼藤原実綱藤原実経藤原実成藤原師成藤原彰子藤原忠家藤原信長藤原範永藤原経季藤原経輔藤原為任藤原隆佐藤原道雅藤原頼宗藤原頼通藤原資仲藤原資業藤原資房藤原能信藤原教通重熙蕭普達長寛勘文良子内親王耶律信先東三条殿欧陽脩正子内親王 (後朱雀天皇皇女)段思廉河内国司源基平源俊房源義光源経長源資綱源資通源重資明尊慶暦慈恩寺 (寒河江市)1009年1093年1099年10月20日 (旧暦)1105年1114年1126年1127年11世紀11月16日11月25日11月25日 (旧暦)12月14日1461471481月18日 (旧暦)2月7日7月10日975年995年998年 インデックスを展開 (71 もっと) »

南海諸島

南海諸島 南海諸島の衛星写真 南海諸島(なんかいしょとう、、ピンイン:Nánhǎi Zhūdǎo)は、南シナ海の南沙諸島(スプラトリー諸島)、西沙諸島(パラセル諸島)、東沙諸島(プラタス諸島)、中沙諸島(マクルスフィールド諸島)に対して、主に中華人民共和国(中国)で用いられる総称である。「南海」は中国語で南シナ海を意味する。中国は南海諸島全体に対して主権を主張している。.

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大江町

大江町(おおえまち)は、山形県の中央部にある人口約8千人の町。1959年(昭和35年)、左沢町と漆川村の合併により成立。 元禄年間より大正初期にかけ、最上川舟運の中継地として大いに栄えた。.

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天皇の一覧

天皇の一覧(てんのうのいちらん)は、日本の歴代天皇およびその他の天皇の一覧である。.

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天授礼法延祚

天授礼法延祚(てんじゅれいほうえんそ)は、西夏の景宗の治世で用いられた元号。1038年 - 1048年。.

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天感聖武

天感聖武(てんかんせいぶ、Thiên Cảm Thánh Vũ, ティエンカムタインヴー)は、ベトナム、李朝の太宗李仏瑪の治世で使われた5番目の年号。1044年 - 1049年。.

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娟子内親王

娟子内親王(けんしないしんのう、長元5年9月13日(1032年10月19日) - 康和5年3月12日(1103年4月20日))は、第67代後朱雀天皇第2皇女。母は皇后・禎子内親王。賀茂斎院、のち源俊房の正室。同母姉に良子内親王(伊勢斎宮)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。 父・後朱雀天皇の即位により、姉・良子内親王の伊勢斎宮卜定と同日の長元9年(1036年)11月28日、賀茂斎院に卜定され、翌長暦元年(1037年)4月13日初斎院入りする。この人事は姪の禎子内親王と不仲だった藤原頼通が禎子内親王をくじくために娘を遠方に引き離す戦略だったと説明されることが多い。だが、去ること長元4年(1031年)、当時の伊勢斎宮であった具平親王第3王女・嫥子女王が酒乱に乗じて「ご託宣」と称し「斎宮の冷遇は天皇の失政」として非難した事件があった。このため、伊勢・賀茂の祭祀を天皇家が怠っていないことを表明するため、天皇実娘を斎宮、斎院に任命したとする説が近年有力である。 寛徳2年(1045年)1月18日、後朱雀上皇の崩御により退下。その後は禎子内親王の下で生活していたが、天喜5年(1057年)、3歳年下の源俊房と密通し、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまった。俊房は伯母・隆姫女王が藤原頼通の正妻、母は頼通の異母妹尊子という「摂関家よりの人物」であり、これを知った弟の東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)は怒り狂ったが、俊房が摂関家の縁者であることもあり、除位などの具体的な処罰までには至らなかった。しかしこの事件で皇女らしからぬ軽率な行動をとった娟子内親王は、その後狂斎院と呼ばれるようになる。 俊房との間には子女に恵まれなかったが、その後は俊房正室として厚く遇された。しかし、甥の白河天皇が即位すると、「後三条天皇の遺言」を盾に白河天皇の異母弟・実仁親王、輔仁親王を東宮に推す夫・俊房と、自分の子孫を天皇に据えたい白河天皇は次第に対立するようになる。 康和5年(1103年)、白河天皇の息子・堀河天皇に皇子(後の鳥羽天皇)が生まれる。この皇子が生後間もなく東宮とされ、俊房は失脚、その後は失意の生涯を送った。娟子内親王は鳥羽天皇と入れ替わるようにこの年薨去、夫の零落を見ることはなかった。 Category:日本の内親王 category:平安時代の女性皇族 Category:斎院 Category:平安時代の公卿の妻室 Category:1032年生 Category:1103年没.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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寒河江荘

寒河江荘(さがえのしょう)は、出羽国村山郡(現在の山形県西村山郡および寒河江市)にあった摂関家の荘園。.

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寛徳

寛徳(かんとく)は、日本の元号の一つ。長久の後、永承の前。1044年から1045年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇、後冷泉天皇。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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平常兼

平 常兼(たいら の つねかね)は平安時代の武士。千葉氏の初代当主。 下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされ、これが千葉氏の始まりである。 後三年の役に父・常長と共に従事して功を立てたとされる。妻で常重の母である鳥海忠衡の娘は、この戦いの過程で結婚した可能性が高い(鳥海忠衡の出自は不明だが、姓名からすると海道平氏の者だと考えられる。清原成衡の実父とされる平忠衡のことか)。 千葉の姓は三男の常重が継承するが、常重は常兼の弟である上総介常晴の養子となって房総平氏の惣領の座も得る。これが一族内での抗争の原因となる。.

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年の一覧

年の一覧(一覧) !! ! style.

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乙酉

乙酉(きのととり、いつゆう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの22番目で、前は甲申、次は丙戌である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の酉は陰の金で、相剋(金剋木)である。.

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徳聖

徳聖(とくせい)は、中国宋代の私年号。.

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徳聖 (蒙カン)

徳聖(とくせい)は宋代に唐を号し自立した蒙赶が建てた私年号。1038年 - 1045年.

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後冷泉天皇

後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、万寿2年8月3日(1025年8月28日) - 治暦4年4月19日(1068年5月22日))は、日本の第70代天皇(在位:1045年 - 1068年)。後朱雀天皇の第一皇子。母は藤原道長女藤原嬉子(贈皇太后)。諱を親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。.

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後朱雀天皇

後朱雀天皇(ごすざくてんのう、寛弘6年11月25日(1009年12月14日) - 寛徳2年1月18日(1045年2月7日))は、平安時代中期の第69代天皇(在位:長元9年4月17日(1036年5月15日) - 寛徳2年1月16日(1045年2月5日))。諱は敦良(あつなが)。 一条天皇の第三皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母兄に後一条天皇。.

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保安 (大理)

保安(ほあん)は、中国の大理国の段思廉の時代に使用された元号。1045年 - 1052年。.

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ナースィル・ホスロー

ナースィル・ホスロー(、1003年-1061年)は、11世紀のペルシアの詩人・イスラム神学者。 バルフ近郊の地主の家に生まれ、初めはセルジューク朝に仕えていた。1045年に夢のお告げによって、職を辞してメッカ巡礼に赴き、ニーシャープール・タブリーズ・アレッポ・ベイルート・エルサレム・カイロ・アスワン・マッカ(メッカ)・バスラ・エスファハーンなどの諸都市を巡って帰国し、後に旅行記『サファル・ナーメ(Safarnama、de)』を著した。この書は各地の都市構造・政治的支配の実態・文化人ネットワークの姿を様々な角度から描き、できるだけの正確さ(見聞記事と伝聞記事の区別の明記など)に努めており、11世紀のイスラム世界の姿を知る上で貴重な文献である。 さて、その巡礼中にエジプトにおいて彼はイスマーイール派の教えを受けて感銘し、帰国後にその教えを広めようとしたがセルジューク朝から異端として弾圧され、追われる身となる。晩年はバダフシャーンの山中にて余生を送った。 著書の多くは散逸してしまったが、現存するものでも詩集『ディーワーン(Diwan)』は当時のイスラム思想が強く反映された作品であり、ペルシア文学史においても貴重なものである。また、『宗教の書(wajh-i-din)』はイスマーイール派の教えを分かりやすく説いた書として知られている。.

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ペトルス・ダミアニ

ペトルス・ダミアニ ペトルス・ダミアニ(Petrus Damianus、Pier Damiani、Pietro Damiani、1007年 - 1072年2月21日)はイタリアの神学者。ベネディクト派修道会士で、11世紀にグレゴリウス7世と共に教会改革を推進した。枢機卿。カトリック教会の聖人であり、1823年には教会博士に宣言された。謙遜してペトルス・ペッカトレ("Petrus Peccator")と名乗った。ダンテは『神曲』の中で聖フランチェスコの先達として高く評価している。.

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ノルマン人による南イタリア征服

ノルマン人による南イタリア征服は、11世紀から12世紀にかけて、それまで東ローマ帝国や帝国の宗主権を認めたランゴバルド諸侯国などさまざまな勢力が割拠していた南イタリアがノルマン人の活動によって統一されていったことを指す。 その過程はノルマン人傭兵が南イタリアで働き始めた11世紀前半から、12世紀前半に至る百年近い期間に及び、そこには多くの戦闘と、おのおの独立した複数のノルマン人勢力による幾多の領地獲得活動が含まれていた。11世紀にノルマン人有力君主たちがそれぞれに獲得した領地は、1127年のアプーリア公位継承を皮切りに次々とシチリア伯ルッジェーロ2世の掌握するところとなり、シチリア王位に就いたルッジェーロ2世によってイタリア半島南部の平定が完了したのは1140年のことであった。その領域はシチリア島のみならず、ベネヴェント(一時的に占領したことが二度あったが、11世紀半ばには教皇領となった)を除いたイタリア半島の3分の1に及ぶ南部全土、マルタ諸島や北アフリカの一部にまで及んでいた。 この時期に南イタリアで活動したノルマン人たちは元はノルマンディー公国の住民であり、新天地を求めて故国を離れ、山賊や傭兵となった者たちであった。かれらノルマン人移住民は、メッツォジョールノの地でランゴバルド系や東ローマ系といった様々な政治勢力の君主や有力貴族に仕える傭兵となり、同地に定住する機会があることをすぐに故郷に報せた。これらノルマン人戦士集団は各地で同郷の戦士を集めて徒党を組み、ついには自分たちの封地や国家を建国するに至った。ノルマン人たちはメッツォジョールノに到着して50年以内に、それぞれに一団となって頭角を現し、事実上独立した地位に成り上がることに成功したというわけなのである。 1066年の一つの決定的な戦いから数年後に達成されたノルマン人によるイングランド征服とは異なり、ノルマン人による南イタリア征服は何十年間にも及ぶ年月と多くの戦闘の産物であり、決定的な出来事をほとんど欠いていた。多くの土地がそれぞれ別個に獲得ないし征服され、これらが後年に一つの国家としてまとまったのである。イングランド征服と比較すると、南イタリア征服のほうは全体として見れば非計画的かつ非組織的な活動の積み重ねであり、文字通りの征服とは呼べない部分もあったものの、最終的には同じように全面的な征服として完了した。.

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マーガレット・オブ・スコットランド

マーガレット・オブ・スコットランド(Margaret of Scotland, 1045年頃 - 1093年11月16日)は、スコットランド王マルカム3世の2番目の王妃。イングランドのサクソン人王エドマンド2世の息子エドワード・アシリングの娘。エドガー・アシリングの姉。マーガレット・オブ・ウェセックス(Margaret of Wessex)とも。カトリック教会と聖公会で聖人とされる。.

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マクベス (スコットランド王)

マクベタッド・マク・フィンレック(Mac Bethad mac Findlaich, 現代ゲール語:MacBheatha mac Fhionnlaigh, 1005年 - 1057年8月15日)は、スコットランド王(在位: 1040年 - 1057年)。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の題名にもなったマクベス(Macbeth)の通称で世界的に知られる。マルカム2世の次女ドウナダ(Donada)とマリ領主フィンレック(Findlaich)の間に生まれた。異父兄にオークニー伯トールフィン(ソーフィン)がいる。マクベスの名は、ゲール語で「生命の子(マク・ベーサ)」の意味である。.

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マグヌス (ザクセン公)

マグヌス(Magnus, 1045年頃 - 1106年8月23日)は、ビルング家最後のザクセン公(在位:1072年 - 1106年)。ザクセン公オルドルフとノルウェー王オーラヴ2世の娘ヴルフヒルトの子。 1070年、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムが神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世から皇帝暗殺を計画したとしてバイエルン公位を取り上げられた。マグヌスはオットーと同盟、ハインリヒ4世と戦ったが敗れてハルツ城に投獄された。1072年に解放されたが、ザクセン貴族達はハインリヒ4世の措置に怒り反乱を起こした(ザクセン戦争)。1074年で一旦和睦したが、翌1075年のホムブルクの戦いで敗れて再度投獄、ハインリヒ4世に降伏した。 しかし、ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世と叙任権闘争で争うと、マグヌスは対立王ルドルフと共にハインリヒ4世に反抗した。その後和解したが、ブレーメン大司教と紛争を引き起こした。 1106年に死去。息子が無かったため、ビルング家は断絶した。同年にハインリヒ4世も亡くなり、後を継いだハインリヒ5世はザクセン貴族ロタール・フォン・ズップリンブルクをザクセン公に任命、ロタールは後にハインリヒ5世亡き後の皇帝に即位した(ロタール3世)。ロタール3世からザクセンを相続したハインリヒ傲岸公、傲岸公からザクセンを奪ったアルブレヒト熊公はマグヌスの外孫である。.

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ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ3世(Heinrich III., 1017年10月28日 - 1056年10月5日)は中世ドイツの王(在位:1028年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1039年 - 1106年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1046年 - 1056年)。ザーリアー朝第2代のローマ皇帝で初代コンラート2世の子。西ヨーロッパのローマ皇帝としては最盛期を現出した。統治は父帝が死去した1039年からで、皇帝戴冠までの7年間は「ローマ王」を名乗った。以後、皇帝戴冠前のドイツ君主の称号として「ローマ王」が定着する。黒王とも呼ばれる。皇帝としてはハインリヒ「2世」であるが、皇帝でなかった東フランク王ハインリヒ1世から数えて「3世」とするのが一般的である。.

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ライン宮中伯

ライン宮中伯(ラインきゅうちゅうはく、独:Pfalzgraf bei Rhein)は、神聖ローマ帝国の諸侯。ドイツ西部のライン地方を支配した宮中伯。また、選帝侯の1人として国王選出権その他の特権を有した。ライン帝領伯とも。また、ライン・プファルツ(ファルツ)伯とも訳され、単にプファルツ(ファルツ)伯(Pfalzgraf)とも呼ばれる(後述)。選帝侯である場合には、プファルツ(ファルツ)選帝侯(Kurfürst von der Pfalz)とも呼ばれる。.

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ブレーメンのアダム

ブレーメンのアダム (独: Adam von Bremen, 羅: Adam Bremensis ? - ? 8月12日 ) は中世ドイツでもっとも重要な年代記編者の一人である。 彼は11世紀後半に生まれ執筆活動していた。最も有名な著書は『ハンブルク教会史』("Gesta Hammaburgensis ecclesiae pontificum")である。.

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ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)

ベネディクトゥス9世(Benedictus IX、1012年頃 - 1055年ないし1065年ないし1085年)はローマ教皇(在位:1032年10月 - 1044年9月、1045年4月 - 5月、1047年11月 - 1048年7月)。退位と復位を繰り返し前後3期にわたって在位した個性の強い教皇である。 貴族トゥスクルム伯アルベリクス3世の子息としてローマに生まれる。名はテオフィラクトゥス(Theophylactus)。ベネディクトゥス8世とヨハネス19世の甥にあたる。1032年に父アルベリクス3世の支援により教皇として戴冠する。このときベネディクトゥスは18~20歳という若さであり、資料によっては11~12歳だったともいう。 伝承によると、ベネディクトゥスは放蕩に明け暮れるでたらめな生活を送ったという。ペトルス・ダミアニはその著作『ゴモラの書』においてベネディクトゥス9世を「聖職者に扮した地獄からの悪魔」に喩え、教皇庁の腐敗やベネディクトゥスの同性愛行為を批判した。またピアチェンツァ司教ベンノーもベネディクトゥスの犯した「嫌悪すべき姦淫と殺人」を糾弾した。後年、教皇ウィクトル3世は「ベネディクトゥスの強姦、殺人、そして口に出せないような所業」について調査を行わせており、その結論として「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」と述べている。 ベネディクトゥス9世は1036年にローマを追放されたものの、この時は神聖ローマ皇帝コンラート2世の助力により短期間でローマに帰還した。1044年9月に再びローマを追放されると、替わってシルウェステル3世が教皇に選出されていたが、ベネディクトゥスは翌1045年4月にはローマに入城し、シルウェステル3世を廃位・破門の上追放して自ら教皇に復位した。これが2度目の在位である。しかし直後の5月には、おそらく結婚をするために、教皇位を代父にあたる司祭ヨハンネス・グラティアヌスに売却してしまった。その売却益は金650キログラム以上に相当するものだったという。グラティアヌスは教皇グレゴリウス6世として戴冠するが、するとベネディクトゥスは教皇位を売却したことを悔やむようになり、すぐにグレゴリウス6世を退位させようとした。さらにこの機に乗じてシルウェステル3世もまた自らの教皇としての正当性を掲げて表に出てきたため、事態は混乱の極みに至った。 曲がりなりにもそれぞれに主張するだけの正当性がある3人の教皇が事実上鼎立するという異常事態を受けて、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世がその調停に乗り出すこととなり、1046年12月にストリで教会会議を主催した。会議ではハインリヒ3世がベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職を剥奪、グレゴリウス6世には退位を勧告した上で、新たにドイツ人司教スイドガーを教皇クレメンス2世として即位させ、心機一転の出直しを図った。皇帝に従ってグレゴリウス6世は退位し、聖職を剥奪されたシルウェステル3世はのちに赦されて故郷の司教として余生を送ったが、一人ベネディクトゥス9世は転んでもただでは起きなかった。クレメンス2世の戴冠を真っ向から否定し、クレメンス2世が翌1047年10月に死去すると、11月にはラテラン宮殿を占拠、自身の教皇復位を再び宣言した。これ以後、ハインリヒ3世によって翌1048年7月に廃位されるまでの8か月間が3度目の在位である。ハインリヒはベネディクトゥスを追放すると、新たにダマスス2世を教皇として戴冠させた。ベネディクトゥスは翌1049年にシモニアの罪で出廷するよう召喚されるが、これを拒否したことから結局破門されることとなった。 ベネディクトゥスはこの後にようやく教皇位への未練から解き放たれ、グロッタフェッラータの修道院で静かな余生を送って1065年頃に死去したといい、また史料によっては1085年に死去したともある。また他の研究によると、ベネディクトゥスはその後も今一度の復位を試みたものの果たせず、1055年12月か1056年の1月に死去したという。 Category:教皇 Category:カトリック教会に破門された人物 Category:1012年生 Category:11世紀没 Category:ローマ出身の人物 Category:トゥスクルム家.

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アルメニアの歴史

本項では、アルメニアの歴史について述べる。 メソポタミアの一部であるアルメニア高原は、世界最古の文明発祥地の一つとして知られ、そこからは前期旧石器時代の遺物も出土している。紀元前9世紀頃には、この地にウラルトゥが建設されていたが、この文明が外来の印欧語族の勢力と混ざり合ったことにより、現代に繋がるアルメニア人が誕生したと考えられている。 紀元前550年頃になると、アルメニア一帯はアケメネス朝の支配を受けるようになったが、その地方総督であったは次第に独立君主として振舞うようになっていった。やがてアケメネス朝は倒れ、続くセレウコス朝の支配も弱まると、地方豪族の反乱によって紀元前188年に、最初のアルメニア人による独立国家「アルメニア王国」が誕生した。ティグラネス2世の時代には黒海からカスピ海までを統べる大国となったアルメニアであったが、紀元前66年に共和政ローマに敗れ、衰退した。その後のアルメニアは主にペルシア系のによって統治されることとなったが、紀元後301年にはによって世界最初のキリスト教の国教化も成し遂げられている。 4世紀末になるとアルメニアはサーサーン朝の支配下に入ったが、アルメニア文字やアルメニア教会など、アルメニア人独自の文化が生み出されたのも、またこの時代であった。続く2世紀の間、アルメニアは東ローマ帝国とムスリムの双方から支配を受けた。東ローマの側ではマケドニア王朝の創始者となったバシレイオス1世のように、皇帝にまで登り詰める者も現われた。ムスリムのアッバース朝の側でも地方君主による反乱が発生し、885年にはバグラトゥニ朝アルメニアとして、アルメニア人たちは独立を取り戻した。だが、バグラトゥニ朝は東ローマからの激しい干渉を受け、1045年にはその属領へと転落した。この東ローマ支配もほどなくセルジューク朝による支配へ替わり、アルメニア人のなかにはこれを嫌ってキリキアへと移住する者もいた。やがてキリキアに定着して力をつけたアルメニア人は、1198年にキリキア・アルメニア王国を建設し、この王国は交易国家として広く発展した。 このキリキア王国も1375年には滅び、アルメニア高地側のアルメニア人も、セルジューク朝やイルハン朝など様々な統治者の手を、数世紀の間渡り歩いた。近世になると、広く散らばって住むアルメニア人のうち東側の者はサファーヴィー朝、次いでロシア帝国の版図に入り、西側の者はオスマン帝国の住人となった。どちらの地域に住むアルメニア人も、盛んな商活動や芸術への貢献などで、その社会的地位をある程度高めていった。19世紀末になると彼らにも民族意識が生まれ、ロシアとオスマンのアルメニア人を統合しようとする試みも現われ始めた。 しかし、この新たな民族意識は、バルカン戦争や第一次世界大戦最中のオスマンでは警戒を招くこととなり、1890年代と1915年のアルメニア人虐殺の原因にもなった。大戦中の1918年には旧ロシア領を中心としたアルメニア共和国が誕生したが、これはアルメニア人が自ら望んだものではなく、度重なる領土紛争や財政破綻など、その実情も貧弱なものであった。2年後にはアルメニアは、西からのトルコ軍と東からの赤軍に追い詰められ、苦渋の選択として共産化の道を選んだ。ソビエト連邦に加盟したアルメニア・ソビエト社会主義共和国は大きく工業化したが、同時に政治的な弾圧は絶えず、また祖国の共産化は在外アルメニア人の間にも軋轢を生んだ。 1991年には、ソ連崩壊によってアルメニアは独立したが、同時にアゼルバイジャンとの間にナゴルノ・カラバフ戦争が本格化した。停戦後もアゼルバイジャンとトルコからの経済制裁は続いており、ロシアやグルジアとの関係も安定しているとは言えない状況にある。.

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アルメニア人のディアスポラ

アルメニア人のディアスポラは、欧米ではユダヤ人と並ぶディアスポラの代表格として認知されている吉村 (2010) 75頁。2007年の調べでは、全世界には758万人のアルメニア人が存在するとされるが、アルメニア本国に暮らすものは297万人と、全体の4割程度である。 アルメニア語では、こうした離散状態をスピュルク(sp'yurk' / 元来は花が散る様子を表す言葉。伝統的正書法 (en) では «սփիւռք»、改革正書法 (en) では «սփյուռք» と綴られる)と呼ぶ吉村 (2010) 98頁。また、古くにはアルメニア高原の外に形成されたアルメニア人コミュニティはガグト «գաղութ» と呼ばれたが、これはを指すヘブライ語の「ガルート」"גלות" をシリア語から借用したものである。 アルメニア人のディアスポラは、盛んな商活動や大量虐殺の歴史などで、ユダヤ人のディアスポラと共通点を持っている。しかし、アルメニア人のヨーロッパへの進出が近代まで盛んでなく、またその信仰もキリスト教であることから、アルメニア人はユダヤ人よりも好意的に欧米社会へ受け入れられている。.

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エドワード懺悔王

ドワード懺悔王(エドワードざんげおう、Edward the Confessor、1004年頃 - 1066年1月5日)は、イングランドのサクソン系の王(在位:1042年6月8日 - 1066年1月4日)。エゼルレッド2世と2度目の妃エマの子。エドマンド2世の異母弟。聖公会・カトリック教会で聖人。白子(アルビノ)で柔弱な性格であったといわれる。 「エドワード懺悔王」は Edward the Confessor の定訳だが、この「Confessor」とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号のひとつで、日本のカトリック教会ではこれを「証聖者」と訳している。そこから、近年ではこの王のことをエドワード証聖王(エドワードしょうせいおう)と記した書籍も多い。.

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エイナル・サンバルスケルヴィル

Battle of Svolderにおいて、エイナル・サンバルスケルヴィルは王の弓を用いて射ようとしたが、弓が非常に弱いことに気付く。 エイナル・エインドリザソン・サンバルスケルヴィル(英:Einar Eindridesson Thambarskelfir、古ノルド語:Einarr Þambarskelfir、現代ノルウェー語:Einar Tambarskjelve。エイナル・タンバースケルヴェ 『北欧神話と伝説』(山室静訳、新潮社、1971年。ISBN 978-4-10-502501-4)p.

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キリキア・アルメニア王国

リキア・アルメニア王国(キリキア・アルメニアおうこく、アルメニア語:Կիլիկիայի Հայկական Թագավորություն kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年あるいは1198年 - 1375年)は、現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニア人により建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。また、紀元前にカフカス地方に存在したアルメニア王国(大アルメニア王国)と区別して小アルメニア王国と呼ぶこともある。ただし、単に「小アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国がローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア属州のことを指すこともあるため、注意が必要である。 建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯 (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。 建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。 なお、以下の項目は全面的に英語版ウィキペディアの当該項目、キリキア・アルメニア王国君主一覧およびキプロス王国からの訳出によった。.

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クレーグリンゲン

レーグリンゲン (Creglingen) はドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州マイン=タウバー郡に属す市。.

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グルジアの歴史

ヴェティツホヴェリ大聖堂(ムツヘタ=ムティアネティ州・ムツヘタ) グルジアの歴史(History of Georgia)では、カフカス山脈(コーカサス山脈)南側のザカフカス(南コーカサス)地方に所在するグルジア/ジョージア(グルジア語:საქართველო(サカルトヴェロ))の歴史について解説する「グルジア」も「ジョージア」も英語表記は"Georgia"で全く同じである。2015年(平成27年)4月、日本政府は日本国内での国名表記を「グルジア」から「ジョージア」に変更した。。.

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グレゴリウス6世 (ローマ教皇)

グレゴリウス6世 グレゴリウス6世(Gregorius VI、? - 1048年初頭)はローマ教皇(在位1045年5月1日 - 1046年12月20日)。本名はヨハネス・グラティアヌス。 ラテン門の聖ヨハネ教会の首席司祭を務め、高潔な人物として高い評価を得ていた人物であった。また教皇ベネディクトゥス9世の代父でもある。 ベネディクトゥス9世が教皇位を退こうと考えて代父グラティアヌスに相談(結婚が目的だったとされる)。そしてグラティアヌスに教皇位を譲り、返礼としてベネディクトゥス9世は多額の金を贈与した。そうしてグラティアヌスがグレゴリウス6世として1045年5月1日に教皇に就任。 放蕩だったベネディクトゥス9世に代わってグレゴリウス6世が教皇に就いたことをペトルス・ダミアニなどは歓迎したものの、教会に安泰が訪れたわけではなかった。というのも、かつてベネディクトゥス9世をローマから追放し、教皇となり、後にベネディクトゥス9世によってローマから追放された教皇シルウェステル3世(サビーナ司教でもあった)が自らの教皇位の正当性を主張したからであった。しかもここにきてベネディクトゥス9世が教皇位を手放したことを後悔し、再び教皇座に就こうと画策したことから、事態がさらに複雑化することとなる。 グレゴリウス6世は助祭ヒルデブランド(後のグレゴリウス7世)の助言を借りつつ、ベネディクトゥス9世には手紙や教会会議での呼びかけで以て、シルウェステル3世には武力で以て事態を収めようとした。しかしますます混乱の度を深めるだけであった。 この宗教界の混乱を収拾するためにローマ王ハインリヒ3世が1046年秋にアルプスを越えて進軍。グレゴリウス6世はイタリアに入ったハインリヒ3世と面会し、王の要請に基づいてストリにて教会会議を招集。1046年12月20日に会議が開催される。会議ではベネディクトゥス9世とシルウェステル3世の聖職剥奪とグレゴリウス6世への辞職勧告、およびシルウェステル3世の修道院送致が可決された。会議でグレゴリウス6世は「私の罪状がシモニアというのであれば、私の名の下に開催されたこの宗教会議もシモニア的である」と述べたものの結局は辞職をした。後任にバンベルク司教スイドガーがクレメンス2世として教皇に即位した。 グレゴリウス6世は皇帝によって1047年5月にケルンへ連れられ、1048年初頭に当地で死去した。グレゴリウス6世に付き従ったヒルデブランドはグレゴリウス6世が死ぬまでケルンに滞在、この間にクリュニー会の思想に触れたと推測されるが、その後1049年1月にローマに戻った。 くれこりうす06 くれこりうす06.

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ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)

ットフリート3世(Gottfried III., 生年未詳 - 1069年12月)は、上ロートリンゲン公(1044年 - 1047年)、トスカーナ辺境伯(1054年 - 1069年)、下ロートリンゲン公(1065年 - 1069年)。髭公(Bearded)といわれる。アルデンヌ家のロートリンゲン公ゴツェロ1世の長男。.

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ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)

ン戦争(ザクセンせんそう、Sachsenkriege、Saxon Wars)は、1073年にはじまった神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン公国の貴族達の反乱。.

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シュヴァーベン大公

ュヴァーベン大公( -たいこう)は、神聖ローマ帝国の部族大公。ドイツ南西部からスイスにかけてのシュヴァーベン公国を支配した。領域についてはシュヴァーベンを参照。.

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シュヴァーベン公国

ュヴァーベン公国は、中世ドイツにおける部族大公国の一つであり、それゆえに最も有力な諸侯国の一つであった。 シュヴァーベンの名はゲルマン民族の一派であるスエビ族に由来し、その名は、中世盛期の部族大公領が拡張している時代にはしばしばに置き換えて使われることもあった。ライン川とドナウ川の隅にいたスエビ族に他の部族たちが加わることによって、11世紀頃までには、アラマンニが転訛してアレマン人と呼ばれるようになったが、この頃にシュヴァーベンの語形が普及し始めた。 917年にによって公国の誕生が宣言された。ブルカルト2世は東フランク王コンラート1世若王と同盟を結んで、915年のヴァーフルヴィーブスの戦いにてアラマンニの支配を巡って争っていた敵対者を破った。 シュヴァーベンを支配した最も有名な一族がホーエンシュタウフェン家であり、同公国を短い中断期を挟んで1079年から1268年にかけて支配した。ホーエンシュタウフェン時代を通じてほとんどの間、同家はローマ王皇帝を兼ねていた。 公国は1268年に最後の公であるコンラディンが処刑されるまで存続していた。ローマ王ルドルフ1世は1273年にシュヴァーベン公の称号を復活せんとして末子のルドルフ2世に授け、そのルドルフ2世は息子のヨーハン・パリツィーダに継承させた。1312年か1313年にヨーハンが後継者を残すことなく没したことで"復活した"称号は終焉を迎えることとなった。 バーデン辺境伯領自体が12世紀にシュヴァーベン公国から分離している。.

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シルウェステル3世 (ローマ教皇)

シルウェステル3世(Silvester III、生年不詳 - 1063年10月?)はローマ教皇(在位:1045年1月20日 - 1045年3月10日?)。ローマ生まれ。実名はクレッシェンツィ・オッタヴィアーニのヨハネス Ioannes Crescenzi Ottaviani。 先代の教皇ベネディクトゥス9世がローマを放逐された1044年、激しくそして長期の内輪揉めを経て、1045年1月にサビーナ司教であったヨハネスが教皇に選出されシルウェステル3世を名乗ることとなる。シルウェステル3世は賄賂によって教皇に選ばれたと後世非難されたが、その証拠は確認されていない。 ヨハネスがシルウェステル3世に就任して間もなく、ベネディクトゥス9世はシルウェステル3世の破門を発布し、3カ月以内にローマに帰還。そしてローマからヨハネスを追放した。そのヨハネスはサビーナに戻って司教職に再任した。 およそ2年後の1046年12月に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世によって開催されたストリ教会会議では、ヨハネスの司教職と司祭職の剥奪、および修道院送致が決定された。しかし、この処罰が延期されたことは明らかとなっている。というのもヨハネスがサビーナの司教であったという1062年までの記録が残っているからである。ヨハネスの後任の司教は1063年10月に就任したとの史料もあり、そこではヨハネスの死去に伴う後任であると記載されている。 シルウェステル3世を対立教皇と見做す意見も多く存在するが、バチカンの歴代教皇の一覧には正式な教皇として名を連ねており、在位は1046年とされているという。 Category:教皇 Category:ローマ出身の人物 Category:クレッシェンティウス家.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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スコットランド王国

ットランド王国(スコットランドおうこく、ゲール語:Rìoghachd na h-Alba, スコットランド語:Kinrick o Scotland, 英語:Kingdom of Scotland)は、グレートブリテン島の北部、現在のイギリスのスコットランドに存在した王国。843年にケネス1世により成立したとされ、1707年のイングランド王国との合同で消滅した。 ステュアート朝のジェームズ1世が1603年にイングランド王位を兼ねて以来、南部のイングランドとは同君連合の関係にあったが、アン女王時代の1707年の合同法によりイングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となった。.

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セルジューク・東ローマ戦争

ルジューク・東ローマ戦争(セルジューク・ひがしローマせんそう)は、セルジューク朝、および後継国家のルーム・セルジューク朝と、東ローマ帝国、およびニカイア帝国との間に起こった戦争である。 マラズギルトの戦いでの東ローマ帝国の大敗後、アナトリアへのテュルク民族の流入が続き、アナトリアのテュルク化が進行した。コムネノス朝とルーム・セルジュークは一進一退の攻防を繰り広げたが、オスマン帝国によってルーム・セルジュークが滅ぼされ、この戦争は終わった。.

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備中国

備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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備前国

備前国(びぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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准后

准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.

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八十島祭

八十島祭(やそしままつり/やそじままつり/やそじまのまつり、八十嶋祭/八十島神祭)は、平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として難波津で行われた祭祀。現在は廃絶している。.

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八省卿の一覧

八省卿の一覧 日本の律令官制における八省(中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内)の長官(卿)を務めた人物の一覧。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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竹駒神社

竹駒神社(たけこまじんじゃ)は、宮城県岩沼市中心部にある稲荷神社である。旧社格は県社で、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。 別名竹駒稲荷とも呼ばれ、旧称は武隈明神(たけくまみょうじん)。日本三大稲荷の一つとされることがある。毎年正月三が日には、陸奥国一宮の鹽竈神社と東北地方で一、二を争うほどの初詣客が訪れることで知られる。.

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聖ソフィア聖堂

聖ソフィア聖堂、アギア・ソフィア聖堂は、叡智すなわち神を記憶するか、ソフィアの名を持つ聖人を記憶するキリスト教の聖堂。正教会の聖堂に多い。同名の大聖堂も本曖昧さ回避記事で扱う。.

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菅原孝標女

菅原孝標女の銅像 菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ、寛弘5年(1008年) - 康平2年(1059年)以降?)は、平安時代の貴族の女性。本名は伝わっていない。 10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。更級日記御物本奥書から、『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ではないかとも言われる。.

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越谷市

越谷市(こしがやし)は埼玉県の南東部にある人口約34万人の市。人口はさいたま市、川口市、川越市に次いで県内第4位。中核市、業務核都市、保健所政令市に指定されている。.

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趙幼悟

趙 幼悟(ちょう ようご、1044年1月18日 - 1045年5月20日)は、北宋の仁宗の八女。.

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黄庭堅

庭堅・『晩笑堂竹荘畫傳』より 黄 庭堅(こう ていけん、慶暦5年(1045年) - 崇寧4年9月30日(1105年11月8日))は、中国北宋時代の書家、詩人、文学者である。洪州分寧県(現在の江西省修水県)の人。 字は魯直(ろちょく)、号は山谷道人(さんこくどうじん)、涪翁(ふうおう)などがある。黄山谷と呼ばれることが多い。宋代の詩人においては蘇軾・陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米芾、蔡襄とともに宋の四大家に数えられる。「詩書画三絶」と讃えられ、師の蘇軾と名声を等しくして蘇黄と呼ばれた。子孫に清代の詩人、黄景仁がいる。.

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薬照寺

薬照寺(やくしょうじ)は、新潟県南魚沼市君沢にある真言宗智山派の寺院である。山号は瑠璃光山。本尊は薬師如来。越後四国八十八箇所霊場第八十八番札所、越後薬師札所一番札所、魚沼観音札所二十二番札所。.

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藤原定頼

藤原 定頼(ふじわら の さだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。.

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藤原実綱

藤原 実綱(ふじわら の さねつな)は平安時代中期から後期にかけての貴族、歌人、漢詩人。従三位・藤原資業の次男。官位は正四位下・式部大輔。別称、日野実綱。正字体:實綱。.

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藤原実経

藤原 実経(ふじわら の さねつね、長徳4年12月3日(998年12月24日) - 寛徳2年7月10日(1045年8月24日)、實經)は、平安時代中期の貴族。権大納言・藤原行成の長男。官位は正四位上・近江守。.

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藤原実成

藤原 実成(ふじわら の さねなり)は、平安時代中期の公卿。藤原北家閑院流、太政大臣藤原公季の長男。正二位、中納言、大宰権帥。.

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藤原師成

藤原 師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。.

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藤原彰子

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。 女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。.

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藤原忠家

藤原 忠家(ふじわら の ただいえ)は、平安時代中期の公卿。藤原北家御子左流、権大納言・藤原長家の次男。官位は正二位・大納言。.

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藤原信長

藤原 信長(ふじわら の のぶなが)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、関白太政大臣・藤原教通の三男。官位は従一位・太政大臣。.

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藤原範永

藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭・藤原中清(仲清)の子。官位は正四位下・摂津守。.

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藤原経季

藤原 経季(ふじわら の つねすえ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・藤原経通の次男。.

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藤原経輔

藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期の公卿。中納言・藤原隆家の次男。.

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藤原為任

藤原 為任(ふじわら の ためとう)は、平安時代中期の公家。藤原北家小一条流、大納言・藤原済時の子。官位は正四位下・伊予守。.

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藤原隆佐

藤原 隆佐(ふじわら の たかすけ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。右衛門権佐・藤原宣孝の五男。.

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藤原道雅

藤原 道雅(ふじわら の みちまさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。儀同三司・伊周の長男。小倉百人一首では左京大夫道雅。.

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藤原頼宗

藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。.

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藤原頼通

藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。 父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世にて、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったばかりか、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぐなど、朝廷の内外からそれまでの絶対的な権力体制を揺さぶられる事態が生じた。そこに加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家の権勢は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。.

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藤原資仲

藤原 資仲(ふじわら の すけなか)は平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人、漢詩人。大納言・藤原資平の二男。.

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藤原資業

藤原 資業(ふじわら の すけなり)は平安時代中期から後期にかけての公卿。参議・藤原有国の七男。.

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藤原資房

藤原 資房(ふじわら の すけふさ)は、平安時代中期の公卿。大納言・藤原資平の長男。五位蔵人時代から晩年に至るまでの日記『春記』、蔵人の除目奉仕についてまとめた『資房抄』を編んでいる。.

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藤原能信

藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の四男。官位は正二位・権大納言、贈正一位、太政大臣。.

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藤原教通

藤原 教通(ふじわら の のりみち)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。.

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重熙

重熙(ちょうき)は、遼の興宗耶律只骨に使用された元号。1032年 - 1055年。.

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蕭普達

蕭 普達(しょう ふたつ、? - 1044年)は、遼(契丹)の軍人。字は弾隠。.

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長寛勘文

長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。.

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良子内親王

良子内親王(ながこ(りょうし)ないしんのう、長元2年12月13日(1030年1月25日) - 承暦元年8月26日(1077年9月15日))は、第67代後朱雀天皇第1皇女。母は皇后・禎子内親王。一品准三宮、伊勢斎宮。同母妹に娟子内親王(賀茂斎院)、同母弟に第69代後三条天皇がいる。.

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耶律信先

耶律信先(やりつ しんせん、生没年不詳)は、遼(契丹)の軍人。.

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東三条殿

東三条殿(ひがしさんじょうどの、とうさんじょうどの、とうさんじょうでん)は、平安時代に平安京左京3条3坊1町及び2町(二条大路南西洞院大路東)の南北2町に跨って建てられた邸宅。東三条院とも。現在の京都市中京区押小路通釜座西北角の付近にあたる。摂関家当主の邸宅の一つで、特に藤原兼家の主邸であったところから彼を「東三条殿」と号し、またその娘藤原詮子の里第であったところから、彼女は出家後に「東三条院」の院号を与えられて、初の女院となった(ただし、女院となってからは東三条殿に住んでいない)。後院や里内裏としても用いられ、特に11世紀後半からは摂関家の象徴的邸宅として重視され、保元の乱の舞台ともなった。また、太田静六によって寝殿造の代表例とされて以来、建築史の研究対象としても重視されている。.

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欧陽脩

欧陽 脩(おうよう しゅう、欧陽修とも、景徳4年6月21日(1007年8月6日) - 熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日))は、北宋仁宗から神宗期の政治家、詩人・文学者、歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。.

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正子内親王 (後朱雀天皇皇女)

正子内親王(まさこないしんのう、寛徳2年4月20日(1045年5月9日) - 永久2年8月20日(1114年9月20日))は、第69代後朱雀天皇の第5皇女。母は女御・藤原延子(藤原頼宗の娘)。後冷泉、後三条両朝の賀茂斎院。押小路斎院、また土御門斎院とも号した。 後朱雀天皇の崩御から3ヶ月後に誕生。天喜6年(1058年)6月27日、異母姉・禖子内親王の後をうけて14歳で賀茂斎院に卜定。康平3年(1060年)4月12日、紫野院に入る。延久元年(1069年)7月24日、病のため25歳で退下、その後は尼となった(『中右記』)。永久2年、70歳で薨去。.

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段思廉

段思廉(だんしれん、生没年不詳、在位:1044年 - 1075年)は、大理国の第11代王。大理国初代王・段思平の玄孫。 1053年、北宋の広源州の少数民族の首領である儂智高が思琅州で宋にそむき、大南国を建て、仁恵皇帝を自称した。儂智高は宋の枢密副使狄青に敗れて大理に逃げ込んだ。段思廉は儂智高を殺害して宋の都の開封にその首を送った。以後年代不詳だが、正徳、保徳といった元号を立てた。1063年、岳侯高智昇に命じて楊允賢を討たせた。功績により高智昇に太保の位を加え、徳侯に封じ、白崖茹甸の地を与えた。のちに高智昇を鄯闡侯に進め、封号を子孫に世襲させた。1075年、子の段廉義に王位を譲って僧となった。 しれん.

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河内国司

河内国司(かわちこくし)は河内国の国司で、大国であるため、養老律令の職員令にて守・介・大掾・少掾・大目・少目の各1名が定員とされたが、それぞれの権官が置かれることもあった。官位相当は守(従五位上)、介(正六位下)、大掾(正七位下)、少掾(従七位上)、大目(従八位上)、少目(従八位下)。このほか、官位相当外の下級官人として史生3名が定められた。 河内国は藤原京、平城京、長岡京、平安京などの各時代の都の隣国という位置にあり、都と海を繋ぐ要衝の地であったために重要視され、都に近いことから権力の中枢にある権力者の与党が任命されたり兼務することが多かった。.

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源基平

源 基平(みなもと の もとひら)は、平安時代中期の公卿。御子宰相と号す。.

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源俊房

源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安2年11月12日(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。村上源氏、源師房の子。従一位・左大臣。堀川左大臣とも称される。.

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源義光

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。.

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源経長

源 経長(みなもと の つねなが)は平安時代中期から後期にかけての公卿。権中納言・源道方の四男。.

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源資綱

源 資綱(みなもと の すけつな)は平安時代中期から後期にかけての公卿、歌人。醍醐源氏、権中納言・源顕基の長男。.

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源資通

源 資通(みなもと の すけみち)は、日本の平安時代中期の公卿。播磨守・源済政の長男。.

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源重資

源 重資(みなもと の しげすけ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。醍醐源氏、権中納言・源経成の子。.

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明尊

明尊(みょうそん、天禄2年(971年)- 康平6年6月26日(1063年7月24日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は兵庫頭・小野奉時で、三蹟・小野道風は祖父にあたる。.

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慶暦

慶暦(けいれき)は中国・北宋の仁宗の治世で用いられた元号。1041年 - 1048年。.

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慈恩寺 (寒河江市)

慈恩寺(じおんじ)は、山形県寒河江市にある仏教寺院で現在は慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。.

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1009年

記載なし。

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1093年

記載なし。

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1099年

記載なし。

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10月20日 (旧暦)

旧暦10月20日(きゅうれきじゅうがつはつか)は、旧暦10月の20日目である。六曜は大安である。.

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1105年

記載なし。

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1114年

記載なし。

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1126年

記載なし。

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1127年

記載なし。

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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11月16日

11月16日(じゅういちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から320日目(閏年では321日目)にあたり、年末まであと45日ある。.

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11月25日

11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.

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11月25日 (旧暦)

旧暦11月25日は旧暦11月の25日目である。六曜は大安である。.

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12月14日

12月14日(じゅうにがつじゅうよっか、じゅうにがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から348日目(閏年では349日目)にあたり、年末まであと17日ある。.

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146

146(百四十六、ひゃくよんじゅうろく)は自然数、また整数において、145の次で147の前の数である。.

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147

147(百四十七、ひゃくよんじゅうなな)は自然数、また整数において、146の次で148の前の数である。.

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148

148(百四十八、ひゃくよんじゅうはち)は自然数、また整数において、147の次で149の前の数である。.

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1月18日 (旧暦)

旧暦1月18日は旧暦1月の18日目である。六曜は赤口である。.

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2月7日

2月7日(にがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から38日目に当たり、年末まであと327日(閏年では328日)ある。.

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7月10日

7月10日(しちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から191日目(閏年では192日目)にあたり、年末まであと174日ある。誕生花はグロキシニア、マツバボタン。.

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975年

記載なし。

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995年

記載なし。

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998年

記載なし。

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