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小和田哲男

索引 小和田哲男

小和田 哲男(おわだ てつお、1944年(昭和19年)2月1日 - )は、日本の歴史学者、文学博士。静岡大学名誉教授。日本の戦国時代(特に今川氏)に関する研究で知られる。.

259 関係: 功名が辻 (NHK大河ドラマ)助野健太郎城北中学校・高等学校城絵図厳島の戦いお市の方おんな城主 直虎その時歴史が動いたなんでもワンダーランドにっぽん!歴史鑑定ふるさと大使さかのぼり日本史千代田区立番町小学校千代田区立麹町中学校千利休千田嘉博南渓瑞聞坂戸城堂々日本史塩尻峠の戦い夏目琢史大崎氏大内政弘大給城大谷吉継大政所天地人 (NHK大河ドラマ)太原雪斎太田城 (紀伊国)太政官奥山ひよ奥山朝忠学習漫画定恵院宮上茂隆宮帯出版社官途状安東氏対馬国寿桂尼富士氏小和田氏小和田泰経小田原評定小見の方小谷城小豆餅小野梓記念賞小楠和正尹良親王...専門雑誌山口教継山内一豊山田長政山田景隆山本大山本勘助居士屋形岩付城の戦い上人中世武士選書中国大返し中国国分中国攻め帯方郡三職推任問題三河松井氏三木合戦三方ヶ原の戦い一の台一色義有九州平定九州平定 (日本史)九州国分九条尚経九条兼孝九条満家九戸城平親真平手氏京極孫童子丸京極高延京極材宗京極持清京極政光二条吉忠二条尹房二条康道二条光平二条晴良二木謙一井伊家伝記井伊直宗井伊直平井伊直元 (戦国時代)井伊直義井伊直盛井伊直虎井伊直満井伊行直今川義忠今川義元今川氏親今川氏輝今村正実仁藤敦史仮名 (通称)仙北一揆伊勢盛定伊達政宗弁当徳川秀忠徳川氏徳治主義後北条氏得珍保土御門家土方雄久北川殿北条綱成北条氏康北条氏綱北条早雲ミネルヴァ日本評伝選ライバル日本史ニッポンときめき歴史館イブアイしずおか出雲阿国六条家六条藤家先人たちの底力 知恵泉因幡の白兎四国国分四国攻め知るを楽しむ石山合戦石田三成獅子猿神吉城祝田禰宜秋田実季秀吉 (NHK大河ドラマ)第二尚氏築山殿簗田政綱紫衣事件細川勝元紀州征伐織田信長織田信雄美濃大返し羽柴秀勝 (石松丸)羽柴氏瑞渓院甲州征伐甲相駿三国同盟甲陽軍鑑熊 (天竜区)牧野保成盛岡城瀬沢の戦い道の駅くんま水車の里菅原正子静岡大学の人物一覧静岡市出身の人物一覧静岡県出身の人物一覧願譜代風早家西上作戦馬場信春高取城高瀬姫高輪原の戦い高柳光寿謎解き!江戸のススメ谷忠澄豊薩合戦豊臣秀吉豊臣秀次賤ヶ岳の戦い越智家栄軍師官兵衛黒田孝高茶屋四郎次郎蜂須賀正利蜂須賀正勝蜂須賀氏鈴木智博興国寺城薩た峠の戦い (南北朝時代)藤野保肥後国人一揆野宮家野良田の戦い鉄甲船NHK放送文化賞PHP新書松平広忠松平信康松井信薫松井貞宗松倉勝家松田毅一板垣真誠村上弘明村上直 (歴史学者)杉山博桐野作人桶狭間桶狭間の戦い桃形兜桑原城の戦い桑田忠親櫛橋政伊武功夜話武家官位武家茶道武田信虎歴史誕生歴史文化ライブラリー比叡山焼き討ち (1571年)毛利元就江〜姫たちの戦国〜江良房栄河鰭実文河東の乱法尊淀城淀殿渡辺武 (歴史学者)清洲会議湊騒動朝比奈泰朝本多隆成本能寺の変戸田宣成戸部政直戸沢盛安明智光秀明智軍記春日局浜松城記浅井井頼浅井鶴千代浅井氏斎藤道三新潟県出身の人物一覧日朝関係史日本100名城日本城郭協会早川殿早稲田大学の人物一覧早稲田大学第一文学部早稲田大学教育学部所理喜夫時代考証 インデックスを展開 (209 もっと) »

功名が辻 (NHK大河ドラマ)

『功名が辻』(こうみょうがつじ)は、2006年1月8日から12月10日に放送された45作目のNHK大河ドラマである。.

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助野健太郎

助野 健太郎(すけの けんたろう、1920年1月1日 - 1993年9月11日)は、日本史学者。 横浜出身。1942年早稲田大学文学部史学科卒。南方へ出征し、1946年復員、滋賀県の近江兄弟社に1948年まで参加する。大学院で学び、関東学院六浦中学校・高等学校教諭、聖心女子大学文学部助教授、教授。1991年定年、名誉教授。教え子に皇后美智子。早大(非常勤)での教え子に小和田哲男がいた。統一教会員。日本キリシタン史が専門。.

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城北中学校・高等学校

城北学園 城北中学校・高等学校(じょうほくがくえん じょうほくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都板橋区東新町に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第2学年から混合してクラスを編成する併設混合型中高一貫校である。.

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城絵図

城絵図(しろえず)とは、中世から近世の日本において城郭の曲輪の位置や周囲の地形などを描いた絵図。 城下町を重点において描いた図を特に城下絵図(じょうかえず)・城下町図(じょうかまちず)と称して城絵図と区別する場合もあるが、城内に城主が居住せずに城下の施設に普段の生活の場を持つケースもあり、城下を城の一部とみなして両者を区別しない考え方もある。.

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厳島の戦い

月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵 厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年合戦の発生年について「弘治元年」とする資料や史跡案内(厳島各所の史跡説明板)も多いが、天文から弘治への改元は天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)である。10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である。.

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お市の方

お市の方 北ノ庄城跡)にあるお市の方の銅像 福井県福井市の西光寺にある柴田勝家・お市の方の墓 お市の方(おいちのかた、天文16年(1547年) - 天正11年4月24日(1583年6月14日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されているが定かではない。 戦国大名・織田信長の妹(または従妹)で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という。初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。 子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある。.

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おんな城主 直虎

『おんな城主 直虎』(おんなじょうしゅ なおとら)は、2017年1月8日から同年12月17日まで放送されたNHK大河ドラマ第56作。 戦国時代、後に徳川四天王の一人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政を育てた遠州井伊谷の女領主・井伊直虎を主人公とした物語である。主演は柴咲コウ。.

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その時歴史が動いた

『その時歴史が動いた』(そのときれきしがうごいた)は、NHKで放送されていた日本の歴史情報番組、ドキュメンタリー番組。NHK大阪放送局制作、NHKプラネット近畿総支社協力。.

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なんでもワンダーランド

なんでもワンダーランドは1987年4月6日〜1989年3月9日にNHK総合テレビで放送されていた教養番組。.

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にっぽん!歴史鑑定

『にっぽん!歴史鑑定』(にっぽんれきしかんてい)は、2015年4月6日からBS-TBSで放送されている教養番組。.

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ふるさと大使

ふるさと大使(ふるさとたいし)とは、特定の市町村の内外に住まう一般市民に対して、市町村ないし当地の観光協会などが、観光振興の広報活動を委嘱するために授ける職名または称号。.

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さかのぼり日本史

さかのぼり日本史(さかのぼり・にほんし)は、NHK教育テレビジョンで、2011年3月29日から、毎週火曜日に放送されていた歴史教養番組。.

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千代田区立番町小学校

千代田区立番町小学校(ちよだくりつ ばんちょうしょうがっこう)は、東京都千代田区六番町にある公立小学校。.

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千代田区立麹町中学校

千代田区立麹町中学校(ちよだくりつこうじまちちゅうがっこう)は、東京都千代田区平河町に所在する公立中学校。麴町地域唯一の公立中学校である。「麹町中学校内申書事件」や『積木くずし』の舞台として知られる。通称は麹中(こうちゅう)。.

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千利休

千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。 わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていない。.

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千田嘉博

千田 嘉博(せんだ よしひろ、1963年− )は、日本の城郭考古学者。奈良大学 文学部 文化財学科 教授、前学長。永青文庫 評議員、文化財石垣保存技術協議会 評議員。 中世・近世城郭の考古学的研究を行い、日本各地の城の発掘調査・整備の委員を務める。また世界の城と日本の城の比較研究を行っている。2015年に濱田青陵賞を受賞。2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』の真田丸城郭考証者。 .

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南渓瑞聞

南渓 瑞聞(なんけい ずいもん、生年不詳 - 天正17年9月28日(1589年11月6日))は、戦国時代の僧侶。臨済宗龍潭寺二世住職で、南渓和尚とも呼ばれる。今川義元の葬儀を取り仕切る安骨大導師なども務めた。井伊家出身で、女性の井伊直虎を同家当主に推薦したことから、当主不在時に井伊家を率いていた可能性が高い。.

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坂戸城

坂戸城(さかどじょう)は、新潟県南魚沼市に存在した大規模な日本の城(山城)。坂戸山山頂(標高634メートル)に本丸、麓に平時の住居跡の遺構が見られ、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす交通上の要地に位置する。1979年(昭和54年)6月11日、国の史跡に指定された。上田長尾氏ゆかりの城として知られており、長尾政景や上杉景勝の居城として名高い。上杉謙信の姉仙桃院の嫁ぎ先でもある。また上杉景勝が会津へ移され、かわって堀氏が越後に入ると、堀直寄が坂戸城主を務めたことで知られる。.

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堂々日本史

『堂々日本史』(どうどうにほんし)は、1996年3月26日から1999年3月16日までNHK総合テレビで放送されていた教養番組である。1996年4月13日からはNHK教育テレビでも放送されていた。放送時間は毎週火曜 22:00 - 22:44 (日本標準時)、別の時間帯での再放送あり。.

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塩尻峠の戦い

塩尻峠の戦い(しおじりとうげのたたかい)は戦国時代の天文17年(1548年)に信濃守護・小笠原長時軍と甲斐守護・武田晴信軍との間で行われた合戦。.

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夏目琢史

夏目 琢史(なつめ たくみ、1985年 - )は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。国士舘大学文学部史学地理学科専任講師。.

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大崎氏

大崎氏(おおさきし)は、陸奥大崎5郡を支配した大名。本姓は源氏。家系は清和源氏のひとつ、河内源氏の流れを汲む足利一門で、南北朝時代に奥州管領として奥州に下向した斯波家兼を始祖とする斯波氏の一族。 斯波氏の一族であることから、斯波大崎氏ともいう。さらに、支流には最上氏、天童氏などがある。.

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大内政弘

大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の守護大名。大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。.

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大給城

大給城(おぎゅうじょう)は、現在の愛知県豊田市大内町にあった日本の城(山城)。.

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大谷吉継

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。.

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大政所

大政所(おおまんどころ)は、本来「大北政所」の略で、摂政・関白職にある者の母親に対して天皇の宣旨によって贈られる尊称であるが、一般的には特に太閤・豊臣秀吉の生母をさす。 この人物は戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、名は仲(なか、永正13年(1516年) -天正20年7月22日(1592年8月29日))と伝えられる。法名は春岩(春巌)。院号は天瑞院。官位は二位尼君、従一位。秀吉、秀長、瑞龍院日秀、朝日姫の生母である。彼女について正しくは天瑞院春岩と呼ぶべきであるが、現在ではこの大政所の称で呼ばれることが主である。.

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天地人 (NHK大河ドラマ)

『天地人』(てんちじん)は、2009年1月4日から同年11月22日まで放送されたNHK大河ドラマ第48作。全47話。原作・火坂雅志、脚本・小松江里子、音楽・大島ミチル、 音楽プロデュース・伊藤圭一(Kim Studio)。.

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太原雪斎

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来。大塚勲『戦国大名今川氏四代』P48。 父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。.

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太田城 (紀伊国)

太田城(おおたじょう)は、戦国時代に和歌山県和歌山市太田に存在した日本の城。来迎寺は太田城の本丸跡と伝えられる場所である。.

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太政官

太政官.

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奥山ひよ

奥山 ひよ(おくやま ひよ、生年不詳 - 天正13年(1585年))は、戦国時代の女性。遠江国引佐郡井伊谷の領主・井伊直親の妻。井伊直政の母。.

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奥山朝忠

奥山 朝忠(おくやま ともただ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。遠江国引佐郡奥山郷の人。井伊氏庶流の実力者。六左衛門とも。徳川四天王・井伊直政の従兄弟にあたる。.

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学習漫画

学習漫画(がくしゅうまんが)とは、日本における漫画のジャンルの一つ。.

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定恵院

定恵院(じょうけいいん、永正16年(1519年)- 天文19年6月2日(1550年7月15日))は、戦国時代の女性。甲斐国の戦国大名武田信虎の長女。今川義元の正室。武田信玄・武田信繁・武田信廉らの姉にあたる。実名は不明。.

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宮上茂隆

宮上 茂隆(みやがみ しげたか、1940年7月26日- 1998年11月16日)は、日本の建築史家。 安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物.

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宮帯出版社

株式会社宮帯出版社(みやおびしゅっぱんしゃ)は京都府京都市上京区にある出版社。主に歴史、茶道、美術、刀剣・甲冑書を発行している。.

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官途状

官途状(かんどじょう)とは、室町時代以降、主君が武功を挙げた家臣に対して特定の官職を私称することを許した書状のことである。官途書出、受領書出とも国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第3巻』(吉川弘文館、1983年)900-901頁参照。。.

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安東氏

安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから世界大百科事典第2版 1998、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある小口 1995,書名。.

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対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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寿桂尼

寿桂尼(じゅけいに、生年未詳 - 永禄11年3月14日(1568年4月11日))は、戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。藤原北家、勧修寺流の中御門家(公家)の出自で、父は権大納言中御門宣胤。兄に中御門宣秀、姉は山科言綱の正室。子に今川氏輝、今川義元、瑞渓院(北条氏康室)など。名は不詳。夫・氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた。.

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富士氏

富士氏(ふじし、ふじうじ)は、日本の氏族。駿河国富士郡富士上方(現在の静岡県富士宮市一帯)の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家であり、また戦国期には富士城城主を務める武家であった。.

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小和田氏

小和田氏(おわだし)は、日本の氏族。孝徳天皇の皇孫、日下部表米(但馬国国造)の末裔。 皇太子徳仁親王妃雅子の本籍地・新潟県村上市の小和田氏が著名である。.

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小和田泰経

小和田 泰経(おわだ やすつね、1972年 - )は、日本の歴史学者。父は同じく歴史学者の小和田哲男。.

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小田原評定

小田原評定(おだわらひょうじょう)は、戦国大名の後北条氏における重臣会議のこと。月2回開かれ、諸事を決した行政機構である。.

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小見の方

小見の方(こみのかた、1513年(永正10年)『美濃国諸旧記』 - 1551年(天文20年))は、戦国時代の女性で、斎藤道三の正室。.

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小谷城

小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)。城跡は国の史跡に指定されている。.

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小豆餅

小豆餅(あずきもち)は、静岡県浜松市中区の町名。小豆餅一丁目から四丁目が設置されている。郵便番号433-8113。.

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小野梓記念賞

小野梓記念賞(おのあずさきねんしょう)は早稲田大学が設けている学生褒賞。同大学の中で最も名誉ある賞であり、東京専門学校(早稲田大学の前身)の創設に大隈重信と共に尽力した、政治学者である小野梓大隈重信が「早稲田大学建学の父」と称されるのに対し、小野梓は「早稲田大学建学の母」と称されている。の業績を記念して1958年に創設された賞である。.

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小楠和正

小楠 和正(おぐす かずまさ。1936年(昭和11年) - )は、日本の歴史学者郷土史家。静岡大学教育学部卒、公立中学校教諭を経て、浜松市中央図書館非常勤職員。静岡県浜松市出身。徳川家康の研究家としては、浜松市の第一人者とされている。 浜松市周辺の郷土史を専門としており、複数の著作を発表し、講演も行っている。また、HNKの歴史番組制作にも資料調査の面から協力したことがある。三方ヶ原の戦いを扱った『検証・三方ヶ原合戦』について、歴史学者の小和田哲男は「当然のことと思われていた通説のようになっていることも、かなりの異説があることを知り、びっくりした次第である」と述べている。.

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尹良親王

尹良親王(ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、正平19年/貞治3年(1364年)? - 応永31年8月15日(1424年9月7日)?)は、『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女異説には、知久敦貞の女(『南山巡狩録』)や香坂高宗の妹・紀伊后(大鹿村の伝承)とする。また、この知久氏の女を親王の乳母とする系図もある。とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在を疑問視する意見が多い。源尹良とも。.

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専門雑誌

専門雑誌(せんもんざっし)はある特定の専門分野についての論文や記事などで誌面が構成される雑誌。一般の書店で販売されるものもあるが、学会・研究会などを通じて所属会員に頒布されるか、あるいは定期購読や通信販売などで頒布されるかたちで読者に届けられるものも多い。また、専門図書館では当該分野の専門雑誌を積極的に収載している。.

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山口教継

山口 教継(やまぐち のりつぐ)は、戦国時代の武将。織田氏、今川氏の家臣。尾張国鳴海城主。.

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山内一豊

山内 一豊(やまうち かつとよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。土佐山内氏、土佐藩初代藩主。家紋は三つ柏紋。 父は岩倉織田氏の重臣・山内盛豊、母は法秀尼。祖父は久豊。兄に十郎、弟に康豊。妻は内助の功で知られる見性院。通称は伊右衛門もしくは猪右衛門(いえもん)。後に康豊の長男・忠義(第2代藩主)を養子とした。豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。.

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山田長政

山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。.

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山田景隆

山田 景隆(やまだ かげたか)は、戦国時代の武将。今川家の重臣で同家の三河奉行人とも。今川軍侍大将及び中陣左翼副大将。弘治~永禄初期には松平広忠が早世して城主不在となった岡崎城の城代を勤めた。家紋は丸に二つ引(引両紋)。.

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山本大

山本 大(やまもと たけし、1912年9月1日- 2001年8月19日)は、日本史学者。.

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山本勘助

山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代の武将。 『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。 『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる平山(2006)、p.44。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年( 1561年)9月10日の川中島の戦いで討死したとされる。 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている「山本菅助」文書については後述。。.

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居士

居士(こじ).

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屋形

屋形(やかた)とは、公家や武家など貴人の館のことを意味する。室町幕府及び江戸幕府においては、名門或いは功績ある武家の当主、及び大藩の藩主に許された称号または敬称であって、屋形号という。屋形号の上位には公方号、御所号がある。 屋形号が成立したのは室町時代初期の頃であり、足利氏の一門や有力な守護大名、守護代、主に室町幕府の成立や謀反人討伐に功ある国人領主に許された。.

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局(きょく、つぼね).

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岩付城の戦い

岩付城の戦い(いわつきじょうのたたかい)は、大永5年(1525年)に武蔵岩付城(岩槻城)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の家臣・太田資頼の合戦である。 なお、岩付城攻防戦はこの他にも多数あり、永禄7年(1564年)の太田資正時代と、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐時の2つの攻防戦が有名である。.

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上人

上人(しょうにん)とは、仏教における高僧への敬称であり称号。上人号とも。元は『大品般若経』において智徳を備えた人物に対して敬意を払ったものであった。 日本では、貞観6年(864年)に僧位の一つとして置かれた法橋上人の略号であったが、後に民間においても諸国を回って民衆教化にあたった僧に対して「上人」あるいは「聖人」と呼ぶようになった。こうした用い方をされた僧侶の初めは空也であると言われている。 室町時代以後、天皇より上人号の綸旨を受けた者を「上人」と呼ぶ慣習が生まれた。 なお、上人号に用いる名称が宗派によって定まっている宗派がある。浄土宗では下の字に「誉」、浄土真宗では下の字に「如」(ただし本願寺などの法主に対しては綸旨の有無に関わらず上人号が用いられていた)、時宗では下の字に「阿」、日蓮宗では上の字に「日」を用いるのがそれに該当する。.

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中世武士選書

『中世武士選書』(ちゅうせいぶしせんしょ)は、戎光祥出版より刊行されている歴史書。.

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中国大返し

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)は、天正10年6月(西暦1582年6月-7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。.

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中国国分

中国路 中国国分(ちゅうごくくにわけ)とは、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と毛利輝元の同盟関係が成立した天正11年(1583年)以降、秀吉政権によっておこなわれた、山陰道・山陽道にあたる中国路に対する大名など諸領主への領土配分のことである。.

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中国攻め

中国攻め(ちゅうごくぜめ)とは、天正5年(1577年)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する軍記物などでは「中国征伐」とも称する。。いくさは足かけ6年にもおよび、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長は横死して、そのまま未完に終わった。 ※文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。.

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帯方郡

right 帯方郡(たいほう-ぐん)は、204年から313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。.

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三職推任問題

三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。.

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三河松井氏

三河松井氏(みかわまついし)は、三河国幡豆郡発祥の松井氏。はじめ今川氏や東条吉良氏に仕え、後には徳川家康の家臣となった松井忠次とその一族をさす。駿河国・遠江国の守護大名で戦国大名化した今川氏に早くから仕えた遠江松井氏(信薫や宗信に代表される)が代々遠州二俣城に居城したのに対し、三河松井氏は三河国幡豆郡吉良庄相場(饗庭)郷に居住し、天文期より吉良庄の領主東条家に仕えた。このうち松井忠次はこの吉良氏に姻戚関係を持った松平氏に帰属して東条松平氏の成立に寄与、その功績により徳川家康より松平称姓を許された。以後、忠次の系統が支族に至るまで松平を称し、松井松平家と呼ばれた。 松井松平家の家紋 = 蔦.

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三木合戦

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。 (※以後の日付は特に断りのない限り、すべて旧暦で記す).

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三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を、徳川 ・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。.

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一の台

一の台(いちのだい、永禄5年(1562年) - 文禄4年8月2日(1595年9月5日))は、安土桃山時代の女性で、豊臣秀次の妻。父は菊亭晴季。.

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一色義有

一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。.

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九州平定

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。.

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九州平定 (日本史)

九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、九州地方における敵対勢力を討って服属させること、あるいは、それにより平和な状態をつくりだすこと。九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)とも称する。日本の歴史においては、九州停戦命令(惣無事令)にもとづいた豊臣秀吉による九州の役(九州平定)が特に有名である。.

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九州国分

九州国分(きゅうしゅうくにわけ)は、豊臣秀吉による九州攻め(九州平定)ののちの天正15年(1587年)6月、豊臣政権によって行なわれた九州地方の大名の領土配分のことである。.

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九条尚経

九条 尚経(くじょう ひさつね、応仁2年11月25日(1469年1月7日) - 享禄3年7月8日(1530年8月1日))は、室町時代・戦国時代の公卿。九条家第15代目当主。九条政基の長男。母は従三位智子(姓不明)。異母弟に細川澄之らがいる。室は保子(三条西実隆の娘)。子に九条稙通・花山院家輔(花山院忠輔養子)・尋円(興福寺別当)・経子(二条尹房室)、大岡善吉がいる。後慈眼院と号す。法名は行智。道号は花渓。「尚」の字は、将軍足利義尚より偏諱を賜ったものである。 九条家が最も没落した時期の当主で、明応5年(1496年)、父とともに家司唐橋在数を殺害し、勅勘に処せられた。その後許され、文亀元年(1501年)関白・藤氏長者となる。永正3年(1506年)に左大臣となり、同11年(1514年)には従一位に叙せられる。享禄3年(1530年)、63歳で死去し、東福寺で葬礼が行われた。 日記『後慈眼院殿記』及び有職故実書『後慈眼院尚経公装束抄』を著した。.

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九条兼孝

九条 兼孝(くじょう かねたか)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白。九条家第17代目当主。同家第15代当主の九条尚経は曽祖父にあたる。後月輪と号した。.

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九条満家

九条 満家(くじょう みついえ、応永元年(1394年) - 文安6年5月4日(1449年5月25日))は、室町時代の関白。関白・九条経教の三男。兄に九条忠基、九条教嗣、弟に孝円、道尊、孝信、経覚らがいる。室に唐橋在豊女らが、子に政忠・政基・尋実(興福寺)がいる。号は後三縁院。.

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九戸城

九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている。.

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平親真

忌部 親真/斎部 親真(いみべ の ちかざね/ いなべ の ちかざね、生年不詳 - 正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日)(2011年11月4日/『日本経済新聞』))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。織田氏・津田氏の祖とされ、織田 親真あるいは津田 親真とも呼ばれる。別諱は親実とも表記される。通称は三郎。官位は権大夫。織田親基の父。.

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平手氏

平手氏(ひらてし)は、日本の氏族。.

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京極孫童子丸

京極 孫童子丸(きょうごく まごどうじまる、文正元年(1466年) - 文明3年(1471年))は、室町時代後期の守護大名。出雲・隠岐・飛騨・近江守護、京極氏当主。京極勝秀の子、京極持清の孫。高清の弟。 応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)に父が亡くなり、祖父も2年後の文明2年(1470年)に死去したため家督と守護職を継承した。補佐役は叔父政経と守護代多賀高忠が受け持った。しかし、もう1人の叔父政光と多賀清直がこれに反発、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まったが、文明3年(1471年)に孫童子丸は夭折した。 家督は政経が継ぐが、乙童子丸派との抗争は応仁の乱終結後も継続し、京極氏の弱体化を招いた。.

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京極高延

京極 高延(きょうごく たかのぶ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。北近江の戦国大名。仮名は六郎。名は高広、高明とも。父は京極高清、母は斎藤妙純の娘。高吉の兄。高弥・高成の父。.

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京極材宗

京極 材宗(きょうごく きむね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。京極政経の子。吉童子丸の父。初めは父より一字を与えられて経秀(つねひで)と名乗っていたが、後に室町幕府第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を賜り改名した。 文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命、多賀高忠を所司代に任命された。この処置は父政経を京極氏当主に復帰させ、従兄の京極高清を追放する目論見があった。しかし、父が配下の所領横領を阻止出来なかったことが将軍足利義材の怒りを買い、家督を高清に代えられると材宗も失脚、明応の政変で義材が廃位されると京極氏復帰を狙った。 父が高清に敗れて出雲へ下向した後も高清と戦い、文亀元年(1501年)に浅井直種を従えて今浜を攻めたが、上坂家信の防戦で失敗。文亀2年(1502年)、永正2年(1505年)にも高清を攻撃したが失敗、同年に高清と和睦したが、永正4年に高清に自殺させられた。 翌永正5年(1508年)に父も亡くなり、子の吉童子丸は父から家督を譲られたとされるがその後行方不明、出雲は守護代尼子経久の領国となった。また、京極高吉の父ともされている。.

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京極持清

京極 持清(きょうごく もちきよ)は、室町時代中期から後期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲・隠岐・飛騨・近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高、細川持之室。子に勝秀、政光、政経、娘(畠山政長室)。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔、大膳大夫。.

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京極政光

京極 政光(きょうごく まさみつ)は、室町時代の武将。京極持清の次男。 初めは佐々木氏庶流の黒田氏の養子に入ったが、応仁の乱の只中に父と兄がそれぞれ応仁2年(1468年)、文明2年(1470年)に死去した。そのため家督と守護職は甥の孫童子丸が継承、政経と守護代多賀高忠が補佐した。しかし、政光はこれに不満を覚え多賀清直と共に孫童子丸の庶兄・乙童子丸(高清)を擁立して六角高頼と組んで西軍へ寝返った(京極騒乱)。政経・多賀高忠は六角政堯と共に東軍へ留まった。文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折したが、政経が次の当主になったため京極氏の抗争は継続した。 文明4年(1472年)に政経派を撃破、政経らを追放して乙童子丸を当主に据えて多賀清直と共に後見人となったが、翌年に死去。.

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二条吉忠

二条 吉忠(にじょう よしただ)は、江戸時代中期の公卿。関白左大臣二条綱平の子で、母は霊元天皇皇女・栄子内親王である。安祥院と号する。「吉」の字は将軍徳川綱吉からの偏諱。.

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二条尹房

二条 尹房(にじょう ただふさ)は、戦国時代の公家。二条家第13代目当主。父は関白二条尚基。母は家女房。.

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二条康道

二条 康道(にじょう やすみち)は、江戸時代前期の公卿・藤氏長者。藤原氏摂関家二条家の第16代当主。摂政・左大臣に昇った。関白九条幸家の長男。母は豊臣完子。養父は大叔父二条昭実。九条道房、松殿道基らの兄。幼名は松鶴。 慶長18年(1613年)、正五位下に叙せられて元服し、徳川家康より「康」の字を贈られて康道と名乗る(これ以降斉敬の代まで徳川将軍家から偏諱を賜るようになった)。 寛文6年(1666年)、薨去。享年60。 正室は貞子内親王(後陽成天皇皇女、後水尾天皇同母妹)。子女に二条光平、瑞照院日通(瑞龍寺三世)、華山仙禅師(慈受院五世)がいた。.

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二条光平

二条 光平(にじょう みつひら、寛永元年12月13日(1625年1月21日) - 天和2年11月12日(1682年12月10日))は、江戸時代前期の公卿。摂政二条康道の子。母は貞子内親王(後陽成天皇の皇女、後水尾天皇同母妹)。正室は賀子内親王(後水尾天皇第六皇女、明正天皇同母妹)。子に甲府藩主徳川綱重室がおり、二条綱平(再従弟九条兼晴の子)を養子とした。「光」の字は将軍徳川家光(綱重の父)からの偏諱。.

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二条晴良

二条 晴良(にじょう はるよし / はれよし)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿・藤氏長者。二条家第14代目当主。父は関白・二条尹房。母は九条尚経の長女・経子。後明珠院と号す。.

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二木謙一

二木 謙一(ふたき けんいち、 1940年12月5日 - )は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。専門は日本中世史(戦国史)。有職故実研究の第一人者として知られる。また、数々の大河ドラマの考証を手がけたことでも有名。文学博士。文化勲章受章者である医学者二木謙三は祖父に当たる。東京都出身。.

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井伊家伝記

『井伊家伝記』(いいけでんき)は、井伊氏の始祖とされる平安時代の井伊共保の出生から、戦国時代の井伊一族の活躍、その後の龍潭寺と大名井伊氏とのかかわりについてまで、龍潭寺周辺に伝わる伝承をもとに記された家伝である。 著者は遠江国井伊谷龍潭寺の九世住職である祖山法忍(そさん ほうにん)。江戸時代中期の享保15年(1730年)に完成。.

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井伊直宗

井伊 直宗(いい なおむね)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城主・井伊直平の嫡男。.

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井伊直平

井伊 直平(いい なおひら)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国の国人・井伊氏16代当主。井伊直虎・井伊直政の曾祖父。一説には、徳川家康の正室・築山殿の外祖父に当たると言われる。その場合、直平は松平信康の曾祖父になる。.

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井伊直元 (戦国時代)

井伊 直元(いい なおもと)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城主・井伊直平の五男。.

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井伊直義

井伊 直義(いい なおよし)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城主・井伊直平の四男。.

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井伊直盛

井伊 直盛(いい なおもり)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷城(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)城主・井伊直宗の子。井伊直平の孫。女領主となった井伊直虎の父。『井伊年譜』などでは「井伊直平の娘が築山殿を生んだ」と記されており、その場合、直盛と築山殿は従兄妹同士となる。.

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井伊直虎

井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷の領主。「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代に書かれた井伊氏の家伝、『井伊家伝記』において女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘、次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされる。その存在については、様々な考察がなされている(#「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論参照)。 次郎法師は曾祖父は井伊直平、祖父は井伊直宗で、井伊直親と婚約したといわれるが、生涯未婚であった。徳川四天王・井伊直政(虎松)の養母と伝わる。 『井伊年譜』などでは「築山殿は井伊直平の孫娘」と記されており、その場合、築山殿は従叔母(いとこおば)に当たる。.

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井伊直満

井伊 直満(いい なおみつ)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国引佐郡井伊谷城主井伊直平の次男または三男。.

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井伊行直

井伊 行直(いい ゆきなお)は、鎌倉時代末期 - 南北朝時代の武将。宗良親王に仕える歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社(2017年)24-33頁。遠江国の城主。井伊氏当主。井伊泰直の子。子孫に井伊直平・井伊直政・井伊直弼など。.

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今川義忠

今川 義忠(いまがわ よしただ)は室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。義元の祖父にあたる。.

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今川義元

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。.

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今川氏親

今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。駿河今川家9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿で、北条早雲の甥、今川義元の父に当たる。.

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今川氏輝

今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。.

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今村正実

今村 正実(いまむら まさざね)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の人。.

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仁藤敦史

仁藤 敦史(にとう あつし、1960年 - )は、日本の歴史学者、国立歴史民俗博物館教授。専門は古代史。.

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仮名 (通称)

仮名(けみょう)は、江戸時代以前に諱を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のこと。.

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仙北一揆

仙北一揆(せんぼくいっき)は、天正18年(1590年)9月下旬ころ、出羽国北部(いまの秋田県地方)の横手盆地(仙北三郡当時の「仙北」は現在の仙北郡地方(大仙市・仙北市ふくむ)よりもさらに広域地名で、それより南の横手市・湯沢市一帯も含む、仙北・平鹿・雄勝3郡の総称で現在の秋田県内陸南部全体を指す。中世にあっては仙北のうち、戸沢氏領は「北浦郡」、本堂氏・六郷氏領は「中郡」、小野寺氏領は「上浦郡」と称されていた。)で発生した、豊臣政権に対する検地反対一揆。.

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伊勢盛定

伊勢 盛定(いせ もりさだ、生没年不詳)は、室町時代の武将。伊勢氏の一族の備中伊勢氏出身。伊勢盛綱の子。妻は政所執事伊勢貞国の娘。子に北川殿(今川義忠室)、盛時(北条早雲)など。通称は新左衛門尉、別名は盛次、官位は備中守・備前守と伝わる。 長年、北条早雲の出自は不明で一般には伊勢素浪人と考えられていたが、近年の研究で北条早雲の前身が幕臣伊勢盛時であることが定説化している。伊勢盛時の研究の過程でその父の盛定についても次第に明らかになってきている。.

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伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。 幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。.

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弁当

典型的な市販の弁当(いわゆる「ほか弁」) 弁当(べんとう)とは、携帯できるようにした食糧のうち、食事に相当するものの日本での呼称である。家庭で作る手作り弁当と、市販される商品としての弁当の2種に大別される。後者を「買い弁」ということがある。日本国外でも'Bento'として日本式の弁当箱とともに普及し始めた。 まれに「辨当」「便当」などとも書かれることもある。 「弁当」は、「好都合」「便利なこと」を意味する中国南宋時代の俗語「」が語源ともされている。この「」が日本に入り、「便道」「辨道」などの漢字も当てられた。「辨(そな)えて用に當(あ)てる」ことから「辨當(弁当)」の字が当てられ、「辨當箱」の意味として使われたと考えられる。.

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徳川秀忠

徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳治主義

徳治主義(とくちしゅぎ)とは、徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるとした孔子の統治論に由来する儒教の政治理念・思想。古くは徳化(とくか)などと呼ばれていた。「徳治主義」という言葉は、蟹江義丸の『孔子研究』(1904年)、高瀬武次郎の『支那哲学史』(1910年)で提唱され、日本では宇野哲人、中国では陳安仁が広めた言葉であると言われている。.

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後北条氏

後北条氏(ごほうじょうし/ごほうじょううじ、旧字体表記:後北條氏)は、関東の戦国大名の氏族。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる「北条早雲」こと伊勢盛時(1432年/1456年 - 1519年)をその祖とする。正式な名字は「北条(北條)」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは傍系の遠い血縁関係にあるとされるものの直接の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢氏流北条家には「後」を付して「後北条」と呼ぶようになった。また居城のあった相模国小田原の地名から小田原北条氏(おだわら ほうじょうし/おだわら ほうじょううじ)あるいは相模北条氏とも呼ばれる。最大時(氏政)には関八州で240万石の一大版図を支配していた。 通字は「氏(うじ)」。代々の家督は御本城様(ごほんじょうさま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。 近代には、初代・早雲(盛時)の素性が伊勢の素浪人と誤認され、下克上を初めて現実のものとして伊豆一国の主となり、そこから戦国大名にまでのし上がったとされていたが、後述のように近年の研究で否定されている。.

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得珍保

得珍保(とくちん の ほ)は日本の中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現・東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園である。保内の今堀日吉神社に保蔵されていた文書によって座商人たちの商業活動が判明している数少ない例であり、後の近江商人につながる中世後期商人たちの拠点となった荘園でもある。また惣結合(郷村の自治結合)が発達した地としても有名。.

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土御門家

土御門家(つちみかどけ)は日本の朝廷に仕えた公家である。.

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土方雄久

土方 雄久(ひじかた かつひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越中布市藩主、のち能登石崎藩主、下総田子藩初代藩主。土方信治(のぶはる)の長男。 主として織田信雄に仕え、その1字を拝領して初め雄良(かつよし)、のち雄久と名乗った。 一説によれば前田利長・前田利政は雄久の従兄弟にあたるとされ、実際に弟の太田長知(ながとも、但馬守)が利長に仕えている。.

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北川殿

北川殿(きたがわどの) / 桃源院殿(とうげんいんどの、生年月日不詳 - 享禄2年5月26日(1529年7月11日))は、戦国時代の女性。駿河の守護今川義忠の正室。戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)の姉(もしくは妹)と推定される。子に今川氏親、栄保(正親町三条実望室、北向殿)。.

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北条綱成

北条 綱成(ほうじょう つなしげ/つななり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。 相模国鎌倉郡玉縄城主。北条家の主力部隊五色備えの内、黄備え隊を率いた。綱成与力衆は組織上、玉縄衆とも呼ばれた。.

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北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模国の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。。.

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北条氏綱

北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。 伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 当初は父同様に伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞などと名乗ったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものと考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとする説がある。.

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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。.

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ミネルヴァ日本評伝選

『ミネルヴァ日本評伝選』(ミネルヴァにほんひょうでんせん)とは、ミネルヴァ書房より刊行されている日本史上の人物の評伝叢書。.

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ライバル日本史

『ライバル日本史』( -にほんし)は、1994年4月7日から1996年3月7日まで放送されたNHK総合テレビの教養番組である。毎週木曜日に22時から22時30分まで放送された。.

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ニッポンときめき歴史館

『ニッポンときめき歴史館』(ニッポンときめきれきしかん)は、1999年3月26日から2000年3月14日までNHK総合テレビで放送されていた教養番組である。NHK大阪放送局が主管製作していた。.

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イブアイしずおか

『イブアイしずおか』は、静岡放送(SBSテレビ)で放送されている静岡県内向けのローカルワイド・報道・情報番組である。通称『イブアイ』。.

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出雲阿国

出雲阿国 出雲の阿国像(京都市東山区) 出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年?(1572年) - 没年不詳)は、安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。 一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。 なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、彼女が伝説化してから広まったものと考えられる国立劇場『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』淡交社、2009年、ISBN 978-4-473-03530-1、198頁-205頁。.

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六条家

六条家(ろくじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我家庶流。太政大臣・久我通光の五男・六条通有を家祖とする。家名は、2代・有房が京都六条に住した事による。歌道家として著名な六条藤家は別系(藤原北家末茂流)である。.

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六条藤家

六条藤家(ろくじょうとうけ)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公家・歌道家。藤原北家末茂流の庶流。藤原隆経の子・顕季を家祖とする。.

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先人たちの底力 知恵泉

『先人たちの底力 知恵泉』(せんじんたちのそこぢから ちえいず)とは、NHK Eテレで2013年4月から放送されている番組である。.

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因幡の白兎

因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)とは、日本神話(古事記)に出てくるウサギ、または、このウサギの出てくる物語の名。『古事記』では「稻羽之素菟」(稲羽の素兎)と表記。.

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四国国分

豊臣(羽柴)秀吉 四国国分(しこくくにわけ)とは、豊臣秀吉による四国攻めが終わった後、天正13年(1585年)8月からその戦後処理として豊臣政権によっておこなわれた、四国地方に対する大名など諸領主の領土配分のことである。.

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四国攻め

四国攻め(しこくぜめ)は、安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。その前段階である、本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。.

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知るを楽しむ

知るを楽しむ(しるをたの- )は、2005年4月4日から2010年3月25日までNHK教育テレビで放映された生涯学習番組である。副音声解説放送を実施した。.

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石山合戦

石山本願寺推定地の石碑 石山合戦(いしやまかっせん)は、元亀元年9月12日(1570年10月11日)から天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて行われた、浄土真宗本願寺勢力と織田信長との戦い。本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った。.

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石田三成

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。 豊臣政権の奉行として活動し五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。.

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獅子猿

獅子猿(ししざる)は、日本のフリーのイラストレーター・キャラクターデザイナー・メカニックデザイナー。大阪府在住。.

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神吉城

吉城(かんきじょう)は播磨国印南郡(兵庫県加古川市)にあった日本の城。平城。別名、真名井城(まないじょう)、奈幸子城(なこしじょう)とも呼ばれる。一部遺構として土塁、空堀が残る。.

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祝田禰宜

祝田 禰宜「禰宜」は神職名であり、実際の名前は不明である。(ほうだ ねぎ)は、戦国時代の神主。祝田郷の代表。.

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秋田実季

秋田 実季(あきた さねすえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。安東愛季の次男。.

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秀吉 (NHK大河ドラマ)

『秀吉』(ひでよし)は、1996年1月7日から12月22日にかけて放送された第35作目のNHK大河ドラマ。原作:堺屋太一、脚本:竹山洋、主演:竹中直人。全49話。.

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第二尚氏

二尚氏(だいにしょうし)は、尚円王を始祖とし、尚円王即位の1469年(成化6年)から1879年(光緒5年)までの410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家およびその姓の通称。琉球最後の王朝。正式には尚氏だが、第一尚氏と区別するため、一般には第二尚氏と呼ばれる。第二尚氏は、初代・尚円王から最後の尚泰王まで、19代続き、廃藩置県後は日本の華族となった。.

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築山殿

築山殿(つきやまどの、生年不詳夫の徳川家康と同じ歳とする説。2歳年上とする説や12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康の正室。名は未詳中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、91頁)。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、92頁)。「築山」の由来は岡崎市の地名である。 父は関口親永。 母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。.

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簗田政綱

簗田 政綱(やなだ まさつな)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。名は広正とも伝わる。.

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紫衣事件

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。.

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細川勝元

細川 勝元(ほそかわ かつもと)は、室町時代の武将・守護大名。第16、18、21代室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。父は第14代室町幕府管領、細川持之。政元の父。応仁の乱の東軍総大将として知られている。.

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紀州征伐

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。 信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田信雄

織田 信雄(おだ のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。初め伊勢北畠家の第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、国司を継いだため御本所と敬称された。法名は常真。.

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美濃大返し

美濃大返し(みのおおがえし)は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が美濃国大垣(岐阜県大垣市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道のりを5時間でかけぬけた大掛かりな軍団移動のことをいう『クロニック戦国全史』(講談社、1995)p.477。.

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羽柴秀勝 (石松丸)

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、生年不詳 - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で、幼名は石松丸(いしまつまる)または石松。 他の秀勝と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。.

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羽柴氏

羽柴氏(はしばし/はじばうじ)は、日本の戦国大名・天下人の家系及びその名字である。創始者は羽柴秀吉。.

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瑞渓院

渓院(ずいけいいん)または瑞渓院殿(ずいけいいんでん、生年不詳 - 天正18年6月12日(1590年7月13日))は、戦国時代の女性で、相模国・伊豆国の戦国大名である北条氏康の正室。瑞渓院は法名で、実名は不詳である。氏康とは、はとこ同士になる。父は駿河国守護今川氏親。母は寿桂尼。兄弟に今川氏輝、今川義元、今川彦五郎。異母兄に玄広恵探。子に男子は、夭折した長男新九郎(天用院殿)、次男で嫡子の北条氏政、三男北条氏照、四男北条氏邦、五男北条氏規。女子では今川氏真室の早川殿、足利義氏室の浄光院殿の母とされる。氏照、氏邦、早川殿の母に関しては異説もある。 氏康との婚姻時期は不明だが、兄である今川氏輝の小田原への訪問記録等により、天文5年(1536年)以前の天文4年(1535年)であったと考えられている。 この後、後北条氏と代替わりした今川義元との河東一乱による断交があっても実家に戻ることなく、氏康正室、嫡子生母として北条家にあった。子宝に恵まれ、しかもその弟たちは嫡男氏政を強く支え、後北条氏を更なる発展へ導いた。 元亀2年(1571年)11月21日、北条氏康の四十九日忌をもって逆修(『北条家過去帳』)、以後「御大方様」と称される(『青木文書』)。 天正18年(1590年)6月12日、豊臣秀吉による小田原征伐の際に死去した。氏政継室の鳳翔院殿と同日であることなどから、自害の可能性を指摘されている。 法名は瑞渓院殿光室宗照大姉。.

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甲州征伐

州征伐(こうしゅうせいばつ)は、1582年(天正10年)、織田信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政が長篠の戦い以降勢力が衰えた武田勝頼の領地である駿河・信濃・甲斐・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦である。武田征伐とも言われる。.

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甲相駿三国同盟

駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)からとも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。.

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甲陽軍鑑

『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。本編20巻全59品(59章)、末書2巻。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。.

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熊 (天竜区)

(くま、くんま)は静岡県浜松市天竜区にある地名。かつての熊村にあたる。.

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牧野保成

牧野 保成(まきの やすしげ、? - 永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主。また、牛窪城主。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。天文期に戦国大名今川氏に属して戸田氏に奪われていた所領を回復したが、永禄期半ばには徳川家康の東三河進出に抵抗して敗死。.

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盛岡城

盛岡城(もりおかじょう)は岩手県盛岡市(陸奥国岩手郡)にあった日本の城である。国の史跡に指定されている。別名はであると一般に理解されているが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭である。.

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瀬沢の戦い

沢の戦い(せざわのたたかい)は、天文11年(1542年)3月に信濃瀬沢で行なわれた甲斐守護・武田晴信軍と信濃諏訪の領主・諏訪頼重軍並びに信濃守護・小笠原長時連合軍の戦いである。.

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遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金、元、清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。.

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道の駅くんま水車の里

道の駅くんま水車の里(みちのえき くんますいしゃのさと)は、静岡県浜松市天竜区熊にある静岡県道9号天竜東栄線の道の駅である。 1988年(昭和63年)、村おこしとして「くんま水車の里」が竣工され、1995年(平成7年)4月11日、静岡県内で2番目に道の駅として登録された。なお「くんま」とは、当地区名「熊(くま)」の現地での読み方である。.

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菅原正子

菅原 正子(すがわら まさこ、1959年 - )は、日本史学者。専攻は日本中世史・文化史。.

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静岡大学の人物一覧

静岡大学の人物一覧は静岡大学および諸前身校に関係する人物の一覧記事。.

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静岡市出身の人物一覧

静岡市出身の人物一覧(しずおかししゅっしんのじんぶついちらん)は、静岡県静岡市出身の人物、ゆかりのある人物の一覧である。.

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静岡県出身の人物一覧

静岡県出身の人物一覧(しずおかけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する静岡県出身の人物の一覧表である。.

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願譜代

譜代(ねがいふだい)は、江戸時代に外様大名のうちで願い出て譜代大名の扱いとなった者をいう。主に譜代大名の血筋の者が外様大名の家を継ぎ、幕閣において長年の功績を立てるなどした場合、もしくは外様大名が幕政に参画しようとして譜代への格上げを望んだ時にこの扱いとなった。願い譜代とも記され、譜代格、御譜代に準ずる大名という場合もある。後世には準(准)譜代大名の呼称も使用されるが、歴史学的な用語である。.

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風早家

早家(かざはやけ)は、藤原北家閑院流姉小路支流の公家である。江戸時代前期の権大納言姉小路公景の次男・権中納言実種を祖とする。家格は羽林家。家学は茶道。江戸時代の石高は30石3人扶持。.

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西上作戦

青崩峠。手前側が遠江国(現在の静岡県)、奥が信濃国(現在の長野県)であり、武田軍はここを越えて徳川方へ攻め入った(兵越峠の説あり) 西上作戦(せいじょうさくせん)とは、元亀3年(1572年)9月から元亀4年(1573年)4月にかけて行なわれた甲斐武田氏による遠征。.

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馬場信春

場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。.

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高取城

取城古絵図/浅野文庫所蔵 高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。.

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高瀬姫

姫(たかせひめ、? - 寛永11年8月11日(1634年10月2日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。遠江国引佐郡井伊谷の領主・井伊直親の娘楠戸,18頁『おんな城主直虎と井伊家の歴史』井伊達夫監修、キネマ旬報社 2016年。15頁。井伊直政の異母姉。.

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高輪原の戦い

輪原の戦い(たかなわはらのたたかい)は、大永4年1月13日(1524年2月17日)に武蔵高輪原で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦である。.

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高柳光寿

柳 光寿(たかやなぎ みつとし、高柳光壽とも。1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。自身で「柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。 専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。.

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謎解き!江戸のススメ

謎解き!江戸のススメ(なぞとき えどのススメ)はBS-TBSで2012年4月2日から2015年3月30日まで毎週月曜日22:00 - 22:54(JST)に放送されていた日本の歴史教養番組。NTTドコモによる単独協賛。.

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谷忠澄

谷 忠澄(たに ただずみ、天文3年(1534年) - 慶長5年11月7日(1600年12月12日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。弟に非有(諸説あり)。通称は忠兵衛。.

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豊薩合戦

豊薩合戦(ほうさつかっせん)は、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行なわれた豊後の大友家と薩摩の島津家の戦争である。天正の役、天正の戦とも呼ばれる。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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豊臣秀次

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。 幼少時、戦国大名・浅井長政の家臣・宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子・秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。.

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賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩がひらかれた。.

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越智家栄

越智 家栄(おち いえひで)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将。大和の国人越智氏当主。大和高取城主。越智維通(家経?)の子。子に家令、娘(古市澄胤室)。幼名は春童丸。官位は弾正忠、伊賀守、修理大夫、刑部少輔。.

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軍師官兵衛

『軍師官兵衛』(ぐんしかんべえ)は、2014年1月5日から12月21日まで放送されたNHK大河ドラマ第53作である。.

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黒田孝高

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。.

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茶屋四郎次郎

茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。.

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蜂須賀正利

蜂須賀 正利(はちすか まさとし)は、戦国時代の武将。尾張国に力を持つ国人領主であった。蜂須賀正成の次男。正室は某氏、継室は大橋定広の娘。.

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蜂須賀正勝

蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。 初名は利政。通称は小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位は従四位下修理大夫。.

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蜂須賀氏

蜂須賀氏(はちすかし)は、日本の氏族の一つ。羽柴秀吉に仕えた蜂須賀正勝(小六・小六郎)の一族が著名。.

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鈴木智博

鈴木 智博(すずき ともひろ、1974年 - )は、日本の社会企業家。京都府木津川市出身、京田辺市在住。有限会社ベルウッドクリエイツ代表取締役。.

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興国寺城

興国寺城(こうこくじじょう、根古屋城とも)は、静岡県沼津市根古屋(駿河国駿東郡阿野荘)にあった日本の城(平山城)。城跡は国の史跡に指定されている。 興国寺城敷地内には穂見神社が存在する。.

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薩た峠の戦い (南北朝時代)

薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いとも)は、南北朝時代の1351年(正平6年/観応2年)12月、駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦である。戦の行われた場所から桜野の戦いとも言う。.

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藤野保

藤野 保(ふじの たもつ、1927年(昭和2年)9月5日 - )は、日本の日本史学者。.

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肥後国人一揆

肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。.

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野宮家

野宮家(ののみやけ)は、羽林家の家格を持つ日本の公家。藤原北家師実流花山院家の庶流。 明治維新後は定穀が子爵に叙せられた。.

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野良田の戦い

野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年(1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の戦国大名・浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、浅井家の北近江における覇権が確立した。 戦場の場所から野良田(野羅田)表の戦い、肥田の戦い、宇曾川の戦いとも称される。.

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鉄甲船

鉄甲船(てっこうせん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて大型の安宅船に鉄板を張った船。主に織田信長と、豊臣秀吉が建造を命じた鉄甲船が知られる。.

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NHK放送文化賞

NHK放送文化賞(エヌエイチケイほうそうぶんかしょう)は、NHK25年を記念に放送文化の発展・放送事業の向上に功績のあった人物を顕彰するために、1949年に制定された賞である。正式名称は「日本放送協会 放送文化賞」。 毎年2-3月頃に発表し、3月にNHKホールで開催される放送記念日式典で表彰される。受賞者には佐藤忠良作のブロンズ像「ふたば」が贈られる。.

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PHP新書

PHP新書(ピーエイチピーしんしょ、PHP SHINSHO)は、PHP研究所から刊行されている新書レーベル。同社創設50年を迎えた1996年に創刊された。2013年12月、通巻900点を突破した。執筆者には同社発行の「Voice」の常連執筆者と重なる人が多い。.

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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。.

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松平信康

松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。.

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松井信薫

松井 信薫(まつい のぶしげ、? - 享禄元年(1528年)2月)は戦国時代の武将。通称は左衛門尉・兵庫亮・山城守など。松井貞宗の子で、遠江松井氏の嫡流を継ぐ。今川氏の譜代の家臣。遠州二俣城主。 駿河・遠江守護職守護職かつ戦国大名の今川氏に属し、永正11年(1514年)に松井氏として初めて遠州二俣城主となる。享禄元年(1528年)2月3日(旧暦)、病没。嫡子に宗親があったが、弟の松井宗信が信薫死後にその家督を継ぐ。存命中に曹洞宗天竜院を創建したが、死後は同寺に埋葬された(同寺は2003年3月に焼失)。法名、天竜院殿心応正前大居士。 .

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松井貞宗

松井 貞宗(まつい さだむね、生没年不詳)は、戦国時代の武将。今川氏の家臣。松井宗能の子。遠江国堤城主。通称は八郎、山城守、兵庫助とも。.

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松倉勝家

松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。肥前島原藩2代藩主。初代藩主・松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こした。 乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。.

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松田毅一

松田 毅一(まつだ きいち、1921年5月1日 - 1997年5月18日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。.

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板垣真誠

板垣 真誠(いたがき まこと、.

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村上弘明

村上 弘明(むらかみ ひろあき、1956年12月22日 - )は日本の俳優。本名同じ。 岩手県陸前高田市広田町出身。オスカープロモーション所属(元オフィス佐々木所属)。身長185cm。体重73kg。血液型A型。スリーサイズはB100・W80・H100cm。宮城県気仙沼高等学校卒業、法政大学法学部政治学科中退。特技は柔道で弐段。 妻は元モデル・田島都。子女は4人(二男・二女)。妹が1人いる(2人兄妹)。みなと気仙沼大使。.

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村上直 (歴史学者)

村上 直(むらかみ ただし 1925年7月2日- 2014年2月)は、日本の近世史研究者。法政大学名誉教授。大久保長安研究で知られる。.

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杉山博

杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988年10月20日)は日本の歴史学者、東京大学名誉教授。専門は日本中世史。.

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桐野作人

桐野 作人(きりの さくじん、1954年 - )は、歴史小説・時代小説(架空戦記を含む)の作家、歴史研究家。 鹿児島県出水市出身。鹿児島県立出水高等学校、立命館大学文学部東洋史学専攻卒業。歴史関係出版社の編集長を経て、編集プロダクションを設立。戦国史、主に薩摩島津氏の研究が多く、『真説 関ヶ原合戦』(学習研究社,2000年)、『真説 本能寺』(学習研究社2001年)などの実証的な専門書も執筆している。.

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桶狭間

桶狭間(おけはざま)は、愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域の汎称地名・歴史的地名である。 本来的には知多半島の基部にあたる丘陵地を指し『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:320-321ページ、後述するように室町時代初期にその発祥をみて以来現在に至るまで、尾張国知多郡桶廻間村とその村域を明治時代以降にほぼ踏襲した行政区域を指す地名でもある。行政区域としては2013年(平成25年)現在、名古屋市緑区を構成する町のうち9つに桶狭間の名が冠されている(「名古屋市緑区桶狭間」、「名古屋市緑区桶狭間上の山」、「名古屋市緑区桶狭間北2丁目」、「名古屋市緑区桶狭間北3丁目」、「名古屋市緑区桶狭間切戸」、「名古屋市緑区桶狭間清水山」、「名古屋市緑区桶狭間神明」、「名古屋市緑区桶狭間南」、「名古屋市緑区桶狭間森前」)。 他方、1560年6月12日(永禄3年5月19日)に知多郡北部から愛知郡南部にかけて展開された桶狭間の戦いの故地の名としてもよく知られている。名古屋市の桶狭間古戦場調査委員会が1966年(昭和41年)にまとめた『桶狭間古戦場調査報告』で桶狭間を「漠とした広がりを持った地名語」と表現しているように『桶狭間古戦場調査報告』:12ページ、その戦跡は桶廻間村の村域を大きく越えて広く残され、桶狭間の名を冠した地名・史跡・神社・公共施設・店舗・イベント、また桶狭間の戦いに由来するという同種のものが名古屋市と豊明市の両方に散見される。.

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桶狭間の戦い

今川義元の墓(明治9年(1876年)5月建立)桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)内 桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。.

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桃形兜

桃形兜(ももなりかぶと)は、日本の兜の一形式。戦国時代後期に発生した変わり兜の中でも、その先駆けをなす存在である竹村(2006)、p.

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桑原城の戦い

桑原城の戦い(くわばらじょうのたたかい)は、天文11年(1542年)6月から7月にかけて信濃諏訪郡で行なわれた甲斐守護の武田晴信軍と信濃諏訪の領主・諏訪頼重軍の合戦である。この合戦で諏訪惣領家は事実上滅亡した。.

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桑田忠親

桑田 忠親(くわた ただちか、1902年11月21日 - 1987年5月5日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。.

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櫛橋政伊

櫛橋 政伊(くしはし まさこれ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。異説もあるが(後述)、同城の最後の城主である。.

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武功夜話

『武功夜話』(ぶこうやわ)は、戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。ただし、成立年代や史料的価値には問題が指摘されている。.

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武家官位

武家官位(ぶけかんい)とは、主として戦国期から江戸期にかけて、武士が任官または自称した官位(官職と位階)をいう。.

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武家茶道

武家茶道(ぶけさどう)は、おもに江戸時代以降に武家社会の間で行われてきた茶道のこと。大名茶とも呼ばれる。多くの場合、各藩・各大名でそれぞれ公式の流儀が定められており、一つの領国内のみで行われていた流儀も多い。 江戸時代から家元制度をとっていた町人茶と違い、武家茶道においてはいわば各藩の殿様が家元に相当する立場であり、実務は茶道師範に任せていることが大半であるが、中には大名自ら深く茶道を嗜んでいる事例もある。 主な流儀に有楽流、三斎流、織部流、遠州流、上田宗箇流、石州流、鎮信流、不昧流、小笠原家茶道古流、安藤家御家流などがある。将軍家茶道師範役だった片桐石州の石州流は、特に多くの分派を持ち、武家社会に浸透していた。 廃藩置県以降、武家社会の崩壊とともに消滅した流儀も多いといわれる。.

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武田信虎

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。.

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歴史誕生

歴史誕生(れきしたんじょう)は、1988年8月4日から1992年3月5日までNHK総合で放送されたテレビ番組である。1988年8月に特別番組として放送され、1989年度・1990年度にレギュラー放送を開始した。1991年度に特別番組を放送した。.

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歴史文化ライブラリー

歴史文化ライブラリー(れきし ぶんか ライブラリー)とは、吉川弘文館が発行する、歴史書とその周辺分野を専門とする書き下ろし作品の叢書(選書レーベル)。四六判の並製、200程度のページ数で統一されている。1996年(平成8年)に創刊され、2006年(平成18年)に装丁が変更した。.

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比叡山焼き討ち (1571年)

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。またこの戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。.

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毛利元就

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。 安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。.

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江〜姫たちの戦国〜

『江〜姫たちの戦国〜』(ごう ひめたちのせんごく)は、2011年1月9日から同年11月27日まで放送された、NHK大河ドラマ第50作。原作・脚本・田渕久美子、チーフ演出・伊勢田雅也、音楽・吉俣良。全46回。.

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江良房栄

江良 房栄(えら ふさひで)は、戦国時代の武将。大内氏、陶氏の家臣。.

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河鰭実文

河鰭 実文(かわばた さねふみ)は、日本の公家、政治家。位階は従二位。爵位は子爵。 元老院議官、貴族院議員、錦鶏間祗候などを歴任した。.

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河東の乱

河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代の天文6年(1537年)から天文14年(1545年)までの間に、駿河国(静岡県中部および東部)で起こった駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦いである。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。河東一乱とも呼ばれる。.

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法尊

法尊(ほうそん、応永3年12月30日(1397年1月29日) - 応永25年2月15日(1418年3月22日))は、室町時代前期の真言宗の僧侶。仁和寺門跡・准后。室町幕府第3代将軍足利義満の子。母は『系図纂要』によれば御台所・日野業子だが異説もある。また生年については応永4年(1398年)説もある。 義満の後継を巡って義持・義嗣と並ぶ第3の候補者的な立場にあったとする見方もあるが、義満の死の翌年応永16年(1409年)11月7日に仁和寺門跡永助法親王から得度を受けて仁和寺に入る。応永19年(1412年)4月16日には准后宣下を受けている。これは3歳年上で後に天台座主となった義円(後の6代将軍足利義教)よりも早い待遇だった。苦修錬行を重ね、応永20年(1413年)4月22日に永助法親王から伝法潅頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代に摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だったが、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。 法尊の異例の速さの昇進は将軍職の継承を放棄した代償だと言われている。また原則として天皇の子しか就けない仁和寺門跡の地位に父・義満ではなく異母兄・義持の後ろ盾で就いた事実も注目される。.

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淀城

淀城(よどじょう)は、京都府京都市伏見区淀本町にあった日本の城である。現在は本丸の石垣と堀の一部が残っている。江戸時代には久松松平家、戸田氏、稲葉氏など譜代大名が居城した。.

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淀殿

淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)? - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。.

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渡辺武 (歴史学者)

渡辺 武(わたなべ たける、1937年10月8日 - )は、織豊時代の歴史学者。 大阪市出身。1960年京都大学文学部国史学科卒業。高槻高等学校教諭を経て、1962年大阪城天守閣学芸員、館長。2000年退任。専門は織豊時代史。.

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清洲会議

三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)/日本城郭資料館所蔵 清洲城模擬天守 清洲会議(きよすかいぎ)は、安土桃山時代の天正10年6月27日(1582年7月16日)に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある。.

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湊騒動

湊騒動(みなとそうどう)とは、出羽国湊城(秋田県秋田市土崎)などを主な戦場として日本の戦国時代に起こった一連の抗争である。ともに安東氏(近世秋田氏の祖)一族の檜山安東氏と湊安藤氏との間で繰り広げられた。一次史料に乏しく軍記物など後世編纂された諸史料に頼る部分が大きいため詳細は不明な部分が多い。従来は元亀元年(1570年)、天正17年(1589年)の2度起こったとされてきたが、郷土史家等による近年の説では湊騒動は3度起こり、前2回が混同され記録された形跡が見られるという。特に3度目(従来説では2度目)の天正17年(1589年)天正16年(1588年)と記す史料もある。の湊騒動を「湊合戦」とも呼ぶ。.

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朝比奈泰朝

朝比奈 泰朝(あさひな やすとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏の家臣。掛川城主。.

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本多隆成

本多 隆成(ほんだ たかしげ、1942年 - )は、日本の歴史学者、静岡大学名誉教授。.

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本能寺の変

本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃した。。。。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、天下人となった光秀であったが、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて、僅か13日後に光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代における最後の下剋上とも言われる。 光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。(各説については変の要因を参照).

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戸田宣成

戸田 宣成(とだ のぶなり、生年不詳 - 天文15年(1546年))は戦国時代の東三河地方の武将、渥美郡田原城の国人領主戸田氏の一族。田原城主戸田憲光(弾正忠)の子、通称は金七郎・橘七郎・三郎兵衛尉。初め同郡大崎郷(豊橋市老津町)に居住したが、天文6年(1537年)牧野氏の今橋城を奪い城主となった。。.

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戸部政直

戸部 政直(とべ まさなお)は、戦国時代の武将。通称の戸部新左衛門(とべ しんざえもん)の名で知られる。尾張国戸部城主。.

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戸沢盛安

戸沢 盛安(とざわ もりやす)は、安土桃山時代の出羽角館の大名。戸沢氏18代当主。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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明智軍記

月百姿「山城小栗栖月」(月岡芳年作) 明智光秀が小栗栖で落ち武者狩りに遭う場面 『明智軍記』(あけちぐんき)は、江戸時代中期の元禄初から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とする軍記物である。著者は不明。全十巻。毛利田庄太郎と伊丹屋茂兵衛の版がある。.

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春日局

春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)宮本義己「春日の局-大奥の権化となった家光の乳母-」(『別冊歴史読本』13巻16号、1988年)、養父は稲葉重通。 稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。 また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。.

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浜松城記

『浜松城記』(はままつじょうき)は、浜松城の起源と歴代の城主、および静岡県浜松市で行われる大凧揚げ行事「浜松まつり」の起源を記した書物。ただし内容としては誤りが多く、現在では偽書であると見られている(以下本文では『城記』と略す)。.

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浅井井頼

浅井 井頼(あざい いより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。後に政信、政賢、政春、政堅、長房と改名したと伝わる。.

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浅井鶴千代

浅井 鶴千代(あざい つるちよ、生年不詳 - 慶長7年2月17日(1602年4月9日))は、戦国時代から江戸時代にかけての女性。.

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浅井氏

浅井氏(あざいし、あざいうじ、)は、日本の氏族。京極家の家臣。近江国の国人、戦国時代の近江北部で勢力を持った戦国大名である。.

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斎藤道三

斎藤 道三/利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。道三流斎藤氏初代当主。 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。 父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍実父は土岐頼芸という説があるが、これを裏付けるような史料はないため後世の創作というのが有力とされる。、孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)『勢州軍記』では稲葉良通の甥とある。、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利『岐阜軍記』にある「斎藤系図」では長弘の子とも は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)『美濃国雑事記』の中の「長井系図」には長井利隆の子で斎藤道三の弟とある。 とも、または道三が若い頃の子であるともされる横山住雄著『斎藤道三』によれば道利は長井長弘ではなく道三の一族で庶子であったため嫡男義龍に斎藤氏を、道利に長井氏を継がせたのではないとかとしている。。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫、織田信長正室)など。.

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新潟県出身の人物一覧

新潟県出身の人物一覧(にいがたけんしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する新潟県出身の人物の一覧表である。.

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日朝関係史

日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では、日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。.

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日本100名城

日本100名城(にほん100めいじょう)は、数ある日本の城のうち財団法人日本城郭協会が2006年に定めた名城の一覧である。同協会が2007年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、2005年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、2006年4月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家などが審査の上で選定したとされる。2007年6月2日からは、選定された全国の100城を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』が開始された。名城番号が付いたスタンプは、同協会がデザインしたものである。選定された100名城を地域別に以下に列記する。2017年(平成29年)4月には、この選考から漏れた城郭から続日本100名城が定められた。.

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日本城郭協会

公益財団法人日本城郭協会(にほんじょうかくきょうかい)は、世界各国の城郭に関する研究、調査事業を実施している公益法人。東京都杉並区に本部を置く。元文部科学省生涯学習政策局社会教育課所管。.

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早川殿

早川殿/早河殿(はやかわどの、生年不詳 - 慶長18年2月15日(1613年4月5日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。相模国の戦国大名北条氏康の娘。甲相駿三国同盟の一環として、駿河国の戦国大名今川氏真の室となった。 実名は不明。法名から蔵春院殿、蔵春院とも称される。.

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早稲田大学の人物一覧

早稲田大学の人物一覧(わせだだいがくのじんぶついちらん)は、早稲田大学に関係する人物の一覧記事。(※数多くの卒業生・関係者が存在するためウィキペディア日本語版内に既に記事が存在する人物のみを記載する(創立者・役員・名誉教授・公職者等は除く))。.

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早稲田大学第一文学部

早稲田大学第一文学部(わせだだいがくだいいちぶんがくぶ)とは、早稲田大学にかつておかれていた学部の一つ。.

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早稲田大学教育学部

早稲田大学教育学部(わせだだいがくきょういくがくぶ)とは、早稲田大学の学部の一つである。.

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所理喜夫

所 理喜夫(ところ りきお、1929年(昭和4年)5月1日 - 2016年)は、日本史学者、駒澤大学名誉教授。.

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時代考証

時代考証(じだい こうしょう)とは、映画・テレビの時代劇や時代小説などで描かれる歴史的な過去の言葉遣い・名称や呼称・生活習慣・建築様式・美術様式・政治制度などが、史実として適正なものか否かについてを検証すること。 専門分野に応じて美術考証(びじゅつ こうしょう)・衣装考証(いしょう こうしょう)などともいい、また略して単に考証(こうしょう)ともいう。.

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