目次
857 関係: 原マルティノ、お盆、きょしちょう座、くじゃく座、つる座、とびうお座、ぬた、はえ座、ほうおう座、みずへび座、みなみのさんかく座、みなみじゅうじ座、ふうちょう座、かじき座、博多、十字架のヨハネ、印刷、千々石ミゲル、南公園 (福岡市)、南都諸白、南蛮貿易、反ユダヤ主義、口之津港、古代劇場 (アルル)、司教、坤輿万国全図、坂崎直盛、坂越、坂本城、士農工商、大友義乗、大友義鎮、大内義隆、大阪府指定文化財一覧、大村市、大村純忠、大村純頼、大村藩、大村氏、大洪水時代、天社土御門神道、天然痘、天道、天正かるた、天正地震、天正遣欧少年使節、天文 (元号)、太平記、太伯・虞仲、太陽 (タロット)、... インデックスを展開 (807 もっと) »
原マルティノ
原 マルティノ(はら マルティノ、Martinão, 永禄12年(1569年)ごろ - 寛永6年9月7日(1629年10月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタン。イエズス会員でカトリック司祭。マルチノ、またはマルチィノとも。天正遣欧少年使節の副使で、使節の少年4人の中では最年少であったが、語学に長け、ローマからの帰途のゴアでラテン語の演説を行い有名になる。
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お盆
お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。 かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。 明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった。
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きょしちょう座
きょしちょう座(きょしちょうざ、Tucana)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、「巨嘴鳥」の通称でも知られるオオハシをモチーフとしている。天の川銀河の伴銀河の1つ小マゼラン雲は、この星座の南東部、みずへび座との境界近くに広がって見える。
くじゃく座
くじゃく座(くじゃくざ、)は、現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された比較的新しい星座で、クジャクをモチーフとしている。星座の北端近くにあるα星でも赤緯-56°44′と南寄りに位置しており、日本国内から全容を見ることは難しい。
見る イエズス会とくじゃく座
つる座
つる座(つるざ、Grus)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、鶴をモチーフとしている。みなみのうお座の南側に位置しており、日本国内からは南の空の低いところに見える。
見る イエズス会とつる座
とびうお座
とびうお座(とびうおざ、Volans)は、現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、トビウオをモチーフとしている。天の南極に近くにあり、北緯26°より北の地域では星座の一部すら見ることができない。
見る イエズス会ととびうお座
ぬた
ぬた(饅)。
見る イエズス会とぬた
はえ座
はえ座(はえざ、Musca)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、ハエがモチーフとされている。天の南極の近くに位置しており、日本国内では南大東島以北の地域からは星座の一部さえも見ることができない。
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ほうおう座
ほうおう座(ほうおうざ、Phoenix)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、西洋の伝承に登場するフェニックスをモチーフとしている。日本国内からは鹿児島市(北緯32°)以北では星座の全域を見ることができない。また、北緯50°より北の地域からは全く見えない星座となる。
見る イエズス会とほうおう座
みずへび座
みずへび座(みずへびざ、Hydrus)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、ミズヘビをモチーフとしている。
見る イエズス会とみずへび座
みなみのさんかく座
みなみのさんかく座(みなみのさんかくざ、Triangulum Australe)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座である。北天のさんかく座と同じく、特定の事物をモチーフとした星座ではない。さんかく座よりもわずかに小さい。
みなみじゅうじ座
みなみじゅうじ座(みなみじゅうじざ、Crux)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、十字架をモチーフとしている。現代の88星座の中で最も小さい。4つの明るい星が形作る十字は「南十字星(みなみじゅうじせい)」「南十字」や「サザンクロス 」として知られる。
ふうちょう座
ふうちょう座(ふうちょうざ、Apus)は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、「極楽鳥」の通称でも知られるフウチョウをモチーフとしている。天の南極近くに位置し、人が常在する日本国内の島全てからその一部さえも見ることができないため「日本から全く見えない星座」の1つとされるが、沖ノ鳥島では ζ星など星座の一部が水平線よりも上に上がる。
見る イエズス会とふうちょう座
かじき座
かじき座(かじきざ、Dorado)は、現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、元々モチーフとされた魚は「シイラ」であったが、のちにカジキ の星座と見なされるようになった。南天の有名な銀河大マゼラン雲は、この星座とテーブルさん座の境界上に位置している。日本国内からは最南端の沖ノ鳥島でようやく星座の全域を見ることができる。北海道のほぼ全域で一部すら見ることができない。
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博多
博多総鎮守'''櫛田神社''' 博多(はかた)とは、九州地方北部の筑前国、現在の福岡県福岡市博多区の一部地域である。博多湾に面する港湾都市で、博多津などとも呼ばれた。 戦国時代の合戦により博多一帯が荒廃したが、豊臣秀吉による都市整備(太閤町割り)により、博多商人の協力の下、那珂川の東側に博多の町(流)が整備され、現在の博多区の基盤となる。江戸時代以降は黒田氏により那珂川の西側に築かれた城下町「福岡」と対をなす双子都市として栄えた。1889年の市政施行時に「福岡」と合併して福岡市が誕生した。 現代においては博多区の中心である博多駅周辺のエリアを指すことが多く、広義では福岡市自体を指すこともある。古くからの博多の市街地は博多部や博多旧市街と呼ばれる。
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十字架のヨハネ
十字架のヨハネ(じゅうじかのヨハネ、Juan de la Cruz, 1542年 - 1591年12月14日)は16世紀のスペインのカトリック司祭、神秘思想家。 アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。カトリック教会・聖公会で聖人であり、教会博士の一人。記念日は12月14日。この記念日はアメリカ福音ルター派教会でも祝われている。
印刷
左上から順に: 紀元前1800年ごろのバビロニアの円筒印章、インドの捺染用木版印刷ブロック、李氏朝鮮の活字、(2行目)活版印刷機、リトグラフ印刷機、オフセット印刷機、(3行目)ライノタイプ、デジタル印刷機、3Dプリンタ 印刷(いんさつ、printingあるいはpress)とは、版にインキをつけて、それを紙(など)に押し付け、版と表裏が逆の模様を何枚も簡単に速くつくること、その作業(仕事)『日本大百科全書』【印刷】。
見る イエズス会と印刷
千々石ミゲル
千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel、永禄12年〈1569年〉? - 寛永9年12月14日〈1633年1月23日〉?)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。 「ミゲル」は洗礼名で、本名は千々石 紀員(ちぢわ のりかず)、棄教後は、千々石 清左衛門(ちぢわ せいざえもん)。肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された4人の少年使節の1人で、4人の中で唯一棄教したと伝えられている。
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南公園 (福岡市)
南公園(みなみこうえん)は福岡県福岡市中央区にある福岡市動植物園とその周囲を総称した都市公園、または、公園の一部を占める町丁の地名。福岡市の中心地にあるが、閑静な照葉樹林を形成している。公園付近の丘陵はかつてと呼ばれていた。
南都諸白
南都諸白(なんともろはく)とは、安土桃山時代から江戸時代中期にかけて、最上質の清酒として名声を保った奈良流の酒の総称である。
見る イエズス会と南都諸白
南蛮貿易
南蛮貿易(なんばんぼうえき)は、日本の商人、南蛮人、明時代の中国人、およびヨーロッパとアジアの混血住民との間で行われていた貿易である。南蛮人とは、ポルトガル人とスペイン人を指す。例えばキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルがいる。時期は16世紀半ばから17世紀初期、場所は東南アジアから東アジアの海域にかけて行われた。
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反ユダヤ主義
反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと「反ユダヤ主義」世界大百科事典 第2版。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと。 19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(antisemitism)と呼び、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(judeophobia,Judenhass)とは区別して人種論的反セム主義ともいう下村 1972, p.103-105.。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した。
見る イエズス会と反ユダヤ主義
口之津港
口之津港(くちのつこう)は、長崎県南島原市にある地方港湾。長崎県が管理する。
見る イエズス会と口之津港
古代劇場 (アルル)
2本の柱の残る劇場跡 アルルのヴィーナス アルルの古代劇場は、紀元前1世紀末に建造されたローマ劇場の遺跡。アルルの古代遺跡群の中でも、円形闘技場に次ぐ規模を誇った巨大建築物の遺跡であり、現在は市内の他のローマ遺跡等とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。
司教
司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・朝鮮語は訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。
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坤輿万国全図
坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず、坤輿萬國全圖)は、明末にカトリック宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)が作成した世界地図。「亜細亜」「赤道」など、漢語に翻訳されたヨーロッパの地理用語や地名などが記されている。「坤輿」は大地や地球の意。
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坂崎直盛
坂崎 直盛(さかざき なおもり) / 宇喜多 詮家(うきた あきいえ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。宇喜多忠家の子。宇喜多直家の甥にあたる。宇喜多秀家に仕えた後に徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いの功により津和野城主となって坂崎と改姓。
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坂越
坂越(さこし)は、兵庫県赤穂市東部の瀬戸内海坂越湾に面する港町。 都市景観大賞(都市景観100選)にも選ばれた伝統的建造物群による古い町並みと、秦河勝聖域の島、生島(いきしま:国の天然記念物、瀬戸内海国立公園特別保護地区、ひょうごの森百選)を包むように広がる美しい坂越湾の眺望で知られる。播州赤穂産『坂越のかき』の養殖生産地である。
見る イエズス会と坂越
坂本城
坂本城(さかもとじょう)は、近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本)にあった日本の城。明智光秀の居城として築かれ、琵琶湖に面する平城。遺構は市街地化によりほぼ消滅している。
見る イエズス会と坂本城
士農工商
士農工商(しのうこうしょう)または四民(しみん)は「国中のすべての人びと」といった意味合いの儒学的表現である。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになった。 1990年代頃からは、同時代的に現実に施行された制度ではないと否定する考えもみられる(東京書籍小学校(平成27年度から)社会 よくある質問Q&A)。
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大友義乗
大友 義乗(おおとも よしのり)は、安土桃山時代の武将、江戸時代の旗本。大友氏第23代当主。 父は大友義統(吉統)、母は大友氏家臣・吉弘鑑理(高橋紹運の父)の娘・菊姫。幼名は塩法師、通称は惣五郎。諱は初め能述(よしのぶ)、その後に能延さらに義延(読みは同じ)、次いで義乗と改名した。義述、能乗とも。
見る イエズス会と大友義乗
大友義鎮
大友 義鎮(おおとも よししげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。キリシタン大名でもある。大友氏の21代当主。宗麟(そうりん)の法号で知られている。洗礼名は、ドン・フランシスコ。豊後の王と称された。 父は20代当主・大友義鑑。母は公家の坊城氏の娘とする説がある。 弟に大内義長、塩市丸、親貞など。子に義統(吉統)、親家、親盛など。 中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、カンボジア、ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。 当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。
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大内義隆
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名・公卿。周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主。 第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。義隆の時代には領土的に全盛期を迎えるとともに大内文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶晴賢に謀反を起こされ、義隆と一族は自害した。
見る イエズス会と大内義隆
大阪府指定文化財一覧
大阪府指定文化財一覧(おおさかふしていぶんかざいいちらん)は、大阪府指定の文化財や史跡等を一覧形式でまとめたものであるが、すべてを掲載しているわけではない。
大村市
大村市(おおむらし)は、長崎県において諫早市と共に県央とされる市。長崎空港があることから、長崎県の空の玄関口としての面も併せ持つ。
見る イエズス会と大村市
大村純忠
大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第12代当主。 永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。
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大村純頼
大村 純頼(おおむら すみより)は、肥前国大村藩の第2代藩主。大村純忠の孫に当たる。
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大村藩
大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。中世以来の領主で、戦国期には戦国大名化した大村氏が、豊臣政権下で大名としての地位を安堵され、近世大名に移行したものである。大村藩は幕末・廃藩置県まで存続した。
見る イエズス会と大村藩
大村氏
大村氏は、武家・華族だった日本の氏族。戦国時代に肥前国彼杵郡を本拠とした戦国大名だった。江戸時代には肥前大村藩主となり、戊辰戦争で官軍として奮戦。維新後は華族となり当初子爵家だったが、後に維新の功により伯爵家に陞爵した。
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大洪水時代
ポーランドの歴史において大洪水(だいこうずい、〈ポトプ〉)またはスウェーデン大洪水(〈ポートプ・シュフェツキ〉、)は、17世紀中盤のスウェーデン軍の侵入に始まるポーランド・リトアニア国家における被害と荒廃を指す。広義ではフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)、ロシア・ポーランド戦争(1654年 - 1667年)、アンドルソヴォ条約(1667年)、北方戦争(1654年 - 1660年)の期間に用い、狭義ではスウェーデンがポーランド・リトアニア国家を侵略し占拠した北方戦争(1654年 - 1660年)のみに用いる。ポーランド史で言う「大洪水」はスウェーデン史では「北方戦争」と呼ぶ。 ポーランドにおいて大洪水(ポトプ)はスウェーデン軍の攻撃に始まる17世紀の大混乱を「ノアの箱舟」で有名な大洪水になぞらえ、後世まで記憶された表現である福嶋千穂「8.
見る イエズス会と大洪水時代
天社土御門神道
天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)、または土御門神道(つちみかどしんとう)、は、福井県大飯郡おおい町(旧名田庄村地区)に本庁を置く宗教団体。呼称については「土御門神道」で良いが、江戸時代に土御門家が「陰陽道宗家」として霊元天皇より賜った「天社宮」(てんしゃぐう)の宮号にある「天社」を冠して「天社土御門神道」とも呼ぶ。 安倍晴明を祖とする陰陽道宗家・安倍氏土御門家が伝えてきた陰陽道を基幹としているが、中世には吉田神道の影響を受けている上に、江戸時代に神道家で儒家の山崎闇斎の提唱した垂加神道の思想を取り込んで「神道化」を果たした「天社神道(安家神道ら土御門神道)」であるため、厳密に言えば陰陽道そのものではない。現在は神道系団体であるまた、現在の代表は土御門家の当主ではなく、土御門家の家政を司っていた家臣の家柄である藤田家が担っている。
天然痘
天然痘(てんねんとう、variola, smallpox)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである(IDWR 2001年第40号掲載)。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。
見る イエズス会と天然痘
天道
天道(てんどう、てんとう)とは、太陽が天空を通過する道をさすが、天体の運行には一定の規則性があるため、転じて天然自然の摂理、天理を意味するようになった。古代中国の原始宗教において、天地に存在する万物の運作は天の意思である「天命」によって決められたものであるとする思想が存在した。これが儒教の経典などを通して日本でも知られるようになり、さらに仏教や日本の在来信仰からも影響を受け、宿命論的な要素を持つ天道思想として中世から近世にかけて広く唱えられた。
見る イエズス会と天道
天正かるた
天正かるた(てんしょうかるた)とは、室町時代末期にポルトガルの貿易船の船員によって日本へ伝えられたカードゲームを、1573年から1592年までの天正年間に国産化したもので、いわゆるトランプの一種である。また、これを使った「テンショ」「テンシュ」など、めくり系遊技法の呼称の語源になっている。カルタとは、ポルトガル語で「カード」を意味する外来語で、「骨牌」「加留多」「賀留多」「歌留多」「加留太」「加留田」「加類多」「可留多」「刈田」「軽板」「博冊」「樗蒲」「角牌」「闘牌」と様々な漢字が充てられた。 棍棒(波宇,巴宇・パウ/青・アオ/花・ハナ)、刀剣(伊須波多・イスパーダ/伊須,伊寸・イス/赤・アカ/釼・ケン)、金貨(於宇留,於留,遠々留・オウル/太鼓・タイコ/目玉・メダマ/玉・タマ)、聖杯(古津不,骨扶,乞浮・コップ/コツ/唇・クチビル/壺・ツボ/蕪・カブ/葱・ネギ/河童・カッパ)の4種類の紋標(スート)、1(豆牟・ツン/虫・ムシ/ピン)から9までの数札と女王(ソウタ/十・ジュウ)、騎馬(カバ/馬・ウマ/牟末・ンマ)、国王(レイ/切,岐利,桐・キリ/腰・コシ)の絵札で構成される計48枚。初期のタイプは、イタリア、スペイン、ポルトガルで使用されていたラテンタイプのカードデザインの模造であったが、国王や女王の札に描かれていた盾は認識されずに描かれないまま消えている。やがて、国王や騎馬の鎧兜は日本の武者風の物へと変化させ、75枚の「うんすんかるた」や97枚の「すんくんかるた」のように、紋標や枚数を拡張して多人数に対応したカルタが考案された。
見る イエズス会と天正かるた
天正地震
天正地震(てんしょうじしん)は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部地方で発生した巨大地震である。 2日前の11月27日(1月16日)にも地震の記録があり、27日に越中・飛騨(現在の富山・岐阜)を震源とするM6.6-7.0の地震、29日に美濃・尾張・伊勢(現在の岐阜・愛知・三重)を震源とするM7.8-8.0の地震が別々に発生したとする説と、29日にM8.2の巨大地震が単一で発生したとする説がある。なお、11月30日(1月19日)に誘発地震と考えられる地震が発生した。 天正大地震(てんしょうおおじしん)、天正の大地震(てんしょうのおおじしん)とも呼ばれる。また、各地の被害から長浜大地震(ながはまおおじしん)、白山大地震(はくさんおおじしん)、木舟大地震(きふねおおじしん)、天酉地震(てんゆうじしん)とも呼ばれる。
見る イエズス会と天正地震
天正遣欧少年使節
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
天文 (元号)
天文(てんぶん、てんもん、)は、日本の元号の一つ。享禄の後、弘治の前。1532年から1555年までの期間を指す。この時代の天皇は後奈良天皇。室町幕府将軍は足利義晴、足利義輝。
太平記
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の1つである。いわゆる歴史文学に分類され、「日本の歴史文学の中では最長の作品」とされる龍谷大学図書館蔵『太平記』の研究。ジャンルは軍記物語。成立は室町時代。
見る イエズス会と太平記
太伯・虞仲
太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄で、文王の伯父にあたる。 太伯は長男。呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。 虞仲は次男。名は雍。呉仲とも。
見る イエズス会と太伯・虞仲
太陽 (タロット)
ウェイト版タロットの太陽 マルセイユ版タロットの太陽 太陽(たいよう、英:The Sun, 仏:Le Soleil)は、タロットの大アルカナに属するカードの1枚。別名「二つの太陽のカード」。 カード番号は「19」。前のカードは「18 月」、次のカードは「20 審判」。
女子教育
女子教育(じょしきょういく、Female education)は、女子に対する教育のことである。 女子は人間であり、本質的には、女子教育は教育の基本原則である「人間の可能性を一人一人の中から引き出し、能率的・効果的に成長を促す」ものであるべきであるが、諸要因によりこの原則は達成されていない一番ヶ瀬 (1967):10ページ。また、女子が人間であるからといって、男女の性差を無視してまったく同じ教育を施してもよいとは一概にはいえない一番ヶ瀬 (1967):29ページ。保健体育などがその例とされる。
見る イエズス会と女子教育
奴隷
奴隷(どれい、英:slave)とは、人間でありながら人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人のことである。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。 1948年に国際連合で採択された世界人権宣言にて、下記のように宣言された。
見る イエズス会と奴隷
奴隷貿易
奴隷貿易(どれいぼうえき、slave trade)とは、奴隷を物品のように国家間で売買する貿易である。
見る イエズス会と奴隷貿易
妖刀伝
『妖刀伝』(ようとうでん)は、1987年から1988年にかけて発売された全3巻の伝奇時代劇OVA作品および漫画作品。正式タイトルは『戦国奇譚妖刀伝』(せんごくきたんようとうでん)。織田信長とその配下の妖魔「朧衆」に、魔を滅ぼせる妖刀を持って立ち向かう3人の忍者(綾之介、左近、龍馬)の戦いを描く。
見る イエズス会と妖刀伝
妙法院
妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号は南叡山。本尊は普賢菩薩。開山は最澄と伝わる。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている。
見る イエズス会と妙法院
学校法人上智学院
学校法人上智学院(がっこうほうじんじょうちがくいん)は、日本の学校法人。
孫子 (書物)
孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ 『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の軍事理論書のうち、最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。 『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。
実体
実体(じったい、,, )は、古代ギリシアから使われている古典的な哲学用語。文脈によって様々な意味をもつが、基本的には「真に存在するもの」を意味する。
見る イエズス会と実体
宝暦暦
宝暦暦(ほうりゃくれき)は、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法(和暦)である。正式には宝暦甲戌元暦(ほうれきこうじゅつげんれき)という。 将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。
見る イエズス会と宝暦暦
宣教師
宣教師(せんきょうし、、)は、イエス・キリストまたは教会から派遣されて福音を伝える人 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典。宣教師の説明。。キリスト教会が外国伝道のために派遣する職務者世界大百科事典 第2版。 なお世界大百科事典 第2版では、広義には、広くキリスト教会教育や(キリスト教系の)社会福祉事業に従事する人全般、つまりキリスト教会の一般信徒も含めて、教会から派遣されてそうした(キリスト教系の)事業に携わる人、を指す、と説明し、狭義には特に司祭や牧師の中で外国の教会に派遣された人をいう、と説明している。
見る イエズス会と宣教師
宗教系旧制専門学校
龍谷大学大宮学舎北黌 / 1879年龍大の前身である大教校の寄宿舎として築造 宗教系旧制専門学校(しゅうきょうけいきゅうせいせんもんがっこう)では、戦前の日本において、仏教系・キリスト教系など宗教者・宗教団体により設立された専門学校について概観する(ただし実業専門学校は含まない。また、戦前期において神道は「宗教」とは見なされていなかったが、この項目では神道系の学校も扱う)。 なお、宗教系専門学校のうちかなりの割合を占める女子専門学校については、当該項目も参照のこと。
宗教改革
ティンダルの殉教 フスの殉教 神はわがやぐら キリスト教綱要 宗教改革(しゅうきょうかいかく、Protestant Reformation)とは、16世紀(中世末期 - 近世)の西方キリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。 新教として、プロテスタントにはルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会などが成立した。この他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も、当時は力を持っていた。また、後述の通り、ヘンリー8世によって創始されたイングランド国教会はプロテスタント諸派とは成立背景を異にし、教義や典礼もカトリックに近い。
見る イエズス会と宗教改革
安土桃山時代
安土城 豊臣秀吉 伏見城(洛中洛外図屏風の中の伏見城の部分) 聚楽第を描いている聚樂第屏風圖(三井文庫蔵) 安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
見る イエズス会と安土桃山時代
富士山
富士山(ふじさん)は、静岡県(富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である日本の活火山で3000 mを超えるのは、富士山・御嶽山・乗鞍岳の3つである。。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)日本が玉山(新高山)のある台湾を領有していた時期を除く。の独立峰で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。 数多くの芸術作品の題材とされ芸術面のみならず、気候や地層など地質学的にも社会に大きな影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。 古来より霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季シーズンには富士登山が盛んである。 日本三名山(三霊山)、日本百名山『日本百名山』 深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4、pp269-272、日本の地質百選に選定されている。また、1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。
見る イエズス会と富士山
富岡城
富岡城周辺の航空写真(1974年撮影・国土航空写真) 富岡城(とみおかじょう)は、熊本県天草郡苓北町富岡(肥後国天草郡)にあった日本の城。本丸跡に熊本県富岡ビジターセンターが整備され、櫓・高麗門なども復元整備されている。
見る イエズス会と富岡城
小西隆佐
小西 隆佐(こにし りゅうさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の豪商。豊臣秀吉の家臣として堺奉行に抜擢された。熱心なキリシタンで、小西行長の父親。
見る イエズス会と小西隆佐
山口サビエル記念聖堂
山口サビエル記念聖堂(やまぐちサビエルきねんせいどう)は、山口県山口市にあるキリスト教カトリック広島教区の聖堂。ザビエル記念聖堂とも呼ばれるが、施設名としてはサビエルと濁らないのが正式である。
山村才助
山村 才助(やまむら さいすけ、明和7年(1770年)- 文化4年9月19日(1807年10月20日))は、江戸時代後期の地理学者。父は土浦藩士の山村昌茂(司)、母はまき。才助は通称で、名は昌永、字は子明、号に夢遊道人。
見る イエズス会と山村才助
山本七平
山本 七平(やまもと しちへい、1921年(大正10年)12月18日 - 1991年(平成3年)12月10日)は、日本の評論家。山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活動した。
見る イエズス会と山本七平
岐阜市
岐阜市(ぎふし)は、岐阜県の中南部に位置する市。岐阜県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市に指定されている。 政令指定都市でないものの、人口密度は政令指定都市である熊本市や北九州市、札幌市などよりも高い。
見る イエズス会と岐阜市
岡本大八事件
岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した江戸時代初期の疑獄事件。
見る イエズス会と岡本大八事件
工業化
工業化(こうぎょうか、industrialization)またはインダストリアリゼーションとは、農業中心の社会から工業中心の社会へと移り変わること。18世紀半ばのイギリスの産業革命に端を発し、現在に至るまで続く、農耕社会から産業社会へと変化するプロセスである。産業化の訳語が用いられる場合もある。
見る イエズス会と工業化
上杉景勝
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代目。 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石(「上杉家記」では120万1,200石余、上方の在京領は除く)を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は石田三成ら西軍に付き敗北した。戦後に、徳川家康から上杉家の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。
見る イエズス会と上杉景勝
上智大学
上智大学(じょうちだいがく、英: Sophia University、羅: Universitas Sedis Sapientiae)は、東京都千代田区紀尾井町7番1号に本部を置く日本の私立大学。1913年創立、1928年大学設置。日本で唯一の教皇庁立大学であり、最難関私立大学の一角としても知られる。
見る イエズス会と上智大学
上智大学の人物一覧
上智大学の人物一覧(じょうちだいがくのじんぶついちらん)は、上智大学に関係する人物の一覧記事。
中国大返し
中国大返し(ちゅうごくおおがえし)または備中大返し(びっちゅうおおがえし)は、戦国時代末期の天正10年6月(西暦1582年6月 - 7月)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。 備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約230kmを踏破した、日本戦史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。
見る イエズス会と中国大返し
中国学
中国学(ちゅうごくがく、)は、中国の事物全般、とりわけ中国の思想・文化・言語・歴史に関する学問の総称であり、とくに中国人以外による中国に関する学術研究をさす。東洋学の一種。
見る イエズス会と中国学
中国本土
清朝末期の中華帝国 (Chinese Empire) の地図(1910年)右下記載の凡例(REFERENCE)によると、清の領土は濃い黄色の「中国」 (China) と薄い黄色の「中国の属領」 (Dependencies of China)とに塗り分けられている。また、下線の引かれた都市名に対する解説文では「中国及びチベット」(China and Tibet)と両者を別個に区分している。 中国本土(ちゅうごくほんど、China proper)は、中国の領域の中で歴史的に漢民族が多数派民族である地域を、清代以降中国に内包された他の地域(外中国)と対比して指す表現。
見る イエズス会と中国本土
中浦ジュリアン
中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Julian, Nacaura Julian, Nacaura Juliaô, 中浦寿理安、 1568年2月8日ころ〈永禄11年正月〉 - 1633年10月21日〈寛永10年9月19日〉)は、肥前国彼杵郡中浦(現・長崎県西海市西海町中浦)の城主・小佐々兵部少輔甚五郎純吉(小佐々純吉、こざさ すみよし)の一人息子で、中浦は地名、ジュリアンは洗礼名で、幼名は小佐々甚吾(こざさ じんご)。安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。イエズス会士でカトリック教会の司祭となり、殉教して福者となった。
希望の大地
『希望の大地』 (Good Soil) は、2007年のアメリカ映画。2007年11月3日にアメリカで劇場公開。
見る イエズス会と希望の大地
世界平和記念聖堂
世界平和記念聖堂(せかいへいわきねんせいどう)は、広島県広島市中区にある、キリスト教(カトリック)の聖堂。カトリック幟町教会(カトリックのぼりちょうきょうかい)の聖堂であり、カトリック広島司教区の司教座聖堂となっている。広島世界平和記念聖堂(ひろしませかいへいわきねんせいどう)とも呼ばれる。 建築家村野藤吾設計によるRC造、三廊式バシリカの教会堂で、1950年(昭和25年)8月6日に着工され正確には、1950年(昭和25年)8月6日定礎式、1950年(昭和25年)10月8日着工である。石丸紀興1988、2頁。、1954年(昭和29年)8月6日に竣工した。2006年(平成18年)7月5日には重要文化財に指定されている。
三十年戦争
三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、Dreißigjähriger Krieg, Thirty Years' War)は、主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「三十年戦争」である。 ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立、オーストリア,スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を背景とし,オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した。当初は皇帝。
見る イエズス会と三十年戦争
三部会
三部会(さんぶかい)は、通常は全国三部会(、エタ・ジェネロ)を指し、これはフランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会のことである。他にも地方三部会(州三部会:、エタ・プロヴァンショ)もあった。全国三部会は全三身分会議『アンシアン・レジーム』p52とも日本語訳される。以下、単に「三部会」という。
見る イエズス会と三部会
九州平定
九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」「九州の役」の呼称は参謀本部(1889-1945)編集『日本戦史』による。、「九州攻め」、「島津攻め」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
見る イエズス会と九州平定
平戸島
平戸島(ひらどじま)は、長崎県北部、北松浦半島の西海上にある島。全域が長崎県平戸市に属する。面積163.42kmは、島としては日本で20番目、長崎県で4番目の面積である。
見る イエズス会と平戸島
平戸ザビエル記念教会
教会堂内部(2011年6月撮影) 寺院と教会の見える風景 平戸ザビエル記念教会(ひらどザビエルきねんきょうかい)は、長崎県平戸市鏡川町にあるカトリックの教会および聖堂である。教会の保護者は大天使聖ミカエルだが『長崎游学(2) 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』54頁 長崎文献社 ISBN 978-4888510912、聖フランシスコ・ザビエルの3度の平戸訪問を記念して1971年(昭和46年)にザビエルの像が聖堂の脇に建てられたことから「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」とも呼ばれるようになり、その後、現在の名称にあらためられた 平戸観光協会、2020年11月9日閲覧。
幻灯機
幻灯機(げんとうき、magic lantern)とは、ランプとレンズを使って、ガラスに描かれた画像を適当な幕に投影するスライド映写機の原型にあたる機械、あるいはその後身であるスライド映写機の古典的呼称である。 ジョゼフ・ニーダムによれば、2世紀の中国で既に幻灯機が文献に現れているとされている。西洋では、15世紀以前からランタンによってイメージを拡大投影する装置が作り出されていたが、それにレンズとスライドの機構を取り入れた幻灯機の再発明には、イエズス会のアタナシウス・キルヒャーと、オランダ人プロテスタントのクリスティアーン・ホイヘンスが貢献したと言われている大久保遼 飯田豊(編)『メディア技術史:デジタル社会の系譜と行方』 改訂版第1刷 北樹出版 2017 pp.31-33,40-45.。
見る イエズス会と幻灯機
幾何学
最先端の物理学でも用いられるカラビ-ヤウ多様体の一種。現代幾何学では図も描けないような抽象的な分野も存在する。 幾何学(きかがく、)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である広辞苑第六版「幾何学」より。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシアにて独自に発達しブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学」より。、これらのおもな成果は紀元前300年ごろエウクレイデスによって『ユークリッド原論』にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパでユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場した。
見る イエズス会と幾何学
乾隆帝
皇子時代の弘暦(北京故宮博物院蔵) 即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年) 乾隆帝(カスティリオーネ画) 乾隆帝 儀礼用甲冑を着けた乾隆帝(カスティリオーネ画、1758年) 乾隆帝(カスティリオーネ画) 乾隆帝の南巡(1765年) 乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より) 晩年の乾隆帝(北京故宮博物院蔵) 乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。
見る イエズス会と乾隆帝
度島
度島(たくしま)は、長崎県平戸市に属する島。
見る イエズス会と度島
京極高次
京極 高次(きょうごく たかつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。若狭国小浜藩の初代藩主。
見る イエズス会と京極高次
康熙帝
康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。満洲人、君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。 西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされ、大帝とも称される。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝'''聖'''宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康熙帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。
見る イエズス会と康熙帝
人名
仮名(けみょう)の内の輩行名(はいこうめい)に由来する。 魁斎芳年筆。榊原鍵吉や、その弟子の松平康年などの名が見える。 は、特定の人間社会において特定の個人を弁別するために使用される言語的表現又は記号の一つ。 その人物の家族や家系、地域など共同体への帰属、信仰や願い、職掌、あるいは一連の音の繋がりなどをもって、人(ひと)の個人としての独立性を識別し呼称する為に付けられる語。「人名」事典は便宜上、戸籍名や通称などを使用する場合が多い。本項で扱う「人名」とは一般に「正式な名」「本当の名前」といった意を含む。 ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである (shall have the right from birth to a name)」と定めている。
見る イエズス会と人名
人魚
―ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(画)、1900年。 民間伝承において、人魚は、女性の頭と上半身、魚の尾を持つ水生生物であり、ヨーロッパ、アジア、アフリカを含む世界中の多くの文化の民間伝承に登場する。 人魚は時折、洪水、嵐、難破船、溺死といった危険な出来事と関連付けられる。他の民間伝承(あるいは同じ伝承内でも)では、彼女たちは慈悲深く、または恵みを与える存在とされ、人間と恋に落ちることもある。 人魚の男性相当物はマーマンと呼ばれ、これも民間伝承や紋章学においてはお馴染みの存在である。マーマンに関する伝承や目撃例は人魚ほど一般的ではないが、一般的には彼らが女性の人魚と共存していると考えられている。男性と女性を合わせた存在は、時折、マーフォーク(人魚族)またはマーピープル(人魚人)と呼ばれる。
見る イエズス会と人魚
人身売買
人身売買(じんしんばいばい)とは、人間を物品と同様に売買すること。現代ではこれに類する行為に対して、多様な実態と法的位置づけの、広い範囲に用いられている。
見る イエズス会と人身売買
二十八宿
二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものであり、二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)の事である。二十七宿・十二直などと共に使用されることが多い。
見る イエズス会と二十八宿
広島学院中学校・高等学校
広島学院中学校・高等学校(ひろしまがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、広島県広島市西区に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。 カトリック修道会のイエズス会を設立母体としている。
五島列島
五島列島の位置 五島列島(ごとうれっとう)は、長崎県西部に位置する列島。人口は約7万人。北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて152の島々からなる。旧松浦郡。
見る イエズス会と五島列島
仁祖
仁祖(じんそ、インジョ、1595年12月7日 - 1649年6月17日、在位:1623年4月12日 - 1649年6月17日)は李氏朝鮮時代の第16代国王。諱は倧(そう、ジョン、종)。クーデター(仁祖反正)によって即位し、親明反後金政策を取ったため、後金軍の侵攻を受け、後に清と改称した後金に再度侵攻され服属を余儀なくされた。
見る イエズス会と仁祖
仮面の男
『仮面の男』(かめんのおとこ、The Man in the Iron Mask)は、1998年製作のアメリカ映画。アレクサンドル・デュマの『ダルタニャン物語』をベースに、ルイ14世と鉄仮面伝説、老いた三銃士の復活と活躍、王妃とダルタニアンの秘めた恋を描いた歴史娯楽活劇である。
見る イエズス会と仮面の男
延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ、)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する。 平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。 比叡山、または叡山(えいざん)とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺(ほくれい)、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。
見る イエズス会と延暦寺
伊東マンショ
グレゴリウス13世の謁見の場面 伊東 マンショ(いとう マンショ、Mancio、伊東 満所、永禄12年〈1569年〉? - 慶長17年10月21日〈1612年11月13日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。マンショは洗礼名、本名は伊東 祐益(いとう すけます)。
見る イエズス会と伊東マンショ
弥助
弥助(やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人男性。宣教師の奴隷または従者として戦国大名・織田信長に謁見して気に入られたことで、宣教師から信長に進呈された。信長が死去するまでの15か月間、信長に仕え、その家臣に召し抱えられた。
見る イエズス会と弥助
張献忠
張 献忠(ちょう けんちゅう、1606年9月18日 - 1647年1月2日)は、明末の農民反乱の指導者。字は秉吾、号は敬軒。
見る イエズス会と張献忠
徐光啓
徐 光啓(じょ こうけい、嘉靖41年3月21日(1562年4月24日) - 崇禎6年10月7日(1633年11月8日))は、明代末期の中国の暦数学者。有名なキリスト教徒。字は子先、号は玄扈、洗礼名はパウルス(Paulus)。
見る イエズス会と徐光啓
後藤家信
後藤 家信(ごとう いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。肥前後藤氏20代当主(武雄領主)。
見る イエズス会と後藤家信
信仰告白
信仰告白(しんこうこくはく、Confession of Faith)とは、信仰を神と人とに告白すること、また表現した文書を指す。信条とも呼ぶが、分けて用いられる語である。
見る イエズス会と信仰告白
信長 (漫画)
『信長』(のぶなが)は、工藤かずや原作、池上遼一作画による日本の漫画作品。
信長 KING OF ZIPANGU
『信長 KING OF ZIPANGU』(のぶなが キング オブ ジパング)は、NHKで1992年1月5日から12月13日に放送された30作目の大河ドラマ。
修道士
聖大アントニウスのイコン(作者不詳・ギリシャ正教) 修道士(しゅうどうし、, Μοναχός, Monachus)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。
見る イエズス会と修道士
修道会
修道会(しゅうどうかい)は、キリスト教の西方教会における会(組織)。カトリック教会においては教皇庁の認可を受けて、誓願を済ませ、共同生活をする。会員は「修道者」(特に男性は「修道士」、女性は「修道女」)と呼ばれる。 なお、東方諸教会・正教会・聖公会・ルター派にも修道院制度は存在するが、前二者の東方教会には修道会制度は存在しない。
見る イエズス会と修道会
修辞学
演説の練習をするデモステネス 弁論術』の著者アリストテレス修辞学(しゅうじがく、ρητορική, rhētorikē、rhetorica、rhetoric)は、弁論・演説・説得の技術に関する学問分野。弁論術、雄弁術、説得術、レートリケー、レトリックともいう。 西洋に古くからある学問分野で、その起源は古代ギリシアにさかのぼる。中世ヨーロッパでは大学の自由七科の一つに数えられた。 現代でいうレトリック(修辞技法・文彩)とはやや意味が異なり、基本的には弁論・演説の技術で、聴衆の説得・扇動・魅了を目的とするかなり政治的なもの。そのため修辞学では、聴衆を丸め込む心理操作の技術が大きな位置を占め、さらに演説者の身ぶりや発声法なども重要視された。つまり、修辞学は文彩だけでなく、言語学・政治術・話術・演技論・感情分析・思考法などの総体だった。
見る イエズス会と修辞学
志岐鎮経
志岐 鎮経(しき しげつね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。天草五人衆の一角志岐氏16代当主。肥後国志岐城主。志岐麟泉の名で知られる。
見る イエズス会と志岐鎮経
志筑忠雄
鎖国論、写本(江戸後期) 志筑 忠雄(しづき ただお、宝暦10年〈1760年〉- 文化3年7月3日〈1806年8月16日〉)は、江戸時代長崎の蘭学者、阿蘭陀稽古通詞(のち辞職)。
見る イエズス会と志筑忠雄
土崎港
土崎港(つちざきみなと)は、秋田県秋田市北部の地区。単に「土崎」(つちざき)とも呼ばれる。土崎港北一丁目 - 七丁目、土崎港中央一丁目 - 七丁目、土崎港西一丁目 - 五丁目、土崎港東一丁目 - 四丁目、土崎港南一丁目 - 三丁目、土崎港穀保町と、住居表示未実施の土崎港御蔵町、土崎港下浜町、土崎港相染町、土崎港古川町がある。人口は19,975人(2020年10月1日現在、住民基本台帳人口調査による)。 以降、本項では土崎と表記し、1941年(昭和16年)4月1日に秋田市へ編入された旧南秋田郡土崎港町、出羽国秋田郡土崎湊と周辺部についても併せて解説する。
見る イエズス会と土崎港
土橋八千太
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。
見る イエズス会と土橋八千太
地動説
地動説の図 地動説(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球はほかの惑星とともに太陽の周りを自転しながら公転しているという学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする天動説(地球中心説)に対義する学説である。太陽中心説「Heliocentrism」ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかは異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られたストーリーであり、事実とは異なる。
見る イエズス会と地動説
團藤重光
團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - 2012年6月25日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。 東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。
見る イエズス会と團藤重光
ナバラ州
ナバラ州(ナバラしゅう、Navarra)またはナファロア州(ナファロアしゅう、Nafarroa)は、スペインの自治州である。一県一州の自治州であり、ナバラ県単独で構成される。州都はパンプローナ。スペイン語では第2音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。 中世のこの地域にはナバラ王国が存在し、スペイン帝国に併合された後も副王領として一定の自治権を得ていた。歴史的にはバスク地方の一部ではあるものの、フランコ体制後の(1975-1982)にはバスク州への合流を望まず、1982年にナバラ県単独でナバラ州が発足した。歴史的背景が考慮されて大きな自治権を得ており、スペインの全17自治州のうち課税自主権が認められているのはナバラ州とバスク州のみである。国家公用語であるスペイン語に加えて、一部地域では地域言語のバスク語も公用語に指定されている。
見る イエズス会とナバラ州
ナポレオン3世
ナポレオン3世(ナポレオン3せい、Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。本項でもそのように記述する。 フランス皇帝ナポレオン1世の甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年のフランス革命で7月王政が打倒されるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデターを起こし、独裁権力を掌握。
ナワトル語
分布 ナワトル語(ナワトルご、nāhuatl )は、ユト・アステカ語族のナワ語群に属する言語で、2015年現在、メキシコなどで推定170万人の話者を擁する。2003年に施行された「先住諸民族の言語権に関する基本法」(Ley General de Derechos Lingüísticos de los Pueblos Indígenas) によって、スペイン語や他67の先住民語と同等に、名目上はメキシコの公用語とみなされている。
見る イエズス会とナワトル語
ナント
ナント(Nantes)は、フランスの西部、ロワール川河畔に位置する都市。ブルトン語(ブレイス語)ではナオネト(Naoned)、ガロ語ではノーント(Naunnt)と称する。ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の首府であり、ロワール=アトランティック県県庁所在地である。ブルターニュ半島南東部に位置し、大西洋への玄関口となっている。国内第6位の人口を持つ都市である。日本ではフランス王アンリ4世によりナントの勅令が出された歴史ある都市として知られる。
見る イエズス会とナント
ペトロ岐部
ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。 司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。
見る イエズス会とペトロ岐部
ナイアガラの滝
ナイアガラの滝(ナイアガラのたき、Niagara Falls 、Les Chutes du Niagara )は、エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にある滝。カナダ(オンタリオ州)とアメリカ合衆国(ニューヨーク州)とを分ける国境になっている。カナダのトロントから南南西に120km(75mi)、アメリカのバッファローから北北東に27km(17mi)にある両国の同名都市ナイアガラフォールズ市(オンタリオ州側、ニューヨーク州側)に位置する。滝は豊富な水力資源と景観の美しさで知られる。 ナイアガラの滝はによって、カナダ側の国境を挟んだカナダ滝とアメリカ側のアメリカ滝からなる。アメリカ側はさらにルナ島を挟んでブライダルベール滝がある。
ミュンスター
ミュンスター (Münster,, ヴェストファーレン方言: Mönster, Munster, Múnster, Mimigernaford, Monasterium) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州ミュンスター行政管区に属す郡独立市である。ミュンスターは同名の行政管区の本部所在地である。1815年から1946年までミュンスターは当時のプロイセン王国の州都であった。この街は、ドルトムントとオスナブリュックとの間、の中心の沿いに位置している。この街は、ドイツで20番目に大きな都市であり、ノルトライン=ヴェストファーレン州の上級中心都市の1つである。 ミュンスターは1915年から公式に「大都市」に分類された。この街の人口は2014年に初めて30万人を超えた。
見る イエズス会とミュンスター
ミッション (映画)
『ミッション』(The Mission)は、1986年のイギリス・フランス・アメリカの歴史ドラマ映画。18世紀、スペイン植民地下の南米・パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)を舞台に、先住民グアラニー族へのキリスト教布教に従事するイエズス会宣教師たちの生き方、彼らの理想と植民地社会の現実や政治権力者の思惑との葛藤を描く。 1986年度カンヌ国際映画祭パルム・ドール、アカデミー撮影賞、ゴールデングローブ賞 脚本賞、ゴールデングローブ賞 作曲賞、英国アカデミー賞 作曲賞受賞。
ミッション系大学
ミッション系大学(ミッションけいだいがく)は、キリスト教に関係がある組織や関係の深い人物が設立した学校法人によって、設置運営されている日本の大学の総称である。キリスト教系大学とも。
ミヒャエル・エンデ
ミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende、1929年11月12日 - 1995年8月28日)は、ドイツの児童文学作家。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。日本と関わりが深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚している。また、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている。
ミゲル・デ・ウナムーノ
ミゲル・デ・ウナムーノ・イ・フーゴ(Miguel de Unamuno y Jugo, 1864年9月29日 - 1936年12月31日)は、スペイン・ビルバオ出身の哲学者、著作家、詩人、劇作家。
ミゲル・イダルゴ
イダルゴの像 ミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo、1753年5月8日-1811年7月30日)は、メキシコ独立運動における初期の指導者。独立闘争の途上で捕らえられ処刑された。「メキシコ独立の父」として評価される。彼の正式な名前はMiguel Gregorio Antonio Ignacio Hidalgo y Costilla Gallaga Mandarte Villaseñorであるが、通常はミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo)やミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ(Miguel Hidalgo y Costilla)と短縮して呼ばれる。
ミシガン州
ミシガン州(ミシガンしゅう、State of Michigan)は、アメリカ合衆国中西部に位置する州。五大湖地域に含まれ、アメリカ合衆国50州の中で総面積では全米第11位(陸地面積では22位)、人口では全米第10位。前身のミシガン準州から1837年1月26日に合衆国26番目の州に昇格した。州の北と東はスペリオル湖・ヒューロン湖を挟んでカナダの国境に接し、西はミシガン湖越しにウィスコンシン州に、南はインディアナ州とオハイオ州に接している。 ミシガン州は、北米における自動車産業発祥の州として知られており、ゼネラルモーターズ(GM)の本社所在地であるデトロイトはその代表である。また五大湖のうちの4つに囲まれているという地の利もあり、アメリカ・カナダの両方からの観光客が多い州でもある。州域はロウアー半島とアッパー半島という2つの大きな半島で構成され、その間には幅5マイル (8 km) のマキナック海峡があり、ヒューロン湖とミシガン湖を繋いでいる。2つの半島はマキナック橋で繋がれている。
見る イエズス会とミシガン州
マラッカ
展望台から見たマラッカ海峡側の風景 マラッカ(Melaka、ジャウィ:ملقة、Malaca)は、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する、マラッカ州の州都である。
見る イエズス会とマラッカ
マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン
マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン(Marie Caroline Ferdinande Louise de Bourbon, La Duchesse de Berry, 1798年11月5日 - 1870年4月16日)は、両シチリア王女にしてフランスの王位継承者ベリー公シャルル・フェルディナンの妃。パルマ公カルロ3世の妃ルイーズとシャンボール伯アンリ・ダルトワの母。
マリアナ諸島
マリアナ諸島の島々(地図タイトルは北マリアナ諸島だが諸島全体が描かれている) マリアナ諸島の位置 マリアナ諸島(マリアナしょとう、Islas Marianas, Mariana Islands)は、ミクロネシア北西部の列島。伊豆・小笠原・マリアナ島弧の一部を成す。東の北西太平洋と西のフィリピン海の境界に位置し、北には小笠原諸島、南にはカロリン諸島、東にはマリアナ海溝がある。南北約800キロメートルに連なる約15の島から構成され、北緯13度から21度、東経144度から146度の間に弧状に広がっている。 南端のグアム島を除く島々を北マリアナ諸島、サイパン島より北の島々を北部諸島(Northern Mariana Islands)と呼ぶ。
見る イエズス会とマリアナ諸島
マリア・テレジア
マリア・テレジア (ドイツ語:Maria Theresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、オーストリア女大公(在位:1740年 - 1780年)・ハンガリー女王(在位:同)・ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年 1743年 - 1780年)。実質的な「女帝」(下記参照)として君臨した。実際の称号は皇帝ではなく、「神聖ローマ皇后」だった。神聖ローマ皇帝 カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の皇帝フランツ1世の皇后・共同統治者。 オーストリア系ハプスブルク家男系最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号(サイン)は「Königin(女王)」と「Kaiserin(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク
マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ(Maria Anna von der Pfalz, 1667年10月28日 - 1740年7月16日)は、ドイツの プファルツ=ノイブルク家の公女で、スペイン王カルロス2世の2人目の王妃。スペイン語ではマリア・アナ・デル・パラティナード=ネオブルゴ(María Ana del Palatinado-Neoburgo)、あるいはその短縮形のマリアナ・デ・ネオブルゴ(Mariana de Neoburgo)で呼ばれた。
見る イエズス会とマリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク
マルティン・ハイデッガー
マルティン・ハイデッガー(, 1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツの哲学者。ハイデガーとも表記される。 フライブルク大学入学当初はキリスト教神学を研究し、フランツ・ブレンターノや現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、そしてヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。ヘルダーリンやトラークルの詩についての研究でも知られる。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。その多岐に渡る成果は、ヨーロッパだけでなく、日本やラテンアメリカなど広範囲にわたって影響力を及ぼした。1930年代にナチスへ加担したこともたびたび論争を起こしている。
マルティン・ルター
マルティン・ルター(Martin Luther 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、聖職者、作曲家。聖アウグスチノ修道会に属する。 1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。
ノルウェー
ノルウェー王国(ノルウェーおうこく、Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロ・フィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロ。東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。欧州連合(EU)には非加盟である。 地理としては国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。このほか、ノルウェー本土から約1,000キロ離れた北大西洋上のヤンマイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。
見る イエズス会とノルウェー
マルカントワーヌ・シャルパンティエ
マルカントワーヌ・シャルパンティエ (1682) マルカントワーヌ・シャルパンティエまたはマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643年 - 1704年2月24日)はフランス盛期バロック音楽を代表する作曲家。多作で洗練された作曲家であり、ジャン=バティスト・リュリと同時代の人である。フランス宮廷とほとんど関連を持たず、現代になって重要性が再認識されたため、生涯や経歴に不明な点が多い。遺された作品では、特に宗教音楽を重要視されている。
マルキ・ド・サド
マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade)。 サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、に1年、そしてに13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。
マルクス・トゥッリウス・キケロ
マルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日 - 紀元前43年12月7日)は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者である。名前はキケローとも表記される。カティリーナの陰謀から国家を救うなど活躍し、入ることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、ガイウス・ユリウス・カエサルやオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが叶わなかった。 哲学者としてはラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。又、アリストテレスのトピックスに関して『構想論』『弁論家について』『トピカ』の三書を著し, 後のボエティウスによるその概念の確立に大きく貢献している。
マルコス副司令官
マルコス副司令官(まるこすふくしれいかん、スペイン語:Subcomandante Insurgente Marcos、別名:Delegado Cero、生年不詳)は、メキシコの反体制運動サパティスタ民族解放軍(Ejército Zapatista de Liberación Nacional、EZLN)の実質的リーダー。
マンハイム
1886年から1889年の間に建てられた給水塔 マンハイム (Mannheim) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州最北端に属する郡独立市。 人口約万人を擁する大学都市で、シュトゥットガルトに次ぐ同州第2の都市である。かつてプファルツ選帝侯の宮廷所在地であったこの街は、現在ヨーロッパ有数の大都市圏であるライン=ネッカー広域連合の経済的・文化的中心都市となっている。ラインラント=プファルツ州に属す隣町のルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン(人口約万人)とはライン川を隔てて直接向かい合っている。
見る イエズス会とマンハイム
マットグロッソ州
マットグロッソ州(マットグロッソしゅう、Estado de Mato Grosso )は、ブラジルの中西部に位置する州。州庁所在地はクイアバ。略称は「MT」である。
マテオ・リッチ
マテオ・リッチ(、 1552年10月6日 - 1610年5月11日)は、イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇()。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。
マニラ
マニラ市(マニラし、Lungsod ng Maynilà、City of Manila)、通称マニラ(Maynilà 、Manila 、漢字表記: 馬尼剌)は、フィリピン共和国の首都。マニラ首都圏に属する市。ルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。 「東洋の真珠」などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は178万人(2015年)であり、人口1,155万人を抱えるマニラ首都圏の中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2016年時点で2,293万人であり、世界有数の大都市圏を形成している。マニラ首都圏全体で首都機能を果たしているため、首都圏自体を首都とみなすこともある。
見る イエズス会とマニラ
マイク・ダンリービー・ジュニア
マイケル・ジョセフ・ダンリービー・ジュニア(Michael Joseph Dunleavy, Jr., 1980年9月15日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州フォートワース出身のバスケットボール選手。NBAのゴールデンステート・ウォリアーズなどに所属し、現在はウォリアーズのGMを務めている。身長206cm、体重105kg。主なポジションはスモールフォワード。父親は元バスケットボールコーチで同姓同名のマイク・ダンリービー。
ノウアスフィア
ノウアスフィア (noosphere)は、ソ連の生物地球化学者ウラジーミル・ヴェルナツキーとフランスの哲学者にしてイエズス会司祭のピエール・テイヤール・ド・シャルダンによって生み出され、広められた哲学的概念。ヴェルナツキーは、生物圏(バイオスフィア)の新たな段階としてヌース圏(ノウアスフィア)を定義し、この地球を「理知の球」(sphere of reason) と説明している。ノウアスフィアは生物圏の発展における最高段階を表し、その定義要因が人類の理知的な活動の発展とされている この言葉はギリシャ語の νοῦς(ヌース、精神・理性)と σφαῖρα(球・空間)に由来しており、造語法上の類語にはアトモスフィア(大気圏)やバイオスフィア(生物圏)がある。ただし、この概念は学術者1人の功績とは認められていない。創設者であるヴェルナツキーおよびテイヤールは、前者が地質学に基づいて、後者は神学に基づいて、関連はありながらも全く異なる2つの概念を生み出した。どちらのノウアスフィア概念も、人間の理性と科学的思想が一緒になって次なる進化的地層を作り出し、また今後も作り上げるだろうという共通の命題を有している。この地層とは進化連鎖の一部である。第2世代の著述家が、主にロシア起源のヴェルナツキーによる概念をさらに発展させ、関連の概念(noocenosisやnoocenology)を生み出している。
マカオ
マカオ(Macau)あるいは澳門(おうもん、オーメン、広東語イェール式: Oumún、普通話: Àomén)は、中華人民共和国の特別行政区の一つ。正式名称は中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)。 中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル海外領土で、現在はカジノとモータースポーツや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。
見る イエズス会とマカオ
マカオの歴史
マカオの歴史(マカオのれきし)では、マカオの歴史について述べる。
見る イエズス会とマカオの歴史
マカオの教育
マカオの教育(マカオのきょういく)は、マカオ特別行政区政府教育曁青年局 (DSEJ) が所管する。 現在、マカオにある大部分の学校は私立であり、政府系の学校では三文四語(中文:広東語および普通話、英語、ポルトガル語)教育を強調している。学校の主流は文法学校と称されるものであり、言語、数学、自然科学および人文科学を教育の内容としているが、一部の職業学校では電子工学や機械工学を教育する学校も存在している。学制に関しては統一したシステムが確立されていない。
見る イエズス会とマカオの教育
マクベス (シェイクスピア)
『マクベス』()は、1606年頃に成立したウィリアム・シェイクスピアによって書かれた戯曲である。勇猛果敢だが小心な一面もある将軍マクベスが妻と謀って主君を暗殺し王位に就くが、内面・外面の重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れる。実在のスコットランド王マクベス(在位1040年–1057年)をモデルにしている。 『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』と並ぶシェイクスピアの四大悲劇の1つで、その中では最も短い作品であり、最後に書かれたものと考えられる。
マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)
マクシミリアン1世(Maximilian I., 1573年4月17日 - 1651年9月27日)は、バイエルン公(在位:1597年 - 1651年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1623年 - 1651年)。バイエルン公ヴィルヘルム5世とロレーヌ公フランソワ1世の娘レナータの長男。プファルツ=ノイブルク公(後にプファルツ選帝侯)フィリップ・ヴィルヘルムは甥。
チロエ島
カストロの町 チロエ島(スペイン語:Isla de Chiloé)は、チリのロス・ラゴス州にある大きな島。面積は8,394 2で、チリの島ではフエゴ島に次いで広く、南米でも5番目に広い島。チロエ島とその周辺の小島で構成されるチロエ諸島の主島である。Isla Grande de Chiloéともいう。 島の人口は155,000人(2002年)。主要産業は、農業(チョノスにんにくが有名)、林業、サケ養殖、観光である。2000年にチロエの教会群が世界遺産に登録され、観光客が増えている。 本土との間にを架ける計画があり、2012年の完成を目指していたが、予算面の問題で現在、計画が中断されている。
見る イエズス会とチロエ島
チェーザレ・ベッカリーア
チェーザレ・ベッカリーア(画)エリセオ・サーラ チェーザレ・ベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria、1738年3月15日 - 1794年11月28日)は、イタリアの法学者、経済学者、啓蒙思想家。
ネルチンスク条約
ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく、尼布楚条约、尼布楚條約、Нерчинский договор)は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約。 清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。
ネグロイド
ネグロイド(Negroid)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つ。日本では一般に黒色人種・黒人と同義に理解される。ドイツの人類学者ブルーメンバッハによって提唱された五大人種説に基づく。現在でも便宜的・慣用的、またしばしば政治的に用いられる。これに分類される人々の主要な居住地はサハラ以南のアフリカ大陸である。ラテン語のnigreos(ニグレオス、黒)に由来する。ニグロイドとも戦前の日本では英語風の「ニグロイド」の訳語として「ニグロ人」という呼称も使われていた。例えば、1921年(大正10年)11月6日付の大阪毎日新聞掲載記事「」では「…米国に航して亦ニグロ人を雇傭し更にスエズでアラビヤ人を雇替え…」との記述が見られる。
見る イエズス会とネグロイド
ハレとケ
縮緬紋付裾文様の振袖も着られた。 ハレとケとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。 民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別した。
見る イエズス会とハレとケ
ハンガリーの大学の一覧
ハンガリーの大学。
ハイデルベルク
ハイデルベルク(Heidelberg )は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州北西部に位置する都市。ライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川及び旧市街を見下ろす高台にあるかつてのプファルツ選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られ、世界中の数多くの観光客や学者を惹きつけている。人口140,000人強のこの都市は、バーデン=ヴュルテンベルク州で5番目に大きな都市である。この都市は郡独立市であると同時にライン=ネッカー郡の郡庁所在地でもある。ハイデルベルクが近隣のマンハイムやルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインと形成する人口密集地域はライン=ネッカー大都市圏と呼ばれている。
バンベルク市街
ここでいうバンベルク市街は、1993年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたドイツのバイエルン州バンベルク市の旧市街を指す。
バージニア州
バージニア州(バージニアしゅう、Commonwealth of Virginia、略号: VA コトバンク. 2018年10月24日閲覧。 コトバンク. 2018年10月24日閲覧。, Va. コトバンク. 2018年10月24日閲覧。)は、アメリカ合衆国東部 コトバンク. 2018年10月24日閲覧。 コトバンク.
見る イエズス会とバージニア州
バッダースリー・クリントン
バッダースリー・クリントン (Baddesley Clinton) はイングランドのウォリックシャー、ウォリックの街から13キロほど北西に行ったところにあるマナー・ハウスである。おそらく13世紀頃、フォレスト・オブ・アーデンが開拓され農地へと変えられた頃にここに堀が作られ、15世紀初め頃に屋敷が作られた。指定史跡(Scheduled monument)であり、ホールは第1級イギリス指定建造物でもある。
バテレン追放令
バテレン追放令(バテレンついほうれい・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のにし、英語のとともに、「父親」を意味する印欧祖語に由来する。 原本は『松浦家文書』にあり、長崎県平戸市の松浦史料博物館に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、1933年(昭和8年)に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』の中の6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」(「覚書(かくしょ)」とも呼ばれる)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の「覚」が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
バイエルン公国
バイエルン公国(バイエルンこうこく、Herzogtum Bayern)は、中世のドイツ南東部(現在のバイエルン州からオーストリアにかけての領域)に存在した5つの部族大公領の一つである。
バシラン島
バシラン島(バシランとう、Basilan)は、フィリピンの南東部、スールー諸島に位置する島。1,000平方km程の面積に、300,000人が住む。主な街はイサベラ市(人口73,032人)。周囲の小島とともにバシラン州を構成し、イサベラ市を除きバンサモロ自治地域(BARMM)に属する。主要な民族は(Yakan)・(Suluk/Tausug)・(Banguingui/Samal)などであり、農業や漁業・海上交易を営む。 島の住民にはムスリムが多いが、一方で熱帯雨林や山間部を拠点にアブ・サヤフなどの過激派の活動もあるとされる。米軍・フィリピン軍との戦闘もしばしば起こっている。
見る イエズス会とバシラン島
バスク州
バスク州(バスクしゅう、Euskadi, País Vasco, Basque Country, Pays Basque)は、スペイン北部にある自治州。ピレネー山脈の西側に位置し、北側は大西洋のビスケー湾に面している。アラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県の3県で構成されている。 スペイン1978年憲法(現行憲法)によって、バスク州はスペインにおいて強力な自治権を得た。行政区分としてのバスク州は(バスク自治憲章: スペイン領バスクに住むバスク人の発展のための枠組みを提供する基本的な法的文書)に基づいているが、バスク人が多く住むナバーラ県はバスク州から除外され、単独でナバーラ州となった。バスク州には公式な州都は存在しないが、バスク議会やバスク州政府の本部が置かれるアラバ県のビトリア=ガステイスが事実上の州都である。人口が最も多い自治体はビスカヤ県のビルバオである。
見る イエズス会とバスク州
バスク人
分離主義者が主張するイベリア半島の民族分布。この論に立つ場合、スペイン人は諸民族の大部分を統合する概念となる。 「バスク祖国と自由」('''ETA''')の構成員と支持者達。スペイン内戦でフランコ軍との戦いに殉じた独立派兵士の死を悼む式典を行っている。 「バスク祖国と自由」('''ETA''')によって書かれた壁画。シンボルマークにナバラ王国の紋章が用いられているのがわかる。 バスク人(バスクじん、vascos, euskaldunak)とは、ビスケー湾岸でピレネー山脈西端部にある、伝統的にバスク地方として知られる地域に元来居住している系統不明の民族。文脈によって、以下のどちらかを指す。
見る イエズス会とバスク人
バスク地方
歴史的な領域としてのバスク地方(バスクちほう、バスク語:Euskal Herria)は、バスク人とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランスとスペインの両国にまたがっている。 スペイン側にはバスク州の3県とナバーラ州の計4領域があり、フランス側にはフランス領バスクの3領域がある。バスク・ナショナリズム運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つ)というスローガンが掲げられ、7領域からなるバスク地方の地理的範囲が示された萩尾ほか(2012)、pp.24-28。バスク地方全体の旗としてイクリニャ(バスク国旗)が、バスク地方のシンボルとしてラウブル(バスク十字)がある萩尾ほか(2012)、pp.274-275。
見る イエズス会とバスク地方
ポルトガル
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。
見る イエズス会とポルトガル
ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化
ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化(ポルトガルによるアメリカたいりくのしょくみんちか)では、大航海時代におけるポルトガル王国の植民活動のうち、新世界における活動について説明する。 ポルトガル王国は、15世紀のヨーロッパ人の世界探検において先駆的な国であった。1494年のトルデシリャス条約によって、新世界はスペインとポルトガルの領域に分けられた。ポルトガルの植民地は南アメリカの一部(主に現在のブラジル)を占めたが、現在のカナダに当たる北アメリカへの入植は失敗に終わった。
ポルトガルの歴史
ポルトガルの歴史は現在のポルトガル共和国の領域で展開した歴史である。古代にはローマ帝国の支配をうけ、中世にはゴート人、イスラム勢力の支配を受けた。レコンキスタの進行した、12世紀にポルトガル王国が成立し、13世紀にはほぼ現在の領域が確定した。その後、海外へと植民地を獲得して隆盛を極めたのち、ナポレオン戦争で王制は動揺した。近代には共和制に移った。
ポルトガル人の一覧
ポルトガル人の一覧(ポルトガルじんのいちらん)は、現在のポルトガル出身者の一覧。時代、宗教は問わない。
ポルトガル第一共和政
ポルトガル第一共和政(ポルトガルだいいちきょうわせい、Primeira República Portuguesa)は、1910年の立憲王政の終焉から1926年5月28日クーデターまで16年間続いたポルトガルの共和政体である。第一共和政は19世紀のポルトガルが歩んだ自由主義の結果、そして左右に変動する20世紀のポルトガルの政治史の始まりと解されている合田「現代のポルトガル」『スペイン・ポルトガル史』、437頁。
ポルトガル語
ポルトガル語(ポルトガルご、português /, língua portuguesa)は、主にポルトガル及びブラジルとその他の9の国と地域で公用語として使われている言語である。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス語の1つで、スペイン語などと共にインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。 スペインの作家セルバンテスはポルトガル語を「甘美な言語」と評し、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。 ポルトガル語は、大航海時代のポルトガル海上帝国の成長とともにアジア・アフリカ地域に広まった。日本では最初に伝播したヨーロッパの言語であり、古くからの外来語として定着しているいくつかの単語は、ポルトガル語由来である。代表的な例として「パン」があり、戦国時代にキリスト教と共に伝わった。漢字表記では葡萄牙語、蒲麗都家語であり、省略形は葡語及び蒲語。
見る イエズス会とポルトガル語
ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
ポンバル侯爵およびオエイラス伯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(Sebastião José de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marquês de Pombal、1699年5月13日 - 1782年5月8日)は、近世ポルトガル王国の政治家。国王ジョゼ1世の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、啓蒙的専制を行った。
見る イエズス会とポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
ポーランド
ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、 ジェチュポスポリタ・ポルスカ )、通称ポーランド(、ポルスカ)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。首都はワルシャワ。 北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。
見る イエズス会とポーランド
ポーランドの歴史
ポーランドの歴史(ポーランドのれきし)では、ポーランドの歴史を概略的に述べる。
ポーランド人
ポーランド人 (ポーランドじん、)は、ポーランドの主要民族。 中東欧に広がるスラヴ人の一派インド・ヨーロッパ語族のスラヴ語派西スラヴ語群に属するポーランド語を母語とする。 ポーランド族は、様々な部族と交わりピャスト朝(960年頃-1370年)を築いたGerard Labuda.
見る イエズス会とポーランド人
ポズナン
ポズナンまたはポズナニ(Poznań・)は、ポーランド西部に位置する、ポーランド最古の都市の一つで、中世ポーランド王国の最初の首都である。ラテン語名はポスナニア(Posnania)、ドイツ語名はポーゼン(Posen)、イディッシュ語名は פויזן (Poyzn)。ヴィエルコポルスカ県の県都である。人口は約53万人で、これはポーランド5番目の規模である。ポーランド分割後、プロイセン王国に管理され、1871年にはドイツ統一となりドイツ帝国となった。
見る イエズス会とポズナン
ムガル帝国
ムガル帝国の版図の変遷 ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول、Mughal Empire)は、南アジアの近世帝国である。約2世紀にわたって、西はインダス川流域、北西はアフガニスタン北部、北はカシミール地方、東は現在のアッサムやバングラデシュの高地、南はデカン高原の高地まで広がっていた。 1526年に現在のウズベキスタン出身でティムール朝の王族である戦士バーブルが、近隣のサファヴィー朝やオスマン帝国からの援助を受けて、第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルターン朝のイブラーヒーム・ローディーを破り、上インドの平原を制圧して建国したと言われている。しかし、ムガル帝国の帝国構造は、バーブルの孫であるアクバルが支配した1600年までとされることもある。この帝国構造は、最後の主要皇帝アウラングゼーブが死去した直後の1720年まで続き 、その間に帝国の地理的範囲は最大となった。その後、特に東インド会社がインドを支配していた時代には、オールドデリー周辺に縮小されていたが、1857年のインド大反乱を機に、イギリス領インド帝国によって正式に解体された。
見る イエズス会とムガル帝国
メリーランド州
メリーランド州(メリーランドしゅう、State of Maryland、For those who distinguish them, Maryland is pronounced as in merry, not as in the name Mary. (Random House Dictionary)、略号: MD コトバンク. 2018年10月24日閲覧。 コトバンク. 2018年10月24日閲覧。, Md.)は、アメリカ合衆国東部 コトバンク.
メロン
メロン(甜瓜、和名:メロン、melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物である。また、その果物・果実のこと。漢字では甜瓜(てんか)と呼び、これはメロンを指すと同時にマクワウリをも含む表記である。 メロンは園芸分野では果菜(実を食用とする野菜)とされる が、青果市場での取り扱いや、栄養学上の分類では果物あるいは果実と分類される。 インド原産で、中近東を経てヨーロッパに渡った西洋系品種と、中国で広まった東洋系品種があり、各地で栽培されている。現在メロンとよばれる果実は、甘味や香りが強い西洋系メロンが主流で、甘味や香りがない東洋系メロンはウリとよばれている。果皮は緑色や黄色、白色などがあり、無地のほかネットメロンとよばれる網目模様のものや、縦縞模様が入るメロンもある。栄養的にはビタミンCやカリウムが豊富なのが特徴。
見る イエズス会とメロン
メッシーナ
メッシーナ(Messina)は、イタリア共和国のシチリア島北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約23万人の基礎自治体(コムーネ)。メッシーナ県の県都である。イタリア本土のカラブリア半島とを隔てるメッシーナ海峡に面した港湾都市で、シチリア州ではパレルモ、カターニアに次いで第3位のコムーネ人口を有する。都市圏にはおよそ50万人が暮らす。 古代ギリシャの植民都市にさかのぼるこの要衝の港町は、長く交易で栄えるとともに、古代には第一次ポエニ戦争の契機となり、中世には黒死病上陸地となるなど、多くの歴史的事件の舞台となった。近代ヨーロッパ最悪の犠牲者を出した地震・津波として記憶されているメッシーナ地震など、多くの自然災害や戦災に見舞われながら復興を遂げている。海峡南東に大都市レッジョ・ディ・カラブリアと向かい合い、経済的に密接なつながりがある。
見る イエズス会とメッシーナ
メイン州
メイン州(メインしゅう、State of Maine、; État du Maine)は、アメリカ合衆国の州。州都はオーガスタ市。人口最大都市はポートランド市。面積は全米50州のうち39位で、人口は第42位。
見る イエズス会とメイン州
メキシコの歴史
この項目では、メキシコ合衆国の歴史について記述する。現在のメキシコに相当する地域には2万年以上前に人類が進出し、高度な文明を築いた。しかし16世紀にスペインが進出してくると植民地化され、厳しい収奪が行われた。18世紀末にヨーロッパで革命が相次ぐと、メキシコでもメキシコ独立革命がおこり独立を果たした。その後帝政、連邦共和政、対外戦争、ディアスの独裁など動乱を経て、1910年から1918年まで続いたメキシコ革命の動乱により近代的国家を実現した。革命後は制度的革命党(PRI)の長期政権の下で近代化と経済開発が進められたが、20世紀後半までにPRIは様々な社会矛盾を蓄積し、2000年の選挙でPRIは下野した。
モノモタパ王国
モノモタパ王国(Monomotapa)もしくはムタパ王国(Mutapa)は、かつてアフリカ大陸の南東部に存在していた国家。南部アフリカのザンベジ川とリンポポ川の間に広がり、支配領域にはジンバブエ共和国とモザンビーク共和国の領土にあたる地域が含まれている。最盛期の16世紀半ばには北はザンベジ川、南はサビ川、西はジンバブエ高原北西部のマニャメ川、東はインド洋に影響力を行使していたが、一部のポルトガル語文献にはアンゴラから喜望峰までを支配する大国として誇張して記されている吉國『グレートジンバブウェ』、118頁。 モノモタパ、ムタパのほか、ムニュムタパ、ムウェネムタパ、ベノモタパなどの呼称も用いられる。ポルトガル語に由来する「モノモタパ(Monomotapa)」は「征服した土地の王子」を意味する「Mwenemutapa」という称号の音訳であり、ムウェネ(Mwene)は「王子」、ムタパ(Mutapa)は領土を意味する言葉である。モノモタパという称号が王国自体を指す言葉として使われるようになり、ある時期には「モノモタパ」の語が王国の支配領域と共に地図上に併記されていた。
モリエール
モリエール(Molière)として知られる、ジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は、フランス王国ブルボン朝時代の俳優、劇作家。ピエール・コルネイユ、ジャン・ラシーヌとともに古典主義の3大作家の1人。悲劇には多くを残さなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの優れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。 自筆原稿や手紙は見つかっていない。また、南仏修業時代のモリエールの署名とされるものには同じ筆跡が一つとして無いなど、その生涯、特に青年期に関しては不明な点が多い。極めて裕福な家庭に生まれ育ち、青年期に演劇を志して劇団を結成するも運営に失敗、パリから逃げ出すように13年間の南フランス演劇修業の旅に出た。その甲斐あってパリ帰還後に大成功を収め、自身が率いる劇団はフランス国王の寵愛を獲得するまでに至った。彼が率いていた劇団がコメディ・フランセーズの前身であることから、同劇団は「モリエールの家(La maison de Molière)」という別名を持つ。
見る イエズス会とモリエール
モンマルトル
ポンピドゥー・センターから遠望するモンマルトル モンマルトル (Montmartre) は、フランスの首都パリで一番高い丘(標高130メートル2018年11月8日閲覧。)。元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。
見る イエズス会とモンマルトル
モーリス・ド・サックス
エルマン・モーリス・ド・サックス(Hermann Maurice de Saxe, 1696年10月28日 - 1750年11月30日)は、フランス王国の軍人。ラ・ルート伯爵(comte de la Raute)およびサックス伯爵(comte de Saxe)。ド・サックス元帥(Maréchal de Saxe)の通称でも知られる。ヴェッティン家の出身で、ドイツ読みではヘルマン・モーリッツ・フォン・ザクセン(Hermann Moritz Graf von Sachsen)。ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世の庶子で、アウグスト3世は異母兄にあたる。年少の頃から軍務に就き、後にフランス王国軍人の最高名誉、フランス大元帥に上り詰めた。軍隊の編制、戦術、リーダーシップ、士気について著作があり、深い洞察を残している。
ヤン2世 (ポーランド王)
ヤン2世カジミェシュ・ヴァーザ(ポーランド語:Jan II Kazimierz Waza / リトアニア語:Jonas Kazimieras Vaza、1609年3月22日 - 1672年12月6日)は、ヴァーサ家出身のポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1648年 - 1668年)。ジグムント3世の4男、母はその2番目の妃コンスタンツェ・フォン・エスターライヒ。ヴワディスワフ4世の異母弟。シロンスクの小国オポーレ公国の統治者でもあり、1660年までは名目のみのスウェーデン王を称していた。 その治世は共和国の没落を決定づけた大洪水時代と呼ばれる時期にあたり、北のスウェーデン、東のロシア、南のトランシルヴァニア、西のブランデンブルクが次々に共和国に侵入して国土の大半を荒廃させ、国内貴族達の一部も侵略者に協力していた。1667年の最終的な解決までに、北部の封土プロイセン公国、ロシアの支援を受けた東南部のウクライナ・コサック国家の自立を認めることになり、侵略者達の領土的要求をのみ、長期にわたる戦乱で中央財政が回復不可能なまでに打撃を受けた結果、共和国は大国の地位から転落することになった。
ヤン・ディスマス・ゼレンカ
ヤン・ディスマス・ゼレンカ(Jan Dismas Zelenka, 1679年10月16日 - 1745年12月23日)は、ボヘミア(現在のチェコ)に生まれ、ザクセン選帝侯国のドレスデンで没した作曲家である。 ザクセン選帝侯に仕え、宮廷のカトリック教会作曲家として主にドレスデンで活動し、実質的な宮廷副楽長として宗教音楽を多数作曲した。当時ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルだったヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)とは面識があり、彼がゼレンカを高く評価したことが知られている。 第二次世界大戦中に失われた作品もあるが、遺されたものが再発見され、オーボエ奏者のハインツ・ホリガーの『6つのトリオ・ソナタ』の演奏・録音による紹介などから、20世紀中葉以降になって改めて評価されている作曲家の一人である。
ヤン・コジェルフ
ヤン・アントニーン・コジェルフ(Jan Antonín Koželuh, 1738年12月14日 ヴェルヴァリ - 1814年2月3日 プラハ)は、チェコ出身の作曲家。本名はヤン・エヴァンゲリスタ・アントニーン・トマーシュ・コジェルフ(Jan Evangelista Antonín Tomáš Koželuh)。生前はヨハン・アントン・コツェルフ(Johann Anton Ko(t)zeluch)というドイツ語名で知られた。モーツァルトのライヴァルとして有名なレオポルト・アントニーン・コジェルフの従兄である。 ブジェーズニツェのイエズス会の神学校と、プラハのヨセフ・セゲルに学ぶ。ウィーンでクリストフ・ヴィリバルト・グルックとフロリアン・レオポルト・ガスマンの薫陶を受ける。ガスマンの死後はアントニオ・サリエリのもとで徒弟時代を終えた。
ユリウス3世 (ローマ教皇)
ユリウス3世(Julius III, 1487年9月10日 - 1555年3月23日)は、ルネサンス教皇の最後の1人ともいわれる対抗宗教改革期のローマ教皇(在位:1550年2月7日 - 1555年3月23日)。本名はジャンマリア(Giammaria)またはジョヴァンニ・マリア・チオッキ・デル・モンテ(Giovanni Maria Ciocchi del Monte)。 1545年に始まったトリエント公会議の第1会期の指導的人物であり、教皇としても第2会期を開会しているが、諸侯の政治的思惑から十分な成果をあげられないまま公会議を閉会させるに至った。
ユートピア
ユートピア(utopia, ユートウピア)は、イギリスの思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作『ユートピア』に登場する架空の国家の名前。「理想郷」(和製漢語)、「無何有郷」(無何有之郷とも、『荘子』逍遙遊篇より)とも呼ばれる。現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことであった。 ギリシア語の οὐ (ou, 無い、英語の“no”), τόπος (topos, 場所、英語の“place”) を組み合わせ「どこにも無い場所」を意図とした地名と説明されることが多いが、記述の中では Eutopia としている部分もあることから、eu- (良い)と言う接頭語もかけて「素晴らしく良い場所であるがどこにもない場所」を意味するものであったとみられている。
見る イエズス会とユートピア
ユダヤ史関連人物の一覧
ユダヤ史関連人物の一覧(ユダヤしかんれんじんぶつのいちらん)は、族長時代から20世紀までユダヤ人の社会・政治・文化に影響を及ぼした人物、ラビ、宮廷ユダヤ人、ユダヤ教に基づく哲学者、ユダヤ系出自のキリスト教・イスラム教への貢献者などの一覧。 トーラー(フンマーシュ、ハミッシャー・フムシェー・トーラー):トーラーとはまた、理論、学説(―学、―論)の意味でもある。
ヨハネの黙示録
『ヨハネの黙示録』(ヨハネのもくしろく Ἀποκάλυψις Ἰωάννου、Apocalypsis Iōannis、Revelation)は、『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である。 『ヨハネの黙示録』は、単に『黙示録』あるいは『ヨハネによる黙示録』、『神学者聖イオアンの黙示録』(日本ハリストス正教会)、『使徒聖ヨハネ黙示録』(天主公教会)、『ヨハネへの啓示』(新世界訳聖書)ともいわれる。 タイトルの「黙示」とはギリシア語の「アポカリュプシス(Ἀποκάλυψις)」の訳であり、καλύπτω(覆う)に接頭辞のἀπό(離れて)が組み合わさったἀποκαλύπτω(明かす、明らかにする)という動詞に、-σιςという抽象名詞を作る接尾辞が付いた複合語である。
ヨハネ・パウロ1世 (ローマ教皇)
ヨハネ・パウロ1世(Ioannes Paulus I、Giovanni Paolo I、1912年10月17日 - 1978年9月28日)は、ローマ教皇(在位: 1978年8月26日 - 1978年9月28日)、カトリック教会の教皇。教皇名として初めて「ヨハネ・パウロ」という複合名を採用した。宗教事業協会の改革を表明した一方、在位わずか33日の急逝には暗殺説が根強い。
ヨハン・ハーゲン
ヨハン・ハーゲン(Johann Georg Hagen, 1847年3月6日 - 1930年9月5日)は、オーストリア出身の天文学者。
ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー
ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(Johann Georg Albrechtsberger, 1736年2月3日 ウィーン近郊クロスターノイブルク- 1809年3月7日 ウィーン)は、ウィーンで活躍した古典派の作曲家、音楽理論家、オルガニスト、音楽教育者である。ベートーヴェンの師の一人として、またウィーンのシュテファン大聖堂の楽長として知られている。 現在では作品の評価が必ずしも高いとはいえないが、当時は対位法の大家として名をとどろかせ、多くの弟子が集まった。育てた弟子の中にヨーゼフ・アイブラー、フンメル、モシェレス、ヨーゼフ・ヴァイグル、ベートーヴェン、フランツ・クサーヴァー・モーツァルトらがいる。
ヨハン・シサット
Johann Baptist Cysat ヨハン・バプティスト・シサット(Johann Baptist Cysat、ラテン語名 キサトゥスまたはキサトス Cysatus、フランス語名 Jean-Baptiste Cysat、1587年頃 - 1657年3月17日)は、スイスのイエズス会の数学者・天文学者。 ルツェルンに生まれた。父親は日本についての書物Von den Japanischen Inseln und Konigreichen(「日本諸島実記」)を出版したレンヴァルト・シサット(Renward Cysat, 1545年 - 1614年)である。1604年にイエズス会に入り、1911年にインゴルシュタットでクリストフ・シャイナーの黒点の観測を手伝った。シャイナーは後にガリレオ・ガリレイと黒点で論争することになる。1618年、インゴルシュタット大学の数学の教授になったが、天文の研究を続けた。シサットは初めて望遠鏡を使った天体観測をおこなった人々の一人である。
ヨハン・ステイン
ヨハン・ステイン(Johan Stein 、Johannes Wilhelmus Jacobus Antonius Stein、1871年2月27日 - 1951年12月27日)は、オランダ生まれの、天文学者でイエズス会員である。 フラーヴェ(Grave)に生まれた。ライデン大学でヘンドリック・ゲラルドゥス(Hendricus Gerardus van de Sande Bakhuyzen)のもとで学んだ後、1906年からバチカン天文台で働き、1910年からはローマを離れアムステルダムのイグナティウス・カレッジで教えた。1930年からバチカン天文台長となり、天文台のカステル・ガンドルフォへの移転を行った。
ヨン・ソブリノ
ヨン・ソブリノ S.J.(Jon Sobrino ヨンはバスク語読み。スペイン語読みではホン、英語読みでジョン。S.J.はイエズス会士の意。1938年12月27日 - )は、スペイン出身のバスク系のイエズス会のカトリック司祭、解放の神学に貢献した神学者の1人。 ソブリノのキリスト教観において特徴的であるのは、初期の教会会議の文書を「限界があり危険」とし、イエズスの神性の教義は後に発達したとみる点である。このような教えは2007年3月、カトリック教理省から「誤りまたは危険であり、信仰者にとって有害」とされ、世界の注目を集めた。
ヨーロッパにおける政教分離の歴史
1801年の政教協約(コンコルダ)の寓意画ピエール・ジョセフ・セレスタン・フランソワ画 ヨーロッパにおける政教分離の歴史(ヨーロッパにおけるせいきょうぶんりのれきし)では、ヨーロッパにおける政教分離原則の成立史、すなわちヨーロッパの諸国家・政治社会と宗教(キリスト教)との関係性の歴史について叙述する。 ヨーロッパにおいて、政教分離原則の成立は突発的な歴史事象としてあらわれたのではなく、長い歴史的過程のなかで徐々に進行した結果、成し遂げられたものである日比野(1988)pp.270-271。したがってここでは、その成立史を近代以前の政治社会にもさかのぼり、国制や宗教政策を軸として社会的背景や政治思想史・宗教思想史との関連も含めて記述し、ヨーロッパにおいて統治機構と宗教組織が分離していく過程として説明する。
ヨーロッパ史
西暦814年頃のヨーロッパ ヨーロッパ史(ヨーロッパし)とは、ヨーロッパにおける歴史である。欧州史(おうしゅうし)とも呼ばれる。
見る イエズス会とヨーロッパ史
ヨゼフ・ピタウ
ヨゼフ・ピタウ(Joseph Pittau、1928年10月20日 - 2014年12月26日)は、カトリックの大司教で教育者。イタリア語名はジュゼッペ・ピッタウ(Giuseppe Pittau)だが、日本では「ヨゼフ・ピタウ」と名乗った。
ラン (フランス)
ラン(Laon)はフランス北部、オー=ド=フランス地域圏の都市である。エーヌ県の県庁所在地。人口は 26,265人(1999年)。そのつづりから、日本語ではラオンと表記されることもある。
ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー
フランソワ・ルードによるラ・ペルーズの像、1828年 ラ・ペルーズ ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー(Jean François de Galaup, comte de La Pérouse, 1741年8月23日 - 1788年?)は、フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。
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ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群
ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群は、パラグアイにあるユネスコ世界遺産の登録物件名。2017年の第41回世界遺産委員会終了時点では、パラグアイ唯一の世界遺産である。 パラグアイのイエズス会伝道所群は、17世紀から18世紀に南アメリカ大陸各地に築かれた先住民のキリスト教化のための小規模集落群の一環である。パラグアイには現在ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナ、ヘスス・デ・タバランゲ、サン・コスメ・イ・ダミアン (San Cosmé y Damián) の3つの遺跡が残るが、最初の二つが世界遺産に登録された。
見る イエズス会とラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群
ライナー・バルツェル
バルツェル(1981年) ライナー・カンディドゥス・バルツェル(Rainer Candidus Barzel、 1924年6月20日 - 2006年8月26日)は、ドイツ(西ドイツ)の政治家。1971年 - 1973年にキリスト教民主同盟(CDU)党首を務める。その他コンラート・アデナウアー政権およびヘルムート・コール政権でドイツ問題相、ドイツ連邦議会議長(在任期間1983年 - 1984年)を歴任。
ライバル日本史
『ライバル日本史』(ライバルにほんし)は、1994年4月7日から1996年3月7日まで放送されたNHK総合テレビの教養番組である。毎週木曜日に22時から22時30分まで放送された。
ラウル・カストロ
ラウル・モデスト・カストロ・ルス(Raúl Modesto Castro Ruz, 1931年6月3日 - )は、キューバの政治家、軍人、革命家。兄のフィデル・カストロとともにキューバ革命を指導した。 革命後は、同国の最高指導者となったフィデルの後継者として、革命軍事相(国防相)、キューバ共和国国家評議会第一副議長、閣僚評議会第一副議長、キューバ共産党中央委員会第二書記などを歴任したのち、2008年2月24日、フィデルの退任に伴い、国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)に就任。2018年4月19日に両職から退任し、国家評議会、閣僚評議会のミゲル・ディアス=カネル第一副議長に譲り、2021年4月には共産党第一書記の座もディアス=カネルに譲り第一線を退いた。
ラオスの歴史
ラオスの歴史(ラオスのれきし)では、ラオス人民民主共和国の歴史について記述する。
見る イエズス会とラオスの歴史
リチャード・ハリス
リチャード・ハリス(Richard Harris, 1930年10月1日 - 2002年10月25日)は、アイルランドの俳優。また、歌手としても知られ、1968年に発表した「マッカーサー・パーク」は全米2位、全英4位を記録した。 アイルランドのリムリック生まれ。息子のジェイミー・ハリスとジャレッド・ハリスも俳優になった。弟のダーモットはカサンドラ・ハリスの元夫である。姪のアナベル・ウォーリスも女優。
リュブリャナ
リュブリャナ(Ljubljana 、Љубљана / Ljubljana、Laibach、Lubiana、Labacum, Aemona)は、スロベニアの首都かつ最大の都市で、同市を中心とした基礎自治体であるリュブリャナ市基礎自治体(Mestna občina Ljubljana,MOL)を構成する。
見る イエズス会とリュブリャナ
リヴィウ
リヴィウ(Львів )は、ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州庁所在地。
見る イエズス会とリヴィウ
リヴィウ大学
ウクライナの作家、思想家、評論家、言語学者であるイヴァン・フランコを記念して彼の名を冠していることから、正式には「イヴァン・フランコ記念リヴィウ国立大学」である。
見る イエズス会とリヴィウ大学
リヴォニア戦争
リヴォニア戦争(リヴォニアせんそう、Livonian War)は、1558年から1583年、テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にし戦った。1557年(リヴォニア騎士団が加盟)、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、イヴァン雷帝は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、ロシアがリヴォニア騎士団領に侵攻し開戦した。 1561年、リヴォニア騎士団は解散、世俗化した。
リオグランデ・ド・スル州
リオグランデ・ド・スル州(リオグランデ・ド・スルしゅう、Estado do Rio Grande do Sul )は、ブラジルの最南端に位置する州である。北にサンタ・カタリーナ州、南にウルグアイ、西にアルゼンチンと国境を接しており、東は大西洋に面する。州都はポルト・アレグレ。ブラジル国内での発音は「ヒウグランジ・ドゥ・スウ」 ガウーショ(牧童)によるブラジルを代表する料理シュハスコと、航空会社ヴァリグ・ブラジル航空の発祥地であり、ワインの生産も盛んである。略称は「RS」であり、州名はポルトガル語で南の大きな川を意味する。日系ブラジル人による現地日本語媒体による表記は「南大河州」である。 逆に「北の大きな川」を意味する名前のリオグランデ・ド・ノルテ州(Rio Grande do Norte)がブラジル北東部にある。略称は「RN」。
リスボン地震 (1755年)
1755年のリスボン地震(リスボンじしん、、)は、1755年11月1日に発生した巨大地震である。リスボン大震災(リスボンだいしんさい)あるいはリスボン大地震(リスボンおおじしん)などとも言う。 9時40分に 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5,000人から6万2,000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5〜9.0の巨大地震であったと考えられている。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている。 この震災は近代の扉を開いたとされ、国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれ、ヨーロッパ社会に多岐に影響を与え新しい科学や技術の数々を誕生させた。
リセ・ルイ=ル=グラン
リセ・ルイ=ル=グラン(、略称: LLG)は、フランスはパリにある、古い歴史をもつ公立の後期中等教育機関である。ルイ=ル=グラン高校、あるいはルイ=ル=グラン学院ないしルイ大王学院とも訳す。 ルイ=ル=グランは1563年、イエズス会によりパリ大学(ソルボンヌ大学)に附設する学寮(ないしカレッジ)の一つとして、パリの伝統的な学生街であるカルチエ・ラタンの中心に設立された。この地域にはパリ大学の他、コレージュ・ド・フランス等があり、歴史、建築、文化に富んだ、フランスで最も古い名門教育機関が集中する地域である。 後期中等教育課程を教えるリセとしては800人の生徒が在学しており、大学レベルのカリキュラムを教えるPSL研究大学と共同CPGE(グランゼコール準備級、Classes Préparatoires aux Grandes Écoles) には900人の生徒が学んでいる。バカロレアに加えてエコール・ポリテクニークやパリ高等師範学校などグランゼコールへの合格率の高さで名高い。ルイ=ル=グランの生徒はマニョリュドヴィスィヤン (magnoludoviciens) と呼ばれている。 ルイ=ル=グランはフランスのエリート教育に主導的な役割を果たしている。卒業生に無数の政治家や外交官、高位聖職者、アカデミー・フランセーズ会員、文学者などを輩出している。「このパリのイエズス会学校は」と、1862年にエリ・ド・ボーモンが書いている―「永きにわたり、偉人をはぐくむ国家機関でありつづけてきた」。 モリエール、ヴォルテール、ヴィクトル・ユゴーらの他、詩人でネグリチュード運動家のエメ・セゼールがこの学校から巣立ち、偉大な文学者となった。フランス大統領のジョルジュ・ポンピドゥー、 ヴァレリー・ジスカール・デスタン、ジャック・シラクやセネガル共和国初代大統領のレオポール=セダール・サンゴールなどがかつてこの学校で学んでいる。モンテネグロ王ニコラ1世などは留学生としてルイ=ル=グランで学んだ。
ルネ・レオミュール
ルネ=アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュール(フランス語:René-Antoine Ferchault de Réaumur、1683年2月28日 - 1757年10月17日)は、フランスのラ・ロシェル出身の科学者(化学者、物理学者、博物学者、金属学者、昆虫学者)。 水の凝固点を0°Réとし、この温度基準点からアルコールの体積増加に応じて1度ずつ値を加える温度単位「レオミュール度(列氏温度)」の考案者として知られる(レオミュール度では沸点は80°Réとなる)。また、昆虫学者としての活躍により、全6巻からなる大著『昆虫誌』の作者として世界的に知られる。
ルネ・デカルト
ルネ・デカルト(René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
ルネサンス建築
ルネサンス建築(ルネサンスけんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。 人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている。
ル・ピュイ=アン=ヴレ
ル・ピュイ=アン=ヴレ (Le Puy-en-Velay)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、オート=ロワール県のコミューン。県庁所在地および、ヴレ地方の中心地である。かつては短くル・ピュイとだけ呼ばれていた。
ルーマニア正教会
ルーマニア正教会(ルーマニアせいきょうかい、ルーマニア語:Biserica Ortodoxă Română 、英語:Romanian Orthodox Church)は、キリスト教の正教会に属する独立教会の一つ。かつてはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にあったが、19世紀末に独立教会となった。ルーマニアに住むルーマニア人の大多数を信者とする(2002年の統計によれば約2千万人)。現在、正教会において、信徒数第2位を誇る(1位はロシア正教会)。 正教会は一カ国に一つの教会組織を備えることが原則だが(ルーマニア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。
ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(ルートヴィヒ・マクシミリアンだいがくミュンヘン、、、略称: LMU München)は、ドイツ・バイエルン州の州都ミュンヘンにある総合大学である。1472年に設置された。通称、ミュンヘン大学。2019年のTHE世界大学ランキングにおいて32位にランクインした、ドイツ、そしてヨーロッパを代表する名門大学の1つである。また「人文科学部門」で16位(国内1位)、「物理科学部門」で23位(国内1位)、「教育部門」で36位(国内1位)、「医学部門」で40位(国内2位)に位置している。
見る イエズス会とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
ルツェルン
ルツェルン(標準、、フランス語:Lucerne、英語:Lucerne)は、スイス中部のルツェルン州に属する基礎自治体(アインヴォーナーゲマインデ)で、同州の州都。ルツェルン湖(Vierwaldstättersee)の湖畔に位置し、ピラトゥス山とリギ山を臨む場所に位置する。 ドイツ語圏に属するが、現地のスイスドイツ語(アレマン語)では「ロツェルン」()と呼ばれる。また、現在の標準ドイツ語では「ルツェアン」とも発音される。 毎年8月から9月にルツェルン音楽祭が行われることでも知られる。 FCルツェルンの本拠地がある。
見る イエズス会とルツェルン
ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)
ルドルフ2世(ドイツ語:Rudolf II, 1552年7月18日 - 1612年1月20日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1576年 - 1612年)・ハンガリー国王(在位:1572年 - 1608年)・ボヘミア国王(在位:1575年 - 1612年)。ハプスブルク家のマクシミリアン2世と皇后マリアの子。オーストリア大公としてはルドルフ5世。父と異なりスペインで教育を受けた敬虔なカトリック教徒だったが、即位してすぐにプラハに籠って科学文化芸術の発展にいそしんだ。
ルイ15世 (フランス王)
ルイ15世(、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世()。
ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス
ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy López de Villalobos、1500年頃 - 1546年4月4日)は、16世紀スペインの探検家。メキシコから「香料諸島」(モルッカ諸島)への航路を求めて太平洋へ出帆し、1543年にフィリピン諸島にたどり着いた。この諸島を最初に「フィリピン」と名づけた人物でもある。また、小笠原諸島に属する火山列島を発見した人物でもある。
ルイ・フェルディナン (フランス王太子)
ルイ・フェルディナン・ド・フランス(、1729年9月4日 - 1765年12月20日)は、フランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの長男。誕生とともに王太子(ドーファン)に立てられたが、王位に就くことはなかった。
ルイス・ロペス
ルイス・ロペス (Luis Lopez)。
ルイス・ブニュエル
ルイス・ブニュエル(Luis Buñuel, 1900年2月22日 - 1983年7月29日)は、スペイン出身、のちにメキシコに帰化した映画監督、脚本家、俳優である。フランス、スペイン、アメリカ合衆国、メキシコ、国境を越えて多種多様な映画を撮った。特にシュルレアリスム作品とエロティシズムを描いた耽美的作品で有名である。キリスト教に関する作品もあり、物議を醸した。
ルイス・デ・アルメイダ
西洋医術発祥記念像(大分県大分市)。中央がルイス・デ・アルメイダ。 ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida 、1525年? - 1583年10月)は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して豊後府内に日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。ポルトガル貴族の出身。
ルイス・デ・カモンイス
ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões、1524年頃 - 1580年6月10日)は、ポルトガル史上最大の詩人とされる人物である。その作品はホメーロス、ヴェルギリウス、ダンテなどの古典詩人と比較される。 かつてポルトガルで発行されていた500エスクード紙幣に肖像が印刷されていた。
ルイス・フロイス
ルイス・フロイス( 、1532年 - 1597年7月8日(慶長2年5月24日))は、ポルトガルのカトリック司祭、宣教師。イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。
ルイス・ソテロ
ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年9月6日 - 1624年8月25日)は、スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。
ルコント
ルコント(Lecomte, Leconte)は、フランス語圏の姓。
見る イエズス会とルコント
ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ
ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ または ルッジエーロ・ジュゼッペ・ボスコヴィッチ(Rugjer Josip Bošković 、1711年5月18日 - 1787年2月13日)は、アドリア海沿岸の都市ドゥブロヴニク(当時はラグーサ共和国)に生まれたイエズス会司祭・天文学者・物理学者・数学者である。イタリア、イギリス、フランスで活躍した。 名前はクロアチア語などで。
レモンストラント派
レモンストラント派は、狭義では、ヤーコブ・アルミニウス(ハルメンセン)により唱えられ、その死後1610年に5箇条の反対意見書(Remonstrantie)にまとめられた信条を支持する神学者たちを指す。 その5箇条とは。
レユニオン
レユニオンの地図 レユニオン(Réunion)は、フランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン)である。マダガスカル島東方のインド洋上に位置する。面積2512km、人口約85万9,959人(2020年)。コーヒーの品種の一つブルボン種の原産地。県都はサン=ドニ。
見る イエズス会とレユニオン
レオン (メキシコ)
レオン(León)はメキシコのグアナフアト州の都市である。レオン基礎自治体の人口は172万人(2020年)である。州内最大の都市だが州都ではない。メキシコシティの330km北西、グアダラハラの180km東に位置しており、工場生産や物流の拠点に最適な地域と見られている。伝統的には靴関連産業の集積地である。 レオンは環境問題の取り組みに熱心な自治体で、メキシコで最も自転車道が整備された都市である。また、メキシコで初めてバス・ラピッド・トランジットを導入した。
ロペ・デ・ベガ
250px ロペ・デ・ベガ(Lope de Vega, 1562年11月25日 - 1635年8月27日)はスペインの劇作家、詩人。本名はフェリクス・ロペ・デ・ベガ・イ・カルピオ (Félix Lope de Vega y Carpio)。1,500から2,500の戯曲を書いたといわれるが、現在まで残っているのは425である。スペイン黄金世紀演劇を代表する劇作家である。
ロバート・ムガベ
ロバート・ガブリエル・ムガベ(Robert Gabriel MugabeMugabeという姓の発音はショナ語では「ムガベ」だが、英語では「ムガビ」のようにも発音する。、1924年2月21日 - 2019年9月6日)は、ジンバブエの政治家。ジンバブエ首相(初代)、大統領(第2代)、アフリカ統一機構議長(第35代)、アフリカ連合議長(第13代)、ジンバブエ・アフリカ民族同盟代表、ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線代表(初代)などを歴任した。1980年に首相に就任して以来、37年間にわたってジンバブエに君臨したが国防軍にクーデターを起こされ、2017年11月21日に大統領を辞任した。黒人民族主義者およびマルクス主義者である,Jun 9, 2023, Adam Augustyn,ENCYCLOPÆDIA BRITANNICA。
ロバート・ボイル
サー・ロバート・ボイル(Sir Robert Boyle, FRS, 1627年1月25日 - 1691年12月31日)は、アイルランド・出身の自然哲学者、化学者、物理学者、発明家。神学に関する著書もある。ロンドン王立協会フェロー。ボイルの法則で知られている。 ボイルの研究は錬金術の伝統を根幹としているが、近代化学の祖とされることが多い。特に著書『懐疑的化学者』は化学という分野の基礎を築いたとされている。
ロバート・デ・ニーロ
ロバート・アンソニー・デ・ニール・ジュニア(,; 1943年8月17日 - )は、アメリカの俳優である。
ロバート・ケイツビー
ロバート・ケイツビー(Robert Catesby、1572年3月3日頃 - 1605年11月8日)は、イングランド史において、プロテスタントのイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の首謀者。 イングランドのウォリックシャーにて、リチャード3世時代以来の名門かつ熱心なカトリック教徒であるケイツビー家の三男として生まれる。その後、未だカトリックの影響が強かったオックスフォードので高等教育を受けるも、おそらくイングランド王室への忠誠を誓わせる至上権承認の宣誓を嫌って、学校を中退した。1593年に裕福なプロテスタントの女性と結婚し、2人の子供を授かってプロテスタントの洗礼を受けさせるなど、一時は穏健派となるが、1598年に妻が亡くなると、過激派に回帰する。1601年にはに加担し、助命されるも多額の罰金を科され、の地所を売却した。しかし、諦めることはなく、カトリックの旗手である大国スペインの援助を求めたり(スペイン反逆事件)、イングランド国内で密かに活動するイエズス会神父たちの支援を行っていた。
ロバート・M・フリン
ロバート・M・フリン(Robert M.Flynn、1920年3月12日 - 2009年2月7日)は、宗教家・英語教育者。プログレス・イン・イングリッシュなどを中心とした著作活動 や教育活動を行っていた。
ロヨラ
ロヨラー人名。
見る イエズス会とロヨラ
ロレンソ了斎
ロレンソ了斎(ロレンソりょうさい、大永6年〈1526年〉 - 文禄元年12月20日〈1592年2月3日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本人イエズス会員。名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした。ロレンソ日本人名大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典はいずれもロレンソとして立項。日本国語大辞典には「日本名未詳」、日本人名大辞典には「本名は不詳」とある。、ロレンソ了西と表記されることも。
見る イエズス会とロレンソ了斎
ローマ字
ローマ字(ローマじ)は、仮名をラテン文字に翻字する際の規則全般(ローマ字表記法)、またはラテン文字で表記された日本語(ローマ字綴りの日本語)を表す。
見る イエズス会とローマ字
ロベール・シューマン
ジャン=バティスト・ニコラ・ロベル・シュマン(Jean-Baptiste Nicolas Robert Schuman, 1886年6月29日 - 1963年9月4日)は、ルクセンブルクで生まれ、ドイツで育ち大学で学んだあと、フランス占領後にフランスの政界に入り、やがてフランスの首相・外相になったドイツ系の政治家。独仏和解、ヨーロッパ和解を象徴する人物とされている。共和国民運動の党員で、欧州連合の父の一人とみなされている。
ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
ルネ=ロベール・カヴリエ・シュ・ド・ラ・サール(René-Robert Cavelier, Sieur de La Salle、1643年11月22日 - 1687年3月19日)は、フランス人探検家。アメリカ合衆国とカナダの五大湖地域、ミシシッピ川、メキシコ湾を探険し、ミシシッピベイスン全体をフランス領として主張し、「ルイジアナ」と名付けた人物である。
ログローニョ
ログローニョ(Logroño)は、スペイン・ラ・リオハ州にあるムニシピオ(基礎自治体)。ラ・リオハ州の州都である。2018年の人口は151,113人であり、ラ・リオハ州の人口の半分が集中している。 エブロ川流域の平野にあり、古くからサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路などが交差する交通の要所だった。中世にはイベリア半島の諸王国がその領有を巡って争った。近代以降にはスペインの他地域からの移住者を受け入れ、人口は増加傾向にある。
見る イエズス会とログローニョ
ロザリオ
ロザリオ ロザリオ ロザリオ(rosário、rosarium)は、カトリック教会において聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具、およびその祈りのことである。 ロザリオの祈りは、カトリック教会における伝統的な祈りで、「アヴェ・マリア」を繰り返し唱えながら福音書に記されているイエス・キリストの主な出来事を黙想していく祈りである 女子パウロ会が、ミサなどの典礼行為ではなく、私的な信心業として伝わるものである。 基本となる祈り方(数え方)が定められていて、珠の数・形状もそれに沿って作られている。
見る イエズス会とロザリオ
ヴロツワフ大学
ヴロツワフ大学(、、)は、ポーランドのヴロツワフにある研究大学。1702年に設立され、中央ヨーロッパ最古の高等教育機関のひとつとされる。
ヴッパータール
ヴッパータール (Wuppertal) はドイツ連邦共和国の都市。ノルトライン=ヴェストファーレン州に属する。ルール地方の工業都市。人口は約万人。ブッパータール、ウッパータールとも表記する。
ヴァンヌ
ヴァンヌ(Vannes、Gwened、ガロ語:Vann)は、フランス、ブルターニュ地域圏、モルビアン県に属する都市。周辺のコミューンとともに人口約13万人の都市圏を形成している。バンヌとも表記する。
見る イエズス会とヴァンヌ
ヴァーツラフ・ピフル
サムネイル ヴァーツラフ・ピフル(Václav Pichl, 1741年9月25日, 南ボヘミア・ベヒニェ(Bechyně) - 1805年1月23日 ウィーン)は、ボヘミア出身の古典派音楽の作曲家・楽長・ヴァイオリン奏者・声楽家・文筆家。オーストリア帝国で活躍したため、ヴェンツェル・ピヒル(Wenzel Pichl )というドイツ語名を遺した。
ヴァーサ王朝
ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 - 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 - 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年)。
見る イエズス会とヴァーサ王朝
ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)
バイエルン公ヴィルヘルム5世 ヴィルヘルム5世(Wilhelm V., 1548年9月29日 - 1626年2月7日)は、バイエルン公(在位:1579年 - 1597年)。アルブレヒト5世と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘アンナの子。
ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ
ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Vincenzo Viviani、1622年4月5日フィレンツェ - 1703年9月22日フィレンツェ) は、イタリアの数学者、科学者である。トリチェリの弟子であり、軟禁状態にあった晩年のガリレオの助手として働き、ガリレオの伝記を書いた。音速の測定などをおこなった。 フィレンツェに生まれた。イエズス会の学校に学び、大公フェルディナンド・デ・メディチから数学の本を購入する資金を与えられた。エヴァンジェリスタ・トリチェリの生徒となり、物理学と幾何学を学んだ。1639年、17歳のときに軟禁状態のガリレオの助手として派遣され、1642年のガリレオの死まで仕えた。1655年から1656年にわたって、ガリレオの最初の伝記を執筆した。
ヴィットーリオ・アメデーオ2世
ヴィットーリオ・アメデーオ2世(、1666年5月14日 - 1732年10月30日)は、サヴォイア公(在位:1675年 - 1730年)、後にシチリア王(在位:1714年 - 1720年)、次いでサルデーニャ(ピエモンテ)王(在位:1720年 - 1730年)。カルロ・エマヌエーレ2世とサヴォイア家分家サヴォワ=ヌムール家出身のマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタ・ディ・サヴォイアの息子。
ヴェルサイユ
ヴェルサイユ(Versailles)は、フランス北部のイル=ド=フランス地域圏に位置するコミューンで、イヴリーヌ県の県庁所在地である。 ヴェルサイユ宮殿(世界遺産)の所在地として有名である。パリから約20km南西に位置し、パリ中心部からは普通電車で最短約17分、RERで約45分であり、フランスの首都圏の一角を占める。このほか、サンルイ地区と呼ばれる旧市街、ノートルダム地区と呼ばれる歴史的居住区がある。
見る イエズス会とヴェルサイユ
ヴォルテール
ヴォルテール(Voltaire)こと、本名フランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet、1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家である。歴史的には、イギリスの哲学者であるジョン・ロックなどとともに啓蒙主義を代表する人物とされる。また、ドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールなどとともに百科全書派の学者の一人として活躍した。ボルテールと表記されることもある。 パリの公証人の子。姓は“アルーエ”とも表記される。Voltaireという名はペンネームのようなもので、彼の名のArouetをラテン語表記した"AROVET LI" のアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの渾名をもじった等、諸説ある。
見る イエズス会とヴォルテール
ヴォイニッチ手稿
ヴォイニッチ手稿のページ。 ヴォイニッチ手稿(ヴォイニッチしゅこう、ヴォイニッチ写本、ヴォイニック写本とも、Voynich Manuscript)とは、1912年にイタリアで発見された古文書(写本)。未解読の文字が記され、多数の奇妙な絵が描かれていることが特徴である。
ボリビアのイエズス会伝道所
ボリビアのイエズス会伝道所群は、スペインによる植民地化の過程で、イエズス会によって建造された伝道用の集落群である。それらは、ボリビア国内でも、特にサンタクルス県北部やベニ県に見られる。そのうち、サンタクルス県チキトス地方に残る伝道所群は「チキトスのイエズス会伝道所群」として、ユネスコの世界遺産に登録されている。
ボルジア家
ボルジア家(Borgia 、バレンシア語: Borja 、Borja )は、スペイン・アラゴン王国の(現アラゴン州サラゴサ県の町)に由来する家名を持ち、バレンシアを発祥とする、15・16世紀にイタリアで繁栄した貴族の家系である。 その一族にはローマ教皇カリストゥス3世、アレクサンデル6世、ロマーニャ公爵にして教会軍総司令官チェーザレ・ボルジア、フェラーラ公妃ルクレツィア・ボルジア、スクイッラーチェ領主ホフレ・ボルジアらがいる。 アレクサンデル6世の息子フアン・ボルジアの系統にあたるガンディア公家は1748年に断絶した。ガンディア公家からはイエズス会の第3代総長フランシスコ・ボルハが出ている。
見る イエズス会とボルジア家
ヌーベルフランス
1681年の北アメリカの地図 ヌーベルフランス(Nouvelle-France、New France)は、1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した時期から、1763年のパリ条約により、スペイン帝国とグレートブリテン王国にヌーベルフランスを移譲した時まで、フランス王国が北アメリカに植民を行った地域である。その頂点にあった1712年(ユトレヒト条約の前)、領土は東はニューファンドランド島から西のロッキー山脈まで、北はハドソン湾から南のメキシコ湾までに拡大した。この領土はカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランド(プレサンス)およびルイジアナの5植民地に分割され、それぞれに管理政体が置かれた。ユトレヒト条約の結果、本土のアカディア、ハドソン湾およびニューファンドランド植民地に対するフランスの領有権が消え、アカディアの後継地としてイル・ロワイヤル(ケープ・ブレトン島)の植民地が設立された。
ボフダン・フメリニツキー
ボフダン・フメリニツキー( ボフダン・フメリヌィーツィクィイ、1595年 - 1657年8月6日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。ザポロージャのコサックの(1622年 - 1647年)や、ウクライナ・コサックの最高指導者ヘーチマン(1648年 - 1657年)を務めた。ヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対し1648年から1657年にかけて、フメリニツキーの乱を起こし、1654年のペラヤースラウ会議でポーランドと戦うために、ロシア・ツァーリ国のツァーリから保護を受けることで、ヘーチマン国家を建設した。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史最大の英雄との意見もあるが黒川 (2002), p.100、ウクライナ国内外に否定的な評価もある。当時ロシアに匹敵するほどの大国であったポーランドが大国から小国に転落する大洪水時代の始まりとなる人物であり、彼の反乱がポーランド分割に繋がるため批判の的である。
ヌエバ・エスパーニャ
ヌエバ・エスパーニャ副王領(ヌエバ・エスパーニャふくおうりょう、)は、1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領を指す名称である。スペイン語で「新スペイン」という意味。 江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート
ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート伝道所 (Reducción de Nuestra Señora de Loreto) は、アルゼンチン・ミシオネス州カンデラリア県にあるイエズス会伝道所跡のひとつ。グアラニー族のキリスト教化などを目的として1610年に建造されたものであり、1767年のイエズス会退去令の後に放棄された。 1984年に「グアラニーのイエズス会伝道所群」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されたが、現在は植物が生い茂っている遺跡となっていて、サン・イグナシオ・ミニなどと比べると、保存状態が良いとはいえない。
ボストンカレッジ
ボストン市西部、ブライトン・ニュートンの2市にもまたがる地区に位置する名門私立総合大学。ボストン・カレッジの歴史は古く1863年に創立されたボストン市内で最も古い大学だったが、今は移転してボストン市の西10km(約6マイル)の郊外に位置する。丘の上のキャンパスが美しいことで知られており、特にゴシック様式の建物が有名である。また、アメリカで最も古い一般教育の歴史を持つイエズス会が経営する大学であるために、本校はリベラルアーツの一般教育をとりわけ強調している。国内での権威は高く1956年の卒業式演説でカトリック信徒であったジョン・F・ケネディに「イエズス会のアイビー」("Jesuit Ivy")と呼ばれたことがある。
トマス・ルイス・デ・ビクトリア
トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548年 アビラ - 1611年8月27日)は、黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人。16世紀スペインの作曲家では最も有名であり、多くの人からパレストリーナに次ぐポリフォニックな教会音楽の大家と見なされている。
トランスヒューマニズム
トランスヒューマニズム()は、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である。省略して>HやH+と書かれる場合もある。日本語では「超人間主義」などと訳される。トランスヒューマニズムは人間の機能拡張やその他将来の科学技術の開発・使用により、将来起こりうることを研究する学問でもある。 トランスヒューマニストの思想家は、人間の根本的な限界を克服し得るの潜在的な利益と危険性、およびそれらの技術を使用することの倫理的限界について研究している。最も一般的なトランスヒューマニストの主張は、人類は最終的に、現在の状態から大幅に拡張された能力を持つ異なる存在へと変化し、ポストヒューマンとも呼ぶべき存在になる可能性があるということである。
トリニダ
トリニダ、トリニダード (Trinidad) は、キリスト教の三位一体を意味するスペイン語。スペイン語圏の国などで地名に多く使われている他、女性の名前としても使われる。
見る イエズス会とトリニダ
トーレス
トーレス (Torres)。
見る イエズス会とトーレス
トカンティンス州
トカンティンス州(トカンティンスしゅう、Estado de Tocantins )は、ブラジル中部の州。ゴイアス州の北にある。人口は151万1460人(2022年)、州都はパルマス。略称は「TO」である。
トケイソウ
Passiflora caerulea 'Constance Elliot') トケイソウ(時計草、パッションフラワー、Passion flower)はトケイソウ科トケイソウ属 に分類される植物の総称であり、狭義には学名: という種の和名である。
見る イエズス会とトケイソウ
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France、1609年11月25日 - 1669年9月10日)は、イングランド王チャールズ1世の王妃。イングランド王妃、スコットランド王妃、アイルランド王妃の称号を持つ。フランス語名はアンリエット・マリー・ド・フランス(Henriette Marie de France)。息子にチャールズ2世とジェームズ2世の2人、孫にメアリー2世、ウィリアム3世、アンの3人の君主がいる。 カトリック信者だったためにイングランドでは人気がなく、国教会での戴冠を拒否したため、王妃としての戴冠式は一度も行われないままだった。後半生は清教徒革命(イングランド内戦)により不穏となったイングランド国内の対応に追われるようになり、(1642年 - 1646年)が最高潮となった1644年に、末娘のヘンリエッタ・アンの出産直後に故国フランスへの亡命を余儀なくされた。そして1649年に夫であったイングランド国王チャールズ1世がされ、ヘンリエッタ・マリアは経済的苦境に陥っている。フランスではパリで亡命生活を送っていたが、1660年の王政復古で長男チャールズがチャールズ2世としてイングランド国王に即位するとともにイングランドへ帰還した。しかしながら1665年には再びパリへと戻り、4年後の1669年にコロンブで死去し、歴代フランス王家の墓所ともいえるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。
ヘンリク・デンツィンガー
ヘンリク・デンツィンガー(Heinrich Joseph Dominicus Denzinger 1819年10月10日-1883年7月19日)は19世紀に活躍したドイツ人のカトリック神学者、司祭。ドイツ、ヴュルツブルク生まれ。1844年に司祭に叙階され、以後教義学の権威としてヴュルツブルクの神学校で長きに渡って教鞭をとった。「デンツィンガー」の名前はその業績からカトリック教会の公文書集の呼び名として現代でも知られている。
ブラガンサ王朝
ブラガンサ家の紋章 ブラガンサ王朝(Dinastia De Bragança)は、1640年から1910年までポルトガル王国を統治したポルトガル最後の王朝。ブラジル帝国(1822年 - 1899年)の2人の皇帝も出している。
ブラジル
ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家。首都はブラジリア。 南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナと国境を接しており、南米諸国で接していないのはチリとエクアドルだけである。東は大西洋に囲まれている。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島、マルティン・ヴァス島、サンペドロ・サンパウロ群島もブラジル領に属する。その国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、インド・パキスタン・バングラデシュの三国を合わせた面積の約2倍に相当する。
見る イエズス会とブラジル
ブラジルの歴史
ブラジルの歴史(ブラジルのれきし)は、約8000年ほど前、最初のアメリカ大陸先住民の移住者が現在のブラジルに定住した頃にさかのぼる。文書記録を伴う歴史は1500年のポルトガル人の来航をもって始まる。以後の歴史はポルトガル領(1500年-1815年)及びポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国(1815年-1822年)時代、ポルトガルのブラガンサ王室皇太子を皇帝に推戴して独立した帝政時代(1822年-1889年)、帝政を打倒した共和政時代(1889年-現在)に大別される。 1532年、とに初めて恒久的な入植地が築かれた。16世紀から18世紀にかけてブラジルはポルトガルの植民地であり、「発見」初期にはブラジルの木、のちには沿岸部のプランテーションでのサトウキビの生産や、内陸部での黄金採掘が主な産業であった。この時期に沿岸部のインディオはほぼ絶滅し、労働力として大量の奴隷がアフリカから連行された。
ブルボン改革
ブルボン改革(ブルボンかいかく、)は、18世紀のブルボン家統治下のスペイン王室による、スペイン自体と、後にそのアメリカ植民地の政治的経済的支配の強化を意図した一連の改革のこと。 改革の主目標は、ハプスブルク家の王がカトリック教会と商人のギルドなどの組織に委任していた権限を、王室の権力として取り戻すことであった。このため、改革はしばしばスペイン王権以外の権力を守っていた中間団体を排除した。
見る イエズス会とブルボン改革
ブレラ美術館
ブレラ美術館 (ブレラびじゅつかん、Pinacoteca di Brera) は、イタリアのミラノにある美術館である。「ブレラ絵画館」と訳すこともある。ルネサンス期から20世紀にわたるイタリア絵画の宝庫であり、とりわけヴェネツィア派、ロンバルディア派などルネサンス期を中心とした北イタリアの絵画が充実している。中部イタリアの絵画にも重要な傑作が含まれている。
見る イエズス会とブレラ美術館
ブレーズ・パスカル
ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、デカルト主義者、発明家、実業家である。
ブータン
ブータン王国(ブータンおうこく、、)、通称ブータンは、南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はティンプー。北は中国、東西南はインドと国境を接する。 国教は仏教(ロ・ドゥク派)。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語。 国旗はその模様が複雑で、竜のうろこが細かく描かれている。国花はメコノプシス=ホリドゥラ、国樹はイトスギ、国獣はターキン、国鳥はワタリガラス、国蝶はブータンシボリアゲハ。 長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国際連合加盟。翌年に国民総幸福量という功利主義を採用した。
見る イエズス会とブータン
プラハ・カレル大学
カレル大学(カレルだいがく)またはプラハ大学(プラハだいがく、Univerzita Karlova v Praze、Karls Universität、Charles University)は、1348年に神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)によって創立された、チェコのプラハに所在する同国最高峰の総合大学であり、中欧・東欧において最も歴史を有する。 ボヘミア王国の首都プラハが神聖ローマ皇帝の在所だった時期に、神聖ローマ帝国によって創立された帝国領内最古かつドイツ語圏最古の中世大学である。創立直後は、チェコ語の正書法を確立した宗教改革の先駆者ヤン・フスが活躍。第一次世界大戦、第二次世界大戦期にたびたび分裂と閉鎖を繰り返し、現在は名称をカレル大学という。ヨーロッパにおいて長い歴史と権威を有する大学で構成されるコインブラ・グループに属する。大学の校舎は、たとえば本部と哲学部は旧市街、医学部はフラチャヌィの丘といった具合にプラハの街中に散在している。
プレスター・ジョン
プレスター・ジョン(Prester John、Presbyter Johannes、Preste João、プレステ・ジョアン)は、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説では、ネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている。名前のプレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味する『エチオピア王国誌』(長島信弘注・解説)、587頁。ドイツ語では、Presbyter Johannes の他に、Priesterkönig Johannes(司祭王ヨハネス)とする表記も行われている。
プログレス・イン・イングリッシュ
『プログレス・イン・イングリッシュ』(PROGRESS IN ENGLISH) は、エデック社発行の英語教科書(厳密には文科省認可を受けていないため副教材であり、別途教科書を購入する必要がある。ただし、実際には、検定教科書は使用されず、これのみで授業をすることが多い)である。略称プログレス。また、本項目ではマイナーチェンジ版である『PROGRESS IN ENGLISH 21』についても解説する。
パナマ市
パナマシティ( シウダ・デ・パナマ、)は、パナマ共和国の首都。太平洋に面しパナマ運河の入り口である。国の政治、経済、文化の中心だけではなく、中米有数の世界都市でもある。また、中米有数の金融センターとしても評価されており、世界各国の銀行が進出している - 外務省(2015年8月15日)。また旧市街地はパナマ・ビエホとパナマ歴史地区として世界文化遺産に登録されており、多くの観光客を集めている。パナマの守護聖人はサンタ・マリア・ラ・アンティグア。
見る イエズス会とパナマ市
パナマ・ビエホとパナマ歴史地区
パナマ・ビエホとパナマ歴史地区は、中米の国、パナマの首都であるパナマ市の東に位置している世界遺産に登録されている文化財として貴重な建造物群である。
パラグアイ
パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく、、)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。 なお、パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なっている(パラグアイの国旗を参照)。
見る イエズス会とパラグアイ
パリ大学
パリ大学(パリだいがく、仏:Université de Paris)は、かつてフランス共和国のパリに存在した公立大学。 1970年以降は第1から第13まで単科大学として運営されてきたが、2008年から一部の大学の離脱や統合計画が実現し始め、第4と第6が合併し'''ソルボンヌ大学'''に、第9はPSL研究大学に、2019年には第5と第7が合併しパリ大学(のち2022年にパリ・シテ大学に改名)に、2020年には第11はパリ=サクレー大学に統合され、新しい体制が整えられた。 これまでに多くのノーベル賞受賞者を輩出し、法学・政治学・科学・物理学・神学などの分野で優秀な学者を輩出している。また、芸術の教育機関としても名高く、ロンドンやニューヨークの大学との交流が盛んである。
見る イエズス会とパリ大学
パリ外国宣教会
パリ外国宣教会 (パリがいこくせんきょうかい、Missions étrangères de Paris; 略称:MEP) は、フランスのパリに本部を置くカトリックの男子宣教会。1658年、フランソワ・パリュー (François Pallu) らによって設立された宣教会で、当初より東アジアの宣教を担当している。明治以降の日本のカトリック教会の再建に携わった。パリミッション会とも呼ばれ「パリ外邦伝教会」と訳されることもある。
パヴェル・ヴェイヴァノフスキー
パヴェル・ヨセフ・ヴェイヴァノフスキー(Pavel Josef Vejvanovský, 1633年ごろ - 1693年6月24日)はボヘミアの作曲家・トランペット奏者・合唱指揮者(聖歌隊長)。
パーダーボルン
パーダーボルン (Paderborn, 、古いパーダーボルン方言では Paterboärn、現在のパーダーボルン周辺の方言では Pad(d)aboan) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト行政管区のパーダーボルン郡に属す市である。人口 145,000人を超える同州東部の大都市である。本市は、パーダーボルン郡の郡庁所在地であり、また、旧パーダーボルン司教領地域の上級中心地であり中心都市である。さらにパーダーボルンは南部の最大都市でもある。パーダーボルン (Paderborn) という名称は、本市を流れる (Pader) と水源を意味する古語 Born とが結合したものである。
パパゴ
パパゴ(Papago、Pápago)とはアメリカインディアン部族のひとつ。
見る イエズス会とパパゴ
パドヴァ
パドヴァ(Padova)は、イタリア共和国ヴェネト州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体(コムーネ)。パドヴァ県の県都。経済・通信のハブ地である。 パドヴァ市の人口はヴェネト州で第3位である。ヴェネツィアなどを含むパドヴァ=ヴェネツィア都市圏の人口はおよそ160万人である。
見る イエズス会とパドヴァ
パイナップル
パイナップル(パインアップル、パインナップル、英: Pineapple、学名: Ananas comosus)は、熱帯アメリカ原産のパイナップル科の多年草、またはその肥大した実である。単にパインと略してよばれることもあるほか、漢名は菠蘿(はら、ポーロ)、または鳳梨(ほうり、オンライ、フォンリー)である。台湾では鳳梨、中国では菠蘿と表記する。また、植物名としてアナナスとよぶこともあり、果実や可食部のみパイナップルとよんで区別することもある。 「パイナップル」(pineapple)という名前は、本来は松 (pine) の果実 (apple) 、すなわち「松かさ」(松ぼっくり)を指した『英語語源辞典』、1069頁。
見る イエズス会とパイナップル
パウル・ギュルダン
パウル・ギュルダン(パウル・グルディン、ポール・ギュルダン、Paul Guldin,1577年6月12日 - 1643年11月3日)はスイス生まれのオーストリアの数学者である。彼はユダヤ人の家系のプロテスタントの家庭に生まれたが、後にカトリックに改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。元の名前はHabakkuk Guldin。 グラーツ大学およびウィーン大学で数学の教授を務めた。 彼の数学上の業績はパップス=ギュルダンの定理と呼ばれる回転体の表面積と体積に関する定理しかおそらく知られていない。
パウルス3世 (ローマ教皇)
パウルス3世(Paulus III、1468年2月29日 - 1549年11月10日)は、第220代ローマ教皇(在位:1534年 - 1549年)。本名はアレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)。イエズス会を認可し、プロテスタント側との対話を求め、教会改革を目指してトリエント公会議を召集した事で知られる。
パウルス4世 (ローマ教皇)
パウルス4世(パウルス4せい、Paulus Ⅳ、1476年6月28日 - 1559年8月18日)は、ローマ教皇(在位:1555年 - 1559年)。本名ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ(Giovanni Pietro Carafa)。カトリック対抗宗教改革への意欲に燃える教皇ではあったが、厳格過ぎる性格のため、敵を作ることが多かった。
パウルス5世 (ローマ教皇)
パウルス5世(Paulus V、1552年9月17日 - 1621年1月28日)は、ローマ教皇(在位:1605年 - 1621年)。シエナの名門ボルゲーゼ家の生まれ、本名はカミッロ・ボルゲーゼ(Camillo Borghese)。教会の権益を擁護すべくヴェネツィア共和国やイングランド王ジェームズ1世との交渉を繰り返した。
パウロ三木
パウロ 三木(パウロ みき)は、安土桃山時代のキリシタンとして最初の日本人殉教者の1人で、その筆頭にあげられたイエズス会イルマン(助修士)である。洗礼名はパウロで、当時の呼称では「三木ポオロ」。死後265年にして日本二十六聖人の1人としてカトリック教会の聖人となった。
見る イエズス会とパウロ三木
ヒュー・ロフティング
ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting, 1886年1月14日 - 1947年9月26日)は、20世紀前半にアメリカ合衆国(米国)で活動したイギリス出身の児童文学及び絵本作家。
ビリケン
第二代ビリケン像、通天閣 5階 展望台にあった(1979〜2012)いまは三代目となっている ビリケン(Billiken)は、尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神の像。 1908年10月6日にアメリカ合衆国のフローレンス・プレッツがデザイン特許を取得した。 日本では大阪の通天閣 5階(展望台)にあるビリケン像が有名で、「ビリケンさん」の愛称で親しまれ、特に足を掻いてあげるとご利益があるとされている。 また、アラスカのエスキモーの間で彫刻品の題材として広まり、同地や極東ロシアでは時として自身の民族の伝統の神として祀られるほどの人気を得ている。
見る イエズス会とビリケン
ビルバオ
ビルバオ(, )は、スペイン・バスク州ビスカヤ県の基礎自治体。ビスカヤ県の県都である。バスク語ではビルボ(Bilbo, )。 かつて経済を支えた鉄鋼業、造船業が1980年代に衰退し、1983年の洪水でも打撃を受けた。1997年のビルバオ・グッゲンハイム美術館開館、それに先立つ工場排水に汚染された河川環境の改善、LRTや遊歩道、自転車道、公園の整備により、芸術・観光都市として再生した。世界各地の「創造都市プロジェクト」中で最も成功した事例の一つとされている。
見る イエズス会とビルバオ
ビルダーバーグ会議
ビルダーバーグ会議(ビルダーバーグかいぎ、英語:Bilderberg Meetings, Bilderberg conference, Bilderberg Group, Bilderberg Club)は、1954年から毎年1回、世界的影響力を持つ人物や企業、機関の代表が130-150人ほど集まり、世界の重要問題や今後の主に政治経済や社会等を主なテーマに完全非公開で討議する秘密会議。会議は、チャタムハウスルールの下に行われる。ビルダーバーグ・クラブ、ビルダーバーグ・グループ、ビルダーバーグ・ソサエティとも呼ばれる。参加者があまりにも世界的影響力のある有力者や著名人ばかりなので、「影の世界政府」「世界の行く末を決める会議」とも言われている。
ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ
ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デーブ(、1945年12月28日 - 2001年6月1日)は、ネパール王国の第10代君主(在位:1972年1月31日 - 2001年6月1日)。第9代マヘンドラの長男。
ビーバー戦争
ビーバー戦争当時の北東部一帯の主なインディアン部族勢力図 ビーバー戦争(ビーバーせんそう、Beaver Wars)、またはフランス・イロコイ族戦争(French and Iroquois Wars)、イロコイ族戦争(Iroquois Wars)は、17世紀半ばに北アメリカ東部で戦われた、インディアン部族とフランス植民地軍との一連の「インディアン戦争」の総称である。
見る イエズス会とビーバー戦争
ビスマルク憲法
ビスマルク憲法(ビスマルクけんぽう、独:Bismarcksche Reichsverfassung)は、1871年に制定されたドイツ帝国の憲法である。正式にはドイツ国憲法(ドイツこくけんぽう、独:Verfassung des Deutschen Reiches)。帝政時代の憲法であったことから、ドイツ帝国憲法とも訳される。 プロイセン国王をドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)と称し、国家元首を兼任の上でドイツ諸邦国の盟主と定め、統一ドイツ国家の基本法として、1919年のドイツ革命によってヴァイマル憲法に代わるまでその効力を保った。 欽定憲法であり、日本の大日本帝国憲法にも影響を与えた。
ピーター・ミルワード
ピーター・ミルワード(Peter Milward、1925年10月12日 - 2017年8月16日)は、イギリス出身のイエズス会司祭、上智大学名誉教授。上智大学文学部教授、同大学ルネッサンスセンター所長、東京純心女子大学教授、代々木ゼミナール英語科講師を歴任。
ピウス10世 (ローマ教皇)
ピウス10世(Pius X、1835年6月2日 - 1914年8月20日)あるいはピオ10世は、ローマ教皇(在位:1903年8月4日 - 1914年8月20日)、カトリック教会の教皇。本名はジュゼッペ・メルキオッレ・サルト(Giuseppe Melchiorre Sarto)。カトリック教会の聖人であり、16世紀のピウス5世以来、400年ぶりに教皇として列聖された人物である。
ピウス4世 (ローマ教皇)
ピウス4世(Pius IV、1499年3月31日 - 1565年12月9日)は、ローマ教皇(在位:1559年 - 1565年)。本名はジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(Giovanni Angelo Medici)。中断していたトリエント公会議を再開し、完了させたことでカトリックの対抗宗教改革の推進に大きく寄与した。名字は同じであるが、メディチ家との血縁はない新カトリック大事典編纂委員会、P152。。
ピウス5世 (ローマ教皇)
ピウス5世(ピウス5せい、Pius V、1504年1月17日 - 1572年5月1日)は、ローマ教皇(在位:1566年 - 1572年)。本名アントニオ・ギスリエーリ(Antonio Ghislieri)。異端審問の世界で活躍した後、教皇として異端とプロテスタントへの対抗に力に入れ、対抗宗教改革を推進した。カトリック教会の聖人で、記念日は4月30日。
ピウス6世 (ローマ教皇)
ピウス6世(Pius VI、1717年12月25日 - 1799年8月29日)は、ローマ教皇(在位:1775年2月15日 - 1799年8月29日)。本名はジョヴァンニ・アンジェロ・ブラスキ(Giovanni Angelo Braschi)。在位は24年と長かったが、フランス革命とそれに続いて起きたフランス軍の教皇領占領によってローマを追われ、失意のうちに亡くなった。
ピウス7世 (ローマ教皇)
ピウス7世(Pius VII、1742年8月14日 - 1823年8月20日)は、第251代ローマ教皇(在位:1800年3月14日-1823年8月20日)、カトリック教会の司祭。本名、ジョルジョ・バルナバ・ルイージ・キアラモンティ(Giorgio Barnaba Luigi Chiaramonti)。ナポレオンと激しく対立して幽閉されるも、結果的に欧州外交界において教皇庁の地位を高めることになった。
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin,1881年5月1日 - 1955年4月10日)は、フランス人のカトリック司祭(イエズス会士)で、古生物学者・地質学者、カトリック思想家である。 北京原人の発見に参加。オメガ点という生命論的な考え方を提唱しウラジーミル・ヴェルナツキーと「ヌースフィア」の概念を構築した。1962年、はテイヤールのいくつかの著作を、その曖昧さと教義上の誤りに基づいて非難した。その後、ベネディクト16世 (ローマ教皇)や教皇フランシスコなど、カトリックの著名人が彼の思想のいくつかについて肯定的なコメントを出しているWojciech Sadłoń, Teologia Teilharda de Chardin.
ピエール・ド・クーベルタン
クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディ(Pierre de Frédy, baron de Coubertin, 1863年1月1日 - 1937年9月2日)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。
ピエール・コルネイユ
ピエール・コルネイユ(Pierre Corneille, 1606年6月6日 - 1684年10月1日)は、17世紀フランス、古典主義の時代の劇作家で、ラシーヌ、モリエールと並び称される。 代表作の悲劇『ル・シッド』(1637年)により名声を博すが、古典主義で重要視された三一致の法則に従っていないとして非難も浴びた。 彼の肖像はかつて、フランスの100フラン紙幣に描かれていた。
ツバキ
ツバキ(椿、海柘榴)またはヤブツバキ(藪椿、学名: )は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。花が観賞されて庭などに植えられるほか、薬用や食用にもなる。
見る イエズス会とツバキ
テネリフェ島
テネリフェ島(テネリフェとう、Tenerife)は、大西洋にあるスペイン領カナリア諸島に属する島。面積は2,034km、人口は899,833人(2008年)で、共にカナリア諸島内で最大である。諸島最大の都市であり、カナリア諸島自治州の州都サンタ・クルス・デ・テネリフェが島の北東部にある。この島は元々火山島であり、スペインの最高峰、テイデ山 (3,718 m) がある。 交通手段としては、テネリフェ・ノルテ空港、テネリフェ・スール空港の2つの空港があり、フェリーも就航している。島内の主な公共交通としてバスが運行されているが、2007年にテネリフェ・トラム(路面電車)が開通した。島はカナリア諸島で最大の経済を持ち、群島のGDP(国内総生産)をリードしている。
見る イエズス会とテネリフェ島
テルナテ島
テルナテ島(テルナテとう、Ternate)はインドネシアのモルッカ諸島にある島である。ハルマヘラ島の西海岸沖合10kmにあり、面積は106km2。人口は95,921人(2002年)。中心都市はテルナテで島の東海岸にある。テルナテ島の南には幅約1kmの海峡を挟んでティドレ島があり、この2つの島は大きさも地形もよく似ていて双子に喩えられる。 テルナテ島はマルク州に属していたが、1999年に北マルク州が分離して成立すると、テルナテが事実上の州都になった(計画上の州都はハルマヘラ島のソフィフィ)。 島の最高峰は活火山のガマラマ山で、標高は1,715 mある。定期的に活動を繰り返しており、1538年に記録されて以来70回以上噴火している。最近では1980年9月に大きな噴火があり、3万人が近くのティドレ島に避難した。
見る イエズス会とテルナテ島
テーブルさん座
テーブルさん座(テーブルさんざ、Mensa)は、現代の88星座の1つ。18世紀半ばに考案された新しい星座で、南アフリカ共和国にある実在の山テーブルマウンテンをモチーフとしている。現在、はちぶんぎ座についで天の南極に近い星座である。日本から全く見ることのできない星座3つのうちの1つ。
テニアン島
テニアン島(テニアンとう、Tini'an、Tinian)は、北マリアナ諸島の島の一つ。面積は約1002で、サイパン島からは約8kmの距離にある。現在はアメリカ合衆国の自治領(北マリアナ諸島に所属)である。北緯15度線が通る。
見る イエズス会とテニアン島
ティリー伯ヨハン・セルクラエス
ヨハン・セルクラエス・グラーフ・フォン・ティリー(Johann t'Serclaes Graf von Tilly, 1559年 - 1632年4月30日)は、ブラバント公国の(現在のベルギー・ブラバン・ワロン州)出身の将軍、傭兵隊長。三十年戦争ではバイエルン軍を率い、カトリック連盟の総司令官として戦争序盤の主導権を握った。敬虔なカトリック信徒で「甲冑をまとった修道士」と呼ばれた。
ティヴォリ
ティヴォリ(Tivoli)は、イタリア共和国ラツィオ州ローマ県にある都市で、その周辺地域を含む人口約56,000人の基礎自治体(コムーネ)。ローマの東約30kmに位置する。 古代ローマ時代から保養地として知られ、ハドリアヌス帝や多くの貴族たちによって別荘(ヴィラ)が営まれた。ヴィッラ・デステ(エステ家の別荘)とヴィッラ・アドリアーナ(ハドリアヌスの別荘)のふたつが、ユネスコの世界遺産に登録されている。また、多くの芸術家によって、この地を題材にした作品が作られている。 日本語文献では「チボリ」などの表記もされる(#名称節参照)。
見る イエズス会とティヴォリ
ティコ・ブラーエ
ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、誕生時の名前はテューイェ・オデスン・ブラーエ、Tyge Ottesen Brahe、1546年12月14日 - 1601年10月24日)は、デンマークの貴族、天文学者・占星術師・錬金術師・作家。当時としては極めて正確かつ包括的な天体観測を実施したことで知られる。 彼はデンマーク領のスコーネで生まれた。生前から天文学者・占星術師・錬金術師として著名であり、「初めて、正確なを切なる情熱を持って追い求めるという、現代天文学にかなう精神を持った人」と評される。彼の調査は当時最良の観測よりも5倍ほど正確であった。 ティコはデンマーク有数の有力貴族家系の出であり、総合的な教育を受け、天文学と正確な観測器具の製作に関心を持った。天文学者として、に見出した幾何学的有用性を、プトレマイオス体系の哲学的有用性と共に、彼自身の宇宙モデルであるに組み合わせることに取り組んだ。ティコ体系は宇宙の中心に地球を置き、月と太陽が地球の周囲を公転し、惑星が太陽の周囲を公転しているというものであった。また、彼は重要な天文学者の中で望遠鏡を使用せず肉眼による天体観測を行った最後の人物である。1573年の著作『De stella nova(新星について)』でティコはに反論した。正確な観測によって「新星」(stellae novae, ティコが観測した現象は現在超新星に分類されるものだったと言われる)、特に1572年のそれ(SN 1572)には月軌道より低い場所で発生する現象に予想される視差が検出されないことを示した。新星は当時まで、大気中に存在する尾を欠いた彗星などであると考えられていたが、このティコの観測結果によってそれが大気や月よりもより高い(遠い)場所の現象であることが示された。彼は同様の観測結果を用いて、彗星もまた当時考えられていたような大気中の現象ではないことを示し、それが恐らく不変の天球を通過していると見るべきことを主張した。
デンバー
デンバー(英語:)は、アメリカ合衆国のコロラド州中北部に位置する都市及び郡(市郡)。同国西部、ロッキー山脈東麓、シカゴとサンフランシスコのほぼ中間に位置する。コロラド州の州都であり、同州の政治・経済・文化の中心であるのみならず、と呼ばれる地域の中心都市でもある。人口は715,522人(2020年国勢調査).
見る イエズス会とデンバー
デンキウナギ
デンキウナギ(電気鰻、英:Electric eels)は、デンキウナギ目ギュムノートゥス科デンキウナギ属に分類される魚類の総称、もしくはそのうちの1種の和名。南アメリカ大陸北部アマゾン川、オリノコ川両水系に分布する大型魚で、熱帯淡水魚に分類される。最大860ボルトにもなる強力な電気を発生させて獲物を気絶させて狩りを行う強電気魚の1種として知られている。その電気魚としての形質は1775年に初めて研究対象となり、その後の1800年の電池の発明にも繋がった。本項では、デンキウナギ属(学名:)に分類される1属3種の魚類全般について扱う。 「ウナギ (eel)」の名が付いているが、ウナギ目()との直接的な関係は無く、むしろナマズの仲間に近い。2019年にデンキウナギ種が3種に分割されるまで、デンキウナギ属には(デンキウナギ)のみが単独で属していた。
見る イエズス会とデンキウナギ
フランチェスコ2世・デステ
フランチェスコ2世・デステ(Francesco II d'Este, 1660年3月6日 - 1694年9月6日)は、モデナ=レッジョ公(在位:1662年 - 1694年)。
フランチェスコ・マリア・グリマルディ
フランチェスコ・マリア・グリマルディ(Francesco Maria Grimaldi、1618年4月2日 - 1663年12月28日)はイタリアの数学者、物理学者。イエズス会の司祭でありボローニャ大学の教授である。 1640年から1650年まで、 リッチョーリとともに働いた。落体の自由落下の研究を行い、落下距離が時間の2乗に比例することを見出したほか、1644年から1656年にリッチョーリと子午線弧長の測量を行った。 天文学の分野では、月理学に基づく正確な月面図を作成し、これはリッチョーリによって出版された。 光の回折について正確な観察を行った。特に回折現象を発見し、このことから光の現象と他の流体の現象との類似性を議論した。diffraction(回折)と言う用語は彼によって生み出された。後に回折現象は光の波動説の証拠とされ、またニュートンによって研究された。
フランツ・ベンダ
フランツ・ベンダ(Franz Benda)、またはチェコ語でフランティシェク・ベンダ(František Benda, 1709年11月22日 - 1786年3月7日)は、ドイツで活動した作曲家、ヴァイオリニスト。
フランクフルト・アム・マイン
フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州に属す郡独立市である。一般にフランクフルトと通称される。ヘッセン州最大の都市で人口は72万人(2016年)であり、ドイツ全体でベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ケルンに次ぐ。 (PDF, 25.1 MB)(2013年2月28日 閲覧)、広義のライン=マイン大都市圏の総人口は550万人である。--> 中世以来、ドイツの中心都市の一つであった。794年には初めて文献に記録され、中世盛期の帝国自由都市であった。13世紀のライン都市同盟に参加している。 1806年まで神聖ローマ皇帝の選挙が行われる諸侯会議が開催された地であり、1562年以降は皇帝の戴冠式もこの都市で挙行された。1816年からドイツ連邦の議会がフランクフルト自由都市で開催され、1848年から49年にかけてはフランクフルト国民議会が開催された。1866年の普墺戦争により都市国家としての独立を喪失し、プロイセンに併合された。フランクフルトの人口は、1875年に10万人、1928年には50万人を超えた。
フランシス・ベーコン (哲学者)
初代セント・オールバン(ズ)子爵フランシス・ベーコン(QC、1561年1月22日 - 1626年4月9日)は、イギリスの哲学者、神学者、法学者、政治家、貴族である。イングランド近世(ルネサンス期、テューダー朝(エリザベス朝)からステュアート朝)の人物。イギリス経験主義の祖。 「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)の名言や、「イドラ」の概念で有名。
フランシスコ
フランシスコ()は、主にスペイン語、ポルトガル語の男性名。フランチェスコ、フランシス、フランソワ、フランツなどに対応する。愛称形はキコ(Kiko)、シコ(Chico)、パキート(Paquito)、パコ(Paco)、パンチョ (Pancho) など。
見る イエズス会とフランシスコ
フランシスコ会
フランシスコ会(フランシスコかい、Ordo Fratrum Minorum、Order of Friars Minor)またはフランチェスコ会(フランチェスコかい)は、13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会の総称であり、広義には第一会(男子修道会)、第二会(女子修道会)、第三会(在俗会)を含む。現在、その活動は全世界にわたっている石井(2004)「フランシスコ会」。 狭義には男子修道会、すなわち男子修道士による托鉢修道会である第一会に相当する3つの会のことを指し、特にそのなかの主流派である改革派フランシスコ会のみを指すこともある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM) の名を冠している。また、イングランド国教会系の聖公会でもフランシスコ会が組織されている。
フランシスコ・カブラル
フランシスコ・カブラル(、 1529年 - 1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。
フランス復古王政
復古王政(ふっこおうせい、Restauration)は、1814年のナポレオン没落後、1830年の七月王政成立までの時代を指す。 フランス革命(1789年–1799年)でブルボン朝の国王ルイ16世が廃位・処刑された後、第一共和政(1792年–1804年)、第一帝政(1804年–1814年、1815年)が続いたが、第六次対仏大同盟がナポレオンを破って第一帝政が終わり、王政が復活した。 復古王政は早くとも1814年4月6日から1830年の七月革命の民衆蜂起まで続いたが、百日天下の間は王家はフランス国内からヘントへの亡命に追い込まれた。 復古王政期のブルボン朝はアンシャン・レジームのような絶対王政ではなく立憲王政であったため、その権力には制限が課されていた。この時代の特徴は極端な保守反動にあり、その結果として漠然とした社会不安や騒擾が蔓延していた。また、政治におけるローマ・カトリック教会の復権もみられた。
フランス革命の年表
フランス革命の年表(フランスかくめいのねんぴょう、Chronologie de la Révolution française)は、フランス革命(1789年〜1799年)とそれに関連する出来事、さらにその原因にまで遡って取りまとめた年表である。
フランス領ルイジアナ
フランス領ルイジアナ(フランスりょうルイジアナ、La Louisiane、Louisiana)は、北アメリカ大陸のフランス植民地・ヌーベルフランスの一管轄地域の名前である。17世紀から18世紀にかけての名称であり、この地方を探検したフランス人の探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって、フランス国王ルイ14世に因んでルイジアナと名づけられた。元々、その領域はミシシッピ川流域のほとんどを含んでおり、南北は五大湖からメキシコ湾まで、東西はアパラチア山脈からロッキー山脈まで広大に広がっていた。管理上は、アーカンザス川から北のアッパー・ルイジアナ(Haute-Louisiane)とローワー・ルイジアナ(Basse-Louisiane)に分かれていた。現代のアメリカ合衆国ルイジアナ州は、フランス領ルイジアナのほんの一部に過ぎないが、これはこの歴史的な地域の名前を貰ったものである。
フラ・パオロ・サルピ
フラ・パオロ・サルピ(Fra Paolo Sarpi, 1552年8月14日 - 1623年1月7日)は、イタリアの学者・歴史家・修道士。医学・自然科学にも通じていた。ヴェネツィアの出身で、1565年に聖母の下僕会の修道士となり、1579年にはその管区長、1605年には総代理となる。
フライブルク・イム・ブライスガウ
フライブルク・イム・ブライスガウ(標準ドイツ語:Freiburg im Breisgau, アレマン語:Friburg im Brisgau)は、ドイツ連邦共和国南西部、バーデン=ヴュルテンベルク州の郡独立市である。単にフライブルクと呼ばれることも多く、以下ではこれを用いる。 ドイツゴシック建築の傑作とされる大聖堂(13世紀建設開始-1513年完成)を擁し、美しい家並み、清潔な街区も魅力的な文化都市である。 環境保護で先進的な取り組みをしている都市であり、日本では「環境首都フライブルク」と紹介されることがある。大学都市でもあり、アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(フライブルク大学)や教育大学・音楽大学が所在し、学生や教職員などが多く居住している。また、外国人へのドイツ語教育機関であるゲーテ・インスティトゥートがある。
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルドルフ・ゲアハルト・アウグスティン・フォン・シュトイベン (Friedrich Wilhelm Ludolf Gerhard Augustin von Steuben、1730年9月17日 - 1794年11月28日、シュトイベン男爵)は、プロイセン王国の陸軍士官であり、アメリカ独立戦争ではジョージ・ワシントン将軍に仕えた。大陸軍に軍隊の訓練と統制の基本を教えたことでその功績を知られている。
見る イエズス会とフリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン
フルダ
フルダ(Fulda, )は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州カッセル行政管区のフルダ郡に属す市である。フルダ川に面する東ヘッセンの上級中心都市であり、ヘッセン州で9番目に大きな街である。フルダ郡の郡庁所在地であり、ヘッセン州に7つあるゾンダーシュタートゥスシュタットSonderstatusstadt(直訳: 特別な地位にある都市)、ヘッセン州では人口5万人以上の郡所属市で、他の郡所属市と郡独立市との中間の地位にあたる都市。バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ、フルダ、ギーセン、ハーナウ、マールブルク、リュッセルスハイム・アム・マイン、ヴェッツラーの 7都市である。 の1つである。フルダは東ヘッセン地域で最大の都市であり、その政治的・文化的中心となっている。この街は、ドイツに11箇所ある欧州大都市圏の1つであるライン=マイン地方に含まれる。
見る イエズス会とフルダ
フアン・ボルジア
フアン・ボルジア (Juan Borja, 1476年? - 1497年6月14日)は、スペインの第2代ガンディア公爵。ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)と愛人ヴァノッツァ・カタネイの子。異母兄にペドロ・ルイス・ボルジア、同母兄弟にチェーザレ・ボルジア、ホフレ・ボルジア、妹にルクレツィア・ボルジアがいる。 スペイン語読みでは「フアン・ボルハ」となるはずだが、日本では「フアン・ボルジア」または「ホアン・ボルジア」が一般的である。イタリア語ではジョヴァンニ・ボルジャ(Giovanni Borgia)。チェーザレの弟にあたるのか、兄にあたるのか、生年が諸説ある。
フィリップ・ルクレール
フィリップ・フランソワ・マリー・ド・オートクロク(Philippe François Marie de Hautecloque、1902年11月22日 - 1947年11月28日)は、フランスの軍人。一般にはレジスタンス時代の変名「ジャック=フィリップ・ルクレール()」で知られている。通常は「フィリップ・ルクレール・ド・オートクローク()」と表記される事が多い。第二次世界大戦中に自由フランス軍を率いてノルマンディー上陸作戦に参加し、パリ入城を果たしたことで知られる。
フィリップ・ヘレヴェッヘ
フィリッペ・ヘレヴェーゲ(またはフィリップ・ヘレヴェッヘ。フラマン語:Philippe Herreweghe, 1947年5月2日 - )は、ベルギーの指揮者。ドイツ音楽の専門家として知られており、なかでもバッハから新ウィーン楽派までを得意としている。今日では主要なバッハ研究家によって、正統的な歴史考証を踏まえたピリオド奏法によるバッハ演奏の開拓者の一人と認められており、また60余りの録音数から「ハルモニア・ムンディ・フランス」レーベルの顔の一人と見なされている。
フィデル・カストロ
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス( (audio), 1926年8月13日 - 2016年11月25日 時事ドットコム 11月26日付)は、キューバの政治家、革命家、軍人、弁護士(キューバ)。 共産主義者で、1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。革命によって同国の最高指導者となり、首相に就任。1965年から2011年までキューバ共産党中央委員会第一書記を、1976年より2008年まで国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)を務めた。後述の通り、キューバ独立の英雄という評価と独裁者としての批判との賛否がある。
フェリックス・ジェルジンスキー
フェリックス・エドムーンドヴィチ・ジェルジンスキー(, 1877年9月11日 - 1926年7月20日)は、ポーランドの貴族、革命家。後に祖国ポーランドを離れ、ソビエト連邦の政治家に転じた。 革命直後の混乱期において誕生間もない秘密警察を指揮し、その冷厳な行動から「鉄のフェリックス」「労働者の騎士」「革命の剣」「プロレタリアの武装せる腕(かいな)」など数多くの異名で呼ばれた。
フェリシアン・ダヴィッド
フェリシアン(=セザール)・ダヴィッド(Félicien David, 1810年4月13日 - 1876年8月29日)は、19世紀フランスの作曲家。
フェルナン・メンデス・ピント
フェルナン・メンデス・ピント フェルナン・メンデス・ピント(Fernão Mendes Pinto, IPA: fɨɾ'nɐ̃ũ 'mẽdɨʃ 'pĩtu, 古典ポルトガル語: Fernam Mendez Pinto, 1509年? - 1583年7月8日)は、ポルトガル人冒険家、著述家。ポルトガル最大の冒険家ともいわれる。 16世紀に商人・冒険家として日本を含むアジアやアフリカを旅し『遍歴記』を著したが、嘘や誤りが多いことから「ほら吹きピント」とも呼ばれた奥 正敬、京都外国語大学図書館、2006。ただし、今日ではそういった評価への疑問も投げ掛けられている。
フェルナンド2世 (アラゴン王)
フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力地図 フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Católico 1452年3月10日 - 1516年1月23日)は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Católico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Católicos)と呼ばれる。
フェルナンド7世 (スペイン王)
フェルナンド7世(フランシスコ・デ・ゴヤ作 1815年頃)プラド美術館蔵 フェルナンド7世(Fernando VII, 1784年10月14日 - 1833年9月29日)は、スペイン国王(在位:1808年、1813年 - 1833年)である。
フェルビースト (小惑星)
フェルビースト (2545 Verbiest) は小惑星帯に位置する小惑星。ベルギーの天文学者ウジェーヌ・デルポルトがベルギー王立天文台で発見した。 フランドル出身で、イエズス会の宣教師として清代中国を訪れ、欧州の科学技術を中国に伝えたフェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest、漢名は南懐仁)に因んで命名された。
フェルビーストの蒸気車
フェルビーストが制作した蒸気自動車のスケッチ フェルビーストの蒸気車とは、イエズス会の宣教師として清代中国で活動したフェルディナント・フェルビーストが製作した蒸気の力を利用して走行した車両である。人は乗れなかった。
フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント1世(ドイツ語:Ferdinand I, 1503年3月10日 - 1564年7月25日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1556年 - 1564年)でオーストリア・ハプスブルク家当主。ボヘミア国王・ハンガリー国王(在位:1526年 - 1564年)。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップとカスティーリャ女王 フアナの間の次男で、先代皇帝カール5世(スペイン国王 カルロス1世)の弟。1531年から1556年までは兄の皇太弟としての共同ローマ王だった。スペインで生まれ育ちグレーシング、p.
フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)
フェルディナント2世(ドイツ語:Ferdinand II, 1578年7月9日 - 1637年2月15日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1619年 - 1637年)・ハンガリー国王(在位:1619年 - 1625年)・ボヘミア国王(在位:1617年 - 1619年、1620年 - 1637年)。ハプスブルク家傍系の、内オーストリア大公家の出身。皇帝に即位する前のボヘミア国王時代に三十年戦争を引き起こし、皇帝即位後しばらくは戦いを有利に進めたが、皇帝権力の強化を狙いすぎたことで敵対勢力の反発を招き戦争を長期化させたまま崩御した。
フェルディナント・フェルビースト
フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest, 1623年10月9日 - 1688年1月28日)は、フランドル出身のイエズス会宣教師。清代の中国を訪れ、康熙帝に仕えながら布教活動を行った。漢名は南懐仁(簡体字表記では南怀仁)。字は勛卿または敦伯。 ヨーロッパの天文学・地理学など科学技術を中国に紹介、また自分自身も中国の習慣を身につけて中国語で書物を著し、日本を含め近世初期の中国および周辺諸国の科学技術に大きな影響を与えた。
フォーク (食器)
フォーク(ホーク、fork)は、先端部が分かれて櫛状になった飲食用・調理用の器具。たいてい3つ又か4つ又になっている。古くは飲食用でも2つ又で、今日でも果物やケーキなどを食べる際のデザート用や、ステーキを焼く際に使う大振りのものでは、2つ又のフォークが見受けられる。漢字を当てて肉匙、肉刺手足にできる「まめ」も肉刺と書く。、肉叉とも表記された。
ドミニク・ド・ビルパン
ドミニク・ド・ビルパン(フランス語:Dominique de Villepin、1953年11月14日 - )は、フランスの政治家・作家・外交官・弁護士。本名はドミニク。
ドミニコ会
ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年に聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ、1216年にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。正式名称は「説教者兄弟会」(Ordo fratrum Praedicatorum) で、略号は「OP」である。 彼らが羽織る黒い外套にちなんで「黒衣の修道会(Blackfriars)」とも呼ばれる。
見る イエズス会とドミニコ会
ドメニコ・ツィポーリ
ドメニコ・ツィーポリ(Domenico Zipoli, 1688年10月17日 – 1726年1月2日)はイタリア後期バロック音楽の作曲家・オルガニストならびにイエズス会の宣教師。植民地時代の新大陸を冒険したヨーロッパの作曲家としては最も有名で、当時の洗練されたイタリア音楽を新世界にもたらした。 トスカーナ大公国はプラートの出身。1707年からフィレンツェに学び、トスカーナ大公コジモ3世の庇護の下に、おそらくジョヴァン・マリア・カシーニに師事。ごく短期間にナポリでアレッサンドロ・スカルラッティにも師事した後、ボローニャでも学んでいる。1709年に束の間ローマで、どうやらベルナルド・パスクィーニの指導を受けたらしい。その後もローマにとどまり、さまざまな役職に就く。中でも最も重要なのは、イエズス会本部、ジェズ教会の教会オルガニストの仕事であった。
ドロミーティ
ドロミーティ(Dolomiti)は、イタリア北東部にある山地で、東アルプス山脈の一部。ドロミテなどとも表記される(#名称節参照)。おおむね北はリエンツァ川、西はイザルコ川とアディジェ川、南はブレンタ川、東はピアーヴェ川に囲まれた一帯で、ボルツァーノ自治県(南チロル)、トレント自治県、ベッルーノ県にまたがる。 上記の範囲以外にも、共通の地質的特徴を持つ山地が「ドロミーティ」と呼ばれている。たとえば、アディジェ川以西のや、ピアーヴェ川以東(ポルデノーネ県、ウーディネ県にまたがるフリウーリ地方北西部)に所在するなどである。 狭義のドロミーティおよび、ドロミーティ・ディ・ブレンタ、ドロミーティ・フリウラーネに含まれるいくつかの山塊は、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に「ドロミーティ」の名で登録されている。また、を含むドロミーティ・ディ・ブレンタからガルダ湖までの一帯は2015年にユネスコの生物圏保護区に指定された。
見る イエズス会とドロミーティ
ニッコロ・ズッキ
ニッコロ・ズッキ(Niccolò Zucchi、 1586年12月6日パルマ - 1670年5月21日ローマ)は、イタリアのイエズス会員であり、天文学者である。反射望遠鏡製作のパイオニアである。 パルマに生まれる。パルマで自然科学と神学を学ぶ。1602年イエズス会の会員となる。ローマ学院の数学と科学の教授となった。ヨハネス・ケプラーに会ったことにより天文学に興味を持ち、1616年最初の凹面鏡と接眼レンズからなる反射望遠鏡を製作した。反射望遠鏡をつかって、1630年に木星の縞模様を、1640年に火星の模様を観測した。1652年から出版された著書Optica philosophia experimentalis et ratione a fundamentis constitutaは後に望遠鏡を製作した、ジェームズ・グレゴリーやアイザック・ニュートンに影響を与えた。
ニコラ2世 (ロレーヌ公)
ロレーヌ枢機卿の紋章 ニコラ2世フランソワ(Nicholas II François, 1612年12月12日 - 1670年1月25日)は、ロレーヌ公(在位:1634年 - 1661年)。ドイツ語名ではニコラウス2世フランツ(Nikolaus II. Franz)。フランソワ2世とその妻クリスティーヌ・ド・サルムの間の三男で、シャルル4世の弟。
ニコラ・リュクネール
ニコラ・リュクネール ニコラ・リュクネール伯爵(Nicolas Comte Luckner, 1722年1月12日 - 1794年1月4日)は、フランスの元帥。出身はドイツのため、ドイツ語でニコラウス・フォン・ルックナー伯爵(Nikolaus Graf von Luckner)ともいう。ドイツ海軍軍人のフェリクス・フォン・ルックナーは曾孫である。
ニコラ・フーケ
エドゥアルド・ラクレテルによる肖像画 ベル島侯爵およびムラン子爵およびヴォー子爵ニコラ・フーケ(フケ)(Nicolas Fouquet、1615年1月27日 - 1680年3月23日)は、フランスの法律家、財務官である。ルイ14世の下で大蔵卿を務めた。
ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク
ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc 、1580年12月1日 – 1637年6月24日)は、16世紀のフランスの天文学者・役人である。1611年にオリオン大星雲を発見した。北アフリカを含む、地中海周辺の各地で月食の観測者を組織して、その観測結果から各地の緯度の差を計算し地中海の正確な大きさを求めた。 ベルジャンチエ(Belgentier)の裕福な役人の家系に育った。エクス=アン=プロヴァンス、アヴィニョンやトゥルノンのイエズス会の神学校で学んだ。1599年からフランス国内、イタリア、スイスを旅した。最終的に1604年にモンペリエで法律を学んだ。学位をとってエクスに戻り、叔父の仕事を継いでプロヴァンス議会で働き、議会の議長、ギヨーム・デュ・ヴェール(Guillaume du Vair)に仕えた。デュ・ヴェールとともに、1605年から1606年の間パリに旅した。
見る イエズス会とニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク
ホミサイド/殺人捜査課
『ホミサイド/殺人捜査課』(Homicide: Life on the Street)は、アメリカ合衆国のテレビ・ドラマである。
ホリールード寺院
ホリールード寺院 (Holyrood Abbey)は、スコットランド・エディンバラにかつてあったアウグスティヌス派寺院で、現在は廃墟となっている。寺院は、1128年にスコットランド王デイヴィッド1世により建てられた。現在、寺院の廃墟の隣にはホリールード宮殿が建っている。
ホイーリング (ウェストバージニア州)
ホイーリング(Wheeling)は、アメリカ合衆国ウェストバージニア州北部の都市。オハイオ郡の郡庁所在地である。人口は2万7052人(2020年)。同州最初の州都である(現在の州都はチャールストン)。ピッツバーグに近く、重要な水上交通路であったオハイオ川に面していることから、古くは製鉄業で栄えた。しかし産業構造の変化により、1950年代以降は人口が減り続けている。
ホセ・ヨンパルト
ホセ・ヨンパルト(José Llompart、Josep Llompart、1930年3月3日 - 2012年4月22日)は、法哲学者、カトリック司祭。上智大学名誉教授。カトリックの立場から自然法論の研究を行った。1954年、来日。法哲学論文誌『法の理論』(成文堂)の発刊に寄与した。刑法学者の団藤重光とは親交があり、2008年には団藤に洗礼を授けている。2012年4月22日、急性心不全のため82歳で死去。スペインマヨルカ島出身。
ホセ・オルテガ・イ・ガセット
ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset、、1883年5月9日 - 1955年10月18日)は、スペインの哲学者。主著に『ドン・キホーテをめぐる思索』(Meditaciones del Quijote、1914年)、『大衆の反逆』(La rebelión de las masas、1929年)がある。 W・ジェームズに触発された実用主義的形而上学により構成され、フッサールの実在論的現象学の方法を用いた「生の哲学」を展開し、(ハイデッガーに先駆けて展開された)原始実存主義や、ディルタイ、クローチェとも比較される歴史主義などといった彼の諸思想の基礎となった。 日本では名の「ホセ」が削られ、姓のみの「オルテガ・イ・ガセット」と表記されまた呼ばれることが多い。
ダラス
ダラス(Dallas )は、アメリカ合衆国のテキサス州北部にある都市。テキサス州第3の都市であり、フォートワースやアーリントンなどを含めたダラス・フォートワース都市圏内で最大の都市で、都市圏人口は全米第4の約750万人である。州内ではヒューストン都市圏とほぼ同規模である。エルム川とウェスト川の両河川の合流地帯に位置し、古くから交通の拠点として発展し、今日でも金融及び経済の中枢として機能している。
見る イエズス会とダラス
ダーラー・シコー
ダーラー・シコー(دارا شِكوه, دارا شكوه, Dara Shikoh, 1615年3月20日 - 1659年9月12日 )は、北インド、ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンの長男。母はムムターズ・マハル。
ダービー伯爵
ダービー伯爵(ダービーはくしゃく、Earl of Derby)は、イングランド貴族の伯爵位。 過去に3回創設されており、現存する3期目のダービー伯爵位は、第2代スタンリー男爵トマス・スタンリーが1485年に叙されたのに始まる。
見る イエズス会とダービー伯爵
ダビデの星
イスラエルの国旗にも入っているダビデの星 イスラエル空軍の国籍マーク ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴する印。その形は六芒星(ヘキサグラム)であり、二つの正三角形の複合体である。イスラエルの国旗にも描かれている。文字コードはU+2721(Unicode、)。
見る イエズス会とダビデの星
ベネディクトゥス14世 (ローマ教皇)
ベネディクトゥス14世(ラテン語: Benedictus XIV, ベネティクト14世; 1675年3月31日 - 1758年5月3日)は、ローマ教皇(在位:1740年8月17日 - 1758年5月3日)。本名はプロスペロ・ロレンツォ・ランベルティーニ(Prospero Lorenzo Lambertini)。イエズス会の適応政策を非難して、ようやく軌道に乗り始めていた東洋での布教活動を頓挫させることになった。
ベルナール・フォントネル
ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル(Bernard le Bovier de Fontenelle、1657年2月11日 - 1757年1月9日)は、フランスの著述家である。多宇宙論の啓蒙書、『世界の多数性についての対話』が当時のヨーロッパ諸言語に訳され、知識階級に影響を与えた。アカデミー・フランセーズの会員。 ルーアンに生まれた。父は法服貴族で、ルーアン高等法院付弁護士。母の2人の兄は有名な劇作家ピエール・コルネイユとトマ・コルネイユであった。イエズス会のコレージュで学んだ後、父の職業を継いで弁護士になるが、裁判で1回弁護したのみで辞めてしまい、後世をデカルト主義的な立場にたつ哲学者・科学者として過ごした。
ベルヴェデーレ・カレッジ
ベルヴェデーレ・カレッジ(Belvedere College S.J.)は、アイルランドの首都ダブリンにあるイエズス会経営の中等教育学校。全寮制の男子校で生徒数は850人。かつてと異なり現在ではほとんどの教員が修道者ではないが、一部の授業はいまだに司祭、修道士が担当している。1841年に創建された。 学校の施設は25mプール(アイルランドでは珍しい)、体育館、最新式の科学設備、劇場などからなる。授業料は生徒一人当たり年間5000ユーロほどであるが、奨学金が整備されている。 学校生活にはイエズス会の精神が深く影響している。生徒はダブリン市民のルルドへの巡礼を手助けし、インドのカルカッタへの交換留学制度もある。カルカッタでは孤児やストリート・チルドレンの援助事業などをおこなう。毎年夏には学校付近にあるテンプル・ストリート子供病院への寄付を呼びかけるためにダブリンからゴールウェイへの喜捨の旅が行われる。
喪服
喪服(もふく)とは、葬儀や法事などに参加する際に着用する礼服。藤衣や喪衣(もぎぬ、もごろも)などとも呼ぶ。
見る イエズス会と喪服
命名
命名(めいめい)、ネーミング()、名付け(なづけ)とは、人・物・商品・土地・時代・気候、ほか概念化可能な対象一般に対して、それを他から区別し、指示できるようにする為に、一意的な記号(一般に言葉・文字)を与える行為である。
見る イエズス会と命名
和漢朗詠集
伊予切 和漢朗詠集 『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)は、平安時代中期の歌人で公卿の藤原公任(藤原北家小野宮流)が漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集である。長和2年(1013年)頃に成立した。『倭漢朗詠集』あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる川口(1965)pp.8-44。 もともとは藤原道長の娘威子入内の際の引き出物の屏風絵に添える歌として撰集され、のちに公任の娘が藤原教通(道長五男)と婚姻を結ぶ際の引き出物として、朗詠に適した和漢の詩文を達筆で知られる藤原行成が清書し、それを冊子として装幀されたものといわれている。
見る イエズス会と和漢朗詠集
アミン・マアルーフ
アミン・マアルーフ(أمين معلوف Amin Maalouf、1949年2月25日 - )はレバノン出身、フランス・パリ在住の作家・ジャーナリスト。彼がフランス語で書いた著作は多くの言語に翻訳されており、小説『Rock of Tanios』(Le Roche de Tanios 、タニオスの岩)で1993年のゴンクール賞を受賞した。
アメリカ合衆国中西部
アメリカ合衆国を4つの地域に分けた時の中西部(中央上)。 アメリカ合衆国中西部(アメリカがっしゅうこくちゅうせいぶ、Midwestern United States, Midwest)とは、アメリカ合衆国国勢調査局の4つの国勢調査地域の一つであり、「リージョン2」とも呼ばれる。中西部と南部は保守的な地域として知られ、中西部は域内に2016年の大統領選挙結果に影響を与えた「ラストベルト」を含んでいる。アメリカ合衆国の中央北部に位置する。1984年まで国勢調査局の正式名称は「北中央地域」であった。アメリカ合衆国北東部と西部、北はカナダ、南はアメリカ合衆国南部に挟まれた地域である。 国勢調査局の定義では、アメリカ北中部の12州からなる。
アリアガ
アリアガ、アリアーガ(Arriaga)はスペイン、ポルトガル系の姓・地名。
見る イエズス会とアリアガ
アリゾナ州の歴史
アリゾナ州の歴史(アリゾナしゅうのれきし)では、アメリカ合衆国アリゾナ州地域史について詳述する。
アルバロ・ウリベ
撮影: Ana Nascimento - ABr. 2003年9月16日 アルバロ・ウリベ・ベレス(Álvaro Uribe Vélez、1952年7月4日 - )はコロンビアの政治家。現在、同国上院議員。第58代大統領を務めた(在任2002年 - 2010年)。
アルブレヒト5世 (バイエルン公)
後年のアルブレヒト5世 アルブレヒト5世(Albrecht V., 1528年2月29日 - 1579年10月24日)は、バイエルン公(在位:1550年 - 1579年)。その治世は、バイエルン公領におけるルネサンス芸術の発展、およびドイツにおける反宗教改革の普及にとって重要な役割を果たした。数多のバイエルンの芸術コレクションの基礎は、アルブレヒト5世の収集によるものである。
アルフレート・デルプ
アルフレート・デルプ(Alfred Delp, 1907年9月15日 - 1945年2月2日)は、カトリック教会の司祭、イエズス会員。
アルフレッド・ヒッチコック
サー・アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(, KBE、1899年8月13日 - 1980年4月29日)は、イギリスの映画製作者である。映画史上最も影響力のある映画監督のひとりと見なされており出典は以下の通り。
アルフレッド・エイヤー
サー・アルフレッド・ジュールズ・エイヤー(Sir Alfred Jules Ayer、姓はエアとも、1910年10月29日 - 1989年6月27日)は、イギリスの哲学者で、論理実証主義の代表者、イギリスへの紹介者として知られている。一般には、A.J.Ayerという呼称が使われる。親しい友人たちからは、「フレディ」(Freddie)と呼ばれる。著書では『言語・真理・論理』(1936年)と『知識の問題』(1956年)が特に著名。
アルフォンス・デーケン
アルフォンス・デーケン(Alfons Deeken, 1932年8月3日 -2020年9月6日読売新聞 2020年9月7日 26面掲載)は、ドイツ・オルデンブルク生まれのイエズス会司祭、哲学者。上智大学名誉教授。
アルカセル・キビールの戦い
アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcácer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。
アルゴ座
アルゴ座(アルゴざ、Argo)、またはアルゴ船座(アルゴせんざ、Argo Navis)は、現在は用いられていない南天の星座。古代ギリシアの伝承に登場する船アルゴーをモチーフとしている。古代ギリシア時代から20世紀初頭まで、途中いくらか改変を受けながらも1つの巨大な星座として扱われてきたが、1922年に国際天文学連合 (IAU) が現代の88星座とその名称を定めた際に、正式にりゅうこつ座、とも座、ほ座の3つに分割されることが決まった。そのため、クラウディオス・プトレマイオス(トレミー、)の天文書『アルマゲスト』に挙げられた48星座の中で唯一現代の88星座に選ばれなかった星座となった。
見る イエズス会とアルゴ座
アルゼンチンの歴史
アルゼンチンの歴史(アルゼンチンのれきし)では、アルゼンチン共和国の歴史について述べる。
アレッサンドロ
アレッサンドロ(Alessandro)は、アレクサンドロスに由来するイタリア語の男性人名。ブラジル人にもしばしば見られる。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ、、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会の宣教師、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。
アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿)
アレッサンドロ・ファルネーゼ・イル・ジョヴァーネ(伊:Alessandro Farnese il Giovane, 1520年10月5日 - 1589年3月2日)は、イタリアの枢機卿および外交官。ローマ教皇パウルス3世(俗名アレッサンドロ・ファルネーゼ)の孫であり、初代パルマ公ピエール・ルイージ・ファルネーゼとジェローラマ・オルシーニ夫妻の長男。大枢機卿(Gran Cardinale)と呼ばれた。 ウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレの妻ヴィットーリア・ファルネーゼ、第2代パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼ、枢機卿ラヌッチョ・ファルネーゼ、カストロ公オラーツィオ・ファルネーゼの兄。また、同名の第3代パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼは甥に当たる。
アレクサンデル6世 (ローマ教皇)
アレクサンデル6世(アレクサンデル6せい、Alexander Ⅵ、1431年1月1日 - 1503年8月18日)は、15世紀のローマ教皇(在位:1492年 - 1503年)。 本名はロデリク・ランソル(Roderic Lanzol)であるが、母方の伯父であるカリストゥス3世の教皇就任に伴って、母方の苗字であるボルハ(ボルジャ、Borja)に変えたため、ロデリク・ボルハのイタリア語読みであるロドリーゴ・ボルジア(Rodrigo Borgia)イタリア語名は正しくはボルジャのようになる。の名前で知られることになる。 ルネサンス期の世俗化した教皇の代表的存在であり、好色さ、強欲さやジロラモ・サヴォナローラとの対立によっても非難されることが多い。また、息子のチェーザレ・ボルジアを右腕とし、一族の繁栄とローマ教皇庁の軍事的自立に精力を注いだことで、イタリアを戦火に投じることになった。
アレクサンデル7世 (ローマ教皇)
アレクサンデル7世(Alexander VII、1599年2月13日 - 1667年5月22日)は、ローマ教皇(在位:1655年 - 1667年)。本名、ファビオ・キージ(Fabio Chigi)。学問と芸術を愛し、ベルニーニのパトロンとなって多くの作品を残させた。他方、ジャンセニスムを弾劾し、イエズス会を擁護してフランスと対立した。
アレクサンドル・ドゥ・ロード
アレクサンドル・ドゥ・ロード アレクサンドル・ドゥ・ロード(Alexandre de Rhodes, 1591年3月15日-1660年11月5日)はフランス出身のカトリック司祭、イエズス会宣教師。ベトナム宣教に大きな足跡を残すだけでなく、ベトナム語のラテン文字表記の方法を考案したことでも知られる。
アン女王戦争
アン女王戦争(アンじょおうせんそう、Queen Anne's War、1702年 - 1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に呼応して北米大陸において起こった、フランス王国(以下フランス)とイングランド王国(後にグレートブリテン王国、以下イギリスで統一)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国(以下スペイン)も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(Third Indian War)があり、またフランス語では第二次植民地間戦争(Deuxième Guerre intercoloniale)と呼ばれる。
見る イエズス会とアン女王戦争
アンリ・デュパルク
アンリ・デュパルク(ウジェーヌ・マリー・アンリ・フーケ・デュパルク、Eugène Marie Henri Fouques Duparc, 1848年1月21日パリ – 1933年2月12日モン=ド=マルサン)は、フランス後期ロマン派の作曲家。大部分の作品を自ら破棄したため、歌曲を中心にごく少数の作品しか残されていないが、「旅へのいざない」などの残された作品のいくつかはフランス歌曲を代表する歌曲とみなされている。
アントワーヌ・ド・ベルトラン
アントワーヌ・ド・ベルトラン(, 1540年? – 1581年?)は、フランス後期ルネサンス音楽の作曲家。前半生においては多産なシャンソン作家として過ごしたが、後半生においてイエズス会の感化を受けて敬虔になり、宗教曲の創作に転向した。宗教戦争の犠牲となり、プロテスタント陣営によって殺害されている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 推定1944年7月31日)は、フランスの小説家、飛行家。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からはSaint-Exupéryを略したSaint-Exから「サンテックス」の愛称で親しまれる。 リヨン生まれ。飛行家としての経験を素材に、豊かな想像力と人間の本質を見極める観察眼で、詩情豊かな名作を世に出した。なかでも『星の王子さま』は世界中で長く愛読されている。ほかに『』『夜間飛行』、エッセイ集『人間の土地』など。
アントワーヌ・アルノー
アントワーヌ・アルノー アントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld、1612年2月6日 - 1694年8月8日)は、フランスの神学者、哲学者、数学者、論理学者、言語学者。ジャンセニズムの中心的人物。同名の父と区別するため、「大アルノー」と呼ばれる。ルイ14世の外務大臣を務めたシモン・アルノー・ド・ポンポンヌは甥に当たる。
アントニオ・ロセッティ
アントニオ・ロセッティ(ロゼッティ、Antonio Rosetti, 1750年 - 1792年6月30日)は、18世紀ボヘミアの作曲家、コントラバス奏者。長らく、チェコ語名をフランチシェク・アントニーン・レスレル(Frantisek Antonin Rössler)といい、1773年にイタリア風の「アントニオ・ロセッティ」に名乗りを改めた、とされてきたが、その確証はない。ドイツ語名のフランツ・アントン・レスラー(Franz Anton Rösler)でも知られる。しかし、ロセッティ自身は一度たりともフランティシェク・アントニーン、あるいはフランツ・アントンと名乗ったことはなく、現在では、アントニオ・ロセッティという名が通用している。本項では以下、ロセッティと記す。
アントニオ・ホセ
アントニオ・ホセ(Antonio José, 1902年12月12日 – 1936年10月10日)は、スペインの作曲家・教育者・指揮者。ブルゴス出身で本名はアントニオ・ホセ・マルティネス・パラシオス(Antonio José Martínez Palacios)だが、筆名においては姓を省いた。イエズス会系の学校で音楽教師を務めるかたわら、ブルゴス市の合唱指揮者として活動した。フェデリコ・ガルシア・ロルカやサルバドール・ダリと親交を結ぶ。ロルカと同じくファランヘ党員によって拷問の末に虐殺された。 モーリス・ラヴェルによって、「来るべき時代のスペイン楽壇を担う」逸材として将来を嘱望されたが、早すぎる死により、そのようなことは実現しなかった。
アンティポロ
アンティポロ(英語:City of Antipolo、フィリピン語:Lungsod ng Antipolo)は、フィリピン北部ルソン島カラバルソン地方の都市で、リサール州の州都である。
見る イエズス会とアンティポロ
アンドレ・レゾン
アンドレ・レゾン(André Raison, 1650年以前 パリ - 1719年 パリ)は、フランス盛期バロック音楽の作曲家・オルガニスト。17世紀後半から18世紀初頭までのフランス・オルガン楽派の興隆に重要な貢献を果たし、オルガン音楽を単旋聖歌による定旋律技法から解放した。 ナンテルの聖ジュヌヴィエーヴ教会に学んでその名誉オルガニスト職に指名され、パリでイエズス会の聖ジャック教会にもオルガニストとして仕えた。オルガン教師としても、弟子にルイ=ニコラ・クレランボーがいる。 主要な作品に2巻の『オルガン曲集』があり、それぞれ1688年と1714年に出版された。種々の教会旋法による5つのオルガン・ミサ曲や、いくつかのノエルなどがそこに含まれている。レゾンは当時のフランスの最も重要なオルガン奏者の一人であり、年代的にはニコラ・ルベーグとフランソワ・クープランの中間世代に位置付けられる。レゾンの作曲様式は、対位法的な複雑さよりも、旋律・リズム・響きといった側面が強調されており、実際にオルガンの音色の選択の巧みさで知られた。こんにちレゾンの『オルガン曲集 第1巻』は、当時用いられたオルガンのストップや、フランスのオルガン音楽の解釈の仕方に関して、手がかりを与えてくれる有為の書として認められている。
アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ
アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ(André Cardinal Destouches または des Touches, 1672年4月6日 - 1749年2月7日)はフランス盛期バロック音楽の作曲家。バレエ音楽《四大元素 Les élémens》によって名を残す。前半生をいわば冒険家として過ごしている。本名はアンドレ・カルディナルであったが、1694年に父親が没するとその追憶から、父親が授与された称号「セニュール・デ・トゥーシュ・エ・ドゥ・ギユヴィル Seigneur des Touches et de Guilleville」にちなんで、デトゥーシュと名乗るようになった。 パリの富裕な商家に生まれ、イエズス会で教育を受ける。
アンシュルス
アンシュルス(Anschluß; Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich)は、1938年3月12日にドイツ国がオーストリアを併合した出来事を指す語で、日本語では独墺合邦(どくおうがっぽう)、オーストリア併合(オーストリアへいごう)等と訳される。本来の「アンシュルス」「Anschluß(1996年ドイツ語正書法改革以降の表記:Anschluss))」は「接続・連結」を意味するドイツ語の普通名詞であったが、ナチスの言語の影響から固有名詞化したドイツ語や他の言語においては1938年のドイツによるオーストリア併合を指すようになった。 ドイツとオーストリアを合邦する政治構想は、第一次世界大戦敗北にともなうオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊直後から登場していた。だが、周辺諸国からの圧力によって1920年代には合邦構想が進展せず、1930年代にナチス党が実施した対外・対内政策の結果として実現した。そのため、第二次世界大戦が勃発するとアンシュルスの政治的正統性は連合国から否定され、連合国軍のオーストリア占領と共にアンシュルスは終焉を迎えた。
見る イエズス会とアンシュルス
アンシエタ (エスピリトサント州)
アンシエタ(ポルトガル語: Anchieta)は、ブラジルのエスピリトサント州にある地方自治体。 人口は、21,834 人(2005年)、面積は、404.88 平方キロメートル。 平均の標高は、2m。以前はヘリチバとして知られていた。 イエズス会宣教師ジョゼ・デ・アンシエタにちなんで命名された。
アンジェロ・セッキ
thumb アンジェロ・セッキ(Pietro Angelo Secchi、1818年6月29日レッジョ・エミリア - 1878年2月26日ローマ) は、イタリアの天文学者にしてイエズス会士。
アンソニー・ヴァン・ダイク
アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck「Anthony van Dyck」は英語圏での綴りである。出身地のオランダ語圏では姓の「ヴァン・ダイク」は「van Dijck」と綴り、名の「アンソニー」は「Anthonis」「Antoon」「Anthonie」「Antonio」「Anthonio」など様々なオランダ語の名に相当する。フランス語では「Antoine」、イタリア語では「Anthonio」「Antonio」となる。「van」は英語では近年になるまで先頭が大文字の「Van」が使用されることが多く、「Dyck」もヴァン・ダイクの存命時は「Dyke」が使用されることが多かった。
アヴィス王朝
アヴィス王朝(アヴィスおうちょう、Dinastia de Avis、)は、ポルトガル王国の王朝。ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガルを支配した。
見る イエズス会とアヴィス王朝
アーサー・コナン・ドイル
アーサー・イグナティウス・コナン・ドイルスタシャワー(2010) p.40(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle,,, 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。 推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られる。SF分野では『失われた世界』『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『』やシリーズなどを著している。 1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た。
アトランティス
大西洋の中央にアトランティスが描かれたアタナシウス・キルヒャーによる地図。南が上のため、右側がアメリカ、左側がアフリカである。1699年 アムステルダムで出版 アトランティス(Ατλαντίς)は、古代ギリシアの哲学者プラトンの著書『ティマイオス』Тίμαιος及び『クリティアス』Κριτίαςの中で記述された伝説上の広大な島、及びそこに繁栄したとされる帝国。プラトンの時代の9000年前に海中に没したと記述されている。
アフリカ史
アフリカ大陸 本項ではアフリカ史(アフリカし)、すなわちアフリカ大陸の歴史について解説する。
見る イエズス会とアフリカ史
アニュス・デイ
アニュス・デイとは、ラテン語のAgnus Deiの音写。アグヌス・デイとも。
アダム (曖昧さ回避)
アダム (Adam)。
アダム・ヴァーツラフ・ミフナ
アダム・ヴァーツラフ・ミフナ(Adam Václav Michna z Otradovic *1600年ごろ インドジフーフ・フラデク - †1676年11月2日 同地)はボヘミアの詩人・オルガニスト・作曲家。独自の様式による、チェコ最初のバロック音楽の第一人者と見做されている。郷里のイエズス会系ギムナジウムに学び、地元でオルガニストとしての日課のかたわら、食堂ないしはパブを経営した。 ミフナは、2冊の歌曲集を出版した。『 Česká mariánská muzika』と『 Svatoročnì muzika』であり、これらには、4声部もしくは5声部のホモフォニックな楽章が含まれている。もう一つの曲集『 Loutna česká』には、断片的な楽曲が含まれている。そのほかに5曲のミサ曲、2つのリタニア、1つのテ・デウムが遺されている。さらにマニフィカトとミサ曲《聖ヴァーツラフ Sancti Venceslai》には自筆譜が現存する。この作品では、「キリエ」や「アニュス・デイ」のように、古様式の厳格対位法による楽章と、「グローリア」や「クレド」のようにホモフォニックで、コンチェルタート様式によるソロ・パートのある楽章とが交替する。
アシモフのミステリ世界
『アシモフのミステリ世界』(Asimov's Mysteries)は、アイザック・アシモフのSF小説短編集。1968年に刊行された。
アタナシウス・キルヒャー
アタナシウス・キルヒャー アタナシウス・キルヒャー(アタナージウス・キルヒャー、Athanasius Kircher,, 1602年5月2日 - 1680年11月28日)は、17世紀のドイツ出身の学者、イエズス会司祭。ヒエログリフの科学的研究に取り組んだパイオニアとして有名。当時のヨーロッパの学術界における最高権威であったが、最晩年はルネ・デカルトなどの合理主義の立場から批判にさらされた。その後忘れられていたが、20世紀の後半になって再びその業績の先進性と多彩さが評価されるようになり、「遅れてきたルネサンス人」とも呼ばれるようになった。アリストテレス的方法論を自在に駆使しながら、同時に観察や実験を重視したという点において中世と近代をつないだ学者であるともいえる。
イチジク
イチジク(無花果、映日果、一熟、学名: Ficus carica)は、クワ科イチジク属の落葉高木、またはその果実のことである。西アジア原産。果樹として世界中で広く栽培されている。小さな花が多数入った花嚢をつけ、雌雄異株で、雌株の花嚢が果嚢になる。これがいわゆるイチジクの果実とよばれており、古くから食用にされている。「南蛮柿」などの別名もある。 リンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物の一つである。
見る イエズス会とイチジク
インノケンティウス12世 (ローマ教皇)
インノケンティウス12世(Innocentius XII, 1615年3月13日 - 1700年9月27日)は、ローマ教皇(在位:1691年 - 1700年)。本名はアントーニオ・ピニャテッリ(Antonio Pignatelli)。清廉潔白な人柄で贅沢を嫌い、中世以来のカトリック教会の悪習であったネポティズム(親族登用主義)と聖職売買(シモニア)の根絶を目指した。
インノケンティウス13世 (ローマ教皇)
インノケンティウス13世(InnnocentiusXIII, 1655年5月13日 - 1724年3月7日)は、ローマ教皇(在位:1721年5月8日 - 1724年3月7日)。本名はミゲーレ・アンジェロ(またはミケランジェロ)・コンティ(Michelangelo dei Conti)。彼の治世における2大トピックスは、ジャンセニスムと中国(清朝)の典礼論争があった。
インディアン座
インディアン座 (インディアンざ、Indus) は、南天の星座の1つ。日本からは星座の全域を見る事はできない。
イブン・ルシュド
アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد, 1126年4月14日 - 1198年12月10日)は、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者。膨大なアリストテレス注釈を書いたことで知られる。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)となった。1197年にはムワッヒド朝の君主ヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止したことでイブン・ルシュドは追放され、その後モロッコのマラケシュで亡くなっている。 アヴェロエス (Averroes) の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。神秘主義者ガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾』に対して、哲学者の立場から『矛盾の矛盾』を執筆して批判に反駁を加えている。
イエズス会伝道所
イエズス会伝道所(イエズスかいでんどうしょ、西:Reducciones jesuíticas, 葡:Missões)は、16世紀後半から18世紀にかけて、スペイン領アメリカ南部とポルトガル領ブラジルの一部(現在のボリビア東部、パラグアイ、ブラジル南部、アルゼンチン北東部にわたる地域)で、イエズス会宣教師によって、先住民(主にグアラニー族)の定住とキリスト教化を目的に建設された拠点村落。独自の共同生活や音楽教育に特徴を示し、最盛期には10万人以上の人口を抱えたが、18世紀後半のイエズス会追放令(1759年ブラジルから、1767年スペイン領から)にともない、その多くが放棄された。「布教村」「教化村」「布教区」などとも訳される。
イグナチオ・デ・ロヨラ
イグナチオ・ロペス・デ・ロヨラ(Ignacio López de Loyola、またはInigo Oinaz Loiola、羅耀拉、雷閼拉、英語:(Saint) Ignatius of Loyola、ラテン語:Ignatius de Loyola、スペイン語:(San) Ignacio de Loyola、バスク語:Ignazio Loiolakoa; 1491年10月23日もしくは12月24日 - 1556年7月31日)は、カスティーリャ王国領バスク地方出身の修道士。カトリック教会の修道会であるイエズス会の創立者の1人にして初代総長。バスク人。 同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。ロヨラは『霊操』の著者としても有名で、対抗宗教改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。
イグアス国立公園 (アルゼンチン)
アルゼンチンのイグアス国立公園は、1934年に設定された国立公園。ミシオネス州北部のにある。その名の通り、アルゼンチン最大級の自然美を誇るイグアスの滝と周辺の亜熱帯の密林を対象とする。イグアス川の対岸には、ブラジルのイグアス国立公園が存在し、ともに世界遺産に登録されている。 公園の動物相には絶滅危惧種も含まれ、オセロット、ジャガー、アメリカバク、オオアリクイ、オウギワシなどの森林性の猛禽類、オオハシ類、ホウカンチョウ科、、ハナグマ類(ハナグマ属、)、や、多岐にわたる蝶などが生息している。 イグアス川は、1320km流れてイグアスの滝から23km下流でパラナ川に合流する。公園内での最大幅は1500mで、最初に南へ曲がったあと北へ曲がり、大きなU字型を描いている。土手に沿って花がアルゼンチンの国花にもなっているアメリカデイゴを含む木々が密生している。
イソップ寓話
イソップ寓話(イソップぐうわ)は、アイソーポス(イソップ)が作ったとされる寓話。特に動物(下記を参照)、生活雑貨(例えば、瀬戸物と金物など)、自然現象(太陽と風)、様々な人々(旅人など)を主人公にしたものが有名で、イソップ物語・イソップ童話等と呼ばれることもある。
見る イエズス会とイソップ寓話
イタリア・ルネサンス年表
イタリア・ルネサンス年表(イタリア・ルネサンスねんぴょう)では、主に「イタリア・ルネサンスの文化」に関する年表を示す。
イサベル2世 (スペイン女王)
イサベル2世(Isabel II, Isabel María Luisa de Borbón, 1830年10月10日 - 1904年4月9日)は、スペイン女王(在位:1833年 - 1868年)。なお、「スペイン女王」となったのは1836年8月13日以降であり、それまでは正式にはカスティーリャ、レオン、アラゴンなどの君主を兼ねる存在であった(#称号参照)。
ウルバヌス8世 (ローマ教皇)
ウルバヌス8世(Urbanus VIII, 1568年4月5日 - 1644年7月29日)は、バロック時代のローマ教皇(在位:1623年8月6日 - 1644年7月29日)。本名、マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ(Maffeo Vincenzo Barberini)。三十年戦争を通じてみせた聖職者というよりは政治家・統治者としての姿、学問と芸術の庇護、目にあまるネポティズム(親族登用主義)など、さまざまな意味で最後の中世的教皇であった。彼は文化・芸術の庇護者であり、教会改革を進め、教皇国家の領域を史上最大のものに拡大させたが、彼の治世で発生した巨額の負債はローマ教皇庁を弱体化させ、長期にわたってヨーロッパに対し政治的・軍事的影響力を維持していくことを困難なものにした。なお、彼の時代にガリレオ・ガリレイの裁判(第2次裁判)がおこなわれたことでも知られている。
ウルグアイ
ウルグアイ東方共和国(ウルグアイとうほうきょうわこく、República Oriental del Uruguay)、通称ウルグアイは、南アメリカ南東部に位置する共和制国家である。首都はモンテビデオ。北と東にブラジルと、西にアルゼンチンと国境を接しており、南は大西洋に面している。スリナムに続いて南アメリカ大陸で二番目に面積が小さい国であり、コーノ・スールの一部を占める。
見る イエズス会とウルグアイ
ウィリアム・ペティ
サー・ウィリアム・ペティ(Sir William Petty, FRS, 1623年5月26日 - 1687年12月16日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期にかけてのイングランドの医師、測量家、経済学者。 労働価値説を初めて唱え、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖ともいわれる。オックスフォード大学の解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党と自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。
ウィリアム・ピーター・ブラッティ
ウィリアム・ピーター・ブラッティ(William Peter Blatty、1928年1月7日 - 2017年1月12日 AFP BBNEWS 2017年1月14日)は、アメリカ合衆国の作家、脚本家、映画監督。『エクソシスト』の成功によりホラー作家とされることが多いが、初期にはコメディ作品の脚本も手がけていた。
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス(William Adams、1564年9月24日 - 1620年5月26日〈元和6年4月24日〉)は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。サムライの称号を得た最初の欧州人だった。
ウィリアム・ジョイス
1945年、逮捕後のウィリアム・ジョイス ウィリアム・ジョイス(William Joyce, 1906年4月24日 - 1946年1月3日)は、アメリカ合衆国のファシスト。第二次世界大戦中、ドイツからイギリスに向けてプロパガンダ放送を行い、ホーホー卿 (Lord Haw-Haw) という通称で広く知られた。この戦時中の行動のため、ジョイスはイギリス政府に大逆罪で処刑された。
ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)
初代バーリー男爵ウィリアム・セシル(William Cecil, 1st Baron of Burghley, 、1520年9月13日 - 1598年8月4日)は、イングランドの政治家、廷臣、貴族。 テューダー朝最後の女王エリザベス1世の即位から晩年に至るまでの重臣。40年にもわたって彼女を補佐し、エリザベス朝のイングランドの国政を主導した。国王秘書長官(在職:1550年 - 1553年、1558年 - 1572年)や(在職:1572年 - 1598年)などを歴任。 エリザベス朝後期からステュアート朝初期に国王秘書長官を務めた初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルは次男である。またヴィクトリア朝後期に3度にわたってイギリス首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは10代後の子孫である。
ウィーン大学
ウィーン大学 ウィーン大学(ウィーンだいがく、独:Universität Wien)は、オーストリアのウィーンにある総合大学。1365年創立の、ドイツ語圏最古・最大の大学である。ルドルフ4世がプラハ・カレル大学に対抗して創立。「ルドルフ4世大学(Alma Mater Rudolphina Vindobonensis)」と当初は呼ばれていた。神聖ローマ帝国が創立した最古の三大大学(カレル大学、ウィーン大学、ハイデルベルク大学)の一角である。
見る イエズス会とウィーン大学
エマヌエル・シカネーダー
エマーヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder, 1751年9月1日 - 1812年9月21日)は、オーストリア、ドイツで活躍した俳優にして劇場支配人、台本作家である。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ『魔笛』の台本を手がけ、自らもパパゲーノ役で出演したこと、及び、アン・デア・ウィーン劇場を設立した人物としても知られている。 シカネーダー一座の座長として自ら台本を書き、俳優、歌手、演出家を兼任し、旅回りの一座を経てウィーンの劇場支配人となり、大衆向けの興行師として多くの作品を上演した。 バイエルン州のレーゲンスブルクに近いシュトラウビング生まれ、ウィーンで没。本名、ヨハン・ヨーゼフ・シケネーダー(Johann Joseph Schickeneder)。姓にはSchickanederのつづりもある。
エチオピア正教会
エチオピア正教会の聖堂(エチオピアのアクスム) エチオピア正教会(エチオピアせいきょうかい、የኢትዮጵያ ኦርቶዶክስ ተዋሕዶ ቤተ ክርስቲያን、Ethiopian Orthodox Tewahedo Church)は、エチオピアで独自に発展した、キリスト教の教会である。エチオピア帝国時代は国教とされていた。東方諸教会・非カルケドン派に分類される。 エチオピア正教会はサハラより南で唯一、植民地時代以前から存在する教会である。エチオピアのほか、世界中で公称3600万人の信徒がおり、全東方諸教会中最大の規模を誇る。
エメラルド・タブレット
エメラルド・タブレット()、タブラ・スマラグディナ()は、12世紀以降のヨーロッパに出現した、ヘルメスに帰せられた諸文献のうち特に名の知れたごく短いテクストである。エメラルド板、エメラルド牌、エメラルド碑文、緑玉板とも。 エメラルド板をめぐって中世ヨーロッパでは多くの伝説が作られた。伝説上のエメラルド板は、錬金術の守護神で、ある種の秘教修道者たちの総称とも考えられていたヘルメス・トリスメギストスによって記された銘碑で、12の錬金術の奥義が記されているというが、碑文の実物は現存しない。実際のエメラルド板のテクストはアラビア語文献からの翻訳と考えられており、さらにその元になった古いギリシア語原典の存在も想定されてはいるが、ギリシア語で記された佚文や原テクストに相当するようなものは現存しない。エメラルド板の起源について確証があるのは8世紀以降にアラビア語で記されたということであり、知られる限りのその初出はバリーヌース(偽テュアナのアポロニオス)の『創造の秘密の書 (Kitāb sirr al-khalīqa)』というアラビア語の書物に収められた補遺である。少なくとも、エジプトのアレクサンドリア界隈で後3世紀までに成立したヘルメス文書群よりも後代の作品である蓋然性が高い。
エリダヌス座
エリダヌス座(エリダヌスざ、Eridanus)は、トレミーの48星座の1つ。全天の星座の中で6番めに大きい。南端のα星は、全天21の1等星の1つであり、アケルナルと呼ばれる。星座の南端部やアケルナルは、九州南部や沖縄などを除いて日本の多くの地点で見ることはできない。
見る イエズス会とエリダヌス座
エリザベト音楽大学
エリザベト音楽大学(エリザベトおんがくだいがく、Elisabeth University of Music)は、広島県にある私立大学。 広島市中区に本部を置き、学校法人エリザベト音楽大学によって運営されている。
エリザベス1世 (イングランド女王)
エリザベス1世(Elizabeth I、ユリウス暦1533年9月7日 - グレゴリオ暦1603年4月3日(ユリウス暦1602/3年3月24日))は、イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 - 1603年)。テューダー朝第5代にして最後の君主。彼女の統治した時代は、とくにエリザベス朝と呼ばれ、イングランドの黄金期と言われている。 国王ヘンリー8世の次女。メアリ1世は異母姉。エドワード6世は異母弟。通称にザ・ヴァージン・クイーン(The Virgin Queen / 処女女王)、グロリアーナ(Gloriana / 栄光ある女人)、グッド・クイーン・ベス(Good Queen Bess / 善き女王ベス)。
エンリケ1世 (ポルトガル王)
エンリケ1世(ポルトガル語:Henrique I, 1512年1月31日 - 1580年1月31日)は、ポルトガル王国アヴィス朝の国王(在位:1578年 - 1580年)。「枢機卿王」(o Rei-Cardeal)あるいは「純潔王」(o Casto)と呼ばれる。マヌエル1世と2番目の王妃マリア・デ・アラゴン(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の娘)の息子で、ジョアン3世の弟。
エヴァリスト・ガロア
エヴァリスト・ガロア(Évariste Galois, 1811年10月25日 - 1832年5月31日)は、フランスの数学者であり革命家である。フランス語の原音()に忠実に「ガロワ」と表記されることもある。
エヴォラ
エヴォラ( )は、ポルトガル南東部アレンテージョ地方エヴォラ県にある町である。人口は、57,073人(2011年)。面積は1307平方キロメートル。スペイン国境に近い。 ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街でもある。
見る イエズス会とエヴォラ
エーリヒ・ルーデンドルフ
エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(ドイツ語: Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865年4月9日 - 1937年12月20日)は、ドイツの陸軍軍人、政治家。陸軍における最終階級は歩兵大将。第一次世界大戦中の軍部独裁体制の事実上トップを務めた。また『総力戦』の著者であり、総力戦理論の提唱者としても知られる。 第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いにおいて第8軍司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクを補佐してドイツ軍を勝利に導いた。大戦中期から後期には参謀総長となったヒンデンブルクの下で参謀本部次長を務め、ルーデンドルフ独裁とも呼ばれる巨大な実権を握った。戦後は国家社会主義ドイツ労働者党の党首アドルフ・ヒトラーと結び、1923年にミュンヘン一揆を起こした。一揆の失敗後に裁判にかけられるも無罪となり、ヒトラーが投獄されている間、ナチ党の偽装組織国家社会主義自由運動を創設してナチ党残党勢力やドイツ民族自由党を指導していたが、ヒトラー釈放後にはカトリックに対する対応を巡ってヒトラーと対立を起こして決別した。晩年は陰謀論の著述活動や、宗教団体『Bund für Deutsche Gotterkenntnis』(ドイツ信徒の家)を創設しての宗教活動などを行った。
エトヴェシュ・ロラーンド大学
エトヴェシュ・ロラーンド大学(Eötvös Loránd Tudományegyetem, ELTE)は、ハンガリーのブダペスト(ブダペシュト)に本部を置く大学である。略称でELTE(エルテ)と呼ばれることが多い。全学生数は約28,000人で、ハンガリー国内の大学ではデブレツェン大学(約30,000人)に次いで2番目に大きい。慣用的にブダペスト大学、ブダペシュト大学(Budapesti Tudományegyetem)と呼ばれることもある。 ラテン語では Universitas Budapestinensis deRolando Eötvösnominata。 と表記する。当初は、パーズマーニ・ペーテル大学(Pázmány Péter Tudományegyetem)という名称だったが、1950年に物理学者のエトヴェシュ・ロラーンドにちなんで現在の名称に変更された。なお、パーズマーニ・ペーテル・カトリック大学(Pázmány Péter Katolikus Egyetem, PPKE)は別の機関である。
エティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール
エティエンヌ=フランソワ・ド・ショワズール公爵(Étienne-François de Choiseul、1719年6月28日 – 1785年5月8日)は、フランス王国の軍人、外交官、政治家、貴族。同時代の政治家セザール・ガブリエル・ド・ショワズール=プラランは従兄。そのほかショワズールを名乗る人物は同時代のフランス宮廷に何人もいる。
見る イエズス会とエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール
エホバの証人
エホバの証人(エホバのしょうにん、Jehovah's Witnesses)は、1870年代にアメリカ合衆国でチャールズ・テイズ・ラッセルを中心に始まったによって設立されたキリスト教系の宗教団体である。世界本部をニューヨーク州ウォーウィックに置き、ほぼ全世界でものみの塔聖書冊子協会などの法人名で活動している。
見る イエズス会とエホバの証人
エイジ オブ エンパイアIII
『エイジ オブ エンパイアIII』(原題:Age of Empires III)はマイクロソフトによるリアルタイムストラテジーゲーム、『エイジ オブ エンパイア』シリーズの第3作目。開発はアンサンブルスタジオ社。アメリカ合衆国では2005年10月18日に発売され、日本では2006年1月27日に発売された。拡張パックは2つリリースされており、『ザ ウォーチーフ』(原題:The War Chief)は2006年10月6日に発売され、日本では2006年12月15日に発売された。『ザ ウォーチーフ』ではアメリカ先住民族の3つの文明が追加される。また、拡張パック第2弾『アジアの覇王』(原題:The Asian Dynasties)は2007年10月23日に発売され、日本では2007年11月16日に発売された。『アジアの覇王』ではアジアの3つの文明が追加される。
エウクレイデス
ラファエロの壁画「アテナイの学堂」に画かれたエウクレイデス アレクサンドリアのエウクレイデス(、、(ユークリッド(欧骨栗姪))、紀元前3世紀?)は、古代エジプトのギリシャ系数学者、天文学者とされる。数学史上の重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。 エウクレイデスはギリシャ語読み、ユークリッドは英語読み。 プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリア(現在のエジプト領アレクサンドリア)で活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学、透視図法、円錐曲線論、球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤、 などについても著述を残したとされている。
エクソシスト (映画)
リンダ・ブレア(左)とエレン・バースティン(宣材写真) 『エクソシスト』(The Exorcist)は、1973年のアメリカ合衆国のホラー映画。監督はウィリアム・フリードキン、出演はリンダ・ブレア、エレン・バースティン、ジェイソン・ミラーなど。 少女に憑依した悪魔と、自らの過ちに苦悩する神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作された。本国において1973年の興業収入1位を記録した。第46回アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞。 題名となっているエクソシストとは、英語で"悪魔払い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師"という意味である。
オマハ (ネブラスカ州)
オマハ(Omaha)は、アメリカ合衆国中西部のネブラスカ州東端部に位置する都市である。シカゴとデンバーのほぼ中間に位置し、その市域はアイオワ州との州境になっているミズーリ川の西岸に広がっている。人口は486,051人(2020年国勢調査).
オリオン大星雲
オリオン大星雲(オリオンだいせいうん、M42、NGC 1976)は、オリオン座の小三つ星付近に広がる、天の川銀河内にある散光星雲である。
オルデンブルク
国立劇場 オルデンブルク城 ホルスト・ヤンセン美術館 市壁火薬塔跡 中央駅 オルデンブルク (Oldenburg (Oldb))は、ドイツのニーダーザクセン州北西部に位置する代表的な都市である。およそ16万人の人口を有し、これは同州においては州都であるハノーファー、ブラウンシュヴァイク、オスナブリュックに次ぐ第四の規模にあたる。 なお、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に同名の町があるため、通常は Oldenburg の後に郡の略称である「(Oldb)」をつけて区別する。
オーギュスタン=ルイ・コーシー
オーギュスタン=ルイ・コーシー(Augustin Louis Cauchy, 1789年8月21日 - 1857年5月23日)はフランスの数学者。解析学の分野に対する多大な貢献から「フランスのガウス」と呼ばれることもある。これは両者がともに数学の厳密主義の開始者であった事にも関係する。他に天文学、光学、流体力学などへの貢献も多い。
オークランド・グラマー・スクール
オークランド・グラマー・スクール オークランド・グラマー・スクール(Auckland Grammar School)は、ニュージーランドのオークランドにある男子高校。
オットー・フォン・ビスマルク
オットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen, 1865年からビスマルク=シェーンハウゼン伯爵〈Graf von Bismarck-Schönhausen〉,1871年からビスマルク侯爵〈Fürst von Bismarck〉, 1890年からラウエンブルク公爵〈Herzog zu Lauenburg〉、1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、ドイツ(プロイセンおよびドイツ帝国)の政治家。 プロイセン王国首相(在職1862年 - 1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年 - 1871年)、ドイツ帝国宰相(在職1871年 - 1890年)を歴任した。
オウィディウス
プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso、、紀元前43年3月20日 - 紀元後17年 または18年)は、帝政ローマ時代最初期の詩人の一人。共和政末期に生まれ、アウグストゥス帝治下で平和を享受し繁栄するローマにて詩作を行った。エレギーア形式で詠まれた『』や『』などの恋愛詩集や、叙事詩の形式で詠まれた『変身物語』などがよく知られている。『変身物語』は15巻12000行あまりの大作で、韻律としてヘクサメトロスを用い、神話伝説上の数々の変身譚を語る。一般にの集大成と受け取られている。 存命中から絶大な人気を博したオウィディウスであったが、紀元後8年にアウグストゥス帝の命により黒海に面した僻地に追放され、そこで生涯を閉じた。追放の理由はよくわかっておらず、文学史上最も不可解な事件の一つである。オウィディウス自身は追放の原因を「一つの詩歌と一つの過誤(carmen et error)に帰す」とだけ書いた。その言葉の選びようが意味深長であるからかえって、その意図するところをめぐって、後代の学者たちが膨大な議論を積み重ねることになった。
オザミス
オザミス(Ozamiz、 Ozamis とも綴られる)は、フィリピン南部ミンダナオ島の西部サンボアンガ半島の付け根にあるミサミス・オクシデンタル州の都市。南はイリガン湾からさらに内陸へ食い込んだパンキル湾に面している。2007年の国勢調査では人口は123,137人、世帯数は22,170世帯。バランガイ数は51。 オザミスの名は、この地の知事、下院議員、後にはミサミス・オクシデンタル州から選出された最初の(そして現在のところ唯一の)上院議員で、第二次世界大戦時には日本軍に抵抗して処刑されたホセ・F・オザミス(José F.
見る イエズス会とオザミス
オスカル・ロメロ
オスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメス(Óscar Arnulfo Romero y Galdámez, 1917年3月15日 - 1980年8月24日)は、エルサルバドルのカトリック司祭、サンサルバドル教区大司教であった。カトリック教会の聖人である。 大多数の人権侵害を証言しながら貧困層の人々の側に立ち、エルサルバドル内戦の犠牲者を代表して世界に訴える務めを担うことを選んだ。だが、その取組みは政治的行動主義であるとしてカトリック教会の上層部とエルサルバドル政府から非難を受けることになった。1980年、ミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺された。その死はエルサルバドルにおける人権改革を求める国際的な抗議の声を呼び起こすことになった。
オスカル・ベルシェ
オスカル・ベルシェ・ペルドモ(Óscar José Rafael Berger Perdomo、1946年8月11日 -)はグアテマラの政治家で、グアテマラシティの市長(1991-1996年)、およびグアテマラの大統領(2004-2008年)をつとめた。
カハル・ブルハ
カハル・ブルハ カハル・ブルハ(Cathal Brugha、1874年7月18日 - 1922年7月7日)は、アイルランドの独立運動家、政治家。
カメレオン座
カメレオン座 (カメレオンざ、Chamaeleon) は現代の88星座の1つ。16世紀末に考案された新しい星座で、カメレオンをモチーフとしている。天の南極の近くにあるため、日本国内からは見ることができない。
見る イエズス会とカメレオン座
カリン・モンスドッテル
カリン・モンスドッテル(Karin Månsdotter, 1550年11月6日 - 1612年9月13日)は、スウェーデン王エリク14世の王妃。モンスドッテルは「モンスの娘」を意味する父称。
カリフォルニア島
カリフォルニア島(カリフォルニアとう、Island of California)は、バハ・カリフォルニア半島が北米大陸本土と陸続きではなく、カリフォルニア湾に浮かぶ大きな島であるという、ヨーロッパ人が長年信じていた誤解を指す。この「疑存島」に関する説は16世紀にさかのぼるが、以後も18世紀まで信じられ続けた。 これは史上最も有名な地図製作の間違いのひとつであったが、様々な探検家がバハ・カリフォルニアは半島であるという証拠を報告し続けたにもかかわらず、17世紀と18世紀にも多くの地図にカリフォルニア島が描かれ世界に伝播されていた。この説には当初、カリフォルニアがエデンの園やアトランティスのような、この世の極楽であるという伝説が影響していた。
カルロ・ボッロメーオ
カルロ・ボッロメーオ(伊:Carlo Borromeo, 1538年10月2日 - 1584年11月3日)は、16世紀イタリアの聖職者。名は聖カルロ、姓はボロメオ、ボルロメーオ、ボルロメーウスともキリスト教人名辞典、P1518。アットウォーター、P140。新カトリック大事典編纂委員会(1998)、P50。。カトリック対抗宗教改革の推進者の1人で、任地で教育や慈善事業に尽くした。カトリックの聖人で聖名祝日は11月4日。
カルロ・ジェズアルド
カルロ・ジェズアルド(Carlo Gesualdo 、1566年? 3月8日? - 1613年9月8日)は、イタリアの貴族・後期ルネサンスの作曲家。 ヴェノーザ(Venosa )公国君主・コンツァ(Conza )伯爵。 激しい情感表現に富むマドリガーレや宗教音楽で有名。その半音階的な音楽語法は、その後19世紀末まで現れないものだった。不貞の妻とその愛人を殺害したことで悪名を馳せた。
カルロ・スピノラ
カルロ・スピノラ(Carlo Spinola、1564年 - 1622年9月10日)は、イエズス会のイタリア人宣教師。元和の大殉教で火刑に処された者の一人である。 グレゴリオ暦作成の中心人物であった科学者クリストファー・クラヴィウスに師事し、天文学、数学、暦学なども修得していた。
カンブレー
カンブレー(カンブレとも表記、仏:CambraiまたはCambray、蘭:Kamerijk)は、フランス、ノール県のコミューン。 カンブレーにはカンブレー大司教区の司教座がおかれ、中世には絶大な権力を誇った(大司教座に格上げされたのは1559年のことである)。カンブレー司教区の領地は、おおまかにいって(歴史的な名称としての)フランドルと一致し、ネーデルラントの大きな部分を含む。
見る イエズス会とカンブレー
カール・ラーナー
サムネイル カール・ラーナー(Karl Rahner、1904年3月5日 - 1984年3月30日)は、ドイツ出身のカトリック教会の司祭、イエズス会員、20世紀を代表する神学者の一人。宗教的包括主義を唱えた。
カール・レオンハルト・ラインホルト
カール・レオンハルト・ラインホルト(Karl Leonhard Reinhold, 1757年10月26日 - 1823年4月10日)は、オーストリアで生まれドイツで活躍した哲学者である。 当時、あまり受け入れられていなかったイマヌエル・カントの哲学の体系化を意識を根源とした表象能力によって行い、これによってカント哲学の独自性をドイツの思想界に一気に普及させたこと、またこの体系化という仕事が、カント哲学からヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに至るドイツ観念論への道筋を与えたということなどの影響が見られる。思想史の流れからしても重要な橋渡しをした思想家といえる。
カースト
スペイン植民地におけるカーストを描いた図。この語がインドのヴァルナとジャーティにも使われるようになった カースト(Caste19世紀までの英語綴りは cast であった。語源は、ポルトガルの航海者がインドで目にした社会慣行に対して与えたカスタ(Casta)である。)とは、ヒンドゥー教における身分制度・ヒエラルキー(ヴァルナとジャーティ、ヴァルナ・ジャーティ制)を指すポルトガル語・英語だが藤井(2007)、インドでは、現在も「カースト」でなく「ヴァルナとジャーティ」と呼ぶ。本来はヒンドゥーの教えに基づく区分であるが、インドではヒンドゥー以外の宗教でも、カーストの意識を持つ者がいる。 紀元前13世紀頃に、インド亜大陸の先住民を征服したアーリア人諸部族に根付く原始信仰による神権政治の元、バラモン(祭司)・クシャトリヤ(武士)・ヴァイシャ(平民)・シュードラ(隷属民)の4つの身分の括りが取り決められヴァルナとして定着した。時代が下るにつれ、さらに世襲の職業に基づく現実の内婚集団であるジャーティへと細分化され、親の身分が子へと引き継がれていく。今生の者は、前世の業の報いによりその身分のもとに生まれ、生涯役目を全うすることによって来世の福が保証されるという、徹底した宿命観を篤く信仰している。
見る イエズス会とカースト
カトリック百科事典
カトリック百科事典 (the Catholic Encyclopedia) は1913年にThe Encyclopedia Pressにより出版された英語の百科事典で、今日では別のカトリック百科事典 the ''New Catholic Encyclopedia'' に対して the Old Catholic Encyclopedia(即ち旧カトリック百科事典)とも称される。 現在はパブリックドメインの情報源となっており、インターネット上において無料で公開されている。
カトリック陰謀事件
カトリック陰謀事件(カトリックいんぼうじけん、Popish Plot)は、1678年から1681年に発生したイングランドのカトリック教徒が国家転覆の陰謀を企てているという陰謀の捏造と、それに伴う集団ヒステリーの事件・社会現象である。捏造されたテロ計画が本当に存在していると信じられ、イングランドの反カトリック感情をあおって国全体がパニックに陥った。 2年半にわたってカトリックを敵視した立法・裁判が横行したが、陰謀がまったくの捏造であったことがわかると、反カトリックを鮮明にしているホイッグたちの地位を低下させた。その後、1680年代においてヨーク公ジェームズのや国王即位の道筋をつけることになった。
カトリック教会
カトリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を最高指導者として全世界に13億人以上の信徒を有する、キリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座(聖座、ローマ教皇庁)に置くことから、ローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。
カプチン・フランシスコ修道会
ローマのサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会の納骨堂を飾る4,000人のカプチン会修道士の遺体 カプチン・フランシスコ修道会(ラテン語:Ordo Fratrum Minorum Capuccinorum, 略称: OFM Cap.)はカトリック教会の修道会の1つ。カプチン・フランシスコ会、カプチン小さき兄弟の会あるいはカプチン会とも呼ばれる。
カピタン
カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)は、江戸時代にオランダ東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。ポルトガル語のは、英語のに相当する、即ち「船長・隊長」の意である。南蛮貿易時代最初の交易国がポルトガルだったため西洋の商館長をと呼んでいたが、オランダが取って代わってからもオランダ語の商館長を意味するにはならなかった。
見る イエズス会とカピタン
カテキズム
カテキズム (catechism)は、キリスト教の教理をわかりやすく説明した要約ないし解説の事で、伝統的には洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育(catechesis)で用いられる。文体は問答形式をとることが多い。 カテキズムは歴史的にはもともとギリシャ・ローマの秘教会(英語版)、とくにミトラ教において秘密の教えを授ける為に用いられていたが、キリスト教においても類似の体裁のものを用いるようになった。 κατηχισμός カテーキズモス は、動詞 κατηχέω カテーケオー に由来する。κατηχέω は κατά カタ(下へ)と ηχέω エーケオー(音がする・響く)から構成される語で、文字通りには「下へ向かって鳴る」だが、 「(口頭で)教える・知らせる」という意味になる。
見る イエズス会とカテキズム
カニバリズム
1557年にブラジルで行われたカニバリズムを描いた絵画 カニバリズム()とは、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。 文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず、アントロポファジー(後述)に分類される。また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す(後述)。
見る イエズス会とカニバリズム
カシキアレ川
カシキアレ川(カシキアレがわ、)またはカシキアレ運河(カシキアレうんが)は、オリノコ川上流の分流である。この川は南流してネグロ川に流れ込む。そのため、この川は、オリノコ川とアマゾン川の間のユニークな自然な運河を形成する。それは、地球上で最大の2つの大河をリンクする分流である。
見る イエズス会とカシキアレ川
カスト (イタリア)
カスト(Casto)は、イタリア共和国ロンバルディア州ブレシア県にある、人口約1,600人の基礎自治体(コムーネ)。戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師・オルガンティノの故郷である。
カタジナ・ヤギェロンカ
カタジナ・ヤギェロンカ(ポーランド語:Katarzyna Jagiellonka;スウェーデン語:Katarina Jagellonica av Polen, 1526年11月1日 - 1583年9月16日)は、スウェーデン王ヨハン3世の最初の妃。
ガリレオ・ガリレイ
ガリレオ・ガリレイの肖像がデザインされている2000リラ紙幣 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの自然哲学者、天文学者、数学者 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「ガリレイ」小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)、「ガリレイ」。 近代科学的な手法を樹立するのに多大な貢献をし、しばしば「近代科学の父」と呼ばれる。また天文学分野での貢献を称えて「天文学の父」とも呼ばれる。 最初は医学をピサ大学で学んだが、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し、1589年~1591年にはピサ大学の数学講師、1592年~1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務。
ガブリエル・ガルシア・モレノ
ガブリエル・グレゴリオ・フェルナンド・ホセ・マリア・ガルシア・イ・モレノ・イ・モラン・デ・ブイトロン(西:Gabriel Gregorio Fernando José María García y Moreno y Morán de Buitrón, 1821年12月24日 - 1875年8月6日)は、エクアドルの政治家。エクアドルの大統領を二期 (1859年-1865年と1869年-1875年)務め、第三期に選出された後の第二期中に暗殺された。彼はその保守主義、カトリック的な展望及び自由主義の有力者エロイ・アルファロとの対抗で有名であった。彼の政権下で、エクアドルはラテンアメリカにおける科学と高等教育のリーダーとなった。教育と科学の進歩に加え、彼は腐敗に対して頑強に反対したのみならず、国家を経済的、農業的に進歩させたことで名高く、慈善活動のために自身の給料さえ与えた。
ガブリエッロ・キアブレーラ
キアブレーラ ガブリエッロ・キアブレーラ(Gabriello Chiabrera, 1552年6月18日 - 1637年10月14日)は、イタリアの詩人。
ガイ・フォークス
ガイ・フォークス(Guy Fawkes、1570年4月13日 - 1606年1月31日)、別名グイド・フォークス(Guido Fawkes)は、1605年に発覚した火薬陰謀事件の実行責任者として知られる人物である。 イングランドのヨークで生まれ育ち、母親の再婚相手の影響から、カトリックを信奉するようになる。青年期にはヨーロッパ大陸に渡りカトリック側で八十年戦争に参加した。後にトマス・ウィンターと出会い、ロバート・ケイツビーが首謀した火薬陰謀事件に関わるようになる。1605年11月5日、当局による貴族院地下の捜索が行われ、貯蔵した火薬を見張っていたフォークスは逮捕された。偽名を名乗り証言を拒んだフォークスであったが、拷問にかけられ計画の全容と共謀者の名前を白状した。
ガスパル・ヴィレラ
ガスパル・ヴィレラ(、 大永5年(1525年)? - 元亀3年(1572年))は、ポルトガル人イエズス会員でカトリック教会の司祭。日本のキリスト教史上最初期の宣教師の一人で、京都での布教を開始した。
ガスパール・コエリョ
ガスパール・コエリョ(、 1530年 - 1590年5月7日)は、ポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の代表(日本準管区長)をつとめた。
キュウリ
キュウリ(胡瓜、学名: Cucumis sativus)は、ウリ科キュウリ属のつる性一年草、およびその果実である。野菜の一種として食用にされる。 かつては、熟した実も食用とされたが、甘みが薄いためにあまり好まれず、現在では未熟な実を食用とするようになった。インド北部、ヒマラヤ山麓原産。日本では平安時代から栽培され、大正以降によく利用されるようになった。
見る イエズス会とキュウリ
キリシタン大名
キリシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信し、洗礼を受けた大名のことである。
キリシタン版
16世紀のキリシタン版(印刷博物館所蔵) キリシタン版(キリシタンばん)とは、近世初期(16世紀末 - 17世紀初め)に日本を中心にイエズス会によって刊行されたローマ字、あるいは漢字・仮名による印刷物の通称である。 キリスト教の布教のため、日本へ来たイエズス会司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが、同会の教育事業の一環として計画した。その計画は、必ずしも成功したとはいえなかった。しかし、50点以上の出版物が刊行され、また東アジアではじめて西洋印刷術によって印行された、書物・印刷史上重要な刊行物であり、ローマ字表記された当時の日本語口語文など、言語史上にも貴重な資料になっている。 キリシタン版と呼ばれる書物群は、論者によって The Jesuit Mission Press in Japan や日本耶蘇会版、吉利支丹版などとも呼ばれ、細目は一致しないこともあるものの、日本においてイエズス会が刊行した書目を中心にすえる点では、大体一致している。
見る イエズス会とキリシタン版
キリスト教の歴史
キリスト教の歴史(キリストきょうのれきし)では、キリスト教の歴史を概説する。 キリスト教とは何か、聖典である『聖書』の範囲がどこまでかは、「キリスト教」を名乗る教団の中でも定義は確実に定めることができている。そこで本項では、キリスト教を自称する教派・教団を網羅的に取り扱うものとし、紀元後1世紀前半からはじまるその歴史を概観する。
キリスト教年表
キリスト教年表(キリストきょうねんぴょう)では、キリスト教宣教史に関する重要なできごとを年表としてまとめる。 ---- 前1世紀 1世紀 2世紀 3世紀 4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀 9世紀 10世紀 ---- 11世紀 12世紀 13世紀 14世紀 15世紀 16世紀 17世紀 18世紀 19世紀 20世紀 21世紀 ----。
キリスト教用語一覧
アギア・ソフィア大聖堂(イスタンブール) キリスト教用語一覧(キリストきょうようごいちらん)では、キリスト教に関係する用語の一覧を示す。 INDEX。
キルデア県
キルデア県(、日本語ではキルデア州と訳す例もある()。)は、アイルランド東部、レンスター地方の県。2022年の人口は246,977人。
見る イエズス会とキルデア県
キーノ
キーノ ※キノ、キノーの表記揺れも含む。
見る イエズス会とキーノ
キニーネ
キニーネ(kinine)またはキニン(quinine、クイニン)は、キナの樹皮に含まれる分子式C20H24N2O2のアルカロイドである。 IUPAC名は(6-Methoxyquinolin-4-yl)-(R)-methanol。1820年にキナの樹皮から単離、命名され、1908年に平面構造が決定し、1944年に絶対立体配置も決定された。また1944年にロバート・バーンズ・ウッドワードらが全合成を達成した。ただしウッドワードらの全合成の成否については後述の通り議論がある。 マラリア原虫に特異的に毒性を示すマラリアの特効薬である。キューガーデンが移植を手がけて以来、帝国主義時代から第二次世界大戦を経てベトナム戦争まで、ずっとかけがえのない薬だった。米国は野戦病院等でキニーネを使い、1962-1964年頃に手持ちが底をついた。急に大量発注され、そこへ国際カルテルが便乗し、キニーネは暴騰した。参加企業は欧州諸共同体のキニーネ/キニジンメーカーを網羅していたオランダのネドチェム社、西ドイツのベーリンガー・マンハイム社とブックラー社、フランスのソシエテ・シミク・ボワンテ・ジラール社とソシエテ・ノジャンテーズ・ド・プロデュイ・シミク社とファマシー・サントラル・ド・フランス社。
見る イエズス会とキニーネ
キエーティ
キエーティ(Chieti)は、イタリア共和国アブルッツォ州にある都市で、その周辺地域を含む人口約5万1000人の基礎自治体(コムーネ)。キエーティ県の県都である。 16世紀、戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師・ヴァリニャーノの出身地である。
見る イエズス会とキエーティ
ギプスコア県
ギプスコア県(ギプスコアけん、GipuzkoaまたはGipuzkoako Probintzia、Provincia de Guipúzcoa)は、スペイン・バスク州にある県。県都はサン・セバスティアン。89のムニシピオ(基礎自治体)を持つ。
見る イエズス会とギプスコア県
クラウス・リーゼンフーバー
クラウス・リーゼンフーバー(Klaus Riesenhuber, 1938年 -2022年3月31日)は、ドイツ出身の哲学者、思想史研究者。ローマ・カトリック司祭、イエズス会士。上智大学文学部哲学科名誉教授、同大学中世思想研究所 元 所長。1991年から1999年まで放送大学客員講師も務めた。
クリスマス
クリスマス(Christmas)はイエス・キリストの降誕を記念する祭で、キリスト降誕祭(キリストこうたんさい、単に降誕祭とも)、降誕日(こうたんび)、聖誕祭(せいたんさい)、ノエル(Noël)などとも呼ばれる。「クリスマス」という英語は「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味に由来する。 カトリック、聖公会、ルーテル教会、正教会などでは、教会暦上の毎年12月25日に祝われる(例外は「#古式を守るアルメニアの降誕祭」で後述)。 あくまでキリストの降誕を記念する日であり、この祭事が行われる日自体がイエス・キリストの正式な誕生日というわけではない『キリスト教大事典 改訂新版』350~351頁、教文館、1977年 改訂新版第四版(イエス・キリストの誕生日自体が不詳である〈#位置付けを参照〉)。
見る イエズス会とクリスマス
クリスチャン・マイヤー
クリスチャン・マイヤー(Christian Mayer、1719年8月20日 - 1783年4月16日)は、オーストリアの天文学者。イエズス会司祭である。いくつかの連星の発見、金星の日面通過の観測などを行った。 モラビアに生れた。1745年にイエズス会に入り、1752年にハイデルベルク大学の数学と物理の教授になった。選帝侯カール・テオドールがシュヴェッツィンゲンとマンハイムに天文台を建設した時、天文係になった。1773年、イエズス会の解散が命令されたので、その職を失うが、その後も各地でジョヴァンニ・カッシーニらと天文学の観測を続けた。1769年の金星の日面通過の観測ではエカチェリーナ2世の招きに応じてサンクトペテルブルクで観測をおこなった。
クリスチャン・ド・デューブ
クリスチャン・ルネ・ド・デューブ(Christian René de Duve、1917年10月2日 – 2013年5月4日)は、国際的に高く評価された細胞生物学者で生化学者。ルーヴァン・カトリック大学、ロックフェラー大学の名誉教授。 1974年に、細胞小器官の構造と機能に関する発見で、アルベルト・クラウデ、ジョージ・エミール・パラーデとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。
クリストヴァン・フェレイラ
クリストヴァン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira, 1580年(天正8年)ごろ - 1650年11月4日(慶安3年10月11日))は、ポルトガル出身のカトリック宣教師。イエズス会士であったが、日本において拷問によって棄教し、沢野忠庵(さわの ちゅうあん、忠安とも)を名乗ってキリシタン弾圧に協力した。クリストファン・フェレイラと表記されることもある。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとして知られ、また長与善郎の小説『青銅の基督』にも登場する。
クリストフ・シャイナー
クリストフ・シャイナー(Christoph Scheiner、 1573年7月25日- 1650年6月18日)は、神聖ローマ帝国の天文学者、イエズス会士、著述家。太陽の黒点を観測した最初期の学者の一人である。
クリストファー・クラヴィウス
クリストファー・クラヴィウスの肖像 クリストファー・クラヴィウス(Christopher Clavius, 1538年3月25日 - 1612年2月12日)は、16世紀に活躍したドイツ出身の数学者・天文学者。名前は本名のクリストフ・クラウ(Christoph Clau、もしくはKristoph Klau)を英語式に表記したもの。イエズス会員にして当代随一の科学者で、グレゴリオ暦改暦委員会の中心人物であった。 ただし、グレゴリオ暦の(原形の)提案者は、アロイシウス・リリウスであり、彼の死後、1576年にその案を改暦委員会に提出したのはアロイシウスの弟であるアントニウス・リリウスである。
クリストファー・シンプソン
クリストファー・シンプソン(Christopher Simpson, 1605年ごろ - 1669年)は、イングランドの音楽家。とりわけヴィオラ・ダ・ガンバやコンソート音楽の作曲家や音楽理論家として名を残している。
クルジュ=ナポカ
クルジュ=ナポカ(Cluj-Napoca, Claudiopolis)は、ルーマニア北西部の都市。「クルジュ」は「クルージ」とも表記する。クルジュ県の県都で、ルーマニア国内の教育・文化・工業の中心のひとつ。トランシルヴァニア地方の中心部、ソメシュル・ミク川の渓谷に位置し、ブカレストから約480kmの位置にある。ブカレスト、ヤシに次ぐルーマニア第3の都市。コロジュヴァール(Kolozsvár)、クラウゼンブルク(Klausenburg)という名前でも有名。
クレメンス11世 (ローマ教皇)
クレメンス11世(Clemens XI, 1649年7月23日 - 1721年3月19日)は、ローマ教皇(在位:1700年 - 1721年)。本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・アルバーニ(Giovanni Francesco Albani)。フランスに興ったジャンセニスムを弾劾し、中国の典礼論争においてイエズス会の文化適応政策を批判した。
クレメンス13世 (ローマ教皇)
クレメンス13世(Clemens XIII, 1693年3月7日 - 1769年2月2日)は、ローマ教皇(在位:1758年7月6日 - 1769年2月2日)、カトリック教会の司祭。本名はカルロ・デッラ・トーレ・レッツォニコ(Carlo della Torre Rezzonico)。
クレメンス14世 (ローマ教皇)
クレメンス14世(Clemens XIV, 1705年10月31日 - 1774年9月22日)は、ローマ教皇(在位:1769年5月19日 - 1774年9月22日)、カトリック教会の司祭。本名は、ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・アントニオ・ガンガネッリ(Giovanni Vincenzo Antonio Ganganelli)である。ヨーロッパ諸国の圧力に屈してイエズス会の解散を命令した教皇である。
クレメンス8世 (ローマ教皇)
クレメンス8世(Clemens VIII, 1536年2月24日 - 1605年3月3日)は、第231代ローマ教皇(在位:1592年 - 1605年)。本名はイッポーリト・アルドブランディーニ(Ippolito Aldobrandini)。この時代の教皇としては珍しく、聖職者としても政治家としても優れた人物として評価されているが、ジョルダーノ・ブルーノやベアトリーチェ・チェンチとその家族の処刑を許したことなどは後世の評価に汚点を残すことになった。またブレスト合同(1596年)の祝福は東西教会の亀裂を深めた。
クロード・ベルナール
クロード・ベルナール(Claude Bernard, 1813年7月12日 - 1878年2月10日)は、フランスの医師、生理学者。 クロード・ベルナール 「内部環境の固定性」と言う考え方を提唱。この考え方は後に米国の生理学者・ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」という概念に発展させられた。また、1862年にルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行った。
クールー (フランス領ギアナ)
クールー(仏:Kourou)は、南アメリカフランス領ギアナの北部に位置するコミューンで、ギアナ宇宙センターがある事で有名。首都カイエンヌからは約50kmのところに位置する。
クスコ
クスコ(CuscoまたはCuzco (Qusqu)は、ペルー南東にあるクスコ県の県都。アンデス山脈中の標高3,400mにある。人口は47万9808人(2021年)。 クスコとは、ケチュア語で「へそ」という意味であり、インカ帝国(正式名称はタワンティン・スウユ、Tawantinsuyu)の首都で、文化の中心だった。現在もペルーで有数の都市の1つである。
見る イエズス会とクスコ
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ
ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(オルガンティーノ・ニェッキ・ソルド/ニェッキ・ソルディ、Organtino Gnecchi‐Soldo/ Gnecchi‐Soldi, 1533年 - 1609年4月22日)は、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人宣教師。カトリック司祭。イエズス会員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長や豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。
グラーツ大学図書館
グラーツ大学図書館(-だいがくとしょかん、ドイツ語:Universitätsbibliothek Graz)は、オーストリア第2の都市グラーツにある、グラーツ大学に併設する図書館。シュタイアーマルク州で最も規模が大きく、オーストリア全体では3番目に大きい科学的および公共の図書館である。グラーツ大学の一部である図書館は図書館本館、職員図書館(法学部、社会科学部、社会経済学部)、そしてそれぞれの図書館分棟から構成されており、一般開放されている。略称はUBグラーツ。
グレゴリアン大学
国立グレゴリアン大学(こくりつグレゴリアンだいがく、Pontificia Università Gregoriana)は、イタリア、ローマにある国立大学で教皇庁立大学(英語:Pontifical University)の一つ。 1551年創立という長い歴史と伝統を誇り、2001年9月には創立450周年を祝った。同大学には世界中130の国と地域からの司祭、修道士、神学生、一般人など1600人の学生が学び、世界最大規模の神学部の一つである。イエズス会による創立であることからグレゴリアン大学で教鞭をとるのは伝統的にイエズス会員が多いが、他修道会の会員や一般信徒も教壇に立っている。
グレゴリウス13世 (ローマ教皇)
グレゴリウス13世(Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日)は、第226代ローマ教皇(在位:1572年 - 1585年)。本名はウーゴ・ブオンコンパーニ(Ugo Buoncompagni)。学問を好み、奨励したことで知られ、その治世にずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名である。
グレゴリウス16世 (ローマ教皇)
グレゴリウス16世(Gregorio XVI, 1765年9月18日 - 1846年6月1日)は、ローマ教皇(在位1831年2月2日 - 1846年6月1日)、カトリック教会の司祭。本名、バルトロメオ・アルベルト・カッペラーリ(Bartolomeo Alberto Cappellari)。高まるイタリア統一運動とそれに期待する世論を読みきれず、教会と世俗国家との間の溝を広げることになった。選出時に司教でなかった教皇として、また現教皇フランシスコ(イエズス会出身)以前では修道会司祭出身として、最後の教皇である。
グーテンベルク聖書
グーテンベルク聖書(グーテンベルクせいしょ)は、15世紀にドイツのヨハネス・グーテンベルクが活版印刷技術を用いて印刷した西洋初の印刷聖書。グーテンベルク聖書は当時もっとも広く流通していたラテン語聖書「ヴルガータ」をテキストとしている。 ほとんどのページが42行の行組みであることから「四十二行聖書(42-line Bible、42B)」とも呼ばれ、枢機卿ジュール・マザランのコレクションから発見された歴史的経緯から「マザラン聖書(the Mazarin Bible)」とも呼ばれる。羊皮紙に印刷されたものと紙に印刷されたものがあり、180部が印刷されたと考えられているが、現時点で存在が確認されているのは不完全なものも含めて48部である。
グアナフアト
グアナファト(スペイン語:Guanajuato)は、メキシコ・グアナフアト州の州都である。周辺の町村を含めた基礎自治体の中核。 人口は19万4500人(2020年)。メキシコでも豊かな銀山に恵まれ、スペイン植民地時代の美しいコロニアル建築で有名である。歴史的な市街地と近辺の銀山はユネスコ世界遺産に登録されている。 グアナファトという地名は先住民族のタラスコ族の言葉、「カエルのいる山がちな場所」 (Quanax-juato) が語源であるという説がある。 毎年10月から2週間かけて、国際セルバンテス祭が開かれ、市内にあるフアレス劇場や教会の階段を利用して、セルバンテスの戯曲の上演や、コンサートが催される。
見る イエズス会とグアナフアト
グアム
グアム英語発音はグワーム。「ア」を小書きし、「グァム」と表記することもある。発音でアが抜けて、「ガム」と言う場合もあった。(、)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島。アメリカ合衆国の準州。 1898年の米西戦争からアメリカ合衆国の海外領土。第二次世界大戦下で1941年から1944年にかけて日本軍が占領統治し、「大宮島(おおみやとう)」と呼ばれた。
見る イエズス会とグアム
グアラニーのイエズス会伝道所群
グアラニーのイエズス会伝道所群(グアラニーのイエズスかいでんどうしょぐん)は、ブラジルとアルゼンチンにまたがるユネスコの世界遺産登録物件。
グアラニー語
グアラニー語(グアラニーご)またはグアラニ語(グアラニご)、ワラニー語(ワラニーご)、ガラニ語(ガラニご)、Guaraní、原語名: アバァニェエン (Avañe'ẽ)は、トゥピ語族に属する南アメリカ先住民の言語である。パラグアイではスペイン語と共に公用語として用いられるほか、同国人口の88%がこれを解し、地方部では住民の半数がグアラニー語のみを母語としている。またパラグアイに限らず、アルゼンチンのメソポタミア地方やブラジル南西部など近隣諸国の住民の間でも用いられており、ボリビアでは他の先住民言語とともに公用語のひとつとして、アルゼンチンのコリエンテス州ではスペイン語に次ぐ第二公用語に指定されている。 グアラニー語はアメリカ先住民諸語としては最も話者が多い言語の一つであり、中でも唯一大きな比率で非先住民の話者を擁する。これは南北アメリカ大陸では興味深い例外である。というのは、グアラニー語を除くと、スペイン人とアメリカ先住民の混血であるメスティーソや、文化的同化の進んだ上昇指向の強いアメリカ先住民の中では、植民地言語(この場合、他の公用語であるスペイン語)への移行がほとんど全体に共通した文化およびアイデンティティの標識となっているからである。 イエズス会の宣教師で Tesoro de la lengua guaraní (グアラニー語の宝)を著したは、グアラニー語について「豊かで格調高く、最高の名声を受けるに匹敵すべき」言語であると述べている。 なお一般にグアラニー語といえばパラグアイの公用語を指すが、この言語はグアラニー諸語、もしくは方言連続体の一部であって、これらの言語群に属する姉妹語の過半も同じくグアラニー語と呼ばれていることに留意されたい。
見る イエズス会とグアラニー語
グアラニー族
グアラニー族 (グアラニーぞく、Guarani、Guaraní, (複数形)Guaraníes) とは、アメリカ州の先住民族の一つで、主にパラナ川からパラグアイ川にかけてのラ・プラタ地域(現在の地域でアルゼンチン、ボリビア東部、パラグアイ、ウルグアイ)と、ブラジルに住んでいたが、純粋な民族としては非常に人口が少なくなっており、グアラニー語を話せる者の多くはメスティーソになっている。
見る イエズス会とグアラニー族
グゲ王国
グゲ王国または古格王国(チベット語:གུ་གེ་རྒྱལ་རབས)(842年 - 1630年)は、吐蕃の王族の一部が西チベットで建国した王国。
見る イエズス会とグゲ王国
ケルン
ケルン大聖堂内部 ケルン(Köln 、Kölle 、フランス語・英語: Cologne 英語発音: )は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の都市。人口は約109万人で、ドイツではベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次いで4番目に人口が多い都市である。近隣のドルトムントやエッセン、デュッセルドルフと1,000万人以上が住む大都市圏を形成している。 ケルン市街地はライン川の両岸にまたがる。市内にはケルン大聖堂 (Kölner Dom) があり、カトリック教会のケルン大司教の拠点がある。ケルン大学(Universität zu Köln) は欧州でも最古で最大の大学の1つである。
見る イエズス会とケルン
ケンタウルス座
は、現代の88星座の1つで、プトレマイオスの48星座の1つ。古代ギリシア・ローマの伝承に登場する半人半馬の獣人ケンタウロスをモチーフとしている。南天の大きな星座で、全天21個の1等星に数えられるα星・β星やω星団など、明るい天体が多い。日本など北半球の中緯度地域からは星座の南側の領域を見ることができない。
ケンタウルス座アルファ星
ケンタウルス座α星は、ケンタウルス座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。
ケヴィン・オイギンス
ケヴィン・クリストファー・オイギンス(Kevin Christopher O'Higgins, Caoimhín Críostóir Ó hUiginn, 1892年6月7日 - 1927年7月10日)は、アイルランドの政治家。 自治省副大臣時代のオイギンス ケヴィン・オイギンスはアイルランドのリーシュ県に生まれた。イエズス会系の学校で教育を受け、ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業している。シン・フェインに入党していた彼は1918年に当局により逮捕された。拘禁中にイギリス議会下院の選挙に出馬し、リース選挙区で当選した。1919年、オイギンスはアイルランド民族主義者により組織されたアイルランド共和国政府の自治省副大臣に任命された。1921年に英愛条約が調印されると、アイルランドの世論はこれへの賛否を巡って二分されたが、オイギンスははっきりと支持を表明した。新政府が組織されると、司法大臣兼副首相に任命された。
ケベック・シティー
ケベック・シティー(Ville de Québec、Quebec City、発音:)は、カナダ・ケベック州にある都市。同州の州都であり、州内ではモントリオールに次いで人口が多い。2016年の調査によると人口は531,902人(国内11位)で、大都市圏内では800,296人(国内7位)である。 セントローレンス川が、ダイアモンド岬と、対岸のレヴィとに接近した地点で狭まっていることから、先住民アルゴンキン族の言葉で「川が狭くなっているところ」を意味する「ケベック」という名前になった。市内の旧市街はメキシコ以北では現存する唯一の城郭都市となっており、1985年にユネスコの世界遺産に「ケベック旧市街の歴史地区」として登録された。1608年に設立されており、北米内で最も古い歴史を持つ都市の一つでもある。
ケイトンズヴィル事件の九人
ケイトンズヴィル事件の九人(ケイトンズヴィルじけんのくにん、Catonsville Nine)は、ベトナム戦争に抗議するため、徴兵書類を焼き捨てた、9人のカトリック信徒である。
コリエンテス州
コリエンテス州 (コリエンテスしゅう、スペイン語:Provincia de Corrientes、グアラニー語:Tetãvore Taragui)は、アルゼンチン共和国の州。アルゼンチンの東部メソポタミア地方に位置する。州都はコリエンテス。西をサンタフェ州とチャコ州、北をパラグアイ、北東をミシオネス州、東をブラジルとウルグアイ、南をエントレ・リオス州と接している。 精神的にはブエノスアイレスよりもウルグアイのモンテビデオに近く、数度に渡ってアルゼンチン(というよりもブエノスアイレス)から独立しようとしたことがある。また、パラグアイとのつながりも深く、戦争があればどちらに着くかわからないとも言われている。
コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群
「コルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群」 (Manzana Jesuítica y Estancias de Córdoba) は、アルゼンチンにあるユネスコ世界遺産登録物件のひとつ。その名の通り、コルドバにあるかつてのイエズス会が入植の際に建造した集落跡である。 イエズス会伝道所 (Manzana Jesuítica) には、南米最古の大学の一つであるコルドバ大学(現在は国立大学。Universidad Nacional de Córdoba)、モンセラ中等学校 (Colegio Nacional de Monserrat)、教会、住居などが含まれている。そうした施設群を維持するために、イエズス会はコルドバ州に6つのエスタンシア(農園)を経営した。その6つとは、カロヤ (Caroya)、ヘスス・マリーア (Jesús María)、サンタ・カタリーナ (Santa Catalina)、アルタ・グラシア (Alta Gracia)、カンデラリア (Candelaria)、 サン・イグナシオ (San Ignacio) である。
見る イエズス会とコルドバのイエズス会伝道所とエスタンシア群
コレッジョ
アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ(Antonio Allegri da Correggio, 1489年頃–1534年)は、イタリア、盛期ルネサンスを代表する画家。主に宗教画を描いたが、晩年の神話画によって特に有名である。長命ではなかったがパルマの芸術文化において革新的かつ中心的な役割を果たし、後世に多大な影響を与えた。 コレッジョは当時の芸術の潮流から離れたパルマの地において、15世紀の人文主義とレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンツィオ、ミケランジェロ・ブオナローティなどの芸術に触発され、それ以外にも様々な影響を受けながら16世紀を代表する画家へと成長していった。中でもダ・ヴィンチに由来する自然描写とスフマートに熟達し、崇高とも評される光の明暗、人物を柔らかく表情豊かに描いた絵画は親しみ深い詩的情緒にあふれているだけでなく、パルマ大聖堂天井画に見られる流動的かつイリュージョニスティックな空間表現によって、約100年後のバロックの先駆的存在と見なされている。こうしたコレッジョの芸術性の評価は17世紀以降次第に進められ、18世紀に最高潮に達し、とりわけアントン・ラファエル・メングスはコレッジョをラファエロ、ティツィアーノと比較し、ラファエロに次ぐ第2の位置にコレッジョを置くほどであった。
見る イエズス会とコレッジョ
コロンビア
コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく、)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は太平洋に面している。南アメリカ大陸で唯一、太平洋と大西洋の2つの大洋に面した国である。首都はボゴタ。 コロンビアは非常に多様な環境と文化、民族(88の部族と200の言語集団)を持つ国であり、ヨーロッパからの入植者、アフリカ人の奴隷の末裔、ヨーロッパ人が渡来する前からの先住民族が混在している。ヨーロッパ、中東、アジアからの移民が19世紀から20世紀の間に多く移住した。 コロンビアでは1960年代から政府軍、左翼ゲリラ、極右民兵の三つ巴の内戦が50年以上も続いている。
見る イエズス会とコロンビア
コンラート・ツーゼ
コンラート・ツーゼ(, 1910年6月22日 - 1995年12月18日)は、ドイツの土木技術者で発明家であり、コンピュータの先駆者である。
コンベルソ
コンベルソ()は、スペイン語でユダヤ教からキリスト教への改宗者を指す。
見る イエズス会とコンベルソ
コインブラの旧大聖堂
旧大聖堂の西ファサード コインブラの旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)は、ポルトガルのコインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。1139年のオーリッケの戦い後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、首都と定めたコインブラに建設された大聖堂である。初代コインブラ伯でモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)でもあったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られた。
コスメ・デ・トーレス
コスメ・デ・トーレス(, 1510年 - 1570年10月2日)はフランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。 カトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義(インカルチュレーション:宣教師が現地の文化に根ざして生きること)」は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。
ゴリツィア
ゴリツィア(Gorizia)は、イタリア共和国北東部のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都である。 スロベニアとの国境の都市で、スロベニアのノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。
見る イエズス会とゴリツィア
ゴットフリート・ライプニッツ
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(ライブニッツ、Gottfried Wilhelm Leibniz あるいは 、1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者。 ライプツィヒ出身。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』、『神義論』など。
ゴスラー
ゴスラー(Goslar)は、ドイツ、ニーダーザクセン州の都市である。人口は約人である。 ハルツ地方の中心的な都市で、ランメルスベルク鉱山の麓にあり、鉱山の町として栄えた。ゴスラーには11世紀に王宮が置かれ、ザリエル朝時代ドイツ国王・皇帝のお気に入りの滞在地で、13世紀まで帝国会議が頻繁に行われた Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6.
見る イエズス会とゴスラー
シャナナ・グスマン
カイ・ララ・シャナナ・グスマン(、1946年6月20日 - )は、東ティモールの政治家。初代大統領、第3代首相。現在は第7代首相、東ティモール再建国民会議初代党首を務める。 名はグスマオとも表記される。洗礼名はジョゼ・アレシャンドレであり、「シャナナ」は70年代初めジャーナリストとして活動するときポップソングのフレーズを元につけたニックネームであったが、現在は本名の一部となっている。
シャルル・ド・ゴール
シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(Charles André Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの政治家、陸軍軍人。同国第18代大統領(在任:1959年1月8日 - 1969年4月28日)。 1940年5月のナチス侵攻による本国失陥後、イギリス・ロンドンにてロレーヌ十字の自由フランスを樹立してレジスタンスと共闘し、臨時政府で最初の首相となり、1959年1月に第五共和政で最初の大統領に就任した。任期中はアルジェリアの独立の承認・フランスの核武装・NATOの軍事機構からの離脱などを実現した。フランスでは救国の英雄として絶大な尊崇を集め、20世紀フランス最高の政治家の一人と見做されている。通称ド・ゴール将軍(le général de Gaulle)。フランスで単にル・ジェネラル(le Général)と呼べばド・ゴールを指す。
シャルル=マリー・ヴィドール
シャルル=マリー・ジャン・オベール・ヴィドール(Charles-Marie Jean Albert Widor, 1844年2月21日 - 1937年3月12日)はフランスのオルガン奏者・作曲家・音楽教師・音楽理論家。
シャー・ジャハーン
シャー・ジャハーン(شهابالدین محمد شاه جهان, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー・ベーグム。 1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。 1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年にアフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。
シンシナティ
シンシナティ(英語:)は、アメリカ合衆国のオハイオ州南西端に位置する都市。州都コロンバスの南西約170km、ケンタッキー州との州境になっているオハイオ川の河畔に位置する。人口は309,317人(2020年の国勢調査). United States Census Bureau.
見る イエズス会とシンシナティ
シェーファー
シェーファー(Schäfer, Schaefer, Schafer, Shaffer など)は、ドイツ語圏、英語圏の姓。
見る イエズス会とシェーファー
シオン賢者の議定書
『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、The Protocols of the Elders of Zion、Протоколы сионских мудрецов)は、「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『シオンの議定書』『シオン長老の議定書』とも呼ばれる。この記事では「議定書」とも省略する。 内容は、タルムード経典に記載(バビロン版-ゾハールの2-64のB節)された、選民のユダヤ人が非ユダヤ人(動物)を世界支配するという実現化への方針の道筋の陰謀論であり、ヘンリー・フォードやヒトラーなど世界中の反ユダヤ主義者に影響を与えた#ポリアコフ 4巻,pp.79-100.。ドイツ国国会議員で国家社会主義ドイツ労働者党兼東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクが1920年にドイツ語に翻訳し『シオン賢者の議定書』として出版されたことにより、「反シオニスト運動」が起こり結果的に国民社会主義ドイツ労働者党政権のドイツにおいてユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を引き起こしたともいえることから「史上最悪の偽書」、「史上最低の偽造文書」ともとされる。
シオニズム
シオニズム(, )、シオン運動、シオン主義は、イスラエルの地に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動。後者の立場を「文化シオニズム」と呼ぶことがある。 label。
見る イエズス会とシオニズム
シクストゥス5世 (ローマ教皇)
シクストゥス5世(Sixtus V、1520年12月13日 - 1590年8月27日)は、16世紀後半のローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)。本名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)。教皇領の治安回復、ローマ教皇庁の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市ローマを現代に近い形に整備した。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。
ジモン・マイール
ジモン・マイール ヨハン・ジモン・マイール(ジーモン・マイヤー、マイアー、Johann Simon Mayr, 1763年6月14日 - 1845年12月2日)は、イタリアで活躍したドイツ人作曲家。イタリア語ではジョヴァンニ・シモーネ・マイル(Giovanni Simone Mayr)と綴られる。ドイツ語の姓については、Majer, Mayer, Maierといった綴りも見られる。このため日本語では、マイール、マイル、マイヤーのいずれも併用されている。
ジャン
ジャン (Jean) は、フランス語圏における男性名。女性形はジャンヌ。#他の表記も参照。フランス語以外の人名については#「Jean」以外の人名を、人名以外については#人名以外を参照。
見る イエズス会とジャン
ジャン・ポール・マルティーニ
ジャン・ポール・エジード・マルティーニ(Jean Paul Egide Martini, 1741年8月31日 - 1816年2月14日 パリ)は、ドイツのフライシュタット出身のフランスの作曲家。本名はヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフ(Johann Paul Ägidius Schwartzendorf)。姓については「マルティン (Martin) 」とする説もある。 6歳の時に両親と死別。父親アンドレアス・マルティン(Andreas Martin)とバルバラ夫人は、それぞれ学校教師とオルガニストであった。さしあたってイエズス会の神学校に通いながら、早くも11歳でオルガニストとして働いていた。その後は哲学の勉強のためにフライブルク・イム・ブライスガウに行くものの、むしろ音楽に親しみを感ずるようになり、やがて怠業気味となる。
ジャン・ピカール
ジャン・ピカール(Jean-Felix Picard 、1620年7月21日 – 1682年7月12日)は、フランスの天文学者・司祭である。1669年に最初の本格的な三角測量を行った人物として知られる。
ジャンセニスム
ジャンセニスム(Jansénisme)は、17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。 人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウス・ヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー
ロシャンボー伯爵 ロシャンボー伯爵ジャン=バティスト・ドナティエン・ド・ヴィムール(Jean-Baptiste Donatien de Vimeur, comte de Rochambeau, 1725年7月1日 – 1807年5月10日)は、フランスの伯爵、フランス軍の元帥である。アメリカ独立戦争の最後の局面でフランス軍を率い、イギリス軍を降伏させる重要な役割を演じた。
ジャン=クロード・オロリッシュ
ジャン=クロード・オロリッシュ(Jean-Claude Hollerich SJ, 1958年8月9日 - )は、ルクセンブルク出身のルクセンブルク大司教。2011年10月16日に叙階される。 日本語メディアにおいて、姓はドイツ語読みでホレリッヒと表記されることもある。
ジャージーシティ
ジャージーシティ(英語:)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州第2の都市であり、ハドソン郡の郡庁所在地。ハドソン川を隔ててニューヨーク市のロウアー・マンハッタン対岸に位置する。人口は29万2449人(2020年)で、西には州内最大都市のニューアークに隣接する。ジャージーシティは「ニューヨーク市第6の区」と称されることもあると同時に、ニュージャージー州きっての港湾都市である。ダウンタウンは一時期荒廃したが近年では再開発が進み、ゴールドマン・サックス・タワーをはじめとする超高層ビルが建つなど商業都市として発展している。マンハッタンの対岸という地の利からジャージーシティに主要拠点を構える企業も多く、フォーブスなど本社を置く大企業も増えている。
ジャック・マルケット
200px ジャック・マルケット((Le Père) Jacques Marquette, 1637年6月10日 - 1675年5月18日)はフランスのイエズス会宣教師。 フランス・イエズス会宣教師の北米原住民への布教活動でカナダ(フランス領:ニューフランス)に遣わされる。 その後、フランス系カナダ人のルイ・ジョリエ(Louis Jolliet)と共に、ミシシッピ川流域やセント・ローレンス湾、ハドソン湾を探検・探査した。 後にイリノイ州で任務についたが、健康を害し、マキノー島への道中に死亡した。 Category:フランスの宣教師 Category:イエズス会士 Category:フランスの探検家 Category:北アメリカ探検家 Category:1637年生 Category:1675年没 Category:赤痢で死亡した人物。
ジャック・カゾット
ジャック・カゾット(Jacques Cazotte, 1719年10月17日 - 1792年9月25日)は、フランスの作家・神秘思想家。フランス・ロマン派の先駆者とされる。「第三身分」出身だが、フランス革命には反対の立場を取った。
ジャイナ教
ジャイナ教(ジャイナきょう、जैन、Jainism)は、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、2019年時点、およそ世界全体で500万人の信徒がいるとされる。
見る イエズス会とジャイナ教
ジュリアおたあ
ジュリア おたあ(生没年不詳「」『朝日新聞』夕刊2023年4月19日(社会・総合面)2023年5月17日閲覧)は、安土桃山時代の朝鮮人女性。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に日本に連行され、のちにキリスト教に改宗して、現代に伝わる洗礼名「ジュリア」を得て、日本名「たあ」と合わせて「ジュリアおたあ」と呼ばれる。 彼女を猶子とした小西行長が関ヶ原の戦い(1600年)に敗れて刑死した後、勝者である徳川家康の侍女となったが、禁教令が出てもキリシタンとしての信仰を捨てなかったため、伊豆諸島へ流刑となった。
ジュゼッペ・ディ・ステファーノ
ジュゼッペ・ディ・ステファノ(Giuseppe Di Stefano, 1921年7月24日 - 2008年3月3日 )は、イタリアのテノール歌手。1940年代から1970年代前半にかけて活躍した。マリア・カラスとの公私にわたる深い関係でも有名である。 姓は「ディ・ステファーノ」と表記されることもあるが、イタリア語での正しいアクセントの位置は「テ」にあり、アクセントを長音として表記した場合は「ディ・ステーファノ」となるが、単に「ディ・ステファノ」と表記される例が多い。
ジュゼッペ・カスティリオーネ
ジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione、1688年7月19日 - 1766年7月17日、中国名郎世寧〈ろうせいねい Láng Shìníng〉)は、イタリアのミラノ生まれのイエズス会宣教師、画家である。27歳まではヨーロッパで熱心なキリスト教徒として生活しながら絵を学び、1715年8月に宣教師として中国に渡った。清朝の宮廷画家として康熙帝、雍正帝、乾隆帝に仕え、西洋画の技法を中国へと伝え、美術や建築に影響を与えた。絵画作品では乾隆帝大閲図、ジュンガル討伐戦の情景画、香妃肖像画などが有名である。バロック様式を取り入れた離宮である円明園西洋楼を設計した。
ジュゼッペ・キアラ
ジュゼッペ・キアラ(Giuseppe Chiara、慶長7年(1602年) - 貞享2年7月25日(1685年8月24日))は、イタリア出身のカトリックイエズス会宣教師。キリシタン禁教令下の日本に潜入したが捕らえられ、迫害と拷問の責め苦に耐えかねて強制改宗により棄教し、岡本三右衛門(おかもと さんえもん)という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の小説『沈黙』(篠田正浩により1971年に、2016年にマーティン・スコセッシにより『沈黙 -サイレンス-』として映画化)の主人公のモデルとなったことでも知られる。
ジョルジュ・ルメートル
ジョルジュ・アンリ・ジョセフ・エドゥアール・ルメートル(Georges Henri Joseph Édouard Lemaître、1894年7月17日 - 1966年6月20日)は、ベルギーの天文学者・宇宙物理学者・カトリック司祭。アレクサンドル・フリードマンに次いで膨張宇宙論を提唱し、エドウィン・ハッブルに先立って宇宙膨張則を発表し、さらに宇宙が特異点から始まったというビッグバン理論の元となるアイディアを示した。
ジョルジュ・シムノン
ジョルジュ・シムノン(1963年) ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903年2月13日 - 1989年9月4日)は、ベルギー出身のフランス語で書く小説家、推理作家。 息子の(1939 - 1999)は映画監督で、女優ミレーヌ・ドモンジョの夫。
ジョン・ハード
ジョン・ハード(John Heard, 1946年3月7日 "The Good Men Project: Man-to-Man With John Heard" interviewed by Murat Oztaskin (2011, 12.6) - 2017年7月21日 時事通信 2017年7月23日)はアメリカ合衆国ワシントンD.C.出身の俳優。
ジョン・ハーサニ
ジョン・チャールズ・ハーサニ(John Charles Harsanyi、1920年5月29日 - 2000年8月9日)は、ハンガリーのブダペスト出身のゲーム理論の学者。ハンガリー名はハルシャーニ・ヤーノシュ・カーロイ(Harsányi János Károly)。
ジョン・ダン
ジョン・ダン(John Donne, 1572年 - 1631年3月31日)は、イングランドの詩人、著作家、後半生はイングランド国教会の司祭。 カトリックの家の生まれで、イングランド国教会に改宗するまで宗教的迫害を経験した。優れた教養と詩の才能にもかかわらず、長く貧困の中で生き、富裕な友人たちに頼らざるを得なかった。1615年に国教会の司祭になり、1621年にセント・ポール大聖堂の首席司祭(Dean of St Paul's)に任ぜられた。そういった背景がダンの文学作品(初期の恋愛詩・風刺詩から晩年の宗教的講話に至るまで)に反映しているという意見がある。 大胆な機知と複雑な言語を駆使し、恋愛詩、宗教詩、講話を書く。
見る イエズス会とジョン・ダン
ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ
ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ(リッチオーリ、Giovanni Battista Riccioli、1598年4月17日 - 1671年6月25日)は、17世紀イタリアの天文学者である。1651年にコペルニクス体系に反対する『新アルマゲスト』(Almagestum novum) を著した。フランチェスコ・マリア・グリマルディとともに月面図を作成し、クレーターに科学者の名をつける命名法を始めた。
ジョヴァンニ・パイジエッロ
ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日)は、18世紀後半のイタリアのオペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的人物である。
ジョージ1世 (イギリス王)
ジョージ1世(George I、1660年5月28日 - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。))は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である『英国王室史事典』p199-200「ジョージ1世」。また、神聖ローマ帝国のブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒ()という。 ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続したただし父から受け継いだ選帝侯位が他のドイツ諸侯から「正式」に認められるには10年を要した。
ジョージタウン大学
ジョージタウン大学(ジョージタウンだいがく、)は、コロンビア特別区(ワシントンD.C.)ジョージタウンに本部を置くアメリカ合衆国の私立大学。政治学・国際関係学・法学の分野で特に名高く、政財界・法曹界に指導的な人材を輩出しつづけている。 メインキャンパスは首都ワシントンD.C.の中心部、ホワイトハウスから車でおよそ10分の場所に位置している。 各国の首脳の他、元合衆国大統領であるビル・クリントン、元合衆国最高裁判所判事であるアントニン・スカリアが卒業生に名を連ね、現在のアメリカ合衆国議会においては、下院議員16名及び、上院議員6名が当大学の卒業生である。アメリカ合衆国における初のローマ・カトリック系大学でもある。
ジョアン3世 (ポルトガル王)
ジョアン3世(João III, 1502年6月6日 - 1557年6月11日)は、ポルトガル王(在位:1521年 - 1557年)。「敬虔王」(O Piedoso)と呼ばれる。マヌエル1世とカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の三女マリアの息子。兄にポルトガル公ミゲル、妹にスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世妃イザベル、サヴォイア公カルロ3世妃ベアトリス、弟にポルトガル王エンリケ1世などがいる。 海外植民地の増加と宣教を奨励、新興勢力として誕生したイエズス会を庇護してポルトガル本土と植民地へ宣教師を派遣、キリスト教伝道と王権の向上にも努めた。
ジョアッキーノ・グレコ
ジョアッキーノ・グレコ(Gioachino Greco, 1600年 - 1630年或いは1634年)、別名イル・カラブレーゼ(Il Calabrese)はイタリアのチェスの選手で、競技と本の著作で収入を得た、歴史上最初の職業的チェスの選手。シシリアン・ディフェンスを多用した。 カラブリア州のコゼンツァの近くのチェーリコで1600年頃に生まれた。カラブリアはすでに、レオナルド・ディ・ボノ、ミシェル・ディ・マウロといったチェスの名手を輩出していた。グレコ自身の文書によると彼は教育を受けず、下層階級の出身である。1619年に、グレコはチェスの戦術やゲームを記録として集め始め、裕福な後援者に原稿の写しを許可するようになった。
ジョセフ・マーフィー
ジョセフ・マーフィー(Joseph Murphy, 1898年5月20日 - 1981年12月15日)は、米国で活動したアイルランド出身の宗教家、著述家。ニューソートのに属し、主に牧師として活動した。 潜在意識を利用・操作することで自らや周りの人さえも成功、幸福へと導く積極思考(ポジティブシンキング)「潜在意識の法則」を提唱した。関連著作は自己啓発書として広く流通している。ニューソート関係の思想家では最も愛好された人物のひとりで、積極思考がポピュラーカルチャーに広まるうえで重要な役目を果たした。 日本には大島淳一(=渡部昇一)や島津幸一によって、産業能率大学出版部や三笠書房、騎虎書房(現・きこ書房)の出版を通して紹介された。
ジョゼ1世 (ポルトガル王)
ジョゼ1世(José I,, 1714年6月6日 - 1777年2月24日)は、ポルトガル王国ブラガンサ王朝の国王(在位:1750年 - 1777年)。全名はJosé Francisco António Inácio Norberto Agostinho de Bragançaで、「改革王」(かいかくおう、o Reformador)と呼ばれる。ジョアン5世とその王妃マリア・アナ(神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇女)の息子。
ジョゼ・ボヴェ
ジョゼ・ボヴェ(José Bové 1953年6月11日 - )は、フランスのラルザックの酪農家で、アルテルモンディアリスムの代表的運動家。欧州議会議員。メディアによっては「ジョゼ・ボベ」と表記されることもある。
ジョゼ・デ・アンシエタ
ジョゼ・デ・アンシエタ(José de Anchieta, ジョゼ・デ・アンシェッタ、1534年3月19日 - 1597年6月9日)は、スペイン領カナリア諸島出身、イエズス会士の宣教師で16世紀の後半にブラジルで伝道を行った。2014年4月3日、教皇フランシスコによって聖人に列せられた。 1500年4月22日のブラジル発見から1世紀にわたり、ブラジルの歴史に大きな影響を与えた。アンシエタは1554年のサンパウロ、1565年のリオデジャネイロ創立の際の創立者の一人でもある。彼は文筆家で詩人であり、ブラジルで最初の文筆家とされている。アンシエタはまた宣教活動に没頭し、現地住民をカトリック信仰へと改宗させた。
ジョゼフ・ド・メーストル
ジョゼフ・マリー・ド・メーストル伯爵(Joseph-Marie, Comte de Maistre, 1753年4月1日 - 1821年2月26日)は、サヴォワ、フランスのカトリック思想家、外交官、王党派、保守主義者、権威主義者、反革命家。軍人・作家のグザヴィエ・ド・メーストルは弟、ハープ奏者のグザヴィエ・ドゥ・メストレは子孫である。
ジョゼフ・ギヨタン
ジョゼフ=イニャス・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin, Dr. Joseph-Ignace Guillotin, 、1738年5月28日 - 1814年3月26日)はフランスの内科医、政治家、博愛主義者である。処刑器具のギロチンは彼の姓に由来しているが、このような断頭装置は少なくとも13世紀にはすでに存在しており、彼はギロチンの発明者というわけではない。 実際のギヨタンは、1789年10月10日に、フランスの死刑に機械的な装置を導入することを議会に提案した提案者である。だが結果として彼の名前はエポニムとなり、彼の親族は、この機械に彼の名前を使用しないよう政府に陳情したが、既にこの言葉が余りに広く認知されてしまっていたので、やむなく姓を改姓するに至った。
ジン・トニック
ジン・トニック(Gin and Tonic)とは、ジンにトニックウォーターを加えて作るカクテルである。
ジーゲン
ジーゲン (Siegen) は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州アルンスベルク行政管区のジーゲン=ヴィトゲンシュタイン郡に属す都市である。人口約10万人のこの街はグロースシュタット(Großstadt、大都市)に位置づけられている。2012年7月から「ジーゲン大学都市」と称している。 ノルトライン=ヴェストファーレン州 - ヘッセン州 - ラインラント=プファルツ州の 3州境の北西に位置するこの街は、郡行政機関の所在地であり、州行政計画では南ヴェストファーレン人口集中地域の上級中心に位置づけられている。この街は有名なバロック画家ピーテル・パウル・ルーベンスの生誕地であり、このためジーゲンは「ルーベンス都市」と称している。
見る イエズス会とジーゲン
ジェラード・マンリ・ホプキンス
ジェラード・マンリ・ホプキンス(Gerard Manley Hopkins、1844年7月28日・イギリス - 1889年6月8日・アイルランド)はイギリス・ヴィクトリア朝時代の詩人、イエズス会所属の聖職者。 彼は自分の書いた詩に半韻を使用して、半韻を一般的にした。また、スプラング・リズムを確立した。『ドイッチュラント号の遭難』や 『鷹』といった詩がよく知られている。
ジェローム・ラランド
ジェローム・ラランド (1732 - 1807) ジョゼフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande、1732年7月11日 – 1807年4月4日)は、フランスの天文学者である。ois と誤記される。この項目のラランドは男性である。)-->。
ジェームズ2世 (イングランド王)
ジェームズ2世(James II, 1633年10月24日 - 1701年9月16日、在位:1685年2月6日 - 1688年)は、イングランド・スコットランド・アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王・アイルランド王としてはジェームズ2世。3王国にとってジェームズは、歴史上最後のカトリック信仰を有する国王となった。 ウィリアムとメアリーでなくジェームズこそ正統なる王であるという人々はジャコバイトと呼ばれ、ジャコバイト運動はたびたび名誉革命体制イングランドを脅かした。ジェームズの死後、ジャコバイトはジェームズの息子ジェームズ老僭王を推戴して活動を続けた。 かつてジェームズ7世/2世は、イギリス史のなかでカトリック絶対王政を目論んだ悪役として描かれていたが、1970年代の歴史学界の変化、および名誉革命300周年を迎えた1989年前後の研究などにより、従来の悪役像を否定する方向にシフトしつつある。
ジェイムズ・ジョイス
ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。 ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなった。
ジグムント3世 (ポーランド王)
ジグムント3世(Zygmunt III、1566年6月20日 - 1632年4月30日)は、ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1587年 - 1632年)、ヴァーサ朝第4代のスウェーデン王(在位:1592年 - 1599年)。スウェーデン王ヨハン3世と、王妃でポーランド王ジグムント1世の娘カタジナの長男。スウェーデン王としてはシギスムンド(Sigismund)と称される。
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
スペインによるアメリカ大陸の植民地化(スペインによるアメリカたいりくのしょくみんちか)では、15世紀から17世紀におけるスペインによる新大陸の征服活動および植民地化活動について説明する。
スペイン人の一覧
スペイン人の一覧(スペインじんのいちらん)は、現在のスペイン出身者や、スペインで大きく活動した人物の一覧。民族や宗教は問わない。在外者、歴史的な地域も含む。
スペインワイン
この項では、スペインで生産されるワインについて述べる。
スロバキア語の歴史
スロバキア語の歴史は、スロバキア語の歴史を一覧形式で示したものである。スロバキアの歴史も参照のこと。
スーセントマリー (ミシガン州)
スーセントマリー(英: Sault Ste. Marie、仏: Sault-Sainte-Marie)は、アメリカ合衆国ミシガン州アッパー半島東端に位置する都市。同州チッペワ郡の郡庁所在地である。人口は1万3337人(2020年)で、アッパー半島の都市としてはマーケットに次ぐ規模である。ミシガン州では最古、アパラチア山脈以西で3番目に長い歴史を持つ都市で、その歴史は1668年にさかのぼることができる。 スーセントマリーはカナダとの国境になっているセントメアリーズ川の河岸に形成されている。対岸のカナダ側スーセントマリーとはスーセントマリー国際橋で結ばれている。ミシガン州側の南詰は州間高速道路I-75の北の終点になっている。
スーセントマリー (オンタリオ州)
スー・セント・マリー運河国定史跡 スー・セント・マリー(Sault Ste. Marie、Sault-Sainte-Marie)は、カナダ・オンタリオ州の都市。人口は7万2051人(2021年)。オンタリオ州北部では、サドバリー、サンダーベイに続いて3番目の人口規模である。通称は「ザ・スー」(the Sault、the Soo)。 カナダ=アメリカ合衆国国境のセント・マリー川の北岸に位置する。川の対岸にはアメリカの「スー・セント・マリー」があり、双子都市となっている。インターナショナル・ブリッジで連絡している。オンタリオ州北部の各都市と同様に、1990年代の始めから人口の減少が見られ、人口8万4,000人から落ち込んでいる。
ステファン・バートリ (ポーランド王)
ステファン・バトルィまたはバートリ・イシュトヴァーン(ポーランド語表記:Stefan Batory;ハンガリー語:Báthory István;ルーマニア語:Ştefan Báthory, 1533年9月27日 - 1586年12月12日)は、トランシルヴァニア公国の統治者(在位:1571年 - 1586年)、後にポーランド・リトアニア共和国の女王アンナ・ヤギェロンカの共同統治王(在位:1576年 - 1586年)。ハンガリーの大貴族バートリ家のソムリヨ系統出身。多くの歴史家に最も優れた選挙王と評価されている。
スイスの歴史
スイスの歴史ではスイス連邦の歴史について述べる。 スイス連邦は、1848年以来カントンと呼ばれる州による連邦共和制をとってきた。スイス連邦の原型がつくられたのは今から700年以上前のことであるため、見方によっては現存する世界最古の共和国であるということもできよう。連邦が成立する1291年以前の歴史に関しては、本稿では現在のスイス領で起こった歴史的出来事について概説していくこととする。1291年以降、永久盟約によって結成された不安定な連合体がどのように発展・拡大していったかを簡潔にまとめる。
見る イエズス会とスイスの歴史
スウェーデン・ポーランド戦争
スウェーデン・ポーランド戦争(スウェーデン・ポーランドせんそう)は、広義に1563年から1721年までにスウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国の間に幾度となく起こった一連の戦争をいう。
セミナリヨ
セミナリヨ()は、歴史用語で、イエズス会によって日本に設置され、1580年から1614年の間に存在したイエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関(小神学校)のこと。
見る イエズス会とセミナリヨ
セバスチャン・ミカエリス
Sébastien Michaelis セバスチャン・ミカエリス(Sebastian Michaelis, 生没年不詳)は、17世紀のフランスの宗教家。 エクソシストとして名をはせた人物である。天使の階級にたいして9の階級に分類される「悪魔の階級」というものを発表したことでも知られる。エクサン=プロヴァンスの修道女(Axi-en‐p-rovence Nuns)などで有名なイエズス会の大審問官。 エクサン=プロヴァンスに於いて、当時16~17歳の修道女マドレーヌ・ド・ドマンドルに憑いた悪魔を当時のフランスの審問官セバスチャン・ミカエリスが悪魔払いによって地獄へ送り返した。(マドレーヌの名前は、マドレーヌ・ド・ドマンドル、若しくはマドレーヌ・ド・ラ・パリュとされている)。
セバスティアン1世 (ポルトガル王)
セバスティアン1世(Sebastião I, 1554年1月20日 - 1578年8月4日)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の王(在位:1557年 - 1578年)。「待望王」(o Desejado)と呼ばれる。 ジョアン3世の五男(第8子)ジョアン・マヌエルと、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の娘フアナの子。父ジョアン・マヌエルの母カタリナはカルロス1世の妹、母フアナの母イサベルはジョアン3世の妹であり、セバスティアンの両親は父方と母方の双方で従姉弟の関係にあった。
セルゲイ・ネチャーエフ
セルゲイ・ゲンナジエヴィチ・ネチャーエフ(, 1847年10月2日 - 1882年11月21日)は、ロシアの革命家。ロシアのニヒリズム運動のオルガナイザー。
セビリア
セビリア(Sevilla, )は、スペイン・アンダルシア州セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。アンダルシア州の州都であり、セビリア県の県都である。2018年の自治体人口はスペイン第4位の688,711人であり、46自治体からなるの人口は1,539,018人であった。スペイン南部の政治・経済・文化の中心地である。
見る イエズス会とセビリア
ソッツィーニ派
ソッツィーニ派は、自由思想家が唱え、その甥のファウスト・ソッツィーニが展開した精神運動。三位一体説や予定説、キリストの贖罪、原罪の教義、キリストの神性を否定し、教会と国家の分離(政教分離)を主張した。ソッツィーニ主義と呼ばれ、またその一団はポーランド兄弟団と呼ばれた。或いは小改革派教会ともいう。
タイの歴史
タイの地勢図 タイの歴史(タイのれきし)は、タイ王国における歴史を時代ごとに概説する。
見る イエズス会とタイの歴史
タイ王国
タイ王国(タイおうこく、ราชอาณาจักรไทย )、通称タイ(ประเทศไทย )は、東南アジアに位置する立憲君主制国家。首都はバンコク都。 東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国、通貨はバーツ、人口6609万人(2022年、 内務省による)である。
見る イエズス会とタイ王国
サレジオ会
サレジオ会(Societas Sancti Francisci Salesii、Society of Saint Francis de Sales、Salesians of Don Bosco、略称: S.D.B.)は、北イタリアの司祭ヨハネ・ボスコによって1859年に結成されたローマ・カトリック教会の修道会。会員数の規模はイエズス会に次ぐ。サレジオ修道会とも呼ばれる。
見る イエズス会とサレジオ会
サンミゲル島
島内の茶畑 サンミゲル島(Ilha de São Miguel)はアゾレス諸島最大の島。ポルトガル領。アゾレス諸島の東部群島のひとつで、面積は759 km。人口は約13万人(2001年)で、アゾレス諸島全体の人口の半分強にあたる。
見る イエズス会とサンミゲル島
サン・ミゲル・ダス・ミソンイス
サン・ミゲル・ダス・ミソンイス (São Miguel das Missões) は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州北西部の小さな町サン・ミゲル・ダス・ミソンイス市にある、イエズス会伝道所跡。1983年に「サン・ミゲル・ダス・ミソンイス遺跡」の名で、ユネスコの世界遺産に登録された(翌年に世界遺産「グアラニーのイエズス会伝道所群」に組み込まれた)。 南米に多くあるイエズス会伝道所の一つである。イエズス会は、グアラニー族をキリスト教化することや、彼らをスペインやポルトガルの奴隷商人たちから保護する目的で、1735年から1745年にこの伝道所を建設した。しかし、イエズス会の努力にもかかわらず、奴隷商人は跋扈し、1767年にカルロス3世が出したアメリカ大陸からのイエズス会退去令の後には、伝道所は廃れてしまった。
サン・ロッケ教会
サン・ロッケ教会 (Igreja de São Roque)は、ポルトガル・リスボンにあるイエズス会の教会。16世紀から18世紀にかけての豪華な内装が保存されている。
サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院
サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院 (Igreja ou Mosteiro de São Vicente de Fora)は、ポルトガル・リスボン・アルファマ地区にある17世紀に建てられた修道院と教会。『デ・フォーラ』とは城壁の外側、という意味である。ポルトガル国内で最も重要なマニエリスムの建築物の一つであり、ブラガンサ家のポルトガル王たちの菩提寺である。
サン・ベント宮殿
サン・ベント宮殿(Palácio de São Bento)は、ポルトガルのリスボンにある宮殿。現在は共和国議会が置かれている。
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノだいせいどう、San Giovanni in Laterano)は、イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂。ラテラン教会、ラテラン大聖堂とも呼ばれる。「ラテラノ」は「ラテラーノ」とも表記する。ラテラノ宮殿が隣接している。 ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。四大バシリカとはこのラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンティウス大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。
サンボアンガ
サンボアンガ(City of Zamboanga、チャバカノ語/スペイン語:Ciudad de Zamboanga、セブアノ語:Dakbayan sa Zamboanga、フィリピン語:Lungsod ng Zamboanga)は、フィリピン・ミンダナオ島の最西端にある大都市。沖合いにはスールー諸島が連なっている。 高度に都市化された街で、フィリピン・コモンウェルス時代の1936年10月12日に市(chartered city)に昇格した、フィリピンでも市制施行が最も早かった都市のひとつ。「ミンダナオの誇り(El Orgullo de Mindanao)」や、「美しいサンボアンガ(Zamboanga Hermosa)」などの異名があり、市政府による観光誘致では「アジアのラテン都市」というブランドが使われている。サンボアンガはフィリピンでも古い植民都市であり、最もスペイン化が進んだ都市で、スペイン文化の残像がいたるところに濃く残っている。
見る イエズス会とサンボアンガ
サンパウロ
サンパウロ(São Paulo、ブラジルポルトガル語発音:)は、ブラジル南東部に位置する都市。サンパウロ州の州都。 人口約1,200万人。ブラジルのみならず、南半球最大のメガシティである。2016年の都市圏人口(近郊を含む)は2,060万人で、世界第10位、南半球では第1位である。アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングでは、世界34位と評価された。ブラジルの都市としては、リオデジャネイロを凌ぎ首位であった。 略称として SP や S.Paulo と表記される(「SP」は「サンパウロ州」の略称でもある)。住人の呼称は「パウリスターノ (paulistano)」、女性形は「パウリスターナ (paulistana)」。
見る イエズス会とサンパウロ
サンタ・マリア・ラ・マジョール
サンタ・マリア・ラ・マジョール伝道所 (Reducción de Santa María la Mayor) は、アルゼンチン・ミシオネス州カンデラリア県にあるイエズス会伝道所跡のひとつ。グアラニー族のキリスト教化などを目的として1626年に建造された。 1744年には993人が暮らしていたが、1767年のイエズス会退去令の後に放棄された。 サン・イグナシオ・ミニなどとともに、1984年に「グアラニーのイエズス会伝道所群」の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。
サンタクララ大学
サンタクララ大学 (サンタクララだいがく、Santa Clara University) はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンタクララ市(現在のシリコンバレーの中心部)にあるローマ・カトリック系共学大学である。イエズス会によって同州で最初に創立された四学期制の私立大学である。上智大学と学生交換協定を結んでいる。
サン=ドニ大聖堂
サン=ドニ大聖堂(サン・ドニ修道院聖堂) サン=ドニ大聖堂(サン=ドニだいせいどう、Basilique de Saint-Denis、または単にBasilique Saint-Denis)とは、歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂。1966年よりカトリック教会のサン=ドニ司教座が置かれている。パリ北側の郊外に位置するサン=ドニにある。 「サン・ドニ修道院」とも呼ばれる。フランス・パリ北郊の町サン・ドニにある旧フランス王室修道院であり、現在は付属聖堂のみが残り、1966年(昭和41年)以降はカテドラル(大聖堂)となっている。「サン・ドニ修道院聖堂」と呼ばれることもある。 「神は光なり」と言う『ヨハネによる福音書』にあるキリストの言葉を再現した建物。神が住む天上の世界を地上に再現するために、高さと光を追求した。それを実現するための画期的な建築技術は以下の3つである。第1にロマネスクの半円アーチを尖塔アーチに変え、第2に尖塔アーチをリブ・ヴォールトで補強し、第3にリブ・ヴォールトをフライング・バットレスと呼ばれるで支えたことである。
サイパン島
サイパン島(サイパンとう、Sa’ipan、Saipan)は、アメリカ合衆国の自治領である北マリアナ諸島の中心的な島。北マリアナ諸島の政治・経済の中心地で、主都ススペ (Susupe) や最大都市ガラパン(Garapan)も同島にある。1920年(大正9年)から1945年(昭和20年)までは国際連盟による日本の委任統治領となっていた。
見る イエズス会とサイパン島
哲学
哲学(てつがく、フィロソフィー philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問分野、または活動 である。現代英語のフィロソフィー(philosophy)は「哲学」・「哲学専攻コース」・「哲学説」・「人生[世界]観」・「達観」・「あきらめ」などを意味する。「愛知としての哲学」は知識欲に根ざす根源的活動の一つだが、19世紀以降は自然科学が急発展して哲学から独立し、哲学は主に美学・倫理学・認識論という三つで形作られるようになった。哲学に従事する人物は哲学者(てつがくしゃ、フィロソファー )と呼ばれる。
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円融院
円融院(えんゆういん、天文18年(1549年) - 没年不詳)は、日本の戦国時代の女性。三浦桃寿丸・宇喜多秀家・容光院(吉川広家室)らの母。三浦貞勝、宇喜多直家に嫁ぎ、一説に豊臣秀吉の側室的な存在だったともいうが、定かではない。
見る イエズス会と円融院
円明園
円明園(えんめいえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する、清代に築かれた離宮の遺構である。面積は350ヘクタールに及ぶ。中国の5A級観光地(2019年認定)。
見る イエズス会と円明園
啓蒙主義の歴史記述
啓蒙主義の歴史記述(けいもうしゅぎのれきしきじゅつ)では、啓蒙時代の歴史記述について解説する。
全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言
『生命の木』(1595年)に掲載された聖マラキの予言の一部 全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言(すべてのきょうこうにかんするだいしきょうせいマラキのよげん、Prophetia S. Malachiae, Archiepiscopi, de Summis Pontificibus)は、12世紀北アイルランドの都市アーマーの大司教聖マラキ(マラキアス)が行ったとされている、歴代ローマ教皇に関する予言であるprophetiaの語源(「代わりに語る」)を尊重し記事名では「預言」を使うが、後述するように偽書であることが定説化しており、その立場ではマラキ本人が神の啓示を受けて記述したとは見なされていないので、以下の文中では「予言」で統一する。
八尾城
八尾城(やおじょう)は、河内国若江郡(大阪府八尾市)にあった日本の城。南北朝時代から安土桃山時代にかけて存在したが正確な所在はわかっていない(後述)。
見る イエズス会と八尾城
六甲学院中学校・高等学校
六甲学院中学校・高等学校(ろっこうがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう、Rokko Junior and Senior High School)は、兵庫県神戸市灘区に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校である。2016年度に「六甲中学校・高等学校」から改称した。
典礼論争
典礼論争(てんれいろんそう)は、17世紀から18世紀のカトリック教会内で、中国の伝統文化とキリスト教の間のバランスをどのように取るかという問題を巡って行われた一連の論争のこと。 当時、清朝中国で活躍していたイエズス会員たちは中国の習慣と文化を尊重し、キリスト教に巧みに取り込むことで中国における信徒数の拡大をもたらしたが、この方法論をドミニコ会やパリ外国宣教会など他の修道会が批判。教皇クレメンス11世は最終的にイエズス会のやり方に非があると裁定を下したため、中国におけるキリスト教は衰退の道をたどることになる。 この論争では、イエズス会と他の修道会が非ヨーロッパ文化への対応という問題をめぐって争うことになった。同じような問題はインドにおける宣教でも起こっている。
見る イエズス会と典礼論争
元号
内閣が元号を選定した。また、元号の発表が史上初めてテレビ中継された。 インターネット配信された。 元号(げんごう、、)または年号(ねんごう、)とは、古代中国で創始された紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は年の途中でも行われ、1年未満で改元された元号もある。 2024年(令和6年)時点、公的には世界では日本のみで制定、使用されている。ただし、台湾を統治する中華民国の民国紀元に基づく「民国」や、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の主体年号による「主体」が事実上は元号的な機能をしている。 日本における元号の使用は、孝徳天皇などの宮とする難波宮で行われた大化の改新時の「大化」から始まり、「大化」の年号と前後して「日本」という国号の使用も始まった。
見る イエズス会と元号
元和の大殉教
元和大殉教図 元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。 この事件後、江戸幕府による弾圧はさらに強化されていく。 また、平戸オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教や京都の大殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている。
見る イエズス会と元和の大殉教
元禄文化
尾形光琳筆 「燕子花図屏風」 元禄文化(げんろくぶんか)は、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化。 17世紀の中期以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた深井(2012)pp.12-15高埜「元禄の社会と文化」(2003)pp.85-90。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった原田 他(1981)p.247。
見る イエズス会と元禄文化
先天図
先天図(せんてんず)とは、北宋の儒学者邵雍が考えた易卦の生変に関する学説にもとづく次序や方位によって八卦および六十四卦を配した図である。邵雍はこの図の原作者を天地自然に象って八卦を創り出した伏羲とし、それを復元したと考えた。一方、現行『周易』における卦の配列、すなわち従来の易伝によって示された次序や方位によって卦を配列した図は後天図(こうてんず)と呼ばれ、その作者は周の文王とされる。 八卦の生成 先天図における卦の生成過程は太極から始まる宇宙生成論を表すとして朱子学において重視された。
見る イエズス会と先天図
国体
国体(こくたい、)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという。。 国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化された。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された。
見る イエズス会と国体
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(こくりつひろしまげんばくしぼつしゃついとうへいわきねんかん)は、広島平和記念公園(広島県広島市中区中島町1番6)にある、被爆者を追悼する国立の施設である。
犬養道子
犬養 道子(いぬかい みちこ、1921年4月20日 - 2017年7月24日)は、日本の慈善家・環境活動家・小説家。 首相を務めた犬養毅の孫にあたる。カトリック信徒。
見る イエズス会と犬養道子
皆川達夫
皆川 達夫(みながわ たつお、1927年〈昭和2年〉4月25日 - 2020年〈令和2年〉4月19日)は、日本の音楽学者。立教大学名誉教授。西洋音楽史家。日本キリシタン音楽史家。芸術学博士皆川達夫「洋楽渡来考:キリシタン音楽の栄光と挫折」学位授与大学:明治学院大学、取得学位:博士(芸術学)、学位授与番号:乙第1号、学位授与年月日:2003-11-08。。ヨーロッパの中世・ルネサンス音楽史、日本キリシタン音楽史の研究で、第一人者・権威として知られる。
見る イエズス会と皆川達夫
石山本願寺
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院である。なお、名称に関しては、大坂本願寺、大坂城など、様々な説がある。 他の本願寺と比較した際の特徴は、本山・石山本願寺を中心に防御的な濠や土居 - 中世,城郭や屋敷地の周囲に防御のためにめぐらした土塁。(『大辞林』第三版、他。) で囲まれた「寺内町」を有する点である教学研究所 編『教如上人と東本願寺創立』第一部「教如上人とその周辺」第二節「大坂本願寺」P.14。。
見る イエズス会と石山本願寺
石川五右衛門
石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、弘治4年〈1558年〉? - 文禄3年8月24日〈1594年10月8日〉、12月12日とも)は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来、その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師であるペドロの日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。
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瞑想
瞑想、冥想(めいそう、meditation、contemplation)とは、心を静めて無心になること、何も考えずリラックスすること、心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことなどとされている。 各々の宗教の伝統や修行の段階、目的等により内容は様々である。本来は冥想と書くと思われる。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。現代では、健康の向上や心理的治療、自己成長、自己向上などの世俗的な目的をもって、様々な瞑想が行われている。
見る イエズス会と瞑想
火薬陰謀事件
火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、Gunpowder Plot)とは、1605年のイングランドにおいてロバート・ケイツビーを首謀者とする同国のカトリック教徒たちが、国王ジェームズ1世の暗殺を企てたが失敗に終わった政府転覆未遂事件。イングランド国教会の成立に伴う半世紀以上にわたるカトリック教徒への迫害を止めさせ、カトリック教徒の君主に挿げ替える企てであった。当時は「火薬反逆陰謀事件(Gunpowder Treason Plot)」や「イエズス会反逆事件(Jesuit Treason)」と呼ばれていた。 このテロ計画は、1605年11月5日に貴族院(ウェストミンスター宮殿)で行われる予定であった議会開会式を狙い、大量の火薬をもって議場ごと爆破し、国王ジェームズ1世以下その側近らをまとめて暗殺した上で、同時にで民衆叛乱を起こし、ジェームズの9歳になる王女エリザベスをカトリックの傀儡君主として王位に就けるというものであった。ケイツビーが陰謀を企てたのは、新王ジェームズの宗教政策が期待していたほど寛容ではなく、イングランドのカトリック教徒たちが失望したためだと考えられている。ケイツビーの仲間には、ジョン・ライト、トマス・ウィンター、ガイ・フォークス、トマス・パーシーの主要5名のほか、ロバート・キーズ、トマス・ベイツ、さらに彼らの縁者やカトリックの友人であるクリストファー・ライト、ロバート・ウィンター、ジョン・グラント、アンブローズ・ルックウッド、サー・エバラード・ディグビー、フランシス・トレシャムなどがいた。この中でフォークスは、オランダ独立戦争(八十年戦争)で、反乱軍(独立軍)の鎮圧に失敗したスペイン軍側に10年従軍した経歴を持ち、計画の要となる爆発物の責任者となった。
見る イエズス会と火薬陰謀事件
火渡り
(動画) 高尾山薬王院の大火渡り祭(2016年3月13日撮影) 火渡り(ひわたり)とは、火をつけて燃やした薪炭の上を裸足で歩くことである。 適切に執り行われる限り、火傷を負う危険はない。日本の仏教寺院である高尾山薬王院の火渡り祭では、修験者だけでなく一般人も火渡りに参加できる【火の力 浄めと癒し】祈り込めた火祭り 春告げる『日本経済新聞』朝刊2021年4月18日(NIKKEI The STYLE)9-10面および高野山薬王院「」(2021年4月22日閲覧)。。忍耐力などの特異な精神力は必要とされないが、十分な知識のないままに行うと危険が伴う。また、熱かったとしても走ると足と炭との接触面積が増え逆に火傷するので危険である。
見る イエズス会と火渡り
神学校
神学校(しんがっこう、英語:seminary)とは、主にキリスト教の唯一神(神学または宗教学)について学び、次世代の教役者を養成・訓練するための教育機関を指す言葉である。ユダヤ教やイスラム教にも似た教育施設があることもあり、宗教・宗派によっては、神学校に類した教育機関に聖書学校や宣教師訓練学校などがある。また、神学校の理念や目的について、諸宗教・諸教派ごとに微妙にニュアンスが異なっている。
見る イエズス会と神学校
神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、Heiliges Römisches Reich, Sacrum Romanum Imperium, Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家、もしくは国家連合である。 9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。さらに1648年のヴェストファーレン条約により神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を獲得し、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。しかし皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。
神戸海星女子学院中学校・高等学校
神戸海星女子学院中学校・高等学校(こうべかいせいじょしがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)とは、兵庫県神戸市灘区青谷町二丁目にあるローマ・カトリック系のミッション・スクール。神戸海星女子学院小学校併設、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。
福島町
福島町(ふくしまちょう)は、北海道(道南地方)の渡島総合振興局に位置する町。渡島半島南西部に位置し、松前郡に属する。
見る イエズス会と福島町
私立図書館
中国語 で名前が付けられたセクション 私立図書館(しりつとしょかん、わたくしりつとしょかん)とは民間団体、あるいは個人が管理する、私立の図書館である。
見る イエズス会と私立図書館
竹内啓
竹内 啓(たけうち けい、1933年10月12日 - )は、日本の数理統計学者・経済学者・科学史家。東京大学名誉教授、明治学院大学名誉教授。日本学士院会員。専門分野は、数理統計学・計量経済学。専門以外の広範な分野における著作・論述も多数発表している。
見る イエズス会と竹内啓
立花京子
立花 京子(たちばな きょうこ、 1932年 - 2011年)は、日本の歴史家。東京出身。日本中世史(戦国史)について執筆活動をする。 お茶の水女子大学理学部数学科卒業。東京教育大学理学研究科数学専攻修士課程修了。 1987年から1996年まで朝日カルチャーセンターで古文書講座(講師は林英夫・立教大学名誉教授)を受講。その間1990~2001年一橋大学経済学部池享教授ゼミに参加。2000~2002年神奈川大学経済学部三鬼清一郎教授ゼミに参加。2002年「信長権力と朝廷」でお茶の水女子大学人文科学博士。 織田信長の三職推任問題に関する研究で「晴豊公記」の新解釈を示し、今谷明に評価された。『信長と十字架』では、信長はイエズス会の支援を受けて天下統一の事業に乗り出したが、後にイエズス会に見捨てられ、本能寺の変で謀殺されたと主張した。しかし、鈴木眞哉を代表として、立花の史料検証を批判する者も多い。
見る イエズス会と立花京子
第六天神社
第六天神社(だいろくてんじんしゃ)は、関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある。
見る イエズス会と第六天神社
納豆
納豆(なっとう)は、煮る・蒸すなどして柔らかくした大豆を発酵させた発酵食品。蒸し大豆を適温の中で納豆菌を繁殖させて発酵させた「糸引き納豆」と、蒸した大豆にこうじ菌を接種して塩水にひたして発酵させてから乾燥させた「塩辛納豆」の二種があるが、一般的に「糸引き納豆」を指す伊藤寛記「」『日本釀造協會雜誌』Vol.71 (1976) No.3 P.173-176,。菓子の一種である甘納豆とは異なる。世界各国に類似の食品が存在する(後述の「アジア」「アフリカ」参照)。
見る イエズス会と納豆
細川忠興
細川九曜 細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。 佐々木氏の支流の大原氏流細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父の幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。
見る イエズス会と細川忠興
細川ガラシャ
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢、Gracia) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。 子に、於長(おちょう:前野景定正室)・忠隆・興秋・忠利・多羅(たら:稲葉一通室)などがいる。
見る イエズス会と細川ガラシャ
紀元前
紀元前 (きげんぜん) は、紀年法において紀元(元年、すなわち1年)よりも前の年々を表現する方法である。紀元1年の前年が紀元前1年であり、過去に遡る度に紀元前2年、紀元前3年…と、数値の絶対値が増加する。 現在の日本で単に「紀元前」と言った場合、通常は西暦(キリスト紀元)の紀元前を指す。この紀年法は、天文学的紀年法による西暦とは1年のずれがあることに注意しなければならない。
見る イエズス会と紀元前
縮景園
縮景園(しゅっけいえん)は、広島県広島市中区上幟町にある庭園。
見る イエズス会と縮景園
織田信孝
織田 信孝(おだ のぶたか/のぶのり『』には「ノブノリ」との読み仮名がある。)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の3男。伊勢国北部を支配していた豪族(国衆)神戸氏の養子となり神戸家第8代当主となったため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。
見る イエズス会と織田信孝
織田信長
織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国の三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」)を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。 これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた。しかし、近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。
見る イエズス会と織田信長
織田秀信
織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。
見る イエズス会と織田秀信
結城了悟
結城 了悟(ゆうき りょうご、1922年10月17日 - 2008年11月17日)は、日本のイエズス会司祭・キリシタン史研究者。スペイン・セビリャ出身。 1978年に日本に帰化。帰化名はペトロ岐部と187殉教者の一人結城了雪にちなむ。 旧名ディエゴ・パチェコ・ロペス・デ・モルラ(Diego Pacheco López de Morla)、旧通称「ディエゴ・パチェコ」。
見る イエズス会と結城了悟
病院
病院(びょういん、hospital)は、疾病や疾患を抱えた患者に対し医療を提供する施設の中でも一定規模の施設のこと病院よりも小規模な医療施設は診療所(クリニック)と呼ばれる。規模的には病院ではあるが、歴史的な理由によりクリニックの名称を残す施設もある(メイヨー・クリニックなど)。。 病院の設立者は公的セクターが多いが、保健組織(営利または非営利団体)、保険会社、慈善団体などがある。病院は歴史的に、その多くが宗教系修道会や慈善家によって設立・運営されてきた。
見る イエズス会と病院
田原城 (河内国)
田原城(たわらじょう)は、河内国(大阪府四條畷市上田原)の大和国との境界付近に建てられた戦国時代の日本の城(山城)。
無原罪の御宿り
無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり、Immaculata Conceptio Beatae Virginis Mariae)とは、聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによってフスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』244頁、教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353、原罪の汚れと穢れを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義である新要理書編纂特別委員会/編、日本カトリック司教協議会/監修(2003年)『カトリック教会の教え』106頁 - 107頁、カトリック中央協議会、ISBN 9784877501068。無原罪懐胎(むげんざいかいたい)とも言う。
無礼講
無礼講(ぶれいこう)とは、地位や身分の上下を取り払い楽しむという趣旨の宴会。 無礼講の概念そのものは、日本では古代からあったと考えられる。しかし、具体的に「無礼講」という名称を用いたのは、鎌倉時代末期、1320年代初頭に、公卿・儒学者である日野資朝とその親戚・同僚の日野俊基が開いた会合が、史料上の初見である。これは茶会の一種で、自分の地位に合わない衣服をあえて着ることで、互いの身分の上下の区別をわからなくして、純粋に才能のある者だけを集めて歓談を行った先進的な学芸サロンだった。ただ、あまりにも先進的であったため、花園上皇など、公家社会の最上位の有識者からは眉をひそめられることもあった。資朝・俊基の無礼講は、一説によれば、茶道の前身である闘茶の最も早い例と言われる。また、室町時代の連歌会なども無礼講に端を発すると言う説もあるなど、文化史的に重要な会である。
見る イエズス会と無礼講
焦秉貞
『画仕女図』 焦 秉貞(しょう へいてい、Jiāo Bǐngzhēn、1689年 - 1726年)は山東省済寧出身の清代初期の画家である。天文暦法を司る欽天監の五官正となったが、西洋画透視図法の影響をうけた最初の中国の画家となった。山水画や人物画を得意とした。代表作は『耕織図』 (1696年)である。 中国に新しい天文学の知識をもたらしたイエズス会の宣教師と接したことから西洋の影響をうけた。カトリック教徒となり中国における典礼論争においてはイエズス会の側にたった。
見る イエズス会と焦秉貞
焼身自殺
南ベトナムで政権への抗議のため焼身自殺したティック・クアン・ドック(1963年) 焼身自殺(しょうしんじさつ、Self-immolation)とは、自分の身体を焼くことで自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。
見る イエズス会と焼身自殺
異端審問
異端審問(いたんしんもん、Inquisitio)とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。ひとくちに異端審問といっても中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに分けることができ、それぞれが異なった時代背景と性格を持っている。 なお、魔女狩りは異端審問の形式を一部借用しているが、その性格(異端はキリスト教徒でありながら、誤っているとされた信仰を持っている者であるのに対し、魔女・魔術師(魔法使い)はそもそもキリストを信じないとされる人々であるため全く別種)や実施された地域・時代が異なっているため、異端審問とは別種のものと考えるのが適切である。
見る イエズス会と異端審問
片桐且元
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕え、秀頼の命で、滅失していた方広寺大仏(京の大仏)および大仏殿の再建にあたった。しかし同寺院に納める梵鐘の鐘銘をめぐり方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)が生じ、大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。
見る イエズス会と片桐且元
牛肉
牛肉 牛肉(ぎゅうにく)は、食用に処理されたウシの肉である。ビーフ(Beef欧米ではBeefは仔牛肉(Veal)とは別の概念である)ともいう。
見る イエズス会と牛肉
狼と七匹の子山羊
狼と七匹の子山羊(おおかみとしちひきのこやぎ、)は、悪い狼を懲らしめるというグリム童話の一編(KHM 5)。AT番号123. Oskar Herrfurth。
白人
戦国時代、日本に到来したイエズス会員などの南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。 バルトと北欧起源のそれぞれ。 金髪碧眼の白人女性 白人(はくじん、White (people)、Caucasian)は、通俗的人種概念の一つで、肌の色が薄く白に近い人種の総称。白色人種(はくしょくじんしゅ)。 いずれも文化的・宗教的・社会的・政治的に形成され、便宜的に使用される用語であり、生物学的分類として有効な概念ではない。
見る イエズス会と白人
花火
いたばし花火大会 諏訪湖祭湖上花火大会 動画:長岡まつり大花火大会「正三尺玉3連発」 花火(はなび、煙火)は、火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。火花に色をつけるために金属の炎色反応を利用しており、混ぜ合わせる金属の種類によって様々な色合いの火花を出すことができる。原則として野外で使用するのが一般的である。 花火の光・色彩・煙を発生させる火薬の部分を星(ほし)という。多くの場合は火薬が爆発・燃焼した時に飛び散る火の粉の色や形を楽しむが、ロケット花火やへび花火(蛇玉)、パラシュート花火のように、火薬の燃焼以外を楽しむものもある。花火大会のほか、イベントなどの開催を告げるため、また、祝砲の代わりにも使われる。
見る イエズス会と花火
韓国のキリスト教
は大韓民国におけるキリスト教。本項では現在の韓国における宗教としてのみならず、朝鮮半島全体のキリスト教の歴史と現状についても扱う。 韓国統計庁の発表によると2005年の韓国においてキリスト教徒は総人口の約3割を占め、総人口の約2割を占める仏教徒よりも信者数が多く、韓国の宗教人口全体の中でキリスト教徒が最大である。キリスト教徒の中ではプロテスタントの信者2に対してカトリックの信者1の割合になっている。
鎖国
鎖国(さこく、)とは、江戸幕府が、オランダ(及び一時期のイギリス)を除くキリスト教国の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態、外交不在の状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。
見る イエズス会と鎖国
聖徳太子の地球儀
聖徳太子の地球儀(しょうとくたいしのちきゅうぎ)は、兵庫県太子町の斑鳩寺に伝わるソフトボール大の地球儀のこと。
聖心会
聖心会()は、1800年にフランスで聖マグダレナ・ソフィア・バラが創立したカトリックの女子修道会。
見る イエズス会と聖心会
聖心ウルスラ学園聡明中学校・聖心ウルスラ学園高等学校
聖心ウルスラ学園聡明中学校・聖心ウルスラ学園高等学校(せいしんウルスラがくえんそうめいちゅうがっこう・せいしんウルスラがくえんこうとうがっこう)は、宮崎県延岡市緑ヶ丘三丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。 高等学校において、中学校から入学した内部進学の生徒と、高等学校から入学した外部進学の生徒との間では3年間クラスを別々に編成する併設型中高一貫校でもある。カトリック系キリスト教主義学校(ミッション・スクール)。創立以来女子校であったが2002年度より、共学校となる。
見る イエズス会と聖心ウルスラ学園聡明中学校・聖心ウルスラ学園高等学校
聖母の出現
聖母の出現(せいぼのしゅつげん、Marian apparition、聖母の顕現)とは、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事を言う。なお、聖母マリアがこのように特定人物や、一般大衆の前に姿を持って出現することを顕現(けんげん)とも言う。
見る イエズス会と聖母の出現
聖母の被昇天
聖母の被昇天(せいぼのひしょうてん、Assumption of Mary)とはカトリック教会の用語で、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝日(8月15日)のこと。1950年、当時のローマ教皇ピオ12世のエクス・カテドラ宣言によって正式に教義とされた。 キリストが自らの力で能動的に「昇天」(ascensione、アッシェンシオーネ)したのに対し、聖母マリアは聖霊の力で受動的に昇天したので、「被昇天」(assunzione、アッスンツィオーネ)と呼称する。
見る イエズス会と聖母の被昇天
聖書翻訳
聖書翻訳(せいしょほんやく)は、聖書を様々な言語へ翻訳することである。ユダヤ教もキリスト教も複数言語に跨って発展した宗教であり、その聖典である聖書をいかに翻訳するかは古来より大きな問題であり続けた。活版印刷の発明以来、ヨーロッパ各国でプロテスタント系の翻訳が盛んになり、その後ヨーロッパ諸国の海外進出に伴って世界各国語への翻訳が盛んに行われるようになった。またマルティン・ルターによる聖書翻訳とドイツ語の関係のように聖書翻訳が書記言語の確立、共通語の成立、言語ナショナリズムのきっかけになった言語も多い。
見る イエズス会と聖書翻訳
血税一揆
血税一揆(けつぜいいっき)とは、新政反対一揆のひとつであり、主に1873年(明治6年)に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。徴兵令反対一揆ともよばれる。
見る イエズス会と血税一揆
西暦
とは、キリスト教で救世主と見なされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法がある。ラテン文字表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語の「A.D.」または「AD」が使われる。A.D.またADとは「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、「主(イエス・キリスト)の年に」という意味。西暦紀元、キリスト紀元ともいう。 注釈がない場合、現在の日本ではグレゴリオ暦による紀年法を指す1582年10月4日まではユリウス暦による紀年法を指す。。 西暦には通常は0年は存在しないが、ISO 8601や天文学的紀年法においては、「西暦0年」および「負の西暦年」を設定している(詳細は「#0と負の西暦」を参照)。
見る イエズス会と西暦
西暦紀元
「''Anno Domini''」と書かれた大聖堂の碑文(オーストリア、ケルンテン州) 西暦紀元(せいれききげん、羅: 英: anno Domini、略号:AD)および西暦紀元前(英: before Christ、略号:BC)は、ユリウス暦やグレゴリオ暦の年を呼称するときに用いられる。通常、伝統的な西暦紀元には0年や負数の年は存在しないが、天文学では、0年や負数による西暦年を用いる。
見る イエズス会と西暦紀元
西江大学校
西江大学校はカトリックのイエズス会により設立されたミッション系大学である。「真理に随順たれ」の理念をモットーとし、「西江家族」の語がしばしば用いられるなど、教職員と学生とが密接な学風がある。 他の大学に比べて多くの課題を課すことで知られ、笑い話で「西江高等学校」とも呼ばれる。特に1年次には必修科目として読書感想文を書かせるなどの特徴がある。講義の出席にも厳しく、講義を4回以上欠席すると自動的にF(単位を取得できない)となるシステムをとっており、同校の独特な制度のひとつである。 学部学科のほかに「連携専攻」というシステムがあり、副専攻として女性学や日本学などを学ぶことができる。
見る イエズス会と西江大学校
西洋
西洋(せいよう、、Occident(オクシデント))は、東洋(the East, Orient、オリエント)の対概念。歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたる二つの文化圏が存在し、現代日本語では二つの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。 日本語では洋が西洋の略語として使われており、明治頃には、洋式・洋風とは西洋の方式および西洋風を意味し、洋画、洋風建築、洋式トイレ、和洋折衷、洋服、洋傘、洋食、洋楽などの語句が広く使われるようになった。中国語圏でも:zh:洋服、:zh:洋葱(タマネギ)、:zh:洋酒など洋に西洋の意味を持たせている熟語もあるが、日本語の洋式にあたる中国語は西式である。
見る イエズス会と西洋
親衛隊 (ナチス)
親衛隊(しんえいたい、独:Schutzstaffel 、シュッツシュタッフェル、略号:SS)は、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、主に第一次世界大戦時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。ドイツ語でSchutzが「護衛」「防護」、Staffelが「梯団」「梯隊」を意味する。
馬建忠
馬 建忠(ば けんちゅう、Ma Jianzhong、1845年2月9日 - 1900年8月14日)、は、清末の思想家・外交官・言語学者。字は「眉叔」。江蘇省鎮江出身で馬建勛・馬相伯の弟。
見る イエズス会と馬建忠
馬相伯
馬 相伯(ば しょうはく)は清末民初の教育家。清朝の洋務派官僚として知られる馬建忠は弟である。名は建常、のちに良と改めた。字は相伯、湘伯、薌伯など。晩号は華封老人。クリスチャンネームはヨセフ。
見る イエズス会と馬相伯
香港関係記事の一覧
香港関係記事の一覧(ホンコンかんけいきじのいちらん) ここでは香港、及びマカオに関連する記事をまとめて記載している。
解放の神学
解放の神学(かいほうのしんがく、Liberation theology)とは、第2バチカン公会議以降にグスタボ・グティエレスら主に中南米のカトリック司祭により実践として興った神学の運動とそれをまとめたもので、それに対する議論も多く、教皇庁でも批判者がいるが、世界的には広く受け入れられている。一部には1930年代のディートリヒ・ボンヘッファーをその先駆けとみる見方もある。 キリスト教社会主義の一形態とされ、民衆の中で実践することが福音そのものであるというような立場を取り、多くの実践がなされている。中南米のプエブラ司教会議でも支持されたが、階級的視点などにおいて「マルクス主義方法論をベースにした共産主義」と意図的にも無知からも混同されて中傷される事も多く、各国で政府側からも反政府側からも聖職者や修道士などが暗殺される事が多い。一方でフィリピンやインドネシア、東ティモール、ハイチなどでは実践が重ねられている。その神学論理の一部については同じ立場を取るプロテスタントの新正統主義神学、フェミニスト神学、プロセス神学などと同様にバチカンからは拒絶されている。
見る イエズス会と解放の神学
説経節
天下無双佐渡七太夫正本『せつきやうしんとく丸』(正保5年3月刊、九兵衛板)の挿図 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸『世界大百科事典』(1988)pp.576-577, 岩崎・山本「説経節」。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である郡司(1953)pp.388-389。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった室木「解説」(1977)pp.393-399。
見る イエズス会と説経節
諸白
諸白(もろはく) とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。 または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。 一方、麹米は玄米のままで、掛け米(蒸米)だけに精白米を用いる製法、またはその製法で造られた酒のことを片白(かたはく)という。麹米、掛け米ともに精白しなければ並酒(なみざけ)と呼ばれた。 その起源は、平安時代に奈良の大寺院で製造されていた僧坊酒で、その造り方の流れを継ぐ奈良の酒屋の「南都諸白(なんともろはく)」は、まるで今日の純米大吟醸酒のように、もっとも高級な清酒の呼び名として長らく名声をほしいままにした。 やがて室町時代以降は堺、天王寺、京都など近畿各地に、それぞれの地名を冠した「○○諸白」なる酒銘が多数誕生し、江戸時代に入ると上方から江戸表へ送る下り酒の諸白を「下り諸白」と称した。
見る イエズス会と諸白
高山右近
高山 右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。代表的なキリシタン大名として知られる。2017年にカトリック教会の福者に列された。諱は友祥や長房、重友とされるが、いずれも確証はない(後述)。
見る イエズス会と高山右近
高山飛騨守
高山 飛騨守(たかやま ひだのかみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、キリシタン。洗礼名はダリヨ。通称は図書(ずしょ)ともいう。諱は友照とされるが、一次史料では確認できない。代表的なキリシタン大名とされる高山右近の父である。 なお、「騨」の印刷標準字体は「驒」であるが、本項本文では「騨」を用いる。
見る イエズス会と高山飛騨守
論語
朱熹『論語集注』八佾 『論語』(ろんご、)は、孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物である。儒教の経典である経書の一つで、朱子学における「四書」の一つに数えられる。 その内容の簡潔さから儒教入門書として広く普及し、中国の歴史を通じて最もよく読まれた本の一つである。古くからその読者層は知識人に留まらず、一般の市民や農民の教科書としても用いられていた。
見る イエズス会と論語
魔の山
『魔の山』(まのやま、Der Zauberberg, )は、1924年11月に出版されたトーマス・マンの長編教養小説。20世紀ドイツ文学において最も影響力のある作品の一つとして広く認められている。 マンは1912年に『魔の山』の執筆を開始した。それは、彼が出版の準備をしていた中編小説『ヴェニスに死す』のいくつかの側面をコミカルに再検討する、はるかに短い物語として書き始められた。新しい作品は、肺の病気に苦しんでいた彼の妻カタリーナが、スイスのダボスにあるフリードリヒ・イェセン博士の森のサナトリウムで数か月間、療養していた時の彼の経験と印象を反映している。 1912年5月と6月に、マンは妻を見舞い、この国際的な施設の医師と患者のチームと知己を得た。マンによれば、後に彼の小説の英訳版に添付されたあとがきの中で、このダボス滞在は彼の最初の章(「到着」)に影響を与えている。
見る イエズス会と魔の山
魔術
魔術(まじゅつ)は、仮定上の神秘的な作用を介して不思議のわざを為す営みを概括する用語である。魔法(まほう)とも。 人類学や宗教学の用語では呪術という。魔術の語は手品(奇術)を指すこともある。
見る イエズス会と魔術
鮎川義介
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ「歴代議員一覧(50音順)」『』参議院。「鮎川義介」『』国立国会図書館。「鮎川義介関係文書(MF)(寄託)」『』国立国会図書館。、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。
見る イエズス会と鮎川義介
豚肉
店頭に並べられる豚肉 豚の丸焼き ミンチにし、丸めて焼いた肉(ハンバーグ) 豚の生姜焼き) 豚肉(ぶたにく、とんにく)とは、食肉にされる豚の肉。ポーク(pork)とも呼ばれる。
見る イエズス会と豚肉
足立恒雄
足立 恒雄(あだち のりお、1941年(昭和16年)11月12日 - )は、日本の数学者。学位は、理学博士。早稲田大学名誉教授。専攻は、代数的整数論・数学思想史。 「数学が汎宇宙的な普遍性を持つ真理の体系であり、一貫した発展を遂げているという思想」に疑問を呈し、数学は人類の種としての固有の財産であり、また時代・民族・個人に大いに依存しているという観点から、『2の不思議』・『無限のパラドクス』・『数とは何か、そしてまた何であったか』等の啓蒙的な著作を多数著わしている。
見る イエズス会と足立恒雄
鹿児島のベルナルド
ザビエル公園) 鹿児島のベルナルド(かごしまのベルナルド、? - 1557年3月)は、16世紀の日本人キリシタン。日本人初のヨーロッパ留学生であり、またローマ教皇とも対面した。
黒人
戦国時代、日本に到来したイエズス会員などの南蛮人たち。白人の他、黒人も描かれている。 アフリカ内における黒人分布の地図、大陸内の国の大規模な国は一概に「黒人」と分類されているが、この地域のすべての人々が同じ特性を持っているとは限らない。 黒人(こくじん)は、通俗的人種概念の一つで、肌の色が濃色で黒に近い人種の総称。黒色人種(こくしょくじんしゅ)。日焼けなどではなく、遺伝で肌の色が黒に近い。 過去の科学的人種主義でいうネグロイドの概念のほか、社会的、および文化的な定義も含まれる。「黒人」は、単なる肌の色にとどまらず、共有された歴史や経験、文化的表現にも焦点を当てている。
見る イエズス会と黒人
黄金の日日
『黄金の日日』(おうごんのひび)は、1978年1月8日から12月24日にかけて放送されたNHK大河ドラマ第16作。クレジット上での原作は城山三郎の同名の小説(1978年刊)、脚本は市川森一の書き下ろし(詳細は別途記述)。六代目市川染五郎(現・二代目松本白鸚)主演。 安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た豪商・呂宋助左衛門(ドラマ内では助左または納屋助左衛門と呼ばれている)と泉州・堺の町の栄枯盛衰、今井宗薫の妻・美緒をめぐる今井宗薫と助左衛門らの争いを描いた作品である。
見る イエズス会と黄金の日日
輔仁大学
大学の略称は輔大、別称は輔仁カトリック大学()。輔仁学派および、マスメディア内での学閥が知られている。
見る イエズス会と輔仁大学
辞典
グラーツ大学図書館のラテン語辞書 辞典(じてん)とは、言葉や物事、漢字などを集め、その品詞・意味・背景(語源等)・使用法(用例)・派生語・等を解説した書籍。辞書(じしょ)・字引(じびき)とも言う。 なお、「辞典」「辞書」という単語は、主に言葉について書かれたもの(国語辞典、英和辞典、漢和辞典など)について用いるもので、文字について書かれた辞典は「字典」、事物に就いて詳細に書かれた辞典(百科事典など)については「事典」という表記を用いて区別される。「辞典」「字典」「事典」はいずれも「じてん」で発話においては区別できないため、それぞれ「ことばてん」(言葉典)、「もじてん」(文字典)、「ことてん」(事典)と言い換えられることもある。
見る イエズス会と辞典
農家 (諸子百家)
農家(のうか)は、中国の諸子百家の一派。主な思想家に「君民並耕」を説いたがいる。
農本思想
農本思想(のうほんしそう)とは、東アジア諸国で発展した「農は国の本」とする社会思想である。「農本主義」(のうほんしゅぎ)とも称し、近現代の日本で発展した同様の思想を包括する場合もあるが、ここでは主として、前近代の中国・日本における思想について述べる。
見る イエズス会と農本思想
農政全書
『農政全書』(のうせいぜんしょ)は、明代の暦数学者・徐光啓が編纂した農書。 農業のみでなく、製糸・棉業・水利などについても扱っている。当時の明は、イエズス会の宣教師が来訪するなど、西洋世界との交流が盛んになっていたほか、スペイン商人の仲介でアメリカ大陸の物産も流入していた。こうしたことを反映して、農政全書ではアメリカ大陸から伝来したサツマイモについて詳細な記述があるほか、西洋(インド洋の西、オスマン帝国)の技術を踏まえた水利についての言及もなされている。徐光啓の死後の崇禎12年(1639年)に刊行された。
見る イエズス会と農政全書
近南極星区
近南極星区(きんなんきょくせいく)は、中国における星官(星座)の区分のひとつで、それまで中原地方では観測されなかった三垣二十八舎に含まれない天の南極周辺の領域のことである。北宋時代に成立した『蘇頌星図』の 「渾象南極圖」では、まだこの領域は空白で何も描かれていなかった。 明末期の崇禎帝の時世にイエズス会士アダム・シャール(湯若望)が徐光啓らとともに編纂した天文書 『崇禎暦書』(1631-35年) には、この領域に西洋の星表に基づいた23個の星座が追加されている。ヨハン・バイエルの『ウラノメトリア』(1603年)の影響が大きいとされている。それは、この領域に追加された星官の名称がバイエル星座の翻訳であったり、それと関連性のある命名がなされているからである。当時、北京天文台には『ウラノメトリア』が2部所蔵されていたという。
見る イエズス会と近南極星区
霊魂
霊魂(れいこん、anima、Ψυχή)は、肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられ、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在デジタル大辞泉 「霊魂」。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的な存在、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている。
見る イエズス会と霊魂
霊操
霊操(れいそう、ラテン語: Exercitia spiritualia)とは、イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行、またその方法を記した著作。「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とする。修行の到達点においては神と深い人格的交わりを持つ=神の御意志を見出すことが目指される。
見る イエズス会と霊操
茂木町 (長崎県)
茂木町(もぎまち)は長崎県西彼杵郡の南部、長崎半島にあった町。1962年(昭和37年)に式見村とともに長崎市に編入された。 現在の長崎市茂木地区にあたる。
間宮海峡
間宮海峡(まみやかいきょう)は、樺太(サハリン島) とユーラシア大陸(北満洲・沿海地方、ハバロフスク地方)との間にある海峡。北はオホーツク海、南は日本海に通じ、長さはおおよそ660km。最狭部の幅は約7.3km、深さは最浅部で約8m。冬の間は部分的に凍結する。
見る イエズス会と間宮海峡
蒼穹の昴
『蒼穹の昴』(そうきゅうのすばる)は、浅田次郎著の長編小説、及びこれを基にしたテレビドラマ、ミュージカル。1996年(平成8年)講談社刊。
見る イエズス会と蒼穹の昴
重農主義
重農主義(じゅうのうしゅぎ、physiocratie、physiocracy)とは、18世紀後半、フランスのフランソワ・ケネーなどによって主張された経済思想およびそれに基づく政策である。「physiocratie、physiocracy」は、「physeos kratesis(自然(の秩序)による統治/支配)」という言葉に由来している。1767年に、デュ・ポン・ド・ヌムールが編纂した『フィジオクラシー、または人類にとってもっとも有益な統治の自然な構成(Physiocratie, ou constitution naturelle du gouvernement le plus avantageux au genre humain)』が出版され、それ以降、この言葉がケネーらの思想を指す呼称として定着していった。それ以前には、この学派は、単に「エコノミスト」と呼ばれていた。日本では、明治時代に「フィジオクラシー」が紹介された当初は「天理学派」「理物学派」などという訳語をあてられていたが、アダム・スミスがこの派の学説を「農業のシステム」と呼んだことが知られるようになって、「重農学派」「重農主義」という訳語が定着するようになった。この学派の関心領域が農業理論に限定されていないことから、木崎喜代治ら現代の研究者は、原語のまま「フィジオクラシー」と呼ぶことが多い。
見る イエズス会と重農主義
臼杵城
臼杵城(うすきじょう)は、大分県臼杵市にあった日本の城。城跡は大分県の史跡に指定されている。戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる「」が築かれ、大友氏の拠点となった。江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれた。
見る イエズス会と臼杵城
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(ながさきとあまくさちほうのせんぷくキリシタンかんれんいさん)は、長崎県と熊本県に残る12件の構成資産から成るUNESCOの世界遺産リスト登録物件である。 2007年1月23日、文化庁が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など。2014年に世界遺産登録)、「富士山」(山梨県、静岡県。2013年に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産登録)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県明日香村など)とともに追加申請を決めた物件で、もとは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として登録が目指されたが、潜伏キリシタンに価値の焦点を絞る形で構成資産が再考された結果、現在の名称になった。
長崎奉行
長崎奉行(ながさきぶぎょう)は、江戸幕府の遠国奉行の一つで、遠国奉行首座。
見る イエズス会と長崎奉行
長崎市
稲佐山から望む長崎市街地。長崎市の夜景は世界新三大夜景・日本三大夜景にも数えられている。 金比羅山から望む長崎市の夜景 長崎市(ながさきし)は、長崎県の南西部に位置する市。長崎県の県庁所在地および人口が最多の市であり、中核市に指定されている。 九州地方で第7位の人口を有する。
見る イエズス会と長崎市
長崎純景
長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。キリシタン大名。洗礼名は「ドン・ベルナルド」。大村純忠は岳父(妻の父)。肥前国西彼杵郡長崎に拠った。祖父・有馬康純が長崎氏の養子に入り「長崎」を名乗った。
見る イエズス会と長崎純景
長崎県
長崎県(ながさきけん)は、日本の九州地方に位置する県。県庁所在地は長崎市。 五島列島、壱岐島、対馬など数多くの島嶼を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。また、多島であるうえにリアス式海岸を多く擁することから海岸線の長さは47都道府県中第2位となっている(※「地形」節にて詳説)。
見る イエズス会と長崎県
長崎県指定文化財一覧
長崎県指定文化財一覧(ながさきけんしていぶんかざいいちらん)は、2001年以後に指定された長崎県指定の文化財や史跡等を一覧形式でまとめたものであるが、全てを掲載しているわけではない。
長崎港
長崎水辺の森公園 長崎港周辺の空中写真。港の西岸(左側)には造船所のドックが多数あり、対する東岸(右側)は丘陵上まで家屋が密集した市街地が形成されている様子が分かる。1974年撮影の8枚を合成作成。国土航空写真。 長崎港(ながさきこう)は、長崎県長崎市に位置する港湾。港湾管理者は長崎県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。
見る イエズス会と長崎港
苓北町
富岡城並びに苓北町中心部の航空写真 苓北火力発電所 苓北町(れいほくまち)は、熊本県の西部、天草諸島の北西部にある町で、天草郡に属する。
見る イエズス会と苓北町
耳川の戦い
耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向国高城川原(宮崎県木城町)を主戦場とした合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。 後述のように、耳川は敗北した大友軍が撤退し、勝利した島津軍が追撃した地点にある川の名前であり、主戦場とは異なることに注意を要する。
見る イエズス会と耳川の戦い
考証学
『清代学者像伝』より、戴震 考証学(こうしょうがく)とは、中国清代に流行した学問の手法、または儒学の思潮である。宋代から明代に流行した宋明理学が哲学的・思弁的・独創的な手法であったのと対照的に、「」を主として臆測の説を排し、文献学的・言語学的・実証的な手法をとった。 漢代の鄭玄らの訓詁学の手法を模範としたことから漢学(かんがく)とも呼ばれる。樸学(ぼくがく)、考拠学(こうきょがく)ともいう。
見る イエズス会と考証学
Monumenta Nipponica
『Monumenta Nipponica』(ラテン語、モニュメンタ・ニポニカ)とは、主に英語で書かれる学術雑誌である。日本の社会、文化、歴史、宗教、文学、芸術、人類学など、日本やアジア研究についてのさまざまな主題の査読論文や書評が掲載される。東京の上智大学が季刊で発行している。毎号、3から4の投稿論文があり、おおむね10から15の日本研究書の書評が掲載される。
SJ
SJ、Sj、sj。
見る イエズス会とSJ
暁星中学校・高等学校
暁星中学校・高等学校(ぎょうせいちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都千代田区富士見一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。キリスト教カトリックに基づく教育を行い、またフランス語を第一外国語または第二外国語としている。
枢機卿
枢機卿(すうききょう、すうきけい、、)は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド。
見る イエズス会と枢機卿
林羅山
林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。
見る イエズス会と林羅山
李卓吾
李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) - 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は、中国明代の思想家・評論家。陽明学左派(泰州学派)に属する。泉州府晋江県の出身。 もとの名は林載贄(りん さいし)。のちに姓を李と改める。1566年に即位した隆慶帝朱載坖の諱を避けて「載」字を除き、李贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。 また母を早くに亡くし、父の影響を大きく受けたと言われる李卓吾は、父(白斎公)を偲ぶと言う意味で、晩年「思斎」と号した。
見る イエズス会と李卓吾
東アジア史
東アジア史(ひがしアジアし)は東アジアの歴史である。 中国にて早期に文明が生まれ、やがてその影響は冊封体制の中で日本、朝鮮、ベトナムといった周辺国に広がっていった。近代に入ると欧米列強の進出を受け、中国を中心とした冊封体制は崩壊する。近代化に成功した日本は唯一列強に伍して欧米諸国と覇権を競ったが第二次世界大戦で敗戦、大戦後はそれぞれ独立し今日に至る。
見る イエズス会と東アジア史
東西教会の分裂
東西教会の分裂(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。 この東西教会の分裂は、多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる14世紀から15世紀の西方教会において対立教皇が乱立した教会大分裂を指して使われることも多い。。
東慶寺
東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。
見る イエズス会と東慶寺
松田毅一
松田 毅一(まつだ きいち、1921年(大正10年)5月1日 - 1997年(平成9年)5月18日)は、日本の歴史学者。専門は、戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。京都外国語大学名誉教授。香川県高松市出身、大阪市育ち。
見る イエズス会と松田毅一
松東院
松東院(しょうとういん、天正3年(1575年) - 明暦2年11月25日(1657年1月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の有力なキリシタン。日本最初のキリシタン大名として有名な大村純忠の五女。洗礼名はメンシア、実名はそのとされる。 1586年、勢威を増す龍造寺隆信に対して松浦氏と大村氏は連合を組み、その契約として松浦鎮信の嫡子・久信との間に婚儀が整う。「この結婚は政略結婚であった」とイエズス会の書簡にも明記されている。しかし、鎮信は極度のキリシタン嫌いであったため、結婚当初から舅との不和に悩まされることになる。久信にも都度都度棄教を進められたが、彼女は「棄教するぐらいなら実家にかえる」(=同盟破棄)と、駕籠を呼び実家に帰ろうとして応じなかったため、当時情勢の厳しかった松浦氏側は彼女の棄教をあきらめざるを得なかったとされる。
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松浦隆信
松浦 隆信(まつら たかのぶ)は、肥前国の戦国大名。嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。
見る イエズス会と松浦隆信
村上直次郎
村上 直次郎(むらかみ なおじろう、1868年2月26日(慶応4年2月4日) - 1966年(昭和41年)9月17日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の歴史学者。文学博士。帝国学士院会員、勲一等瑞宝章、日欧通交史、日本・東南アジア関係史の権威。
見る イエズス会と村上直次郎
杉原千畝
杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年〈明治33年〉1月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月31日)は、日本の領事館員のち外交官(1943年)。 中学校入学までは税務官吏である父親の異動のために各地を転々とし、父親の単身赴任後は名古屋に住んで、旧名古屋古渡尋常小学校と旧第五中学校に通い、卒業後に上京して早稲田大学高等師範部英語科(現・教育学部英語英文学科)に通ったが、外務省留学生試験合格のために本科中退した。第二次世界大戦である1939年からリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月29日にかけて、大量のビザ(通過査証)を発給し、根井三郎と共に日本経由で避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ系であった。閉鎖後は、チェコのプラハへ移動し、1941年から終戦までルーマニアのブカレスト公使館で勤務した。大戦終結時の1945年からブカレスト郊外の捕虜収容所に入れられ、1947年4月に日本へ帰国したhttps://www.sugihara-museum.jp/secure/10748/Chiune_Sugihara_memorial_hall.pdf岐阜産の - 杉原千畝記念館/八百津町 「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。
見る イエズス会と杉原千畝
栄光学園中学校・高等学校
栄光学園中学高等学校(えいこうがくえん ちゅうがく こうとうがっこう)は、神奈川県鎌倉市玉縄四丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。 高校からの生徒募集はしていない完全中高一貫校。カトリック修道会の一つであるイエズス会を教育母体とするミッションスクールである。 当校の指す「栄光」は "AD MAIOREM DEI GLORIAM"(より大いなる神の栄光のために)というイエズス会の標語から来ている。
森羅万象
森羅万象(しんらばんしょう、しんらばんぞう、しんらまんぞう)は、あらゆる現象TABEI Fumio & Taishukan 『大修館 四字熟語辞典』 大修館書店、2008年。、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、及び宇宙空間を指す。 キリスト教徒であるイエズス会は、「御主デウス森羅万象ヲツクリタマウ」と『日葡辞書』で記した(デウスは神、創造主の意)。
見る イエズス会と森羅万象
榎一雄
榎 一雄(えのき かずお、1913年(大正2年)11月11日 - 1989年(平成元年)11月5日)は、日本の東洋史学者、東京大学名誉教授。正四位勲二等瑞宝章。
見る イエズス会と榎一雄
樺太
樺太(からふと)またはサハリン()は、ユーラシア東方、オホーツク海の南西部にある島。広義の日本列島に含まれる。南北約948km、東西約160kmで南北に細長く、面積は72,492kmで、北海道(78,073km)よりやや小さい。樺太島(からふととう)、サハリン島(サハリンとう)ともいう。日本が実効支配していた頃は樺太という名称以外ではサガレンが一般的に用いられていた。 樺太は、北部と南部でそれぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度線以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
見る イエズス会と樺太
櫛田神社 (福岡市)
櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡県福岡市博多区上川端町にある神社。旧社格は県社。博多の旧市街(博多部)に位置しており、地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれる。正式名称は、博多総鎮守櫛田神社(はかたそうちんじゅくしだじんじゃ)。
正祖
正祖(チョンジョ、せいそ、1752年10月28日 - 1800年6月28日)は、李氏朝鮮の第22代国王。諱は祘(サン)。祖父は英祖、養父は孝章世子、妃は金時黙の娘孝懿王后。子女に純祖らがある。大韓帝国期に正祖宣皇帝の称号を送られた。
見る イエズス会と正祖
正親町天皇
正親町天皇(おおぎまちてんのう、1517年6月18日〈永正14年5月29日〉 - 1593年2月6日〈文禄2年1月5日〉)は、日本の第106代天皇(在位:1557年11月17日〈弘治3年10月27日〉 - 1586年12月17日〈天正14年11月7日〉)。諱は方仁(みちひと)。 後奈良天皇の第一皇子。母は参議万里小路賢房の女の藤原栄子(吉徳門院)。
見る イエズス会と正親町天皇
死の部隊
死の部隊(しのぶたい、death squad、escuadrones de la muerte)とは、主に第三世界の各国、特に冷戦時代の中南米で行われていた市民に対する暗殺作戦を実行する白色テログループの総称である。近年では反テロなどを名目としたものも指す。 概ね、社会主義や反体制の革命軍や赤軍に対するカウンターを目的としている。
見る イエズス会と死の部隊
殺人
殺人(さつじん)とは、人を殺す事である。
見る イエズス会と殺人
殉教
殉教(じゅんきょう)は、自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。キリスト教の歴史でよく用いられる言葉であるが、キリスト教以外の宗教でも見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。なおキリスト教の一教派である正教会(日本ハリストス正教会)では殉教との語を使わず、致命(ちめい)・致命者の語を用いる。
見る イエズス会と殉教
汎神論
汎神論(はんしんろん、pantheism)または万有神論とは、現実は神性と同一である、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条。神を擬人化した人格神を認めず、一切全てを神と同一視する神学的・宗教的・哲学的立場。創造者(神的存在)と被造物(世界や自然)とに断絶を置かない立場であり、「一にして全(ヘン・カイ・パン)」、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、「神即自然」などが標語として使われる。全ては創造者によって創造された ―― すなわち、「世界」は「世界の外にある神」によって創造されたとするのが有神論だが、汎神論はそのような対立を否定し、全ては創造者の現れである、または、全ては創造者を内に含んでいる、と実体一元論的に見なす。「神」のみが実在しており、「世界」は神の流出や表現や展開にすぎない、と見れば無世界論に通じるが、「世界」のみが実在しており、「神」は世界の総和にすぎない、と見れば無神論・唯物論に通じる。
見る イエズス会と汎神論
決戦III
『決戦III』(けっせんスリー)は、2004年12月22日にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売されたPlayStation 2用シミュレーションゲーム。「決戦シリーズ」の第3作。舞台は戦国時代の日本、主人公の織田信長やその周りの家臣たちを操作し、ストーリーを進めていくゲームである。
見る イエズス会と決戦III
河井克行
河井 克行(かわい かつゆき、1963年〈昭和38年〉3月11日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、自由民主党総裁外交特別補佐、内閣総理大臣補佐官(第3次安倍第1次改造内閣)、法務副大臣(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、外務大臣政務官(第2次小泉改造内閣・第3次小泉内閣)、衆議院・外務委員長、法務大臣(第101代)、きさらぎ会幹事長、広島県議会議員(1期)を歴任した。 河井夫妻選挙違反事件で実刑判決を受け、2021年から服役していたが、2023年11月に仮釈放された - 産経ニュース 2023年11月29日。
見る イエズス会と河井克行
沈黙 (遠藤周作)
『沈黙』(ちんもく)は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説。1966年に書き下ろされ、新潮社から出版された。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて、神と信仰の意義を命題に描いた。第2回谷崎潤一郎賞受賞作。この小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という考えは、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となった。世界中で13か国語に翻訳され、グレアム・グリーンをして「遠藤は20世紀のキリスト教文学で最も重要な作家である」と言わしめたのを始め、戦後日本文学の代表作として高く評価される。
泉井久之助
泉井 久之助(いずい ひさのすけ、1905年7月2日 - 1983年5月28日)は、日本の言語学者。京都大学を中心に、第二次世界大戦前後に活動した。
見る イエズス会と泉井久之助
活字
活字(かつじ、、、)とは、狭義として活版印刷に用いる凸型の字型デジタル大辞泉。 広義には写真植字の文字盤やデジタルフォントなど、文字を同一の字形で繰り返し(印刷物やディスプレイ上で)表現するもの全般。 活版印刷の技術や手順全般については活版印刷を、印刷された本については刊本を、印刷された文章についてはテクストを、それぞれ参照のこと。
見る イエズス会と活字
清
清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。
見る イエズス会と清
満洲語
満洲語(満州語、まんしゅうご、)は、満洲民族が話すツングース諸語に属する言語。かつては清朝の公用語の一つで「清語」「国語」などと呼ばれた。
見る イエズス会と満洲語
木牛
木牛(ぼくぎゅう、もくぎゅう)。
見る イエズス会と木牛
本能寺の変
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)早朝、明智光秀(惟任光秀 明智光秀は、天正3年(1575)7月に織田信長から「惟任」の名字と「日向守」の官職を与えられて惟任日向守光秀と称している(『信長公記』)。その後、光秀は惟任と称し続けているため、天正10年6月2日時点では「惟任光秀」が正しい名乗りであったことになる。)が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件である。。。。。 信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち、自害して果てた。信長の嫡男で織田家当主の信忠も襲われ、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、やはり建物に火を放って自害した。
見る イエズス会と本能寺の変
札幌光星中学校・高等学校
札幌光星中学校・高等学校(さっぽろこうせいちゅうがっこう・こうとうがっこう、Sapporo KOSEI Junior & Senior High School)は、北海道札幌市東区にある私立中学校・高等学校。カトリックのマリア会の学校法人札幌光星学園が運営するミッションスクールである。
戦国時代 (日本)
日本の戦国時代(せんごくじだい、)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。
戦国時代史料の一覧
戦国時代史料の一覧 ここでは、日本の戦国時代についての史料の一覧を記す。史料価値については諸書を按じたが、研究者間でも史料の評価については諸説があることに留意されたい。 なお、詳細は個々の項目を見られたい。
戦略国際問題研究所
戦略国際問題研究所(せんりゃくこくさいもんだいけんきゅうじょ、)は、アメリカ合衆国のワシントンD.C.に本部を置くシンクタンクである。 1962年にジョージタウン大学が設けた戦略国際問題研究所(CSIS)が、後に学外組織として発展したものである。現在のフルタイム常勤職員は220人。議長はトーマス・プリッツカー(Thomas J.
明
明(みん)は、中国の王朝である。1368年から1644年まで存在し、明朝あるいは大明とも号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、李自成軍による滅亡の後には、清が李自成政権(順)と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配した。
見る イエズス会と明
明石全登
明石 全登(あかし てるずみ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名(名前については下記参照)。宇喜多氏の家臣。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタン武将でもあった。
見る イエズス会と明石全登
明智光秀
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。 天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。
見る イエズス会と明智光秀
方言学
方言学(ほうげんがく、英語:dialectology)とは、方言についての言語学。
見る イエズス会と方言学
文化闘争
ピウス9世を描いた風刺画(1875年) 文化闘争(ぶんかとうそう、Kulturkampf)は、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウによって生み出された言葉で、1871年から1878年にかけてドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクによって行われた、ローマ・カトリック教会に関する政策を指す。
見る イエズス会と文化闘争
文禄・慶長の役
文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年日本・中国(明)の元号や朝鮮の。(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった歴史評論第573~578号p86,1998年。 なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。
日中関係史
日中関係史(にっちゅうかんけいし、、)においては、日本と中国にあった歴代の王朝、大陸統治時代の中華民国と、現在中国大陸に存在する「中華人民共和国」との関係の歴史を解説する。なお本項では、台湾にある現在の中華民国との関係についても言及するものとする。
見る イエズス会と日中関係史
日西関係史
日西関係史(にちせいかんけいし、にっせいかんけいし)は、日本とスペインの関係(Relaciones entre España y Japón)についての歴史をさす。なお、1581年から1640年まで、スペイン王がポルトガル王を兼ねており(ポルトガルの歴史参照)、初期の日本との関係においては重複する。この間の史料はもっぱら対外関係を「ポルトガル」とすることが多いが、本項ではその時期も含めて記述する。
見る イエズス会と日西関係史
日葡辞書
''Vocabulario da Lingoa de Iapam'' 『日葡辞書』(にっぽじしょ、Vocabulário da Língua do Japão)は、キリシタン版の一種で、日本語をポルトガル語で解説した辞典である。イエズス会によって、1603年から1604年にかけて長崎で発行された。ローマ字表記の日本語見出しに対する語釈部分は全てポルトガル語で記述され、約3万2000語を収録している。原書名は "Vocabulario da Lingoa de Iapam com a declaração em Portugues" であり、「ポルトガル語で説明を付けた日本の言語の辞典」を意味する。
見る イエズス会と日葡辞書
日本とフィリピンの関係
ベニグノ・アキノ三世(右) 日本とフィリピンの関係(にほんとフィリピンのかんけい、Ugnayang Hapon-Pilipinas、Japan–Philippines relations)について述べる。日比関係とも記される。
日本の宗教
日本の宗教(にほんのしゅうきょう、にっぽんのしゅうきょう)は、神道と仏教が多数派を占めている。現在の日本においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(日本国憲法第20条)と定められ、国教は定められていない。また、特定の宗教を信仰していないとして自身を無宗教と認識する者も多い。 2020年(令和2年)12月31日現在、日本には総計180,544の宗教法人がある 令和3年12月28日 文化庁編。うち文部科学大臣所轄の宗教法人は神道系212、仏教系483、キリスト教系328、諸教124となっている。都道府県知事所轄の宗教法人は神道系84,361、仏教系76,572、キリスト教系4,492、諸教13,972である。
見る イエズス会と日本の宗教
日本のユダヤ人
日本のユダヤ人(にほんのユダヤじん、)では、日本に一定期間在住するユダヤ人の人に加え、ユダヤ教徒に改宗した日本人やその子孫、さらには日本帰化者、日本に関わりが深い人も含んで説明する。 accessdate。
日本のキリシタン一覧
日本のキリシタン一覧は、戦国時代末期から明治時代初期までの日本の著名なキリシタン(当時のキリスト教徒)とその関係者の一覧。
日本のキリスト教史
日本のキリスト教史(にほんのキリストきょうし)では、日本におけるキリスト教の歴史とその展開について述べる。 日本の宗教全般については「日本の宗教」を参照のこと。 世界のキリスト教の歴史については、「キリスト教の歴史」を参照のこと。
日本の貿易史
黒船来航により蒸気船やミシン、近代的な紡績機などが齎らされた。 日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史を説明する。歴史的に蝦夷地や琉球等と呼ばれてきた地域の貿易についても記述する。
見る イエズス会と日本の貿易史
日本の文化
日本の文化(にほんのぶんか、にっぽんのぶんか)全般について、幅広く過去から現在への事象を取り上げ、概要の説明やリンクを示す。 分類については、まだ発展・整理の途上であり、正式なものではない。日本発祥のもの以外でも、日本に深く根付いているものはこの記事に含まれる。
見る イエズス会と日本の文化
日本史の出来事一覧
日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上の主な出来事を年代順に記述する。
日本人論
日本人論(にほんじんろん)とは、日本人について論じる論、著作、報告のこと。
見る イエズス会と日本人論
日本二十六聖人
日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」というが、西洋諸国では「聖パウロ三木と仲間たち」とも呼ばれる。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。カトリック典礼上の記念日は2月5日である(なお、西洋では2月6日)。キリシタンの迫害は徳川氏(江戸幕府)にも引き継がれ、後年に京都の大殉教や元和の大殉教が引き起こされている。
日本初の一覧
日本初の一覧(にほんはつのいちらん)は、現存の是非にかかわらず、日本で(あるいは日本人による)初めてのことがらの一覧である。
見る イエズス会と日本初の一覧
日本聖殉教者教会
日本聖殉教者教会(CHIESA DEI SANTI MARTIRI GIAPPONESI)とは、イタリアの首都ローマの西北西にある港町チヴィタヴェッキアに立つカトリック教会のフランシスコ会に属する聖堂・教会。
日本語
日本語(にほんご、にっぽんご)は、日本国内や、かつての日本領だった国、そして国外移民や移住者を含む日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」の教科として学習を行うなど、事実上日本国内において唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、及び日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3,000万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。
見る イエズス会と日本語
日本語学
日本語学(にほんごがく)とは、日本語を研究の対象とする学問である。日本語学を専攻する学者を日本語学者という。
見る イエズス会と日本語学
日本語訳聖書
日本語訳聖書(にほんごやくせいしょ)は、キリスト教などの聖典である聖書を日本語に翻訳したものである。聖書の日本語訳は、16世紀半ばのキリスト教伝来時から各教派により行われ、近現代には聖書学者らによる個人訳なども多数公刊されている。
見る イエズス会と日本語訳聖書
日本酒の歴史
日本酒の歴史(にほんしゅのれきし)では、日本酒の歴史について説明する。
見る イエズス会と日本酒の歴史
日本文典 (コリャード)
『日本文典』(にほんぶんてん/にっぽんぶんてん、Ars grammaticae Iaponicae lingvae あるいは Ars grammaticae Iaponicae linguae)は、スペイン人のドミニコ会宣教師ディエゴ・コリャードが著した日本語の文法書。1632年、ローマにて刊行。日本語をラテン語文法に当てはめたもので、ラテン語で記されている。
日本文明
日本文明(にほんぶんめい、にっぽんぶんめい)とは、日本列島あるいは日本人又は大和民族に固有の文明社会現代においては「文明」概念は必ずしも一致した定義を与えられているとは言えず、論争的である。近代においては西欧社会の圧倒的な影響力を背景に、その呼称はヨーロッパの文明社会によって独占されていた(工藤庸子著『ヨーロッパ文明批判序説―植民地・共和国・オリエンタリズム』東京大学出版会、2003年)。しかしながら、ヨーロッパ中心的な歴史観からの脱却とともに、現代では多元的な文明社会を肯定し、それを元に比較文明論という学問分野が成立している。「日本文明」という呼称・規定はこの比較文明論的な用法によって存立しうるが、しかしその内実を巡っては議論の分かれている用語である。
見る イエズス会と日本文明
悪魔の辞典
『悪魔の辞典』(あくまのじてん, The Devil's Dictionary)は、1911年にアメリカ合衆国で発表された書籍。アンブローズ・ビアス著。ふつうの辞典の体裁をもってさまざまな単語に再定義を行ったものだが、その定義が痛烈な皮肉やブラックユーモアに満ち溢れており、辞書パロディの雛型的存在となっている。
見る イエズス会と悪魔の辞典
支倉常長
支倉常長の行程 サン・ファン・バウティスタ号の復元船 『支倉常長像』」1面 油彩・キャンバス 17世紀 アルキータ・リッチ筆 イタリア・個人蔵(パラッツォ・ボルゲーゼ(ボルゲーゼ宮、:en:Palazzo Borghese)保管)。ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。 円福寺の常長の墓(1900年代初期の絵葉書) 支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将(仙台藩伊達氏家臣『読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年2月7日1面【ニッポン絵ものがたり】サムライ大使*支倉常長像(1615年)信義伝わる波乱の傷跡)。
見る イエズス会と支倉常長
教皇
教皇(きょうこう、pontifex - Wiktionary(en)、Papa、Πάπας Pápas、pontiff - Wiktionary(en))は、カトリック教会の最高位聖職者の称号。 一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇(ローマきょうこう)を指す。バチカン市国の元首。教皇の地位は「教皇位」あるいは「教皇座」と呼ばれる。また「聖座」ラテン語: Sancta Sedes.あるいは「使徒座」ラテン語: Sedes Apostolica.という用語も使われる。「聖座」と「使徒座」は中世の教会法学者たちによって形成された概念で、第一に教皇を指すが、広義においては教皇庁をも指す。
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教皇不可謬説
教皇不可謬説(きょうこうふかびゅうせつ)は、カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。 教皇不可謬が教義として正式に宣言されたのは1870年の第1バチカン公会議においてであるが、その思想自体には初代教会以来の長い歴史的な伝統がある。カトリック神学において教皇不可謬性は教会のもつ四つの不可謬性(後述)のうちの一つとして考えられ、思想的に発展させられてきた。教皇不可謬の教義をめぐってはカトリック教会の内外で多くの議論が行われてきた。
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教皇領
教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Status Pontificius, イタリア語:Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。
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教育史
教育史(きょういくし)とは、教育の歴史、またはその学問。
見る イエズス会と教育史
拂菻
拂菻(ふつりん)は、『隋書』『旧唐書』『宋史』『明史』など中国の史書に出てくる西洋の国の名前。東ローマ帝国に比定する説が有力である。 拂菻が東ローマ帝国を指すとすれば、「大秦王安敦」(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指すか)の使者が166年に入朝して以来、ローマ帝国およびその後身たる東ローマ帝国は、実に足かけ千年にわたって中国と断続的に交渉をもったことになる。
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曲直瀬道三
曲直瀬道三像(杏雨書屋蔵) 曲直瀬 道三(まなせ どうさん、永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい/まさもり)または正慶(まさよし)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)、翠竹庵(すいちくあん)、啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源朝臣(宇多源氏)、のち橘朝臣。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔があり、後に2代目「道三」を襲名している。
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時憲暦
西暦1895年に調印された下関条約。右頁に書かれている締結日は、既にグレゴリオ暦を導入していた日本の日付が「明治二十八年四月十七日」となっているのに対して、時憲暦であった清の日付は「光緒二十一年三月二十三日」となっている。 時憲暦(じけんれき、満州語: 、転写: forgon i yargiyan ton)は、明末清初に作られた中国暦の一つで、公式なものとしては中国で最後に使われた太陰太陽暦の暦法である。西洋天文学の成果を取り入れ、太陰太陽暦では初めて定気法が採用された。
見る イエズス会と時憲暦
10月6日
10月6日(じゅうがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から279日目(閏年では280日目)にあたり、年末まであと86日ある。
見る イエズス会と10月6日
10月9日
10月9日(じゅうがつここのか)は、グレゴリオ暦で年始から282日目(閏年では283日目)にあたり、年末まであと83日ある。
見る イエズス会と10月9日
11月5日
11月5日(じゅういちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から309日目(閏年では310日目)にあたり、年末まであと56日ある。
見る イエズス会と11月5日
12月22日
12月22日(じゅうにがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から356日目(閏年では357日目)にあたり、年末まであと9日ある。
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12月24日
12月24日(じゅうにがつにじゅうよっか、じゅうにがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から358日目(閏年では359日目)にあたり、年末まであと7日ある。
見る イエズス会と12月24日
12月3日
12月3日(じゅうにがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から337日目(閏年では338日目)にあたり、年末まであと28日ある。
見る イエズス会と12月3日
1530年代
1530年代(せんごひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)1530年から1539年までの10年間を指す十年紀。
見る イエズス会と1530年代
1600年
400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。
見る イエズス会と1600年
1600年代
1600年代(せんろっぴゃくねんだい)は、。
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1601年
17世紀最初の年である。
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1660年代
1660年代(せんろっぴゃくろくじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1660年から1669年までの10年間を指す十年紀。
見る イエズス会と1660年代
16世紀
盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。 16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。
見る イエズス会と16世紀
1770年代
1770年代(せんななひゃくななじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1770年から1779年までの10年間を指す十年紀。
見る イエズス会と1770年代
17世紀
フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 マルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 ヴェストファーレン会議。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。画像はヘラルト・テル・ボルフの絵画(アムステルダム国立美術館蔵)で、三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。画像はウィーン軍事史博物館所蔵の逸名画家による「1683年9月のウィーン市包囲と救援」。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ(トレチャコフ美術館蔵)」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 Sedefkar Mehmed Aghaにより建設された。優美な6本のミナレットと堅牢な大ドームを含め青い壁面で覆われた「世界で最も美しいモスク」と評される。 Sheikh Lotfollah Mosqueの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 ジョン・コリアによる歴史画「ヘンリー・ハドソンの最後の航海(1881年)」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 未知の南方大陸を求めて。地理上の空白地帯である「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を探すべく、多くの探検家が挑戦をした。オランダ人タスマンもその一人で、タスマニア島やニュージーランドを訪れた最初のヨーロッパ人となった。画像は地球儀を指さすタスマンとその妻と娘を描いた肖像画。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。
見る イエズス会と17世紀
18世紀
Jean-Pierre Houëlが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。 国立マルメゾン城美術館蔵)。 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。 18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀。
見る イエズス会と18世紀
1945年
この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。 この項目では、国際的な視点に基づいた1945年について記載する。
見る イエズス会と1945年
19世紀
19世紀に君臨した大英帝国。 ヴィクトリア女王の治世にこの国は絶頂期を迎え、首都ロンドンの装いも新たにされた。画像はテムズ川の畔に建つウェストミンスター宮殿(国会議事堂)と大時計塔(ビッグ・ベン)。 ヴィクトリア時代の中産階級。ヴィクトリア女王のモラル重視とお上品ぶりは新興市民層の趣味に合致し、芸術面では保守的なアカデミズムが美の規範となった。画像はこの時代に風俗画で一世を風靡したウィリアム・フリスの「ロイヤル・アカデミーの招待日1881年」。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。
見る イエズス会と19世紀
1月20日
1月20日(いちがつはつか、いちがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から20日目に当たり、年末まであと345日(閏年では346日)ある。西暦が4で割り切れる年の翌年、アメリカ合衆国で大統領の就任式が行われる。
見る イエズス会と1月20日
1月28日
1月28日(いちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で 年始から28日目に当たり、年末まであと337日(閏年では338日)ある。
見る イエズス会と1月28日
1月7日
1月7日(いちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から7日目に当たり、年末まであと358日(閏年では359日)ある。
見る イエズス会と1月7日
2月13日
2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。
見る イエズス会と2月13日
2月2日
2月2日(にがつふつか)は、グレゴリオ暦で年始から33日目に当たり、年末まであと332日(閏年では333日)ある。
見る イエズス会と2月2日
3月11日
3月11日(さんがつじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から70日目(閏年では71日目)にあたり、年末まであと295日ある。
見る イエズス会と3月11日
3月12日
3月12日(さんがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から71日目(閏年では72日目)にあたり、年末まであと294日ある。
見る イエズス会と3月12日
3月27日
3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。
見る イエズス会と3月27日
4月16日
4月16日(しがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から106日目(閏年では107日目)にあたり、年末まであと259日ある。
見る イエズス会と4月16日
4月7日
4月7日(しがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から97日目(閏年では98日目)にあたり、年末まではあと268日ある。
見る イエズス会と4月7日
5月18日
5月18日(ごがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から138日目(閏年では139日目)にあたり、年末まではあと227日ある。
見る イエズス会と5月18日
5月20日
5月20日(ごがつはつか、ごがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から140日目(閏年では141日目)にあたり、年末まではあと225日ある。
見る イエズス会と5月20日
5月2日
5月2日は、グレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。
見る イエズス会と5月2日
5月3日憲法
スタニスワフ2世(左側の立派なマントの男性)が、新憲法を公布する聖ヨハネ大聖堂に入る。この直前に新憲法が奥の王宮で採択された。 5月3日憲法(ごがつみっかけんぽう、Konstytucja Trzeciego Maja)は、ポーランド・リトアニア共和国(以下「ポーランド」)の憲法である。 1791年5月3日に議会(セイム)で採択されたことからこの名がある。
見る イエズス会と5月3日憲法
7月19日
7月19日(しちがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から200日目(閏年では201日目)にあたり、年末まであと165日ある。
見る イエズス会と7月19日
7月21日
7月21日(しちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から202日目(閏年では203日目)にあたり、年末まであと163日ある。
見る イエズス会と7月21日
7月22日 (旧暦)
旧暦7月22日は旧暦7月の22日目である。六曜は仏滅である。
7月31日
7月31日(しちがつさんじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から212日目(閏年では213日目)にあたり、年末まであと153日ある。7月の最終日である。
見る イエズス会と7月31日
7月4日
7月4日(しちがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から185日目(閏年では186日目)にあたり、年末まではあと180日ある。
見る イエズス会と7月4日
8月15日
8月15日(はちがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から227日目(閏年では228日目)にあたり、年末まであと138日ある。
見る イエズス会と8月15日
8月24日
8月24日(はちがつにじゅうよっか、はちがつにじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から236日目(閏年では237日目)にあたり、年末まであと129日ある。
見る イエズス会と8月24日
9月14日
9月14日(くがつじゅうよっか、くがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から257日目(閏年では258日目)にあたり、年末まであと108日ある。
見る イエズス会と9月14日
9月20日
9月20日(くがつはつか、くがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から263日目(閏年では264日目)にあたり、年末まであと102日ある。
見る イエズス会と9月20日
9月30日
9月30日(くがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から273日目(閏年では274日目)にあたり、年末まであと92日ある。9月の最終日である。
見る イエズス会と9月30日
9月7日 (旧暦)
旧暦9月7日(きゅうれきくがつなのか)は旧暦9月の7日目である。六曜は先負である。
9月8日
9月8日(くがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から251日目(閏年では252日目)にあたり、年末まであと114日ある。
見る イエズス会と9月8日
耶蘇会 別名。
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